2011年11月30日水曜日

70歳の美貌

最近ある会社のお客様インタビュー記事制作の仕事で、70歳の女性にお話を聞く機会があった。

たいへんお美しい方だった。

「老け込み感」ゼロ。

「若作り感」もゼロ。

表情も対応も明るくにこやか。

立ち姿も座り姿もスーッとして軽やか。

下手すると70歳の今も、人としての美しさは増し続けてるのではないかと思うほど。

なぜこの人は70歳でこんなに美しいんだろう?と思いながらインタビューしていた。

それが目的のインタビューではなかったから直接に尋ねはしなかったが、お話から浮かび上がるその方の精神や生活のあり方の随所に、70歳になっても人を美しくあり続けさせる要因と想像させるあり方が散りばめられていた。

その中の一つが、その女性が5年前にご主人が亡くなられるまで御夫婦で写真館を経営していて、その女性がずっと助手を務められていたこと。

しかもその女性、相当の完璧主義。

お客さんを少しでも美しく撮影できるように、撮影時には、カメラの前に立ったお客様の頭のてっぺんから爪先まで、チェックを怠らなかったらしい。

他人を美しく見せるために厳しく培った美意識が、ご自身を美しくするためにも作用し続けている。

そんなふうに感じた。

これは佐々木自身にもちょっと希望のある話である。

というのも佐々木は、広告用のインタビュー記事制作の仕事で、インタビュー対象の方が人間として少しでも魅力的に見えるように書かなければならない義務を負っているから。

そのせいで培わされる人間性のあり方に対する美意識が、自分自身のあり方を高める方向にも働いてくれるといいなと思った。

2011年11月29日火曜日

久里浜海岸へ

1853年にペリーが上陸した横須賀市の久里浜海岸から1.5 kmぐらいのところで、本日、取材の仕事。

ちょうど吉田松陰の『留魂録』やその付録の「史伝・吉田松陰」を読んでいたところだったので、久里浜海岸や、ペリー上陸記念碑を見てきた。



久里浜海岸から東京湾を見ながら、浦賀沖に黒船が現れた時江戸からこのあたりまで徒歩ですっ飛んできた松陰の心情やら、当時と今の、日本にとってのアメリカの位置づけの相違やら共通性やらを思った。

《七たびも生きかへりつつ夷をぞ攘はんこころ吾れ忘れめや》(『留魂録』)の思想を佐々木は共有するものではないが、松陰が「攘夷」によって守らなければならないと考えた価値の中のある部分は、現代日本において、諸外国との交流を維持発展させつつも、依然守るべき何かとして残っているのではないか、と自分に問うてみたりもしつつ。

2011年11月28日月曜日

詩を作れ

門下生を送り出すにあたり、一人一人に心のこもった「送叙」を贈った吉田松陰。

入江杉蔵への「送叙」の結び
《杉蔵往け。月白く風清し、飄然馬に上りて、三百程、十数日、酒も飲むべし、詩も賦すべし。今日の事誠に急なり。然れども天下は大物なり、一朝奮激の能く動かす所に非ず、其れ唯だ積誠之れを動かし、然る後動くあるのみ。七月十一日》
を読んで、あー吉田松陰っていい先生だな、と思った。

義務教育上の単なる一課題としてではなく、青年が見事な人生を生きるための必須課題として「詩を作れ!」と命じる先生なんて、そういない。

「ロジカル・シンキング」とか「プレゼンテーション力」を青年の必須課題とする先生は大勢いても。

自然や社会や人生や芸術に五感で触れ、感情を逐一言語芸術に昇華させることで自分の魂を高め磨くことを、吉田松陰は、志士の必須の行ととらえていたということなのだろう。

人生や政治の「目的」のとらえかたが、現代人のそれとは根本的に異なっていたに違いない、との思いを強くする。

2011年11月27日日曜日

化学の基礎を勉強中

別の自然科学関係の本を読んでいて、その本のせっかくのおもしろさが自分の化学知識の足りなさゆえにわかりきらないのがもの足りなくなってきて、今、『高校で教わりたかった化学』(渡辺正、北條博彦)という本を読んでいる。 おもしろい。化学の本を読んでこんなに心ときめくとは思わなかった。分子や原子や素粒子に関する非弁証法的な説明がかえって対象の弁証法性を鮮やかに浮かび上がらせるという、おそらく著者が意図しなかったであろう興奮を味わっている。著者達の説明がわかりやすいせいもあるし、社会科学的な事象における非弁証法的な説明がかえって対象の弁証法性を浮かび上がらせる様を佐々木が習慣的に楽しんできたせいもある。

2011年11月26日土曜日

映画「ATLAS SHRUGGED PART I」をDVDで観た(11)

原作の知識なしに映画「ATLAS SHRUGGED PART I」を観た人がどんな印象を受けるかは、なかなか想像がつかないのだが、とにかく最後まで観れば、ラスト近くの、ジョン・ゴールトがエリス・ワイアットを「アトランティス」に誘うセリフだけは頭に残るようにできていると思う。
"The government we have there respect each of us as individuals and as producers. Actually, beyond a few courthouses, there's not much of a goverment at all. Bottom line, Mr. Wyatt, if you're weary of a government that refuses to limit its power over you and if you're ready to claim the moral right to your own life, then we should leave. And I'll take you there. I'll take you to Atlantis."
「僕たちが住むアトランティスの政府は、僕たち一人一人を個人として、また生産者として尊重します。実際、いくつかある裁判所を除いて、ほとんど政府は存在しません。ワイアットさん、もしあなたが、あなたに対する権力の行使に制限を加えることを拒む政府にもううんざりしているなら、そしてまた、あなた自身の人生に対する道徳的権利を主張する用意があるなら、僕たちは立ち去るべきです。あなたにその意志があるなら、私があなたを、アトランティスにお連れしましょう」
あのセリフにこめられた「小さな政府」指向の政治思想・社会思想を、現代のアメリカ人に伝えることを第一の目的にあの映画が作られている、と考えると、舞台をわざわざ「2016年のアメリカ」に変えた理由も、納得がいくといえばいく。アメリカの政治状況のことは皆目わからないが、現代のアメリカにおいて効果的とされている政治的メッセージの伝え方のパターンを、あの映画は踏襲しているような気もする。結果として、原作が持っていた時代的・地域的な普遍性は、だいぶそぎ落とされてしまったと思うけど。

2011年11月25日金曜日

映画「ATLAS SHRUGGED PART I」をDVDで観た(10)

映画「ATLAS SHRUGGED PART I」のラスト近く、エリス・ワイアットの前に姿を現したジョン・ゴールトが、
"Who the hell are you?"
と尋ねられて、
"My name is John Golt."
と答える。

まだ姿や正体は隠したままとはいえ、"Who is John Golt?"の答えをもう明かすんだ、と驚いた。

構想されてる「PART II」・「PART III」とのつながりを踏まえての、ここでの"My name is John Golt."なのだろうけど。

それより何より佐々木が一番違和感を覚えたのは、ジョン・ゴールトがエリス・ワイアットに「Atlantis」がどのような場所かを説明したセリフの中の、次のくだり。
"It's a place where heroes live. And where those who want to be heroes live."
「ヒーローと、ヒーローになることを望む者が住む場所」?

「ヒーロー」という言葉に、激しい違和感が。

原作では"heroes"なんて言葉、使ってたっけ。

使ってない気がするのだが。

ざっと原書に目を通したが、佐々木には見つからなかった。

佐々木の理解では、「ヒーロー」というのは、多数の人々から称賛・崇拝される人だ。

つまりある人物が「ヒーロー」であるか「ヒーロー」でないかは、「他人の評価」に依存するということだ。

ランドは原作で、「Atlantis」へと去る人々を「アトラス」と表現した。

「アトラス」は、人知れず世界を支える神。

ある人物が「アトラス」であるか「アトラス」でないかは、「他人の評価」に依存しない。

ただその人物が客観的に世界を支えているかどうかに依存する。

ランドは自分の思想を「客観主義」と称した。

自分や他人の好悪や評価よりも、これらとは無関係に客観的に存在する事実や法則に従って生きる、という含意も、この「客観主義」という言葉にはあると思う。

であるからこその「アトラス」という表現だと思うのに、それを「ヒーロー」と表現するとは。

もちろん言葉は時代や場所でその意味を変えるものだから、もしかすると現代のアメリカでは、「他人の評価とは無関係に偉業を成す人々」という意味で"heroes"という言葉を使うこともあるのかもしれないけど。

ただ、この映画を通して、主人公たちが他人や世間からいま一つ超然としきれてない感じが、ずっと気になっていた。

その一番の典型が、ジョン・ゴールト線開通時の、ハンク・リアーデンと一番列車に乗り込むダグニーが新聞記者から
"Who is John Golt?"
と尋ねられて
"We are."
と答えるまでの、あの間。

なんなんだあの大見得は。

あの見ていて赤面するほど安っぽい演出と、「Atlantis」に去る者を「ヒーローと、ヒーローになることを望む者」と説明してしまうセンスは、大いに関係がある気がしてならない。

2011年11月24日木曜日

映画「ATLAS SHRUGGED PART I」をDVDで観た(9)

映画「ATLAS SHRUGGED PART I」で他にいい感じだなと思ったのは、マイダス・マリガン役の俳優さん。

あとエリス・ワイアット役の俳優さんも。

なんといっても人間としての余裕を漂わせてるところが。

主人公達を演じる俳優さん達に、あの余裕感がいまひとつなかったのが残念。

「ATLAS SHRUGGED」の“アトラス”達には、“世間”のあり方のひどさなどまったく気にもとめないぐらいの余裕感を漂わせてほしかった。

それが人間としてのスケールの大きさの徴証になるというだけではない。

“世間”のあり方のひどさを“許容”してしまうことは“罪”なのではないか? というのは、原作の大切なモチーフの一つなのだから、少なくとも姿を消す前の“アトラス”達は、“世間”のあり方のひどさなど気にもとめない風情でいるべきではないか。

やっぱり、と言っていいのかどうかわからないが、あの映画を通して、全般的に若い俳優さんがショボくて、年配の俳優さんのほうがイケてるという印象を受けた。

それが演技の円熟ということなのかどうか、佐々木には判断がつかないけど。

2011年11月23日水曜日

映画「ATLAS SHRUGGED PART I」をDVDで観た(8)

映画「ATLAS SHRUGGED PART I」の中で、ハンク・リアーデンと妻の短いセックス・シーンも、なかなかよかった。

見た瞬間、「これぞハンク・リアーデンと妻のセックスだ」と思った。

ハンク・リアーデンは妻を人間的に軽蔑していながらも、妻を侮辱することは「ハンク・リアーデンの妻」という立場を侮辱することであり、これは「ハンク・リアーデン」という自分自身を侮辱することでもあると感じているがゆえに、人間的に軽蔑している妻を「ハンク・リアーデンの妻」として努めて尊重している。

また人間としての妻に対する自分の評価や感情とはまったく無関係に、若く精力的な男として、排泄欲的な性欲も下半身が爆発しかねない水準で持っている。

こういう「心と頭の葛藤」や「頭と下半身の葛藤」を、あのハンク・リアーデン役の俳優さんは、裸の背中で見事に表現していた。

2011年11月22日火曜日

映画「ATLAS SHRUGGED PART I」をDVDで観た(7)

映画「ATLAS SHRUGGED PART I」は、3部作の第1部として制作されているらしい。

「PART I」で描かれているのは、原作のうち、有能な人物が次々に消えて世界が混乱しだすあたりから、ジョン・ゴールト線の開通を経て、ダグニー達が謎のエンジンの開発者を追い始めるあたりまで。

映画を観終えて佐々木が思ったのは、「PART I」は、主人公達の少年少女時代から描き始めるべきだったのではないかということ。

あの映画ではダグニーが「有能だけどやたらイライラしてる女」にしか見えないのが非常に残念。

「PART I」は、ほとんど主人公達の少年少女~学生時代の描写だけで終わってしまってもよかったのではないかとさえ思う。

ジョン・ゴールト線開通のような大きな山場はなくても、映像的にもモチーフ的にも、素晴らしい描写になるに違いないシーンは山ほどあると思うのだが。

二十世紀モーター社で超平等主義の経営が始まり、フランシスコ・ダンコニアがダグニーの前から消えて、起業家・資本家を叩く世論が盛り上がり、海賊が横行し出すあたりで「PART I」が終わったら、それで十分、『ATLAS SHRUGGED』の世界と思想は描けると思う。

『ATLAS SHRUGGED』から主人公達の少年・少女時代の肉体や精神のあり方のみずみずしさをそぎ落としてしまったら、あの作品世界は、あまりにも暗さと重さに満たされ過ぎてしまう。

ジョン・ゴールト線の開通シーンだけでは、あの暗さと重さは、とても支えきれない。

少年・少女達のロール・モデルになるぐらいの、輝かしい「少女ダグニー像」や「少年フランシスコ像」を描き切る映画「PART 0」を作ってくれる優秀な映画人が、どこかにいてくれたら!と心から思う。

それとも既に「PART II」は、主人公達の少年少女時代編として構想されているのだろうか。

2011年11月21日月曜日

映画「ATLAS SHRUGGED PART I」をDVDで観た(6)

できるだけ期待のハードルを下げて観た映画「ATLAS SHRUGGED PART I」、それでも「期待外れ」の思いを強く持ってしまったのが、ジョン・ゴールト線の開通シーン。

原作前半の山場中の山場。

期待のハードルを下げようとしつつも、やっぱり期待してしまっていた。

今年4月にアメリカでこの映画が公開されたのを機に『肩をすくめるアトラス』を読み返して、改めて、ジョン・ゴールト線の開通シーンは名場面だと感じ入っていたから。

あの場面は、沿線や機関車内の描写の一つ一つが、単なるダグニーにとっての開通の喜びの表現であるだけでなく、人間の理性の力に対する確信の表現でもあり、ハンク・リアーデンという男の力に対する情欲の表現にもなっている。

こういう現実と思考と感情を重ね合わせての表現は、小説の得意とするところではあるが、映像表現でも、まったく不可能ではないはず。

アイン・ランドの作品への思い入れがある映画人なら、ここは一発、映画史にその価値を問うぐらいの、一世一代の映像表現を見せてくれるのではないかとの淡い期待もあったのだが。

あの運転室のセットの“書き割り感”はもう悲しくなるほど。

あんなスピードでカーブを通過したらレールの出来不出来とは無関係に列車が横転するって。

リアーデンメタル製の橋を通過してリアーデンに抱きついて、試運転後の打ち上げではっちゃけて。

もう小~中学生対象のSF映画かっていうぐらい薄っぺらな“成功”表現。

がっかり。

2011年11月20日日曜日

映画「ATLAS SHRUGGED PART I」をDVDで観た(5)

映画「ATLAS SHRUGGED PART I」で、「期待を上回った」というところまでは行かないのだがけっこう「おっ」と思ったシーンがあって、それはダグニーの部下がダグニーに退職を申し出るシーン。

このシーンまでずっと、佐々木の中でイメージしていた『肩をすくめるアトラス』の世界からかけ離れたシーンが続いてたのが、このシーンではじめて、佐々木のイメージに近いやりとりが見られた。

「佐々木のイメージに近いかどうか」という問題の立て方だと、単なる偶然性の問題になってしまうのだが、どうも、偶然性の問題に解消してしまってはいけないのではないかとも思う。

あのダグニーの部下を演じた俳優さんの、役柄やシーンに対する理解の深さだとか、演技者としての表現力の高さとか、そういうものも関係してるのではないかと。

映画とか芝居ってほとんど観ないから、いまひとつ、自分の解釈に自信がないのだが。

「演技が下手」とか「大根」と役者が感じさせる理由の一つに、「言葉で説明できてしまう感情だけを、言葉で説明できるように演じているにすぎない」というのがあるのではないか。

たとえば「仕事が達成できて嬉しい」と言葉で説明できてしまう感情を、「あー仕事が達成できて嬉しいんだな」と鑑賞者が言葉で理解できてしまうようにしか演じられない、みたいな。

そういう意味で言うと、あの映画の主人公達を演じた俳優さんたちの演技は、けっこう「大根」度が高かった気がする。

そんな中、あのダグニーの部下を演じた俳優さんだけは、まだ言葉になる前というか言葉になりきらない部分の感情まで掘り下げて人物のあり方をとらえて、表現し切っていたように思う。

それはもちろん、あの俳優さんの能力とか心がけが優れていたということもあるのだろうけど、それだけではなく、あのシーン自体が、「言葉になりきらない部分」の表現を特別に要求するシーンだった、ということもあるのではないか。

なにしろダグニーのように格別に理解力の高い人物にさえ説明できない「理由」を内に押し隠して退職を申し出る、というシーンなわけだから。

とにかくあの俳優さんの最後のアップの表情というか「目」はすごくよかった。

2011年11月19日土曜日

映画「ATLAS SHRUGGED PART I」をDVDで観た(4)

映画「ATLAS SHRUGGED PART I」でもう一つ佐々木の期待を大きく上回ったシーンが、ジョン・ゴールト線の社債購入者名簿だか何かにハンク・リアーデンがしたサインがアップで写ったシーン。

「おーッ!これこそまさにハンク・リアーデンのサイン!」と、けっこう興奮してしまった。

ハンク・リアーデンを演じる俳優があまりにも佐々木のイメージとかけ離れていてがっかりしていたので、余計いい方向に期待を裏切られた。

ハンク・リアーデンがなんであんなに若いんだ? なんであんなにホワイトカラー然としてるんだ? ハンク・リアーデンが過去に積み重ねてきた苦労がぜんぜんにじみ出てないじゃないか、と不満たらたらで見てたから。

あのサイン、あの俳優さんの素の書きっぷりなのだろうか。

それとも、ハンク・リアーデンのサインはいかにあるべきか? みたいな研究を自分で積み重ねたり、制作者達と相談したりしながら、あのサインにしたのだろうか。

ちょっと聞いてみたい。

2011年11月18日金曜日

映画「ATLAS SHRUGGED PART I」をDVDで観た(3)

映画「ATLAS SHRUGGED PART I」で佐々木の期待を一番上回ったシーンは、ジョン・ゴールト線への敷設が済んだ青々と光輝くリアーデンメタル製レールが、最初にアップで映し出されたシーンだった。

感動さえしてしまった。

コンピューター・グラフィックスで合成されたのであろう、あの不自然なくらいに光を放つレールの映像を見て、まさかウルっとくるとは思わなかった。

予告編であのレールを見た時は、「安っぽい映像処理をするなぁ」ぐらいにしか感じなかったのに。

「リアーデンメタル製のレール」がハンク・リアーデンやダグニー・タッガートにとって持つ意味の大きさを視覚的に表現すれば、やっぱりあれぐらい強烈な光を放つ存在として描く他なかったのだろう。

「リアーデンメタル製のレール」に対するハンク・リアーデンやダグニー・タッガートの思いが理解できない者が見れば「不自然」としか感じられないほど強烈な光を放つ存在として、描く他なかったのだろう。

佐々木に映像処理の知識はまったくないが、実写映像の中であのように重みのある光を表現するのは、それほど簡単なことでははかったのではないか。

たぶん佐々木は、あのレールの映像自体に感動したというよりも、レールに対するハンク・リアーデンやダグニー・タッガートの思いをあまさず受け止めてあのようなレールの映像を作りあげた制作者達の思い、あるいは魂のあり方に、感動したのだと思う。

2011年11月17日木曜日

映画「ATLAS SHRUGGED PART I」をDVDで観た(2)

期待のハードルをできるだけ下げて観た映画「ATLAS SHRUGGED PART I」で、一番最初に佐々木の期待を上回ったシーンは、ハンク・リアーデンがはじめて登場した場面の直後、リアーデンの秘書が登場したシーンだった。

あのリアーデンの秘書を見て、はじめて佐々木は、「これぞアイン・ランドの思想を体現した人物!」という興奮を覚えた。

「淡々とした有能さ」というか。

「抑制の効いた貢献意識」というか。

ある他者と自己が取り結ぶ関係において、いかなる関係のあり方が当該他者と自己の双方の生命にとって有益であるかということは、当該他者の認識からも自己の認識からも独立した、客観的事実である。

だからある他者と自己の双方の生命にとっての有益なあり方や行いを判断するにあたって第一義的に重要なのはこの客観的に最適な関係であって、当該他者および自己の評価や感情ではない。

もちろん人間は豊かな感情生活や精神生活を持つという点で生命体一般からは区別されるから、互いの評価や感情も互いの関係を構成する重要な要素であることは間違いない。

だが人が自己のあり方や行いを決定するにあたり他者の評価や感情に対して客観的に妥当な水準を上回る重要性を付与し、他の客観的諸要素に対して客観的に妥当な水準を下回る重要性を付与すれば、その誤りの報いは、自己と当該他者の双方に及ぶばかりか、時に両者が属する社会にまで及ぶ。

だから人は他者と自己の双方の生命にとって客観的に有益な貢献のあり方を認識することに最大限の努力を注がなければならない。

他者の評価や感情に対する過剰な配慮によってこの客観的に有益な貢献のあり方に対する認識が曇らされることがないように、他者の評価や感情を配慮することに抑制的でなければならない。

認識した客観的に有益な貢献のあり方を実践できる程度に有能でなければならない。

佐々木が理解する限りでのアイン・ランドの「客観主義」によれば、そういうことになる。

これがおそらく、映画「ATLAS SHRUGGED PART I」でリアーデンの秘書が示した「淡々とした有能さ」や「抑制の効いた貢献意識」に佐々木が感じ入り、「これぞアイン・ランドの思想を体現した人物!」と興奮した機序である。

ついでにあの映画に登場したフランシスコ・ダンコニアは、この意味での「淡々とした有能さ」や「抑制の効いた貢献意識」が欠け過ぎだった。

2011年11月16日水曜日

映画「ATLAS SHRUGGED PART I」をDVDで観た

今年4月にアメリカで公開されたアイン・ランドの代表作『ATLAS SHRUGGED(肩をすくめるアトラス)』の映画化作品のDVDが、今月8日に発売されて、昨日届いた。

本編は同じでオマケ映像だけ違うというコレクター向け4枚組ボックスセット。



こんなセットを売るほうも売るほうだが買うほうも買うほうだ。

昨日、寝る前に本編の前半を観て、今日、朝起きて後半も観終えた。

そもそもあれだけのスケールと哲学性と思想性を持った原作を映画化するという試み自体が不可能に近く思われる上に、人生のバイブルと言えるほど原作に自分が入れ込んでいるとあってはどれほど優れた映画化作品であっても失望させられることになるのは観る前からわかりきったことで、しかも予告編を観た段階で主人公を演じる俳優たちの存在感の軽さや映像の安っぽさにがっかりさせられて、本編を観たアイン・ランド・ファン達の評価も低いとあっては、期待して観る方が無理というもの。

なので期待のハードルを思いっきり下げて観た。

おかげでけっこう期待を上回って楽しめた。

まさかこんなところでウルッと来るとは思わなかったところでウルッと来たりもした。

期待を下げて観てなお期待を下回った部分もちらほらあったけど。

冒頭部分を最初に観た時はなんだかバタバタとわけのわからない始まり方だと思ったけど、もう1回冒頭だけ観直したら、これはこれで、原作のことを何も知らない人が観たら、それなりに楽しめる作品になってるのかもと思えてきた。

もしかするとこの映画からランドの世界に入ってきてくれる人もいないとは限らない気がしてきた。

でもとにかく原作が既に頭の中にある状態でこの映画を純粋に楽しむのは無理。

ただ原作に入れ込んでる者同士でこの映画をわーわーくさし合うのはけっこう楽しそう。

2011年11月15日火曜日

平和は祈りや願いの成果物にあらず

23歳で就職してしばらくして勤務先の広告やパンフレットの制作の仕事をするようになったとたんそこら中で目にとまる広告の1つ1つが膨大な逡巡や思惑や議論や喧嘩や妥協や作業や徹夜や体調悪化や謝罪や弁明の末に生み出されているのだということが急に生々しく実感されだれして驚いたというかむしろそれまで自分が毎日のように膨大な量の広告を目にしていながらそれらの1つ1つに作り手や作るプロセスが存在しているということさえ想像したことがなかったということに驚いたものである。人は自分が担ったことがない仕事についてはその存在さえ意識しない傾向があると言えると思う。さて国家の統治だの外国政府との折衝に責任を負う経験をする人間などこの世に千万人中数人もいないわけだがこのことと平和が祈りや願いによって維持達成されるべきものと考える人々の多さとの間には関係があるのではないかと最近よく思う。平和というのは「人々」だとか「みんな」だとか「私たち」だとか称される匿名の群衆の祈りや願いの成果物などではなく職務として国家の統治や外国政府との折衝を担うきわめて少数の人々による膨大な逡巡や思惑や議論や喧嘩や妥協や作業や徹夜や体調悪化や謝罪や弁明の積み重ねの成果物と見るべきなので戦争は起こされるものというよりもむしろ平和の維持達成というほとんど失敗するのが当然で成功するほうが不思議なくらい困難な仕事の無理もない失敗によって起きると見るべきなのではないだろうか。少なくともそういう見方もしたほうがいい気がする。

2011年11月14日月曜日

透明な存在の透明な視覚表現

来月発売される畠山美由紀のアルバム「わが美しき故郷よ」のジャケットイラストがすごい。



海が描いてないのに海が見える。というか海を見る気持ちが見える。たまげた。

2011年11月13日日曜日

このまま行けるとこまで

昨日今日と2日続けて近隣の武術仲間と集まって稽古。特に背骨の使い方について、もうこのまま行けるところまで行きたい、常識的にあり得ないぐらいの上達をしてやりたい、という気にちょっとなってきた。

2011年11月12日土曜日

産業社会脳

佐々木が高校生の時まで住んでいた市には日本を代表する自動車メーカーの大工場があった。小学校の社会見学でその大工場を訪れた時に日本の年間自動車生産台数だかなんだかがついにアメリカのそれを追い抜いただか追い抜くだとかという話をメーカーの方から聞いてずいぶん誇らしい気持ちになったのを覚えている。佐々木の中学生の頃の夢は日本の有名メーカーにエンジニアとして就職してハイテク工業製品の開発に携わることだった。アルビン・トフラーの『第三の波』を読んでつくづく思ったのだが佐々木の少年時代はまさに日本が産業社会としてのピークに到達しようとしていた時代だった。そのような時代に少年時代を過ごした自分の頭の中が過剰なまでに産業社会的に構成されてしまっているのも無理はないなと。日本が産業社会としてはとっくにピークを過ぎてしまった今でも産業社会的な幸福追究をやめようとしない部分が自分の中に強固に残っていることに自分でもちょっとあきれている。

2011年11月11日金曜日

食べられる煮干しって

佐々木は一度も買ったことがないのだがスーパーでよく「食べられる煮干し」というのを売っている。ダシ取り用の煮干しってそのまま食べたらいけなかったのか。佐々木は食事の時にちょっとたんぱく質系が足りないと思ったら普通にダシ取り用の煮干しをそのままかじってるが。ときどきオヤツがわりにもかじってるし。というか煮干しでダシを取るなんてたぶんもう10年以上していない。あと3月の震災の後缶詰とかカップ麺とかとにかく日持ちしそうで調理がほとんどいらなそうな食品がスーパーの棚から消えたことがあったがあの時もなぜか袋詰めの煮干しは売り切れもせずにふだんどおりの量が棚にならんでいた。調理がいらなくて日持ちする食品といったら佐々木は真っ先に煮干しが思い浮かぶのだがどうやらそういう人間は圧倒的に少数派だったらしい。

2011年11月10日木曜日

高速列車通過映像セラピー

頭が疲れ切って何も考えたくない時にYouTubeで新幹線「のぞみ」や「はやぶさ」が時速300km近くで駅を通過していく映像をぼーっと眺めてると妙に癒される。自分では何の努力をすることもなく認識(頭の中の映像)だけが揺さぶられるのがよいのだろうか。マッサージチェアーの脳内映像版というか。

2011年11月9日水曜日

思考の方向音痴

お客様インタビュー記事制作の仕事を回していただいている会社の社長に記事1本の制作にかかる時間を聞かれて答えたら「そんなにかかるの? 何にそんなにかかるの?」とあきれられた。自分でも時間かかりすぎだと思う。原因は単純に自分の頭の回転が遅いからだと思ってきたが自分は思考の方向音痴なのかもとも思い始めている。佐々木自身はいわゆる方向音痴ではないのでわからないのだが地図が読めないことと方向音痴であることは別のことなのではないか。地図を見て複数の位置同士の関係や経路を把握する能力と今まさに自分がいる位置や自分が向かっている方角を把握する能力は関係はあっても別の能力だから。とりあえず実用目的の文章を書いてお金をいただくことはできているわけだから対象の構造を把握する力という意味での思考力は佐々木にも一応あるのではないかと思う。だが今まさに思考している自分自身の思考が思考作業全体のどこに位置づけられるのかとかどこに向かっているのかを俯瞰的に把握しながら自分自身の思考を制御していく力はかなり欠落してる気がする。思考の段取り力みたいなものが強化できるものなら強化したい。

2011年11月8日火曜日

リンゴの実

「明日、世界が終わろうとも、今日私は、リンゴの木を植える」という格言がある。

佐々木には、いま一つ腑に落ちない格言だった。

意味ないじゃん。

ただ、佐々木が尊敬する少なからぬ人々がこの格言を称賛していたので、ずっとこの格言の意味を考え続けていた。

希望を失うな、ということなのか。

なんか違う気がする。

「明日世界が終わるように思えても、実際には終わらないかもしれないから」と言うのなら、「明日、世界が終わろうとも」という前提が、崩壊している。

「明日、世界が終わろうとも」という仮定の立てかたが、そもそも不自然なのだ。

不自然というか、あいまい。

「明日、世界が終わるとしたら」という仮定には、「明日世界が終わると予測されたら」という仮定と、「その予測の確度が100%であるなら」という仮定の、2つの仮定が混入している。

この格言を「希望を失うな」という意味に取るためには、後者の仮定を除外しなければならない。

後者の仮定も含めてこの格言の意味を解釈するには、どうすればよいのか。

一つ思ったのは、その成果が遠い将来に結実する仕事を計画し遂行するには、今日明日がどうなるかなど一切眼中にないかのごとき認識が必要になる、ということ。

あるいは、遠い将来に成果が結実する仕事の計画や遂行に、今日明日の予想がしばしば悪影響をもたらすことへの忠告と、この悪影響を乗り越えよという励まし。

この意味でなら、なるほど、この格言も有意義だ。

個人的にはやっぱり、もしも明日世界が終わると予測されて、その予測の確度が100%であるとするならば、なさねばならぬことは、「リンゴの木を植えること」じゃなくて、「リンゴの実を食べること」なんじゃないかと思う。

過去に「リンゴの木を植えた」人々はもうこの世に存在していないかもしれないにしても、その労働を無駄にしない倫理的義務というのは、存在しているような気がする。

2011年11月7日月曜日

老化

お客様インタビュー制作の仕事で、ここ2年ほどで、100人以上の方にインタビューさせていただいた。様々な年代の方にインタビューしていると、人間の言語面における老化現象がどのように現れてくるかに、嫌でも気づかされる。人は年を取ると、目の前の相手が今自分に何を聞きたがっているのかへの関心が、急激に薄れてしまう。そして自分で自分の話を止められなくなる。後者はともかく、前者は必ずしも悪いことではない気がする。自分が今まさに聞きたいことだけを相手が答えてくれる状態というのは、自分にとって快適である反面、自分の認識の既存の枠組みに収まる情報しか与えられないということでもある。年少者に向かって問われてもいないことを語りたいという欲求がが年長者に内在しているからこそ年少者は自分の内在的欲求と無関係に自己の認識の枠組みを高次化する機会を与えられるのだと、言って言えないこともない。とはいえコミュニケーションは円滑であるに越したことはない。自分が40歳の時に60代の方々の受け答えにどんな印象を持っていたかを、自分が60代になった時にも覚えていたい。

2011年11月6日日曜日

幸福

広告記事を書いてる間は毎回必ず最初から最後まで自分の才能のなさに煩悶・呻吟・嘆息し続けた挙げ句原稿が出来上がって自分が書いた原稿を読んで俺ってけっこうすごくね?と悦に入るのが最近のパターン。

自分が完成させた原稿を眺める時間が今一番幸福な時間かも。

以前は出来上がりに自分で大いに満足した原稿でもクライアントから直しがバシバシ入ることが多かったが最近はそれも減った。

なので幸福の持続時間が伸びた。

警戒が必要だとは思う。

クライアントからすれば書き手の満足などどうでもいいわけだし。

自分は売れてるものが好きになれない人間だから売れてるものを買う人の気持ちもわからないわけでゆえに人にものを買う気にさせる広告の執筆は無理と思っていた以前の自己認識を完全に放棄してしまうのは危ないと思う。

2011年11月5日土曜日

どうでもいい話

ブログで公開日記を書くようになって、自分の中で変わったことの一つが、「誰かに理解されたい」という欲求がほぼ皆無になったこと。

普通に社会生活を送っていれば誰でも、遅かれ早かれ「他人に理解されたい」などという欲求はかげをひそめて、「他人を理解してあげたい」という欲求のほうが前面に出てくるものなのかもしれないが、それが加速された感じ。

理由はたぶん3つある。

1つ目。

「誰かに理解してほしい」と自分が感じていることのほとんどは、他人から見ればまったく理解する価値がないことであることが、文章に書いてみると、よくわかるから。

2つ目。

ブログに書いたことは自分が死んだ後も公開され続ける可能性が高いので、佐々木がおもしろいと思ったことを同じようにおもしろがる奇特な人が将来出てくることも期待できるから。

3つ目。

「誰かに理解されたい」の「誰か」は、別に自分自身でもO.K.だから。文章化すると自分が何を考えているのかが自分でよくわかる。それで十分満足。

2011年11月4日金曜日

3周年

この公開日記を書き始めたのが2008年11月4日なので今日で3周年。

3年間毎日日記を書き続けたらこれぐらい文章力がつくかなぁと当初期待していた水準のだいたい6~7割程度の達成率。

たとえ6~7割程度の達成率でも達成感があるっていうのはいいもんだ。

文章力自体はたいして向上しなかったがしょうもない文章を平気で公開する厚顔さは予想をはるかに超えて向上した。

なので書き始めのころに比べたら日記を書くのはだいぶ楽になった。

いい面もあればわるい面もある。

もうちょっと自分の文章力とか思考力の向上に対する欲というかこれらの不足に対する恥の感覚を持ったほうがいいかもと思った。

2011年11月3日木曜日

クレーム周期

クライアントの期待には100%応えたいという気持ちは常にありつつも、なかなか100%期待に応えることは現実には難しく、「期待外れだった」というフィードバックもしくはクレームをいただくケースが、5%ぐらいはある。

去年の9月、今年の1月、それから今年6月にやった仕事で、わりと大きなクレームをいただいた。

周期的にそろそろまた来るんじゃないかと、ちょっとビビっている。

今日納品した原稿は、好評でよかった。

2011年11月2日水曜日

瞬伝

伝えたいことが瞬時に伝わらない文章は必ず伝えたくないことを瞬時に伝えてしまう文章になるから執筆はいつも伝えたいのに伝わらないこととの格闘であると同時に伝えたくないのに伝わってしまうこととの格闘になる。

2011年11月1日火曜日

体操が「うまい」ってどういうことだろう

体操が「うまい」ってどういうことなのかと、つらつら考えている。

体操競技の場合だったら、より難度の高い技ができるとか、より美しいとか、安定してるとかなのだろうけど、たとえば、体をゆるめることが目的の体操の場合は、どうなのだろう。

「体をゆるめること」が目的であるならば、「体をヨリゆるめる」という目的にヨリ資する動作・認識ができているということが、うまいということなのではないか。

体のゆるみ度「10」の人と、ゆるみ度「1」の人がいるとする。

両者がその体操を同じ時間やったところ、前者はゆるみ度「10」のままで、後者はゆるみ度「2」になったとする。

体のゆるみ度がヨリ高いのは相変わらず前者だが、体のゆるみ度をヨリ上げることに成功したのは後者である。

だから体のゆるみ度を上げる体操がヨリうまいのは後者である、と結論づけていいのかと言えば、そう単純なものでもない。

その体操をやる時間を2倍に伸ばしたら、前者はゆるみ度「20」になり、後者はゆるみ度「2」のまま、ということになれば、体のゆるみ度を上げる体操がヨリうまいのもやっぱり前者だったということになる。

体のゆるみ度「1」の者がゆるみ度「2」に到達するために最適な動作・認識が、体のゆるみ度「10」の者がゆるみ度「20」に到達するために最適な動作・認識と、まったく同じであるとは思えない。

というか体のゆるみ度「1」の者にとっては、そもそも体のゆるみ度「10」の者と同じ動作をすること自体が無理。

とか。

なんか思いっきり前歯に物をはさんだ言い方だが。
 
QLOOKアクセス解析