2011年8月31日水曜日

ぐりぐり

お客様インタビュー業界の大先輩から、
「佐々木さんは、デリケートな話でもぐりぐり聞き出してくる」
という趣旨の評価を、何度かいただいたことがある。

この評価に、なんとなく、違和感を感じ続けていた。

その理由が、最近わかった。

佐々木は、インタビューの時、「ぐりぐり」という擬態語で表現されるような運動感覚で質問をしたことなど、一度もないのである。

そう気づいてみると、逆に、その大先輩の運動感覚では、質問というのは「ぐりぐり」とするものなのかも、という想像も湧いてきた。

そう考えると、その大先輩のインタビュースタイルや記事の書き方と、佐々木のインタビュースタイルや記事の書き方の違いも、少し納得がいく。

で。

「ぐりぐり」じゃないとすると、佐々木はインタビューの時、どんな運動感覚で質問をしているのだろう。

適切な擬態語は思い浮かばなかったが、自分がやっていることを言語化すると、「思考の枠組みを用意すること」と、「その枠組みの入口まで来てもらうこと」の、二つなのかなと。

「思考の枠組み」を用意して、その「入口」まで来てもらえば、インタビュー相手は、その「思考の枠組み」に従って、それこそ「ぐりぐり」と、自分で答えを追求しだす。

あともう一つ、「ぐりぐり」という擬態語が当てはまる部分を挙げるなら、佐々木は、事前に「思考の枠組み」と「その枠組みの入口までの経路」を作り上げるプロセスでは、それこそ「ぐりぐり」と、自分の頭の中で可能性の世界を掘り下げている。

2011年8月30日火曜日

本質をつかむ能力の欠如

物事の本質をつかむ能力が自分には欠けていると、最近つくづく思う。

そのような能力が欠けているという自覚さえ、この歳になるまでなかった。

よほどの欠如ぶりである。

2011年8月29日月曜日

世界一うまいみそ汁

3日ほど旅行に出て、帰ってきた翌日、自分が作ったみそ汁が無性に食べたくなって、すぐ作った。

佐々木が作ったみそ汁は、世界一うまいと思う。

別に、佐々木のみそ汁作り技術が世界一優れているわけではない。

20年近く、毎日のようにみそ汁を作り続けたせいで、自分の好みに完全に合うみそ汁が、ほぼ自動的に作れるようになってしまったのである。

それだけではない。

20年近く、毎日のように自分が作ったみそ汁を食べ続けたせいで、みそ汁に対する自分の好みが、自分が作るみそ汁の味に、ほぼ固定されてしまったのである。

「手前みそ」という言葉がある。

みそという食品には、他の食品とは隔絶して、「個人的かつ排他的な味覚の好み」の対象として固定化される性質があるのだろうか。

2011年8月28日日曜日

自分の身心のひどさ加減を改めて自覚させられた3日間

本日まで3日続けて、丸一日武術の稽古会。

細かいところでは(ほんとに細かいところでは)、上達を実感できたところも、なくはなかった。

ただ全体としては、自分の身心のひどさ加減を、改めて自覚させられた3日間だった。

悪いことじゃない。

自分自身のひどさ加減がわかってこそ対策も立てられる。

2011年8月27日土曜日

上達しない理由

武術でもなんでも、なぜ自分の上達は、こんなに遅いのか。

その理由が今日、一つわかった気がする。

現象的には「自分ができると思ってないから」という、かなりありがちな結論なのだが、「できると思えないこと」の本質が見えた、というか。

ある体現したいパフォーマンスがあった時に、そのパフォーマンスの“センター”を、身体意識のレベルで描けないこと。

あるいは、そのパフォーマンスを成立させる“センターの運動”を、身体意識のレベルで描けないこと。

これが、そのパフォーマンスが「できると思えないこと」の本質なのかもと思った。

だから、なかなか体現できずにいるあれやこれやパフォーマンスについて、もっとそのパフォーマンスの“センター”というか、そのパフォーマンスを成立させる“センターの運動”を、身体意識のレベルで描くことに、もっと熱心に取り組んでみようと思った。

2011年8月26日金曜日

運動科学総合研究所講座「ゆる筋トレⅢ」に参加

先週の月曜日、運動科学総合研究所の講座「ゆる筋トレⅢ」(高岡英夫先生)に参加した。

その中で、体幹部の使い方の差というか、土台の使い方の差が、いわゆるスタミナに大きく影響するというお話があった。

お話があっただけでなく、ワークを通して実感できた。

それはこれまでも自分が意識して取り組んできた体幹部の使い方であり、土台の使い方ではあったのだが、「スタミナの源になる体の使い方」という意識で取り組むようになってから、たしかに、仕事やトレーニングの上での集中力や持久力が増してきてる気がする。

ランニングとか、そういうのとはまったく違う方向性の取り組みで自分のスタミナが増すのは、楽しいし、ありがたい。

今仕事をする上でスタミナの問題は、ほんと切実。

2011年8月25日木曜日

脳の後ろ半分を退化させる指導

なぜ自分はこんなに仕事が遅いのか、というのは、佐々木にとって切実な問題の一つ。

最近感じたのは、佐々木は脳の後ろ半分が、あまりにも使えてないなと。

あと、言語による指示とか指導というのは、どうしても、脳の前半分を相対的に優位に活動させがちだな、とも。

だから、言語による指示にまじめに従えば従うほど、脳の後ろ半分が退化していく、という傾向は、一般的にある気がする。

2011年8月24日水曜日

表現したら伝わらない

近所のスーパーの女子トイレの入り口に、
「お客様へ。ここは女子トイレです。男子トイレは4階、5階、6階にあります。お間違えのないようにくれぐれもご注意ください」
みたいな掲示があって、笑ってしまった。

男が女子トイレに入ってきた、という女性からのクレームが、よほど多かったのだろう。

頼むから間違えないでくれ、という係員の方の思いの発露が、「お客様へ」とか「お間違えのないようにくれぐれもご注意ください」とかの文言となったのだろうが、単に
「女子トイレ」
と大書きした方が、“そこが女子トイレであることを間違いなく男に認識させる”という目的は、よほど確実に達成されるはず。

「男子トイレは4階、5階、6階にあります」は、小さな文字で補足的に書くとか。

「これを伝えたい」という思いを言語化することで、肝心の「これ」が、かえって伝わらなくなる。

自分もけっこう、無自覚のうちにやってるかも。

2011年8月23日火曜日

新幹線の中で騒がなくなった日本人

ここのところお客様インタビュー記事制作の仕事で、月1~2回ぐらいは新幹線出張。

実務翻訳者をしていた頃は、出張なんてあり得なかった。

プライベートで気軽に旅行できるほどの経済的余裕も、なかった。

なので30代の頃は、新幹線に乗る機会がほとんどなかった。

20代の頃はまだ、プライベートで数か月に一度は旅行できるぐらいの経済的余裕があった。

学生時代は関西の大学に通ったので、寮にある関西と、実家のある関東の往復に、ときどき新幹線を使った。

で、昨日も大阪への出張で新幹線に乗りながら、ふと思った。

20年前、佐々木が20歳前後だった頃って、新幹線に乗ると3回に1回ぐらいは、車内で大騒ぎしてる人に遭遇した気がする。

子供に限らず、大人でも。

あの頃は、自家用車の中と、公共交通機関の中と、まったく区別がつかない様子で大騒ぎしているグループって、珍しくなかった記憶がある。

ひるがえって最近、新幹線の中でそんな大騒ぎをしてる人って、まったく見ない。

まったく。

なんでだろう。

佐々木の記憶自体が、間違ってる?

最近新幹線の車内で大騒ぎしているグループに遭遇しないのは、単なる偶然?

少子化で子供の数が減ったから?

新幹線の車内で大騒ぎするような浮かれ気分が、バブル崩壊と共に消滅した?

一緒に旅行しながら大騒ぎできるほど気の置けない人間関係を、人々が築かなくなったから?

公共交通機関の中で大騒ぎするような人々は、経済的に転落して、もう新幹線では旅行しなくなった?

たとえば激安高速バスとかを利用するようになった?

あるいは、旅行に出られるほどの経済的余裕もなくなった?

ひょとして、日本人全体のマナーが著しく向上した?

正しいのは、どの仮説だろう。

2011年8月22日月曜日

表情と内面

他人の表情をまねて、自分の中にわき起こってくる感情を観察することによって、他人の内面を知るという、ポーだか誰だかが小説で紹介している、例の方法。

あの方法で、他人の内面がわかるという保証は、別にない。

ないのだが、実際にやってみて、たしかにわかることがある。

それは、自分がふだんしない表情をしてみると、自分がふだん体験しない感情が、自分の中にわき起こってくること。

ここから強く推測されることは、自分がふだんしない表情を日常的にしている人は、自分がふだん持たない感情を、日常的に持ちながら生活しているということ。

自分とは違う表情をしている人は、自分とは違う内面を持っていること。

つまりは、外からの観察で、他人の内面を知ることはできない。

このことを実感できるだけでも、ポーが紹介している例の方法は、ときどきやってみる価値がある。

2011年8月21日日曜日

複合固有名詞におけるアクセントの変化について3

しつこく、三井銀行と三井住友銀行の三井アクセント問題。

固有名詞とか普通名詞とか、実は関係ないんじゃないか、と思わなくもない。

○○銀行とか○○不動産とか○○書店とかなったとき、もともとアクセントを付けて発音されていた固有名詞がフラットな発音になるのは、実は人名と区別するためなんじゃないか、と。

「三井銀行」の「三井」を、アクセントを付けたまま発音すると、「三井ギン子」という女性の名前と聞き違えるから、みたいな。

説得力が、あるような、ないような。

じゃあなんで、「住友銀行」の「住友」は、名字として使われる場合と同じフラットな発音でも、「住友ギン子」という女性の名前と聞き違えることがないのか、と突っ込まれれば、答えるすべがない。

2011年8月20日土曜日

複合固有名詞におけるアクセントの変化について2

三井銀行の「みつい」はフラットに発音されるのに、三井住友銀行の「みつい」はアクセントを付けて発音される件。

一般に、アクセントを付けて発音される固有名詞に、「銀行」を付けると発音がフラットになるのに、「○○銀行」を付けるとアクセントがフラットにならない件。

先日ここに書いてからも、つらつら考え続けて、一つ気づいた。

「銀行」は、普通名詞。

「○○銀行」にすると、固有名詞。

普通名詞にくっつけて固有名詞にするときは、アクセントがとれてフラットな発音になる。

「三井」+「銀行(普通名詞)」→「三井銀行(固有名詞)」。

この場合、「三井」のアクセントがとれる。

既に固有名詞になっている名詞にくっつける場合は、アクセントに変化はない。

「三井」+「住友銀行(固有名詞)」→「三井住友銀行(固有名詞)」。

この場合、「三井」のアクセントはそのまま。

「アクセント付きの固有名詞のアクセントをとる」というのは、「次に来る普通名詞と合わせて一つの固有名詞を作りますよ」という合図になっているらしい。

だから「○○銀行」の形で既に固有名詞になっているところに、アクセント付きの固有名詞を付けても、アクセントは変わらない、と。

三井ゆりの「ゆり」、山下久美子の「久美子」、いずれも固有名詞である。

固有名詞にくっつけて固有名詞を作るときは、アクセントは変わらない。

だから三井ゆりの「三井」も、山下久美子の「山下」も、アクセントを付けたまま発音される。

三井銀行の「銀行」、山下書店の「書店」、いずれも普通名詞である。

普通名詞にくっつけて固有名詞を作る時は、アクセントがとれてフラットになる。

だから三井銀行の「三井」も、山下書店の「山下」も、アクセントがとれてフラットに発音される。

少し筋が通ってきた。

ただ、なぜそうなっているのかについての合理的な説明は、まだ思いつかない。

2011年8月19日金曜日

上品な福山

一昨日取材の行き帰りに立ち寄った、広島県福山市。

ホテル泊の翌朝福山城周辺を散歩したり、取材先への行き帰りにレンタカーの車内から町並みを眺めたりしただけの印象なのだが、とにかく雰囲気が、上品。

無理に上品ぶってるというのではなく、「これをやったら下品だから、やらない」という一線を、ごく自然に、日本の他の都市の、何倍も高く保っている感じ。

聞けば江戸時代、福山藩は、周囲の外様大名を抑えておくための「西国の鎮衛」として、歴代有力な譜代大名が配された藩だった。

そのため今でも福山市民の間には、「福山は他の市とは格が違う」という意識があるのだとか。

その意識、町並みにも十分現れていると感じた。

佐々木が住む相模原やその周辺には、言ってしまえば「下品」なものが、けっこうあふれかえってる。

でもその「下品さ」を「活気」と読み替えることで、佐々木はそういう下品さを我慢している。

福山では、そういうあえて我慢しなければいけないような「下品さ」を、ほとんど見かけなかった。

商業施設にも、公共施設にも、個人の住まいにも。

というか、これまで自分が町並みの「下品さ」を「活気」と読み替えて我慢してきたことに、福山の町並みを見て、はじめて気づいた。

で、じゃあ、自分が福山に住みたいか。

相模原が福山みたいになってほしいか。

といったら、それはないなとも思った。

周りが下品ばっかりなのは嫌だけど、下品さが皆無なのはもっと嫌、みたいな。

下品は嫌、なんていう贅沢な欲求を持てる環境自体が、下品なぐらいの社会の活気によって実現してるんだろうし。

2011年8月18日木曜日

山奥コンビニの手作りPOP

ある販促コンサルタントのクライアントインタビュー記事の取材で、広島県の山奥にあるコンビニエンスストアに行ってきた。

そのコンサルタントの指導で店主が始めた手作りPOPで、売上が伸び始めた、とのお話。

なので店主の30代女性に、実際に店内を案内してもらい、手作りPOPの数々を見せていただく。

POPなんて、今はどこの小売店でもやっている。

だからそれほど期待もせず眺め始めて、驚いた。

POPに込められた思いの、真摯さのほとばしりに。

胸が熱くなって、ちょっと泣きそうになった。

聞けば、そのコンサルタントからPOPづくりを勧められても、店主はなかなかやろうとしなかったのだとか。

なぜか。

お客さんが必要としていないものを、わざわざ購買意欲を煽って買わせたり、自分で使ってもいない商品に「お勧め!」などと書いたりするのが、嫌でしょうがなかったらしい。

お客さんにできるだけ商品を買わせないようにすることが、その店主のお客さんへの思いやりだったのである。

それぐらい真摯にお客さんのことを思っていた店主が、そのコンサルタントの話を聞いて、考えを変えた。

お客さんに必要ないものを買わせてもいい、自分で使ってもいない商品を勧めてもいい、というふうに考えを変えたわけでは、もちろんない。

POPを書くことが、お客さんの幸せにどう役立つかに、その店主は気づいたのである。

お客さんの幸せを願う気持ちだけで書きまくられたPOP。

あの山奥コンビニの手作りPOPを見て以来、そこらの小売店のPOPを見ても、「小ぎれいに書かれたPOP」、「売るために書かれたPOP」としか、佐々木には見れなくなった。

2011年8月17日水曜日

福山泊

本日は広島県庄原市で取材の仕事。

昨晩は福山駅前のホテル泊。



5,000円台でこれだけ広くてきれいな部屋に泊まれて、申し訳ないぐらい。

「デスクの前が鏡」というお約束のレイアウト以外に、何の不満もない。

2011年8月16日火曜日

複合固有名詞におけるアクセントの変化について

仕事で、関西に来た。

周囲の人々が話す言葉のアクセントが、いちいち楽しい。

夕方、りそな銀行の前を歩いていたら、二人組の若い女性の一人が「あ、りそな、まだ開いとった」。

「りそな」の「り」にかなり強いアクセント。

関東では、「りそな」の「り」を、あそこまで強く発音しないと思う。

りそな銀行の本社は、大阪。

大阪に本社がある会社の呼び方は、やっぱり大阪風のアクセントが正式なアクセントになるのかな、とか思ったり。

そんなことを考えてるうちに、昔あった「三井銀行」の「みつい」のアクセントと、「三井住友銀行」の「みつい」のアクセントの違いが、気になりはじめた。

「三井銀行」の「みつい」は、フラットな読み方。

「三井住友銀行」の「みつい」は、「み」に強いアクセント。

なんでだろう?

固有名詞には、一般的にフラットに発音される固有名詞と、アクセントを付けて発音される固有名詞がある。

住友、東京、横浜、佐々木などは、フラットに発音される。

三井、仙台、静岡、山下などは、アクセントを付けて発音される。

おもしろいことに、これらの固有名詞に「銀行」を付けて「○○銀行」にすると、すべて、発音がフラットになる。

住友銀行、東京銀行、横浜銀行。

三井銀行、仙台銀行、静岡銀行。

実在しないが、佐々木銀行、山下銀行なんていう銀行があったら、やっぱり発音はフラットになるだろう。

で、さらにおもしろいことに、これらの固有名詞に「第一銀行」を付けて「○○第一銀行」にすると、もともとフラットに発音される固有名詞はそのままフラットに発音され、もともとアクセントを付けて発音されていた固有名詞はそのままのアクセントを付けて発音される。

すべて実在しないが、住友第一銀行、東京第一銀行、横浜第一銀行、佐々木第一銀行、いずれもフラットに発音されるはず。

三井第一銀行、仙台第一銀行、静岡第一銀行、山下第一銀行、すべてもとのままのアクセントを付けて発音されるはず。

なんでだ?

合理的な説明が思い付かない。

2011年8月15日月曜日

『アーロン収容所』を読んだ

日中都内で私用。

電車の中で読む本を一冊、と、買ったまま積んであった本の中から、『アーロン収容所』(会田雄次著)を選ぶ。

終戦記念日だし。

読んでよかった。

やっぱり戦場とかでないと現れてこない民族性とか国民性とか人間性ってある。

イギリス人、インド人、ビルマ(当時)人、どの描写も分析も興味深かったけど、やっぱり日本人の描写・分析が一番興味深い。

あー日本人って、戦場ではこういう状態になるんだ、みたいな。

たぶん今もそんなには変わってない。

あと強く思ったのが、自分が置かれている状況を冷静な視点で観察・分析し、記録することの、価値の高さ。

著者は捕虜収容所での生活を振り返って、さまざまな特技で仲間に貢献した人々と自分を比較して、「自分はインテリで何もできなかった」としきりに謙遜してたけど、この『アーロン収容所』の記録・洞察は、日本人の宝だと思う。

2011年8月14日日曜日

一人稽古

本日は武術仲間と集まって稽古のはずが、やってきたのは佐々木一人。

自分の体を内観しつつ、淡々と稽古。

稽古したことって、特に棒みたいにある程度重さのある道具を持って稽古したことって、良くも悪くも身についていってしまうもんなんだなと改めて思った。

いい稽古、たくさんしていきたいと思った。

2011年8月13日土曜日

眠らずに済むものなら

眠らずに済むものなら仕事がある時は何日でも眠らずに仕事し続けたいとよく思うけど現実には思うだけ。

今夜も大いに眠る。

2011年8月12日金曜日

「ビジネス」という言葉の味わい深さを味わう5

「busy」から「business」への転化。

状態から、実体性を帯びた状態へ、さらには状態の実体化への過程。

状態の具体的把握から、状態の抽象的把握への過程。

両過程の相互浸透。

これらの結果として生じたもの。

持続性。

構造性。

予見可能性。

選択可能性。

操作可能性。

自己都合性。

等々。

大変で、選択の余地がなくて、他者の都合に由来する、というもともとの性質を維持しながら、これらと正反対の性質を実現する、という矛盾を実現すると同時に解決する形態が、現実のビジネスのあり方である。

あと、個体発生は系統発生を繰り返すと言うけれど、個々のビジネスが発生し成長するプロセスは、世の中にビジネスというものが発生し成長してきたプロセスを、どの程度繰り返すものなのだろうか。

むにゃむにゃ。

もう眠くなってきたから寝る。

2011年8月11日木曜日

「ビジネス」という言葉の味わい深さを味わう4

でもって、「-ness」である。

「『-ness』は形容詞を名詞化する語尾」と、英文法の授業で習った。

「kind」は「親切な」で、「kindness」は「親切さ」だと。

特に感動もなく覚えた知識だったが、改めて考えてみると、形容詞で表現されるような状態とか性質を、実体化して名詞で捉えられるようになったことって、人類にとって、けっこう大きなブレイクスルーだったのではないだろうか。

「親切な人」はいても、「親切さ」なんてものは、物体としては存在しないんだから。

「忙しい人」はいても、「忙しさ」なんてものは、物体としては存在しないんだから。

こういうことって、もっと感動をもって味わったほうがいい気がする。

で。

たしかに状態や性質は、物体ではない。

だが、状態や性質が、ある種の実体性を帯びる、ということはあるのではないか。

たとえば「親切に」を、英語で「with kindness」と言ったりする。

この「kindness」に、「親切」という性質の抽象的把握、すなわち「親切さ」以上の意味がないかと言えば、そんなことはないと思う。

「親切であることは良いことだ」と認める心。

「人に親切に接しよう」という決意。

そういう、実体化した認識。

一言で言えば、親切心。

「kindness」は、「親切さ」という抽象と、「親切心」という実体の、両方を含意している。

でもって、「親切さ」という抽象と、「親切心」という実体は、それぞれが単独で発生・発展したわけではなく、互いが互いを鏡にして発生・発展してきたと考えるのが自然だろう。

「business」にも、似たような経緯はあったのだと思う。

「忙しい」という状態が、ある種の実体性を帯びてくるというか。

実体化・構造化した「忙しさ」が現れてくるというか。

そういう、現実に実体化・構造化した「忙しさ」と、「忙しさ」という抽象が、互いを鏡にして発生・発展してきたというか。

そのことによって、「忙しさ」という抽象を表現する名詞「business」が、独特の意味を持つようになってきたというか。

それがまた、社会的分業の発展・構造化と軌を一にしてきたというか。

なんとういか。

かんというか。

2011年8月10日水曜日

「ビジネス」という言葉の味わい深さを味わう3

「ヒマ人」というのが一種の悪口であることを考えれば、「お忙しい」は一種のほめ言葉とも言えるわけで、実際、「ご活躍」とほぼ同じニュアンスで「お忙しい」が使われることは多い。

だから、忙しいのは嬉しいこと、というのも一つの真理ではある。

ではあるのだが、基本的かつ大ざっぱには、「忙しい」というのは、「大変な状態」に属する概念だと思う。

「大変な状態」には、いろいろな状態がある。

腹が減ってるとか。

頭が痛いとか。

「大変な状態」に共通する性質として、「選択の余地がない」という点がある。

腹を減らそう、と決めて急に腹が減るわけでもないし、腹が減るのをやめよう、と決めて腹が減らなくなるわけでもない。

「忙しい」という状態も、基本的にそうである。

忙しくなろう、と決めて急に忙しくなるわけでもなければ、忙しくなるのをやめよう、と決めて忙しくなくなるわけでもない。

それから、他の「大変な状態」にはあまり見当たらない、「忙しい」という状態に特有の性質もある。

それは、他人の都合、もしくは自分が属する共同体の都合に由来する「大変な状態」である、という点である。

自分が属する共同体を「他者」に分類するか「自己」に分類するかというのは微妙なところではあるのだが、あえて「他者」に分類してしまえば、「他人の都合」と「自分が属する共同体の都合」をまとめて「他者の都合」と言ってもいいだろう。

「他者の都合に由来する大変な状態」というのは、「忙しい」というのことの本質なのではないかという気さえする。

以上をまとめると、「忙しい」には次の3つの性質がある。

1.大変な状態である。

2.選択の余地がない。

3.他者の都合に由来する。

「busy」=「忙しい」から転じた「business」にも、これらの3つの性質が備わっている。

このことが、ものすごく味わい深いことであるように、佐々木には感じられる。

日本語で「business」の訳語として用いられる「事業」という言葉は、これら3つの性質を、はっきりとは含意しない言葉である。

大変でなくても、事業。

自分で選択しても、事業。

他者の都合に由来しなくても、事業。

「business」に備わっているはずの上記3つの性質を、「事業」という言葉がはっきりと含意できていないことが、日本において多くの「事業」が迷走する原因の一つになっているのではないか。

とか言ってみたりして。

2011年8月9日火曜日

「ビジネス」という言葉の味わい深さを味わう2

音の響きを味わう。

意味の広がりを味わう。

成り立ちを味わう。

言葉を味わうっていうと、この三つになるだろうか。

「ビジネス」という言葉の場合、特に味わうべきは、その成り立ち。

たとえば日本語の「しごと」っていう言葉の場合は、「する」「こと」。

だから「しごと」。

そこに、特に不自然さはない。

でも、「busy」と「-ness」を足した言葉に、いわゆる「ビジネス」の意味を担わせるって、そんなに自然なことじゃない。

形容詞に「-ness」という語尾を付けて、単なる形容詞の名詞化以上の意味を担わせてる例って、「business」以外にないんじゃないだろうか。

その不自然さを敢えて乗り越えさせるだけの「自然さ」というか「しっくりくる感じ」が、「business」という呼び方にあった、ということだ。

それも、ごく一部の人々ではなく、「business」という呼び方が生まれた当時、およびそれ以降の現代に至るまでの、非常に多くの人々に。

英語圏を飛び越えて、日本語圏の人々にまで。

ビジネスってものすごく一般的な活動だから、よほど多くの人々に「しっくりくる」と感じさせる呼び方じゃないと、定着しなかったはず。

「あー、俺たちがやってる“これ”って、たしかに『business』って呼ぶのが一番しっくりくるねー」と。

その感じの正体を突き止めたくて、今あれこれと、想像を働かせ中。

2011年8月8日月曜日

「ビジネス」という言葉の味わい深さを味わう

運動神経、社交性、行動力、‥‥。

佐々木には、いろいろなものが欠けている。

中でもとりわけ欠けてるのが、ビジネスセンス。

佐々木はこれまで、ビジネスで成功したことが一度もない。

ビジネスで成功した人の話を聞く機会は、ありがたいことに頻繁にある。

そのたびに、ビジネスで成功する人と自分とは、どこが違うのかを考える。

最近思うのは、自分はビジネスというものを、根本的にわかってないのではないか、ということ。

ビジネスって、実はものすごく味わい深い概念なのではないか。

そんな気がしてきている。

2011年8月7日日曜日

セミ、カミナリ、コオロギ

午前中はうるさいほどのミンミンゼミの声。

午後は激しいカミナリ。

夜は今年初めて聞くコオロギの声。

にぎやかな一日だった。

2011年8月6日土曜日

スマホ

「スマートフォン」を略した、「スマホ」という言葉。

響きが、妙に和風っぽい。

外来語の略語で、ここまで和風っぽい響きの言葉ってない気がする。

『万葉集』にも詠まれ『源氏物語』の舞台にもなった「須磨」に、「帆」。

須磨海岸から遠く帆掛け舟でも眺めるような気分。

隙間の「ス」、間抜けの「マ」、惚(ほう)けるの「ホ」。

「スマートフォン」のハイテク感・最先端感と、印象が真逆。

それにしても、言葉の響きがいちいち気になる傾向というのも、どうなのだろう。

くだらない駄洒落を連発して周囲の顰蹙を買う「オヤジギャガー」と、言語に対する態度において、紙一重なのではないか。

こちらが真面目に伝えた言葉に冗談で返されるのが、10代の頃は嫌でしかたなかった。

相手の言葉の「意味」よりも「音」にばかり注意を向けていることで、無自覚のうちに、相手に同じ不快感を与えていることもあるのではないか。

だとしたら済まないことである。

スンマホ。

2011年8月5日金曜日

只今脳酷使中

本日は朝の2時半から現在夜9時半に至るまでほぼぶっ通しで脳を酷使中。

このまま日付が変わるまで使い続ける予定。

脳を酷使する割には成果が出ないのが情け無いところ。

2011年8月4日木曜日

つらい?

話をわかりやすくする方法には、大きく分けて二つある。

話の中のわかりにくい部分を、わかりやすく言い換えるのが、一つの方法。

話の中のわかりにくい部分を、話さずに済ますのが、もう一つの方法。

相手に対する期待という点で、前者と後者は真逆である。

この話をなんとかわかってもらいたい、というのが、前者の態度。

この話はどうせわかってもらえない、というのが、後者の態度。

後者の態度を取られてつらく思わない人は、ある意味幸せである。

後者の態度を佐々木に取られてつらく思っている人がいたら、申し訳ないと思う。

同時に、後者の態度を取られてつらく思うぐらいの人が佐々木の周りにいるなら、佐々木はそのことを嬉しく思う。

2011年8月3日水曜日

大山(下社)へ

ひさしぶりに山歩き。

7月は体調を悪くして一度も山に来れなかった。

朝遅めに出て、大山(下社)へ。

いつもは終点まで乗る大山ケーブル行きバス、今回は大山駅で下車。

旧参道を歩く。

白い行衣を着た2~6人ぐらいのグループ、20組ぐらいとすれ違った。

大山講、まだ盛んなようす。

人間ってこういう組織というか信仰というか習慣をまだまだ必要してるんだな‥‥と変な感慨を持つ。

各地の大山講の名簿が彫られた石碑のようなものが表に立ってる旅館も多い。

東京の消防団とか、築地市場の仲卸業者が多い印象。

江戸時代の風習を守る業界ということか。

江戸時代は大義名分がなければ庶民は旅行ができなかったので、集団での有名寺社参りは、江戸の庶民の貴重なレジャーだったのだろう。

ケーブル駅から、今回は女坂を登る。

ひさしぶりの山なのでリハビリ気分。

途中から、5分~10分歩いては休憩。

体力落ちてるなと感じた。

下社で20分近く休憩。

これまで神社の玉垣に彫られた寄進者の名前なんて、じっくり読んだこともなかったが、ひさしぶりの山登りでバテて下社のベンチに座り込んでしまい、玉垣の名前、じっくり読ませてもらった。

驚くほど、築地市場の業者の名前が多い。

阿夫利神社は「雨降り神社」なのだから、農民の信仰の対象というイメージがあったので、この築地依存ぶりは意外。

帰りは蓑毛ルート。

途中から小雨。

金目川沿いのアスファルト道に出るまで誰にも会わなかった。

午後3時過ぎには秦野駅。

帰ってすぐ仕事。

体力、落としたくないなと思った。

月2回ぐらいは山に来たいと思った。

2011年8月2日火曜日

自分広告の方法

昨日のエントリで、日記と広告記事って書くときの頭の働きが逆、とか書いて、ふと思った。

本人は日記的に書いてるつもりの文章でも、けっこう広告記事的な頭の使い方で書いてる場合が多いよなと。

読み手に思ってもらうこと(&思わせてはいけないこと)ありきで、それに合う言葉を探すみたいな。

思慮深い人、とか。

楽しい人、とか。

いつも前向きな人、とか。

って思ってもらうための、広告。

書き手(自分)が思ったことありきで書いてるつもりの文章が実は無自覚のうちに読み手に思ってもらうこと(&思わせてはいけないこと)ありきで書いてる文章なのだとしたら、「他人にそう思われたい自分」以外に「自分」ってないのだろうか。

2011年8月1日月曜日

書く力

この日記を書き始めた頃は、こうして毎日Webに文章を公開し続けることが、書く力の向上につながるのではないか、という期待もあった。

それも、収入に直接結び付く形での。

文章力アップは年収アップの近道、みたいな煽りも、あちこちで目にしてたし。

現にこうやって日記を書き続けて、でもって、広告記事書きでお金をいただくようになって、思うのは、いくら自分の感情やら思考やらを書いても、お金をいただく文章を書く力は(少なくとも広告記事を書く力は)、たいして向上しないな、と。

日記の場合は、書き手(自分)が思ったことありきで、それに合う言葉を探す。

広告記事書きでは、読み手に思ってもらうこと(&思わせてはいけないこと)ありきで、それに合う言葉を探す。

思考の向きが、まるで逆。

肉体的な運動だけに着目すると、まったく同じことをしてるように見えるけど。

だからどちらの行為も「書く」と呼ばれるわけだけど、頭の中でやってることは逆なんだから、何かこの二つを区別する表現って必要なんじゃないかと思う。
 
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