2012年3月31日土曜日

革命運動とスポーツ応援

アイン・ランド原作の映画「We The Living」のDVDを観た。

セリフがイタリア語で看板とかがロシア語で字幕が英語の映画なので、まだ内容を把握しきれてない。

映画の本筋とはあまり関係ないのだが、ヒロイン・キーラが通う、革命後のロシア(ソビエト)の大学での、学生大会のシーンが印象に残った。

自分たちの組織を「レッドなんとか」と名付けたり、全員で革命家を合唱したり、といったありさまを見ながら、大衆が政治革命に向かうエネルギーって、プロスポーツのファンがひいきチームを応援するエネルギーと、ほとんど同じなんだなと思った。

「プロスポーツは大衆支配の道具」みたいな批判的な見解はよく聞くし以前は佐々木もそういう見方に共感的だったけど、今の気分としては、人々を幸福にしない政治運動に向かいがちな大衆のエネルギーをプロスポーツの運営によって多くの人々の幸福に結びつけるっていうのはすごくいい仕組みだなという感じ。

2012年3月30日金曜日

やせ体質

年に数回ぐらいのペースで人から「やせたね~」と言われる。

二十歳過ぎぐらいの頃からずっと。

「太ったね~」と言われたことは一度もない。

子どもの頃からずっと。

20年間やせ続けるなんてあり得ないはずだが。

おかしい。

自分ではやや「食べ過ぎ」の食生活を送ってると思う。

なのに太らない。

それもおかしい。

2012年3月29日木曜日

『肩をすくめるアトラス』の思想的密度の高さは半端ないと改めて思った

ここ数ヶ月かけてこつこつ作ってきた映画「Atlas Shrugged: Part I」」(原作アイン・ランド)の字幕対訳が今日ようやく完成。

東京アイン・ランド読者会のメンバーのうち同映画のDVDを購入したことが確認できている人達に限定し本日無償でお送りした。

字幕を一つ一つ訳したことで、この映画の人物達のセリフの一つ一つ、表情や態度の一つ一つが、アイン・ランドの思想の具現化として一貫性をもって構築されていることが、改めてよくわかった。

この映画の制作が発表されてから、実際に撮影に入り公開されるまでにえらく時間がかかっていたのは、こうした思想的に整合性のある脚本や演出の構築に時間がかかった面も、大きかったのだろうと思った。

それからもう一つ。

映画の字幕対訳を作成するために原作や原作の日本語版(脇坂あゆみさん訳)を参照しながら、原作の思想的密度の高さに改めて感じ入った。

原作のどのエピソードも、どのセリフも、どの描写も、きわめて全体的かつ体系的かつ明晰かつ主体的かつ情熱的な思想の具現化として構築されている。

映画版よりも桁違いに豊富かつ緻密に。

思想が思想たるための要件を全体性と体系性と主体的実践性の三つとするならば、アイン・ランドの小説ほど「思想小説」の名にふさわしい小説はない、というか、アイン・ランドの小説以外に「思想小説」と呼べる小説はないのではないか、と思えてしまうほど。

2012年3月28日水曜日

合気だ!合気だ!合気だ!

暮れ方に近所の中学校の横を通ったら体育館の大きなガラス窓越しに大きく筆文字で「合気」と書かれた旗が天井通路の手すりに吊られているのが見え中学校の体育館で合気道というのが珍しく感じられかつて合気道を修行していた身として少し稽古の様子を見たくなりガラス窓に近寄って中を見ると道衣姿は一人も見当たらず中では中学生達がバレーボールやバスケットボールをしているだけでいったいどうしたことかと考えてみたら単に「気合」と書かれた旗を裏から見て勘違いしてただけだった。

2012年3月27日火曜日

映画「Atlas Shrugged: Part I」ラストのダグニーの叫びがものすごい名場面に見えてきた

映画「Atlas Shrugged: Part I」のDVDを、わからない英語を辞書で調べつつ何度も観返していたら、最後にダグニーが燃え盛るワイアット・ジャンクションを前に叫ぶ「No!!!!!」がものすごい名場面で、あの女優さんのあの演技がものすごい名演であるように感じられてきた。

ダグニーの気高い孤独が胸に迫るというか。

あのDVDを最初に観て作品やあの女優さんに不満を感じたのは、佐々木の英語力の不足のせいも大きかったようだ。

2012年3月26日月曜日

ユートピアの2種類の位置づけ

昨日の福島県磐梯高原での藤森かよこ氏(福山市立大学都市経営学部教授)の講演「アメリカにおけるアイン・ランド受容がつきつける日本のRanderたちへの課題」の中で、アイン・ランドの『肩をすめるアトラス』がアメリカのリベラルからだけでなく保守派からも叩かれた理由の一つに、同作品が保守派から、現実の社会のあり方を否定し理想的な社会の建設を目指すユートピア思想を発揚していると受け取られたことがあったというお話があった。

佐々木の印象では、『肩をすめるアトラス』は、当時のマルクス主義者たちが描いていたユートピアをひっくり返して描いてみせた一種のパロディーであって、実践的には、むしろユートピア思想を否定しているように感じるのだか。

で。

一般に保守派がユートピア思想を否定する時のロジックと、『肩をすめるアトラス』におけるユートピアの描き方を頭の中で比べているいるうちに、人間にとってのユートピアの位置づけには、対照的な2つの種類があるのではないか、という気がしてきた。

一つは、「社会はどうすればうまくいくのか?」という問いから出発して、その答えとして描かれるユートピア。

もう一つは、「自分はいかに生きるべきか?」という問いから出発して、その答えを得るための媒介物として描かれるユートピア。

前者は言わば社会を操作する立場からのユートピア思想。

後者は言わば社会の中で主体的に生きる立場からのユートピア思想。

前者は上からのユートピア思想で後者は下からのユートピア思想。

ユートピアというと、一般には前者のユートピアを指す。

後者のユートピアは、ユートピアとは普通は呼ばれない。

カントの『道徳形而上学原論』に、次のような一節がある。
《我々は、自分の格律が普遍的法則になることを欲し得ねばならない、このことが行為一般に対する道徳的判定の規準である》(篠田英夫訳)
思いっきりかみ砕いて言えば自分と同じように行動する奴が世の中に大勢いても自分が幸せであるように行動することが道徳的であるということだと佐々木は解釈している。

つまりこのような道徳的判断の下し方をするうえでの一つの仮想的な媒介物としての「そういう行動をする奴が大勢いる社会」が後者のユートピア。

アイン・ランドが『肩をすめるアトラス』で描くユートピアはそういうユートピアなのではないかと思う。

2012年3月25日日曜日

アイン・ランド読者会イベントを福島県磐梯高原で開催した

アイン・ランド『水源』および『利己主義という気概』の訳者である藤森かよこさんをお招きしての、講演会およびアイン・ランド読者交流イベントを、昨日、今日と福島県の磐梯高原で開催し、先ほど帰宅した。

これほど幸福で充実した時間を過ごしたことってちょっと思いつかないぐらい、幸福で充実した時間だった。

帰り道、家を出たのが昨日で、たった一泊しかしてないということが、信じられなかったほど。

もう何日も前に家を出て、しばらく別世界にいたような気分。

2012年3月24日土曜日

「Atlas Shrugged: Part I」DVDをまた観返した

最近「Atlas Shrugged: Part I」DVDをまた観返した。

昨年観たときとはまた違った良さを感じた。

あー、このシーンは、原作のあのシーンの、あの良さを描こうとしたシーンなんだな、ということがわかって、ランドが原作に込めた思いを、より純粋に感じ取ることができた気がする。

自分が能動的につかみ取った感動であるぶん、より感動が純粋だったというか。

あと、原作を離れて、孤独のあり方の一つの描き方として、いい映画だなと思った。

あの映画の、ダグニーが従業員の辞職を引き止めるシーンとか、ダグニーの胸中を感じて、ジーンと来た。

孤独の中でも最も崇高な孤独のあり方といいうか。

孤独は孤高より低いものかもしれないけど孤高より低いものであるものであるがゆえに共感を覚えずにいられないというか。

2012年3月23日金曜日

インターネットプロバイダーN社にがっかり

15年近く使っているインターネットプロバイダーN社から携帯電話に電話がかかってきて何ごとかと思って出てみると「いつもご利用ありがとうございます本日の用件ですが今お時間よろしいでしょうか」と聞かれ用件は何なんだと思いつつ話は聞かざるをえないと思い承諾すると「今ご利用いただいているADSL回線で何かお困りのことはないでしょうか」と聞くのでしばらく考え思いつかないのでそう答えると結局光ファイバーの営業電話でしかも「光ファイバーへの切り替えにご協力をお願いします」などという信じられないフレーズまで飛び出してそのうえ「今お住まいのご住所は相模原市○○でよろしいでしょうか」ってそれは引越前の住所で最近おたくに住所変更申請をしてADSLの切替工事をしてもらったばかりだろうと思いつつ最近引っ越したことを伝えると「すみませんこちらの部署ではお申し込み時のデータでお電話させていただいているもので」だそうでここまでくるとほんとにN社からの電話なのかも疑わしくなってきてとにかくあれこれしつこく迫られつつ興味がないことを伝えて電話を切ったのだが考えてみると佐々木はもう携帯電話も15年以上使っているはずだが携帯電話に営業電話がかかってきたのははじめての経験でそれが一応は信頼して使ってるインターネットプロバイダーからのとほほ営業電話だったことに妙にがっかりさせられてでもがっかりしてる暇もないほど今は立て込んでてそんな立て込んでる状況にそんながっかり電話を掛けてきたことにさらにがっかり。

2012年3月22日木曜日

体のくせ

20年前20歳ぐらいのころに自分の身体のこういうところはなんとかしたいと思ったいろいろな部分がいまだになんとかなってないことにふと気づいてなんとかしたいという思いを新たにしたのだがたぶんなんとかしたいという思いを新たにする程度じゃ足りないんだろうな。

2012年3月21日水曜日

人の魂を揺さぶる○○にする

5、6年ぐらい前から自分の部屋の壁に大きなコルクボードを下げて人生やら仕事やらにおける目標やら心掛けやら書いた紙を貼り付け日々眺めるようにしているがこの習慣を始めた当初から貼ってある心掛けの一つが「人の魂を揺さぶる○○にする」というもの。○○には今自分が取り組んでいる仕事を入れる。マニュアル作りを依頼された時は「マニュアル」を。広告作りを依頼された時は「広告」を。イベントを主催する時は「イベント」を。このような心掛けを掲げてきたことが果たしてよいことだったのかといえば微妙なところである。掲げたゴールの達成をもって成功と定義するならばいずれの仕事も成功とは言い難い。観察や顧客からのフィードバックから推測する限り人の魂を揺さぶるなどという大げさな成果を生んだ仕事は一つもなかったから。得られた金銭的利益の大きさを基準に仕事の成果を判断するならその成果はまったく恥ずかしい限り。ただこの「人の魂を揺さぶる○○にする」という心掛けを掲げ続けたことで仕事をする佐々木自身の満足感が最大化されたことだけは間違いない。どうすれば人の魂を揺さぶるような○○にできるのかという問いを立て答えを求めるだけで異常なまでの精神的高揚が得られた。顧客の満足だとか顧客の顧客の満足だとか顧客にもたらされた金銭的利益だとか自分にもたらされた金銭的利益だとかいった仕事において第一義的に大切なことにおける成果を隔絶して仕事をする自分自身の満足という仕事においては二義的なことの成果が高い仕事ばかりしてきたことにも自分だけは満足していいと思う。


2012年3月20日火曜日

理想の共有と嫌悪の共有

理想の共有は嫌悪の共有より難しい。

一つには嫌悪は単に理想にあらざる状態への感情であるがゆえにその対象は理想の対象より大幅に広いから。

裏を返せば理想の対象は嫌悪の対象より大幅に狭いから。

もう一つには理想は思考と決断と行動を要求するが嫌悪はこれらを要求しないから。

換言すれば嫌悪は受動で済むが理想は能動を要するから。

友人の条件という観点からすれば理想を共有する相手を友人とする立場は嫌悪を共有する相手を友人とする立場よりも厳しい。

理想を共有する相手のみを友人とする立場を選択すると友人となる可能性のある人物と嫌悪を共有したいという気が失せる。

嫌悪の共有によって相手とつながることが理想の共有によって相手とつながる道を閉ざすことのように感じられ始めるから。

もちろん友人となる可能性がない人物と嫌悪を共有したいという気も失せる。

なので極論すれば理想を共有する相手のみを友人としたいという欲望が湧いた瞬間から嫌悪について他人と語り合いたいという気持ち自体がなくなる。

2012年3月19日月曜日

移動時間

引越前は、家から最寄りの相模大野駅まで、歩いて5分ちょっとで行けた。

引越後は、最寄りの相武台前駅まで、歩いて15分ちょっとかかる。

相模大野駅から新宿までは、急行で40分、快速急行で35分で行けた。

相武台前からだと、相模大野まで各駅停車で5分、そこから急行等に乗り換え。

相模大野での、各駅停車から急行へ(または急行から各駅停車へ)の待ち合わせ時間が、プラス3分~10分。

なんだかんだで、都内など電車での移動先まで、引越前よりも20分から30分余計に掛かる。

歩いてる時間の利用密度、駅で電車を待ってる時間の利用密度、電車に乗ってる時間の利用密度を、なんとか高めていきたい。

2012年3月18日日曜日

ロジックと論理

「ロジック」と「論理」って辞書的にはほぼ同じ概念を表現しているはずなのに音の響きがずいぶん違う。

「ロジック」と言うとカチッと固い感じ。

「ロンリ」と言うとヌルッと柔らかい感じ。

ロジックという概念に「ロジック」という音を当てる規範を形成し定着させた民族は同じ概念に「論理」という音を当てる規範を形成し定着させた民族よりもロジックをより絶対的な存在と認識する民族だったと思う。

そしてこのような音の違い自体が民族のロジック観を規定してきたのではないかとも。

「ロジック」も「論理」も出だしの音が「ロ」で共通なのもおもしろいけどこれはたぶん単なる偶然。

2012年3月17日土曜日

『南郷継正 武道哲学 著作・講義全集 第十二巻』が届いたのだが

今月発売の『南郷継正 武道哲学 著作・講義全集 第十二巻』が昨日届き期待に胸踊らせつつページを開いたのだがなんと冒頭の「読者への挨拶」は『第一巻』冒頭の「読者への挨拶」の書き直し。理由は『第一巻』が既に品切れで『全集』の新しい読者にぜひ『第一巻』の挨拶を目を通してもらいたくしかも『第一巻』の「読者への挨拶」を書いて既に十年が経過して同じ内容をより高いレベルで説けると自負しておられるからなのだとか。そんな馬鹿な、全集ってそういうものじゃないでしょうに、となんとも釈然としない思い。『第一巻』と『第十二巻』の「読者への挨拶」を読み比べて違いを味わったり『第十二巻』の「新版 武道と弁証法の理論」と『武道講義 第四巻』として出版された原著を読み比べて違いを味わったりといった地味な楽しみに時間をかけて耽溺しているうちに何か大きく目を見開かされることも出てくることを期待してはいるのだが。

2012年3月16日金曜日

「肩こりギュードサー体操」か「肩こりギュードーサー体操」か

高岡英夫先生とNidoさんの『美人力アップのゆる体操』(ソニー・マガジンズ)という本を開いたら佐々木がずっと「肩こりギュードサー体操」だと思っていた体操の解説ページに「肩こりギュードーサー体操」と「ド」の後に長音符が入るタイトルが付いていて「あれっ、この体操の名前、間違って覚えてたのか」と少し動揺しつつ実際に「ドサー」ではなく「ドーサー」と言いながらこの体操をやってみたら「ドサー」より「ドーサー」の方がずっと重みが感じられて「今までこの体操の名前を間違って覚えていて損した、今気づけてよかった」と思いながら念のために高岡先生の他も調べていたらやっぱり「肩こりギュードサー体操」と「ド」の後に長音符が入らない名前になっていてどうやらこの本の記載の方が間違いだったようだけど実際に口に出しながら体操をやってみた感想として「肩こりギュードーサー体操」の方がずっといい感じだなと思った。

2012年3月15日木曜日

女子トイレ

駅でトイレに入るとき隣の「女子トイレ」という表示を見てこれまでに感じたことのない違和感を感じてなぜだろうと考えているうちに何年か前から「女子力」とか「女子会」という言葉をよく目にしたり耳にしたりするようになったことと関係がありそうな気がしてきてつらつらとその違和感の正体をを考察してみるに「女子力」が高いとか低いとかいう表現に何度も接しているうちにあたかも「女子」という概念自体が種別概念ではなく程度概念であるような気がするようになってしまって結果として人間は単に男子と女子に二分されるばかりでなく女子の中にもより「女子」である女子とより「女子」でない女子がいて場合によっては特に「女子度」の高い女子だけを「女子」と呼ぶような気さえするようになってしまってそのために「女子トイレ」というのが特に「女子度」の高い女子だけが利用できるトイレだとかもしくは利用することによって「女子度」をより高めることができるトイレであるような印象を受けてしまったりあるいは「女子会」という言葉からの連想で「女子トイレ」というのが女子同士で連れ合ってトイレに行くことを指したり特に「女子度」が高い女子同士だけで連れ合ってトイレに行くことを指したりする動作名詞であるような印象を受けてしまったりしてこうした印象と単に人間を男子と女子に二分した場合の女子が利用するトイレという本来の意味との間に生じたずれが違和感の正体だろうという結論になったのだがそもそも40も過ぎた男がなぜ「女子トイレ」だとか「女子力」とか「女子会」とかいう言葉にこんなに反応してしまっているのかというそれが一番わからない。

2012年3月14日水曜日

意地悪な電話会社F

引っ越しにあたってNTT東日本に電話をかけ電話加入権の休止手続きをしたところ最後に国際電話用にマインライン登録されている電話事業者Fの解約を別途行ってくれて言われ案内された番号にかけたところ自動応答で請求書番号を入力しろと言ってくるが使ったことのない国際電話の請求書など保存しているはずもない。だいたそんな会社にマイライン登録した覚えはないのだがどうやらかつてPHSと一緒にマイライン契約した会社から電話事業を譲渡された会社らしい。しょうがないのでホームページで検索して解約手続きの方法を調べたがどうにも要領を得ない。ようやくそれらしいリンクを見つけてクリックしたら「ただいま混み合っているか、指定されたURLが正しくない可能性があります」ときた。Webの案内で「混み合っている」なんてはじめて見た。どうしても解約手続きをさせないようにしているとしか思えない。なんてひどい電話会社だろうと思った。これまで佐々木が利用してきたなかで最悪の会社だと思った。でもこの程度で最悪とは佐々木はなんと恵まれた顧客体験しかしてないのかとも思った。



2012年3月13日火曜日

右肩さすり2

一昨日から自分の僧帽筋やその周辺の拘束をゆるめるためのさすりにはまっている。

時間をかけてさすっているとだんだん感覚が研ぎ澄まされてきてそのうちにただ手や指先を軽く接触させているだけで拘束がゆるんでくるような感じが出てくることがある。

拘束がひどいところには常時筋肉を緊張させよう緊張させようという意識が勝手に働いていてそこに自分の手や指先を軽く接触させると手や指先がひっついた分だけその部分の筋肉がいわば重くなって緊張させるにも余計なエネルギーが必要になるためにそれまでに勝手に働いていた緊張させる意識がこんなに重くてでかいものを緊張させるのはめんどうくさくてばかばかしいという気になって緊張させること自体をあきらめてしまうような感じというか。

緊張させるエネルギーを手や指先を通じて吸い取られてしまうような感じというか。

あと僧帽筋を緊張させる意識は実際の僧帽筋の付け根よりもずっと上の方から発生しているとも感じられてきた。

頭頂部と側頭部の境目ぐらいのあたりに指を軽く当てているだけで僧帽筋を緊張させる意識がゆるんでくる感じがある。

2012年3月12日月曜日

精神は老いない

昨年は60歳から70歳前後の方で話していて尊敬の念を覚える何名かの方とじっくりお話する機会を持てたことでも印象に残る一年だった。

尊敬に値する高齢者の方と話す機会自体はこれまでもいくらでもあったのだろうが昨年特にそうした方々と実際にじっくりお話することができたのは単なる偶然もあるだろうがやはり佐々木自身が高齢者になった自分を強く意識し始める年代に入ったせいもあるのだろう。

高齢者と言われる年齢の方やそう言われる年齢に差しかかる年齢の方と話していて尊敬の念を覚えた時「精神は老いない」「もし精神が老いることがあるとすればそれはその精神が精神と呼ぶに値するほどの精神ではなかったからである」「精神はその本質上成長を止めないものである」といった命題がごく自然に自分の中からわき出できた。

もちろん必ずしも真なる命題ではないだろうが。

精神は肉体の支えなしに存在しえないものだし肉体はやがては滅びるものだし。

だが一見した肉体年齢からは信じられないほどの精神の明晰さや明るさや情熱に文字通り目を見張らされる体験をするともしかすると死の直前までこうした命題が真であることもあり得るのではないかという気になってくるしそれは自分自身にとっての希望にもなる。

2012年3月11日日曜日

右肩さすり

本日も近隣の武術仲間と集まり某所で稽古。

濃密な稽古を2日連続でやるとさすがに調子がいい。

他のメンバーが集まってくる前に一人でゆる体操をやっていたら肩こりギュードサー体操の肩をさするところで右の僧帽筋の拘束が気になってしつこくさすり続けていたら表面からどんどん奥へ奥へと意識が入り込んでいって僧帽筋の拘束がそうとう奥深いところから発生していることがわかってさすることにさらに夢中になってしまってだんだん自分の左手の中の中指骨とか手根骨とかの1本1本が筋肉の中へ中へと入り込んでいくような感じさえしてきて自分の僧帽筋の拘束のひどさに情けないやら自分の意識の深まりが楽しいやら複雑な気分で10分以上右肩のさすりばかりやった後で武術の稽古をしたら右の僧坊筋だけではなく頭のてっぺんから足先まで大小全身の筋肉の緩みや重みや垂れが感じられた感じがした。

2012年3月10日土曜日

ごまかしのシステム

本日近隣の仲間と集まり某所で武術稽古。

踵~足首~脛に絡みついた変な癖が抜けなくて素直に立てない。

重心落下点の意識を消して形の力で立つごまかしのシステムの根強さに少々暗澹とした気持ちになる。

ごまかのシステムを使わないと日常生活を送れない体になってしまっているからただ普通に生活しているだけでごまかしのシステムが強化されていく。

ごまかしのシステムにとらわれた心身のまま一生の大半あるいはへたするとほぼすべてを過ごすなんて考えてみれば恐ろしいことである。

2012年3月9日金曜日

物の秩序

只今引越先での荷物の整理中。

およそ秩序というものが失われていた家に秩序を構築していきながら、人間は物に秩序を与えることを通じて自らの精神に秩序を与えまた自らの精神に秩序を与えることを通じて物に秩序を与えるという金言の重みを、全身で実感している。

2012年3月8日木曜日

呼吸が浅くなってるかも

近ごろ夜寝床に入って脛プラプラ体操を始めると、固まった体を内側から突き破るかのように、体の中から深い呼吸が湧き起こって来る。

それだけ、呼吸が浅くなる生活を日中してることの現れであるような気がする。

2012年3月7日水曜日

物がなくなって狭くなった部屋

本日引越荷物の運搬を一応完了。

15年住んだアパートのがらんとなった6畳間を見て、「俺ってこんなに狭い部屋に住んでたんだ」と驚き、“物がなくなって物理的な空間は広くなったにもかかわらずかえって空間を狭く感じるようになった”ことにまた驚いた。

なぜだろう。

単純に幾何学的な要因なのか。

つまり、一般に直方体状の空間は、壁面に凹凸のある空間より狭く感じるものなのか。

あるいは、置かれてあった物それぞれが、独自の空間の広がりをかもしだして、そうした物それぞれがかもしだす空間の広がりが消滅したからなのか。

家具や道具を含め、人間が使う物は、何重にも運動を内包している。

たとえば机なら、机の形状は、机を使用する人間の動作を内包しているだけでなく、机で行われる読み書きが時空を超えた世界とのコミュニケーションであるという意味でも運動を内包しているし、さらには、机を設計したり制作したり流通させたりさせた人々の運動をも内包している。

こうした何重にも内包された運動が、見る者の潜在意識に空間の広がりを感じ取らせるみたいなこともある気がする。

2012年3月6日火曜日

明日引っ越し

15年住んだアパートから、明日引っ越し。

せっかくなので、家具などを解体する前に、写真を撮っておく。

パソコン周り。



本棚。引越業者さんは「本が多いですね~」とおっしゃっていたが、本棚たった2本なんて本好きとしては可愛い部類だと思う。



本と資料、合わせてたったこれだけの段ボールに収まった。「とっておくに値しない」と判断した本はどんどん資源ゴミの日に出してしまってるし、今回もだいぶ処分した。

2012年3月5日月曜日

紙は軽いのに本は重い

引越業者さんは見積の時に幅45センチ×高さ35センチ×奥行35センチの段ボール箱を置いて行ったのだがこの大きさの段ボール箱に本をぎっしり詰めたらとても一人では持てそうにない。持ち上げたら段ボール箱が壊れそうな気さえする。なので丈夫でやや小さめの段ボール箱を近所の生協に買い物に行くたびに数箱ずつつ持ち帰って本を入れる用にした。本だけで小さめのみかん箱17箱~18箱ぐらいになった。

紙1枚はあんなに軽いのに本をまとめて箱詰めにするとあんなに重くなるのは不思議なくらい。

紙が軽いのは体積あたりの平面の面積を増やすためで体積あたりの平面の面積が増えるように作られた物を集積すれば体積あたりの隙間の体積の少ないものになるわけで必然的に重い物になる。

紙は軽いのに本が重いのには必然性があるのである。

あたりまえといえばあたりまえだが。

こういうパラドキシカルな現象の構造をつらつら考えているといくらでも時間が過ぎていく。

2012年3月4日日曜日

脳コリ

寒い部屋でストーブもつけず一人根つめて引越準備作業をしていたら突然脳の右後方4分の1に筋肉が軽くつりかけた時のような症状が現れた。

これはまずいと作業の手を休め心身をゆるめたり地芯天芯センターを意識したりストーブをつけたりして様子を見てたら5分ほどで症状が引きまた作業ができるようになった。

気がつくとずいぶん脳が凝っていた。

気をつけてないと10年後20年後冬の寒い時期に部屋で一人脳梗塞を起こして絶命したり半身不随になったりしかねないと思った。

2012年3月3日土曜日

無神論と葬儀

亡父の葬儀を執り行うためにあれこれ調べてみるとナントカ宗ではどういう作法カントカ宗ではどういう作法とあれこれ思想的背景も踏まえてこと細かなやり方の解説が見受けられたのに無神論者・唯物論者の葬儀のやり方についてはほとんどまとまった考察がないのがおもしろいと思った。基本的に死後のことなんかどうでもいいと考える人々だからだろうか。無神論・唯物論に依拠するにしても葬儀のやり方を真面目に考える必要はあると思うし宗教が発達させてきたさまざまな儀礼から学ぶべき点も少なくないと思うのだが。

2012年3月2日金曜日

間をぬけさせるもの

昨晩寝床に入ってゆるゆると寝ゆるをしていたら「上手のする事は緩々(ゆるゆる)と見えて間のぬけざる所也」という宮本武蔵の言葉のすごさが急に改めて身に迫ってきた。

武蔵は「緩々と見えて間のぬけざる」の構造を説いているわけではなくただ現象を説いているに過ぎないわけだがにしても互いに真剣や木刀を持っての時には多人数での殺し合いの状況で「緩々と見えて間のぬけざる」運動を体現しかつそのような言語表現に結実できる心身のあり方をリアルに想像してそりゃまぁ武術家として人類史にも名を残すわなと。
《一 他流にはやき事を用る事。
兵法のはやきと云所、実の道にあらず。はやきといふ事ハ、物毎のひやうしの間にあはざるによつて、はやき遅きと云こゝろ也。其道上手になりてハ、はやく見ヘざるもの也。たとへバ、人にはや道と云て、一日に四十五十里行者も有。是も、朝より晩迄、はやくはしるにてハなし。道のふかんなるものハ、一日走様なれども、はかゆかざるもの也。乱舞の道に、上手(の)うたふ謡に、下手のつけてうたへバ、おくるゝこゝろ有て、いそがしきもの也。又、鼓太鼓に老松をうつに、静なる位なれども、下手ハ、これもおくれ、さきだつこゝろ也。高砂ハ、きうなる位なれども、はやきといふ事、悪し。はやきハこける、と云て、間にあはず。勿論、おそきも悪し。これ、上手のする事ハ、緩々と見ヘて、間のぬけざる所也。諸事しつけたるものゝする事ハ、いそがしくみヘざるもの也。此たとへをもつて、道の利をしるべし。》
(『五輪書』「風之巻」)
なぜ「間がぬけない」のか。

心身が「緩々(ゆるゆる)としてる」というのもそうなのだろうがおそらくそれは必要条件にすぎない。

やはり「今この瞬間の自分と相手と周囲」のあり方に意識を集中し切っているからではないだろうか。

人間は「今この瞬間」だけでなく「次の瞬間」やら「この先の展開」やら「将来」やら、はたまた「直前の瞬間」やら「さっき」やら「過去」やらに絶えず意識を分散させて生きている。

未来に実現すべきあり方の像を思い描きその描いた像の実現過程として自己の心身を運動させていくのは人間的な運動のあり方の本質とさえ言えると思う。

カール・マルクスはそのことをこんな風に表現していた。
《蜘蛛は、織匠の作業にも似た作業をするし、蜜蜂はその蝋房の構造によって多くの人間の建築師を赤面させる。 しかし、もともと、最悪の建築師でさえ最良の蜜蜂にまさっているというのは、建築師は密房を蝋で築く前にすでに頭のなかで築いているからである。 労働過程の終わりには、その始めにすでに労働者の心像のなかに存在していた、つまり観念的にはすでに存在していた結果が出てくるのである。 労働者は、自然的なものの形態変化をひき起こすだけではない。 彼は、自然的なもののうちに、同時に彼の目的を実現するのである。 その目的は、彼が知っているものであり、法則として彼の行動の仕方を規定するものであって、彼は自分の意志をこれに従わせなければならないのである。》
(『資本論』第1巻 第五章 第一節 「労働過程」)
だけどたとえば0.1秒後に実現すべきあり方の像を描いてその像の実現過程として心身を運動させてしまうと0.01秒後0.02秒後0.03秒後0.04秒後0.05秒後0.06秒後0.07秒後0.08秒後0.09秒後の心身のあり方がそれぞれの瞬間瞬間の状況に最適なあり方ではなくバーチャルに描かれた0.0何秒後かの像に従属したあり方になってしまうしその瞬間瞬間において意識がその瞬間瞬間の状況に向いてない状態になる。

たとえて言えば曲がりくねった道のコースを無視して直線的に進みガードレールを突き破るような状態になる。

これが「間がぬける」ということなのではないか。

「間がぬけない」ということは先々の像を描いてその実現過程として心身を運動させないということ。

これはある意味人間の本質に反することだ。

なかなかできることじゃない。

あと一般的に困難な状況に直面して呆然としたり絶望したりすることと武蔵が言う意味での「間がぬける」ことの間には共通性があるなとも思った。

2012年3月1日木曜日

プロっぽさ

引越にあたり運送業者や不用品回収業者を選ぶためにユーザーとして何社ものホームページを見て改めて思ったのは文章やデザインの拙さがマーケティング上マイナスに作用しないどころかプラスに作用したり文章やデザインの小ぎれいさがマーケティング上プラスに作用しないどころかマイナスに作用する業界というのは間違いなくあるなと。自分が仕事としてマーケティング用コンテンツの制作を依頼された時には文章から誤字脱字を追放したり読みやすく一読で一意に取れるようにしたりデザインをきれいに整えたりするためにかなりのエネルギーを費やすわけだしプロとしてお金をいただきながら誤字脱字や文法違反が満載の文章を小ぎたないレイアウトで納品するのは許されないと思うのだが実際のマーケティング効果という観点で自分の努力が果たしてプラスに作用するのかマイナスに作用するのか迷う場面はたしかにある。
 
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