2012年8月31日金曜日

ハダシ歩き

夏の日中晴天で家にいられる日はできるだけ正午~午後1時ごろにハダシで外に出て熱せられたアスファルトや砂利道を5分~30分ほど歩く。いくらフリーランスでもそう家にいられるものでもなく今年の夏日中のハダシ歩きができたのは6月から今日まで合わせてせいぜい20日ぐらいか。外に出て歩きはじめてすぐアッチッチアッチッチこりゃシャレになんねぇと足の裏を身悶えさせながら心の中で絶叫してしまうほどアスファルトが熱せられたのはせいぜい今週のはじめごろまで。今日は快晴で午後1時過ぎの一番アスファルトが熱せられる時間帯に歩いたがもうそこまでは熱くなかった。さびしい。炎天下のハダシ歩きを始めてから夏暑くなるのが楽しみでしょうがない。暑い夏が苦手なんて言ってる人を見るとぜひこの炎天下のハダシ歩きをお勧めしたくなる。頭がよくなりますよなんて佐々木が言っても説得力がなさすぎるのでまだ誰にも勧めたことはないけど。

2012年8月30日木曜日

位置づけ

ある工場を取材した折に帰って来て自分が撮ってきた写真を見てなんであそこであの立ち位置・あの背景で案内者の方のカメラ目線写真を撮らせてもらわなかったかなー俺ってだめだなーと反省することしきりで工場内の騒音ごときで情けないほど思考力が低下してしまった自分が嘆かわしくてしかたなかったのだが改めて考え直してみるに初めて訪れた工場内を案内してもらいながら工場とそこにおける生産および管理活動の全体像を把握しようとしている時の認識の働きと工場内の個々の場所や装置やそこにおける活動の全体の中における位置づけを把握しようとしている認識の働きに大きな質的相違があるのは当然のことで順序としては基本的に前者→後者の順に認識していくほかないわけだから全体像を把握しようと必死になっている時に個々の場所の位置づけを捉えそこねてしまったのはまぁ自然と言えば自然なことだよなと少し自分自身を慰めることができた。次は同じ失敗をしないようになんとかいろいろ工夫するつもりだけど。

2012年8月29日水曜日

声はすれども姿は見えず

「声はすれども姿は見えず、ほんにおまえは屁のようだ」というのは「声はすれども姿は見えぬ 君は深山(みやま)のきりぎりす」という江戸時代初期に作られた歌に端を発する古い慣用句らしいのだが、知り合いから「ブログ読んでます」と言われた時の気分が、まさにこんな感じ。話し言葉をあやつる自分と書き言葉をあやつる自分は、佐々木の中ではほとんど別人格と言っていいくらいなので、他人だってやっぱり、話し言葉をあやつる部分と書き言葉をあやつる部分は、別人格なんだろうと想像してしまう。つきあいが長い相手でもどんな文章を書くのか知らなければ、半分しか見えていないのと同じ。その相手の見えていない部分から書き言葉をあやつる自分を見られている気分が「声はすれども姿は‥‥」になるのは当然のこと。だからと言ってネットに実名で文章を公開していない方々を屁みたいに思っているわけではないことは、いくら強調し過ぎても過ぎることはない。とか言って。

2012年8月28日火曜日

応援させてカネを取る

世の中には他人を応援したいという欲求を持つ人がたくさんいるわけだからそうした欲求を満たすことで対価を受け取るビジネスが存在するのはいたって自然なことであるはずなのだが佐々木自身の妙な美意識として他人に自分を応援させた上にカネまで出させるという稼ぎ方にはどうも抵抗を感じてしまう。カネを稼ぐのに他人のニーズやウォンツ以上に自分の美意識に従ってしまうのは佐々木の非常に悪い癖。プロデビューしたのでみなさん応援よろしくお願いしますとか平然と言ってのけられる人たちのプロ根性がうらやましい。

2012年8月27日月曜日

表現は売り物にならない

今日の夕方ある賑やかな郊外駅の駅前広場を通ったら20代後半ぐらいの男5人組のアマチュアバンドがJポップっぽい曲を演奏していてなぜかオーッと引きつけられた。時間さえ許せば最後までライブを観ておきたかったぐらい。500円ぐらいなら置いていって惜しくないレベル。その駅前広場はもう20年以上通り続けていてほとんど通るたびにアマチュアバンドが路上ライブをやっているのだが演奏に引きつけられた経験はこれまで数えるほどしかない。しかもその男5人組アマチュアバンドが演奏していた曲自体は全然佐々木の趣味ではなかった。曲ではなく純粋に演奏そのものに引きつけられたということになるがそんな経験はこれまでなかったかも。これまでおそらく何千と遭遇してきたアマチュアバンドと彼らといったい何が違うのだろうとしばし考えさせられた。考えているうちに普通のアマチュアバンドの路上ライブに佐々木は何か嫌な感じをずっと抱いていたと気づかされた。これまでまったく関心を引かれることもなかったので気づかなかったが。その嫌な感じというのは無意識のうちに「評価」や「応援」や「共感」を要求する姿勢なのかなと。今日遭遇していた彼らはアマチュアバンドにしては珍しくサービスとしての演奏に徹していて「評価」や「応援」や「共感」を要求する姿勢がなくそれでオーッと引きつけられたのかなと思った。プロとアマチュアってレベルだけではなく姿勢そのものが根本的に違うんだなとも。

2012年8月26日日曜日

頭弱っ!

本日は武術の稽古会。稽古には満足についていけず、稽古の合間に片づけようと持ち込んだ仕事も片づかず、そのうえ仕事していて取材時の写真撮影ミスに気付きで、改めて自分の頭の弱さにうんざりさせられた。

2012年8月25日土曜日

つまらん文章を読ませて申し訳ない

ここ数日で2人の方から「ブログ(この日記のこと)読んでます」と言われ、他に知り合い1名がこの日記を読んでいることが判明した。恥ずかしいなんていう気持ちはすでになく、ただもうひたすら申し訳ない。貴重な人生時間を、こんな読む価値のない文章を読むことに費やさせてしまって。この日記を書き始めた頃は、自分の文章力向上に役立てようという意志があったから、まだ少なくとも読んで意味がわかることを書いていたと思うが、そんな意志ももう消えた。今この日記に書いているのは、ほとんどが他人に伝える価値があるとはとても思えなくて、それでも書いておかずにはいられないこと。他人に伝える価値があることなら、こんなところに書かないで、直接伝えている。そもそも他人に伝える価値があることが、佐々木の頭には思い浮かばない。とりあえず「読む価値なしオーラ」を文章全体から発散させているつもりなので、読んでお時間を無駄にさせてしまったとしても、このオーラに気づかなかったか気づいてもそこをあえて突破したみなさんの責任です、などという言い訳が許されるとも思えない。申し訳ない。

2012年8月24日金曜日

オープン・フィロソフィー

今年2月に佐々木が主催した東京アイン・ランド読者会のイベントで、ご講演をいただいた藤森かよこさんから、アイン・ランドの思想を受け継ぐ人々の中には、ランド自身の思想を忠実に守っていこうとする人々の流れと、ランドの思想を発展させていこうとする人々の流れの、2種類の流れがあると教わった。

アイン・ランドの思想に限らず、思想とか体系って、受け継ぐ人々がどうしたってこの二つに割れていくのだろう。

創始者の思想や体系を忠実に守っていこうとする人々を、「創始者の劣化コピーを目指す人々」とか「創始者の劣化コピーの劣化度の少なさを競い合う人々」とかと見なすのは、きっといくらなんでもいじわるが過ぎる。

創始者の思想や体系に忠実であることを貫くことでしか到達しえない境地というのは、まちがいなくある。

ただ個人的に親交して楽しいのは、やっぱり忠実派より発展派。

忠実派の流れに従うことで自分を高めながら、発展派の流れにも混ぜてもらうことで魂レベルの交流の喜びを得る、というのは、ちょっといいとこどりが過ぎるだろうか。

2012年8月23日木曜日

行動はいつも最善でない決定に従ってなすもの

株などの投機の世界には「アタマとシッポはくれてやれ」という格言があって、要は最高値で売りたいとか最安値で買いたいとか言ったってどうせ無理なんだから、自分が売ったあとに値上がりしたり買ったあとに値下がりしたりするのははじめからあたりまえと思え、あとから振り返って、もう少し売り買いを待っておけばよかったとか考えるな、ということらしいのだが、これって投機に限らず、判断を下すこと一般に広げて解釈できそうな気がする。「あとから振り返って最善の決断」なんて実際にその時その場では下せるものじゃないし、下せたとしたらそれはほとんど運がよかっただけと言っていいくらいなんだから、決断が最善でないことなんかにこだわるな、というふうに。あと、決断というのは個人のレベルだけじゃなく家族や集団や企業や国家のレベルでも下す必要があるもので、組織の規模が大きくなるほど、決断はごく少数の専門家に委ねられるようになる。決断を下す立場の人間には、なろうとしなければなれないし、なろうとしても周囲に認められなければなれない。自分が決断を下す立場にいないということは、決断を下す立場の人間になろうとしなかったか、なることを周囲から認められなかったかのどちらかということだ。決断を下す立場にいない人間の本分は、下された決断に従って行動すること。下された決断が最善でないことを批判することは、悪いことではない必要なことだと思うけど、そういう批判にあまりに夢中になっている人々を見て「なんかカッコ悪いなぁ」と佐々木が感じることが多い理由はたぶんそのへんにあるのだろう。

2012年8月22日水曜日

男の下半身

「男の下半身に人格はない」という言い方はたしかに男の性欲の一面を言い当ててはいるとは思うけどこれを絶対的真理にまでまつりあげてしまうとまるで男というものが相手の人格的な価値とは無関係に情欲をいだくような印象を与えるのでこの言葉が頭に思い浮かんだ時は同時にアイン・ランドの「男の性の選択は彼の根本的な信条の結果」という言葉も思い浮かべたほうがいいと思う。言ってることは真逆だけどどちらも真理だから。
「あなたには僕が惨めな劣等感に悩む男に映りますか?」
「まさか!」
「そういう男だけが生涯女性を追いかけて過ごすのです」
「どういう意味だね?」
「僕がお金について話していたとき、因果律をひっくり変えそうとする人間について言ったことを覚えていますか? 精神の産物を奪うことによって精神に代えようとする人間のことを? さて、自分を蔑む男というのは性的冒険から自尊心を高めようとする―だがそれは不可能です。というのもセックスは原因ではなく結果であり、自分の価値についての感覚の表現だからです」
「説明してくれ」
「同じ問題だと思われたことはありませんか? 富が物理的な資源に由来しており、知的な根源も意味もないと考える男たちは―同じ理由から―セックスは人の心、選択、価値規範とは別に機能する物理的な力だと考えます。鉄鉱石はそれ自身の意志の力によって鉄道のレールに変わるものたといわんばかりに、肉体が欲望をうみだし、自分のために選択してくれると考えているのです。愛は盲目だ、と彼らはいう。セックスは理性とは無関係であり、あらゆる哲学者の力を晒(わら)うと。だが実際は、男の性の選択は彼の根本的な信条の結果であり、そこに集約されるものなのです。男が何に性的魅力を感じるかを教えてください。その男の人生の全哲学を言いあててみせましょう。彼が寝る女性を見せてください。彼の自己評価をいいあてみせましょう。滅私の美徳についていかに堕落した考えを植えつけられようが、あらゆる行為のうちセックスはもっとも深遠な意味で自己中心的であり、おのれの快楽以外の動機からおこないえない行為です。自分の欲望を殺して慈善精神でその行為に及ぶことを考えてもごらんなさい! セックスはおのれを卑下するものには不可能な行為であり、自分が求められており、求められる価値があるという自信があり、自ら高揚することによってはじめて可能になる。それは肉体と同様に精神においても裸で立ち、本物の自我を価値基準として受け入れることを強いる行為です。男は常におのれのもっとも奥深い姿を反映する女性、服従をもって自尊心の感覚を経験させてくれるか―あるいは自尊心がある気にさせてくれる女性に惹かれる。自分の価値に自信をもっている男は、見つかるかぎりで最上級の女性―尊敬できて、誰よりも強く、誰よりも征服しがたい女性を求めます。それは無能な尻軽女ではなく、ヒロインを所有することからのみ達成感を得られるからです。そういう男は……どうなさいました?」抽象的な議論への興味をこえたリアーデンの表情の激しさに気づいて、彼はたずねた。
「続けろ」硬い声でリアーデンは言った。
「そういう男は女性によって自分の価値を高めようとはせず、それを表現しようとする。精神の基準と肉体の欲望との間に対立はありません。だが自分には何の価値もないと思っている男は、自分が蔑む女性にひかれる。それは彼女が彼の秘められた自己を反映し、おのれがまやかしである客観的な現実から彼を解放し、彼自身の価値についてひとときの幻想を与え、道徳規範の呪縛から一時的に逃避させてくれるからです。性生活において、多くの男がひきおこす醜悪な混乱をごらんなさい。それから彼らの道徳哲学における矛盾からくる混乱を。一方は他方の結果なのです。愛はわれわれの最高の価値への応えであり、それ以外のものではありえない。人の価値観と存在についての認識を堕落させ、愛はみずからの楽しみではなく自己否定だと、美徳は誇りではなく憐れみや苦しみや弱みや犠牲からなると、もっとも気高い愛は賞賛ではなく慈善から、価値ではなく欠点への反応としてうまれると公言させなさい。彼はおのれを二分することになる。自分の肉体は従わず、反応せず、彼が愛すると公言する女性に対して無能となり、みつかる限りのもっとも低俗な売春婦にひかれていく。肉体は常にもっとも奥深い信条の究極の論理に従います。欠点が価値であると信じる男は存在を悪として呪うのであり、悪だけに惹きつけられることでしょう。彼はおのれを貶めてしまったのであり、堕落だけが自分が楽しむに値するすべてだと感じるようになる。彼は美徳を苦痛と同等化し、悪徳が快楽の唯一の世界だと感じるようになるのです。そしておのれの肉体が、精神が克服できぬ勝手な忌まわしい欲望をもち、セックスは悪であり、真実の愛は精神的で純粋な感情だと大声で叫ぶ。そしてなぜ愛が退屈のほかには、セックスが―恥のほかには何ももたらさないのだろうかといぶかしるのです」
 リアーデンはゆっくりと、目をそらして、声に出して考えていることにも気づかずに言った。「少なくとも……俺はそのもうひとつの信条を受け入れたことは……金を稼ぐことに罪の意識を感じたことはない」
 フランシスコは最初の一語の深刻さに気をとめるでもなく、微笑すると熱っぽく言った。「同じ問題だとおわかりでしょう? いいえ、あなたは彼らの忌まわしい信条のどの部分を受けいれたこともありません。自分に強制できないはずです。セックスを罪悪として呪おうとしたところで、あなたはいつのまにか、意志に反して、本来の道徳的前提によって行動していることでしょう。あなたは出会ったなかで最高の女性に惹きつけられる。常にヒロインを求める。自嘲などできない。存在が罪悪であり、自分がどうしようもない宇宙にとらわれた無力な生きものだと信じることもできない。あなたは生涯、自分の精神的な目的を物理的な形にしてきたおかただ。あなたは、物理的な行動によって表現されない考えと同様、プラトニックな愛も軽蔑すべき偽善であると―思考の導きがない物理的な行動が愚者の自己欺瞞であるごとく、価値規範から切り離されたセックスも欺瞞であると知っているおかただ。それは同じ問題であり、あなたはそのことを知っているのです。あなたの侵すことのできない自尊心が知っている。あなたは軽蔑する女性に欲情できないはずだ。欲情のない愛の純潔さを讃える男だけが、愛のない欲情に堕ちうるからです。だがごらんなさい。ほとんどの人びとは、必死で一方から他方に振れて二分された生きものだ。そうした男の片方は金を、工場を、摩天楼を、そしておのれの肉体を蔑む男です。彼は考えも及ばないものについての定義できない感情が人生の意味であり、おのれの美徳の証明だと考える。そして尊敬する女性に何も感じられないのに、卑しい場所の売春婦へのあらがえぬ情熱にとりこになっていることに気づいて絶望の悲鳴をあげる。俗にいう理想主義者です。もう片方は現実主義者と呼ばれる男ですが、彼は原則、抽象、芸術、哲学、彼自身の精神を蔑みます。そして物質的なものの獲得を存在の第一義とみなし、目的や源を考慮する必要を笑ってとりあげません。彼はものから快楽が得られると考え、なぜ手に入れれば入れるほど鈍感になっていくのだろうといぶかるのです。それが女性を追いかけて時間をついやす男の姿だ。そういう男が自分に強いる三重の欺瞞をごらんなさい。道徳価値といった概念をあざ笑う彼は、自尊心の必要を認めません。にもかかわらず自分が肉塊であると信じているために、自分を深く軽蔑している。彼はセックスが個人の価値観に対する賛辞の肉体的な表現だと認めはしませんが、そのことを知っています。ゆえに本来は結果であるはずの動作を一通りなぞり、根源であるべきものを手に入れようとする。彼は自分に服従する女性によって自分の価値を確かめようとする。にもかかわらず手に入れる女性には人格も判断力も価値基準もないことを忘れる。そして自分が求めているのは肉体的快楽だけだ、と自分に言いきかせる。だがごらんなさい。そうした男は一週間もしくは一晩で自分の女に飽き、職業売春婦を軽蔑し、誘惑しているのが自分のために大いなる例外をもうけてくれる貞淑な乙女だと想像したがる。それは求めてもまず満たされることのない達成感です。精神の宿らない肉体を征服してどんな光栄が得られるというのでしょう? さあ、それがあなたのいう女たらしです。この描写は僕にあてはまりますか?」
「ばかな!」
(アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』脇坂あゆみ訳、529頁-532頁)

2012年8月21日火曜日

悪運

語義なんてものは社会的な約束事なのだから、単語、それも専門用語ではなく日常語について、どの辞書を引いても出ているほど世の中に定着した語義に「それはおかしい」などと異を唱えてもしょうがないのであるが、「悪運」という言葉に対する辞書の説明には、いつも違和感を覚えている。

たとえば『大辞泉』の説明。
1 悪いことをしても報いを受けず、かえって栄えるような運。「―が強い」
2 運の悪いこと。不運。「―続きに泣く」
「1」と「2」は意味がまったく違う。

「2」に関しては「不運」というほぼ一意の単語があるのだから、「悪運」を「2」の意味で使うのはやめればいいのにと思う。

やめて何か不都合があるとも思えないのだが。

それから「1」の「悪運」には、2種類あるのではないか。

一つは、悪を存続させ繁栄させる運。

たとえば、犯罪者が運のよさによって逮捕をまぬがれその後も犯罪を繰り返すとか。

もう一つは、不公正な運。

たとえば、世の中にろくに貢献していない人物が、ただ運のよさだけで利益を手にするとか。

後者の「不公正な運」の意味を掲載している辞書には、これまでお目にかかったことがないのだが。

佐々木はどこかで自分のことを「悪運の強い人間」と思っているのだが、これは後者の意味での悪運である。

トータルで見ると、自分が与えた価値と引き換えに手にした価値より、自分からは価値を与えることもなしに手にしてしまった価値の方が、はるかに大きい気がしている。

2012年8月20日月曜日

自給自足

自分の頭で考えることを他人に勧める人々はある面において食料を家計レベルで自給自足することを他人に勧める人々に似ている気がしている。思考・判断であれ食料生産であれ人間の生存に不可欠なこうした行為が少数の専門家に委ねられる現在の社会のあり方は社会の大多数の構成員が自らの生存に要する思考・判断もしくは食料生産を自ら行う空想上の社会のあり方に比べより不道徳で危険で非人間的であると考え現実の社会をこうした空想社会に近付けることを究極目標として思考・判断もしくは食料生産に関わる自分自身の実践のあり方を他人に勧めているという意味で。

2012年8月19日日曜日

踏み固められた記憶

自分の中に記憶と理解だけは鮮明にあるのに言語化だけは長年意識的に避けてきた事柄を急に言語化しようとするとずっと使っていなかった体の部分を急に動かそうとした時に覚えるような不可能感と苦痛が身体に生じてイッテッテッテとなるという発見を最近した。

2012年8月18日土曜日

鉄道前景・後景

鉄道好き少年の例に漏れずだいたい中学生の頃ぐらいまでは電車に乗る時はできるだけ先頭車両に乗っていた。

運転席の後ろに陣取り運転士の操作やら運転台の計器やらレールやらポイントやら信号やら標識やら対向列車やらをガラス越しに眺める。

でなければ後端車両の車掌室の前。

違いは運転士の操作が見れないことぐらい。

窓の外に見るものは先頭車両に乗ろうが後端車両に乗ろうが同じだった。

(細かいことを言えば後端車両の車掌室越しに信号や標識は見えないが)

成人してからはさすがに電車の運転席の後ろに陣取ることもなくなったが。

で。

去年アイン・ランド原作の映画「Atlas Shrugged: Part I」をDVDで観た時、鉄道の描かれ方のハリボテっぽさに相当がっかりさせられたのがきっかけで、アイン・ランドが生きていた時代のアメリカの大陸横断鉄道のあり方や現在のアメリカの鉄道のあり方が見たくなり、YouTubeでそれっぽいキーワードを入れ出てきた動画を見ていたら、子どもの頃の鉄道愛が再燃してきて、あれやこれやの鉄道動画を次から次へと夢中になって見てしまった。

その中で一つ思ったのが、動画で見ると、実際に見るより、「先頭車両から見るこちらに迫り来る景色」と「後端車両から見る遠くに過ぎ去り行く景色」の違いが、ずっと大きく感じられるということ。

ほとんど同じ景色が逆向きに流れているだけのはずなのに、それ以上の違いが感じられる。

おそらく動画に映っているレールの動きが、鑑賞者に近づいて来る向きか、鑑賞者から遠ざかる向きかの違いが、鑑賞者の意識に、大きな違いをもたらすのだろう。

一般に表現には表現対象と表現主体とが二重に表現されているという観点からすると、「先頭車両から見るこちらに迫り来る景色」の動画には表現主体が、「後端車両から見る遠くに過ぎ去り行く景色」の動画には表現対象が、それぞれより強く表現されていると感じた。

つまり、「先頭車両から見るこちらに迫り来る景色」の動画には、景色が映っているというよりも、むしろ、その景色へと突っ込んでいく列車やその列車に乗っている撮影者やその撮影者に自己同一化している鑑賞者が映っている、と感じられた。

逆に、「後端車両から見る遠くに過ぎ去り行く景色」の動画には、景色そのものが映っている、という印象をより強く受けた。

というか、「後端車両から見る遠くに過ぎ去り行く景色」の動画ほど、その土地のあり方を広く連続した面として鑑賞者の頭に描かせてくれる表現は、他にないのではないかと思ったほど。



2012年8月17日金曜日

「ローカルエリア接続 ネットワーク ケーブルが接続されていません」

ADSLでインターネット接続しているパソコン(Windows XP)の画面の右下に、突然、「ローカルエリア接続 ネットワーク ケーブルが接続されていません」というメッセージが表示されるようになった。

1秒ほど表示されて消え、また1秒ほどおいて表示されて消えるの繰り返し。

ブラウザの表示はとぎれるし、大きなファイルのアップロードは途中で止まる。

イライラしてしょうがない。

別のパソコンを接続しても、同じ症状が出る。

モデムとパソコンを結ぶケーブルを変えても、同じ症状が出る。

ADSLモデムとインターネットの接続状態を示す「ADSL」ランプは、点灯したまま。

ADSLモデムとパソコンの接続状態を示す「PPP」ランプも、点灯したまま。

ADSLモデムとパソコンのデータの受送信状態を示す「DATA」ランプは細かい点滅を繰り返している。

インターネットとの接続状態には異常はなさそうなのに、なぜかデータのやり取りだけが中断される。

「ネットワークケーブルが接続されていません」でネットを検索してみると、同じ症状を訴える多数の投稿がQ&Aサイトに掲載されていた。

症状が解決したやり方が、みなさんそれぞれ違う。

「モデムの電源を入れ直したら元に戻った」という信じられない投稿があり、そんな馬鹿なと思いつつとりあえず一番簡単な方法なのでやってみたら、本当に元に戻った。

意味がわからない。

2012年8月16日木曜日

蚊の進化?

最近蚊がまったく羽音をたてずいつのまにか腕などに食いついていることが多い気がする。

蚊も進化しているのだろうか。

2012年8月15日水曜日

片づけ

5月あたりからずっと仕事のことで頭がいっぱいになっるあまり部屋の片づけやら帳簿の入力やらの雑事がそうとうおろそかになっていた。雑事をおろそかにする姿勢っておそらくだんだん仕事にも影響してくる。8月後半は少し仕事に余裕が出る見込み。たまっていた雑事を片づけるだけでなく仕事が忙しくなっても雑事がおろそかにならない習慣をなんとか確立したい。

2012年8月14日火曜日

高岡英夫先生講座「徹底手首プラプラ全脳開発」に参加

本日は運動科学総合研究所の講座「2012年版New徹底手首プラプラ全脳開発」(高岡英夫先生)に参加。

「手首プラプラ体操」だけでみっちり3時間。

この体操の運動構造からのアプローチと手~手首の生理学的構造からのアプローチの大きく二本立てで手~手首が見事プラプラにゆるんだ。

最後は身体意識的にけっこう驚愕の世界を実体験。

特に、次の2つについて、自分の体を通して実感として理解できたのは大きかった。かなり応用がきく話。

1.体幹と末端が運動的に「つながる」ということの意味

2.「気持ちよさ」と「組織分化」の関係

特に「1」は、佐々木が記事を書く時にいつも苦労している「話のつながり」をなめらかにする上でも役立つ話だと感じた。

かなり感覚的な次元でだが。

2012年8月13日月曜日

高岡英夫先生講座「脳疲労解消力アップⅠ」に参加

本日は運動科学総合研究所の講座「脳疲労解消力アップⅠ」(高岡英夫先生)に参加。

今回2回目なので習ったメソッド自体はどれも既知だがより具体的で深い内容が学べた。

冒頭での高岡先生のお話で物事が思い通りにいかないとき自分を責める必要がない理由を学べたのがもしかすると最大の収穫かも。

お話をうかがいながらけっこうジーンときた。

2012年8月12日日曜日

防犯パトロール

今日は自治会の防犯パトロール当番。

同じ班に属する近所の主婦の方々3名と、「防犯パトロール隊」のタスキをかけ、夕方4時から20分ほど、自治会区域内の東半分を練り歩いた。

春に行われた自治会の総会の時も、先月の夏祭りの時も、ちょうど出張で顔を出せなかったので、自治会の行事らしい行事に顔を出したのは、3月に引っ越してきて以来初めて。

西半分の担当班からはお子さんたちも含めて10人以上参加していたが、東半分の担当班からの参加は我々4名のみ。

「佐々木さんが参加してくれなかったら私たち3人だけだった」と主婦のみなさんから感謝されてしまった。

佐々木はハンドマイク係を拝命。

拍子木係の方が鳴らすカチ、カチという音に続いて、「こちらは防犯パトロール隊です」「現在、空き巣などの被害が多発しています」といった防犯メッセージを、ハンドマイクで読み上げた。

「明るい地域社会をつくりましょう」「みんなが仲良く暮らせる町にしましょう」といった、防犯とは関係のなさそうなメッセージも多く含まれていて、なんとなく焦点がぼけているような気がしつつも、これはまぁ街頭募金とかと同じで呼びかけ側への教育効果が期待されているメッセージなのだろう。

最後に自治会集会所でペットボトルのお茶をもらって解散。

別に参加を強制されるでもなく、30分程度の練り歩きでご近所や地域とのつながりを深めるきっかけが持てるのだから、いいイベントだと思った。

2012年8月11日土曜日

Vゾーン

今日はVゾーン体操で妙にVゾーンの面がスパッと切れる感覚がありその感覚を大切にしつつ股関節周りを中心に腰や脚がゆるむように心掛けながら武術の稽古にも取り組んだ。Vゾーンを切り口に腰とか脚ってまだいろいろ開発の余地があるんだなとか思いながら。

2012年8月10日金曜日

応援・祝福

佐々木が自分が好きではないことをできるだけ言ったり書いたりしないように心がけているのは自分が好きではないことを好んでいる人々の気持ちを害したくないということもあるがそれだけではなく佐々木が好きではないことがむしろたくさんの人々の幸福に資していて客観的に見ればそのことを好まない佐々木の方がおかしいと思えることのほうが多いからだがそうした佐々木自身は好きではないのだがむしろ客観的にはたくさんの人々の幸福に資していると思われることの一つにスポーツの競技会や技芸のコンテストへの参加者に対する応援だとかこれらの勝者に対する祝福がある。佐々木の感覚ではこうした応援や祝福という行為は自分で努力せず他人の努力の成果で達成感を得ようするただ乗り願望の発露なのだがこれはどう考えても佐々木の感覚がおかしい。応援したり祝福したりする側がいくら達成感を得たところで実際に努力して結果を得た側の達成感が増えることこそあれ減ることはないのだから。ただ自分自身はそういう形では達成感を得ようとしたくないと思ってしまうところが妙なこだわりというか。

2012年8月9日木曜日

薄情

看護とか介護とかリハビリテーションとかに熱心に携わっている人にたまに接すると彼ら彼女らの情の篤さに感じ入ると同時に自分の薄情さがいやがおうにもかえりみられる。ああいう情の篤い人たちがいてくれるから自分のような情の薄い人間がいても世の中なんとかなるんだなとか自分は自分の薄の情さができるだけ問題にならない領域で貢献させてもらうほかないなとか思う。

2012年8月8日水曜日

クソ以下

セルフイメージというか自分を表現するのにぴったりと自分で思える言葉は独立してろくに仕事が来なかった頃は「馬鹿」でこなせないほどの仕事が来はじめた頃は「無能」でクライアントから安定して仕事を評価してもらえるようになってきた今現在は「クソ以下」。どんどんひどくなっていく。自分が持っているあらゆる能力の中で自分の欠点を見つける能力の伸びが最も速いということなのかも。このままいくと自分のセルフイメージは死ぬ瞬間が最も低いということにもなりかねない。ただ仕事が完成して納品を終えた後の1時間~数時間ほどに限っては例外的にセルフイメージのひどさがかなり控えめになる。納品物に対する「まーいいんじゃなの?これぐらいできれば」という感情が納品物を完成させた自分自身にも延長される。今日は夕方納品したのでまだセルフイメージのひどさが控えめ。

2012年8月7日火曜日

東大卒運

東京大学出身者一般の悪口を目にしたり耳にしたりするたびに「東大卒運の悪い人だなぁ」と思う。

佐々木はこれまで自分より仕事ができなさそうな東京大学出身者とか自分より人格的に劣ってそうな東京大学出身者なんて見たことがない。

東京大学出身者の悪口を好んで言ったり書いたりしたりする人は世間的な評価の高い職業についていることが多い気がする。

世間的な評価の高い職業についている人々の集団の中では一般に東京大学出身者以外の人々の方が東京大学出身者よりも仕事力も人格も優れているという傾向でもあるのだろうか。

あるいは世間的な評価の高い職業についている人全般が持っている長所とその裏返しとしての短所の両方を世間的な評価の高い職業についている東京大学出身者が特にわかりやすく体現しているせいで世間的な評価の高い職業についている東京大学出身者以外の人々が潜在的に気にしている自分自身の短所を強調して見せられる形になるとか。

自分は東大卒運がいいとか喜んでいたが単に社会のメインストリームに接する機会がないというだけのことなのかも。

2012年8月6日月曜日

北海道出張

昨日今日とお客様インタビュー記事制作の仕事で北海道士幌町へ。

飛行機出張の時はクライアントが航空券を用意してくれてクライアントと一緒に搭乗する場合と自分で航空券を用意して一人で搭乗し到着先の空港でクライアントと落ち合う場合があるが今回は後者。

行きの飛行機の中でなぜか「俺ほんとにこの仕事依頼されたのかな? 依頼されたと勝手に思い込んでいただけで明日待ち合わせ場所に行っても誰も来ないなんてことないかな?」という不安がわいてきてしばらく心から離れなかった。

佐々木ごときの仕事に果たしてクライアント側の付き添いの担当者の方の分まで含む飛行機代や宿代や車代に値するだけの価値があるのかいまだに確信が持てないということもあるが特に今回は打ち合わせの段階でやたらと簡単な案件に見えてしまったのでこんな簡単な仕事のために北海道まで行かせてもらっていいのかと申し訳なく思う気持ちもあったかも。

実際に待ち合わせ場所に行ったらクライアントは来たし現地で取材したらやっぱり今回は今回で難しい仕事だったけど。



行きの飛行機はポケモンジャンボ。羽田空港にて。


新千歳空港に着いたら雨。


今日は新千歳空港からクライアントの札幌支店の方が運転する車でクライアントの東京本社の方2人と士幌町の取材先へ。所要3時間強。


パーキングエリアで休憩。


取材終了後の空にかかった虹。


帯広の気温は午後5時過ぎで20度。帯広駅でクライアントと別れJRで新千歳空港、新千歳空港から飛行機で羽田空港に戻り帰宅。

2012年8月5日日曜日

思想が変わらない人々

若いうちは正しいと思いがちだけど世の中の仕組みが見えてくるにつれて正しいとは思えなくなってきがちな命題とか思想っていろいろあると思うけどそういう命題とか思想をけっこうな年になってもどうやら本気で主張している方というのはけっこういらっしゃってそういう命題とか思想に基づく法律まで成立してしまうほどのようで驚かされたりするのだがああいう人々から見るとそういう命題とか思想に反対する人々っていうのはもう全員が全員正義感とか他人への思いやりとか愛情が欠落していて他人を苦しめ蹴落としてでも自分の持ち金を増やしたい強欲のかたまりのような人々ばかりだと思っているのだろうか。だとしたらあまりにも人間観察が大雑把すぎる。

2012年8月4日土曜日

50代

自分が40歳になる直前の1~2年間というのは自分でも不思議なくらい周囲の50歳以上の人々のあり方の良し悪しに目がとまる1~2年間だった。自分がこれから過ごす40代の10年間をさらにその先の50代以降の基礎づくりの10年間とみなす意識が自分のあるべき50代以降をデザインする上での材料として現に存在する50代以降の人々に目を向けさせたのだろう。40代目前の佐々木の目に写った60代以降は大多数と例外という言葉を使うならもはや目を向ける気さえ起こさせない大多数の中に精神的にも肉体的にも目を見張らされるほど輝きを放つ例外を少なからぬ数存在させ全体としてはおおいに希望を感じさせる年齢集団だった。これに対して40代目前の佐々木の目に写った50代は多くの例外を含みながらなお「50代の悲劇」という言葉が自然と頭に浮かばざるを得ないほど負の印象に満ち満ちた年齢集団だった。特に佐々木に悲劇的に感じられたのは多くの50代の人々が示す「訓育欲の爆発」とでも表現したくなるほどの他人への訓育の与えたがりぶりと彼ら彼女らが与える訓育の無意味・無価値・無内容ぶりのギャップ。自分が50代になった時は他人に意味・価値・内容のある訓育を与えるのは難しいにしてもせめて亢進する訓育欲を適正に抑制ぐらいにはなりたいいものだと思ったり。もっともさすがに年代別人間研究にも飽きたのか最近は個人が示す特性を年代に結びつける意識もだいぶ薄れたが。

2012年8月3日金曜日

よくならない頭

自分の脳を構成する細胞のすべてが限界近くまで働かないと達成できないんじゃないかと主観的には感じられる難しい仕事を毎日繰り返しているつもりなのだがその割には頭ってよくならないなァと自分で自分に慨嘆することしきりである。たとえば筋肉だったら毎日こんなに限界近くまで使ったら目に見えて機能が向上してくと思うのだが。

2012年8月2日木曜日

イワシ料理がうまくできると幸福度が高い

脂がたっぷり乗ったイワシを1尾58円とかで買ってきてうまく料理できた時はやたらと幸福度が高い。

これだけ安い材料費でこれだけうまい料理ができて骨まで食えて体にもいいということで頭も喜び舌も喜び心も喜び体も喜ぶという幸福輻輳状態。

2012年8月1日水曜日

他人の立場

自分のことは自分自身が一番よくわかってなくて他人のほうがよほど自分のことをよくわかってるというのが真理だとすると相手の立場に立つためには相手自身のことを誰よりもわかっていない状態にならなければならないというのも真理だということになって相手のことをよくわかっていなければ相手の立場に立つことはできないはずなのに相手のことをわかっている状態はけっして相手の立場に立った状態ではないというこの矛盾をいったいどうすればいいのだということになるが実際に相手の立場に立つということが自然にできている人はそんなことをわざわざ自覚しなくても相手に関する情報を相手の外からめいっぱい集めると同時に外から見た相手の姿が見えない状態に自分の認識を同一化するという離れ業をやってのけているものなのだと思う。
 
QLOOKアクセス解析