2011年10月31日月曜日

人類の祖先の化石は存在しない

今年8月に出た『学城』第8号を、先週あたりにようやく読み終えた。

時間かかりすぎ。

特に強く印象に残った論文の一つが、本田克也さんの「「生命の歴史」はいかに構築されたか(2)―ダーウィン『種の起源』が提起した難問とその論争をめぐって」。

前号に掲載された「(1)」と合わせて読んで、佐々木が勝手に重要と理解したのは、「人類の祖先の化石は存在しない」ということ。

(本田さんはそういう書き方はしてなかったかもしれないけど)

普通に死んだ生物は、化石にはならない。

遺骸になる前に他の生物に食べられるか、遺骸になっても跡形もなく分解されてしまう。

化石というのは、地球の歴史のある段階に適応して繁栄した生物種が、地殻変動による環境の激変に対応できずに、大量かつ一気に死滅した時に残るもの。

だから、その激変に対応して生き残った種(人類の祖先も当然そうだ)は、化石になっているわけがないのである。

これってめちゃくちゃ重要な話だと思う。

たとえば自分自身を理解するためには、自分自身の体を理解しないといけない。

自分自身の体を理解するためには、自分自身の体がどのようにしてこのようなあり方をするに至ったかを理解しないといけない。

もちろん、個体発生的にだけでなく、系統発生的にも。

その時、「人類の祖先にあたる生物種は化石としては残っていない」ということを理解していないと、ついうっかり、化石として残っている生物種の姿を、自分という存在の系統発生史の1段階としてイメージする誤りを犯してしまう。

これは、自分自身の体に対する理解がゆがむということだ。

当然、自分自身に対する理解がゆがむということでもある。

自分という存在の系統発生史に連なるのは、化石として残っている生物種が把持できなかった、環境の激変に対応して自分自身を激変させる能力(とその時々の環境に適応しすぎない能力)を持った生物種だったのだということを、自分の中で感情像としても論理像としてもしっかり描いておくことは、ものすごく大事なことだと思う。
 
QLOOKアクセス解析