2012年6月30日土曜日

されたい質問

この世の中で満たされ難い欲望の一つに自分への質問に対する欲望というのがあってこの欲望の満たされなさというのはさらに自分がされたい質問をついぞされないという形と自分がされたくない質問をやたらされるという形の二つの形をとるわけだが考えてみれば佐々木も自分が最もされて嬉しい質問は何だろうかと考えた時に思い浮かぶ質問を実際にされたことは一度もないしもしそんな質問をしてくれる人がいたら自分の命を捧げかねないほどの忠誠心を感じる気がする一方で自分が最もされて嫌な質問は何だろうかと考えると候補が浮かび過ぎて絞りきれないほどだし実際自分がされて本当に嫌な質問を平気でされるとそれだけで相手との関係を深める気が失せる上にそれならおまえは一体どんな質問をされるのが最も嬉しいのかと質問されるのもどんな質問をされるのが嫌なのかと質問されるのもどちらも嫌なのだからめんどくさい人間だ俺も。

2012年6月29日金曜日

「よろしかったら試着できますので」

15年ぐらい着続けた1着しかない仕事用スーツ、ついに尻のあたりに穴があいてきた。

そろそろ買い換え時だろう。

平日の日中、近所のデパートの紳士服売場に行ってみた。

客が一人もいない売場に、店員が3人も立ってる。

一人で店員3人に囲まれることを想像しただけで、立ち入る気をなくしかける。

なんとか自分を励まし壁際の商品に近づくと、ものの10秒も空けず、店員さん1人が近づいてきて「よろしかったら試着できますので」とおっしゃる。

どこに試着ができない紳士服店がある? そんなこともわかってない人間に見えるわけ? など感じるのはヒガミが過ぎるとは思うが、近づいてくるタイミングのあまりの早さもあいまってそんな嫌ーな気持ちになり、早々に退散した。

商品を見始めただけの初見の客に、どうしても声をかけるなら、「ご用がございましたらいつでもおっしゃってください」ぐらいでいいんじゃないの? とか思ったり。

自分と似た感覚の人が世の中にどれぐらいいるのかについては、はなはだ自信がない。

もしかすると、売場ではできだけ大勢の店員に迎えてほしいと思っている人のほうが多いのかも。

商品を見始めたらできるだけ早く近づいてきてほしいと思ってる人のほうが多いのかも。

「よろしかったら試着できますので」という声掛けを嬉しく感じる人のほうが多いのかも。

どこのデパートだって接客向上にたいへんな研究と努力をしてるのだろうから、現にデパートでああいう接客がされているということ自体が、ああいう接客を喜ぶ人が大勢いることの証明なのではないかという気がしなくもない。

もし佐々木と似たようなことを感じる人のほうが多いとしたら、わざわざ3人分の人件費をかけて、売上が上がるのを防止してるようなものだが。

2012年6月28日木曜日

場の空目

デパートの女性下着売場のところに「避妊器具」と書かれたボードが天井から吊り下げられていて思わず凝視すると「避難器具」の見間違いでなるほど書かれている単語を別の単語に見間違ういわゆる「空目」というのはその単語が表示されている場の影響も受けるのだなと気づきこういう現象を「場の空目」と概念化してはどうだろう何か他に類例はないだろうかとしばし学術的分析にふけることでアホな読み間違いをした自分のアホさ加減を自分に対して糊塗した。

2012年6月27日水曜日

無職

先日インタビューにうかがった住宅会社のCEOの方はもともとある公共団体に勤めておられたのが周囲の40代50代の男性職員を見回してこんな色気もセンスもない大人になるのは絶対嫌だなと思い当時つきあっていた女性と結婚するまでにその公共団体をやめようと決意し27歳の時にプロポーズする1週間前に退職届けを出して無職の状態で彼女にプロポーズして彼女のご両親に挨拶に行き公共団体を辞めたことを伝えへたしたらどつかれるかなと思ってたらその公共団体の組織の腐敗をよくご存じだったお義父さんはかえって喜ばれ「君の職業に娘を嫁にやるわけではないから」とおっしゃったのだとか。豪快なお義父さんである。こういう話に佐々木は弱い。インタビューしながらちょっと泣きそうになった。結婚後あちこちの会社の営業職募集の面接を受けいくつか内定ももらっていたところで奥さんが見つけてきた求人ビラを見て家から近いし将来独立しやすそうだと興味をひかれ今の住宅会社の面接に行って採用され3年でその会社のCEOになったとのこと。この方自身も豪快。

2012年6月26日火曜日

もう一つの局在論

ひさしぶりにゆっくり読書。

『新・頭脳の科学(下巻)』(瀬江千史・菅野幸子著)を途中まで読んだ。

現在の学界で定説となってるという「大脳局在論」(《人間の認知、判断、意志、さらに感覚、運動、言語などは、それぞれ大脳皮質の決められた場所の働きである、すなわち、大脳というのは、それぞれに決まった部分から成り立っている》とする説)に対する、著者達による論破の見事さに感じ入る。

読んでるうちに一つ疑問が湧いてきた。

著者達は「大脳局在論」に対し「全体論(単一論)」(《人間の頭脳の働きは、〔‥‥〕局在する部分の集まったものではなく、脳全体として一つの働きをしている》とする説)を唱え、《頭脳は総力をあげて、総合的な一つの像を形成している》と主張するわけだが、「総合的な一つの像の形成」は、果たして頭脳によってのみ担われているのだろうか。

すなわち、「総合的な一つの像の形成」が、頭脳によってのみ担われているのではなく、人間の身体全体によって担われているとは考えられないのだろうか。

もしそうなら、「総合的な一つの像の形成」が身体全体によって担われているという説こそ「全体論」という呼び名にふさわしく、「総合的な一つの像の形成」が頭脳によってしか担われてないという説こそ「頭脳局在論」だということにはならないか。

これまで読んだ限りでは、著者達は、このような「全体論」については一切言及していない。

まったく考慮に値しないほど荒唐無稽な説とも言えないと思うのだがどうなのだろう。

2012年6月25日月曜日

テクニック

人間同士の精神的肉体的交流におけるテクニックを語る人々がとても賢げに見える一方でやや薄っぺらに見えもする原因は何なのかと考えてみるにテクニックというのは広い意味での改善策の一つであるわけだが人間における改善策の対象にはいわゆるやり方とあり方の2種類があってあり方は一定のままでもやり方のみの改善によって結果を向上させることもできればやり方は一定のままでもあり方のみの改善によって結果を向上させることもできなおかつやり方のみの改善による結果の向上はあり方のレベルの成約を受けあり方のみの改善による結果の向上はやり方のレベルの成約を受けるという意味で両者の関係は相対的独立そのものであるわけでこのつながっていると同時につながってないという矛盾した関係においてやり方という側面のみをあり方という側面からより分けて独立に対象化しその改善策を提示したのがテクニックなわけだからこのより分けて独立に対象化するというあたりが賢げに見える根本原因のようだし本来二重の側面がある存在の一方だけを対象化し他方を考慮の外に置く認識姿勢が薄っぺらに見える根本原因のようだとか思った。

2012年6月24日日曜日

雑に反映するクセ

武術の稽古などで他人の動きをチェックするのが、佐々木は非常に苦手である。

正しくできてるかどうかチェックしてくれと言われて、一生懸命見るのだが、自分の目の前で相手がやってみせる身体運動が、果たして正しいのか正しくないのか、ほとんど判断がつかない。

その原因を佐々木はこれまで、自分自身がその動きを体現できてもいなければ体感的に把握できてもいないことにのみ帰していた。

自分自身できてもいなければわかってもいない動きを、相手が正しくできてるかどうかなど判断できるかと。

先日仲間と武術稽古をしていて、原因は別のところにもあると気づいた。

佐々木は目の前の身体運動を雑に適当に反映することが習慣化して無自覚なクセになってしまっていて、骨一個一個とかそういうレベルで目の前の身体運動を自分の脳に描くことが、そもそもできてなかったのである。

脳に反映した像が正しいかどうかを判断できるできない以前に。

目の前の身体運動を雑に反映することがクセになってしまっているからこそ、身体運動を自分の体で正しく把握することも体現することもできないわけだし、身体運動を自分の体で正しく把握することも体現することもできないからこそ、目の前の身体運動を雑に反映するクセがついてしまったわけだから、両者はコインの裏表のようなもので切り離せない。

とはいえ切り離せないことと区別できないことは別のこと。

区別して認識することができれば区別して対象化し取り組むことだってできるようになる。

しばらくは、自分の身体運動反映の無自覚な雑さ加減を対象化して改善を試みていくつもりである。

2012年6月23日土曜日

読みにくさが足りない

文章化してブログに公開しておきたいという思いと人に読んでほしくないという思いは原理的に両立し得ないと思うのだがなぜか両立してしまうことが多くてそういう時は読点も改行も入れず表現もやたら小難しくした文章にしてアップしてこれぐらい読みにくくしておけばわざわざ読んで理解しようという気にもなるまいと安心していたのだが先日iPhoneの画面で自分のブログを見る機会があってそしたらiPhoneのフォントとか画面サイズっていうのはやたらと文章が読みやすくできていて読点も改行もないまま何十行も続くような文章もiPhoneの画面だとけっこうスラスラ読めてしまってこれぐらい読みにくく書いてもまだ読みにくさが足りなかったかとちょっと焦った。

2012年6月22日金曜日

心の筋断裂

貨幣経済にほぼ完全依存しフリーランスとして働きながら独り暮らしを続けている限りまず必要にならない、したがって佐々木の日常生活ではほとんど体験しない心の動きのかなり強いのを、半ばバーチャルな形でとは言え急に追体験して心が軽く筋断裂ぎみ。

2012年6月21日木曜日

カメラマン仮デビュー

お客様インタビュー記事制作の仕事で取材先の法人さんから「取材を受ける代わりにプロのカメラマンを連れてきてうちのパンフレットに使う施設写真を撮影してほしい」という条件が出されて「取材に行くライター兼カメラマン(佐々木)は人物写真が専門だけど施設の写真も撮らせて使える写真が撮れたらそのまま採用し駄目だったらその時は改めて建物も撮れるプロカメラマンを手配する」という話になった。

佐々木が撮った施設写真でO.K.がもらえたら肩書に「カメラマン」も加えようかと思う。

2012年6月20日水曜日

気楽に

無茶苦茶お忙しい方に頼みごとをしたら無茶苦茶お忙しい中無茶苦茶一生懸命取り組んでくださってる様子だったので心配になって思わず「気楽にやってください」と言ってしまってすぐ後悔した。

これまで仕事の中でクライアントから言われて一番嫌~な気持ちになった言葉が「気楽にやったらいいんじゃないですか」だったことを思い出して。

2年ぐらい前に従業員180人ぐらいの新興のサービス業の会社からの仕事を請けて担当になったマーケティング部の20代後半ぐらいの男性社員の方と何度目かの打ち合わせをしたあと帰り際に進行中の案件について苦労してる点を伝えたら返ってきたのがこの言葉だった。

「あんたがやってるのはそこまで入れ込むほど大事な仕事じゃないから」とでも言われたような気分だった。

その後数週間も経たないうちにそのマーケティング部20代社員氏はその会社を退職。

佐々木と打ち合わせをしていた時にはもう仕事へのモチベーションが切れていたのだろう。

佐々木が言った「気楽にやってください」だって下手すれば同じニュアンスでとられかねない言葉だった。

2012年6月19日火曜日

党派的

ある公務員組合の機関紙を読ませてもらう機会があった。

組合員の直接的な福利に関わる記事はほんのおまけ。

広く紙面を割いて展開されていたのは国の様々な政策に関する不当性の啓蒙やら反対闘争の呼びかけやらだった。

ふだん自分が書いたり読んだりする文章とはあまりに違う印象。

いったい何が違うのかとしばし目を見開き読み込んでしまった。

あれこれと違いは見つかったが一つ大きいなと思ったのは様々な議論がある問題について一方的な主張を無署名でしていること。

無署名で主張することが許されるのはほぼ議論の余地がない真理や明らかな商業的宣伝ぐらいで議論がある問題について特定の立場から主張する時は発言主体を自ら明示しなければならないというのが佐々木の感覚だ。

発現主体を自ら明示して主張するということは現時点におけるその主張への無理解や不賛同を「普通」と見なしているということである。

発現主体を自ら明示せず主張するということは現時点におけるその主張への無理解や不賛同を「異常」と見なしているということである。

現実にその主張への無理解や不賛同が異常なことであるならばその主張の理解者や賛同者がことさら団体として結集する必要性はない。

その主張の理解者や賛同者がことさら団体として結集していること自体がその主張への無理解や不賛同が異常ではないことの証明である。

だから自らの主張を無署名で展開している団体は少なくともその主張の理解者や賛同者すなわち自分たち自身の「普通さ」の認識が現実と齟齬している。

「党派的」という言葉がある。

あまりよいイメージの言葉ではない。

おそらく「党派的」という言葉のイメージの悪さの本質はこのあたりにある。

2012年6月18日月曜日

日曜日日が暮れてから近所の県立公園に散歩に行くと暗がりの中水辺に100人以上の人だかりが。

何事かと思って近づいてみると沼の周囲を何十匹もの蛍が光の軌道を描いて飛んでいた。

見回すと林の中にもそこら中で蛍の光が現れては消える。

ざっと見積もって見渡す範囲だけで100匹ぐらいは蛍がいそう。

しかもかなり強めの光。

あれほど多くの蛍があれほど強い光を発しながら飛んでるのを見たのは生まれてはじめて

蛍があれだけ飛び回るまでに環境を整えた公務員の方々の努力に感服。

佐々木をイラッとさせる看板がいくつも立つ自然公園だったがそれも許そうという気になった。

今日もまた蛍目当てで夜の県立公園に行くと平日なので昨日より人は少なめ。

人より蛍のほうがずっと多い状況。

ほとんどの時間帯は視界の中で数匹がたまに光を放つぐらい。

だがたまに20匹前後が一斉に視界の中で光の軌道を描く時があってそういう時は思わず口があんぐりと開く。

光を放ち始めては止めるあのリズムを蛍自身はどういう意識で刻んでるのだろうかと思う。

ふ~んふ~んと鼻唄を歌う感じなのか。

うっひょ~と気持ちよさに歓声を上げる感じなのか。

うーーーーんと精一杯気張る感じなのか。

うりゃあ~と気合を入れる感じなのか。

イエーイと自己顕示欲を全開にさせる感じなのか。

帰って百科事典で調べると蛍の発光は性行動の一環とあった。

すると鼻唄や歓声はないか。

2012年6月17日日曜日

カマトト礼賛ドラマ

武術の師匠があるテレビドラマの主演女優の演技について評されていたのでYouTubeでそのドラマの映像を探してちょっと観てみた。

医学生の女の子を主人公にした最近のドラマ。

ヒロインのキャラクターのあまりのカマトトぶりに軽い悪寒を覚えて女優の演技を見るどころではなかった。

ああいうキャラクターに好感を持つらしい多くの人々と自分との間に勝手に深い断絶を感じて勝手にちょっと寂しくなった。

他人の中の欠落した部分を進んで補おうとする意志を持つことと欠落ゆえに他人を愛することとはまったく別のこと。

まして自分の中の欠落した部分ゆえに他人に愛されることを期待するのは堕落以外の何ものでもない。

そう思う程度に自尊心のある人間ならばカマトトと評される可能性のある態度など寸分たりとも取らないはず。

ネタでもなければ。

あーあ。

日本でももっとアイン・ランドの『肩をすくめるアトラス』が読まれればいいのに。

そうすればあんなカマトト礼賛ドラマを目の当たりにさせられる機会もちょっとは減るだろうに。

なんてことも思った。

2012年6月16日土曜日

足の裏が脳とつながってる感じ

人の魅力のあり方にはいろいろあるが足の裏が脳とつながってる感じがするという魅力のあり方があることを最近そのような魅力を体現している人と出会うことで知り自分もそのような人間になりたいと思った。

2012年6月15日金曜日

自分の分身に先立たれるということ

先日滋賀県に出張した折に帰りの新幹線を待つ間夕方の京都駅駅ビルの屋上に登って京都の町を見下ろしていたら自分が学生時代に介護ボランティアに参加していて今年2月に亡くなったKさんのことを思い出してこの町にはもうKさんがいないんだなと思ったら胸の中に大きな穴が開いたような喪失感を覚えてそれにしても大学卒業以来Kさんには一度も会いに行かなかったし正直会いたいと思うことさえなかったのにこの喪失感はなんなんだと考えたらやっぱり介護というのもマルクス主義で言うところの労働で労働は自分自身を対象に注ぎ込むことでその意味で労働の対象には自分自身の分身としての性格が浸透していくわけでだから何年もの間介護を続けた相手だって自分自身の分身としての性格を持っていてその人が亡くなったというのは自分自身の一部が亡くなったようなものなんだなとマルクス主義的な労働観の一面での正しさを改めて実感したりいわゆる「先立つ不孝」の実態とはこのようなものかと思ったり老人介護とか終末医療のようにいわば自分の分身が自分より先に世を去るのが通常であるような仕事にはその現実に折り合いをつける独特の苦労があるなと思ったりした。

2012年6月14日木曜日

末っ子ジェット

一昨日~昨日の熊本出張の行きに乗った飛行機は昨年秋に定期運用に投入されたばかりの最新型機。

モノをできるだけ使わずにアタマをたくさん使ったという感じのシンプルな内装に好感を持った。

嫌じゃない安っぽさというか。

気圧変動が抑えられていて上空での気圧が従来機は富士山の五合目レベルだったのが三合目レベルになってるとの触れ込みにはもしかすると飛行機から降りてすぐインタビューができるほど鼓膜や脳に負担がないかもと期待していたのだが飛行中の鼓膜への圧迫感はゼロではなくさすがに飛行機から降りてすぐインタビューは無理だなと思った。

ただ帰りは20年以上前に開発された飛行機に乗り上空で鼓膜がミシミシ言うほどの圧迫感を感じ行きに乗った最新型機の技術の素晴らしさを実感させられた。

あとこの最新型機は翼が後ろに向かってカーブした形になっていて機体を擬人的に見ると角度によっては胸を張っているように見える。

最新型機というのはいわば末っ子。

過度に胸を張る感じってなんか末っ子っぽいとか思ったり。

2012年6月13日水曜日

熊本へ

熊本県合志市で取材の仕事をしてきた。

前夜は阿蘇山のふもとの観光温泉ホテル泊。

今回は熊本ってどんなところなんだろうという漠然とした疑問が頭にあった。

移動中もほとんどパソコンのキーボードを叩いてるような状況でゆっくり人や景色を見る暇もなかったが早めの夕食の後青々と稲が育つ水田の広がりやら道端の家々の黒っぽい色使いが多いたたずまいやらを眺めながらホテルの周りを散歩しながら思ったのはこのあたりの人々は太くて強い根を張って生きてるんだなということ。

金沢で感じたような密度高く洗練された文化だとか名古屋で感じたようなはっちゃけた明るさとかは感じなかったしそういうのを豊かさと呼ぶなら熊本は貧しいなんていう言い方もできるのかもしれないけど実際のところ貧しさという言葉で表現されるような寂しさは熊本では感じなかった。

2012年6月12日火曜日

瞳の深度

相手の目を見る時、相手の目のどれぐらい奥に意識の焦点を合わせているかは、自分の状態によっても、自分と相手との関係によっても、相手の状態によっても、変化する。

自分の意識レベルが低下している時は、相手の目の奥まで意識を通せない。

気楽にくつろいでいたい時は、面倒くさくて相手の目の奥まで意識を通す気にならない。

相手に対して自分にやましいところがあれば、相手の目の奥を見据えられない。

相手に気の毒で、相手の目の奥に意識を向けられないこともある。

一つは、相手が自分の目の奥を見るのを避けている時。

もう一つは、相手の目の奥に存在しているもの、すなわち相手の魂のあり方が、直視するに忍びない時。

一時的に魂のあり方が病んでると感じる場合もあるし、直視に耐えない魂として完成してしまっていると感じる場合もある。

逆に相手の魂のあり方がこちらの想像以上に深ければ、相手の目の奥に合わせている意識の焦点自体が相手の奥に引き込まれる感覚がある。

さて、目の焦点がどの位置に合っているかということは、その時々の眼球の形状から、古典光学的に説明がつく問題である。

相手の魂をどの程度奥までを見据えているかによって、眼球の形状も、古典光学的に説明が付く変化をしているのかどうかに、興味がある。

2012年6月11日月曜日

対未成年連続無会話記録更新中

もしかすると佐々木は社会人になって以来プライベートで未成年と会話したことが一度もないかもしれない。

もちろん挨拶ぐらいならする。

しかし会話と呼べるほどの言葉のやりとりとなるとまったくした記憶がない。

20代の頃は大学受験予備校に勤務していたので生徒あるいはお客さんとしての高校生と会話する機会もあったがこれはもちろん仕事上の会話。

予備校を退職してからはその機会さえない。

親類づきあいはほんとに最小限しかしてこなかったし。

よっぽどの子供嫌い。

とか言うレベルですらない異常さだと自分でも思う。

2012年6月10日日曜日

言葉を生ませる力・言葉を生ませない力

言葉で表現したいのに表現する言葉がないというもどかしさは人に新しい言語表現を生ませる力になる。

一方でその同じ力が人に言葉を生ませない力としても働く。

すなわち言葉で表現したいのに表現する言葉がないこと自体そのことが言葉で表現されてはならないことの示唆であると解させ言葉による表現を自らに禁じさせる力として。

言語表現の不在によって言語表現の創造に駆り立てられた人々によって創造された言語表現は創造者本人だけでなく言語表現の不在によって沈黙に閉じ込められた人々をも救い得る。

言葉による表現を職業の一部にしている佐々木でさえ表現すべき言葉を持たず表現すべき言葉の創造を自らに禁じたままの個人的経験を多く抱えながらいつか同じ経験をした他者によって創造されたそれらの経験の言語表現に出会えることを期待していたりする。

2012年6月9日土曜日

姿

写真としてとらえられる一瞬のあり方にさえもその人が向き合っている対象のあり方や対象への向き合い方が写し出されるのだからそもそもその人の姿そのものにそれまでその人が向き合ってきた対象のあり方や対象への向き合い方が蓄積される形で写し出されているのだろうし今この瞬間にその人が何にどう向き合っているかもまた将来のその人の姿に写し出されていくのだろう。もちろん自分自身についても。

2012年6月8日金曜日

人物写真

仕事でインタビュー相手の写真を月に600枚~2,000枚ほど撮る。

被写体となった人物や撮影現場の生のありようをインタビュアーとしてまた撮影者として自分自身が直接的に知る人物写真をそれだけの枚数見続けて実感するのは人物写真には単にその瞬間のその人物のありようが写っているだけでなくその人物が向き合っている対象のありようや対象への向き合い方まで媒介的に写っているということ。

佐々木は自分自身の外見を好きではない。

つくづく不細工だと思う。

だが自分が相手と向き合った状態で撮らせてもらった人物写真にはけっこう自分でも気に入ってる写真が多い。

近ごろますます増えてきた。

もちろん仕事として広告向けの笑顔写真を撮る経験を重ねたことで撮影技術が向上してきた面もあるのだろうが被写体の人物のありように媒介的に写っている自分自身のありようを自分でも好きになれるようになってきたという面もあるのではないかと。

写真には写らない美しさがあると歌ったロックンローラーがいたけど写真に写る他人の姿にしか写らない自分のありようというのもあるんじゃないかみたいな。

2012年6月7日木曜日

約束

先日ひょんなことから思い出したのだが佐々木が学生時代にある地域の少年団の指導員をボランティアで引き受けて少年団の子供たちから総スカンをくらって数ヶ月後にグダグタのまま指導員を辞任した時に後任で指導員的な役割を引き受けてくれることになったその少年団のOGの高校生の子から「なぜ指導員を辞めるのかを最後に子供たちに説明してあげてほしい」と要求され「手紙で説明する」と約束したにもかかわらず約束を果たしていなかった。約束したことさえ忘れていた。指導員としての自分のダメぶりが改めて胸に迫った。大人としての自分のダメぶりが当時の子供たちにとって良き反面教師になったことを願うばかり。ある能力の欠落を自覚した時にその能力を身につける道とその能力が必要とされる立場を避ける道と2つの道があるが少年団の指導員に要求される一連の能力の欠如に関しては佐々木は完全に後者を選んだ。なのでいまだに欠落したままである。

2012年6月6日水曜日

人生初スイートルーム

中部地方への出張のため昨夜は名古屋市内のホテルに泊まったらなぜかスイートルームが割り当てられていてびっくり。

佐々木一人で泊まるには豪華すぎて笑ってしまった。


広い。テレビがでかい。


ほんと無駄に広い。


戦前に建てられたホテルで設備は古めかしかったけどそれはそれで味。


大理石壁のバスルーム‥‥。

2012年6月5日火曜日

課題と責任

「課題はその解決手段と同時に発生する」
というのは佐々木が学生時代にカール・マルクスから学んで座右の銘にしている金言だが、自分が40歳を過ぎたころから、この言葉が自分にとって持つ意味が大きく変わった。

以前はこの言葉が佐々木にもたらすのは希望だった。

およそ課題の存在するところ必ず解決手段はあるという希望。

今この言葉が佐々木にもたらすのは重い責任の意識である。

およそ課題の存在するところ必ず解決手段はあるのだから自分が解決手段を探して解決しなければならないという責任。

あるいは自分が解決する気がない課題を課題扱いしてはならないという責任。

なぜこの言葉が自分にとって持つ意味が希望から責任に変わったのか。

一般により大きな責任を負うことを求められる年齢になったということもある。

だがそれだけではない。

解決手段の発見と解決という自分自身の行動と切り離して課題だけを言い立てる人のあり方に「無責任さ」を強く感じる機会が、特に去年から急激に増えたことが大きい。

自分で解決する気のない問題を問題として言い立てる人がどれほどいようと、問題が解決されることもないだろうが、その代わりに問題が悪化することもないだろうと以前は思っていた。

考えが甘かったかもと思わされる出来事がそれこそ国民経済レベルで起き続けるのを目にして軽い恐怖を覚えている2012年である。

2012年6月4日月曜日

マイホームの悲しみ

最近住宅関係の仕事を何本か引き受けた関係で20代から30代の夫婦が建物1500万~1800万円程度の予算で建てる戸建注文住宅のモデルハウスの中をじっくり見せてもらう機会を得たのだが若い二人の幸福と希望を具現化するかのようデザインされた小さな住宅の美しさに感動すると同時にその感動によって抑えつけられつつも抑えつけられきらない悲しみが自分の心の底に湧いているのに気づかざるをえなかった。あの悲しみはなんなのだろう。多くの例外を含むごく大雑把な一般論としてという注釈付きなのだが男にとってのあたりまえが女にとっての悲しみであるようなことや女にとってのあたりまえが男にとっての悲しみであるようなことはたくさんあって前者と後者のどちらがより言語化されているかと言えば圧倒的に前者である。苦しみや悲しみは隠すべきものという我慢の美学は男のほうにより共有されているしそもそも自分の気持ちを対象化すること自体に羞恥を覚える男だって少なくないわけだし。もちろん言語化されることと伝わることは別問題だしむしろ前者の悲しみは女によって言語化されてるわりには男には伝わっておらず後者の悲しみは男によって言語化されてないわりには女には伝わってしまっているのかもしれないがやはり言語化されていない感情は言語化されている感情よりもその存在や構造を認識されにくい。もしかすると女にとってのあたりまえが男にとっての悲しみであるようなことはマイホームを持つことをめぐっても存在しているのではないか。それはその家に男の居場所が満足にないとか男にとっての居心地のよさが満足に実現されてないとかいう以前にマイホームを持つこと自体の悲しみと言うか。当然男にもマイホームを持つ喜びはありその喜びは些細な悲しみを圧倒しているうえにその家が女が喜ぶ家であることもまた男にとっての喜びであるだけにその悲しみは男の意識にも顕在化しないかもしれないけども。ましておそらくはオスとしての本能や性道徳や家族制度までからんでの悲しみとあってはますます潜在意識下に抑圧されざるをえまい。女がマイホームはこうあるべきでこうあらしめるのがすばらしいと何の疑問も持たず無邪気に追求した結果が男を潜在意識下で悲しませてしまっていることに女も男自身も気づいてないみたいな。もちろん結婚したこともなければ家を買ったこともない佐々木にはただ想像するしかない世界の話。

2012年6月3日日曜日

自分の体のあり得るあり方のイメージが向上

武術仲間達の体が今日は今までより格段にゆるんでいて驚いた。

彼らの体がゆるんでるのだから自分の体だってゆるんでるに違いないと考えるのはたぶん楽観的過ぎ。

ただ格段に体がゆるんだ仲間達と稽古することが自分にとって大きなプラスであるのは間違いない。

一つは仲間から受けられるサポートの質が格段に向上するという意味で。

もう一つは自分の体のあり得るあり方のイメージが格段に向上するという意味で。

2012年6月2日土曜日

うーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん

もしかすると仕事中の佐々木の頭の中に流れる頻度が最も高い言葉は「うーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん」かもしれない。

こりゃいったいどうしたもんかと。

これは職業人生における幸福の一つのあり方なのかも。

仕事において最も発揮することを要求される能力が創造性ということなのだから。

にしても本日の取材での「うーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん」は頭の中で流れるだけではおさまらず口から何度も出てしまうほどの「うーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん」だった。

同行してくださったクライアントの方も「難しい仕事ですねぇ」と同情してくださったほど。

いいんだけど。

やりがいはあるから。


本日の取材先の最寄り駅、近江鉄道水口駅前にて。レトロな駅舎。

2012年6月1日金曜日

思考の陥穽

えらく感覚的かつ具体性のない話だがはたから見て思考が落とし穴に嵌まってるように見える人が嵌まっている穴はもとから存在している穴というよりもむしろ当人が勝手に自分の周りに築き上げた土手であることが多くてしかも思考が落とし穴に嵌まっている人ほど自分の思考が落とし穴に嵌まっているとは思ってないように見える。同じところをぐるぐる回ってるだけの思考でも思考は思考であるだけに。自分自身の思考がそうなってないかときどき反省しなければと思う。
 
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