2012年10月31日水曜日

意識対象

人の魅力はその人がどれぐらい自分の意識を自分の行動に向けられているかによって決まる部分が多くてたしかに自分の行動に関わらない対象に意識をまったく向けられない人に魅力を感じるのも難しいわけだがある一定の水準を越すと自分の行動に関わらない対象に意識を向ければ向けるほどその人の魅力は失われていくしネットでもリアルでも発言の盛んな方々の多くは自分の行動にまったく関わらない対象についての発言を繰り返すことで自ら自分の魅力を失わせているように佐々木には感じられるとか思ってこんなことを書いている佐々木の意識は自分の行動にまったく関わらない対象に向いてしまっている。

2012年10月30日火曜日

また熊本へ

本日は熊本県八代市で取材。朝4時に起きて羽田7時40分発熊本9時40分着の飛行機に乗り熊本空港で11時にクライアント本社および現地営業所の方と落ち合い車に乗せてもらい現地営業所で打ち合わせ後昼食をご一緒して午後2時半から4時まで取材。再び車で熊本空港まで送ってもらい熊本空港19時50分発羽田21時20分着の飛行機で帰って来た。行きの飛行機の機窓から阿蘇山全体をきれいに一望できてとても得した気分。今回初めてスカイマークを利用。あれぐらいのサービス水準が佐々木にはちょうどよく感じられた。

阿蘇熊本空港にて
帰りのスカイマーク機

2012年10月29日月曜日

経済学セミナー4回目

経済学セミナー4回目。本日のテーマは「補完性」。複数均衡の理論や協調ゲームの理論から、プラットフォームシェアの問題や、日本企業の世界的成功と衰退の問題を解いていただいた。数学的な説明の部分は理解しきれない部分も多かったが、経済学における数学の位置づけだとか、経済学が数学に依拠するメリットとデメリットだとかが、かなり見えてきた気がした。

2012年10月28日日曜日

個人名刺

ここ何年かペンネームでしか仕事をしていなかった上に今年春に引っ越したので現住所が書かれた本名の名刺を持ち合わせていなかった。それで別に不自由はなかったのだが本名の名刺を添えて自己紹介した方がよい機会も巡ってくるようになったので名刺用の台紙を買ってきてWordでちゃちゃっと「東京アイン・ランド読者会主宰」の肩書で名刺を作ってみた。なんかしょぼい。これではちょっと相手に失礼かも。アイン・ランドにも申し訳ない気が。

2012年10月27日土曜日

失敗人生

自分のこれまでの人生成功か失敗かで無理矢理分けるとすればどちらかと言えば失敗に分類される人生だったとは思うが失敗は失敗でも将来への希望を多いに残す形の失敗ができてよかったなと思う今日この頃。

2012年10月26日金曜日

限界費用

『マンキュー入門経済学』を読み返し中。第1章の「経済学の十大原理」は何年前に初読した時はわりとあたりまえのことが書いてあるだけという感じで読みとばしてしまったが改めて読み込むとけっこう深い。経済に関する他人の主張を聞いてなんかへんだなと感じながらもどうへんなのか説明できない時のそのへんさ加減の多くはこの十大原理から説明できそうな気がしたし自分でも正直よく理解してきれてないところがあったなと。特に限界費用と平均費用の関係とか文章で読めばあたりまえのことなのだが実際に現実の問題のコストを考える時はけっこう混同して考えてしまっていることが多かったと反省した。

2012年10月25日木曜日

笑うRander

昨年アメリカで発売されたアイン・ランド原作の映画「Atlas Shrugged Part I」のDVDには特典映像の違いによって4つのマイナーバージョンがあって佐々木は自分でもバカだなーと思いつつ4バージョンすべて買ってしまったのだがその中の1つ「Reason Special Edition」にはアメリカでリバタリアニズムの雑誌「リーズン」を出版しているリーズン財団という組織の設立者たちが彼らにとってのアイン・ランドについて語っているインタビュー映像が収録されていてその中の1つマニー・クラウザーという方へのインタビュー映像を見たらものっすごくニコニコしながらアイン・ランドについて語っていてあぁアメリカのランド・ファンでもちゃんと笑顔で話せる人がいるんだと妙な安心と嬉しさを覚えた。なんか筋金入りのランド・ファンって笑顔にならないっていうイメージがあったから。ランドの作品でもいつも笑顔でいるような人物ってあんまり登場しないし大事なことを笑うように仕向けるのは人間支配の一手段だみたいな趣旨のセリフもあったりするし。たしかに笑顔ってある種ごまかしの面もある。だから2年前に佐々木が主催したアイン・ランド・ファンが集うイベントの懇親会で半分お遊びで撮ってもらった佐々木へのインタビュー動画でヘラヘラ笑ってる佐々木を見てこいつが主催するイベントには行かないでおこうとか考えるアイン・ランド・ファンもいるかもしれないなぁとか考えていた。それだけにあのマニー・クラウザー氏の笑顔にはちょっと救われる思いがした。

2012年10月24日水曜日

不愉快な真実を語り続けた者たち

経済学セミナーでマクロ経済学の教科書として推薦された『マンキューマクロ経済学』(第3版)のⅠ巻入門編の冒頭はジョン・スチュアート・ミルによる次の言葉の引用で始まっていた。
《政治や社会生活に関する諸法則のうちで,科学の端緒となるに十分なほど精査され体系化された事実の集積が存在する分野は,専門的に教えられるべきである.そうした分野の筆頭にあげられるべきは政治経済学,すなわち人間社会の総体としての富や物質的繁栄のための根源や条件に関する学である.……
論理学を低く評価するのと同じ人々が政治経済学についても同じ警告を発するであろう.政治経済学は非情であると彼らはいうであろう.確かに政治経済学は不愉快な事実を認める学問である.しかし私からみれば,最も非情なものは重力の法則である.どんなにすばらしい人であっても,ほんの一瞬重力の法則を無視すれば,あっさりと首を折られて死んでしまうからである.風や波でさえ,非情ではないか.しかし航海に旅立とうという人に対して,あなた方は風浪そのものを否定しなさいというであろうか.風浪を利用するようにし,風浪の引き起こす危険に対して注意をするように忠告するのではないだろうか.政治経済学の分野の偉大な著作を学び,それらの中で真実であると思える内容に従いつづけることを,あなた方に勧めたい.あなた方がもともと利己的であるか,すでに非情になっていない限り,政治経済学があなた方をそのような人間に変えることはないであろう.》
不愉快なことを語る非情な者たちと謗られながら国民社会や人類社会に貢献する道と信じて真理 を考究し論究し続けた経済学者達の系譜の志を思い胸が熱くなった。

2012年10月23日火曜日

責任者

池の水の表面は平面である一方で地球の表面の7割を覆う海の表面は球面であるように規模の違いが大きくなると性質が正反対になるのはよくある話。どこから性質が逆になるのかの境界はあいまいなだけに境界があいまいであることをもって境界が存在しないかのように誤解してしまうのもこれまたよくある話。大昔には池の水の表面のあり方を海の表面のあり方に押しつけて海の果てはいったいどうなっているのだろうかという問いを立てて海の果てから滝のように水が落下している像を思いが描いていた人もいたとか。これは問いの立て方自体がそもそもおかしいのだがこういうおかしな問いの立て方を人間というのは相当頻繁にやらかしてしまうと考えた方がおそらくよい。たとえば責任者という概念を巡っても。責任者という概念が成立する組織規模や時間範囲は相当限定されていると佐々木は思う。意識的な協業や分掌が成立しないほど大きな社会スケールや時間スケールにおいては責任者という概念自体が成立しないのではないか。責任者という概念が存在し得ないスケールの事象に関しては誰のせいなのかという問いを立てること自体がおかしい。責任者という概念をめぐっては海の果てから滝が落下する像に勝るとも劣らない滑稽さをはらんだ物語が紡がれ続けているように佐々木には見える。悪者とか権力者とか支配者とかいうのもすべて責任者の類似概念である。

2012年10月22日月曜日

自然失業率

経済学セミナー。今日は3回目。テーマは「自然失業率」。何十年か前、セミナー講師の経済学者の方がまだ学生だった時、ちょうど経済学界で提唱され始めた「自然失業率」という概念に対して、その経済学者の先生だった経済学者の方が、「『自然失業率』なんていう言葉は許せない」と憤慨していた、という話がおもしろかった。要は、完全雇用の実現は経済学者の使命であって、「失業している国民が存在するのが自然」などという発想は、許されざる敗北主義だ、というわけなのだろう。「『自然失業率』なんていう言葉は許せない」と憤慨する経済学者と、「『自然失業率』の存在を認めず無理に完全雇用を目指す政策を採用すればかえって失業率は高まる」と考える経済学者と、どちらがより多くの国民に「正義の味方」として認識されるかといえば、圧倒的に前者であるに違いない。佐々木の印象は逆だが。

2012年10月21日日曜日

市場?

経済学セミナーで推薦された、ある日本人経済学者によるミクロ経済学の教科書を読み始めた。「はしがき」はとてもわかりやすく、また志高い感じで、これは期待できそうな本だと胸が踊ったのだが、「序章」に入るやひっかかる記述が続出。どうひっかかるのか、うまく説明できないのだが。展開されている理論が、現実の社会とどのような関係を持っているのかに無自覚なまま、現実の社会を理論で説いてしまっているというか。イデオロギー的であることに無自覚なままに、イデオロギー的というか。たとえば、序章の最初の節「市場の有効性」は、いきなり太字でこんな記述から始まる。
市場では、他人が最も必要としている財やサービスを、より安く供給する個人や企業が成功します。このことを通じて、市場は国民の生活水準を改善します
この記述は、現実の世界におけるいかなる市場においても、他人が最も必要としている財やサービスをより安く供給する個人や企業が成功している、という情報を、疑いのない事実として伝達しようとしているのか? それとも「他人が最も必要としている財やサービスを、より安く供給する個人や企業が成功する」ような場を指して「市場」と定義することを宣言しているのか? あるいは、他人が最も必要としている財やサービスをより安く供給することを、「市場における成功」と定義することを宣言しているのか? どうも判然としない。序章は延々この調子である。何年か前に買って途中まで読んでほったからしにしていた有名なアメリカ人経済学者による経済学の入門的教科書を読み返してみたら、こんなあいまいさはまったく見当たらなかった。ただこのひっかかりかたというかあいまいさは、ある意味、経済学そのものより興味深い。このミクロ経済学の教科書、がんばって最後まで読んでみたい。

2012年10月20日土曜日

政治の季節

佐々木が大学生だった1990年頃に習った当時40代か50代ぐらいのたしかフランス語の先生が1970年頃の世界を振り返って「あの政治の季節」という言い方をしていた。当時に比べれば現代など政治的な対立はないに等しいぐらいのニュアンスで。社会に対する考え方が自分とはまったく異なる人々の言説をネットで目にする機会がソーシャルメディアの発達で増えたせいもあるのかもしれないが「政治の季節」はまた巡ってきているのではないかもしれないと感じる。佐々木が20代30代の頃は自分の政治に対する考え方が日本のごく一般的な人々の政治に対する考え方とかけ離れているという感覚はそれほどなかった。最近はごく普通の人々が口にする政治的な考えに対し自分の考えとのあまりにも大きなへだたりを感じることが多い。単に佐々木自身の考えが少数派の考えに変化してきたというだけのことではないように思える。

2012年10月19日金曜日

ゴリッ、ゴキッ

定型的な表現としてかなり以前から存在してはいたものの最近目にしたり耳にしたりする機会が急増したと感じる言い方の一つに「ご理解・ご協力を(お願いしますorありがとうございました)」というのがあってこれはいわば命令や通告をオブラートで包む表現なわけだから「ご理解・ご協力」を要請される側がそれほどよい気持ちにならないのは当然のことなのだが快適ではないのはあくまで命令や通告を受ける事態そのものなのであって仮に「ご理解・ご協力を」という表現そのものに不快さを感じることがあるとしてもそれは命令や通告を受ける事態の不快さを隠蔽する行為に感じる不快さなわけだから主従の関係で言えば「ご理解・ご協力を」という表現の不快さは従属的な不快さに過ぎない。命令や通告を受ける個人の側にとって命令や通告が不快なものであるとしても命令や通告そのものの不当さを意味するわけではない。なさねばならぬ命令や通告がある以上命令や通告を受ける側の感情的な反発が少しでもやわらぐ形でなそうと命令や通告をなす側が工夫するのはもちろんある種の保身なのだろうがもっと素直に命令や通告を受ける側への気遣いと受け取ってもよい気がする。その意味で「ご理解・ご協力を」というのはうまい表現だと思う。意味的によくできてるだけでなく音的にもよくできてる。「ご理解」の出だしの「ゴリ」と「ご協力」の出だしの「ゴキ」が特によい。意味的にはへりくだる裏で音的には「ゴリッ、ゴキッ」ってもうなんか有無を言わさない感じで。

2012年10月18日木曜日

『南郷継正 武道哲学 著作・講義全集 第十二巻』冒頭読み返し中

冒頭の「読者への挨拶」が第一巻冒頭の「読者への挨拶」の書き直しであることとその釈明のあまりにもの納得のいかなさにガックリきてしまいきちんと読み込まないままほったらかしになっていた南郷継正先生の『武道哲学 著作・講義全集』の第十二巻』をふと思い立って読み返し始めた。第二章「『学苑 アテナ・ミネルヴァ』の学びの必然性と「哲学への道」」の(Ⅰ)「『学苑 アテナ・ミネルヴァ』大学基礎講座」のところでおやっと思った。【一】「学問入門への基礎学問講座」のB「弁証法(自然の弁証法・社会の弁証法・精神の弁証法)入門講座」のカッコ内に「統合弁証法」が追加されて「弁証法(自然の弁証法・社会の弁証法・精神の弁証法・統合弁証法)入門講座」になっていたから。第四巻「武道哲学講義〔Ⅰ〕」で展開されていた「弁証法の三重構造」の話をより厳密に反映させての変更なのだろう。第十二巻「読者への挨拶」ももっとまじめに読み込まないといけないと思った。

2012年10月17日水曜日

科学的

移動中にポツポツ読み続けている『看護の生理学―人間をみる看護の視点』(薄井坦子・瀨江千史 著)、第3巻に入った。瀬江氏による人間の生理構造についての見事に科学的な説明も素晴らしいが、ところどころで挟まる薄井氏による「実践家(科学自体を専門とはしない人々)が科学的なものの見方ができるようになるための心がけ」とでも言うべきアドバイスがとても心に響く。たとえば次のような箇所。
《【薄井】何かに疑問や問題意識を感じた時、私達はついそのことについて一生懸命に考え込んでしまい、活路をみいだせなくなったりしますね。常に他のものと比較しながらそのものの特徴をみいだしていくということが、つまり共通性を押さえて相違性をみいだすという頭の訓練が、看護のように複雑な対象と取り組むうえでの土台になります。ぜひ、そのへんをお話しください。》(第2巻6ページ)
《【薄井】生命とは何だろう、生命を維持するとはどういうことなんだろう、生命がなくなる、つまり死とは何なんだろうなどと考える時には、生命とそれ以外のものとの共通性と相違性を押さえておかなければ納得できる答えにいきつかないのです。それが理論的な追究ということなのです。》(第3巻20ページ)
ごく狭い範囲の事象についてどのような見方・考え方をすればいいのかを説ける人はいくらでもいても、専門分野全体とか人間一般とか世の中全体とかそういう広い範囲の対象についてどのような見方・考え方をすればいいのかを説ける人は少ないし、説けたとしてもそのほとんどは先験的な説明を対象に押しつける非科学的な見方・考え方で、対象を対象自体から説明する科学的な見方・考え方を説ける人はほとんどいない。これができる瀨江氏や薄井氏のホンモノぶりが改めて印象に残る本である。

2012年10月16日火曜日

仮定

昨日出席した経済学のセミナーで現実にはあり得ない仮定に基づく生産モデルでの生産量と価格の関係について分析した理論についておそらく大学卒ぐらいの学歴はあるように見える受講者の一人からそんな現実には存在しない仮定について分析することに何の意味があるのかわからないという質問が出されて驚いた。もし現実に存在しない仮定の状況に関する理論が無意味ならたとえば抵抗がない空間での物体の運動に関する法則とかああいうたぐいの理論も無意味だということになるのだが。

2012年10月15日月曜日

経済学セミナー2回目

本日経済学セミナー2回目。テーマは「資源配分」。経済学の定義(「効率的な資源配分の研究」)とか、経済学の限界(「経済学では学問的には『平等』とか『公平』については何も言えない」等)とか、経済学の大きな枠組みについて理解できたのが収穫。参加人数が十数名で経済学者の先生に質問し放題だった。講義が終わってからの帰り道に思い浮かんだ疑問の一つが「市場の失敗」という概念から「平等」とか「公平」とかいう概念は厳密に排除されているのかということ。マクロ経済学とミクロ経済学の基本的な教科書を指定していただいたので買って読み込もうと思う。

2012年10月14日日曜日

素手弁

久しぶりに弁当を作って外出したら箸を忘れたことに昼どき弁当箱の蓋を開けてから気づいて箸一膳せしめるためにコンビニで惣菜一品買おうかとも一瞬思いかけたがまた弁当箱の蓋を閉めてコンビニまで歩いていくのが面倒なりそのまま指先でご飯やらおかずやらをつまんで食べたら玄米ご飯に焼いた目刺し3匹と茄子のぬか漬けと梅干しだけの粗末な弁当がよけいわびしく感じられた。玄米ごはんって指でつまもうとしてもボロボロ崩れてなかなかつまめないし。今度弁当を作って出るときはたとえおかずは忘れても箸だけは忘れないようにしようと思った。

2012年10月13日土曜日

石と池

三浦つとむの『弁証法はどういう科学か』は佐々木の二十年来の座右の書だがこの本の中の心つかまれる部分はその時々で変わっていく。最近『失敗の本質―日本軍の組織論的研究』(戸部良一、寺本義也、鎌田伸一、杉之尾孝生、村井友秀、野中郁次郎共著)を読んでいて思い出されてずっと頭の中にあるのは次の部分。
《科学は原因と結果のつながり、いわゆる因果性というものを問題にします。池に石を投げると波紋がおこる、波紋がおこるとハスの花がゆれる、―これが因果関係です。石が原因、波紋が結果、原因が結果を媒介する、これが常識です。しかし因果のつながりを考えると、波紋という結果そのものは、同時にまたハスの花をゆれさせる原因ともなっているわけで、ここに結果と原因との直接の統一があります。さらにつっこんで考えてみると、水の波紋が石の結果だと一方的にきめてしまうこともできなくなります。もしこれが氷なら、波紋は起こらないでしょう。水自身、石によって波紋を起すような性質を持っていたことが、やはり波紋の原因の一つであると考えなければならなくなります。》(「「対立物の相互浸透」とはどういうことか」「因果関係の構造」)
日本が勝てない戦争にのめりこんだ原因についてさまざまな論考が提出されている中でこの『失敗の本質』はいわば「石が投げこれまたこと」よりも「池の表面が氷ではなく水だったこと」について論考している書といえる。佐々木の感覚では大事なのは前者よりも後者である。池の表面が氷ではなく水である限りなんらかの形で波紋は起こらざるをえないわけでどの石で波紋が起きたかは本質的ではない。それなのに石にばかり注目して水の性質に注目しない論考には強い違和感を覚える。いわゆる陰謀史観もこの発想である。

2012年10月12日金曜日

社会観・人間観の補正

人体が諸細胞の高度な有機的結合によって構成されているように社会もまた諸個人の高度な有機的結合によって構成されているわけだから人体と社会は高度な有機体としての共通性を持っているわけだが当然両者の間には相違もあってこの相違をどの程度大きく見るかは人によって異なる。佐々木自身はどちらかと言えばこの相違を小さく見る部類だと思う。たとえば国家とか社会というのは個人が集まってできたものだみたいな言説だとかそういう発想に基づく言説を目にしたり耳にしたりすることは本当に多くてそのたびに佐々木は違和感を覚える。それってまるで細胞同士が寄り集まって人体を作ったみたいな発想じゃないかと。ただしそういう発想が生まれてくる客観的根拠はたしかにあるわけでそれがいわば人体と社会の相違点なわけだが自分がその相違点を過小評価しがちな傾向を持っていることは強く自覚して自分の社会観や人間観を補正していく必要はあると感じている。

2012年10月11日木曜日

黒髪

人種的特徴に手を加えることは政治的・文化的にデリケートな問題をはらんでいるように思われる。特にマイノリティグループ(被支配層・被差別層)に位置づけられる人種に属する者が自らの人種的特徴をマジョリティグループ(支配層)に位置づけられる人種の人種的特徴に近付ける形で改変する姿には何か禁忌と認めること自体にためらいを覚えるような禁忌ともつかない禁忌を犯しているような犯忌性と心の痛みとも体の痛みともつかないような独特の悲しみとを感じる。これはおそらく佐々木一人の感覚ではない。すでに故人となったある有名黒人ミュージシャンの肌が青年期に突如白くなったことについて公式には皮膚病によるものとされているにもかかわらず白人に近づくために肌を漂白したのだとの噂が日本を含む世界中で絶えずかつ公式説を支持する立場からはこの噂が誹謗中傷と難じられていたことからもこの問題のデリケートさについての認識が日本を含む世界中で共有されていることがうかがえる。ところが世界規模の分類では被差別層に属する黄色人種たる日本人の特に女性が自らの人種的特徴である黒い髪を恥じて支配層たる白色人種の髪の色に近い色に脱色もしくは染色する行為がこのようなデリケートな問題をはらんでいるとする見方は少なくとも日本においては佐々木の知る限りまったく一般的でない。それがなぜなのか。いまだに合理的な説明を思いつかない。

2012年10月10日水曜日

「対立物の相互浸透」について最近感動をもって発見したことを図にしてみた5

先月末のエントリの続き。さらによく考えてみるに、A→BであることがそのままB→Aでもあるとか、A自体のあり方が本質的にB化することを含んでいたりB自体のあり方が本質的にA化することを含んでいたりするとか、そういうことが見えてくればくるほどA自体のあり方もB自体のあり方もAとBの関係もはっきり見えてくる段階というのがあるのだが、その段階をさらに過ぎると、今度はこうしたあり方が見えていることでかえってA自体のあり方もB自体のあり方もAとBの関係もぼんやりとしか見えなくなってくる段階がある。で、またA自体もB自体もAとBの関係も曖昧模糊としか認識できない最初の段階に戻る。ただし一周回った後のAとBは一周回る前のAとBと同一ではない。この感じも図にしておく。

2012年10月9日火曜日

誤解力

『失敗の本質―日本軍の組織論的研究』(戸部良一、寺本義也、鎌田伸一、杉之尾孝生、村井友秀、野中郁次郎共著)を読んでいてつくづく思うのはどうやら人は理解力の弱さよりもむしろ誤解力の強さによって破滅に到るらしいということ。はたから見てあるいはあとから振り返って誤解とわかることも当の本人にとってあるいはその時その場の状況では正しい理解以外の何ものでもないのがつらいところだけど。自分の理解は誤解ではないかと繰り返し点検する習慣が自分の身の破滅を少しでも遠ざけると信じたいしそのような習慣のない人物の理解を特に強く疑う習慣もまた自分の身の破滅を遠ざけるのではないかと想像する。

2012年10月8日月曜日

自然ずきと権力者ぎらい

“自然”を礼賛する人々と“権力者”を嫌謗する人々が重なりがちなのはおそらく“自然”と“権力者”の間に共通性があってこの共通性に対し共通する態度を取る人々が自然保護派かつ反権力派になるのだろうがこの共通性と共通する態度って何なんだろうと考えてみるとやっぱり自分よりも圧倒的に強力で思い通りにならない力という点が共通でこういう力の存在に対してその本質や構造を見極めて主体的に利用する態度が欠けているところが共通する態度なのかなと。あたりまえすぎか。

2012年10月7日日曜日

万年筆が急に手になじみだす

学生時代に7千円ぐらいで買って気に入った文章の筆写などに使っていた国産万年筆を社会人になってからからはほとんど使わずにいたのだが数ヶ月前ぐらいからまた週に1回ぐらいとりとめもないことを書くのに使っていたのだが今日急に万年筆で書いて書いてかきまくりたい衝動にかられて2時間ぐらい書き続けたら万年筆の方が自分の書き方になじんできたようでいきなりインクの出がなめらかになってすいすいすいすいペン先から文字がつむぎだされるようになって驚いた。

2012年10月6日土曜日

手書き原稿

佐々木が学生時代から私淑している先生が文章はパソコンにキーボードで打つより紙に手書きした方がずっと頭がよくなると主張されていることもあってたまに万年筆を手にとり文章を書くことにチャレンジしてみるのだがたまにはたまにでもあまりにもたまにすぎて認識力の向上にはほとんどつながっていない。ただこれをずっと続けていたらさぞかし頭がよくなっていただろうということは最近になってようやく実感するようになった。手書きで原稿を書くのがあたりまえだった昔のライターさんたちを改めて尊敬する。よくこんなに難しいことをあたりまえにできたなと。ロボットを使った遠隔手術の話を聞いた時よくそんなことができるなと驚いたものだがそれに近い感覚。だって手書きで原稿を書く場合自分の肉体の操作の結果生み出されていくのは目の前の紙の上の文字なのに実際に操作しているのは時間的にも空間的にもその場から隔てられた印刷工場で印刷される紙面上の活字の配列でありその配列を媒介に生み出される読者の認識なのだから。手書きで原稿を書くということは目の前の原稿用紙と印刷される紙面と読者の認識のいわば3種類のまるで性質の異なるディスプレイを重ね合わせて眺めながら自分の認識と実体を操作していくということだ。重ね重ねよくまぁそんなことができるものだと思う。

2012年10月5日金曜日

まるで金づちを釘に押しつけるばかりで振り上げることなど思いも寄らないかのような

前進するための後退を自分が意図的に活用できてなかったってやっぱりけっこう自分にとっては汎用性の高い話で休息の取り方にしても仕事への取りかかり方にしてもアイデアの出し方にしても自分の努力の注ぎ方がなにかにつけ一方通行だったことにこの歳になってようやく気づかされたことにけっこうヘコみながらもまぁ遅ればせながらようやく気づけたことでこれから努力の効率はけっこう上げていけるのではないかと希望も感じている。今まではまるで金づちで釘を打つのに金づちを釘に押しつけるばかりで金づちを振り上げるという動作があり得ることなど思いも寄らなかったような状態だったなと。

2012年10月4日木曜日

『失敗の本質』を読み返し中

『失敗の本質―日本軍の組織論的研究』(戸部良一、寺本義也、鎌田伸一、杉之尾孝生、村井友秀、野中郁次郎共著)を読み返し中。数年前に初読した時はわりと事前に知っていた結論の確認ぐらいの感じでサラッと読みとばしてしまったのだが今回はなぜか自分の判断ミスによって数万人の命が奪われるような地位にもし自分が就いた時に自分が犯すであろう判断ミスの見本として背中に冷たいものが走るような恐怖と共に本書の内容が迫ってくる。そんな地位に佐々木が就くことはないはずなのだが。また自分自身がそのような地位に就くことはないにしても本書で描かれるような判断ミスを犯しやすい人物がそのような地位に就きがちな国家の国民として自分が生きている恐ろしさも重く迫ってくる。

2012年10月3日水曜日

前進するための後退を意図的に活用する云々の中身

たとえばトレーニングの中である点状の意識の位置をより深くする努力が行き詰まった時にあえてその意識の位置をより浅くしてみて次にまた深くしてみてということを繰り返してみるとただひたすらより深くしようとするよりもけっこうあっさり意識の位置を深くすることができたりあるいはある線状の意識の先をある点状の意識により正確に当てる努力が行き詰まった時にあえてその点状の意識の位置から数ミリずらした位置に線状の意識の先を当ててまた正しい位置に当ててということを繰り返してみるとただひたすら正確に当てようとするよりもけっこうあっさり線状の意識の先を点状の意識の中心に正確に当てることができたりという体験をしたということが昨日書いた前進するための後退を意図的に活用する云々の中身。別にたいした話じゃないけど個人的にはけっこう感動。わりと普遍性がありそうで。

2012年10月2日火曜日

後退

具体的なことは書かないでおくがいろいろ自分が取り組んでいるトレーニングで「前進するための後退」を意図的に活用すればトレーニングがより効率的になることに一昨日気づいたことをここにメモしておく。

2012年10月1日月曜日

経済学のセミナーに行ってきた

今夜はある経済学者の方が都内で開催する全12回の社会人向けの経済学セミナーの1回目に参加してきた。今回のテーマはリスク管理。特に人々がマイナスのリスクを過大評価する要因について。国の政策に影響力を持つ人々がリスクを正しく評価する能力を持たないために膨大な社会的損失が発生していてこれからも発生し続ける状況をどうすればいいのかが重要な課題みたいな話。佐々木としては社会の大多数の人々の感情や思考を言論によって変えるなんてそもそも無理だと思うし一民間人としては人々がマイナスのリスクを過大評価する法則性がある状況を前提にいかに自分自身が損害を防ぎいかに適正な利益を得るかを考える以外にないと思ったので「人々がマイナスのリスクを過大評価する傾向があることを利益の源泉とするようなビジネスモデルは存在しないのか?」と主宰の経済学者の方に質問させていただいたのだがどうやら佐々木がマイナスのリスクの過大評価を煽るような言説で金儲けをする人々への義憤からそのような質問をしたと誤解されてしまったようでマスコミがセンセーショナルな報道に傾くのは仕方ないみたいな回答をされてしまった。そうではなくてあくまで自分が損をしないようにするにはどうすればいいのかを知りたかったのともう一つは実際に人々のバイアスを利用して大儲けしているビジネスが存在することを人々が知れば結果として人々のバイアスが正されてそれは社会正義にもかなうのではないかと思ってそのような質問をしたのだが趣旨が伝わらなかった。佐々木は仕事でインタビューしていても時々質問の趣旨が相手に伝わらずしかもどう相手が誤解しているのかをうまく把握して相手に伝えることができずうやむやになってしまうことがよくある。なんとかしたいと改めて思った。あと主催者の経済学者の方は命が関わる問題にコストの話を持ち込むことに反対することが道徳的で美的で尊敬の対象になるべきことと考えている人々から金儲け主義者の下僕みたいに見なされている方なのだが人々の愚かさを利用して金儲けをするみたいな発想はみじんもなくてただただ人々の愚かさから馬鹿げた損害が発生する状況を本気でなんとかしたいと考えている方なのだということがよくわかった。
 
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