2012年7月31日火曜日

笑わせすぎ?

佐々木以外の制作者が作ったお客様インタビュー記事を見ると佐々木が作ったお客様インタビュー記事ほどトップ写真の人物が笑っていないことが多い。

佐々木の感覚では登場人物は笑ってないと寂しいと感じるのだが、少なくともビジネスの場にふさわしい表情かどうかとか普通の会社員に期待される役割にふさわしい表情かと問うた時にやっぱり佐々木が作った記事の写真の人物はもしかするとちょっと笑いすぎなのかも。

人によっては嫌な感じを受ける場合もあるのかも。

人物が気持ちよく笑ってるよさというのもあると思うので判断が難しいところ。

2012年7月30日月曜日

クワント?

自分の部屋の本棚をなんとなく眺めて、なぜか『ザ・プロフィット』(エイドリアン・スライウォツキー著、中川治子訳)の背表紙が目にとまった。

邦題の下には、"The Art of Profitability"の原題が。

邦題『ザ・プロフィット』は、日本でもベストセラーになった『ザ・ゴール』(エリヤフ・ゴールドラット著、三本木亮訳)のシリーズ買いを誘う目的で付けられたのだろうが、なるほど原題"The Art of Profitability"の方が、この本の内容を表現しつくしている。

Profitability(収益力)のArt(術・技芸)。

Profitabilityが弱い組織や個人には、この本で詳説されているArtが欠けているということだ。

まさに自分のこと。

Artであるからには、Martial Arts(武術)と同じように、学んで身につけることも不可能ではないはず。

もう一度読み返さないとな‥‥と思ったところで、この本の主人公の師匠の口癖の一つが「クワント?(どれぐらい?)」だったことを思い出した。

儲ける力が弱い人間には、数値化の習慣が決定的に欠けている。

そして今の世の中の大半は、数値化の習慣が欠けた人間によって占められている。

数値化の習慣が欠落している個人に生じてくる様々な欠点だとか、そういう欠点をもった人間が大勢を占めていることで社会が向かっていきがちな方向について、整理して考えておいた方がよさそうだなと思った。

あと、数値化の習慣の欠落が本人の中で正当化されがちな理由についても。

2012年7月29日日曜日

窮屈2

会話をしていて窮屈さを感じる人というのは必ずしも受け答えの言葉や態度が固い人とは限らずむしろ受け答えの言葉や態度がざっばらんな人に窮屈さを感じたりする。

言葉や態度がきちんとしている人の方が自分の内面を広げることに熱心で言葉や態度がざっばらんな人な人の方が自分の内面を広げることにむしろ不熱心ということが多いせいもあるのかも。

会話というのは相手の精神の中に入り込むことでもあるからやっぱり自分の内面を広げることに不熱心な人と会話する時のほうが自分の内面を広げることに熱心な人と会話する時よりも窮屈さを感じがちだと思う。

2012年7月28日土曜日

窮屈

人と会話していてとてつもない窮屈さを感じることがかなりの頻度である。

全高170センチのこの体を170ミリ四方の箱に押し込められようとでもしているかのような窮屈感。

無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理ィー!

と全身の細胞が絶叫しかねない感じ。

あの窮屈感の原因は相手のあり方にあるのかそれともこちらのあり方にあるのかそれともその両方なのか。

こちらのあり方の工夫次第であの窮屈感を他人に与えずに済むならそうしたい。

2012年7月27日金曜日

どうせ与えられた命

たとえばの話だが治る見込みのない病気で余命1年だった患者が一人の天才医師の手術によって病から回復した5年後に同じ医師の医療ミスによって亡くなった時にそもそもこの患者の命自体がこの医師による5年前の手術がなければ存在していなかったことを知らずにこの医師の医療ミスを責めていた者があとでこの医師による5年前の手術について知った時に覚える感情が「恥」に近い確率が高いことを考えるとこれもたとえばの話ある会社の落ち度で発生した事故で寿命が20年縮まった人間が10人10年縮まった人間が20人5年縮まった人間が30人3年縮まった人間が50人1年縮まった人間が100人というレベルでいた時にそもそもその会社のそれまでの努力で寿命が3年伸びた人間が累計で1000億人5年伸びた人間が500億人10年伸びた人間が100億人20年伸びた人間が50億人というレベルで存在してその会社の落ち度で起きた事故で寿命を縮めた人々の命もそもそもその会社の努力がなければ大半は存在していなかったという事実があったとしてその事実を知らずにその会社の落ち度を責めていた人間が後でその事実を知った時に覚える感情も「恥」である確率が高くてそうするとたしかに人の命を奪うミスというのは存在するにしてもそのミスを責めるにあたってはそのミスを犯した人間や人間集団がそれまで救ってきた命にも目を向けておいたほうが後で恥ずかしい思いをせずに済む可能性が高いのではないかみたいなことを去年あたりからよく思っている。

2012年7月26日木曜日

永遠の過去

世界の創造者すなわち神の存在を否定することは唯物論の最大の特徴の一つである。

神の存在を否定するメリットと言ったらおかしいかもしれないがあえてメリットという言葉を使うならその最たるものの一つは現象の構造の究明における精度や深度が桁違いに向上することだろう。

「神のみわざ」だの「悪魔のしわざ」だのという説明を排除すればするほど現象を客観的現実に即して説明せざるを得なくなるという至極あたりまえの話である。

むしろこの点については神の存在を全否定しない人々の中にも同意する人々が多いのではないか。

それでも神の存在を擁護する人々が唯物論の受け入れを拒否する理由はおそらく客観世界の究明以外に関わるところに存するのではないかと推測する。

客観世界の究明以外に関わるところとは要は主体の魂に関わる問題であり宗教家的表現を用いるなら霊的な問題である。

つまり唯物論を信奉し神の存在を否定することが主体の魂を堕落させるのではないかという懸念が観念論支持者にはあるのではないかと思う。

原理主義的な唯物論者であれば観念論の方がよほど主体の魂を堕落させると主張するかもしれない。

佐々木自身の感覚では神の存在を否定したからといってただちに魂が堕落するとは思わないがかといって神の存在を否定してからといって魂が向上するとも思えない。

神の存在の否定は主体の魂にとってはほぼニュートラルであるように思われる。

主体の魂の向上という観点において唯物論で重要なのは神の存在の否定よりもむしろ「永遠の過去」という概念の承認である。

神の存在を否定することと「世界は永遠の過去から永遠の未来にわたり物質的に統一されて存在する」という命題を真として認めることはおそらく概念上ほぼイコールである。

しかし神の存在を頭の中で否定することと「永遠の過去」の像を頭の中で描ききることはまったくイコールではない。

というか「永遠の過去」の像などというものは原理上頭の中に描ききることなどでき得るものではない。

それでもなんとかおぼろげながらでも「永遠の過去」を仮想像ではなく自分の目の前の客観的現実と切れ目なくつながる現実像として自分の頭に描くことに成功した人間はあえて宗教的表現を用いるなら霊的にも一段レベルアップした存在になるのではないかと佐々木は思っている。

おそらくは目の色からして変わる。

なぜかと聞かれても実のところうまく説明できない。

たとえていうなら足が底に付くプールでしか泳げない人間と大海原を浮き具なしに泳げる人間の差ということになると思う。

「神による世界の創造」というのは世界の究明における「プールの底」である。

観念論者がこれを否定されることは足が底に付くプールでしか泳げない人間がいわば底無しのプールに投げ込まれるのに等しい。

溺れもがいてなんとか水面に自力で浮いていられるようになった時その存在が魂の次元からレベルアップしていることは想像に難くない。

というのと同じだろうという話。

2012年7月25日水曜日

打ち合わせ好き

インタビュー記事を作る仕事にしても、マニュアルを作る仕事にしても、制作に取りかかる前に必ずクライアントとの打ち合わせをするわけだが、この打ち合わせというのが佐々木はけっこう好きである。

単純な楽しさという点では、仕事のプロセス全体の中で一番かもしれない。

その一方で、組織の内部で行われるミーティングだの会議だの総会だのの類は、かなり嫌いである。

クライアントと行う打ち合わせと、組織の内部で行われるミーティングだの会議だの総会だのは、いったいどこが違うのか。

真面目に分析していくと、大勢の人の悪口になるような結論がでてきかねない気がするので、考えること自体やめることにする。

2012年7月24日火曜日

好意のあり方の個人的変遷

好意というのは異性に対するのと同性に対するのとではかなり性質が異なるものだがそれでも対象が異性か同性かに関わりなく好意一般に共通するあり方というのがあってそのあり方は自分の場合10代20代30代とかなり変わってきていて10代の頃は自分が好意を抱いた相手には自分を理解してほしいという欲求を持ったというかむしろ自分のことを理解してほしいという欲求を持った相手に好意を抱いたし20代の頃は自分が好意を抱いた相手のことを理解したいという欲求を持ったというかむしろ理解したいという欲求を持った相手に好意を抱いたし30代の頃は自分が好意を抱いた相手にはそもそも個人同士の相互理解は不可能という前提でなお相互の利益になるあり方を模索したいという欲求を持ったというかむしろ個人同士の相互理解は不可能という前提でなお相互の利益になるあり方を模索したいという欲求を持った相手に好意を抱いたという経緯を踏まえでは40代の自分が抱く好意のあり方とはどのようなものかと考えてみてもあまりにもサンプルが少なくて概括のしようがないわけだが10代20代30代とそれぞれの好意のあり方はそれまでの好意のあり方をいわば止揚する形で成立しているわけだから40代における好意のあり方というのもまたそのようなものになるのだろうと思う。

2012年7月23日月曜日

安心を与える

新美南吉の童話をいくつか読んで感じた、どこかいまひとつ好きになれない感じの正体は、「頭で作ってしまってしまってる感じがする」とか、「のびやかさに欠ける」とかだけでは、説明しきれた気がしない。

もう少しつきつめて考えると、新美自身が読者たる子供たちのことを思って書いているわりには、読者たる子供たちのためになってる感じがしない、という違和感が浮上してくる。

三浦つとむが言うところの〈主体的表現〉と〈客体的表現〉の統一は、童話作品全体にも、当然貫かれている。

つまり、童話を読む子供たちは、童話に描かれている作品世界を仮想体験するのと直接に、童話を語っている作者のあり方をも仮想体験する。

新美作品に描かれている世界が、読者たる子供たちのためを思って構築されていることは、よく伝わってくる。

実際、おおむね、読者たる子供たちのためになる作品世界だと思う。

ところが、語り手たる新美自身のあり方というのが、どうにも、読者たる子供たちのためになる感じがしないのである。

一言で言うと、「安心」を与えられないとでも言ったらいいか。

油断してるけど、安心してないのが、子供。

安心してるけど、油断してないのが、大人。

ごく大ざっぱに、大人と子供の違いを、そう表現することもできるはず。

だから安心というのは、大人が子供に与えられる重要な価値の一つだ。

で、言葉を通じて安心を与える方法は、直接「大丈夫だよ」と言ったり、安心材料を提供したり、という方法だけではない。

語る側が頭と心と体の奥底から安心しきって、安心しきっている自分自身のあり方を言葉に変えることができれば、直接的には安心材料でもなんでもないようなことを語っても、受け手に安心を与えることはできる。

極端な話、「心配だよね~」と言うことで相手を安心させることだってできる。

そういう、語り手自身の安心のあり方を受け手に仮想体験させるような形での安心が、新美作品には、ない。

新美自身が、世界に安心できてる感じがしない。

それは童話作家として、必ずしも悪いことでもないのかもしれないが、41歳の佐々木は、新美作品を読んで、もっと子供たちを安心させてやってほしいなぁ、と思わずにはいられない。

20年近く子供とろくに会話もしたこともない人間がこんなことを書くのも滑稽かもしれないが。

2012年7月22日日曜日

「disる」ってなんかいい日本語だな

人が誰かを批判する時って当然ながら批判対象よりも自分自身の方が賢明だと感じるからこそ対象を批判するわけだけども周りの人間から見ると批判者本人の自意識ほどには批判者が賢明に見えないことの方が多くてしかもそうやって批判者を冷やかに見下している観察者もまた誰かを批判する時はやっぱり批判対象よりも自分自身の方が賢明に感じながらその様子を別の観察者から冷やかに見下されていることが多いわけだがこうした批判者の賢明さにまつわる本人と周囲の認識ギャップを埋めるうえで最近「他人を批判する」という意味で使われるようになった「disる」という言葉が漂わせる知性感のなさはなかなか有効であるような気がするとか書いてる佐々木自身がけっこうそう書いてる瞬間は自分自身が賢明である気になっていたりする。

2012年7月21日土曜日

謝罪の天才

昨日は社員数800名弱ぐらいのある全国展開している法人向けサービス会社の顧客インタビュー記事制作の仕事で愛知県に行ってきたのだがそのクライアントの本社マーケティング部の方と中部支社長の方と担当営業の方と一緒に取材先の会社のそばまで来てインタビュー開始時刻まで20分ほど時間があったので近くでコーヒーを飲みながら雑談をしていた時に中部支社長の方がニコニコしながら「今日はこのあと別のお客さんのとこに謝りに行かなきゃいけないんだよ~」とおっしゃるのを聞いた瞬間「あーこの方に謝られたら誰だって何だってもう許そうっていう気になってしまうだろうなー」と実際に謝る様子を見たわけでもないのに思ってしまって「さすがにこれだけの規模の会社で支社長に任命されるような方は器がデカい!」と勝手に感心してしまった。改めて過去を振り返ってもあれだけ「謝られたら許してしまいそうな感じ」を漂わせる人って会った記憶がない。顧客に謝罪する機会の多そうな業種の会社だからそういう才能のある人が現場のトップになりやすいのかもと思ったりそういう会社で現場のトップを務めているとそういう才能が開発されやすいのかもとも思ったり。単に愛嬌があるというのとも違う。誠意を発散させてるというのとも違う。スカッと抜けてる感じというか。人の魅力のあり方ってほんといろいろ。まさかこんな魅力のあり方があるとは想像もしてなかったというような魅力のあり方を発見できた日は幸福度がかなり高い。

2012年7月20日金曜日

新美南吉の童話をいくつか読んだ

本日は日帰り出張で愛知県半田市へ。

なので行き帰りの新幹線で、半田市出身の童話作家、新美南吉の作品をいくつか読んでみた。

読んだのは「ごんぎつね」「和太郎さんと牛」「花のき村と盗人たち」「おぢいさんのランプ」他。

自分とは文体のリズムが合わないのか、読むのにちょっと苦労させられた。

一番有名らしい「ごんぎつね」はゴツゴツ引っ掛かりすぎて内容が頭に入ってこないし、「おぢいさんのランプ」は逆にスイスイ言葉が流れすぎて内容が頭に入ってこない、というのが一読目の印象。

うまいなぁと感心させられる部分がありつつも、好きになれない部分も同じぐらいある。

その好きになれない感じは、佐々木が自分を好きになれない感じと、けっこう似ている。

いろいろ頭で作ってしまってしまってる感じだとか、のびやかさに欠ける感じとか。

自分に似た人間とまではいかなくても、自分と似たところが多い人間だったのかもしれない。

共感できるのは、けっこう真面目なテーマを掲げながら、真面目に徹しきれず、妙に投げやりになってるところとか。

2012年7月19日木曜日

オーバースペック

仕事で文章を書く上での“すべからず”ルールというのが、自分の中でどんどん多く厳しくなってきて、ますます文章を書くのが遅くなってる気がする。

ここまで厳しくしてもしょうがないんじゃないかとも思うのだが、守らないと気持ち悪くて書き進められない。

しかも、自分が文章を書く上でこだわって守ってる部分について、クライアントから評価してもらった記憶がない。

2012年7月18日水曜日

人物写真のトリミング

他人がトリミング(切り抜き)したり文字乗せしたりした人物写真を見て、妙に息苦しい感じを覚える時がある。

特に、人物のみぞおちのところで切れていたり、みぞおちのところに文字が乗っていたりする写真を見た時。

佐々木が人物写真をトリミングしたり、人物写真への文字乗せをしたりする時は、こういう息苦しさをできるだけ避ける。

こういう息苦しさが、どれだけ他人に共有されるのか確認したことは、そう言えばまだない。

2012年7月17日火曜日

人間の一生

去年の1月、岡山出張のついでに立ち寄った倉敷で、町中を散策しているうちに行き着いた高台にある寺の門の脇の壁に、たしか「人間の一生」だったかそんな題がつけられた、レトロチックな図絵が掲げられていた。

両親からの誕生に始まり、幼児、少年少女、青年・成年と成長し、結婚して子供が生まれ、老人になって死を迎えるその流れが、古めかしい絵付きで描かれていた。

ちょうど、昔の子供向け図鑑に載っている、「セミの一生」とか「カエルの一生」とかの図絵のように。

まるで単なる一生物種(いちせいぶつしゅ)の生態解説のように。

一目みて、かなり感銘を受けた。

ものすごくあたりまえのことが、あたりまえに描かれているだけなのだが、どういうわけか「人間の一生」をこういう形で把握したことってなかったなと。

人間ってやたら個体差が大きいから、「人生」とか「一生」ってやたら抽象的な把握になったり、理想主義的な把握になったり逆に極端に悲観的な把握になったりしがちだ。

良くも悪くも現実から浮き上がるというか。

あのお寺の壁の図絵を見て育つのとそうでないのとでは、人生に対する覚悟とか生き方まで、違ってきてしまうのではないかとさえ思った。

2012年7月16日月曜日

福岡に行ってきた

昨日今日と福岡出張。

正午前に家を出て羽田空港14時25分発の飛行機に乗って福岡空港に16時頃着いて空港から地下鉄で天神の中心街に出てロケハンして地下鉄で博多駅に行って博多駅前のホテルに夜6時半頃チェックインしてホテルそばの水炊き専門店でクライアントの方々と夜9時ぐらいまで会食してホテルに帰って仕事して寝て翌朝5時間に起きてトレーニングして仕事してシャワー浴びて朝食後チェックアウトしてバスで天神の中心街に出て大丸横のアーケドー下でインタビュー場所を確保して取材先の方を待ちつつ仕事して大雨が降ってきてアーケドーの中まで吹き込んできたので午後1時過ぎに取材先の方が到着してすぐインタビュー中っぽい写真を撮らせていただいて実際のインタビューは大丸店内のカフェレストランでして西鉄福岡駅前で記事の冒頭用写真を撮って午後3時前に取材先の方とお別れして地下鉄で福岡空港に戻って写真データや音声データをパソコンに落としていろいろ仕事して夜6時福岡空港発の飛行機に乗って夜8時頃羽田空港に着いてそのまま家に帰って来た。

だからほんとに博多の中心部をただ線状に通ってきただけ。

なので博多の印象もへったくれもないわけだがあえて印象に残ったことを一つ挙げるなら今回は方言がまったく耳につかなかった。

福岡の中心部を移動してる限り耳に入ってくる言葉ほ東京とまったく変わらない。

学生時代に宮崎県都城市の自動車教習所の運転免許取得合宿に参加した時同部屋になった九州大学の学生が「‥‥だっち」とか「‥‥するっち」とか「‥‥まずいっち」とかいちいち語尾に「っち」を付けていたので福岡の人々はみんなあんなしゃべり方をするのかと思い込んでいたのだがあれは単に彼らの内輪での流行語に過ぎなかったのだろうか。

それと休日ということもあって人通りの多さ。

町並みの小ぎれいさ。

中心街を歩く限り福岡の町は「小ぎれいな東京」以外の何ものでもなかった。



“インタビュー中っぽい写真”を撮る佐々木


“福岡っぽい写真”を撮る佐々木


帰りの福岡空港にて

2012年7月15日日曜日

聞き上手

自慢話はできるだけしないように心がけているのだが今夜会食したクライアントの方にはけっこう気持ちよく自慢めいた話をさせていただいてしまいあとからあー聞き上手な方だなーと思った。聞き上手というのもやっぱりやり方じゃなくて人のあり方なんだなとも。

2012年7月14日土曜日

好印象文

広告文を書く仕事で読者によい印象を与える工夫をし続けているとプライベートで書くメールとかでもつい相手への印象をよくする工夫をし過ぎてしまって相手に実際の佐々木以上の佐々木像を持たせてしまってはいないかと心配になることがある。

2012年7月13日金曜日

「ゆる」の漢字表記

月刊「秘伝」の今月号で、高岡英夫先生が開発された“ゆる”が特集されている。

特集記事の中で高岡先生が、「ゆる」の漢字表記を公表されていた。

これまで「ゆる」の漢字表記を公表せずにいた理由と、今回公表に踏み切った理由を、高岡先生は次のようにお書きになっている。
《〔‥‥〕「ゆる」は普段、ひらがなで表記されて広まっていますが、漢字での表記も「ゆる」公表のはるか以前から考えられていて、漢字では「〔‥‥〕」と書くのです。〔‥‥〕これは、はじめて知ったという人も多いのではないでしょうか。
 私は若いときから、体系的な学問とそれを実践する行法の体系を作りたいという意思があったので、それに関する様々な考え方や概念や方法というものを、どのような順番で発表すべきかを慎重に検討を重ねてまいりました。というのもこの学問体系は、創りはじめてみた過程でじつに難解な内容を持った大組織を有することが分かった結果、一気にその全貌を開示するのは、容易なことでも適切なことでもないと悟ったからです。
 そうしたなかで、今年はこの「ゆる」の漢字表記である「〔‥‥〕」を公に発表するのに適した時期と判断したので、秘伝誌上で公開することに至ったわけです。というのも、ゆるの思想と方法、行法を、日本国内にとどまらず、広く海外にも知らせるべく、そのための書籍を、英語をはじめ各国の言語に翻訳して、世界各国に出版する事業が今年から本格的にスタートすることになったからです。
 その事業は、当然、中国などの漢字文化圏をも将来的な対象に含みますので、いよいよゆるの漢字表記についても広く公開すべきタイミングがきたと判断したのです。〔‥‥〕》
「ゆる」に漢字表記が存在すること自体、佐々木も初めて知った。

むしろ思いもよらなかった。

もし高岡先生が「『ゆる』に漢字表記は存在しません。『ゆる』の表記に漢字は適しません」とおっしゃっていたら、それはそうだろうと佐々木は深く納得していたはず。

それぐらい、「ゆる」に漢字表記が存在すること自体が意外だった。

初めて目にする「ゆる」の漢字表記も、かなり意外なものだった。

むしろ強烈な違和感を覚えた。

漢字二文字の並びを見て、自分の中に湧き起こった感情を、おそれながらありのままに文字にさせていただくなら、「ハァ?」である。

「ゆる」と読むこと自体に、一瞬躊躇するだけではない。

一文字目と二文字目の関係が、並列関係なのか修飾関係なのか、修飾関係とするなら副詞的修飾なのか形容詞的修飾なのか、判断がつかない。

なにより、二文字目の漢字が「ゆる」の概念を表現しきっているのか、確信が持てない。

違和感には、対象のあり方に起因することを確信させる違和感と、自分自身の認識のあり方に起因することを予感させる違和感の、2種類がある。

後者の違和感は、克服することで自分自身の認識が深化することを予感させる違和感とも言い換えられる。

漢字表記された「ゆる」に感じた違和感は、典型的に、かつ、かつてないほど明確に、後者に該当する違和感だった。

この漢字二文字が「ゆる」の概念を表現しきっていると確信できないのは、「ゆる」に対する自分の理解が浅すぎるからではないか。

言い換えれば、「ゆる」の概念に自分が理解しているよりもはるかに深い層が存在するからではないか。

そう自問しながら、あの漢字二文字の並びを数日にわたり吟味し続けた。

結果、どうやらそうらしいなと。

そう納得がいく同時に、高岡先生がご自身の学問体系について《一気にその全貌を開示するのは、容易なことでも適切なことでもない》と表現された理由についても、実感をもって納得がいった。

ゆるは深い。

2012年7月12日木曜日

『春日井建歌集』を買った

『春日井建歌集』(現代歌人文庫、国文社)を最近買った。

学生の頃に買った『啄木歌集』(岩波文庫)以外、歌集なんて、これまで買った記憶がない。

それぐらい、短歌に興味がない。

最近まで、春日井建という歌人の存在も知らなかった。

去年、ネット上での古典読書会で
《百人一首の中から最も“きた~~っ”もの一首とその理由》
という課題が出て、改めて小倉百人一首に一通り目を通したのだが“きた~~っ”ものが一首もなかったので、なぜかと考えて一つ思い当たったのが、「どの歌も下の句で異常にテンションが落ちる」ことだった。

下の句で異常にテンションが落ちる原因をさらに分析してみるに、「わざわざ言わんでもいいのに」という冗長感と、「はっきりせんかい」と叱り飛ばしたくなるような惰弱感の、二つに行き当たった。

特に、惰弱感を感じさせる背景として、「とにかくその場に違和感なく空気のように溶け込む存在でいたいという欲望」あるいは「他人にどう思われようが自分は自分という独立した個人としての気概の欠如」を、小倉百人一首のすべての歌の詠み手に、共通して感じた。

「自分が感じたこと」を「表現しよう」としているのではなく「みんなが感じるはずのこと」を「表現してあげよう」あるいは「表現させてもらおう」としている感じというか。

で、逆にこうした要素をまったく感じさせない歌人というのは存在しないのかと、「歌人」とか「現代短歌」とかをキーワードにネットで探していて見つかったのが、春日井建だった。

以来この人の歌集を買いたいと思いつつ他の本の後回し後回しになって、ようやく最近入手した次第。

ざっと目を通して強く印象に残ったのが、語感的な品のよさ。

「安っぽさ」を感じさせない。

語感的な「安っぽさ」を感じさせる要因ってけっこうたくさんあると思うけど、そういう要因を、巧みに回避しきってるなと。

内容的には、一読で共感を覚えるような歌はほとんどないと言っていいぐらい。

むしろそのほうがいい。

自分の感性を広げる手がかりになるから。

そしてやっぱり独立した個人としての気概をごく自然に充溢させている詠み手の表現姿勢が、とにっかく気持ちいい。

2012年7月11日水曜日

チャッ、プン、ウエッ

ゆる体操をやっていてたまに体の中のものすごく固まっていた部分の疲労物質が動き出して動き出した疲労物質の毒気に当てられるように吐き気が込み上げてくることがあるのだが最近は波チャップン体操をやっていて波が自分の胸郭の上を通り過ぎる瞬間にウエッと吐き気が込み上げてくる。ここらあたりもだいぶ疲労物質がたまってる。

2012年7月10日火曜日

宮島

せっかく出張で広島まで行くのだからと、取材前日の一昨日少し早めに家を出て、宮島まで足をのばしてきた。

宮島には高校の修学旅行で一度来ている。

しかし今回、フェリーに乗っても、宮島に上陸しても、厳島神社に参詣しても、23年前の修学旅行の時の記憶が、何一つよみがえってこなかった。

他の訪問地や移動時間の記憶は、あれこれよみがえってくるのに。

行きの新幹線でクラスメイトと4時間ぶっ通しで紙麻雀をやって一生ぶんの麻雀をやり尽くした気になって以後二度と麻雀をしなくなったこととか原爆資料館で脳裏に焼き付けるように資料を見て回ったこととか錦帯橋のアップダウンを自分の足で歩きながら純粋に交通路として見た時の不便さに笑い転げそうな可笑しみを覚えたこととか萩の町で幕末の志士が家の窓からのぞいてそうなというか自分自身も幕末の志士になったかのような興奮を覚えたこととか班内での衝突とか夜の宿での高校生らしいモヤモヤとかいちいち鮮明に思い出すのだが宮島についてだけは不思議なくらい何も思い出さなかった。

高校時代の佐々木に自分なりの発見をさせる要素が、宮島についてだけは、何一つなかったということなのだろう。

今回はさすがに佐々木も少しは成長して、それなりに発見のある宮島観光になった。

厳島神社の、あのあり方を発案した人や、その案に賛同して実現してしまった人々の、認識のあり方を想像して、そういう認識のあり方って、自分にすごく欠けてる要素だよなと思って、それが今回一番大きな発見だったかも。






2012年7月9日月曜日

素人写真

広島で塗装関係のお客様インタビューと建物撮影の仕事。

建物撮影の仕事は無料お試し。

ファインダーをのぞきながら構図を決めシャッターを切っている時はけっこううまく撮れてるつもりでいたし撮影後データをノートパソコンに落としてクライアントと取材先の方にざっと見ていただいた時もまぁまぁうまく撮れた気がしていたのだが取材終了後に自分が撮った写真をじっくりチェックしてるうちに素人くさいミスが次々目につきだしてかなり落ち込んだ。

きわめつけはインタビュー終了後に取材先の方のリクエストでおまけで撮った写真。

取材先の代表(30代はじめぐらいの男性)とその奥様(おそらくご主人とほぼ同い年)はクライアントも「あんなに仲のいい御夫婦はじめて見ました」と言っていたほどの仲良しで今日はたまたま奥様のお誕生日とかでせっかく“プロのカメラマン”(佐々木のことだ)が来てくれたのだから記念に外で御夫婦のツーショット写真を撮ってくれないかとお願いされそれはおめでたいとこちらも快く了解し過去100回以上のお客様インタビュー記事制作で鍛えた笑わせテクニックをここぞとばかりに駆使して晴天のもと最高の笑顔をカメラに収めたつもりでいたのだが後でチェックしたらどの写真も真夜中のように真っ暗。

直前にカメラの設定をいじった時に測光モードを普段使ってるマルチパターン測光から間違ってスポット測光にしてしまったためご夫妻が着ていた白衣に反射する日光に合わせた露出になり全体が大幅な露出アンダーになってしまったらしい。

晴天下だったので液晶ファインダーがよく見えず撮影直後に気づけなかった。

画像加工ソフトで露出補正をめいっぱいして浮かび上がる御夫婦の笑顔だけは最高だったのだが。

こういうのはほんと落ち込む。

インタビュー終了後は別の原稿を仕上げる作業に取りかかるつもりでいたのだが落ち込みすぎてとても次の仕事に取りかかる気になれず実のところミスの原因を調べる気にさえなれずただただガックリ来てこりゃ立ち直るのにどれぐらい時間がかかるかな3時間じゃとても無理そうだハァー何回ため息つけば回復できるかな100回じゃとても無理そうだとか思いながらトボトボ夕方の広島市内を2時間ぐらい歩き回ったらようやくミスの原因を調べてみようという気にもなりカメラの設定を確認して前述の原因とわかり二度とこんなミスをするまいと心に決めついでにメールもチェックして仕事上の問い合わせにバタバタ答えているうちに帰りの新幹線の時刻も近づいてきて広島駅に向け早足で歩き始めたころには落ち込んだ心もだいぶ回復した。

今回の仕事でO.K.がもらえたらカメラマンというのも自分の肩書に入れてやろうかとたくらんでいたのだが自分が撮った建物写真の素人ぶりを見せつけられてカメラマンを名乗ってやろうなどとという気持ちは雲散霧消した。

やっぱり素人が撮った写真とプロが撮った写真の違いは歴然。

どの世界もやっぱりプロはすごいと改めて思った。


広島城をバックに落ち込む佐々木

2012年7月8日日曜日

ナメ考

2年ぐらい前に工務店業界でちょっとしたカリスマになっている工務店社長さん(40代はじめ)が別の工務店のまだ若い跡継ぎの方(30歳少し前)の相談に乗ってあげてるところにたまたま居合わせたことがあってその時どんな文脈だったかは忘れたのだがそのカリスマ工務店社長さんがおっしゃった「僕らナメられてなんぼだもん」という言葉が耳から離れない。

どういう意味かと聞かれて無理に言語化しようと思えばたぶんできる。

しかし社長が「僕らナメられてなんぼ」という言葉で体現している境地を自分自身が少しでも体現できてるのかと自分に問えばまったく体現できてる気がしない。

そんな状態で言葉の上だけでする説明に意味があるとはとても思えず言語化する気にもならない。

「ナメられてなんぼ」という境地に達した人を前にして相手を「ナメる」なんてことができる人間がどれだけいるだろう。

むしろ「ナメられてなんぼ」という境地に達した人を前にした時にはあえて相手を「ナメる」ことの方が大事なのかもしれないとさえ思ったり。

もちろんここで言う「ナメる」というのは舌を使ってどうのこうのとかいう話ではなくハチマキして詰め襟を着て二本足で立った猫がするなと言っていたほうの「ナメる」である。

2012年7月7日土曜日

カメラマンの眼

撮影の仕事で望遠ズームレンズが必要になり今日初めて撮影機材専門のレンタルショップというところに行ってきた。

店内に入ると既に3人の先客がカウンターで店員さんの説明を受けていた。

なかなか繁盛してる様子。

本を読みながら自分の順番を待つ。

ふと目を上げると壁いっぱいに並ぶ機材ショーケースのバックの鏡越しに髪長めでカジュアルな服装をした30代半ばぐらいの男性の先客と目があった。

その方の目がえっらく澄んでいたので瞬間的に思ったのがやっぱりプロのカメラマンってこういうふうに目がきれいに澄むのかなということ。

取材現場ではいや~すみません私カメラは素人なので数撃ちゃ当たるでとにかくバシャバシャ枚数撮らせてもらってますんでほんとすみませんとかいいながら取材相手を何百枚も連写してようやく記事に使える写真数枚を確保しているなんちゃってカメラマンの佐々木でさえ撮影時にはいい背景やアングルを探して目を皿のようにしているわけだからカメラだけで食べてるプロであれば目皿化時間の長さも密度も佐々木なんかの百倍ぐらいには達しているだろうしそうすると自然と目だって澄んでくるのではないかと。

別にその方がプロカメラマンだという確証があったわけでもないのだが高さ2メートルを超える大きな三脚を借りてる様子だったし服装や髪形の雰囲気から勝手に断定。

ひょっとすると撮影機材専門のレンタルショップに撮影機材を借りに来る人は全員こんなふうに目が澄んでるんじゃなかろうかとさえ思って他二人の先客の方々の目も見るとお二人ともごく普通の目でがっかり。

その後店内にお客さんが入って来られるたびに目の澄み具合をチェックさせていただいたがみなさん普通でいちいちがっかり。

あれだけがっかりさせられたということはおそらくふだんから佐々木が他人の目の澄み方に物足りなさを感じ続けているということなのだろう。

2012年7月6日金曜日

要警戒案件

基本的に人さまやおのれ自身の生命・身体・財産を棄損しかねないほど深刻なトラブルとは無縁の仕事にばかりたずさわってきたわけだがそうした仕事にばかりたずさわってきたこと自体トラブル耐性のなさの現れであると同時にそうした仕事にばかりたずさわってきたがゆえにトラブル耐性が育たなかった面がある一方でそのトラブル耐性の弱さがトラブルの回避に真剣であらしめてきた面もあって仕事上ささやかな行き違いを経験するたびに再発防止に役立てるべく原因の分析と類型化に努めてきたその類型に当てはまる要素がやや多めの仕事が今月はあって今からちょっと警戒中。

2012年7月5日木曜日

最新型飲料自動販売機

JR東日本の駅にタッチパネル式の「次世代自動販売機」というのが増えている。

http://www.acure-fun.net/innovation/

今日南武線の駅のホームでこの次世代自動販売機の横に立って電車を待っていたら70代ぐらいの女性から「オロナミンCを買いたいんですけどどうすればいいでしょう」と声を掛けられたのは別に佐々木がこの手の最新機械を苦もなく使いこなすインテリジェンスと見知らぬ老人にも自販機の使い方を教える親切心を兼ね備えたナイスガイに見えたからではなく単に数分前にこの自販機の前でさんざんまごついた挙句にようやくペットボトル入りのお茶を買うことに成功した様子を見られていたからだろう。

実際佐々木も今日はじめてあの自販機を使ってみて最初わっけがわからなかった。

PASMOをタッチしたら飲料の画像が消え「Welcome!」とかなんとか表示された白い画面がしばらく表示されてイラつかされたり買おうと思った飲料の画像を何度タッチしても反応がないのでよくよく見ると「冷却中」と表示されていて今は買えないことになってるらしいとわかったり。

客を待たせてまで「Welcome」画面を見せるなんて技術者の自己満足以外の何ものでもないのではないか。

まさに技術のための技術。

冷却中で買えないならその飲料の画像自体を消してもらった方がよっぽどいい。

そういうことができるためのタッチパネルだと思うのだが。

自販機の前でまごついていた70代女性が買おうとしていたオロナミンCもまさに「冷却中」だったのでそう表示されてるのは買えないみたいですと教えてさしあげた。

短い時間に2人連続してまごつかせる自販機。

おそらく設置されて以来相当な人数の人々をまごつかせているはず。

あれだけ何台も設置する前に客の反応とか見てないんだろうか。

もしかするとこういう反応をしてしまうこと自体老化現象なのかもしれないけど。

2012年7月4日水曜日

あるべき家の観念

住宅関係の広告記事を書くために美しくデザインされた住宅の美しいパンフレットを資料調査目線でわりと無感情にパラパラと眺めていたらキッチン・バス・洗面台の写真に添えられた「女性目線で選んだ最新水まわりシステム」というコピーに目が止まり続いて自分のみぞおちまわりが軽い金縛りにでもあったようにギュッと締めつけられる感覚を覚え心拍数まで上がり始めてこれはきっと何かの恐怖症性不安障害なのだろうと思い自己分析を試みるにおそらくちょうど国家主義者の国家はこうあらねばならないという観念とその実現への実践が国家の存続にさえ不可欠である反面しばしば国家を構成する個人の感情や時には存在さえも圧殺することがあるように少なからぬ女性が抱く家はこうあらねばならないという観念とその実現への実践が家族一族民族さらには種の存続に不可欠である反面しばしば家族を公正する個人の感情や時には存在さえも圧殺することがあってこの個人の感情や存在を圧殺する理想の家観念に対する恐怖を自分は抑圧しているのだろうなと思った。

2012年7月3日火曜日

プロの批評

批評の仕方には、「低い」批評の仕方と「高い」批評の仕方があると思っている。

これは、批評それ自体のレベルが低いとか高いとかいう話ではない。

あくまで「批評の仕方」に着目しての話である。

批評することは、いわば対象を“乗り越える”ことだ。

「低い」批評の仕方とは、対象の劣った部分に焦点を合せ、対象が劣っているゆえんを解き明かすことで対象を“乗り越える”批評の仕方である。

これに対し、「高い」批評の仕方とは、対象の優れた部分に焦点を合せ、対象が優れているゆえんを解き明かした上で、さらにその“優れ方”自体が持つ限界を解き明かすことで対象を“乗り越える”批評の仕方である。

佐々木が好きなある作家を、ある有名評論家が、きわめて「低い」批評の仕方で繰り返し批評(というよりむしろ罵倒)しているのを目にする機会があり、佐々木はこの評論家を、その批評の仕方の低さゆえに軽蔑しかけたことがあった。

だがすぐに思い直した。

「低い」批評の仕方と「高い」批評の仕方を、読者のニーズの観点から捉え直してみたのである。

読者のニーズの観点から捉えるなら、「低い」仕方での批評が応えるのは、対象が劣っているゆえんを知ることで対象を“乗り越えたい”というニーズである。

自分自身のあり方を維持したままで、「自分より劣った人間がいる」という優越感や安心感を得たいというニーズとも言えるかもしれない。

これに対し、「高い」仕方での批評が応えるのは、対象が優れているゆえんを知ることで対象を“乗り越えたい”というニーズである。

自分自身のあり方を否定し、自分自身をより優れた存在にしたいというニーズとも言えるかもしれない。

前者と後者、どちらのニーズがより大きいかと言えば、圧倒的に前者のニーズなのではないか。

自分自身を満足させるために活動するのは、アマチュアである。

顧客を満足させるために活動するのが、プロである。

これは批評も同じだろう。

より大きなニーズに応える批評を提供するのは、プロの批評家として当然のことである。

そう考えると、佐々木が好きな作家を繰り返し罵倒していた有名評論家に対する軽蔑も、だいぶ薄れた。

2012年7月2日月曜日

『新 ・頭脳の科学 ―アタマとココロの謎を解く』(瀬江千史 ・菅野幸子 著)は史上最高に残念な本である

『新 ・頭脳の科学 ―アタマとココロの謎を解く』(瀬江千史 ・菅野幸子 著)を先日ようやく読み終えた。

人間の認識(=「アタマとココロ」)に関わる問題の全体像を、体系的に論じ切った書として、おそらく史上最高レベルの書ではないかと思った。

またそれだけに、本書が射程とする諸問題を本来その土台として組み込んでいなければならないはずのあらゆる学問分野、すなわち人間にかかわるあらゆる学問分野で、現在学会の主流を構成する研究者達は、今後何十年にわたり、著者たちのこの業績を無視し続け、著者たちが完膚無きまでに批判しきっている誤謬を繰り返し続けるのだろうなとも思った。

体系的理論に対する扱いって常にそんなもんだろうと。

本書で一つ、きわめて残念なことは、著者たちが本書本編冒頭第一編第一章の十数ページを、著者たちが依拠する認識学の確立者たる南郷継正先生の業績への賛辞に費やしていることである。

この冒頭での賛辞のせいで、本書の価値がいったいどれほど損なわれてしまったことかと思う。

著者たちの業績の土台に南郷先生の業績があることを知るものにとって、この賛辞は、説かれるまでもなくわかりきったことである。

知らないものにとっては、説かれても意味不明、もしくは、熱を帯びて説かれれば説かれるほどドン引きするほかない阿諛追従でしかない。

第一編第一章の内容は、もしどうしても説きたいというのなら、この十分の一の量に圧縮して、本書のあとがきにでも押し込めるべき内容だった。

南郷先生の業績を知らぬ読者が本書を読んだとして、本書の内容に感服したうえで、著者たちの培った実力の源泉は? と問うた時、はじめて南郷先生の存在が知られれば、それでよいではないか。

認識論への道の困難さを説く仕事は、南郷先生ご自身が『武道と認識論の理論』で果たされているというのに、何をいまさら著者たちがここで繰り返す必要があるのだろう。

もし南郷先生の名著『武道とは何か』の冒頭が、南郷先生が師事した三浦つとむや滝村龍一への賛辞にあてられていたら、あの書の価値がどれほど減じられていたことか。

それと同じことを著者たちはやってしまっている。

まったくブザマとしか言いようがない。

これは著者たちの責任ではない。

編集者の責任である。

書き手が書きたいままに書かせてよいなら編集者はいらない。

2012年7月1日日曜日

WHAT YOU ASK IS WHAT YOU ARE

されて嬉しい質問とされて嫌な質問があると昨日書きはしたがよく考えてみると佐々木が嬉しかったり嫌だったりするのは質問それ自体というよりも質問に現れているその人の生き方やあり方が嬉しかったり嫌だったりするのだと思う。佐々木が最もされて嬉しいと思われかつ一度もされたことのない質問というのは佐々木にとって最も尊敬に値する生き方やあり方をしている人ならこういう質問をするのではないかという想像に基づくものでそういう質問をされたいという欲望を抱えて満たされずにいるということは佐々木が現状よりももっと他人を尊敬したいと望んでいるということで尊敬というのは結局依存だから佐々木ももっと他人に依存したがってるということなのだろう。
 
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