2012年1月31日火曜日

目標・課題・心掛けを整理

言語化して紙に書いて壁に貼ってる目標やら課題やら心掛けを今日は久しぶりに少し整理した。

こっちはあっちを実現できれば自動的に実現されるしあまり現象的・結果的なことを追い求めると本質的なことがおろそかになるからもういいかみたいな感じで長いこと掲げている割には解決・達成されてない文言の紙を廃棄したり。

あたりまえすぎて書くまでもないと思ってたことでもやっぱりこれを実現しないことには他も実現できないから改めて意識づけるようにしようと紙に書いて貼ってみたり。

そういう見直しをしたくなるきっかけがここ何日か偶然いろいろ重なった。

そういうきっかけを与えてくれる友人の存在をありがたいと思った。

2012年1月30日月曜日

相模大野 皮膚科 町田 皮膚科

今年の冬何が嬉しいかって、長年苦しめられてきた手荒れにほとんど悩まされずに済んでいること。

手荒れに悩まされなくなった原因は簡単。

いい皮膚科に行って、いい薬を塗り始めたから。

去年までは毎年10月から5月までずっと手荒れ。

いったいいつ頃からそうだったのか思い出せないぐらい。

3年前、近所の病院の皮膚科に相談に行ったことがあった。

薬を処方され、薬局でも普通に買える薬とのことだったので、以来冬にはその薬を買って塗っていたのだが、ほとんど効き目がない。

去年の夏、足に切り傷を作って傷口から菌が入り炎症を起こしてまともに歩けないぐらいになった時、近所の病院の外科に行ったところ皮膚科に行けと言われ、その病院の看護師さんから近所の皮膚科2軒を紹介された。

看護師さんの口ぶりからどうも2軒のうち1軒が非常にお勧めらしいと感じ、そちらに行ったところ大当たり。

古い雑居ビルの3階でそれほどピカピカの医院でもないのに、待合室は一杯。

壁には「現在体調が悪いので長時間説明できません」的な趣旨の貼り紙が。

さらに「初診の方はこれを読んでください」と渡されたA4版1枚の注意書きには、「自分で勝手に病名を決めないでください。皮膚病は100種類以上あります」等々、注意事項がいくつも並ぶ。

やっと自分の番になり、診察室へ。

ドクター、さっと診てさっと検査して、症状の説明が書かれた紙を持ってきてテキパキを説明。

処方された薬を塗り続けたら、間もなく完治。

これはすごい皮膚科を見つけたと、10月に入って例年の手荒れが出始めたところで、再び件の皮膚科へ。

3年前に別の病院で処方された薬の名前をドクターに伝えると、「その人、研修医?」と。

信じられない処方だったらしい。

新たに処方された薬を塗ったら、驚いたことに翌日はほぼ手荒れが収まった。

いい皮膚科が見つかってほんとよかった。

相模原市相模大野あるいは東京都町田の近辺で皮膚科を探している方は、この皮膚科に行かれればいいと思う。

名前は「大木皮ふ科クリニック」。

場所は相模大野駅北口から徒歩3分ぐらい。

検索されやすいようにキーワードをタイトルインしておく。

2012年1月29日日曜日

僧帽筋の力みが少し抜け始める

ゆる体操の中のある一つの体操にはまってやり込んでしまうことはよくあって手首プラプラ体操とか足ネバネバ歩きとか踵クルクル体操とか背もたれ首モゾモゾ体操とかはまりがちな体操はいろいろあるのだが肩こりギュードーサー体操にはまって10分以上やり込んでしまったのはおそらく昨日が初めて。

ドーサーっとやるたびに僧帽筋の力みが抜けていく感じがあった。

やり込んで気づいたのだが僧帽筋の上端は自分がそれまでイメージしていたより上だった。

僧帽筋の上端が力んで固まり過ぎてそこが僧帽筋の上端であることさえ認識できていなかったということもわかった。

そのことに気づくのに例のドゥのところで首の上の方の左右に両手を置く動作を何度もやったことが役立った。

2012年1月28日土曜日

オバサンくささ

吉田美奈子の歌を聴いて驚かされることの一つはあの年齢で歌声にまったく「オバサンくささ」を感じさせないことだ。

「この人なんでこんなに歌声がオバサンくさいんだろう」と感じさせる女性歌手と吉田美奈子を聴き比べつつ「オバサンくささ」の本質って何なのかと考えた。

「理想の放棄」だとか「低俗さへの迎合」だとかいろいろな言葉が思い浮かんだが本質を言い当ててる感じがいまひとつしない。

「肉体からは(いい意味での)若さが失われているのに頭の中が(悪い意味で)若い」。

この表現が佐々木には一番しっくり来る。

「頭の中が悪い意味で若い」というのは「物事にはすべて二面性がある」ということが理解できてないということだ。

愛でも恋でも平和でも希望でも信仰でも自然でも何でもいい。

美しいとされるこうしたことの美しさをただ美しさとしてのみ表現して平気でいられるということは頭の中が悪い意味で若いということの現れであるように佐々木には感じられる。

吉田美奈子はそういう「頭の中の(悪い意味での)若さ」を感じさせない希有な女性アーチストである。


YouTubeに上がってた中ではこれが2番目に好き

2012年1月27日金曜日

まろみ

技術が高くてもちっともプロらしくない歌手がいたり明らかに技術が低くてもさすがプロと思わせる歌手がいたり。

歌はそんなにうまくないのになぜか声に惹かれる歌手がいたり歌はうまくても声にげんなりさせられる歌手がいたり。

歌手のうまさとプロらしさと好き嫌いはどんな関係になってるんだろうみたいなことをしばらく前からつらつら考えていた。

個人的に歌うまいなーと思えてさすがプロだなーと思えてこの声好きだなーと思える歌手を探したのだがこれがなかなかいない。

どういうわけか。

唯一見つかったのが吉田美奈子。

で、先の疑問を頭の奥に置きつつ、吉田美奈子が歌ってる映像をYouTubeであれこれ見た。

結果感じたのは、歌のクオリティを高める努力と聴き手が過ごす時間のクオリティを高める努力は、互いに微妙に方向がずれているのではないかということ。

そのずれ方というのは、歌のクオリティを高める努力の積み重ねで得られた成果が、聴き手が過ごす時間のクオリティを高める努力によって突き崩され、聴き手が過ごす時間のクオリティを高める努力によって得られた成果が、歌のクオリティを高める努力によって突き崩される、に近いような。

それでもなお、歌のクオリティを高める努力の積み重ねなしに聴き手が過ごす時間のクオリティは高まらず、聴き手が過ごす時間のクオリティを高める努力の積み重ねなしに歌のクオリティは高まらないみたいな、そういうずれ方。

その積み重ねては崩されそれでも積み重ねの長年の繰り返しから生まれ得ないのではないかと想像されるクオリティを、吉田美奈子の歌声に感じた。

言葉で表現すればたぶん一番近いのは「まろみ」かなと。


YouTubeに上がってた中ではこれが一番好き

2012年1月26日木曜日

あきらめるべきでないものは何か

ひさしぶりに一人でまとまった時間をとってトレーニングした。

体調が落ちてるとなかなかまとまった時間トレーニングする気力が湧かない。

気力が湧かないと、先行きについていろいろと悪い想像も湧いてくる。

気力が湧かないままずるずる悪い想像が湧いてくるに任せながらつくづく思ったのは、何をあきらめるべきでないのかを自分にはっきりさせておかないと、あきらめるべきでなかったことをどこまでもあきらめ続けたままで人生が終わってしまうなということ。

何をあきらめるべきでないのかを自分にはっきりさせたら、時間をとってトレーニングする気力も湧いてきた。

佐々木があきらめたくないことは、どこまではっきりさせても言葉で表現できる形にはならない。

目標は言葉にしないと実現しないとはよく聞く話だが、言葉にならないものはならないんだからしょうがない。

2012年1月25日水曜日

茶の木と呼ばれる茶の木の気持ち

「お茶」というのは植物の乾燥させた葉や花や種や根の成分を湯や水に抽出した飲料の総称なのだろうが、それなら一般に「お茶の葉」と呼ばれるあの葉はいったい何という植物の葉なのかと思って調べてみると、名前は「茶の木」なのだとか。

英語でもやっぱり「tea」もしくは「tea plant」。

「Camellia sinensis(カメリアシネンシス)」という学名もついているようだが、学者以外誰も知らないに違いない。

普通の人が「わーカメリアシネンシスが生えてる」とか言ってる光景を想像できない。

用途としての飲料の総称としての名称以外に、この植物に固有の呼び方を与えている民族って、存在するんだろうか。

あるいは存在したんだろうか。

存在したとしても、茶の飲用が一般的になると同時にその呼び方は消滅してしまって、どの民族もこの植物自体を「茶」と呼ぶようになってしまったのだろう。

用途でしか呼ばれないって自分に置き換えてみればたとえば取材現場で「ライターさん」とだけ呼ばれて名前で呼んでもらえないようなものだようなとか思ったり。

仕事の現場で自分の仕事の能力以外の側面に興味を持たれないというのは、それはそれで気持ちのよいことではある。

むしろ仕事の能力以外の側面に興味を持たれたら気持ちが悪い。

でも呼び名ぐらいは自分に固有の呼び方で呼んでもらえた方が嬉しい。

2012年1月24日火曜日

この世に存在させておくにはあまりにも崇高な

昨日アイン・ランドの『水源』に久しぶりに目を通した。

ハワード・ロークはこの世界に存在させておくにはあまりにも崇高だから自分はハワード・ロークを滅ぼすみたいなことをこの小説のどこかでドミニク・フランコンが言ってるのを7年前に読んだときはなんて変わった理屈なんだと思った。

昨日読み返したらこの『水源』という小説自体がこの世界に存在させておくにはあまりにも崇高な存在であるように感じられた。

7年前の自分の方が今の自分よりもこの世界をもっとまともな場所だと思っていたのかもとか思った。

2012年1月23日月曜日

嫌わない辛さと嫌う辛さ

『アンナ・カレーニナ』の世界が急に頭に入り始めたもう一つの原因として、登場人物たちの胸の内を佐々木自身の胸の内で感じ取れるようになってきたせいもある気がする。

これは『アンナ・カレーニナ』の登場人物たちに限らず、時代とか文化とか思想とか性格とかいろいろな面で自分とかけ離れた人物の内面に感情レベルで入り込めるようになったということ。

好き嫌いなしに。

以前は小説の登場人物を外側からしか理解していなかったし、登場人物の内側に入り込むにしてもその対象は自分が好ましく感じた登場人物に限られていたと思う。

いろいろな面で自分とかけ離れた人物や特に好ましくも感じない人物の内面にも入り込めるようになったのはなぜだろう。

ある能力の向上はその能力自体の向上によっても起こるし、その能力の発現を抑圧していた要因の解消によっても起こる。

以前はたぶん自分が好ましく感じない人物や自分とかけ離れた人物の内面に入り込ませないように作用する要因が佐々木の中に存在していて、その要因が佐々木の中で解消されてきたのではないか。

簡単に言うと「嫌な奴」「自分と違う奴」を理解したくないという感情が以前は強かった。

「嫌な奴」「自分と違う奴」を理解するということは自分の感覚やあり方を根本から否定することだから。

誰かを嫌わないでいるのが辛いというか。

そういう感情も成長の一時期においては必要なのだと思う。

前進というのは何かの否定によってしか起きないから。

ただ絶えず誰かを嫌っているというのもそれはそれで辛い。

そういう感情がだんだん自分の中で不要になってきたのかも。

2012年1月22日日曜日

貴族性

先月あたり夜中に目が覚めて眠れなくなったときたまたま枕元にあった『アンナ・カレーニナ』(中村融訳)を読み始めたらそれまで読んでもなかなか頭に入らなかったあの物語世界がなぜかその時はすいすい頭に入ってきてなぜだろうと考えてその時思ったのが貴族というものに対する自分の中の偏見が解体されてきたせいが大きいのではないかということ。

貴族でない人間が抱きがちな貴族のイメージにとらわれてる限り決して見えてこない人間としての貴族のあり方というのがあってそれが『アンナ・カレーニナ』に描かれているのが貴族にあらざる佐々木にも見え始めてきたのではないかと。

2012年1月21日土曜日

初稽古

本日近隣市町村在住の武術仲間と某所で初稽古。

ここしばらく体調悪化でろくに稽古してないわ寝てないわ直前まで10時間以上ぶっ通しでパソコン仕事だわで頭も体もろくに動かないんじゃないかと想像してたわりには頭も体も動いた。

それなりに発見もあった。

こんな状態でも無理矢理稽古に追い込まれる仕組みができてるってほんといいことだと思った。

いつまでも仕組みに甘えてたらだめだけど。

2012年1月20日金曜日

初雪

朝目が覚めて外を見たら雪が降ってた。

ほとんど積もらないまま昼過ぎには雨に変わった。

家の前の雪かきなんて10年ぐらいしてない。

2012年1月19日木曜日

日が落ちる頃からポツリポツリ降り出して今外はたぶん今年初めての雨。

前に雨が降ったのがいつだったか思い出せないぐらい。

夜の家の中で外の雨音を聞いているとなぜか「ここらでちょっとひとやすみ」という気持ちになる。

別に日照りが続いて困っていたというわけでもないのだが。

2012年1月18日水曜日

体感余命

気がつけば1月ももう半ば過ぎである。

まだ年が明けたばかりのつもりでいたのだが。

時の流れの速さに、恐れさえ覚える。

1年の長さは20歳の人間にとってはこれまでの人生の20分の1。

40歳の人間にとってはこれまでの人生の40分の1。

だから同じ1年でも年を取るほど短く感じられるのは当然なのだとか。

「ジャネーの法則」と言うらしい。

それなら1年の長さはこれからますます短く感じらていくことになる。

今40歳の佐々木の余命は、80歳まで生きるとすれば40年。

しかしその40年は、今佐々木が感じる1年の長さの40倍には感じられないということだ。

果たしてどれぐらいの長さに感じられるのだろう。

ちょっとした積分の知識があればあっと言う間に計算できるのだろうが、情けないことに大学入試以来積分計算など一度もしたことがない。

そこでExcelを頼りに計算してみることにした。

A列に上から順に1~100までの数字を入力し、満年齢とする。

B1セルに「=1/A1」と入力してB100セルまでコピーすると、「各年齢時に1年の長さが1歳時の(コンマ)何年分に感じられるか」が出る。

B40セルを見ると0.03とある。

40歳の時点では、1年の長さが1歳時の0.03年分すなわち9日分程度にしか感じられないということである。

C1セルに「=B1/B$40」と入力してC100セルまでコピーすると、「各年齢時に1年の長さが40歳時の何年分に感じられるか」が出る。

C1セルには当然40と出る。1歳時には、1年の長さが現在の40年分に感じられていた。

C80セルはもちろん0.5。80歳時には、1年の長さが現在の0.5年分にしか感じられなくなっている。

D41セルに「=SUM(C$40:C41)」と入力してD100セルまでコピーすると、「各年齢時に死ぬとした場合に余命が40歳時の何年分に感じられるか」がわかる。

これを「体感余命」とでも呼ぶことにしよう。

80歳で死ぬ場合の体感余命は27.5年。

実余命40年の7割にも満たない。

100歳で死ぬ場合、実余命は60歳だが体感余命は36.4年。

実余命の6割である。

「ジャネーの法則」に基づく40歳時における「体感余命」の試算表(1)
「ジャネーの法則」に基づく40歳時における「体感余命」の試算表(2)
「ジャネーの法則」に基づく40歳時における「体感余命」の試算表(3)
「ジャネーの法則」に基づく40歳時における「体感余命」の試算表(4)

この表を眺めてつくづく感じたことは、書く前から既にバレバレだが、人生の残り時間はこんな表を作ることに費やしてしまうにはあまりにも短いということである。

2012年1月17日火曜日

るいとも

自分があることを感じたときその「感じ」は対象のあり方と自分のあり方と対象と自分を結ぶ媒介物のあり方の大きく3つのあり方の総和もしくは総乗によって成り立っているわけだが自分のあり方や対象と自分を結ぶ媒介物のあり方を無視してもっぱら対象のあり方にのみ自分が受けた「感じ」の原因を求める言説を唱えれば唱えるほど自分自身のあり方を直視したくないもしくは直視する勇気を持たない人々が周囲に集まってくる様子を見るにつけ自分が受けた「感じ」の原因を可能な限り自分のあり方や自分と対象を結ぶ媒介物のあり方に求めて表現しておきたいという欲求を佐々木が持つのは自分自身のあり方を直視したくないもしくは直視する勇気を持たない人々にできるだけ近寄って来てほしくないという欲求を佐々木が持っているせいでもあるのかもとか思った。

2012年1月16日月曜日

綱渡り

ようやく仕事ができる程度まで体調が回復。

明日は都内で苦手分野のインタビュー。

体調綱渡り。

そのあとは昨年末に納品するはずだったここ数年で一番難しい原稿の仕上げ。

そのあとは昨年納品した原稿の構成レベルからの書き直し。

仕事は増え続け収入は減り続ける。

2012年1月15日日曜日

電子・陽子・中性子と行政・立法・司法

化学の基礎を勉強し直したいと思って読み始めた『高校で教わりたかった化学』(渡辺正、北條博彦)という本に「原子の不思議」というQ&Aコラムがあって、その中に
「陽子の電荷と電子の電荷はなぜ同じ?」
という問いが立ててあった。

答えは
「誰も知らない」
なのだとか。

ずいぶんヘンな問いだなぁと思った。

あたかも電子・陽子・中性子が互いに無関係に、それぞれ独立に発生して、たまたま電子と陽子の電荷が一致していたかのような考え方。

それって国家権力にたとえれば、行政府と議会と裁判所がそれぞれ独立に発生して、あとから3つ集まって国家権力を形成したかのような発想だと思う。

2012年1月14日土曜日

下の句

古典読書会で先月の課題が「百人一首の中から最も“きた~~っ”もの一首とその理由」とのことだったので小倉百人一首に一通り目を通したのだが“きた~~っ”ものが一首もなかった。

なぜだろうと考えていて一つ思いついたのが百人一首のどの歌も下の句で異常にテンションが落ちること。

「わざわざ言わんでもいいのに」という冗長感と「はっきりせんかい」と叱り飛ばしたくなるような惰弱感をほぼ例外なく下の句に感じる。

下の句に限らず発話をどのように結ぶかという問題は発話者が発話の場において発話後にどのような位置を占めることを欲するかという問題に深く関わる。

百人一首の歌全般の下の句に感じたのはとにかくその場に違和感なく空気のように溶け込む存在でいたいという欲望。

あるいは他人にどう思われようが自分は自分という独立した個人としての気概の欠如。

佐々木は和歌のことなどまるで関心がないので単なる当てずっぽうだが松尾芭蕉が俳句を芸術として確立する前と後とでは和歌における下の句のあり方は大きく変わったのではないか。

上の句だけでも芸術として成立するのにあえて下の句をつなげる意義は何かという問いを芭蕉以前は問われることがなかったわけだから。

それから当然ながら近代的な個人の観念が成立する以前と以降とでも下の句のあり方は異なっているはず。

その場に空気のように違和感なく溶け込む存在でいたいなどという欲望を下の句で全開にするような和歌が近代以降に芸術として評価されることはなかったのではないか。

そんな仮説をもって近代以降に傑作と呼ばれた和歌をネットでザッと眺めてみると佐々木の仮説もそんなに的外れではないのではないかという気がした。

2012年1月13日金曜日

引き続き体調低下中

引き続き体調低下中。

ただでさえ考えるのに時間がかかるほうなのに体調低下で思考速度がふだんの10分の1ぐらいまで落ちてる。

年をとってこの状態が恒常化するようだともう今の仕事は続けられないなと思った。

2012年1月12日木曜日

体調崩し気味

睡眠時間の削り過ぎかやや体調崩し気味である。

一日ゆっくりして回復を図りたい。

2012年1月11日水曜日

論理的説明能力

物事を論理的に説明しなければならない仕事をしていながら自分の論理的説明能力のなさにはういつもうんざりさせられている。佐々木がやってるのはあてずっぽうで言葉をつむいでは論理が通っているかを検証し通ってないことを確認してまたあてずっぽうに言葉をつむぎ直しの繰り返し。最近ようやく物事を論理的に説明する能力のある人の頭の中の様子が少し想像できるようになってきた。想像できるようになることはできるようになることの一歩手前と考えたい。ただ佐々木が今から努力して物事を論理的に説明できるようになれるまでにどれぐらいの時間がかかるだろうと想像してみると下手すりゃあと10年ぐらいはかかりそうな予感。

2012年1月10日火曜日

初打ち合わせ

本日はお客様インタビュー記事制作の打ち合わせで六本木ヒルズ森タワーへ。

今年の初打ち合わせ。

一年最初の打ち合わせをああいう日本の首都の真ん中にどどーんとそびえ立つビルの上でやるというのはけっこうめでたいことのような気があとでした。

2012年1月9日月曜日

ナントカ式に女の子が着るアレについて

今日は■■の日。

佐々木の地元でも■■式が開催されたようで、駅前通りは華やかな△△を着た女の子でいっぱいだった。

今まで■■式の△△姿の女の子を見て華やかだな、という以上の感想を佐々木が持ったことはたぶんない。

なのに今年はなぜか△△姿の女の子たちを見て感じたのは、強烈な×××しさだった。

×××しいと頭で思うレベルではない。

あの光景のあまりの×××しさに自分の全身の細胞が身をよじり出すレベル。

新■■達にとっても、その親御さんにとっても、■■式は100%祝福すべき節目。

また女の子達が着る△△には、女の子自身の思いや親御さんの思いや苦労だけでなく、△△をデザインする人、作る人、売る人など数えきれない人々の思いや苦労が詰まっている。

そうした人々の思いや苦労をけがすことは倫理的に許されるものではない。

また佐々木が望むところでもない。

その一方で自分が感じたことを表現しておきたいという欲求も抑えがたい。

なので今日は伏せ字のオンパレードで書く。

なぜ今年に限って佐々木は■■式の女の子の△△姿に強烈な×××しさを感じたのか。

去年までと何が違うのか。

原因は佐々木の内部にあるようにも外部にあるようにも考えられる。

また内部原因と外部原因それぞれに良い方向の変化と悪い方向の変化が考えられる。

たとえば佐々木の内部における良い方向の変化として考えられるのは佐々木の審美眼のレベルが上がったとか。

佐々木の内部における悪い変化として考えられるのは佐々木の感覚が年寄りくさくなったとか。この歳になって結婚もせず子供もいないせいじゃないかとか。

佐々木の外部における良い方向の変化として考えられるのは■■式の女の子の△△姿よりよっぽど美しいものを目にする機会が増えて相対的に■■式の女の子の△△姿が美しく見えなくなったとか。

佐々木の外部における悪い方向の変化として考えられるのは新■■の心身のあり方が悪化しているとか△△のデザイン性が悪化してるとか。

どれも説得力があるようなないような。

とりあえず自分の中で言語化してみてうんそうだよなと感じるのは今の新■■の女の子たちが着てる△△のデザインってなんだか七五三の衣装みたいだなということ。

小学校1年生以下の女の子があの方向性のデザインの衣装を着ていたらそれはもう赤の他人でさえ可愛らしいと思うし可愛らしさだけでなく成長の節目を迎えたことを祝福する気持ちや民族の美しい伝統に連なることへの誇らしさも湧くだろう。

幼女の幼女性の健やかな成長を願い祝う感情や精神の表現としてあの衣装のデザインは実に優れていると思う。

でも新■■を祝福する感情や精神の表現が幼女の幼女性を祝福する感情や精神の表現と一致するって果たしてどうなんだろう。

まして先行き厳しさが予想されるこの時代に。

先行きの厳しさを予想するからこそあえてなんちゃって幼女に徹して楽しむというのもアリだとは思うけどそこまで自覚的な新■■がどれだけいるか。

疑問。

2012年1月8日日曜日

芸術家の弟子

「芸術家の弟子は芸術家ではない」という命題が昨年末あたり頭に浮かび以来時々思い出しては吟味している。

芸術家というのは彼・彼女独自の芸術世界あるいは美の世界の創造者であり統括者なのではないか。

皇帝の臣下を皇帝とは呼ばない。

皇帝も皇帝になる前は皇帝の臣下であったにせよ。

同様に芸術家も芸術家になる前は芸術家の弟子たらざるを得ないのかもしれないが芸術家の弟子でいる限りはまだ芸術家ではないのではないか。

という思いつき。

じゃあ芸術家の弟子がやってることは芸術ではないのか。

芸術だとするならば芸術をやっていながら芸術家ではないとはこれいかにという疑問が浮かんでいろいろ考えているうちに思いついた答えがあれは芸術じゃなくて芸事(げいごと)なのかなと。

習い事の中で特に高度の芸術性を追求するものを芸事(げいごと)と呼ぶのかと。

なら習い事の本質は何かとか芸術性とは何かとかまたいろいろ疑問も出てくるのだがこれらについてはまだ考え中。

2012年1月7日土曜日

声にツボる

午後私用で都内に出た帰り。

中央線快速が四谷駅を出発してすぐブレーキがかかりそのまま停止。

しばらくして車内放送。

2つ前の電車が緊急停止信号を受信して停止したとのこと。

復旧まで時間が掛かることも覚悟し鞄から原稿下書きノートを取り出す。

佐々木の目の前には四谷駅から乗った大学生らしき女の子2人組。

2つ前の電車は架線の切れ目で停まったため現在車両点検中とか、運転士が屋根の上のパンタグラフを下げているとか、要領を得ない車内放送の繰り返し。

女の子の1人がボヤき口調で「そんなこと詳しく言われたってわかんないよねぇ、どれぐらいで動くのかが知りたいんだよねぇ(笑)」と。

的確な突っ込みとユーモラスな口調に思わず笑いが込み上げるが、いい年こいたおっさんが見ず知らずの女子大生の会話を横で聞いて笑うのを恥ずかしく思うぐらいの沽券はありぐっと笑いをこらえる。

「なんだ架線の切れ目かぁ、架線が切れたのかと思った」とか聞いてるととにかく可笑しい。

「だいたい中央線の快速ってさぁ、朝とかぜんぜん快くも速くもないし(笑)」とのたまうのを聞いたあたりで何かが自分の中で決壊した。

その子の話が可笑しいとかいうレベルではない。

その子の声が耳に入ってくるだけで抑えられない笑いが込み上げてくる状態。

完全にツボってしまった。

「うちらの世代ってさぁ、将来仕事がないうえに年金ももらえなくてさぁ、悲惨だよねぇ」とかそんな話が耳に入っても内臓直下型の大揺れが突き上げてくる。

冗談じゃなく、ある種の急性疾患だと思う。

なんとか笑いを悟られないようにノートを顔の前に広げていたが、果たして効果があったかどうか。

5分ほど経ってようやく電車が動き、まもなく新宿駅に到着して解放されたが、あの状況が10分以上続いていたら自分の体が正常でいられたかどうか自信が持てない。

どこまでネタかわからないがWikipediaには「笑い死に」などという項目もあった。

笑いあなどるべからず。

あの女の子が笑いの天才だったのか。

たまたま佐々木がそういう心身の状態だったのか。

あの状況で笑いをこらえたのがかえってよくなかったのか。

謎の多い体験だった。

2012年1月6日金曜日

退屈

退屈で死にそうなんていう表現に接すると退屈で死んだやつはいないよとつっこみたくもなるが一緒にいる人に対して退屈を感じてしまうと命をむしばまれる感覚を覚えるのもたしかでもしかすると第三次産業が主要産業になった時代というのは退屈ごときでむしばまれてしまうひ弱な命を地球上に繁茂させた時代なのかもと思った。

2012年1月5日木曜日

魚類的行動

昨年末に来年(今年)の抱負などつらつら考えていたら「魚類的に行動する」などという言葉というかイメージがポンと湧いて自分でもなんのこっちゃと思いつつわけのわからないアイデアほど真剣な検討に値するという信念に従いその意味をあれこれ考えていた。魚類的な運動のあり方もしくは体の使い方なら普段からトレーニングで目指しているけど行動と運動は違う。思ったのはひょっとすると人間的に行動していたら生き残れないほどの異常事態の到来を自分は予感していてそういう異常自体で生き残る行動のあり方を「魚類的」という言葉で感覚的にとらえているのかなと。もちろん人間なんだから常日頃は人間的に行動するべく意識し続けるべきなのだが人間的に行動していては生き残れない事態が予想されるならば人間的に行動するのをやめてでも生き残る覚悟を決めて準備しておくのが人間的なのではないか。たとえそうした事態に見舞われるのが1年365日のうちたった1日あるいは数時間もしくは数分に過ぎないとしても。

2012年1月4日水曜日

今年の桜

今年実現したいささやかな目標の一つ。

景色のいいところで満開の桜をぽや~んとした気持ちで眺めたい。

去年ほど桜の花を愛でる意欲が湧かなかった年はなかった。

今ぐらいの自分の体と心の気持ちのよさのまま桜の開花を迎えられれば余裕で実現できる目標のはず。

どこの桜が一番ぽや~んとした気持ちで眺めるのにふさわしいか春が来るまでに考えておかなければ。

2012年1月3日火曜日

奥山に人知れぬ滝を求めて

誰も笑わない冗談を追求する人々がいる。

これにも2種類ある。

1つは冗談のしょうもなさに対する周囲の憫笑や冷視線を快とする人々。

もう1つは冗談が冗談であることにさえ気づかれぬことを快とする人々。

両者はまったく異なるタイプの人々である。

滝にたとえるなら、前者は滝に打たれる苦しみを快とする人々であり、後者は誰も見たことがない滝を見つけることを快とする人々であろう。

前者の快は滝に打たれる当人を観る者が多ければ多いほど大きい。

後者の快は共に滝を観る者が少なければ少ないほど大きい。

佐々木は前者の快を追求する気にはなれないが後者の快は(ry。

2012年1月2日月曜日

古典読破計画2012

古典読破計画。

今年は下記。

1月 『帝国主義論』ウラジーミル・レーニン
2月 『ヒューマン・アクション―人間行為の経済学』ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス
3月 『プリンキピア・マテマティカ序論』アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド、バートランド・ラッセル
4月 『ゲームの理論と経済行動』ジョン・フォン・ノイマン、オスカー・モルゲンシュテルン
5月 『確率論の基礎概念』アンドレイ・コルモゴロフ
6月 『人知原理論』ジョージ・バークリー
7月 『人間知性研究』デイヴィッド・ヒューム
8月 『人間悟性論』ジョン・ロック
9月 『プルターク英雄伝』プルターク
10月 『星界の報告』ガリレオ・ガリレイ
11月 『君主の統治について―謹んでキプロス王に捧げる』トマス・アクィナス
12月 『春の雪』三島由紀夫

読んだところでほとんど理解できないと予想される本が半分以上。

でも読む。

理解できるようになってから読むとか思ってたら絶対読まない。

自分が理解できそうな本ばかりいくら読んでも自分の思考の枠が強化されるばかり。

自分が生まれるずっと前から世界中でこいつはすげぇと評する人が現れ続けている著者の本を読んでそのすごさが理解できなかったら原因は間違いなく自分自身にある。

その原因をおぼろげならでも感じとることで自分の枠を広げたい。

3月の大地震で床に散乱した本を棚に戻しながらいつまでも手元に置いて読み返したい本ってわずかしかないなとつくづく思った。

自分が生まれる前から読み継がれてきた本と自分が死んでからも間違いなく読み継がれる本以外は手元に置いておく気がなくなった。

あれ以来ビジネス書と言われる本は一冊も買ってない。

新刊本もほとんど買ってない。

たぶん今年も。

2012年1月1日日曜日

初日の出

正月もふだん通り淡々と過ごすつもりでいたけど初日の出を見たら「よーしいい年にするぞー」という気持ちがふつふつと沸いてきた。


国道16号線相模大野駅南口入口歩道橋にて
 
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