2012年9月30日日曜日

別に乳児期の記憶があるわけじゃないが

A→Bであることが同時にB→Aでもあるような相互浸透のありかたが実感としてとらえられたときの感動というのはいろいろあったのだがその中の一つとして乳児期の学習のありかたってまさにこういう感じなんじゃないかとまるで自分自身の乳児期を思い出すかのように想像できたことがあったことをここにメモしておく。「A→Bであることが同時にB→Aあるようなことはありえない」みたいな頭の固さが身についていくことは学習能力のある面の向上のために必要なことではあるのだがそのために劣化してしまう学習能力もあるんだろうなと思ったことも。

2012年9月29日土曜日

「対立物の相互浸透」について最近感動をもって発見したことを図にしてみた4

昨日のエントリにアップした図を見ていて、別に相互浸透の構造的な把握などできなくてもA→Bの過程とB→Aの過程が交互に現れることぐらい普通にわかる感じを表現できてないと思ったので、図を修正して再アップする。いつまでやってんだ俺も。







2012年9月28日金曜日

「対立物の相互浸透」について最近感動をもって発見したことを図にしてみた3

昨日のエントリにアップした図を見ていて、ある段階まではAを非BとしてまたBを非Aとして見て取れるようになればなるほどAをAとしてまたBをBとして正しく見て取れるなるのだがある段階を過ぎると今度はAをB化するものとしてまたBをA化するものとして見て取れるようになればなるほどAをAとしてまたBをBとして正しく見て取れるようになる感じを表現できてないと思ったので、図を修正して再アップする。







2012年9月27日木曜日

「対立物の相互浸透」について最近感動をもって発見したことを図にしてみた2

昨日のエントリにアップした図を見ていて、AとBが相互浸透するありさまをよりハッキリ見て取れるようになればなるほどA自体、B自体のありさまもよりハッキリ認識できるようになる感じを表現できてないと思ったので、図を修正して再アップする。







2012年9月26日水曜日

「対立物の相互浸透」について最近感動をもって発見したことを図にしてみた

弁証法で言う「対立物の相互浸透」について、最近感動をもって発見したことがあったので、図にしてみた。









佐々木が何に感動しているかというと自分はこれまで「対立物の相互浸透」を「段階その3」まででしか理解してなかったということが「段階その4」の把握の仕方が突然できるようになると同時にわかったこと。それがどういう感動なのかはまず理解されないだろうけど。

2012年9月25日火曜日

身勝手な選挙運動

地元の市議会選挙がようやく終わりあの迷惑な選挙カーの騒音から解放されほっとしている。周囲数キロに響きわたるほどの大音量でメッセージを流しながら住宅街を車で流すなど原則的には許されることではない。この原則に例外が認められるのはそのメッセージが聴き手に有益である場合に限られる。候補者が自らの主張や立場を訴えるなら有権者にとってまだ有益だが「支援のお願い」などいくらされても有権者にとって有益なことは一つもない。たとえば求職中の人間がオフィス街のビルに入り込んで「○田△夫です!私を雇ってください!一生懸命頑張ります!よろしくお願いします!」とか拡声器を使って叫んで回ったら大迷惑以外の何ものでもない。多くの候補者がそれと同じことをしている。それをおかしいとも思わない人間が議員の多くを占めていると思うと暗澹たる気持ちになる。

2012年9月24日月曜日

2012年9月23日座間市議選開票結果

座間市に引っ越してきて始めての選挙である市議選が昨日あって開票結果が今日発表されたがどのような主張を掲げる候補者がどれぐらい得票する地域に自分が住んでいるのかを知っておくことは有意義であることのように思われるので各候補が選挙公報に掲載した主張を得票数・当落・現新と共に得票数順に並べておく。

【2012年9月16日座間市議選開票結果】
定数:23人
立候補者数:30人
有権者数: 103,979人
投票者数: 41,569人
投票率: 39.98%

芥川薫さん(40歳、無所属、新人) 2915票 当選

松橋淳郎さん(44歳、無所属、新人) 2559票 当選

佐藤弥斗さん(42歳、無所属、現職) 2276票 当選

荻原健司さん(40歳、無所属、新人) 2203票 当選

沖本浩二さん(52歳、無所属、現職) 1981票 当選

稲垣敏治さん(63歳、公明党、現職) 1892票 当選

上沢本尚さん(53歳、公明党、現職) 1836票 当選

安田早苗さん(55歳、公明党、新人) 1821票 当選

小野たづ子さん(62歳、公明党、現職) 1802票 当選

沖永明久さん(53歳、市民の党、現職) 1688票 当選

中沢邦雄さん(70歳、共産党、現職) 1656票 当選

吉田義人さん(44歳、無所属、新人) 1625票 当選

長谷川光さん(68歳、無所属、現職) 1571票 当選

安海のぞみさん(56歳、神奈川ネットワーク運動、現職) 1545票 当選

守谷浩一さん(32歳、共産党、現職) 1537票 当選

京免康彦さん(47歳、無所属、現職) 1504票 当選

伊田雅彦さん(51歳、無所属、現職) 1474票 当選

伊藤優太さん(27歳、みんなの党、新人) 1317.56票 当選

池田徳晴さん(63歳、民主党、現職) 1266票 当選

加藤陽子さん(48歳、神奈川ネットワーク運動、新人) 1264票 当選

竹田陽介さん(28歳、無所属、新人) 1160.699票 当選

伊藤正さん(61歳、無所属、現職) 1034.439票 当選

星野久美子さん(51歳、共産党、新人) 944票 当選

竹市信司さん(45歳、無所属、現職) 771票 落選

三枝浩樹さん(29歳、無所属、現職) 325票 落選

田中臣二さん(68歳、無所属、新人) 316票 落選

佐野森吾さん(38歳、無所属、新人) 302票 落選

武田武さん(45歳、無所属、新人) 205.3票 落選

清水健さん(74歳、無所属、新人) 127票 落選

鈴木孝宣さん(74歳、無所属、新人) 126票 落選

今回は佐々木が共感できる主張を掲げる候補者が一人もいなかった。各候補が実現を目指すとしている政策のほぼすべての前に「(アナタ以外の誰かから取り立てるカネを使って)」というただし書きが隠れているように佐々木には見えてしまう。

2012年9月23日日曜日

幸田文「流れる」を読んだ

幸田文の小説「流れる」を読んだ。作者の視点のあり方(ほぼイコール主人公の視点のあり方)が印象に残った。一言では表現しづらいのだが、「状況の中で自分が果たすべき役割を、自分の頭で発見・創造して、その役割を、自分の体を使って果たしていく覚悟ができている人間の視点」とでも言うか。ある意味、いわゆる「神の視点」と真逆の視点。えらく神学的な表現になるが、神は神としての自分の役割を自分の努力で勝ち取ったわけでもないし、状況の中で役割を果たすために自分の体を使うわけでもない。神ははじめから神だし、常に他者の肉体を使って何かを実現する。たいていの小説における作者の視点って、そういう存在としての視点だ。幸田みたいな視点でとらえた世界を描いた小説ってけっこうまれだと思う。あの視点でとらえた世界を描く上で、置屋という舞台や女中という主人公の立場はどんぴしゃり。女中って自分で自分の仕事を決められないと同時に仕事が決まっているわけでもない。状況の中でその都度自分の役割を見つけていかないといけない。一般的な職場と違って雇い主の公私にわたる機微を察知しないといけない。そういう立場で自分の役割を発見・創造するには職場を取り囲む広い世界まで含めた深い人間洞察が必要で、その視点は神の視点の対極にありながら神の視点に匹敵する普遍性を帯びる。佐々木がアイン・ランドの小説を好きな理由とかなり重なる理由で、佐々木はこの小説を気に入った。

2012年9月22日土曜日

「玉」同士・「センター」同士の相互浸透

今日高岡英夫先生の御著書『センター・体軸・正中線』他で紹介されている身体意識トレーニングに取り組んでいたら「軸タンブリング」で使う「玉(ぎょく)」同士の関係にしても「センター・トゥ・センター」における「センター」同士の関係にしても弁証法で言う「対立物の相互浸透」の関係であるという気づいてみれば当たり前すぎるぐらい当たり前のことに気づいてえっらく感動しこの気づきによって広がった認識世界を頭と体であれこれ吟味して感動がさらに深まったのだがこの感動を伝える相手がいない。身体意識のトレーニングに取り組んでいる人は弁証法の習得に取り組んでいないし弁証法の習得に取り組んでいる人は身体意識のトレーニングに取り組んでいないから。

2012年9月21日金曜日

変化と運動

看護学者の薄井担子氏と医学者の瀬江千史氏は現代に生きる数少ない偉人の一人だと佐々木は思うがこのお二人の共著である『看護の生理学』を今ポツポツと読み進めている。第1章でいきなり
【薄井】つまり、変化するというのは現象をとらえた表現であり、その内部に運動という構造がひそんでいるわけですね。
【瀬江】そうですね。
なんていうやりとりがサラっとあってその把握の見事さに圧倒された。このやり取りを読んでからはお二人が使う「変化」「現象」「運動」「構造」という言葉がそれこそ構造的な運動性をもって反映してくるようになっただけでなくこの世界のあり方までより構造的かつ運動的に反映してくるようになった。

2012年9月20日木曜日

理容師の質問

理髪店で例の椅子に座ると必ず最初に「今日はどうなさいますか」とか「どれぐらい切りますか」とか聞かれる。不細工な顔の上に生えた残りわずかな髪の毛をいくらかっこよく仕上げたところで全体の不細工さに影響はないだろうし沈みゆくタイタニック号の上でペンキの塗り替えを始めるような虚しい努力のようにも思えるがゆえに髪形へのこだわりなどほぼ皆無である。単にボサボサしてきた髪をスッキリさせてくれればそれでよいのであって仕上がりに対して確たるイメージがあるわけでもない。なので「どうしますか」みたいなオープンクエスチョンを投げかけられても答えようがない。「どれぐらい切りますか」と聞かれても佐々木の髪の毛の本数は同年代の平均的男性よりずいぶん少なめとはいえそれでも数万本はあるだろうし当然ながら部分ごとに切る長さは違うだろうから一概に何センチ切ってくれとか現状の何パーセントの長さにしてくれとか答えられない。いつも通っている理髪店だと「えーっと、耳の周りが出るぐらい‥‥」とか自分でもよくわからないオーダーをすると「耳の周りが出るぐらいですね」と答えてちゃんと不満のない長さに仕上げてくれるのだがあんなオーダーでよく通じるものだと感心する。あれで通じてしまうぐらいならもっと別の聞き方をしてくれてもいいのではないかとも思う。最初に「特にこうしてほしいというご注文はございますか」みたいなクローズドクェスチョンを投げかけてくれればこちらは躊躇なく「いいえ」と答えられて楽なのに。そのあとたとえば「耳の周りは出しますか」とか「後ろは刈り上げますか」とか「もみあげは短くしますか」みたいな「はい/いいえ」で答えられるいくつかのクローズドクェスチョンで確認してくれたらなお完璧。残念ながら答える側が頭を使わないで済む質問ほど尋ねる側が頭を使うことを要求されるもの。だからそんな質問を考え出すことにいちいち頭を使ってくれる理容師さんなんてなかなかいないだろうけどいたらきっとファンになる。

2012年9月19日水曜日

ウグイス嬢

週末は地元の市議会選挙の投票日。佐々木が住む住宅地にも日中ひっきりなしに各候補者の選挙カーがやってくる。広告記事の制作者として「広告主が伝えたいこと」と「読者が知りたいこと」のギャップを埋める作業に日々呻吟しているせいもあってか選挙カーから発せられるメッセージの有権者が「知りたいこと」を無視した「自分たちが伝えたいこと」一辺倒ぶりには軽蔑を通り越して怒りすら覚える。聞こえてくる有権者への訴えかけからわかるのはたとえば候補者Aが有権者に求めているのが「温かいご支援」で候補者Bが有権者に求めているのが「熱いご支援」で候補者Cが有権者に求めているのが「力強いご支援」だとかそんな違いぐらい。何の判断材料にもならない。スピーカーから大音量で発せられる声の主のほとんどは候補者本人ではなくいわゆるウグイス嬢。候補者がどのような声でどのような話し方をする人物なのかというのも有権者がその候補者の適格性を判断する上で重要な情報であるにもかかわらずそうした重要情報を提供することを拒んで耳あたりのよい声や話し方のプロやセミプロに候補者への訴えかけを代行させるような候補者は一人残らず落選してくれとさえ思う。拡声器を使った屋外での選挙運動を候補者本人以外がすることを法律で禁止するべきだという主張をぜひ広く世間に向けて訴えたい。佐々木は声や話し方に自信がないので誰か声や話し方がきれいな人が適正な報酬でこの主張をアピールしてくれないだろうか。

2012年9月18日火曜日

気持ち悪い道

丹沢山地の入口の一つである大倉バス停から鍋割山に向かうルートで最初に舗装道路から離れて西山林道に出るまでのあの林の中をU字型に進む道がなんだかいつも気持ち悪くてしょうがない。気場が悪いとでもいうか。全身の細胞があ~~も~~なんか嫌っ!あ~~も~~なんか嫌っ!ともだえる感じ。西山林道に抜けると急に気分爽快になるし帰りもあの道が近づくにつれて憂鬱になる。近くに豚舎があるのだが関係はないと思う。別に匂いがするわけではないし。他の場所にある豚舎のそばに行っても気分は悪くならないし。なんなんだろほんとに。

2012年9月17日月曜日

鍋割山へ

昨夜丹沢ふもとの自然公園で少しばかり星を眺めた程度では息抜き欲が満たされず今日も天気予報は一日中小雨だったが朝から山登り。丹沢山地の鍋割山へ。基本的に山登りというよりは山歩きが好きで川沿いの道をぶらぶら歩いて引き返してくることが多いのだが今日はなぜか山頂まで行ってやろうという気まんまんに。パソコン仕事続きで体がなまってることに危機感を覚えたか。連休で休みのはずだが渋沢駅前7時36分発大倉行きバスは乗車3人。大倉バス停を出発した時からすでに小雨。西山林道を歩いて二俣を過ぎるあたりから本格的に降り出し上下の雨具を着る。林道が終わり本格的な山道に入ったあたりでいよいよ雨足が強くなり引き返そうかと思いかけるがせっかくなので尾根までは出てしまおうとブナ林の中を雨に打たれつつ登る。尾根に出た頃にはなぜか異様にハイになっていてそのまま山頂へと向かう。山頂まであと0.8kmのところまで尾根道を登ったところで急に周囲の木々がなくなり冷たい風に吹かれる。この風の冷たさに対応するだけの着替えは用意していないと思い数秒で引き返すことを決める。どうせ山頂まで出ても何も見えないんだし。ブナの林の中をのんびり歩いて下山。雨のブナ林を見ていると木々や地面が天からの滋味を吸収している様子がじんわりと自分の体のことのように感じられてきた。やっぱり山歩きはいい。もっと来ようと思った。


尾根道を下山途中


黒竜の滝

2012年9月16日日曜日

息抜き

数カ月にわたり頭を悩ませてきた原稿を昨日ようやく提出できて息抜きがしたくなり今日は昼過ぎまで寝て午後家の用事をいろいろ片づけたあと夕方から丹沢のふもとの自然公園に出かけ誰もいない夜の川べりで1時間ほど星空を眺めてきた。

2012年9月15日土曜日

しまほっけ

このブログには他人の感情や名誉や生活や財産を大きく害さない限りにおいて事実を可能な限り率直に記載したいと考えているので先週まで佐々木がしまほっけのしまは縞ではなく島だと思い込んでいたこともあえて包み隠さずここに書き記す。

2012年9月14日金曜日

職務での会話なのに

ゆえあって家族の除籍謄本の交付請求を新潟県某市の市役所市民課に郵送でしたところ添付書類に不備があったようで今日担当者の方から電話がかかってきた。女性でおそらく30代後半から40代前半。その話し方があまりにも気持ちよくて驚いた。引っ越し先のお隣の若奥さんがゴミの出し方を教えてくれるような感じとでもいうか。職務でやってます感がまったくないというか。最近はどこの市役所でも窓口職員の方の話し方がずいぶんていねいになったと思うがやっぱりあのていねいさっていうのはあくまで義務でよそおってるていねいさなんだなということを今日あの担当者の方と電話で話して実感した。市役所のようなところで仕事をしていてなぜあんな話し方をこれまで続けてこれたのか。どんな心がけで仕事をしている方なのか。うかがえるものならうかがってみたいと思った。

2012年9月13日木曜日

丈夫で長持ち

欧米では□□□□があたりまえなのに日本ではいまだにそうなっていないという論法での日本人批判を目にしたり耳にしたりした時の自分の感情は十代の頃はあーなんて日本は恥ずかしい国なんだろうはやく欧米並になれるように日本人も努力しなければならないだったし二十代から三十代の頃はあーなんて陳腐な論法なんだろういまだにこんな古くさい論法を振り回していっちょまえの批判ができた気になってる己の精神構造の浅薄さを少しは恥じやがれだったのだが四十代になった頃からはいまだに多くの日本人に対して説得力を持ち続けているこの論法の息の長さというかある種の完成度の高さに対する畏敬の念のようなものが感じられるようになってきてたとえるなら明治時代に建てられていまだに現役で使われている建築物の威容を目の当たりにした時のような気分。

2012年9月12日水曜日

Webデザイナー

会社などの組織に勤めている方からは同僚や上司や部下への不満を頻繁に聞く。一緒に仕事をせざるを得ない相手に対しては人は不満を抱かずにいられないものなのだろう。幸か不幸かフリーランスの身にあってはそもそも同僚や上司や部下というものが存在せずこうした不満を抱きようがない。あえて似たような対象を探すなら佐々木の場合自分が仕上げたhtml原稿をクライアントのホームページに埋め込むWebデザイナーがこれにあたるかも。自分が納品した原稿がクライアントのホームページにアップされたのを見てデザイン的な仕上げのいい加減さや不適切さにあきれかえる確率はおそらく6割を超える。揃えるべきところが揃ってなかったり文章の流れを無視したデザインがほどこされていたり。仕上げたWebページが読み物として不自然ではないかチェックするWebデザイナーってほとんどいないのではないかとさえ思ってしまう。やる気のない人間の巣窟という印象さえ持っている。おそらく佐々木自身の仕事のレベルが低いがゆえにレベルの高いWebデザイナーがあてがわれないという面もあるのだろう。クライアントがデザインの仕上げまで厳しくチェックするほど重要な仕事を佐々木が任せられていないという面もあるのだろう。

2012年9月11日火曜日

メシの友

「メシの友」と呼ばれる“ご飯の調味料”的位置づけのおかずにも個人的な定番と流行があって梅干しだけは冷蔵庫からほぼ切らせたことがないがもう一品はその時々で気に入っている数種類を適当にローテーションさせながら買っている。たしか15年ぐらい前は山ごぼうのしょうゆ漬けにハマっていたし10年ぐらい前は野沢菜の油炒めにハマっていたし5年ぐらい前はしば漬けにハマっていたがどういうわけかここ数年はこれらを買う気がとんとなくなった。最近だとラッキョウのピリ辛漬けなどよく買うが一番気に入っているのはわさび漬け。こういうことを有名人がうかつに書くとファンから大量のわさび漬けが送られてきたりして大変らしいが幸い佐々木にそんな心配は不要である。あわよくばこれを読んだ方にわさび漬けを送ってもらおうなどという意図は当然ながら断じてない。

2012年9月10日月曜日

不親切な文章

亡父が加入していた少額の生命保険の保険金を受け取るために必要な証明書類の取り寄せを先月末からようやく始めた。保険会社の担当者の方が見えて申請書やら必要書類一覧やら説明書を一式置いて行かれたのが3カ月ぐらい前。うちの特殊事情のせいもあり保険金の受取額の少なさ割に取り寄せたり作成したりしなければならない書類の数があまりにも膨大でかつちょうど仕事で頭がいっぱいいっぱいになっていたところなので後回し後回しでずるずるここまで来てしまった。時々保険会社の方から電話があり催促されるたびに説明書に目を通していたのだが読んでも読んでも内容が頭に入ってこない。一つ一つの文の意味はなんとなくわかる。だが全体として何を伝えようとしているのかがわからない。次に自分がどう行動すればよいかもわからない。そもそも何がわからないのかもよくわからない文章。もう少しよく読めばわかるような気がして仕事が一段落したらまた読もうと机の脇に置いてそのままになることの繰り返し。先月末に仕事が一区切りついたのを機に十回目ぐらいの読解チャレンジをしてようやく何がわからないのかが判明。何がわからないのかが判明したらインターネットで検索して数分で解決。申請までに必要な行動の順序がようやく頭に描けて行動開始。行動した後で件の文章を読み返したらようやく何がどう欠落した文章だったのかが理解できた。世の中全体で見ると文章の意味不明さによって膨大な時間やエネルギーが浪費されているのだろうなと思った。

2012年9月9日日曜日

ポジティブ

いつも武術の稽古をする体育施設ではエアロビクスとかヨガの教室も行われていてそれらの教室の宣伝のためにインストラクターのみなさんの笑顔写真が載ったポスターも貼られているのだがああしたインストラクターの表情や身体のありようにはあふれんばかりのさわやかさやエネルギッシュさを感じる一方で独特の窮屈さを感じもする。自分の心の中のネガティブな部分を無理矢理押しつぶして他人にばかりか自分自身にも見えなくする窮屈さというか。たとえば接客や営業を仕事にしている人が個人的なネガティブ感情を顧客に見せないように努めるのは当然のことでああいうインストラクターさんたちのリードに自分の心身の動きを従わせることはそういう能力の涵養には役立つだろうなと思う。だが個人としての自分の心身の健康状態を高める上でああいう無理矢理なポジティブ追究にあまり入れ込みすぎるとまずいのではないかとかそもそもあのインストラクターさんたちの心身の健康状態が無理なポジティブ追究のせいで根深いところで損なわれていることはないのだろうかとか変な心配をしてしまう。

2012年9月8日土曜日

嫌悪感

他人に関心を持つこと自体あまりないので他人に嫌悪感を持つことなどめったにないのだがしばらく前に知人からブログを紹介された人物にはなぜか会ったこともないのにそうした感情を抱いてしまいその原因を知りたくなったがゆえにくだんの人物のブログをときどき訪れ読んでいるうちにどうやら原因らしき欠点を言語化できてきたのだがそれではそのような欠点を体現する人物すべてに嫌悪感を抱くのかと自問してみるにそういうわけでもない。当該人物が持つ欠点だけでは発現しない嫌悪感を自分の中で発現させる要因は何なのかと分析してみるにどうも嫉妬っぽい。

2012年9月7日金曜日

いっぱいいっぱい

あいかわらず自分の頭の弱さに呻吟する日々。搭載メモリが少なすぎるパソコンでやたら重いソフトを使いやたらでかいファイルを処理しようとしているような状態がずっと続いている。頭が弱いにもかかわらずいつも自分の頭で処理できる以上の問題に取り組もうとしてしまうことが自分の特徴かも。それから自分の頭で処理しきれないからといって問題が存在しないことにしてしまわないことや自分の頭で処理しきれない問題を積極的に探し求めてしまうことも。長所というよりむしろ短所という気がするのだが。

2012年9月6日木曜日

雷サージ

本日は午後雷雨。稲妻の光と共に皮膚の露出している部分が一瞬モアッとなるほどの電気感を感じたが、動作中のパソコンには何の異常もなし。雷サージ保護機能付きタップの性能がよかったのか、パソコン自体が強いのか、とにかく感心。

2012年9月5日水曜日

得と徳

アイン・ランドに関心を持つ人には、いわゆる陰謀論に関心を持つ人が少なくない。最近もある方から、アイン・ランドは、世界の最高支配層が作ろうとしている奴隷社会を告発する小説を書いたから、文学界からも言論界からも徹底的に無視され嘲笑的に扱われるように仕向けられたのだ、みたいな説をうかがったばかり。こうした陰謀論には、佐々木はいまひとつ入り込めない。陰謀論者達の考えでは、この世界の最高支配者達は自分達の利益を最大化するためにさまざまな陰謀を実行している。あえて幼稚な表現をするなら、自分達の得になるように社会を操作している。でもどうなんだろう。人が実現に熱中することって必ずしも自分の得になることばかりじゃない。むしろどんな基準であれよいと信じられないことの実現にそう熱中し続けられるものではないのでは。徳のない得のために自分の生涯を捧げられるものではないというか。ある立場に立たないとその善たるゆえんが理解できない善というのはある。大人には理解できても子供には理解できない善とか社長には理解できても従業員には理解できない善とか。世界規模の巨大事業を現実に創出したり統括したりした経験もなければする可能性もない人間に、果たしてこうした巨大事業の創出者や統括者と同じ目線で善悪の判断をすることが可能なのかどうか。彼らが善と信じて実行していることが善であるゆえんを理解できないがために彼らが単に自己利益のために実行しているように見えているのに過ぎないのではないかという反省だってあり得ていいはず。それから本人に善を実現するつもりがなく単に自己利益を追求しているだけにもかかわらず結果として実現されてしまう善だってある。市場への投機的参加者の集結による流動性の実現とか。彼らの自己利益の追求によって結果として実現されている善はないのかとか実は自分達自身がその善の恩恵を受けているのではないかという反省だってあり得ていいはず。そういう反省もなく簡単に他人を悪人認定する単純さへの嫌悪が佐々木が陰謀論に入り込めない要因の一つだと思う。

2012年9月4日火曜日

広告スペース

先日たまたま前を通りかかった隣町の住宅リフォーム会社のショールームの建物の外壁面や窓ガラスの広告スペースとしての使い方があまりにもみごとだったので以来あらゆる事業所のあらゆるスペースが広告スペースに見えてしょうがない。そのショールームの外壁面や窓ガラスに貼られた文字の文面やデザインは「住宅リフォームに対するニーズやウォンツの喚起」「提供できるサービスの概要の提示」「信頼性のアピール」「繁盛感の演出」など集客上必要なありとあらゆる機能を果たしていた。建物や敷地全体のデザイン性を高めてイメージアップを図ったりウォンツを喚起したりするのも広い意味での集客活動なのだろうがあの住宅リフォーム会社が建物の外壁面や窓ガラスの全体をフルに使ってやっていたのはもっと具体的なニーズやウォンツに的を絞って具体的な行動を喚起する設計性の高い集客活動だった。あるスペースにいわゆる「広告」を掲示していないことだって広い意味での広告である。そんなことを考えながら広告を掲示していないことも含めてそのスペースが潜在顧客に与える印象や潜在的に喚起する行動をいちいち想像しながらいろいろな事業所の敷地や建物を見ている。当面何の役に立つ見込みもない。

2012年9月3日月曜日

信頼

人に対する肯定的な感情には好意とか尊敬とかいろいろあるわけだが「好意」といえば反射的に「一時的」という言葉が頭に浮かぶし「尊敬」といえば反射的に「依存」という言葉が頭に浮かぶ。人に対する肯定的な感情の中でこういう否定的な概念への紐付けを最も伴わない感情って自分にとってなんだろうと考えるにそれはおそらく「信頼」ではないか。信頼といっても能力への信頼ではない。きっとこれをやりとげてくれるだろうとかこういうことはしないだろうとかいうのは信頼は信頼でも一種の依存なわけだし。そうではなくてその人が意識して従っているというかむしろ既に習い性と化している行動原理や選択原理みたいなものへの信頼。そこへの信頼があれば相手の行動や選択の結果がこちらの期待や希望にそぐわないからといって相手への肯定的な感情が弱まることはない。こういう信頼って相手がこういうときはこう行動するとかこういうときはこう選択するとかいう認識だから科学的認識や技術的認識みたいなもので感情らしい熱さには欠けているけど冷たいからこそ強さを伴う感情だってある。

2012年9月2日日曜日

ポップス

「ポップス」というのは英語の「ポップ・ミュージック」に相当する和製英語らしいのだが佐々木が十代だった頃を振り返ってみるにあの頃の日本でポップスというのはアメリカやイギリスにおけるポップ・ミュージックを指すかそうでなければ日本においてアメリカやイギリスのポップ・ミュージックをコピーまたは模倣した音楽を指していた気がする。要はかつて日本ではポップスというのは外国文化を模倣する少数のマニアのちょっとした高踏趣味だった。外国文化の模倣、少数のマニア、高踏趣味。いずれも「ポップ」の対極だろう。だからあの頃の日本ではポップスというのは概念だけが存在して実態が存在しない言葉だった気がする。当てずっぽうもいいところだけど。

2012年9月1日土曜日

ガールズ・ポップ

「ガールズ・ポップ」という言葉を初めて耳にしたのだがいつのことだったのか、既に記憶が定かでないのだが、おそらく十年ぐらい前ではないだろうか。佐々木が十代の頃は「ガールズ・ポップ」という言葉はなかった気がする。あったのかもしれないけど佐々木の耳には入ってこなかったし、入っていたとしても記憶に残ることなくすりぬけていた。

音楽にも流行にもほとんど関心がないので、具体的にどんな音楽を指してガールズ・ポップと言うのかはわからなかったし今でもわからないのだが、とにかくこの「ガールズ・ポップ」という言葉を聞いた瞬間なんかいい言葉だなと感じたことは覚えていて、今でもなんかいい言葉だと思う。

なぜなのかは自分でもよくわからないのだが。

日本語の「ガール」って、過剰な持ち上げか、過剰な蔑みか、どちらかのニュアンスで使われがちな言葉だと思う。それは日本における女子の扱いにも結びついているのだろうし、日本における英語の扱いにも結びついているのだろうし。

「ポップス」というのは和声英語らしいけど、佐々木が十代の頃は、日本ではただ言葉だけが存在して、実態が存在しないようなところがあったような。

「ガール」という言葉が「ポップス」という言葉を修飾できるほど中立的で適度に知性的なニュアンスをまとえる時代になったこと、あるいは、「ポップス」という音楽ジャンルが「ガール」という言葉で修飾されるほど広く社会に根付いた時代になったことに、なにか時代の進歩のようなものを感じたのかもしれない。
 
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