2012年4月30日月曜日

社会工学と超社会工学

京都大学の数学教師だった小針晛宏(1931-1971)が、どこかでこんなことを書いていた。

「1たす1は2である」は数学である。

「1たす1は足し算である」は超数学である。

その伝で言うと、「社会はどうすれば良くなるか」を考えるのが社会工学なら、「社会を良くする試みが常にろくでもない結果をもたらすのはなぜか」とか、「それでもやっぱり社会を良くする試みが必要なのはなぜか」を考えるのは「超社会工学」か、とふと思いついた。

カール・ポパーも読まなきゃ。

2012年4月29日日曜日

日本人の心

アイン・ランド原作の映画「摩天楼」(The Fountainhead、1949年)のDVD(日本語字幕付き)を観てたら、ラスト近くの法廷演説シーンに、次のような字幕が付いている箇所があった。
人間は心の動物である

何もまとわず誕生する
頭脳だけを携えて

個性という心は
頭脳だけが引出してくれる

「心」というのは「mind」の訳なんだろうな、というのは、すぐにわかった。

元の英語のセリフは次のとおり。
Man cannot survive except through his mind.

He comes on earth unarmed.
His brain is his only weapon.

But the mind is an attribute of the individual.
There is no such thing as a collective brain.

(佐々木訳)
人間は、頭脳を駆使することでしか
生き残れない。

頭脳のほかに
何の武器も携えず、人は生まれてくる。

そして頭脳は
個人それぞれが持つものだ。

集団が共有する脳など
どこにも存在しない。
評論家の副島隆彦氏がどこかで、「mind」が「心」などと訳されてまかり通っているのは、日本の後進性の現れだ、みたいな趣旨のことを、怒りを込めて書いていた。

なるほど、人間の思考力を賛美するこの演説に、「人間は心の動物である」などという字幕を付けて誰もおかしいと思わないというのは、とても異様な感じがする。

副島氏が怒るのも無理はない。

思うに、日本では、「頭脳」という言葉に、自分の短期的な利害を計算するだけの精神の働き、という、マイナスのイメージがあるのかも。

で、「心」と言った時は、相手の立場や利害もきちんと考慮するというか、むしろ、自分の短期的な利害を計算することを敢えて放棄するような精神の働きを、含意しているのではないか。

そしてそういう精神の働きを称揚する文化があるというか。

だから「心」というプラスイメージの言葉を入れることで、「頭脳」という言葉のマイナスイメージを打ち消そうとして、こんなちんぷんかんぷんな字幕になったのかも。

2012年4月28日土曜日

天才とインターフェイス

去年の秋に買ったアイン・ランド原作の映画「摩天楼」(The Fountainhead、1949年)のDVDを、ようやく今日観た。

主人公ハワード・ローク役のキャスト以外は、おおむねアイン・ランドの思想世界をよく表現した映画だったと思う。

バナー新聞のストライキでゲイル・ワイナンドが窮地に陥った時にドミニク・フランコンが助けに現れた場面とか、ラストの建設中のワイナンドビルをドミニク・フランコンがエレベーターで上がっていくシーンとか、意外なくらい感動してしまった。

つくづくあのハワード・ローク役のキャストが惜しまれる。

なんであんなキャスティングになったのか。

ハワード・ロークにしては年をとりすぎてるというだけではない。

作品世界でハワード・ロークが体現しているはずの天才像の、ある意味、真逆の人物像を体現してしまっている。

建物のフォルムはその機能に従うべきだみたいな話が、あの作品には何度も出てくる。

で、映画の中では、ロークが設計した銀行社屋のデザインが斬新すぎると、ビルの完成予想模型に、銀行の重役達がペタペタと古めかしい装飾を貼っていく場面が描写されている。

あのローク役の俳優さんって、古めかしい装飾を貼られたビルみたいな人物だなと思った。

対してロークが体現するような天才というのは、ちょうどロークが設計したビルのように、あくまで機能に従った外観をしているのではないかと。

装飾とかなしに。

現実の人間において“装飾”にあたる要素が不要だとは思わない。

むしろ社会生活を営む上で必須の要素だと思う。

ある種のインターフェイスというか。

危険人物ではないことを周囲にアピールするためにも。

そういうインターフェイスの部分を洗練・高度化させていくことは「大人になること」の一側面だから、あのローク役の俳優さんは、非常に「大人の男」を体現している感じがする。

そういう面での「苦労人」の感じも出ている。

あの俳優さんは、そういう「大人の男」や「苦労人」をヒーローにした物語にはぴったりだろう。

でもロークは違う。

大人だし苦労もするけど「大人の男」でもないし「苦労人」でもない。

本質的な能力を極大化し、インターフェイスの部分を極小化した存在。

にもかかわらずああいう俳優さんがローク役として通ってしまったのは、あの当時、人間を本質の部分よりも技術の部分で評価する見方が支配的になったことの現れなのかも。

2012年4月27日金曜日

競争観と陰謀観

ミーゼスの『ヒューマン・アクション』(村田稔雄訳)を読んでいて、次の箇所で目が止まった。
《市場経済の枠組みの中における競争には、[‥‥]相容れない利害の敵対的衝突を示す際に用いられ[る]意味での敵対という含みはない。競争という言葉は、競争者の間に、他人に害を及ぼす意図を伴いやすい憎悪や悪意の感情を、時々どころか度々呼び起こすことがあるのは、事実である。したがって、心理学者は、戦闘と競争を混同しがちである。》(第6章「不確実性」)
たしかに、「競争」と「戦闘」との間にどの程度の違いを認めるかには、人によって大きな違いがあるなと。

で、唐突だが、いわゆる陰謀論をどの程度信じるかにも、人によって大きな違いがある。

もしかすると、ある個人において、「競争」と「戦闘」を同一視する程度の大きさと、陰謀論を信じる度合いの大きさの間には、相関関係があるのではないか。

市場における競争の一環として他者が行う行為を見て、自己を滅ぼすことを目的とした行為と見なすような勘違いというか誤った恐怖に基づく陰謀説も、ないではないのではないか。

なんてことを思った。

2012年4月26日木曜日

秩序の運動性

秩序というのはとても静的なイメージのある概念で静的なイメージのある存在ほど動的な存在としてとらえよというのは弁証法の重要な教えだ。もちろん弁証法で動的な存在としてとらえるといったら矛盾のあり方としてとらえることを意味する。無秩序なんていう言葉はいかにも典型的に「有か無か」の「あれかこれか」思考でつまりは弁証法的じゃない。秩序というのは常に有るとともに無いものでそのような存在として運動しているし運動させるべきものと看破しなければ。無秩序と言いたくなるような状況で心がけるべきはまずはそのような否定的なレッテルを貼りたくなるほど自分の心身にとって危険な状況でなんとか自分の心身の健康と安全を確保すること。そして秩序は享受ばかりすべき存在ではなく自ら与えるべき存在でもあることに鑑み自分がこの状況においてどのように運動する秩序の形成に参与できるかと自らに問うこと。他者から与えられたい価値はまず自ら与えよと言うし秩序だって価値なわけだし。

2012年4月25日水曜日

集団心理の美しさ

集団心理というのは個人や組織が合理的な判断をし損ねる原因とかあるいは他人を不正に操る手段としてとかとにかく基本的に悪いニュアンスで使われる言葉で佐々木もそのようなニュアンスでしかこの言葉をとらえたことがなかったのだが最近になってこの集団心理というものが個人や社会に肯定的に作用するありさまがよく見えてくるようになってきた。ちょうど生き物の体の仕組みを知ったり精巧な機械の仕組みを知った時に抱く「うまくできてるな~」という感慨を人間の集団心理の働きに対しても持つようになってきた。それはそうだ。人間は認識を媒介に行動する存在なのだから人間の身体の仕組みや社会制度の仕組みがおおむねうまくできている程度には人間の集団としての心理のメカニズムだってうまくできてなければおかしいのだ。ある存在が機能していることに気づくことはその存在が機能していないことに気づくよりもはるかに難しい。そして心理は目に見えないものであるうえに集団の心理となれば個人の心理以上にとらえがたい。これが集団心理という語がもっぱら悪い意味でばかり使われるようになった原因だろう。人間の集団心理が人間に対して及ぼす肯定的な影響をたとえ無意識にであれとらえてその肯定的な影響をより強化するような努力をしている人々の努力は基本的に報われているように佐々木には見える。

2012年4月24日火曜日

『自省録』

紙の上の文章であれネットの上の文章であれ我々が目にする多くの文章が書き手の考察する真理や倫理を読み手に伝えているわけだがそもそもそうした真理や倫理への考察自体がいわば読み手の存在を前提になされているというか少なくとも読み手の存在を意識することによってそうした真理や倫理への考察への動機付けが強められていることは間違いないはずで身も蓋もない言い方をすれば私的文章と言うのは基本的に他人から尊敬されたいとか他人を訓育してやりたいとかのスケベ心で書かれるものと言ってもいいぐらいで仮に読み手の存在をまったく前提としないすなわち他人に絶対に読ませないことを前提に書かれた文章でなお真理や倫理への飽くなき探究心が発露されていることがあるとすればその書き手の真理や倫理に対する探究心の純粋さに打たれざるを得ないはずだが実際にそんな書き手や文章が存在したとしてもその文章は他人に読ませないことを前提に書かれるわけだから我々の目にはめったに触れることがない。

マルクス・アウレリウスの『自省録』(鈴木照雄訳、講談社学術文庫)はそういう例外的文章の極めつけだと思う。

2012年4月23日月曜日

弁証法と実体論

弁証法においては運動の原動力として矛盾という関係を見て取る。

弁証法における運動というのはえらく大きな概念でむしろあらゆる事象や存在を運動として見るのが弁証法だ言ってもいいぐらいだ。

で、当然ながら矛盾は実体ではない。

つまり事象の原因を実体に帰す見方は、弁証法的ではない。

事象の原因を実体に帰す見方も、日常のごく狭い範囲の事象の分析には有効だし、むしろ必要である。

しかし日常生活の範囲を超えた大きな観点から事象の分析をする際には、原因を実体に帰して満足している限り、問題の本質をとらえられない。

ある現象、特に主観的に好ましからざる現象について、「これは○○のせいだ」と言う言い方をするのは、典型的に、事象の原因を実体に帰す見方の現れである。

特定の人物、特定の民族、特定の社会階層、特定の人種。

これらはすべて実体である。

弁証法を称揚しながら大きな社会問題について「○○の奴らのせい」と言う言い方を頻用する人物を見るとひどく違和感を覚える。

2012年4月22日日曜日

公園デビュー、って意味が違うか

近所の県立公園に対し、佐々木はえらく皮肉な感情を持っている。

ヘンな立て看板が多いというのは、ほんの小さな理由に過ぎない。

他にもいろいろあるのだが、ほとんどの理由は公(おおやけ)にできない。

唯一、公にしていい理由。

この県立公園は20年前ぐらい前に「里山の風情を残す自然生態観察公園」として整備され開園したのだが、公園として整備される前は、なんのことはない、住宅街の裏に広がる、耕作放棄された田畑やら、時おり産業廃棄物が不法投棄される雑木林やらから成る、単なる荒れ地に過ぎなかった。

小学生の頃の佐々木の遊び場の一つだったから、その頃のあのあたりの様子はよく覚えている。

それが今ではどうだろう。

いかにも「昔からの里山」、いかにも「生き物の楽園」という感じに整備されて、佐々木が小学生だった当時の様子は、ほとんど見る影もない。

その「里山の風情を残す自然生態観察公園」に、遠方から大勢の人がやってきて、野鳥やら草花やら池沼やら「古民家」やらにカメラを向けている。

この気持ち、何かに似てると思ったら、小学生の時はお人好しキャラだったのに中学生になっていきなり不良になった奴とか、中学生の時は地味だったのに高校生になっていきなり格好や行動がド派手になった奴に抱く感情と、まったく同じ感情だった。

そういう振る舞いは「中学デビュー」とか「高校デビュー」とか呼ばれて、からかいの対象になったものである。

あのからかいって、改めて考えてみると、どういう感情によるものだろう。

もちろん、意外性というのはある。

あらゆる笑いの本質は意外性だ。

不良になったお人好し、ド派手になったジミ夫、ジミ子。

たしかに意外だ。

でもそれだけではなさそう。

「中学デビュー」や「高校デビュー」をからかいたくなる気持ちの裏には、他人の成長を喜びたくない感情、他人に自分以下の存在でいてほしい感情もあるはず。

県立公園に大出世した近所の裏山に皮肉な気持ちなる佐々木にも、そういう感情はしっかりあるということだ。

2012年4月21日土曜日

鰺とか秋刀魚とか林檎とか梨とか馬とか鹿とか

先日レジで買物かごに入っていたセロリを指して「これは何ですか」と50代後半ぐらいの男性店員さんに聞かれた近所の生協で今日はビニール袋に入れたサンマを指して「これはアジですか?」とレジ打ちをしていた20代はじめぐらいの女性店員さんに聞かれた。

食べ物への関心ってない人はほんとにないんだな。

もうリンゴとナシの区別がつかない大人がいても驚かない。

別にいいんじゃないだろうか。

もしかしたらいい歳こいたおっさんがこまごまとした食材の名前や調理法に詳しいほうが恥ずかしいのかもしれないとか思ったり。

2012年4月20日金曜日

近所のイラッと来る看板たち

近所の県立公園に立っている、イラッと来る看板たち。

その1。



要は、公園内の草木や生き物を害する行為をするな、という指示なんだと思う。

で、普通に書くよりも、ちょっとヒネリを加えた方がメッセージが伝わりやすいということで、あえてヒネった書き方をしたと。

でもヒネりすぎ。

公的な文書で私的な表現欲求を発露しすぎ。

「人間性の回復」とか、「愛でる気持ちを大切にする」とか、そんな内面的なことまで公務員に指図されたくない、という気持ちにもなる。

その2。



これもそう。園路の外に出るな、と普通に書いてくれと思う。

自然と人が友達か敵かなんて、どうとも言えなるような問題について、こんなところで堂々と私説を披露しないでほしい。

あと自然は友達と言っておいてまむしに注意っていうのもどっちなんだと突っ込みたくなる。

その3。



「木道から外に出ないこと」以外は、ほんとに大きなお世話としか言いようがない。

こんなまとまりのないメッセージを伝えるために、わざわざ税金を使って人の身長ほどもある大きな看板を立てないでほしい。

県民が「自然」に触れるあえるようにとの目的で整備したはずの公園で、これらの看板が「自然」を台無しにしているとさえ思う。

2012年4月19日木曜日

真実を隠しているのは誰か

昨年3月の東日本大震災直後に発生した大規模な発電所事故以来頻繁に目にするようになった表現の一つに「隠されていた真実」というのがある。この表現に強烈な違和感を覚えてその理由を考え続けていた。思いついた理由の一つがそもそも「事実」は隠せても「真実」は隠し得ないものなのではないかということ。形容詞としての「真」(true)は個々の認識もしくは命題と現実との一致度に関わる概念だろうが定冠詞付きの名詞としての「真実」(the truth)は個別的な事実に関わる概念ではなく事実の集合としての事象の全体像や構造や本質や主体にとっての意味までも含む概念なのではないか。ジグソーパズルにたとえるなら個々のピースが「事実」でピースの集合として描かれる絵やその絵の成り立ちやその絵が鑑賞者にとって持つ意味までも含むのが「真実」みたいな。完成したジグソーパズルからピースを1個や2個取り去っても描かれる全体像にほとんど影響はないしおそらくはピースの半分を取り去っても全体像の把握に支障はないであるのと同じでどんなに「事実」を隠しても「真実」は隠せないのものなのではないか。「真実」を隠す行為が存在しないというのではない。むしろあらゆる「事実」隠しは「真実」を隠すこともしくは歪めることを意図して行われると言ってよい。だがその意図は本来達成不可能な意図のはずなのである。ジグソーパズルをピースの一部を隠しても描かれている絵を隠すことはできないように。それでも「事実」隠しによって「真実」が隠されていたと感じることがあるとすればその原因はむしろそれまで「事実」だけを見て「真実」を見て取ろうとしていなかったもしくは「真実」とは常に他人から言葉として与えられるものであると認識していた本人にあるのではないかという気がしている。

2012年4月18日水曜日

被害者の対義語

ある言葉の対義語が自明である場合にあえて別の対義語を考えることは視野を広げ思考を深め精神を自由にする。「被害者」の対義語が「加害者」であることは自明であるがあえて「加害者」とは別の対義語を考えてみるとたとえば「創造者」だとか「解決者」などという言葉が該当するのではないかという気がしてくる。「害」に対する態度のあり方として「被害者」のあり方と「創造者」や「解決者」のあり方はたしかに対照的だ。このことはずいぶん前から感じていたことだがこれまで口に出すことも文字に書きあらわすことも控えてきた。なぜなら自らを意識的にもしくは無意識的に「被害者」の立場に位置づけることに積極的な人々が世に満ち満ちている上にこうした人々は「『創造者』や『解決者』も『被害者』の対義語であり得る」という命題を提示すること自体をある種の加害行為と認定し自らをこの加害行為の被害者と位置づけこの命題の提示者への報復衝動に駆られかねないからである。

2012年4月17日火曜日

無能と評される人への尊敬と評す人への軽蔑

「無能」というと佐々木なんかはまっ先に自分を指す言葉ではないかと思ってしまうのだが世の中で使われる「無能」という言葉のうち他人を指して使われる「無能」と自分を指して使われる「無能」とを比べると圧倒的に前者の比率の方が高いようで特に「無能」と呼ばれることが多いのは一般に地位ある立場にあると言われる人々つまりは上司とか経営者とか官僚とか政治家とかであるように見受けられるがそもそも「無能」の「能」とはその人の能力全般を指すわけではなく特定の任務を遂行する能力を指すわけでしかも「無能」の「無」は文字通り「無」なわけではなく単に期待される水準に満たないあり様を誇張して述べた表現に過ぎないことを考えれば「無能」と評されるということ自体が特定の任務を遂行することを期待される程度には有能であったことの証明であるとも言えるわけでそのような期待さえされることのなかった人々が他人を無能と評すのは若干恥ずべきことなのではないかと思ったりもする。

2012年4月16日月曜日

無能と低能(2)

理屈上は「低」のほうが「無」よりも多いはずなのに「低能」のほうが「無能」よりも「能力がない印象」を強く与える理由その1。極端な表現はその極端さが言説自体の信頼性を棄損するがゆえにかえって弱い表現になるから。「無能」と言ってもまさか能力が文字通り「無」の人間はいないのは誰でもわかるのでこれは単なる誇大表現なんだなと誰でもわかるがゆえにかえって能力がそれほど低い感じがしないと。1本150円の串カツを180円と言われるとそうなのかと納得してしまうが150万円と言われるとウソとわかるのと一緒。違うか。理由その2。音の響きの問題。「て~」も「の~」も単独ですでに間の抜けた音だがこれらが二つ重なると間抜け感が累乗されてどうしようもなく能力がない感じがする。「む」は音の響きとしてまだしも引き締まった感じ。理由その3。「低能」の「能」と「無能」の「能」は同じ「能」でも指す対象が違うから。「低能」の「能」が指すのはその人物の能力全体。「無能」の「能」が指すのは特定の能力。特定の能力が無い(もしくは著しく低い)としてもその人物の能力全体が低いことはにはならない。

2012年4月15日日曜日

無能と低能(1)

開業して仕事がまったく来なかったころ自分を表現するのに最もふさわしいと思えた言葉は「馬鹿」だった。自分が馬鹿であること以外何の特徴もない人間に思えて仕方なかった。やがてこなしきれないぐらいの仕事が来るようになると今度は「無能」こそ自分を表現するのに最もふさわしい言葉に思えてきた。引き受けた仕事をどうすれば片づけられるのかいくら考えてもわからなかったりせっかく仕事の依頼が来ても前の仕事が片づかず引き受けられなかったりするたびに俺はどうしてこうも無能なのかという言葉が脳裏に浮かんで仕方なかった。だから「無能」という言葉を目にしたり耳にしたりするたびに我が身のこととして体が反応したし無能さというものについて考えることも多かった。そんな自分の中を行き来した無能さをめぐる思索の一つがなぜ「低能」のほうが「無能」に比べてより「能力がない感じ」がするのかという問題。「無」といえばゼロ。「低」は「有る」度合いが少ないということだから数学的には「低能」の方が「無能」より「能」が多いと思うのだが。そう思って辞書を引いて「低能」というのはいわゆる精神薄弱を表現する言葉だとはじめて知った。なるほど「無能」はいわゆる健常者に対する評価で「低能」はいわゆる障害者に対する評価でだから「低能」の方が「無能」より「能力がない感じ」がするのかと納得しかかったがやっぱりおかしい。佐々木は「低能」が精神薄弱を表現する言葉だと知る前から「低能」の方が「無能」より「能力がない」という印象を持っていたわけだし「低能」が精神薄弱を表現する言葉として定着し「無能」がいわゆる健常者に対する評価として定着したのはやはりそれなりの理由があったはず。それでさらにつらつらこの問題を考え続けてどうも3つの理由があるのではないかと思うようになった。続く。

2012年4月14日土曜日

被理解欲求

十年ほど前に当時親しくしていた人宛に書きまくったメールを読み返してみたら自分が考えてることや感じてることをなんとか相手に伝えたいという欲求が文面からあふれ出してて自分にもこんなに他人から理解されたい頃があったのかとたまげた。今は自分が他人から理解されるとかされないとかホントどうでもいい。自分が考えてることや感じてることをどうすれば相手にわからせられるかを考えるよりもどうすれば相手が考えてることや感じてることをわかることができるかを考えたりどうすれば自分が考えていることや感じてることをわかる気がない相手とも愉快にやっていけるかを考えたりするほうがよほど生産的で楽しい。

2012年4月13日金曜日

レーニンの言い訳

レーニンは『帝国主義論』の「序言」で「この小冊子は執筆当時ツァーリズムの検閲を顧慮しなければならなかったせいで政治的な事柄への言及は慎重に避けられておりもっばら理論的・経済的な事柄ばかりを扱っている」みたいな言い訳をしている。

「序言」で読んだ時は普通に納得して読み進めたが本文を読み始めると急にこの言い訳がおかしなものに思えてきた。

たしかにこの本では「経済的」な事柄ばかりが分析されている。

だがその書き方はえらく当時の支配階級に対して攻撃的である。

革命的な言論を禁圧しているはずの検閲体制においてよくこういう攻撃的な言論が許可されたなと。

当時の「ツァーリズムの検閲」においては公共言論において禁止される事柄とか用語がきちんと明文化されていて明文規定のない事柄に関わる言論はいくらその内容が支配階級に対して攻撃的であっても禁止されることがなかったのだろうか。

だとしたらそれはまたえらく近代的な法治体制だなと。

日本だとこの現代においてさえそんな法治主義は考えられない。

あともう一つ思ったのはレーニンが分析を「経済的」な事柄に限定したのは検閲を顧慮したせいだけでなくレーニン自身に社会の「政治的」側面を分析する能力がなかったせいもあったのではないかと。

あたかも大工場や大会社という単なる「モノ」を「所有」していさえすれば富が我が物になるかのような即物発想の発露としか思えない分析の数々を見てそんなことを思った。

2012年4月12日木曜日

『アンナ・カレーニナ』を読んでると頭が良くなる感覚が

電車の中で読み続けてるトルストイの『アンナ・カレーニナ』(中村融訳)。

ようやく上中下巻の下巻に突入。

どんだけかかってるんだという話だが。

「読んでると自分の頭が良くなってく感」みたいなものを最近この作品に対してすごく感じる。

かなり独特な感覚。

たとえば今並行して読んでるミーゼスの『ヒューマンアクション』に対しは「論旨を追うのが大変」とは感じるが「自分の頭が良くなる」という感じは特に受けない。

論文だといわば結論をボンと提示されるだけで筆者が現実からその結論を導き出した過程は想像するしかない。

これに対して特にトルストイの小説の場合バーチャルとはいえ現実がきちんと提示された上でその現実への洞察が示されるので現実を洞察するという行為を追体験できる。

これが「読んでると自分の頭が良くなってく感」の秘密かなと。

以前同じ作者の『戦争と平和』を読んだ時はいちち登場する作者の洞察披露をうるさく感じもした。

この作品も読み始めの頃は特に「読んでると自分の頭が良くなってく感」は感じなかった。

自分の読みが深まってきたせいなのか。

自分の頭が悪くなってきたせいでこの程度の洞察を追うのに「頭を使わされてる」という感覚を持つようになったのでなければいいが。

2012年4月11日水曜日

前提

前提には意識された前提と意識されていない前提の2種類がある。

認識主体に対する両者の作用はある意味真逆である。

意識された前提は認識主体の思考を自由にする。

意識されていない前提は認識主体の思考を縛る。

だからおそらく「これまで自分が一度も意識したことがない前提は何か?」という問いとその答えは人間の思考をより自由にする。

2012年4月10日火曜日

セロリ

だいたいどこのスーパーでもそうだと思うが、佐々木の近所の生協でも、野菜とか果物とか魚とかの食品には、パックされバーコードシールが貼られた状態で売られているものと、パックされていないか、パックされていてもバーコードシールが貼られていない状態で売られているものとがある。

バーコードシールが貼られていない品物は、レジで店員さんが「じゃがいもが一つ……サンマが一匹……」などと確認しながら、レジ機のタッチパネルに表示された品名&数量ボタンを押していく。

先日その生協で、店への勤務歴はそこそこあってもレジ打ち経験はあまりない様子の、50代後半ぐらいの男性店員さんのレジに当たった。

その男性店員さん、佐々木の買い物かごから、バーコードシールが貼られてないゴーヤを取り出すと、「え~~っと、これ、ゴーヤですかね?」と自信なさげ。

たしかにゴーヤなのだが、売り場には「にがうり」と表示されていたので、「にがうりです。まぁゴーヤだけど」と教えてさしあげる。

店員さん、慣れない手つきで「にがうり」のボタンを探してタッチ。

次に買い物かごから、やはりバーコードシールが貼られていないセロリを取り出すと、「え~~っと、これはなんですかね?」。

「セロリです」と教えてさしあげる。

60年近く生きてきてセロリも知らんのか!と笑いをこらえるのに、相当苦労させられた。

ものを知らないおっさんだという話では、たぶんない。

当然その男性店員さん、これまで数えきれないぐらいセロリを食べ、セロリという日本語も耳にしていたはず。

それでもセロリという言葉とセロリが結びついていない。

人間って自分が興味がないもののことはほんとに頭に入らないんだなと感心させられた。

2012年4月9日月曜日

安うた

100円ショップに入ったら流れてたJ-POP風BGMの歌詞が「あなたを信じてる~」とか「夢をあきらめないで~」とか見事なまでに決まり文句のオンパレード。

そのあまりにもの安っぽさに思わず聴き入ってしまった。

結局最後の最後までオリジナリティのカケラさえ見せないままエンディング。

いったいどういう経緯やお金の流れでこんな歌が作られレコーディングされたのか。

この歌手にもファンはいるのか。

深い興味を覚えてしまった。

クリエーターの創作欲求の発露としてあんな歌が作られることはあり得ない気がした。

中学生~高校生ぐらいの子がああいう歌を作る可能性はゼロではないとは思うが。

もしかしてああいう歌詞は自動作詩ソフトで作られるのだろうかと思ってネットで「自動作詩」と検索して出てきたサイトで試しに「自動作詩」とやらをやってみるとまーシュールというか意味不明というかとにかくある意味オリジナリティだけはある歌詞にしかならなかった。

ああいう特徴のない歌詞を機械で作るのはやっぱりまだ無理じゃないかと思った。

佐々木は以前「SEO対策としてのWeb用文章の作成」という仕事の打診を受けたことがある。

検索エンジンに特定キーワードで上位表示させることだけを目的に書かれる文章でターゲットは人間ではなく検索エンジンだから特に良い文章である必要はなく単に指定されたキーワードを使って指定された長さの文章を書くだけでよいという仕事。

その時は忙しかったし自分はそんな仕事でも引き受けたら無駄に一生懸命に良い文章を書いてしまいそうで断ったのだが。

ああいうBGMに使われる歌の歌詞もそんな感じで別に聴き手の心をつかむ必要はないからとにかく無難にポップな歌詞をお願いみたいに発注されるのだろうか。

2012年4月8日日曜日

花見

近所の桜が満開である。

たしか今年の春は満開の桜をボーッと眺めようというしょうもない目標を年始に立てたのだが今は締め切りを控えた原稿がなかなかまとまらずとてもボーッと桜を眺めていられるような心境ではない。

だが目標は目標。

今日隅田川近くに私用で来たついでに花見客で一杯の川べりの公園に行き腰を下ろし無理矢理ボーッとして桜を眺めた。

無理矢理ボーッ。

目標達成。

本末転倒。

2012年4月7日土曜日

高精度なネット広告

最近はある会社のWebサイトを訪問するとその会社と関係ないサイトを訪問した時にもページの隅にその会社の広告が表示されるようになっていてうまい仕組みになってるなと感心する反面どのサイトを訪問してもその会社の広告が表示されるとなんだか追いかけられてるようで落ち着かない気持ちになる。

仕事で何度か結婚相談所のWebサイトコンテンツを作ったことがあったので自分が作ったコンテンツの様子を見にその結婚相談所のWebサイトを開いてみたら以来どのサイトを開いてもその結婚相談所のバナー広告が表示されるようになって参った。

その結婚相談所は男性会員が全員年収ウン百万円以上であることをウリの一つにしているのだが佐々木の年収はその水準に遥かに及ばない。

だからネットを見るたびにその結婚相談所のバナー広告を見せつけられると自分が独身であることと低年収であることを同時に突きつけられているようで二重に情けなくなる。

2012年4月6日金曜日

戸締り

近所の神奈川県立座間谷戸山公園の近くにある扉。







厳重な戸締りが印象的。



2012年4月5日木曜日

インタビュアーの服装

佐々木は今背広を2着しか持ってない。

内1着はいわゆる礼服なので仕事に着て行く背広は1着である。

15年ほど前に購入した背広。

買って15年ももってるのは着る機会が月にせいぜい10日しかないせいもあるだろうがやはり生地や作り自体がいいのだと思う。

当時は稼ぎがそこそこあったから吊るしとは言えあまり値段を気にしないで気に入ったのを買ったのがよかった。

安売り店で買った背広はどれも数年で穴が開いたり変色したりして全部捨ててしまった。

とはいえ15年も着続けた背広。

いつ破れたりして着れなくなるとも限らない。

それでスーツ店やデパートの紳士服売り場の前を通った時はなんとなく仕事に着て行けるスーツ類を物色するのだがどうもこれというのが見つからない。

そもそも宣伝用のお客様インタビュー記事を作る人間はどんな格好をするのがふさわしいのかのイメージがわかない。

お固い会社や個人の取材に行く機会も多いのでとりあえず背広にネクタイが無難ではある。

ただどうもインタビュアーというのは「背広にネクタイ」が象徴する仕事像・キャラクター像からはかなりずれてる気がする。

そのずれ方というのは作家とかジャーナリストとかコンサルタントみたいな「斜め上方」へのずれ方ではなくどちらかと言えば「斜め下方」へのずれ方。

お客様インタビュアーなんて取材先から見れば「業者が雇った業者」なわけだし。

ただそこそこ知的であることが求められてはいてしかも写真撮影のときは地べたに膝をついたり這いつくばったりして相手を笑わせるためにくだらないジョークを連発しながらカメラを構えたりする。

こういう仕事・キャラクターにぴったりな服装は少なくともデパートの紳士服売り場には見当たらない。

いかにいい記事を書くかという話から比べれば何を着ていくかなんてあまりにもどうでもいい話だけど。

2012年4月4日水曜日

ミーゼス的人間観・方法論

ミーゼス『ヒューマン・アクション―人間行為の経済学』(村田稔雄訳)第二章の途中まで読んだ。

序章に比べると第一章、第二章はけっこう難行苦行。

考察の対象になる人間行為の定義だとか考察方法の検討をはじめに厳密にやろうとしてるわけだから無理もないけど。

ミーゼスの行為観だとか目的観だとかあるいは「方法論的個人主義」は佐々木が意識的に採用している人間観だとか社会把握法とはある意味真逆。

でもミーゼスはなぜそのような行為観だとか目的観だとか「方法論的個人主義」が正当で必要なのかをきちんと説明している。

ここはあえてミーゼスの言に従いミーゼス的な人間観や方法論を採用することでどのような洞察の深まりが得られるのかという問題意識で本書を読み進めていこうと思う。

2012年4月3日火曜日

産業革命と古典派経済学者

古典読破計画で2月に読む予定だったルートヴィヒ・フォン・ミーゼスの『ヒューマン・アクション―人間行為の経済学』(村田稔雄訳)をようやくじっくり読み始めた。

2月3月と亡父の葬儀やら引越やら福島での東京アイン・ランド読者会のイベントやらで落ち着いて本を読む時間もなかった。

持ち歩いて電車で読めるような重さの本じゃないし。

とりあえず序論を読んだだけでこの本が佐々木の社会認識の弱い部分を大いに補強してくれる本である予感がした。

佐々木の社会認識の弱い部分というのは不可知論的傾向というか価値相対主義的傾向というか。

産業革命は古典派経済学者によって構築された思想なしには実現され得なかったという趣旨の叙述が印象に残った。

現実に社会を大きく動かす思想というのは学者の仕事とはほとんど無関係に生まれてくるもので学者はただその結果を分析するに過ぎないようなイメージを佐々木は持っていたから。

あるいは社会を現実に変革する力はほぼ諸個人による私的欲求の充足を目指す行動以外からは生まれ得ないみたいなイメージ。

古典派経済学者の思想が産業革命を可能にしたというミーゼスの主張を読んで思ったのはやっぱり自分がやってることが社会全体にとってどんな意味があるのかが見えてないと人間大きな力はだせないんだなと。

やっぱり学者の仕事って大事。

2012年4月2日月曜日

思想と物質的な力

レーニンがどこかで、「思想が大衆をとらえる時、物質的な力になる」みたいなことを言っていた。

レーニンが言うのは大衆が総体として社会秩序を変える力のことだけど、個人のレベルでもやっぱり思想は、人間がどれだけ物質的な力を発揮できるかに、ものすごく大きな影響を与えるんだなと、先日のアイン・ランド読者会で改めてランドの思想に触れ直して魂から元気になった自分を観察して、実感している。

思想が物質的な力になるなり方には、人間が発揮し得る物質的な力を発揮できなくさせるという形でのなり方も、あり得る。

アイン・ランドの思想は、ほんとにその真逆。

2012年4月1日日曜日

脳圧

武術の稽古をしているとき特に見る目のある稽古仲間から自分の動きをチェックしながら稽古をすると脳の中の身体運動をつかさどる部分があまりにも酷使されてその部分の脳圧が上がりまるでプールで耳に水が入って耳が遠くなった時の耳の中のような状態が脳の後ろの奥のあたりで発生することがある。

この状態になるとしゃべるのもしんどい。

口を動かすだけで脳圧の昂進状態がひどくなる感覚がある。

しかもそういう状態になった時に今度は自分が言葉がけで相手の稽古をサポートしたり相手の動きをチェックして問題点を指摘をしてやらなければならなくなる。

脳と脳の使い方のどちらに問題があるのか。

両方か。
 
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