2011年9月30日金曜日

ひとごと

典型的にジャーナリスティックな記事を雑誌で久しぶりに読んで、「事実を伝えること」よりむしろ「読者に特定の感情を持たせること」をゴールに書かれているという印象を受けた、という趣旨のことを、昨日書いた。

「読者に特定の感情を持たせる」というのは、ちょっと誤解を招く書き方だった。

これは別に、政治的に特定の立場に対する支持を獲得するとか、商業的に特定の企業や商材に対する欲求を持たせるとか、そういう操作的な意味ではない。

ジャーナリスティックな記事を読んで、自分が知らなかった事実や見解を知った時の、精神的高揚。

自分が知的な行為しているという、誇らしさ。

そういう感情に対するニーズが読者の側にあって、そうした感情的ニーズを満たすことを主眼に、ジャーナリスティックな記事は書かれている、という意味。

事実や見解を伝えること自体よりも。

そこに、なんとなく違和感を覚えた。

この違和感の正体って何だろうと考えていて、ひとつ思ったこと。

たとえばある社会問題があったとして、自分がその問題の解決にコミットするなら、その問題に関わる情報収集に利用する資料に、ジャーナリスティックな文章に見られるような「雰囲気づくり」や「感情的な盛り上げ」や「小気味のよい皮肉」とかがあったら、邪魔くさいだけなんじゃないか。

問題解決に必要なのは、事実とか、数値とか、構造の把握だから。

事実とか数値とか構造の伝達に特化した文章は、レポートとか論文とかと呼ばれる。

レポートとか論文みたいな文章をアカデミックな文書と呼ぶなら、問題解決の資料として役立つのは、ジャーナリスティックな文章ではなくアカデミックな文章だろうと。

ジャーナリズムとアカデミズムを比べると、アカデミズムのほうが、より現実の社会問題から遊離しているようなイメージがあるけど。

問題解決に責任を負う立場からは、たぶん逆。

ジャーナリスティックな文章に見られる、あの作られたドラマ性を邪魔くさいと感じず、むしろ好ましく感じる心性って、何なのか。

問題に関心は寄せても、自分が解決に責任を負おうとはしない精神のあり方というか。

一言で言えば、ひとごとの正義感。

えらくまとまらない文章になった。

2011年9月29日木曜日

ジャーナリズムってなんじゃーなリズム

先日、佐々木が好きなアメリカ人作家について紹介した記事が掲載されているというので、日本の某大手出版社が出しているある月刊誌を買ってみた。

諸外国の高級メディアの翻訳記事を数多く掲載していることを、売りにしている雑誌。

ジャーナリズム志向、びんびん、みたいな。

「ジャーナリズム」って、今でもどちらかと言えば、尊敬を込めて使われる言葉だ。

「日本が欧米より劣っていること」の証明として、「欧米のようなまともなジャーナリズムが日本にはない」なんてことを挙げる言説も、頻繁に目にする。

そのご立派な、日本にはまれな、あるべきジャーナリズムの姿を、ありがたくも日本人に垣間見せてくれるのが、この雑誌というわけなのだろう。

そもそも雑誌というものを最近ほとんど読まないこともあって、その「ジャーナリズム感」炸裂ぶりが、えらく新鮮だった。

新鮮だっただけでなく、「ジャーナリズムって、いったいなんなんだ?」という疑問が、抑えようもなく湧いてきた。

その原因は明らかに、ここ2年半ばかり佐々木が、広告記事を書くことを仕事にしてきたから。

広告記事は、「広告主にとって都合のよい感情を読者に持たせること」をゴールに書かれる。

それに対して、ジャーナリズムにおける記事は、あくまで「事実を伝えること」をゴールに書かれる、はず。

ところが、日々「読者にいかに特定の感情を持たせるか」に苦労し続けてきた目には、ジャーナリズムのお手本であるはずの記事も、やはり「読者に持たせる感情」をゴールに書かれているようにしか、見えなくなっていた。

それも、読者にそうとは意識させないように。

こんな感想、広告記事を書く仕事をしてなかったら、まず持たなかったはず。

2011年9月28日水曜日

オフ・トレードオフ

高岡英夫先生の『センター・対軸・正中線』という本に、「ベスト」という、ランニングシャツの袖のくりに似たラインの身体意識が紹介されている。

佐々木は長らくこの「ベスト」という身体意識のトレーニングをしてきて、「ベスト」を運動させようとすると体幹が固まり、体幹をゆるめようとすると「ベスト」の運動が起こらない、というトレードオフに悩まされてきた。

最近ようやく、「ベスト」が運動するから体幹がゆるみ、体幹がゆむから「ベスト」が運動するという、両者の協働状態が、実感を伴って想像できるようになってきた。

まだできるようになったわけじゃないけど。

実感を伴って想像できるようになってきたということは、そろそろできるようになってきているということだと信じたい。

実は協働関係になるはずの二者を、トレードオフの関係にある思い込んでるケースって、他にもあるんだろうなと思った。

2011年9月27日火曜日

頭痛解消

一晩よく寝たら頭痛が治った。

簡単。

もっとしっかり休まねば。

でもなぜか忙しい時ほど、しなくてもいいことまでしたくなる。

2011年9月26日月曜日

頭痛中

昨日あたりから頭痛中。

普通にしていれば少し脳が腫れぼったいぐらい。

だがしゃがんだり、ストレッチのために頭を腰より低くしたりすると、脳の表面から少し奥まった部分がズキズキ痛む。

寝るのが一番の解決法と思われる。

なので寝る。

2011年9月25日日曜日

町山智浩氏のアイン・ランド解説記事を読んだ

「クーリエ・ジャポン」11月号で、 評論家の町山智浩氏が、今のアメリカの政治状況におけるアイン・ランドの思想の影響について、書かれている。

ランドの思想に対する町山氏の評価は、そうとう辛辣。

やっぱり、マス・メディアの世界では、よほどの覚悟がないと、ランドの思想を支持することなんてできないんだな。

ランドの思想に対する批判者の立場に立つほうが、マス・メディアの世界ではよっぽど安全なんだな。

そんな思いを、強く持った。

町山氏は、「他人への共感能力が欠如した者の思想」とのみ、ランドの思想を評価している。

そのような思想を持つ人々が、アメリカ共和党に強い影響力を持つ今の状況は、恐ろしい、とも。

ランドの思想が、「他人への共感能力が欠如した者の思想」だとは、佐々木は思わない。

だが、それはさておく。

佐々木が疑問に思うのは、町山氏は、ランドの『水源』と『肩をすくめるアトラス』を読んで、まったく、いっさい、何一つ、ランドの思想に共感を持つことがなかったのか? ということだ。

ランドの小説を読んで、彼女の思想にまったく共感する点を見出せない、というのも、ある種の「共感能力の欠如」なのではないか?

「他人への共感能力を欠く者」が、権力を握る社会。

「ランドの思想への共感能力を欠く者」が、権力を握る社会。

より悲惨なのは、どちらの社会だろう。

おそらく町山氏は、迷うことなく、前者と答えるのだろう。

マス・メディア的にも、前者と答えるのが、適切なことなのだろう。

でも、ほんとにそうなのか?

「心優しい」経営者が会社をつぶして従業員を路頭に迷わせ、「冷酷な」経営者が会社を繁栄させ市場と雇用を創出する現実を、我々は嫌というほど見ているのではないか?

その冷酷な現実から、目をそらすな。

「心優しく」社会を腐らせる人間になるのではなく、「冷酷に」社会を繁栄させる人間になれ。

そう教えてくれるところに、『肩をすくめるアトラス』や『水源』の真骨頂があると思うのだが。

2011年9月24日土曜日

日垣隆さん主催読書会「予測を外さない方法――全公開と討論」に参加

ジャーナリストの日垣隆さんが主催された“中読書会”、「予測を外さない方法――全公開と討論」に参加してきた。



日垣さんのメルマガでこの読者会の案内をいただいた時は、それほど強い参加意欲をかきたてられず、不参加を決め込んだのだが、同じく日垣さん主催の古典読書会のメーリングリストで、日垣さんから「今回の読書会のテーマは“古典を現在にどういかすか”という古典読書会のテーマと同じ」という、わかったようなかわらないような案内をいただいたうえに、 次のソマリア取材で「皆様とは永遠にお会いできなくなるかもしれません」などとおっしゃるものだから、結局参加。

日垣さんの「予測を外さない」ノウハウ、もちろん有益なものだった。

しかしそれ以上に今回は、「なぜ自分は『予測を外さない』というテーマに最初気が乗らなかったのか?」という自分への問いかけを踏まえての、「予測する人間」と「予測しない人間」の違いに関する、日垣さんの話を聞きながらの自分なりの洞察が、自分にとって有益だったと思う。

どうやら佐々木は、次の点が、著しく貧弱。

1.(ゲーム的、スポーツ的な意味での)勝利体験と、勝利体験を土台にした勝利追求への意欲。

2.人間、大衆、人類の、欲望に対する洞察。

3.数値化と、数値化をふまえた確率分析。

これらはすべて、密接に関係し合っている。

2011年9月23日金曜日

相談

相談相手が欲しい。

急に、そう思い始めた。

いや違う。

「客はドリルが欲しいのではなく、穴が欲しいのだ」

という格言の伝で言えば、佐々木が欲しいのは、相談相手ではない。

もっと速く、仕事を処理できるようになりたいのである。

仕事をする上で、今一番時間がかかっているのが、自分の頭の中の整理。

相談相手がいれば、自分の頭の中の整理も、もっと速く進むのではないか。

で、相談相手が欲しい、と。

相談相手が欲しい、などと書くと、まるで佐々木の周りの方々が、相談相手にならないみたいだが。

って、本当にそうなのだが。

佐々木になかった見方を教えてくださる方や、佐々木の気持ちを楽にしてくださる方は、いる。

ただそれは、佐々木自身の中の思考の混乱を整理してくれたり、佐々木自身の中で言語化されていないことを言語化してくれたりしてくれることとは、違う。

どうすれば、相談相手は得られるか。

とりあえず佐々木自身が、他人のよき相談相手になることか。

2011年9月22日木曜日

竹内謙礼さんの「中国セミナー」に参加

本日、竹内謙礼さんの「中国セミナー」(@東京都渋谷区)に参加。



このセミナーを告知する竹内さんからのメルマガで、「今の中国ビジネスを巡る状況は、1990年代後半のネットビジネスを巡る状況に非常に似ている」という旨の竹内さんの分析を読んだ時は、これはどうしたって参加しないわけにはいかない、と浮足立つほどのあせりを覚えると同時に、やっぱり、せっかくの貴重なセミナーなんだから、俺みたいにビジネスの才能がない人間なんかが席を埋めてしまうより、きちんとセミナーの内容をきちんとビジネスに結実させる能力がある人に、一人でも多く参加してもらった方がいいんじゃないか、きっとすぐ満席になるんだろうし、と参加を躊躇する気持ちも、また強烈に覚えた。

さんざん迷った末、《初心者向け講座》、《中国進出を「やる」「やらない」に関係なく、情報として、心の準備だけでも作っておくことは、決して、企業防衛としては間違ったアクションではない》という竹内さんの言葉に励まされ、参加。

蓋を開けてみれば、開催した竹内さんもびっくりの、定員50名に当初申込み10名、最終的な参加者約20名の「超不人気セミナー」ぶり。

中国人が嫌いな日本人ってほんとに多いんだな。

竹内さんのセミナーを聞いて、それも無理もないとの思いも強くしたけど。

2時間40分ぶっ通しのセミナーで、今後10年の日本におけるビジネスを考えていくうえでも有益な、たくさんの情報や知見を与えていただいた。

今後予想される「中国ビジネス進出を煽る風潮」に安易に載せられないための心構えがわかっただけでも、十分価値あるセミナーだった。

2011年9月21日水曜日

台風直撃

本日日中、台風が直撃。

相模原に住んで20年近くになるが、これだけまともに台風に直撃されたのは、たぶん、はじめて。

終日外に出ず、家で仕事。

あまりの強風で、台所の換気扇が、ガス台の上に落下してきたりした。

夜7時頃には、ほぼ雨も風も収まった。

夜9時半ごろ外に出ると、相模大野駅前の通りに、かなりの数の自家用車。

相武台駅付近であった倒木だかで、相模大野から小田原まで小田急線が止まっていて、帰れなくなった家族を、車で迎えに来た人々らしい。

いつもはこの時間50台以上のタクシーが客待ちをしているタクシー乗り場には、20人ほどの人の列。

改札前のコンコースには、何十枚ものブルーシートが敷きつめられて、シートに寝ている人や、腰を下ろして本を読んでいる人が100人弱。

江ノ島線も、しばらく前までは止まっていたようで、その間はもっと大勢の人がここに腰を下ろしていたのだろう。

今回の台風の影響の大きさがうかがわれる。

佐々木個人の仕事や生活には、ほとんど影響らしい影響はなし。

これだけ影響の大きな台風が来て、仕事も生活も、まったくと言っていいほど影響を受けないというのも、ある意味すごい話だと思った。

2011年9月20日火曜日

楽しい包丁

野菜を切るのが近ごろ楽しい。

体づかい、包丁づかいが、よくなってきているのだと思う。

包丁の刃筋と、地球の中心から立ち上がる鉛直線を、ぴったり揃えてすれ違わせると、野菜が切れるというより、左右に別れる。

体や意識の状態が、特によい時に限った話だけど。

野菜、魚、肉と、包丁で切るもののうち、一般に一番切りやすいのが、野菜だろう。

もっと体づかい、包丁づかいが上達してくれば、魚を切るのも楽しくなるはず。

2011年9月19日月曜日

にがすっぱい疲れ

先週末、金曜、土曜と、少し風邪気味になって、病み上がりの昨日、日曜日。

近隣の武術仲間で集まって、某所で稽古をした。

武術の稽古を始めたとたん、風邪をひいたとき特有の、苦いような、酸っぱいような疲労物質が、背骨周りとか、股関節周りとか、肋骨周りとかから、どばーっと全身に拡散するのが、感じられた。

たぶん、いいことなんだと思う。

それにしても、舌以外の場所に味覚器官はないはずなのに、なぜ、体内を動き始めた疲労物質に「苦み」や「酸味」を感じるのだろう。

謎である。

2011年9月18日日曜日

40歳の小動物

お客様インタビュー記事の冒頭には、お客様がいかにも満足している様子の写真が必要である。

だからお客様インタビューの現場では、撮影の際に「レンズ目線で笑顔になっていただくこと」が、インタビューそのものと同じくらい、重要である。

先日、「お客様が笑顔になっていること」が格別に重要な商材の、お客様インタビューの仕事があった。

インタビュー後の撮影タイムでは、いつも以上の必死モードで、お客様に笑っていただく努力をした。

努力のかいあって、なんとか満足のいく笑顔写真を撮ることができた。

後日、そのお客様が書いているブログを拝見したところ、「インタビューに来た人の、撮影の時の様子が可笑しくて、爆笑した」という旨のことをお書きになっていた。

「動きも小動物みたいで可笑しかった」とも。

笑っていただこうと努力して、笑っていただけたわけなのだから、本望は本望。

ただ、「動き」のほうは、別に笑わせようと意図した動きをしたわけではないので、「俺の動きって、そんなにヘンなのか」と、素で落ち込んだ。

しかし、40歳のおっさんが、身のこなしを「小動物みたい」と評されることなど、なかなかないのではないか。

これも「ゆる体操」その他諸々のトレーニングを積み重ねていることの成果、と、プラスに捉えることにしようと思う。

2011年9月17日土曜日

また体調悪化

少し体調を崩し、昨日、今日と、ほぼ一日、寝て過ごした。

明日からは、また普通に仕事を再開できる見込み。

2011年9月16日金曜日

安酒のガブ飲みは脳によくない(あたりまえだ)

残暑まだまだ厳しい中、神経を使うインタビューや原稿書きで一日過ごし、夜になっても頭の疲れと興奮が引かなかず、帰りしな、めったに買わないワイン、それもやっすいのを1本買って冷蔵庫で冷し、飲みながら、夕食をとった。

半分ぐらいにしとくつもりが、ほぼ1本、空けてしまった。

翌朝目が覚めて、軽い頭痛が。

あーやっぱ安酒のガブ飲みはだめだと反省。

日中、インタビューの仕事をしていても、脳の瞬発力が、いつもより5%ぐらい落ちてる感じ。

一応、普通にこなせはしたけど。

広告記事用のインタビューとか、広告用の人物写真撮影の仕事が、そうとう厳しく脳を使う仕事なんだということが、逆にわかった。

脳に悪いことはしちゃだめだと、あらためて思った。

2011年9月15日木曜日

一流の美容師さんと食事

ある経営コンサルタントの依頼で、整体院を経営している男性を取材。

その男性の奥さんは、美容師。

新幹線で通ってくる方もいるほどの、人気美容師なのだとか。

美容院に新幹線で通う方がいる、ということ自体、はじめて知った。

男性、奥さん、それにクライアントである経営コンサルタントと、お昼ごはんをご一緒させていただいた。

奥さんと少し話しをさせていただいただけで、これは新幹線で通う人も出てくるわ、と納得。

おだやかな笑みを浮かべた口もとから、思いやりの言葉がスイスイ、スイスイ、飛び出てくる。

瞳の輝きが、尋常じゃない。

よく、高い金払ってでも、できるだけ一流の店を使え、一流の仕事に触れる経験を積め、みたいなアドバイスを目にする。

佐々木には、なかなか実践し得ないアドバイスだけど。

でもなるほど、人間が現実にああいう存在になり得るということを、生の体験として知る機会を若いうちに持てるかどうかで、人生そうとう変わるなということは、実感としてわかった。

2011年9月14日水曜日

服に追いつかない体

仕事で都内に出た帰り、ファッション関連に強いとされる、あるデパートに立ち寄った。

さすが、店内を歩くお客さんも、いい服を着た方が、おおぜいいらっしゃる。

佐々木が着てる程度の服だと、ほんとにただ、人の体の形にあわせて布を縫い合わせただけ、という風情だが、いい服が人の体にまとわれた姿を見ると、服自体が、それ自身の生命や魂や運動性を持っているように、見える。

まず人を見て、次に服を見ると、服の魅力が、人の魅力を、引き立てているように見える。

ところが、まず服を見て、その服が持っている魂や運動性に釣り合う、体のあり方って、どんなあり方だろう、と想像してから、想像された体のあり方と、現実にその服を着ている人の体のあり方を比較してみると、たいてい、現実の人のあり方が、はるかに見劣りしてしまっている、と感じてしまう。

服に、体が追いついてない、と感じる。

えらく、意地悪な見方だけど。

そんな意地悪な見方をするよりも、素直に、服の魅力が人の魅力を引き立てているあり方を楽しんだほうが、たぶん、いい。

あるいは、現実の体が追いつかないほど高度な魂や運動性のあり方を服によって示唆できるデザイナーの才能を、楽しむとか。

現実には体現できていないにしても、人間の体が体現し得る魂や運動性の可能性の奥行きを、楽しむとか。

2011年9月13日火曜日

撮るばか

パソコン画面にらみっぱなしで一仕事仕上げると、とにかく海でも山でも行きたくなる。

海に行って、水平線をながめていたら、ちょうど富士山のわきに、太陽が沈みだした。

たまたまデジカメがかばんの中に入っていたので、思わず取り出して、日没の瞬間を、カメラにおさめてしまった。

日が沈んでから、なんか、ばかなことをしたな、と思った。

せっかくのすばらしい景色、素人写真なんかに残すより、生で見たほうが、よっぽどよかった。

せっかくの目の前のすばらしい景色を、生で見ないで、ファインダーごしにしか見ないなんて、ばかなことをした。

お金払ってスタジアムに行って、野球とかの試合を、スタジアムのテレビで見るぐらい、ばか。

野球の試合は、テレビの方が付加情報があるだけ、まだまし。

ばかなことをした。

ほんと、ばかなことをした。

2011年9月12日月曜日

生ジュース売り嬢の見切り

PASMOやSuicaなどで支払える店が、最近はずいぶん増えた。

PASMOやSuicaを、鉄道運賃以外の支払いに使えるようになって、まだ日が浅かった頃。

カフェやコンビニでPASMOを使う時は、
「PASMOで」
とか、
「Suica使わせてください」
とか、わざわざレジの人に、こちらから申告していたものだった。
「こちらにタッチしてください」
とレジの人に読取機を指してもらってから、おもむろにPASMOを読取機に乗せ、「ピッ」と鳴ると同時に
「ありがとうございました」
と声がかかり、おもむろにPASMOをしまう、というのが、一連のルーティーンだった。

鉄道運賃以外の支払いにもPASMOやSuicaを使うのが当たり前になるにつれて、いつのまにか、PASMOを使うことをレジの人にわざわざ断ることなど、なくなってしまった。

レジの人に値段を言われるや、PASMOの入った財布を無言で読取機に乗せ、「ピッ」と鳴るやひっこめる、というのが、あたりまえになってしまった。

で。

佐々木が月に2~3回ぐらい利用する、ある都内の駅の生ジューススタンドで働いている、20代ぐらいの女性店員さんについて。

この女性店員さん、佐々木が生ジュースを注文して、値段を聞いて、財布をPASMO読取機に乗せようと動かす、まさにその瞬間、
「こちらにタッチしてください」
と、PASMO読取機を指す。

手に持っていた財布を動かし始めた段階では、まだ現金で払うのか、PASMOで払うのか、判断がつかないと思うのだが、とにかくその女性店員さん、驚くべき「早度」で、
「こちらにタッチしてください」
とPASMO読取機を指す。

月に2~3回ぐらいしか利用しない佐々木の顔を覚えていて、「この人は必ずPASMOで払う」と判断しているのだろうか。

現金で支払う場合と、PASMOで支払う場合の、身体や財布の動きの微妙な違いを、こちらが動き出して0.1秒以内に、見分けてしまうのだろうか。

ひょっとして、こちらが現金で支払おうとしているのか、PASMOで支払おうとしているのかを、あらかじめ読心術で読み取っているのだろうか。

いずれにしても、おそるべき能力である。

あれだけ“見切り”の能力が高かったら、たとえば互いにカミソリを持っての殺し合いにでもなったら、佐々木はあの店員さんに、勝てない気がする。

2011年9月11日日曜日

またお金持ち向け記事づくりの仕事

マンションオーナー向けの、広告記事を書いている。

マンションオーナーといっても、分譲マンション1区分のオーナーではなく、賃貸マンション丸ごと1棟のオーナー。

この仕事を引き受けてはじめて知ったのだが、たとえば、賃貸マンションを1棟持っている人と、2棟持っている人とでは、抱えているニーズが、大きく違うものらしい。

佐々木が依頼されたのは、ある特定の棟数のマンションを所有している人の、心をつかむ記事を書くこと。

40歳にもなって家賃5万3千円の木造アパートの家賃を払うのがやっとの貧乏ライターに、そんな高所得層の心をつかむ仕事の依頼が来ることに、皮肉を感じもしたし、ちょっと誇らしさを感じもした。

2011年9月10日土曜日

うるさくない虫の声

午前3時とか4時の、たいていの人が眠っている時間帯でも、コオロギとかスズムシの、いわゆる秋の虫は、盛大に鳴いている。

あれだけ一斉に、あれだけ大きな声な鳴いているのに、不思議と、うるさい、と感じない。

むしろ、秋の虫の、あの大きな声自体が、この季節の夜の、静けさの一部とさえ、感じられる。

ミンミンゼミやクマゼミが、あの時間帯に一匹でも鳴いていたら、安眠妨害、騒音以外の、なにものでもないだろうに。

なぜ、いわゆる虫の声は、夜遅く聞いても、騒音として感じられないのだろうか。

【仮説A】

夜鳴いて、人間を含む他の動物から「うるさい!」と思われるような虫は、淘汰されてしまったから。

すなわち、秋の虫が、「人間にとってうるさくない声」で鳴いているから。

以上を、仮説Aとする。

【仮説B】

夜、虫の音を「うるさい!」と感じて眠れなくなるような動物は、淘汰されてしまったから。

あるいは、夜、虫の音を耳にしても「うるさい!」と感じないように、人間を含む他の動物の聴覚が、適応してきたから。

すなわち、人間が、秋の虫の声を「うるさい」と感じないようになってるから。

以上を、仮説Bとする。

さて、正しいのは、次のうちどれだろう。

1.仮説Aが正しい

2.仮説Bが正しい

3.仮説Aも仮説Bも正しい

4.そもそも、この問い自体が無意味

2011年9月9日金曜日

『アンナ・カレーニナ』を岩波文庫版でも読んでみた

新潮文庫版で読んだトルストイ『アンナ・カレーニナ』(木村浩訳)がどうしても頭に入ってこなかったので、岩波文庫版(中村融訳)で読んでみた。

岩波文庫版のほうが、ずっとスイスイ頭に入った。

ゆっくりていねいに読めば、新潮文庫版のほうが、意味を理解やすいようには訳されている。

でも、スピーディーに読めない。

リズムとか、音声的な要素が、関係しているのだろうか。

岩波文庫版の、訳文の格調の高さも、好ましく感じられる。

近頃なかなかないぐらい細かい字で詰め込まれた版組さえも、好ましく感じられる。

もしかするとトルストイの作品の魅力って、文体の格調の高さが、半分近くを占めているんじゃないだろうか。

だとすると、「わかりやすく」、「読みやすく」、という意図で訳文の文体の格調を下げるのは、翻訳のありかたとしてイマイチなのかなとも思った。


新潮文庫版


岩波文庫版

2011年9月8日木曜日

お忙しい業者

最近、クライアント2社の担当者の方から、立て続けに、
「お忙しいところご対応いただき、ありがとうございました」
という趣旨のことを、メールで言われた。

「お忙しい」って。

恥ずかしい。

めちゃくちゃ恥ずかしい。

お金をいただいているのは、こちらなのに。

「お忙しい」って、こちらがお金をいただいてやってる仕事なのに。

自分の都合のいいように解釈することだって、できる。

本当に感謝されるだけの仕事ができるようになったことの現れだ、とか。

「行列してでも入りたい店」的に、クライアントから認知していただけるようになったことの現れだ、とか。

でもたぶん、こういう解釈の仕方だけして悦に入ってると、まずい。

佐々木の対応が、遅い、おろそか、おざなり、不十分、不誠実という印象の婉曲表現が、「お忙しい」である可能性だって、十分ある。

その可能性が低くない自覚も、ある。

心せねばと思った。

2011年9月7日水曜日

『看護覚え書』に衝撃を受けた

古典読破計画。

8月はフロレンス・ナイチンゲール著『看護覚え書 ―看護であること 看護でないこと―』(訳:湯槇ます、薄井坦子、小玉香津子、田村眞、小南吉彦)。

けっこう、衝撃を受けた。

今年、一番衝撃を受けた本になるかも。

「倫理的に正しく生きる決意」と「科学的に正しく知る決意」の両方が、一人の人間の中に高いレベルで共存していることは、まれである。

本書を数ページもめくらないうちに、フロレンス・ナイチンゲールがそのまれな例であることが、衝撃レベルで伝わってきた。

訳者たちの気合の入り方も、尋常じゃない。

真面目に生きなきゃ、と、久しぶりに思った。

2011年9月6日火曜日

ユーモアの人

ユーモアのある人って、どんな人だろう、という疑問が、頭に浮かんだ。

知り合いの中に、ユーモアのある人、と呼べる人間がいるだろうか、と考えて、一人だけ思い浮かんだ。

学生時代の友人。

その男の顔が思い浮かんだ瞬間、佐々木の知り合いの中に、ユーモアのある人、と呼べる人間は、その男以外に、一人もいないな、と思った。

ユーモアのあることをよく言う人間やたまに言う人間なら、珍しくもない。

そういう人間を、ユーモアのある人、と呼ぶことだって、もちろんできる。

でも、思い出してみれば24時間365日をユーモアの精神で生きていたあの男のありようを指して、ユーモアがある、と表現するなら、ユーモアのある発言をたまにする程度の人間を指して、ユーモアがある、とは言いたくなくなった。

あの男のほうを、ユーモアのある人、と呼ぶのを、やめるべきなのかも。

むしろ、ユーモアの人、か。

あの男のありようを思い出していたら、ユーモアの本質が、わかった気がした。

ユーモアの本質は、たぶん、世界をおもしろがる態度。

しかも、世界をおもしろがっている自分自身も含めて、世界をおもしろがる態度。

あの男とは、学生時代、特に親しい付き合いがあったわけではない。

一緒にいて、楽だな、楽しいな、気持ちがいいな、ということは、いつも感じていたけど。

向上心にいつもメラメラと心を燃やしていた学生時代の佐々木からすると、なんとなく、物足りなさを感じる男でもあった。

まさか20年後、無数にいる自分の知り合いの中で、ただ一人の「ユーモアの人」としてその男のことを思い出すことになるとは、思わなかった。

2011年9月5日月曜日

20年間取り組んできたトレーニングのコンセプトを心から信じていなかったことに気づく

「人間の本質力を向上させる」という、聞きようによってはかなり怪しげな効能を謳うトレーニングを、佐々木はもう、20年も続けている。

ここ最近感じるのは、佐々木はどうやらこれまで、「人間の本質力を向上させる」というコンセプトを、心から信じていなかった、ということ。

「人間の本質力を向上させる」というコンセプトを、心から信じていない、ということが、佐々木にとって、自分の本質力を向上させる上での、一つの課題。

佐々木が大好きな格言、「課題はその解決手段と同時に発生する」のロジックから言えば、「人間の本質力を向上させる」というコンセプトを、心から信じられるだけの材料が、ようやく、現実にそろいはじめてきた、ということかもしれない。

「人間の本質力を向上させる」というコンセプトを、自分が心から信じていない、と自分が気づいたこと自体が、「人間の本質力を向上させる」というコンセプトを、自分が心から信じはじめた、ということなのである。

ややこしい話だが。

「人間の本質力を向上させる」というコンセプトを、自分が心から信じていない、ということ自体に、佐々木がこれまで気づかなかった、ということには、おそらく、三つの側面がある。

一つ目は、「人間の本質力を向上させる」というコンセプトを心から信じる、という課題が、課題になり得るだけの段階に、自分が達していなかった、ということ。

二つ目は、「人間の本質力を向上させる」というコンセプトを、自分が心から信じていないと、自分が認めてしまうことで、自分の本質力を向上させることを、自分があきめらてしまうことが、怖かった、ということ。

三つ目は、自分自身を本質から変えてしまうことに取り組むこと自体が、きわめて危険な行為であるということ。

だから、「人間の本質力を向上させる」というコンセプトを、自分が心から信じていない、ということにもっと早く気がついて、このコンセプトを心から信じるように努力するべきだった、ということには、ならないと思う。

ややこしい話だが。

「人間の本質力を向上させる」というコンセプトを、心から信じてはいなかったにもかかわらず、「人間の本質力を向上させる」トレーニングに20年も取り組めてきたのは、指導者にリードしてもらってトレーニングした直後は、たしかに、毎回、自分の能力が本質的に向上した実感があったから。

ところが指導者にリードしてもらった数日後には、トレーニングの効果が消滅していくことの、繰り返し。

自分の人間としての本質力が、1年前、5年前、10年前、20年前に比べて、それほど目覚ましく向上しているか、と問われれば、主観的には向上しているつもりなのだが、その主観にどれほど客観的な裏付けがあるか、と問われれば、なんとも心もとない状態が続いていたのである。

その壁を突破するための鍵の一つが、「人間の本質力を向上させる」というコンセプトを、心から信じることなのではないかという気が、最近している。

2011年9月4日日曜日

政治が先か国家が先か

『学城』第8号掲載の「滝村『国家論大綱』をめぐって(1)」(近藤成美原筆・加納哲邦加筆)で批判されていた、「政治とは何か」→「権力とは何か」→「国家とは何か」という展開について、つらつら考え続けている。

『国家論大綱』ではなく、たとえば『政治論大綱』という名前の書物だったら、「国家とは何か」から説きはじめずに、「政治とは何か」から説き始めてもO.K.なのだろうか、とか。

まず「国家とは何か」から説くべき、と近藤・加納が批判するのは、たぶん、書名が『国家論大綱』だから、という、形式上の問題だけが理由ではない。

国家の本質を解明することなしには、政治の本質を解明することも、権力の本質を解明することもできないからこそ、「政治とは何か」とか「権力とは何か」とかより、「国家とは何か」を先に説け、という話なんだと思う。

で、ほんとにそうなのかな、と。

国家の本質より、政治の本質を先に解明するって、そんなに的外れのことなんだろうか。

人類が国家を成立させる以前に、政治的現象って、存在しなかったのだろうか。

いまひとつ、腑に落ちずにいる。

折を見て、滝村『国家論大綱』と、近藤・加納論文、よく読みかえしてみようと思う。

2011年9月3日土曜日

国家論の説き方

刊行されたばかりの『学城』第8号(日本弁証法論理学研究会)に、ざっと目を通した。

ほんとに、ざっと。

「滝村『国家論大綱』をめぐって(1)」(近藤成美原筆・加納哲邦加筆)が、まず印象に残った。

国家論を学的に説くなら、順序としてはまず「国家とは何か」からだろう、という批判には、なるほどと。

言われてみりゃそうだ。

佐々木自身は、『国家論大綱』をはじめて読んだ時、「政治とは何か」→「権力とは何か」→「国家とは何か」という説き方の流れを「うまいなぁ」と感じ入ったものだが。

なぜ佐々木がそう感じたのか。

その理由は、近藤・加納論文をざっと読んだだけでは、はっきりとはわからなかった。

自分自身で、ちょっと掘り下げて考えてみたいと思った。

2011年9月2日金曜日

文章を冒頭から順々にしか書けない病

文章は冒頭から書き始める必要はない、書ける部分からどんどん書いていえばいいんだ、というアドバイスを、よく目にする。

佐々木は、これができない。

できるものならそうしたい。

書ける部分からどんどん書いていけるようになれば、今の倍は、仕事がこなせると思う。

収入倍増である。

ぜひそうしたい。

でもできない。

病気なんじゃないかと思う。

あるいは頭の構造が単純過ぎるのか。

文章は、読者の「問い」に対する「答え」になっていなければ、読まれることもなければ、理解されることもない。

だから文章は、読者がいだいている「問い」を想定しなからでなければ、書けない。

2段落目は、1段落目を読んだ後の読者の「問い」を想定しながらでなければ、書けない。

1段落目を読む前に読者がいだいている「問い」と、1段落目を読んだ後に読者がいだいている「問い」は、違う。

1段落目を書く前に2段落目が書ける書き手は、自分がまだ1段落を書いていない段階で、1段落目を読んだ後の読者がいだいている「問い」を想定できているわけである。

当然、可能な能力だと思う。

ところが佐々木にはこれができない。

もっと頭を強くしたいと思う。

2011年9月1日木曜日

手首の中心と股関節

ここ最近、ゆる体操の中の「手首プラプラ体操」に、時間をかけて取り組んでいる。

まじめに取り組めば取り組むほど、自分の中のゆるまない部分がはっきりしてくる。

特に今朝は、両手首の中心に、芯というか、核のようにゆるまない部分が感じられた。

数分取り組んでいると、両手首の中心をゆるめようとすると、自分の股関節の拘束が邪魔するような感覚というか、両手首の中心をゆるめようとすると両股関節がゆるんでくるような感覚というか、両股関節をゆるめようとすることで両手首の中心がゆるんでくる感覚というか、要するに、両手首の中心の拘束と両股関節の中心の拘束間に、かなり強い対応関係が感じられてきた。

意外な感覚。
 
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