2011年7月31日日曜日

ブログを1000日連続更新してみた

2008年11月4日に始めたこの公開日記、今日で1000日目。

700日目ぐらいまでは、ブログ1000日連続更新に、目標感みたいなものもあった。

達成したアカツキには、何か手応えのある成長も成し遂げられているのではないか、という期待もあった。

現実に達成してみると、こんなもんかと。

なにしろハードル低くしてるし。

1行でもいい、くだらなくていい、って。

ほんとに1行しか書かない日も多いし。

ほんとにくだらないことばっかり書いてるし。

他人の役に立つ文章を書こうという気がないし。

500日目ぐらいを過ぎると、完全に習慣と化してしまって、苦労とかほとんどない。

歯磨きレベル。

1000日欠かさず歯磨きしても自慢にならないのと一緒。

むしろこういう投稿ができるインフラが1000日間ほぼノンストップで機能してることのほうが、驚き。

2011年7月30日土曜日

「人脈」

“わがごと”として使う言葉。

“ひとごと”として使う言葉。

人それぞれの中で、言葉は大きくこの二種類に分かれている。

車を運転する人にとって「ガソリン代」という言葉は“わがごと”だろうが、車を運転しない佐々木にとっては“ひとごと”。

多くの勤め人にとって「確定申告」という言葉は“ひとごと”だろうが、自営業者の佐々木にとっては“わがごと”。

自分や自分の周辺では“わがごと”として使われない言葉を、“わがごと”として使う人に遭遇すると、その人の認識や体のあり方に、強い注意を向けずにいられない。

そしてその認識や体のあり方の記憶を、その言葉のありかたの記憶に結び付ける。

あーこの言葉って、こういう人が“わがごと”として使う言葉なんだ! という感じで。

「人脈」というのも、最近そういう感じで、人のあり方の記憶が結び付いた言葉の一つ。

2011年7月29日金曜日

最近怒ってない(気がする)

佐々木が最後に怒ったのって、いつだっけ?

今年1月に仕事上のことで相当強い怒りを感じたのは覚えているのだが、それ以降の記憶がない。

本当に怒ってないのか。

忘れてるだけなのか。

まぁいっか。

自分が怒りを感じたことなんて、忘れてしまったほうが得だろうし。

他人を怒らせたことを忘れたら、たいへんだけど。

今日取材先で猛烈に怒られながらこんなことを考えていた佐々木は、けっこう不真面目な人間だと思う。

2011年7月28日木曜日

人の周りに集まる人

我ながら、えらく配慮に欠けるもの言いだとは思うのだが、「人の周りに集まる人」に関して、次のような法則性があるような気がしている。

ちょっと優れた人の周りには、ちょっと優れた人が多く集まる。

ものすごく優れた人の周りには、ものすごく駄目な人が多く集まる。

2011年7月27日水曜日

先日体調を崩して寝込む1週間ほど前から、部屋に一匹の部屋が飛び回っていた。

同じ蠅が、一週間も部屋を飛び回り続けるのは珍しい。

はじめてのことかも。

これまでたいていの蠅は、たとえば網戸に止まったタイミングで網戸を少し開けてやれば、自分から窓の外に飛び出していった。

あまりにうるさい時は、スプレー殺虫剤をかければイチコロだった。

しかし今度の蠅は、なぜか網戸を開けても自分から飛び出していかない。

壁などに止まっているときにスプレー殺虫剤をかけようとすると、殺虫剤が吹き出した瞬間、飛び立ってしまう。

しかもなぜかやたらと佐々木にまとわりつく。

うるさくてかなわない。

寝込んで寝返りを打つ気力もなかった時など、顔の周りを蠅が飛び回っていると、死体にでもなったような気分だった。

これではいかんと、少し体調が戻ったところで、ドラッグストアにハエ取りグッズを買いに行った。

とりあえず買ってみたのは、昔ながらのハエ取りリボン。

はじめて買った。

パッケージには「面白いほどよくとれる!!」とのコピーが。

「面白い」ように蠅がリボンにくっつく光景を期待しつつ、部屋の3ヶ所にぶらさげた。

ハエ取りリボンって、蠅を吸着する成分だけではなく、蠅を誘因する成分も塗ってあるのではないかと、佐々木は勘違いしていた。

単に蠅が偶然リボンに止まればくっつく、というだけの代物らしい。

優れない体調と気分をおして買ってきて部屋に取り付けたハエ取りリボンの横を、蠅が元気にブンブン通過していくのを見る時胸に湧き起こる感情は、「面白さ」などとはほど遠い、深い悲しみだった。

しかも、この妙な悲しみは悲しみとしてせっかくなので味わっておこうと思ったその翌日には、蠅がピタっと姿を見せなくなった。

ハエ取りリボンにくっつくでもなく。

蠅もいない部屋に天井からハエ取りリボンが3本。

やり場のない感情というのは、こういうのを言うのだと思った。

2011年7月26日火曜日

因果関係は不真面目に語りたいし受け取りたい

商品・サービスの効果を伝えるのは、広告の重要な機能の一つ。

だから仕事で広告を書くときは、「商品・サービス」(<原因>)→「効果」(<結果>)という因果関係について、大いに真面目に語ることになる。

現実の因果関係は、一つの<原因>→一つの<結果>、というふうに単純に対応してはいない。

数ある<原因>の一つに過ぎないものを、唯一の<原因>であるかのように書いたり、途中にいくつもの因果関係が挟まっている媒介的な因果関係の最初の<原因>と最後の<結果>だけを取り上げて、直接的な因果関係であるかのように書いたりすれば、賢明な読者から軽蔑される。

だから、賢明な買い手を想定する商品・サービスの広告では、「商品・サービス」(<原因>)→「効果」(<結果>)という因果関係の記述に、四苦八苦することになる。

因果関係なんて気軽に語っていいもんじゃねぇと、広告を書くたびに痛感する。

日常生活、日常会話では、因果関係なんて、ある種の冗談としてしか扱いたくなくなってくる。

「AのおかげでBになった」とか。

「BになるにはAをすることだ」とか。

すべて冗談として語らせてほしいし、受け取らせてほしい気分。

禁煙したら、肺ガンになった。

肺ガンの原因は、禁煙だ。

みたいな。

ずっと真面目に努力してきた人が、真面目に努力するのをやめたら成功した。

成功の原因は、真面目に努力するのをやめたことだ。

みたいな。

2011年7月25日月曜日

家でほとんどつけないテレビでアナログ放送が受信できなくなったらNHK受信契約を解約しようと思っている愛国心にやや欠ける私

アナログ地上波テレビ放送が今年7月24日の正午で中止になるというので当日テレビが映らなくなるのを楽しみにしていたらケーブルテレビでは2015年まで地上デジタル放送がアナログ波に変換されて放送されるので地上デジタル放送に対応していないテレビでも引き続き今まで通り映ることを当日正午過ぎに知ってがっかりした人が大勢いたようだが、佐々木もその一人。

VHSビデオを見るために15年以上前に買った日立製14インチブラウン管テレビ、ここ1年以上ほとんど電源を入れることすらなく、ほとんどアナログ地上波停波を目撃するためだけに部屋に置いてあったようなものなのに。



家のテレビが映らなくなったらNHK受信契約を解約できて受信料年1万5千円近い節約になると喜んでたのに。

しかたない。

2015年までは受信料を払い続けよう。

もしも佐々木がバリバリの愛国主義者だったら、家のテレビが映ろうが映るまいが、家計に余裕があろうがなかろうが、NHK受信料を払うのをやめるなんて思いも寄らないと思う。

ここで愛国主義者とは、自己が属する国家の存続と繁栄に何物にも優る価値を見出し、自己のあらゆる行動をこの価値尺度に従って決定する者と定義する。

国営なんだか国営じゃないんだかよくわからない放送局というのは、平和時の近代国家における国民の統合に、きわめて有効な存在だと思う。

戦争時の近代国家において国民の統合に有効なのは、むしろ完全に国営の放送局だと思うけど。

なぜそう思うのか説明しろ、と言われると、言葉に詰まるんだけど。

なのでNHK受信料を払うのをやめるということは、いわば日本人の国民的統合の弱体化に手を貸す行為であり、その意味であまり愛国的ではない行為なのではないかと。

佐々木の場合はそんなことより家計の節約の方が大事ということで、すみません、という感じ。

2011年7月24日日曜日

心簡単に折れすぎ

今日は一日バリバリ仕事。

精神の調子は、平常時の10割近くまで回復。

肉体の調子は、平常時の7割程度。

欠けてる3割は、足の傷の痛みによるもの。

まだ自然に歩けない。

それが全身のストレスになる。

精神にも、やや悪影響。

でも最悪期は脱した。

以下、これまでの経過を簡単に。

7月に入ってすぐ、右足第2指左側付け根付近に、小さな傷ができた。

数日放っておいたら、傷口が広がり膿んで痛み始めたので、消毒薬をふきかけ、絆創膏を貼った。

7月4日の名古屋出張は、この状態で問題なくこなした。

4、5日すると、傷は他の指にも広がり、強い痛みも出始めた。

絆創膏では対処できない傷になり、ガーゼと包帯に切り替えた。

痛さのあまり、普通に歩けなくなってきた。

ここ何年か、ゆる体操を中心としたトレーニングのおかげで歩くのがずいぶん快適になり、その快適さが精神の働きにも好影響を与えていたのだが、今度はその歯車が逆回転しはじめた。

気分も頭も冴えない。

足はますます痛くなる。

仕事の能率が落ちた上に、6月中の自分の仕事にさまざまなミスがあったことが判明して対処に追われ、スケジュールも気分も重くなり始めた。

自分の書く文章の駄目さ加減はますますわかるようになっていく一方で、駄目でなくするにはどうすればいいのかはますますわからなくなっていく、脳の糞詰まり状態。

必要な執筆スピードは上がり続け、実際の執筆スピードは下がり続けた。

足の傷の痛みと膿みがあまりにひどいので、これは病院に行かないとまずいかもと思いつつ、この原稿だけは仕上げてから、とか思ってるうちに診療時間が終わる日が数日。

ついに右足が激しくしびれ始めるに及んで、ようやく翌日朝一で近所の病院の外科へ。

診察の結果、外科ではなく皮膚科へ行けとのことで、別の開業医を紹介される。

皮膚科での診断は「異汗性湿疹」。

塗り薬と、感染止めの飲み薬と、痛み止めの飲み薬を処方され、帰宅。

外出している間に、これまで痛みのなかった左足の指の付け根まで痛みはじめた。

昼食を取り感染止めを飲み、仕事に取りかかろうとしたら、座っていることもできなくなり畳の上にぶっ倒れる。

なんとか寝たままノートパソコンを打とうとしたが、すぐ断念。

ノートパソコンを横にどけ目を閉じた。

うとうと眠ったり目が覚めたりするのだが、目覚めても何もする気力が起きない。

文字通り「何も」。

寝返りを打つ気力もなければ、思考する気力もない。

携帯電話もメールも見る気になれない。

とにかく体も頭も動かない。

暗くなってから、なんとか気力を振り絞って起き上がり、軽く食事を取って感染止めを飲み、足のガーゼと取って薬を塗り自分でガーゼと包帯を巻き、布団を敷いて寝た。

昼間寝っぱなしだったのに、夜もそのまま朝まで寝っぱなし。

朝になっても、食事、薬、ガーゼ包帯の交換など最低限のこと以外、まったくやる気がおきない。

鬱病をたとえて「心の骨折」と呼ぶと、何かの本で読んだ。

自分が鬱病なのかどうかはわからなかったが、「心の骨折」というのは、今の自分の状態にまさにぴったりの表現だと思った。

肉体や頭脳の疲労で動けないわけではない。

心が折れて動かないのである。

この状態が何日も、何週間も続くようだと、間違いなく大勢の人に迷惑を掛けることもわかるし、その手当てをしておきたいという願望はあるのだが、何しろ頭が働かない。

それでも一日寝ていたら、夕方にはなんとか買い物に出れるぐらいには回復した。

翌日には家事もできるようになった。

翌々日にはこうして仕事もバリバリできるようになった。

こんなに簡単に心が折れてしまう自分を情けなく思うと同時に、3日寝込んだ程度で完全復活できる自分を頼もしくも思った。

2011年7月23日土曜日

体調少しずつ改善

体調、昨日よりはましに。

なにしろ日に日によくなってるのは救い。

2011年7月22日金曜日

体調やや改善

昨日は寝込んだまま起き上がることもできなかったが今日は起き上がる程度のことはできる状態に。

明日からはまた仕事も再開できるのではないかと期待。

2011年7月21日木曜日

体調を崩した

体調を崩した。

病院に行き薬をもらう。

飲んで横になったらそのまま何もできなくななった。

情け無い。

2011年7月20日水曜日

おもしろいおもしろくない話

おもしろいことを言語化してもおもしろい話にはならないっていうのもおもしろいことであってかつおもしろい話でないことの一つ。おもしろい話ってなんだろうと改めて考え始めている。

2011年7月19日火曜日

笑えない冗談

笑いは脳血流量の増加をもたらすという生理学的実証研究のデータを根拠に脳機能の高度な駆使を要求されるワーク等において参加者が自己の脳機能を最大化し学習効果を最大化するには指導者が可能な限り多くの冗談を発しかつ参加者が指導者の笑えない冗談にも無理矢理笑うことが望ましいと主張する説を耳にすることがあるが思うにある命題が真であることが証明されたからといって当該命題の実践への適用が有効であることがただちに保証されるものではなく当該命題の実践への適用の有効性を科学的に主張するためには少なくとも当該命題の対立命題が偽であるかどうかぐらいの検証は必要なのではないか。すなわち笑えない冗談に無理矢理笑うことを強要されると脳血流はかえって減少するという命題が偽であることが証明されるまではワーク等における参加者の脳血流の増大を目的として指導者が自己の発する笑えない冗談に無理矢理笑うことを参加者に強要することは科学的に正当化されないのではないか。むしろ後者の命題が真であることが証明される可能性のほうが高いのではないかと佐々木は予想している。関連諸分野における研究の一層の発展が待たれるところである。

2011年7月18日月曜日

自分のおもしろくなさをシグナリング

佐々木は関東生まれの関東育ちで今も関東住まいだが、大学だけは、関西の大学を卒業している。

全国から学生が集まる大学ではあったが、やはり関西出身者が多かった。

入学してすぐ入部した体育会合気道部の、花見コンパ。

知恩院の夜桜の下、隣に座った関西出身の先輩が、佐々木の話を聞き終わるなりこう言った。
「君は話し方を工夫すればオモロくなるのに!」
佐々木はそこで始めて、「おもしろい話ができないのは人として恥ずかしいことだ」という価値観の文化圏が、この世に存在することを知った。

その先輩は親切にも、「どうすれば話はオモロくなるのか」という方法論を数分にわたってレクチャーしてくれたのだが、聞いているこちらには、そもそもオモロい人間になりたいという意欲がない。

なれるとも思ってない。

せっかくのレクチャーも右耳から左耳に抜け、むしろその日以降、「自分はおもしろくない人間である」というシグナルを、積極的に周囲に発するようになった。

おもしろくない人間が、無理におもしろい話をしようとしても、かえって迷惑だろうし。

おもしろい話はできない人間と、あらかじめわかってもらったほうが、相手の期待を裏切らなくていいだろうし。

その後合気道は熱心に稽古を重ね、4回生の時には二段を取った。

話をおもしろくする努力はその後も一切することなく歳を重ね、40歳になった今も、あいからわず佐々木は話はおもしろい話ができない。

もしもあの花見コンパの席での先輩からのレクチャーに心を入れ替え、合気道に注いだぐらいと同じぐらいのエネルギーを話をおもしろくすることに注いでいたら、合気道二段、ユーモア話術三段、合わせて五段ぐらいの実力者になれていた可能性も、なくはなかったかもと思わなくもない。

2011年7月17日日曜日

ブレイク

「ちょっとブレイク」と言ったら、「少し休憩を取る」という意味。

なのに「すげぇブレイク」といったら、「すごく長く休憩を取る」という意味にはならず、「すごく人気が出る」という意味になる。

対義語関係にある二つの修飾語のどちらを付けるかによって、被修飾語の意味がまったく変わってしまう、という例は、珍しいのではないだろうか。

他に思い浮かばない。

一瞬、「小籠包」と「三段論法」の「小」と「三段」って、ちょっと対義語っぽいぞと思ったが、これは被修飾語自体がそもそも違う。

2011年7月16日土曜日

無いものの存在の説明によって存在を否定される別の有るものについて

神の存在や霊魂の不滅を主張する人々がその存在を否定しがちと佐々木が感じているもう一つの存在が、目の前の現実を構成し自分自身の生活を支えている様々な物や仕組みの背後に存在する、無数の人間の肉体的・精神的な労働。それも特に、悪意や、利己的な動機や、誤った判断に基づく労働。善なる結果は、善意や、利他的な動機や、正しい判断に基づく労働によってのみもたらされるものであり、ゆえに、悪意や、利己的な動機や、誤った判断に基づく労働は存在してはならないものである、という労働観が、現実に善なる結果をもたらしている悪意や、利己的な動機や、誤った判断に基づく労働の存在に目をつぶらせ、結果として、現実には存在しない、100%の善意、利他的な動機、正しい判断によりこの現実を生み出し自分たちの生活を支える存在を空想させしめているのではないか、みたいな。

2011年7月15日金曜日

今夜は満月。

感覚的には、月は地平線の上空数百~数千メートルぐらいのところに浮かんでるように見える。

佐々木の住む相模原市南区から見ると、藤沢市の上空にでも浮かんでるような感じ。

静岡の方が、月よりよっぽどここから離れているように感じる。

四国や九州は、月より数倍は遠くにありそうな感覚。

地球の裏側など、月に行くより10倍は時間が掛かりそうだ。

地球の裏側までの地表距離は、約2万キロメートル。

地球から月までの平均距離は、約38万キロメートル。

月の方が約19倍遠い。

感覚などいい加減なものである。

2011年7月14日木曜日

無いものの存在の説明によって存在を否定されるある有るものについて

「有るものを否定し、無いものを説明する」という(佐々木にとっての)金言の元ネタを述べたジャン・ジャック・ルソーも、それを引用して佐々木に知らしめた三浦つとむも、「無いものを説明する」の「無いもの」として念頭に置いていたのは、死後の魂とかそういった、肉体を持たない霊的存在である。佐々木自身がこの金言を思い浮かべるのも、やっぱり神の存在や霊魂の不滅を主張する言説に接した時。神にしても死後の魂にしても、存在を証明することも、存在しないことを証明することもできない存在の典型である。で、神の存在や霊魂の不滅を主張する人々がその存在を否定しがちと佐々木が感じている存在がいくつかある。その一つが、客観的矛盾の存在。論理的にも現実的にも、神の存在や霊魂の不滅を主張することと、客観的矛盾の存在を否定することは、直接的には結びつかないのだけども。たとえばへーゲルは神の存在を信じながら客観的矛盾の遍在を学問的に示してみせたし、アイン・ランドは神の存在を否定しながら客観的矛盾の存在を頑として認めなかった。ただ佐々木がなんとなく感じている傾向として、客観的矛盾の存在を主張する人に、神の存在や霊魂の不滅を主張する人は少ない気がする。やっぱり物事が生成・変化・発展・消滅する原因をどこまでも物事の内部に求めていけば、客観的矛盾の存在認めざるを得なくなるだろうし、客観的矛盾の存在をどこまでも否定するならば、物事が生成・変化・発展・消滅する原因を物事の外部に求めざるを得なくなって、必然的に神や霊魂の存在を信じざるを得なくなるのだと思う。

2011年7月13日水曜日

「有るものを否定し、無いものを説明する」

優れた格言を金言とも言うが、本当に目に瞬間、耳にした瞬間、心の中でピカピカと光を放ち出して輝きを失わない言葉は、めったにない。

そんなめったにない佐々木にとっての大金言の一つが、三浦つとむがルソーの言葉として著書のなかで盛んに引用していた(と佐々木が記憶していた)、
「有るものを否定し、無いものを説明する」
という、人間が犯す誤りの一類型を表現した言葉。

こんなにすごい警句って、なかなかないと思う。

「実際には存在するもの」を「存在しない」と考えたり、「実際には存在しないもの」を「存在する」と考えたりする誤謬を、人間は嫌というほど犯す。

「実際には存在するもの」を「存在しない」と考える誤謬を犯している者は、必ず、別の「実際には存在しないもの」の存在を無理矢理説明しようとする。

「実際には存在しないもの」を「存在する」と考える誤謬を犯している者は、必ず、別の「実際には存在するもの」の存在を無理矢理否定しようとする。

だから、ある実体だとか現象だとか問題だとかが「存在するのか」それとも「存在しないのか」という問題で迷った時は、「それが『存在しない』と判断することによって別の存在しない何かの存在を無理に説明することを強制されないか」、あるいは、「それが『存在する』と判断することによって別の存在する何かの存在を無理に否定することを強制されないか」、と自分に問えばよい。

そのように、「有るものを否定し、無いものを説明する」という金言は教えるのである。

で、最近、この金言について改めて考えてみたくなって、佐々木の本棚の三浦つとむ著書コレクションを引っ張り出し、どこにこの金言が登場するか探してみた。



佐々木の記憶では、三浦はあちこちでこの金言をしていたはずなのだが、いっこうに見つからない。

ようやく一ヶ所見つかった。

『三浦つとむ選集5 ものの見方考え方』に収録されている『1たす1は2にならない』の「死んだら神さま仏さま」という章に、
《正しい原因をつかめずに別のことを原因だと思うなら、フランスの思想家ルソーがいったように、「存在するものを否定して存在しないものを説明する」ことになるでしょう》
とあった。



記憶、微妙に違っているし。

で、「存在するものを否定して存在しないものを説明する」をGoogleで検索したら、驚いたことに、1件もクリーンヒットしない!

こんなすごい金言に、誰も言及してない?

ちょっと信じられない。

英語の「deny what exists」とか「explain what does not exist」で検索したら、こちらはちゃんと、ルソーの名言として
《It is a mania shared by philosophers of all ages to deny what exists and to explain what does not exist.》
という言葉を掲載している名言集サイトがいくつかヒットした。

そのうちの一つには、この名言が、『新エロイーズ』("La Nouvelle Héloïse")という小説の第6部の手紙10へのルソーによる脚注として登場することまで書かれてあった。

ありがたいありがたい。

で、昨日、図書館に行ってルソー全集を借りて、『新エロイーズ』第6部の手紙10へのルソーへの脚注をチェックしてみた。

あったあった。
《プラトンは、地上において汚れに染まらなかった正しい人の魂は、死とともに、魂のみが完全に純粋な状態で物質から解き放たれると述べている。この世において情念に隷属していた者については、彼は付言して、この者たちの魂は直ちには本来の純粋さを取り戻さず、肉体の残骸のまわりに縛りつけるようにして魂をつかまえている、地上的な部分を引きずっているのだと述べている。新たな輪廻転生を待ち望み、ときおり墓場をさ迷うところを人に見られる、あの感覚能力のある亡霊がつくられるのはこういう理由によるとプラトンは言う。存在するものを否定し、存在しないものを解釈するのが、時代を問わず哲学者の共通癖である。》


これまた微妙に違う。

じゃあフランス語の原文はどうなってるのかと、それらしきフランス語で検索してみたが、該当する言葉が一件もヒットしない。

フランスではこの言葉、別に金言あつかいされてないのか?

ものっすごく、不思議。

2011年7月12日火曜日

呼び込み

電車はいつ止まるか遅れるかわからないから取材とか大事な用があるときは都内でも1時間以上前到着を心がけてて集合時間までは集合場所近くのカフェとかで仕事するようにしているのだがなぜか集合場所になる場所の近くには某全国チェーンのドラッグストアがあることが多くてこのドラッグストアでは1日のうち何回か店員さんが相当な大声を張り上げてタイムセールの案内などをするのだがこの呼び込みの大声に仕事への集中力を削がれることがたび重なるうちにこのドラッグストアチェーンでは買物してやらんとか決心してしまい実際してない佐々木は了見の狭い男だと思う。

2011年7月11日月曜日

入道雲

青空にわく白い入道雲を眺めるのは夏の晴れた日の楽しみの一つ。

ほとんど屋根の下でばかり仕事している人間に特有の呑気さなのかもしれないけど。

土砂降りの雨に打たれ落雷におびえながらの仕事をまぬがれない身であれば入道雲に愛着などわきがたいものだろうし。

やっぱり入道雲は「にゅ~~っ」として「ど~~っ」としてるから入道雲なんだと思う。

入道雲を見て「ああやっぱり入道雲って入道にそっくりだよねぇ」なんて思う人間が今のこの日本に果たしてどれだけいるのか。

「入道」なんて言葉佐々木は高校時代の古文と日本史以外ではほとんどお目にかかったことがない。

そもそも「入道」という言葉ができた当時からよほど真面目な仏教崇拝者以外は「道(=仏道)に入った者」なんていう字義上の意味なんかほとんどどうでもよくて「にゅ~~ど~~」という音の響きにすっかり心を奪われてしまったのではないか。

「にゅ~~ど~~」という音の響きだけで「にゅ~~」っとして「ど~~」っとした図体のでかい化け物のイメージがほとんどすべての日本人の頭に浮かんでしまったんだと思う。

「入道」を辞書で引くと「坊主頭の化け物」なんていう意味も出てるけどそもそも「入道」の読みが「にゅ~~ど~~」じゃなかったら「坊主頭の化け物」という存在自体が空想されていなかったに違いない。


打ち合わせに向かう横浜線の車窓から

2011年7月10日日曜日

たむらぱんの頭づかい

数年前から、たむらぱんという女性ミュージシャンになんとなく注目している。

日本語づかいのセンスが尋常じゃねぇなと。

言葉として柔らかくて発音も楽チン、佐々木の言う「柔楽(やわらく)ことば」を多用して、シンプルかつ構造性のある感情世界を立ち上げる歌詞。

類例を見ない。

あと動画とかで喋ってるのを見ると、この人、言葉づかいというより、頭づかいのレベルから天才なんじゃないか思う。

概念とかフレームワークとか、ほとんど使わないでものごとを考えてるように見えるのだが。

漢字言葉とか横文字言葉とか定型論法とかに頼らないで、五感とひらがな言葉だけを頼りに、ものごとの繋がりや広がりをたぐっている、というか。

概念とかフレームワークだけを振り回す人って、ものごとをろくに自分の頭で考えてないように見えるし、実際考えてないことが多いと思う。

でも、概念とかフレームワークをまったく使いこなせてない人というのも、それはそれで、ものごとを深く考えてない人に見えるし、実際考えてないことが多い気がする。

思考を掘り下げたり整理したり伝えたりするためには、やっぱり概念とかフレームワークって、便利だから。

なのにたむらぱんは概念にもフレームワークにもほとんど頼らずにものごとを掘り下げて考え伝えられているように見えて、そこが天才っぽい。

自覚せずにそうしているのか、自覚してそうしているのか、ちょっと知りたい。

2011年7月9日土曜日

家庭は暴力の温床

日本における殺人事件の約5割は親族による殺人である。この数字を数年前に知ったとき被害者の境遇に哀憫の念を覚えると当時に不思議と心の重荷が下りる感覚を覚えた。家庭は愛情や安らぎの場でなければならないという理念は時にそのような理念に背馳する家庭に育った人間の人格的畸型性の証明材料として機能する。暴力が行なわれる場として最も一般的なのもまた家庭であるという統計的現実は現に育った家庭が暴力や暴言の巣窟であった人間の非異常性の証明材料としても機能し得るのである。


(『平成22年版 犯罪白書』第5編/第1章/第5節)

2011年7月8日金曜日

なんでも他人のせいにする人がおおぜいいることのすばらしさ

自分や自分が属する社会が陥っている惨めな状態を呪いその原因を徹底して他人の悪意や無能に求めその悪意を糾弾しその無能を侮罵する言説を目にしたり耳にしたりするたびに自分の精神が蝕まれる感覚を覚えてこのなんでも他人のせいにする人たちの多さはなんとかならないものかと考えていた時期もあったのだが最近は考えが変わった。経済学の教科書を開くと「比較優位の原理」というのが出てくる。各人(各国)が得意なことに特化し互いの生産物を交換することによって全員がより多くの生産物を手にできるようになるという例の理論。責任とか決断だって引き受けるには時間や労力がかかる。得意な人に引き受けてもらったほうが社会全体として効率がいい。責任や決断を引き受けるのは自分の役割ではないと大多数の人々が考えているということは責任や決断に関する分業体制がめでたく成立しているということの現れだ。分業が成立しているかということと分業が十全に機能しているかということは別問題。分業が十全に機能していないからといって分業が成立していることまで呪うことはない。ましてよく考えてみれば責任や決断を他者に委託している人々にとってあらゆる不幸の原因を他人の悪意や無能に求める言説は日々の生活に不可欠の精神的糧である。こうした人々がかかる言説によって心を慰撫されているおかげで責任や決断に関する分業体制が機能しているのだと考えればむしろかかる言説に感謝しなければならないのではないかという気もしてくる。自分の精神がかかる言説によって蝕まれる感覚を覚える者はその解決をかかる言説自体の抑制に求めるべきではなくむしろかかる言説に自分が接する機会の最小化に求めるべきであるというのが今のところの結論。

2011年7月7日木曜日

「これおいしいよ」

食品売り場で買い物をしていてたまたま近くにいた40代ぐらいの女性が一緒にいた女性に「これおいしいよ」と言うのを聞いて佐々木はまず使わない表現だなぁと思った。最後に使ったのは小学生ぐらいの頃か。自分は毎日でも食べたいと思うほどうまいものが他人には不評だったり自分には苦痛に感じられるほどまずいものを他人が平気で食べているのを見たりするうちに味覚は人それぞれと思い知らされ「これおいしいよ」なんてことは自然に言わなくなった。じゃあ「これおいしいよ」なんてことを言うのは味覚が人それぞれであることに気づかない鈍感人間であることの証明なのかと言えばそんなこともないと思う。「これおいしいよ」という言葉を発するのが適切なケースはおそらく二つある。一つは長い間のコミュニケーションの積み重ねによって食に関する互いの好みがきわめて近似していると互いに確信できているケース。もう一つは自分がどのようなものをおいしいと感じるのかに相手が心からの関心を寄せてくれているケース。「これおいしいよ」という言葉を発する機会がまったくないということは家族にも知人にも食に関する好みが近似していると確信し合える人が一人もいないし食に関する自分の好みに心からの関心を寄せてくると確信できる人も一人もいないということである。それはそれである種の能力の欠如の証明である気がした。

2011年7月6日水曜日

名古屋のコーヒー

名古屋の喫茶店文化は独特、と以前から聞いていたので、先日の名古屋出張の折、朝と夕方1軒ずつ、地元の喫茶店に入ってみた。

コーヒーだけ頼んでも出てくる“おつまみ”(佐々木が夕方入った店では柿ピー)、レジの壁の棚に並ぶ地元常連客の“コーヒー回数券”、独特の方向に充実した食事メニュー(バラエティ豊かな丼物とか“あんかけスパゲティ”とか)、客が座る席にこだわりを見せる店員さん(「空いているお好きな席どうぞ」なんて言わない)など、実際はじめて目にすると、楽しい。

一番印象に残ったのは、コーヒーの味。

佐々木が入った2軒、味の傾向に共通性があって、佐々木の地元や全国チェーンのカフェではまず出て来ない味だった。

ついでに、取材先で出してもらったアイスコーヒーも似た感じの味だった。

いわば無作為に抽出した3点における観察データだから、名古屋の喫茶店全般における味の傾向を示している可能性は高いと思う。

苦み、酸味、甘味などのうち、特に苦みだけを強く強く出した味。

名古屋の街にも全国チェーンのカフェがたくさんあったが、ああいったチェーン店でも、名古屋では味を変えたりしているのだろうか。

「コーヒー」とか「珈琲」って、歌や小説や映画のタイトルやフレーズの一部に使われることがよくあるけど、そこから読み手や聞き手の心や体に湧き起こるイメージって、その読み手や聞き手がふだんどんなコーヒーを飲んでいるかによって、だいぶ変わってくるものなんだろうななんてことも思った。


名古屋の中心街、栄にも行ってきた

2011年7月5日火曜日

邪気と毒気

邪気と毒気はどう違うのだろうと、ここ1カ月ほどつらつら考えていた。

ネット上でそれまで毒気は発していても邪気は発していなかった何人かの人たちが、3月の震災を境に、やたらと邪気を発し始めたと感じたのがそのきっかけ。

邪気や毒気なんて、存在を客観的には証明しようもないもの。

そんなものについて相違を分析するなんてこと自体に、ちょっと無理があるんだけど。

辞書的な意味はともかく、佐々木の感覚では、この二つはある意味正反対。

邪気を発している人からは、1秒でも早く、1メートルでも遠くに、離れたいと感じる。

毒気を発している人には、なんとなく引き付けられる(簡単には近づかせてもらえない雰囲気も同時に感じはするけれども)。

「自分や自分が属する社会に害を与える存在」が発する気が、邪気。

「自分や自分が属する社会に害を与える存在」に害を与える気が、毒気。

おそらく佐々木はこういうふうに分類している。

で、邪気を発する人と、毒気を発する人は、どう違うのか。

両者はどのように移行し合うのか。

違いは、「自分や自分が属する社会がよりよい方向に進歩できる」という確信の有無にあるというのが、とりあえずの結論。

この確信がある人が、この進歩を妨げる存在の正体を捉えて言語化する時に発するのが、毒気。

この確信がない人、この確信を失った人が、自らこの進歩を妨げる時に発するのが、邪気。

たぶん。

2011年7月4日月曜日

ホテルの机

取材で名古屋へ。

日帰り圏ではあるのだが、往復「こだま」自由席+ホテル1泊で正規の往復新幹線代以下、という格安パックがあったので利用してみた。

新幹線の中でも仕事はできるので、新横浜から名古屋ぐらいまでなら「こだま」でも問題なし。

ホテルはいかにもお値段控え目の外観だったものの、さすが、お値打ち感重視の街名古屋。

部屋もベッドも広い。



革張りのリクライニングチェアまで用意されている。

机も広いし椅子の座り心地もいい。

なによりいいのが、机の前に鏡がないこと。

これまで佐々木が泊まったホテルは、例外なく机が化粧台を兼ねていて、座ると否応なしに、自分の顔と向き合わなければならなかった。

佐々木が自分でもうっとりするほどの美丈夫なら、鏡を前に仕事をするのも楽しいのかもしれないが、こんなおっさんの顔が目の前にあっても目障りなだけである。

こういう造りのホテルが増えてくれると、ありがたいと思った。

2011年7月3日日曜日

笑顔撮影業者

商品を購入したお客様を登場させる広告には、たいていお客様が幸せそうに笑っている写真が必要で、そういう写真を撮るためには写真を撮る側も幸せそうに笑っている必要があって、だからそういう写真を撮ることを仕事にしている人間は、職業上の要請として、相手が思わず幸せそうに笑ってしまうぐらい幸せそうな笑顔を撮影現場で浮かべられる必要があって、そうやって無理矢理幸せそうな笑顔を浮かべているうちに、自分が無理矢理浮かべている幸せそうな笑顔に影響されて、現実の自分の日常が幸せに満たされてくるというのはあり得ることだと思う。

2011年7月2日土曜日

天に唾する

「嫌い」という言葉を使うのは嫌いだ。

「べき」という言葉を使うのは避けるべきだ。

「絶対」なんていう言葉は絶対に使わないようにしている。

共感を要求する奴ってうっとうしいよね~~!

他人にすぐ同意を求める奴って、考え方や感じ方が人それぞれだってことを、わかってないと思わないかい?

他人に自分の意見を押し付けることなんてできないってことを、いいかげん認めろよ。

2011年7月1日金曜日

「クライアント(すいませんすいません)」

税理士の吉澤大さんが先日twitterで「クライアント」という言葉が好きじゃないとつぶやいておられた

たしかに「クライアント」ってカッコつけ感ありありかも。

佐々木もよく使うけど無自覚のうちに聞き手や読み手の反感を招いていたこともあったかも。

言い訳させてもらうとお客様インタビュー記事を作る仕事では仕事の依頼主はこちらにとっての「お客様」だしインタビュー相手は依頼主にとっての「お客様」だしインタビュー相手が営利団体の場合はインタビュー相手にも「お客様」がいるしという具合で「客」という言葉を使っているとお互い頭が混乱する。

「お客様が開発したお客様情報管理システムはお客様のお客様がお客様の情報を管理するシステムですよねお客様?」みたいに。

ビジネスにおいて用語は可能な限り一意に定義されることが望ましい。

ゆえにお客様インタビュー記事の依頼主を「クライアント」と呼びインタビュー相手を「取材先」と呼びインタビュー相手の顧客を「取材先の顧客」などと呼ぶことが業界の慣例となっているのである。

しかし無自覚に他人の反感を買うことはできれば避けたい。

どうすればよいか。

一つの方法は依頼主を「クライアント」と呼ぶのをやめて「依頼主」と呼ぶことである。

この方法の問題点は「依頼主」という言葉では個別の案件に対する一時的な関係は表現できても依頼を受けるこちら側との継続的な関係を表現できないことである。

もう一つ思いつくのは「クライアント」という言葉を使う時はいつも心の中でこんなカッコつけた言葉使ってすいませんすいませんと読み手や聞き手に向かって謝ることである。

「クライアント」という言葉を使って招き得る反感はこちらの尊大さに対する反感なのだから尊大さとは真逆の心的態度を常に心がけながら使いさえすれば反感を持たれなくなることは十分あり得ることだと思う。
 
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