2011年10月24日月曜日

おもち

「おもち」と漢字ではなく平仮名で書くだけで、ちょっと泣きそうになる。

先日熊本でインタビューさせていただいた和菓子職人の方が、お客さんにとびっきり美味しいおもちを食べてもらうために注いでいるたいへんな情熱を、肌身で知ってしまったから。

「もち」って100%体性感覚だけで作られた言葉だと思う。

もちもちしてるから「もち」。

「おもち」の「お」と「おみそ汁」の「お」は、似てるようで違う。

「おみそ汁」の「お」は、読み手・聞き手に対する気遣い、みそ汁を作ってくれた人に対する感謝、あるいは、自分の上品さのアピールのために付けられる「お」。

「おもち」の「お」にもそういう面はあるかもしれないが、それだけではない。

もちのもちもち感がもたらす至福と言えるほどの喜びへの、「ありがたい」という感謝の表現が、「おもち」の「お」なのではないか。

だから「もち」と「おもち」の違いは、「みそ汁」と「おみそ汁」の違いよりも、むしろ「神」と「神様」の違いに近いと思う。

ひとくち口にしてそれほどの至福をもたらすもちもち感を、人類は、あるいは日本列島の住民は、おそらく先史時代から長い時間を掛けて創造し、洗練し、楽しんできたのである。

もちろん「自分自身が美味いものを食べたい」という欲求も、この至福のもちもち感を創造し洗練させる原動力になっただろう。

だがそれ以上に原動力になったのは、「他人に美味いものを食べて喜んでもらいたい」という欲求と、美味しいものを食べた他人の感動や感謝の表現だった気がする。

熊本でインタビューさせていただいた和菓子職人の方の、「お客さんにとびっきり美味しいおもちを食べてもらいたい」という情熱には、そうした先史時代から続いてきた献身と工夫と感動と感謝のサイクルにまで思いを馳せさせるほどの、エネルギーと純粋さがあったのである。
 
QLOOKアクセス解析