2011年6月30日木曜日

根こそぎゆるむ

別に自分がそのような状態になったわけではないが背中と腰のうち高岡英夫先生が『究極の身体』で「拘束背芯」「拘束腰芯」と呼ばれている部分がゆるんでこれらの部分でも重みを発生させられるようになれば本当に自分が根こそぎゆるんだ感じがするだろうなと想像できるようになってきた。そのためにはこれらの部分を構成する細胞たちとの関係から変えていかないとと思うこのごろ。

2011年6月29日水曜日

関西人の時空認識

先日新幹線「のぞみ」で岡山に向かう途中、たしか姫路に近づくあたりで、次のようなアナウンスがあった。
「姫路から各駅に停車いたします『こだま』にご乗車の方は、降りたホーム向かい側○番線にお乗り換えください」
アナウンスの趣旨は、
(1)次の駅で「こだま」が待っているよ
(2)「のぞみ」が通過する駅にも「こだま」は停車するよ
(3)だから次の「のぞみ」停車駅からその次の「のぞみ」停車駅までの間の通過駅で降りる人は「こだま」に乗り換えてね
(4)「こだま」のホームは降りたホームの反対側だよ
ということだろう。

文字で読めば、誤解の余地はない。

音声で聞いても、最後まで聞けば、上記の趣旨のアナウンスであるとわかる。

しかし「のぞみ」の車内でこのアナウンスを聞いた時は、最初、そのような趣旨のアナウンスだと理解できなかった。

「姫路から各駅に停車いたします……」と聞いた時点で、「えっ? 『のぞみ』なのに、いきなり各駅停車になるの?」と思ってしまったのである。

最後まで聞いてそれが誤解だったと気づいてから、同じような経験を、去年の大阪出張の折、南海電鉄の急行に乗った時にもしたことを思いだした。
「○○駅から各駅に停車いたします普通列車△△行きにご乗車の方は……」
というアナウンスを途中まで聞いて、「急行なのに各駅に停車するの?」と驚いた記憶がある。

ここで佐々木の頭に、二つの仮説が思い浮かんだ。

このようなアナウンスは関西の鉄道会社に特有のものである、というのが一つ目の仮説。

一つ目の仮説が真である場合、関西の鉄道会社に限ってこのようなアナウンスをするのは、関西人の時空認識が独特だからである、というのが二つ目の仮説。

一つ目の仮説の真偽は、客観的に決着がつく。

全国の鉄道会社への、聞き取り調査なりアンケート調査なりを実施すればよい。

二つ目の仮説は、対象が実体ではなく認識であるだけに、客観的な決着はつけがたい。

しかし佐々木がより大きな魅力を感じるのは、二つ目の仮説のほうである。

駅の方面表示の順序(遠い駅から表示するか、近い駅から表示するか)が、関東と関西で逆であることはよく知られている。

これは単なる偶然ではなく、関東人と関西人の時空認識に差があることの現れなのではないか。

「○○駅から各駅に停車いたします……」というアナウンスを聞いて、今自分が乗っている電車に関する情報と即座に判断するか、それとも、自分が乗っている電車に対して中立的な情報と判断するか、というのも、ある種の時空認識の違いであるように佐々木には思われる。

2011年6月28日火曜日

岡山の水路

岡山やその周辺の町には水量豊富な水路が柵も蓋もないまま道の端や真ん中を通っている場所が多くてそれが佐々木には好ましく感じられる。

岡山は基本的に気候が穏やか。一つ文句をつけるとすれば夏暑いこと。そう以前地元の人に聞いた。

柵も蓋もない水路の多さには岡山の夏の暑さと気候の穏やかさが大いに関係しているのだろう。

岡山後楽園も池や水路の多い庭園だった。

昨日岡山のクライアントと香川県での取材を終え岡山駅前で別れた後すぐ新幹線に乗って帰るのももったいなく感じられて少し市内を散歩する途中中心部を南北に流れる西川用水に設置された噴水と路面電車をバックに自分撮りしていたら80代ぐらいの老婦人に「岡山の方ではないですよね」と声を掛けられた。

「ええ」と佐々木。

66年前の岡山空襲の頃からこのあたりを見ているというその老婦人いわく当時はこの川はこんなにきれいに整備されていなくてこんな噴水もなくて戦後になって特に駅前ということでお金をかけてここまできれいに整備された今の姿は当時のこの川を知る者には本当に驚きで空襲の時はこのあたりは一面焼け野原でこの川にもずいぶん焼けた遺体が流れていたのだとか。

当時と今の岡山の変化を軽く一通り話すと老婦人は「失礼しました」と笑顔で去って行った。



西川用水噴水と桃太郎大通りをバックに自分撮り


西川緑道公園の平和像前で自分撮り

2011年6月27日月曜日

また岡山

本日は岡山のクライアントの方と香川県に取材に行くため、昨晩は岡山市内のホテル泊。

ここ1年で3度目の岡山出張。

すべて別のクライアント。

もっと近い静岡とか山梨とか長野とかでの仕事はこれまで一度もないのになぜか岡山だけ3度目。

ちょっと不思議な感じ。

今回はスケジュールが立て込んでいて観光の暇はなし。


ホテルの窓からの新幹線ビュー。
今回は宿泊費控えめのホテルを選んだが夜3時過ぎに下水の音で目を覚ましたりしてホテル代はある程度は出した方がいいことが多いと思った。

2011年6月26日日曜日

体調良好

気温の上昇と共に体調も上昇。

体が軽い。

体調が良すぎてかえって心配になるぐらい。

調子に乗って無理をしてしまいそうで。

ここのところ3時間睡眠で働きづめ。

昨日は久しぶりに一日仕事をせず半日ほど山歩き。

夕方には寝て今朝は朝9時まで寝てた。

2011年6月25日土曜日

創業者

先日取材に行った70年前に大田区の町工場から創業して日本で初めてある材料である部品を製造することに成功し現在では世界各地に工場を持つに至ったある会社に18歳で就職し60歳を超える現在までその会社一筋で働いてきたある老技術者は今は亡き創業者の思い出を語る時胸を詰まらせちょっと泣きそうになっていた。創業者愛されてたんだなと思った。

2011年6月24日金曜日

メタ欲望

自分がどのような欲望を持っているのかがわかったとたんに自分がそのような欲望を持っていること自体が嫌になって結果としてその欲望自体が雲散霧消してしまうということはあり得ることだと思う。たとえば周囲の人に対してここを直して欲しいあそこを直せばもっとすばらしい人になるのにとか思い続けている自分が持っているのはよく考えてみると要は他人に影響力を与えたいという欲望だったということに気づいたとたんに自分がそのような欲望を持っていること自体が嫌になって結果として他人に影響力を与えたいという欲望自体が雲散霧消して周囲の人に対してここを直して欲しいあそこを直せばもっとすばらしい人になるのにとか思うこともなくなるとか。こういうのを「『「欲望に対する欲望』による欲望の抑制」すなわち「メタ欲望による欲望の抑制」というのだと思う。「メタ欲望」で検索したら「金銭欲は他の欲望を満たす手段への欲望だからメタ欲望だ」みたいな言説があってバカ言ってんじゃねぇそれなら女にモテたいから車が欲しい男にとっての車は女への欲望を満たす手段への欲望だからメタ欲望なのかおまえは「メタ」の意味をわかっとらんとそのメタ理解のおかしさをメタリカでも聴きながらメタメタに批判してやりたくなった。

2011年6月23日木曜日

自分のディテール

佐々木が尊敬するマーケティングコンサルタントの滝井秀典氏が、作家・村上龍氏による次のコメントを、「文章を書くということはどういうことなのかが見事に表されている」と評価し紹介されている(「滝井秀典ブログ2011年06月21日」)。
《この5月から文藝春秋本誌で新連載の小説がはじまり、
締め切りと校正に追われています。昨年の2月に「群像」、3月に「文学界」と、
数年間続けていた連載が相次いで終わり、昨年はほとんど小説を書いていません。
新しく書く小説の、とくに最初の百枚は、大きなエネルギーを必要とします。
職業的に小説を書きはじめて35年が経ちますが、慣れるということはありませんし、
執筆が楽になることもありません。

 本当に自分に書けるのだろうかと思いながら、書きはじめます。
モチーフはだいたい決めているのですが、
作品として成立させることができるという自信のようなものは皆無です。
小説を書くことそれ自体、今でも好きではありません。
嫌いというわけではないのですが、
こういったエッセイを書くときよりも複雑に脳を使うので面倒くさいのです。
1年ぶりに小説を書くと、こんなに面倒なものだったかなと、改めてそう感じます。

 でも、仕事なので、書かなければいけないのだと、どこかで理解しているというか、
あきらめていて、確たる決意や意気込みとはまったく無縁に、書いていきます。
少しずつ文章が溜まっていくと、物語そのものの本質のようなものが見え隠れするようになります。
それがディテールを要求し、要求に応じられない場合は執筆は停滞しますし、
要求に応じることができると先に進むことができます。
何年経とうが、デビュー作を書いたときと同じやり方で書くしかないのだと思い知らされるわけですが、
その気分はそれほどいやではありません》
自分が書いた文章が要求するディテールに応えることが文章を書くということという考え方がおもしろいと思った。

いわば書く以前には書かれる対象が存在していないというあり方が。

自分の思いとか考えとかいうものも、こうして書くからこそディテールへの要求が生じ、要求に応えることで結果的にディテールのある思いや考えるになるのだろう。

自分という存在そのもののディテールが、こうした「表現からの要求」に誠実に応え続けることの結果なのだと思った。

2011年6月22日水曜日

背骨星人

女性の乳房に強度のフェティシズムを持つ男性を「おっぱい星人」と呼ぶ。

背骨を自由に動かすトレーニングに長年取り組んできてその成果が出てきた影響だと思うのだが、最近佐々木が外見的に魅力を感じるのは、もっぱら背骨の運動性が高い女性である。

女性の乳房の大きさや形というのも本人の生命力や受胎力にある程度はリンクしているのかもしれないが、その連関はそれほど定かではない。

まして今は豊胸手術なんていうのもあるわけだし。

背骨の運動性に対するフェティシズムのよいところは、背骨の運動性が本人の脳活動の全体的な活性度と明らかに直結していて、しかもこの関連性と無関係な形での外見的補正が不可能なことである。

2011年6月21日火曜日

従業員という仮面を尊重すること

「コンビニでバイトしててお客さんにお釣り渡したときとかに、『ありがとう』って言われるとなんかムカつくのは俺だけ?」みたいな投稿を、何年か前、ネット上のQ&Aサイトか何かで見たことがある。

佐々木はコンビニに限らず接客系のアルバイト経験は皆無なのだが、この投稿には、えらく共感した。

「『ありがとう』と言われてムカつくなんて、お前は人として間違っている」みたいな非難が、その投稿に対する反応の大半を占めていたことには、かなり驚いた。

佐々木が客としてコンビニなどを利用するときは、言葉づかいこそ敬語だが、言葉の調子からも表情からも、温かみとか親しみとかは、極力抜き去った対応をしている。

それは無意識的、慣習的な行動ではあるが、あえて分析すれば、そこにはお互い時間とエネルギーを節約するため、という以上の理由があると思う。

コンビニ等のアルバイト従業員の勤務時間中における行動は、基本的に、個人的な嗜好や思考ではなく、上司やマニュアルに従ってなされるものである。

上司やマニュアルが要求する対応や行動が、従業員の嗜好や思考が是とする対応や行動と一致することは、おそらくまれである。

本人の個人的な嗜好や思考が是としない対応や行動をしている従業員を、個人として扱うこと、すなわち、本人の個人的な嗜好や思考に基づかない対応や行動を、本人の個人的な嗜好や思考に基づく対応や行動として扱うことは、むしろ、本人の個人的な嗜好や思考に対する冒涜になるのではないか。

お釣りを渡した客から「ありがとう」と言われてムカついたコンビニ従業員が感じていたのは、おそらくこのような、「個人として行動していないモードにある自分を、生身の自分そのものとして扱われたことによる不快感」なのではないか。

佐々木が仕事でお客様インタビューするとき、いわゆるB-to-Cの商材についてのインタビューであれば相手を個人として扱うことになるし、B-to-Bの商材についてのインタビューであれば相手を法人の代表として扱うことになる。

B-to-Bの商材についてのお客様インタビューをするとき、特に、経営者ではなく従業員を相手にインタビューするとき、必要以上に「温かさ」や「親密さ」を込めた態度をとることは、あのコンビニ従業員が感じたのと同じ苛立ちを、相手に与えることにもなるのかもしれない。

従業員としての相手の仮面を尊重すること、イコール、務めてビジネスライクな対応をすることが、仮面の裏にある個人としての相手を尊重することにもなるのかも、と思った。

2011年6月20日月曜日

東京から来た生意気な男

ジャーナリスティックな目的で行なわれるインタビューならともかく、いわゆるお客様インタビューにおいて、インタビュー相手の機嫌を損ねるなどもってのほかである。

だから仕事でインタビューをするときは、相手に好感を持たれるよう、ムカつかれたりしないよう、最大限の注意を払うのだが、それでもインタビュー相手から「こいつなんか嫌」と思われているような気がすることが、まれにある。

インタビュー導入部分での説明がちょっと早口過ぎたかもと反省したり、趣旨の伝わりにくい質問をしてしまったかもと尋思したり。

初対面で持たれた悪印象は拭いがたい。

いったん悪印象を持たれると、あらゆる材料が「こいつが嫌なヤツであることの証明」になりかねない。

地方にインタビューに行った時など、佐々木の名刺に印刷されたインタビュー会社の所在地が東京になっていることさえ、反感を増幅する材料になっていたような気がしたことがあった。

2011年6月19日日曜日

丸山眞男動画

政治学者の故・丸山眞男、74歳の時の映像をYoutubeで見た。

http://www.youtube.com/watch?v=20XfTPXsdPA#t=9m11s

小さな懇談会で、ビールを飲みながら読者相手に気楽に語る様子を映した動画。

佐々木はまだ、丸山眞男の学問的著作を読んだことがない。

(岩波新書『「文明論之概略」を読む』は高校生の時読んだがこれは学問的著作ではなく気軽な啓蒙書)

佐々木が学生時代に心底すげぇと思った政治学者・滝村隆一が、『ヴェーバーと丸山政治学』『ラスウェルと丸山政治学』で丸山の学問的手法をコテンパンに批判しているのを読んで、わざわざ著書を読むまでもない学者と決めつけてしまっていた。

その後2003年に出版された『国家論大綱』でも滝村がわざわざ一章を割いて丸山のファシズム論を批判しているのを読んだときは、滝村の学者人生の総括とも言うべき著作で、なぜ丸山ごときの批判など繰り返すのかと不思議に思ったくらい。

74歳の丸山の動画を見て、尊敬の感情を抱いた面もあったし、その逆の感情を抱いた面もあった。

尊敬したのは、74歳になっての、あのごきげんぶり。

逆に残念さを感じたのは、コミュニケーションの一方通行ぶり。

丸山は自分が話したいことを一方的に話しているだけで、聞き手の考えや気持ちには、あきれるほど関心がない。

それが彼のキャラクターによるものなのか、何十年も先生と崇められてきた影響なのか、老化によるものなのかはわからないが。

昭和天皇の病状悪化に伴って日本中を覆った「自粛の全体主義」を丸山が批判し続けるまさにその場の空気が、「丸山先生のご機嫌を損ねてはならない」という自粛の全体主義に覆われていることに、ちょっと皮肉を感じもした。

2011年6月18日土曜日

ANOTHER SUB

そこに立つだけで自分の体の細胞がうひゃうひゃ喜び出す場所、鎌倉由比ガ浜の滑川河口に続き、先日もう一つ見つけた。

武蔵小杉駅そばの、二ヶ領用水緑道。

二ヶ領用水を流れる水のせい?

謎だけど。

細胞が(Saibou ga)うひゃうひゃする(Uhya-uhya suru)場所(Basyo)、略してSUB、まだまだ見つけたい。

他人と共有できるものなのかも知りたい。

2011年6月17日金曜日

小脳が納得する文章

仕事で文章を書くとき心がけていることの一つに自分の小脳が納得する文章を書くというのがある。

というか自分の小脳が納得しない文章を佐々木は書けない。

理屈さえ通っていれば大脳は納得する。

小脳は遺伝子が記憶しているすべての情報に照らして整合性がないと納得しない。

かといって「佐々木さんが書いた文章を読むと小脳が納得する」なんて褒め方をされたことは一度もないのだけど。

2011年6月16日木曜日

いかにも話調

佐々木がトルストイの作品世界に入っていきにくいと感じる原因の一つに、日本語訳における登場人物たちの「いかにも昔のロシア人」的話調がある。

「~なんだわ!」とか「~でございましょう!」とか。

文末の<主体表現>で人物のキャラクターを表現できるのは日本語の便利なところではあるが、<主体表現>によって人物のキャラクターが特定されてしまうというのもある意味不便なところ。

たぶんもっとニュートラルな感じで、全然昔のロシア人っぽくない話調に訳してもらったほうが、佐々木にとってはずっと読みやすくて好感の持てる作品になると思うのだが。

「昔のロシア人」がしゃべってるのに話調が「昔のロシア人」っぽくないっていうのは、翻訳としては不正確なのだろうか。

2011年6月15日水曜日

自殺と自由意志

今週月曜日の朝、相模大野駅から小田急線で都内に出ようとしたら、「●●●●駅で発生した人身事故のため全線運転見合せ」のアナウンス。

約30分後先に運転再開した江ノ島線に乗って中央林間に迂回したり、中央林間駅で改札出口が混雑して30分近く出られなかったりで、予定より1時間半近く遅れて都内に着いた。

夜小田急線で帰り相模大野駅を出ると、自宅から3分ほどの相模大野9丁目交差点そばにパトカー数台。警官10名弱。黄色いテープで20メートルほど封鎖された歩道の真ん中に、直径1メートルほどの血痕。その上に大量の血を吸った白いバスタオル。反対側の歩道には20名ほどの人だかり。前のマンションの上階を見上げながら話している警官達の会話から察するに、転落だか飛び下りだかがあった様子。

帰宅後気になって「●●●● 人身事故」で検索すると、朝の事故は自殺だった様子。twitterには目撃者らしき方の書き込みも。若い学生らしき男性が自分から線路に降り、逃げるよう呼びかけるホーム上の人々に目を合わせると2本のレールの上にうつ伏せになり、下り急行電車に轢かれたのだとか。その日は夜8時頃に中央線でも人身事故。夜9時半頃には◇◇◇◇駅近くで小田急線本日2回目の人身事故。

翌日見た神奈川新聞ネット版記事によれば、自宅の転落事故は大和市下鶴間に住む女性の自殺未遂で本人は意識不明の重体、本人の息子(生後2カ月)は自宅で遺体で発見されたのだとか。

さすがに一日のうちに間近で何件も自殺の報に接すると、今の日本における自殺の状況について知っておきたくなる。何か客観的なデータがほしくて「自殺 白書」で検索したら、「平成23年版 自殺対策白書」というのが見つかった。

データを眺めつつ思うことはいろいろあったが、中でも印象的だったのが、年ごとの自殺者数が意外なほど安定していること。1997年から1998年にかけて一度ドーンと上昇してはいるが、それ以外は相当安定的。

数が安定しているということは、極めて不適切、不正確、不謹慎な表現であることを承知の上であえて言えば、人間の自殺がいわば「正常」な現象であるということだ。自殺というのが佐々木が感覚的に捉えている程度に異常な現象であるならば、年ごとの自殺者数はもっと大きく変動していいはず。やたら多い年があったり、やたら少ない年があったりしていいはず。それなのにグラフは驚くほど平坦。

そしてまた、自殺者の数が安定しているということは、これまたえらく伝わりにくい表現だが、自殺というのが「自由意志的」な行為ではないということだ。佐々木の感覚では、ある意味自殺ほど「自由意志」に基づく行為はないようにすら思えるのに。人は自分の意志で自殺を選択しているようでいて、まったく社会的な法則に従って、社会を構成する一定割合の人々が、毎年自殺する意志を抱いてしまうのである。この点が佐々木には感慨深かった。

そして佐々木はヒネクレ者だから、だからこそ社会の法則に逆らって、自殺する意志は持たないようにし続けようと思った。

2011年6月14日火曜日

50代、60代になっても

仕事でいろいろな年代の方にインタビューをしていると、インタビューへの答え方に、20歳代の方、30歳代の方、40歳代の方、50歳代の方、60歳代の方、それぞれに特有の傾向のようなものが感じられてくる。

そうした傾向が、世代的なものなのか、年齢的なものなのかは、わからないのだが。

特に、50歳代、60歳代の方々に対しては、佐々木自身のこれからのあり方を重ねて見てしまう。

50歳代、60歳代の方々ならではの素晴らしさを感じることもあれば、50歳代、60歳代の方々ならでは残念な点を感じることもある。

とりあえず自戒として、これから年を取っても、コミュニケーションにおいて相手が自分に何を期待しているのかへの注意を欠落させることはないようにしたいと思う。

2011年6月13日月曜日

唯我独尊トルストイ

『戦争と平和』を読んでるときも、『アンナ・カレーニナ』を読んでるときも、感じたことなのだが、トルストイって、この世で自分が一番エラいっていう意識が、ものすごく強い人だったんじゃないだろうか。

『戦争と平和』にも、『アンナ・カレーニナ』にも、トルストイが尊敬や憧憬を込めて描いている登場人物って、出てこない気がするのだが。

どの登場人物に対しても、なんとなく批判的で、ともすると軽蔑的なまなざしを、作者トルストイが向けているように感じてしまう。

この点、田中正造にも似たようなところがあったような気がする。

自分以外の人間に対する尊敬の念がないっていうか。

佐々木がアイン・ランドを好きなのは、彼女が人間の可能性に対する尊敬の念を、強く持っているところ。

現実の人間のあり方に対して批判的であっても、人間の可能性に対する信頼は失っていないところ。

だからランドの人間批判には、「この立派な私の考えを誰も理解してくれない」的な尊大さが、感じられない。

そこが佐々木は好きである。

2011年6月12日日曜日

トルストイの作品世界に入っていけない

トルストイ『アンナ・カレーニナ』、とりあえず読了。
「すこしもむだのない、全体の構図も、細部の仕上げも、一点非の打ちどころのない作品」(トーマス・マン)
「芸術上の完璧であって、現代、ヨーロッパの文学中、なに一つこれに比肩することのできないような作品」(フョードル・ドストエフスキー)
等々著名文学者の皆様激賞の大長編小説であるが、佐々木は作品世界に入っていくのにえらく苦労した。

『戦闘と平和』もそうだった。

佐々木の読みの浅さや読解力の乏しさや歴史知識の貧しさの問題は横において、あえて作品の側に原因を探してみる。

とりあえず、次の二つ。

一つ目。

登場人物も作者自身も、いつもカリカリ、イライラし過ぎ。

余裕というものが感じられない。

作品の世界に自分も入り込みたいという、意欲がわかない。

二つ目。

人間の感情や思考を、むやみに言葉で説明し過ぎ。

読者の側に推測する楽しみというものがない。

言葉にならない微妙な思いが強引に単純化される不快感のようなものも感じる。

上記二つ合わせて、トルストイってもしかして、物事を体で感じる感性が貧しかったのではないかとか思ってしまう。

2011年6月11日土曜日

権利・義務・能力

あらゆる問題の原因を自己の思考のあり方に帰する自己啓発的視野狭窄をあえて採用するならば政治とか社会とか会社とかのあり方に対する怒りとか不満の根源には「自分には幸福になる権利がある」という観念があるような気がする。権利と義務は常に対になるから「自分には幸福になる権利がある」という観念の裏には「自分を幸福にする義務が他人にある」という観念がある。他人がその義務を遂行していないという思いが不満という感情になって現れる。他人に義務を課すということは身体感覚的に表現するならば他人を縛るということである。他人を縛れば必ず自分も縛られる。自分が相手を縛れば相手も自分を縛ってくるとか自分が縛った他人が別の他人を縛り回り回って自分が縛られることになるという媒介的なあり方で縛られるだけでなく他人を縛るという行為自体が直接的に自分自身を縛りつける。だからあえて「自分には権利がない」と考えることすなわち「自分に対して義務を負う他人はいない」と考えることによって自分自身が解放されるということはあると思う。「自分には幸福になる権利がある」という観念をあえて追放するとするならばそれに代わるべきは「自分には幸福になる能力がある」という観念ではないか。自分に幸福になる能力があるかどうかなど証明しようもないがこういう証明不可能な命題の真偽はどちらにしておいたほうが自分にとって良さげかぐらいのノリで決めてしまえばいいのだと思う。

2011年6月10日金曜日

トルストイと空

古典読破計画。

今月はトルストイの『アンナ・カレーニナ』。

木村浩訳の新潮文庫版で、まだ上中下巻のうち中巻の途中。

あまり引っかかるところもなくさらさら読んでたら、一箇所だけ、目にとまったところがあった。

一晩中農場の干し草の山の上に寝ころんで自分の人生について考え続けたリョービンが、夜明けに気づいて、雲の美しさに感動するシーン。
《ああ、じつにきれいだなあ!》彼は頭の真上の中空(なかぞら)に浮んでいた、小羊のような白雲の真珠貝に似た奇妙な形の雲をながめながら、考えた。《こんな素敵な晩には、なにもかも見るものがじつにすばらしいなあ! あんな真珠貝のような雲は、いったい、いつできたんだろう? ついさっき空を仰いだときには、ただふた筋の白い雲のほか、なんにもなかったのに。そうだ、ちょうどあれと同じように、おれの人生観も、いつのまにか変ってしまったのだ!》(中巻84ページ)
『戦争と平和』を読んだ時も、最初に心に残ったのは、ニコライ・ロストフが敵の砲弾に倒れた軽騎兵が担架で運ばれていくのを直視できず青空を見上げるシーンだった。
ニコライ・ロストフは顔をそむけて、まるで何かをさがしもとめるように、遠くを、ドナウ河の流れを、空を、太陽をながめはじめた。空のなんと美しく見えたことか、なんと淡青く澄んで、しずかで、そして深い空だろう!(新潮文庫『戦争と平和』(一)工藤精一郎訳、345ページ)
トルストイって、よほど空を眺めるのが好きだったのだろうか。

トルストイのものの見かた、感じかた、考えかた、語りかたには、いまひとつ共感できないことが多いのだが、空好きというところだけは佐々木と重なるのかも。

2011年6月9日木曜日

栃木県佐野市へ

インタビューの仕事で栃木県佐野市に行ってきた。

高速バス「マロニエ新宿号」に乗って、新宿駅から1時間半。

仕事が終わってから、田中正造に関する資料を展示している佐野市郷土博物館を見に行った。

正造の葬儀に集まった人々の写真や、葬儀費用を拠出した人々の長いリストを見て、やっぱり慕われてた人だったんだなーと思った。

特に印象に残ったのが、正造が道端から拾い集めたという小石、百数十個の展示。

正造が、なぜ自分は小石を拾い集めるのが好きなのかを説明した、直筆の手紙だか日記も展示してあった。

道端の小石が人や馬に蹴られるのが不憫で、また川の流れの中で磨かれ丸くなった姿に共感を覚えるから、自分は小石を拾い集めるのが好きなのだろう、みたいな。

なんなんだこの絵に描いたような聖人ぶりは。

やっぱり正造の頭の中は、佐々木の理解を越えていると思った。

それから企画展で、「絵葉書にみる佐野」というのをやっていた。

ちょうど正造が亡くなった頃、何かの記念に写真入りの絵葉書を作るのが、ちょっとしたブームだったらしい。

たとえば学校の修学旅行記念だとか。

電話線の開設記念だとか。

当時の葉書は今の電子メールみたいなものだったろうから、実用性と趣味・娯楽性を兼ね備えたグッズとして、人気を博したのだろう。

で、正造の葬儀後に作られた、正造の写真や、葬儀の写真や、正造が亡くなった家の写真が載った記念(?)絵葉書も展示されていた。

正造の人々からの慕われぶりの一端を感じるとともに、どちらかと言うとアンチ文明的なイメージのある正造の葬儀後に、写真絵葉書などというハイカラなものが制作されたことに、若干の可笑しみを感じもした。


田中正造生家前の墓所にて(クライアントさんに撮っていただいた)


クライアントさんに連れて行っていただいた佐野ラーメンの名店にて。ラーメンはスープあっさり、麺もちもち。餃子は皮もっちり、肉ぎっしり。

2011年6月8日水曜日

アイン・ランドを覚醒剤に向かわせたもの

アイン・ランドは、『肩をすくめるアトラス』を休みも睡眠もろくに取らずぶっ続けで執筆するために、アンフェタミンという中枢神経刺激薬(覚醒剤)の力を借り、ほとんど中毒状態だったのだとか。

佐々木がこの話を知った時は、『肩をすくめるアトラス』を初読、再読してからだいぶ経っていたので、「そこまで極端なことをしないと、あれだけの超大作は生み出せなかったのか‥‥」ぐらいの感想しか持たなかった。

先日『肩をすくめるアトラス』をまた再読して、アンフェタミン中毒になってでもこの作品を完成させたランドの情熱に対して、また違った感慨を持った。

ランドをして不眠不休での『肩をすくめるアトラス』執筆に向かわせた原動力は、
「この作品は、絶対に完成させなければならない。この作品が世に出なければ、愛だの権利だの平等だのの奇麗事によって個人の可能性が圧殺されていく状況から、人類は永遠に解放されないかもしれない」
というぐらいの、強烈な使命感だったのではないか。

決して表現欲などという、個人的欲求などではなく。

そう強く感じた。

自分の肉体・精神を破壊してでも、人類の精神を暗黒から救う作品の執筆に突き進む。

この姿勢のどこが「利己主義」かと思う。

2011年6月7日火曜日

『地頭力を鍛える』を読み返した

本はときどき捨てないと、たまっていく一方。

本棚から捨てる本の候補を抜き出して、もう捨てていい本かどうかざっと見していたら、細谷功さんの『地頭力を鍛える 問題解決に活かす「フェルミ推定」』のところで、つい熟読モードに入ってしまった。

初読時に自分がマーカーを引いたところを見て、「まだまだ全然出来てないなー」と。

改めて大事だと思ったところ、抜き書きしておく。
《地頭力を鍛えると圧倒的に仕事の生産性を上げる(効率的に進める)ことができるのである(「圧倒的に」というところがポイントである)。》

《「全体から」考えることの最大のメリットはコミュニケーションにおける誤解や後戻りの最小化である。》

《地頭力というのは、ある意味人間の行動パターンの基本となる「思考回路」である。これを変えるとすべての行動パターンが変わってくるために、単なる行動を一つ一つ変えるのとはインパクトの大きさがまったく違う。》

《フェミル推定でいかに仮説思考を鍛えるか? ポイントは(1)どんなに少ない情報からでも仮説を構築する姿勢、(2)前提条件を設定して先に進む力、(3)時間を決めてとにかく結論を出す力の三点である。》

《フェミル推定に一番求められるのは問題解決に対しての好奇心かもしれない。フェミル推定の問いかけに対しての解答者の反応は大きく二とおりに分けられる。「目を輝かせて」乗ってくるタイプと何やら難しそうだと当惑して眉をひそめてしまう、あるいははじめからわかるわけがないとあきらめてしまうタイプである。筆者の経験上、実際にやってみると、この解答者の「目の輝き」(ファイティングポーズと言ってもよい)と地頭力はほぼ比例する傾向があるのは興味深い。》

《とにかく自分の頭を使って考える癖をつけること。場合によっては、検索したがる自分自身をもう一人の自分で後ろから「羽交い絞めにして」でも仮説を立ててから情報収集や分析を行なっていくという「自分の頭で考える」習慣づけが必要である。》

《「情報がない」という認識が間違っているのであり、実は必ず何らかの情報は持っているのにそれを使おうという姿勢がない場合がほとんどである》

《課題を解決するために一番難易度が高いのがこの「課題を定義する」ということなのである。課題が明確に切り分けられてしまえば実はもう半分以上解決したも同然といっても過言ではない。》

《いちいち立ち止まって前提条件を人に確認しながら進める、あるいは確認できるまで進められないという態度で課題に臨むのと、あいまいなことは本来の目的に立ち帰って現実的な線で「勝手に」決めてどんどん前に進んでいくという姿勢で臨むのとでは積み重ねていくと天と地ほどの差が出てくる。[‥‥]ただしここで注意すべきは、自分で前提条件を決めて先に進んだ場合には、どんな前提条件を設定したかを他者に対しても客観的にわかるように明確にしておき、前提が異なっていた場合にはいつでも必要なところまで戻ってやり直せるようにしておくことである。》

《どの道でもある程度のレベルに達した人はその道の「絶対座標」を持っており、相手の力量を一瞬にして見破る。「すごい人のすごさ」がわかり、「下手な人の下手さ」もわかるのが絶対座標を理解した達人である。下手な人には「上手な人がどのぐらい上手なのか」を理解することができない(例えば上手な人同士の比較ができない)のである。》

《KJ法では「アイデアを出してから分類を考える」というアプローチであるために、これまでと違った切り口でのアイデア抽出や、視点の抜けもれのチェックがやりにくく、普段思っていることの延長のアイデアの域を出られないという限界がある》

《「枝葉を切り捨てる」ということの最大の課題は枝葉にこだわっている人というのはそれが枝葉であることに気づいていないことなのである》

《自分が詳しい分野になればなるほど、余計な情報に惑わされてしまう》

《ものごとの本質を理解すれば、それは一言で、長くても三〇秒で説明できるものである。逆に長時間かけないと説明できない、あるいはどうしても説明資料が複雑になってしまうというのであれば、まだまだ思考が浅く本質に迫っていないと考えた方がよい。》

《九〇分の内容をいかに三〇秒で説明するかという訓練を積み重ねると本質に迫る力は着実につくはずである。》

《人間の特性として「自分を必要以上に特殊視する」という反面で、「他者を必要以上に一般化する」ということがある。》

《個々の人間の感性に訴えるためには一人ひとりを他者と違う「オンリーワン」として扱い、相手の目線で話し、(正しかろうが間違っていようが)相手を批判せずにまずは共感し、そのために効率よりも一見無駄に見えるものも重視するという姿勢が重要になってくる。これは本書で一貫して述べてきた、「思い込みを排除せよ」「一貫性を確保せよ」「一般化して考えよ」というのと真っ向から対立する。つまり、地頭型多能人はある意味「ジキルとハイド」のように二つの人格を時と場合によって適切に使い分けることが求められる。》

《筆者の漠然とした現在の感覚では、「地頭力」とはつきつめると「離れて考えること」ではないかと思っている。「こちら」から「向こう」へと離れるのが仮説思考、「部分」から「全体」へと離れるのがフレームワーク思考、「具体」から「抽象」へ離れるのが抽象化思考といった具合である。》

2011年6月6日月曜日

田中正造とアイン・ランド

田中正造の思想とアイン・ランドの思想って、ある意味対極。

アイン・ランドの思想は「アンチ利他主義」。

「利己主義」という言葉では、アイン・ランドの思想を表現しきれない気がする。

「利他主義」を追求することから生じるロクでもない結果への洞察と、その克服方法の提示が、彼女の思想のコアだと思う。

田中正造の思想は「アンチ利己主義」。

「利他主義」という言葉では、田中正造の思想を表現できない気がする。

「利己主義」を追求することから生じるロクでもない結果への激情的反発と戦闘的対抗が、彼の思想のコアだと思う。

ランドは「アンチ社会主義」で、正造は「アンチ資本主義」だし。

佐々木は基本的にランドの思想に共感する。

が、正造のような思想も、やはり社会には必要と考える。

対立する立場が共存して、互いにバランスを取り合うことの、必然性と必要性を認める。

こういう発想は、ランドにも正造にもない。

二人とも、こういう折衷主義を徹底的に叩いた。

その意味で二人とも「アンチ折衷主義」。

「折衷主義」の佐々木とは対極。

もちろん根っからの折衷主義者の佐々木は、「アンチ折衷主義」の必要性も認める立場。

2011年6月5日日曜日

やり遂げなければ殺されるという緊張感

大前研一氏の『考える技術』を読んだ。

大前氏の論考はこれまであちこちの雑誌やWebサイトで目にしてきたが、著書を読んだのはこれがはじめて。

読んでよかった。

思考力を鍛えることに関して、大きな希望をもらえた感じ。

考える時は、「今すぐ答えを出さないと王様に殺される」ぐらいの緊張感をもって考えろ、というアドバイスが、心に残った。
《「考える」とは、つねに質問し、自分で答えを一生懸命に見つけるということだ。「今、ここで答えを出さないと王様に殺される」という脅迫観念のもとに、自分の持っている数字やデータを頭の中からひっぱり出して計算し、「なるほど」と思える回答を見つけ出す。こんなことは、本当は誰にでもできることなのだ。》
《ふだんから〔講演の報酬が〕五〇〇万円だろうが五万円だろうが、タダであろうが、つねに一時間五〇〇万円の価値を生むのと同じだけの緊張感を持っていなければいけないのである。普通のビジネスマンは、社長や部長に呼ばれたときだけ恰好よくやろうと一生懸命になるが、あとは知的に怠惰というのでは、社長の前でも恰好よくできるはずがない。
 そういう態度では、剣の道でいえば相手を見下しているようなもので、往々にして油断してグサリとやられてしまう。つねに緊張感を持って同じ態度で臨む姿勢がなければ問題解決の力は向上しないし、よい発想も浮かばない。》
正しい答えを出さなければ殺される、などという厳しい条件下で思考することは、佐々木の日常ではあり得ない。

日常の行いを、どれだけ厳しい条件下で行なうか。

その積み重ねが、長期的には、能力の大きな差に帰結していくはず。

「これをやり遂げなければ殺される」という仮想、これから日常的に使っていこうと思った。

2011年6月4日土曜日

『ジュリアス・シーザー』を読んだ

古典読破計画。

先月はウィリアム・シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』。

福田恒存訳の新潮文庫版で読んだ。

去年『マクベス』を読んだ時は、岩波文庫版、光文社古典新訳文庫版とトライしてもさっぱり内容が頭に入らず、吉田萌子さんの絵付きの「素描シェイクスピア劇場」を読んでようやく筋が理解できた。

が、この『ジュリアス・シーザー』は、ほとんど苦労なく内容が頭に入ってきた。

訳者による解題によると、
《[‥‥]この作品はシェイクスピアの他のどの悲劇に比べても、生真面目で色気がない。そのためであろう[‥‥]、広く教科書に採用され、常に学生演劇の対象として好まれている。おそらくシェイクスピア自身、古代ローマを扱うということから意識してそうしたのであろうが、語法も文体も簡潔、率直であり、響きの上でも単音節語を多く用いてその力強い効果を出している。それがまた教科書として採用され、青年に好まれる理由にもなっていよう。さらに政治劇としての解り易さがそこにはある》
のだとか。

要はシェイクスピアの作品としては、シンプルな部類らしい。

福田の訳の良さもあると思うけど。

なんにせよ内容が素直に頭に入ったおかげで、シェイクスピアが偉大とされてきた理由が、腹の底から、というか、脳の奥底から、納得できた。

これだけの感情世界の創造は、たしかに史上稀な天才にしかなしえないと。

『ジュリアス・シーザー』について言えば、言語的・分析的に自覚された爆発的義憤、とでも言うか。

『ジュリアス・シーザー』を読んでいるだけで、自分の脳のこれまで使われていなかった部分が激しく使われ、人間の脳ってこんな風にも働き得るんだ、という感動を覚えた。

これまで体現したことのなかった身体運動を体現できたときと同じ種類の感動が、そこにはあった。

2011年6月3日金曜日

滑川河口

海岸散歩へ。

砂浜を歩くのは気持ちがいい。

しかも浜によって、感触がだいぶ違う。

佐々木がよく行くのは、藤沢・鎌倉の、鵠沼海岸、片瀬海岸、七里ヶ浜、由比ガ浜。

隣り合う海岸だが、佐々木の感覚では、まったく違う海岸である。

物理的な接触感が違う以上に、自分の体を構成する細胞が感じ取るものが違う。

一番気持ちいいのが、由比ガ浜。

由比ガ浜の上に降り立つだけで、佐々木の細胞がうひゃうひゃ喜びだす。

景観はたいしたことない砂浜なのだが。

むしろ江ノ島や富士山が見える七里ヶ浜や片瀬海岸や鵠沼海岸の方が、景観はずっといい。

でも体に気持ちいいのは由比ガ浜。

特に気持ちいいのが、滑川の河口のところ。


由比ガ浜、滑川河口


河口から見る滑川

これって佐々木だけの感覚なのだろうか。

あそこが他の人にとっても気持ちのよい場所なら、自然に大勢の人が群れをなしそうなものだが、特にそういうこともない。

ネットで検索しても、滑川河口のあたりに立つと気持ちがいい、という記述は見つからない。

佐々木の感覚がおかしいのか。

佐々木の砂浜に対する感覚(?)が、突出して研ぎ澄まされているのか。

謎である。

謎ついでに、鎌倉駅西口から海の方に向かう商店街(御成通り)の、あの変わったパターンの石畳の上を歩くと、やっぱり佐々木の腰~脚の細胞がうひゃうひゃ喜びはじめる。


鎌倉駅西口、御成通り石畳

これがどれぐらい視覚的情報に影響されてのことなのかは、確かめるすべもない。

目つぶって歩くわけにもいかないし。

体が感じる快・不快は、わけがわからない。

ほんとに。


由比ガ浜、夕焼け、滑川河口から

2011年6月2日木曜日

首が回らない

先週末べらぼうに難しい原稿を28時間ぐらい寝ないで仕上げたときの疲れからか、四足動物の姿勢をとるトレーニングで無理をしすぎたからか、胸椎の上半分の周りの筋肉、特に胸椎の右側の筋肉が、痛い。首がうまく回らない。特に頭を右に向けようとすると胸椎の右側の筋肉が痛む。こういう状態だと、周囲に気を配る余裕がなくなってくる。ときどきなんであんなに周囲に気を配れないのかとあきれる人に遭遇するがああいう人達は体のどこかがこういうふうに痛くてしょうがないのかもしれないとか思った。少なくとも佐々木には体の痛みを我慢しながら人に優しくするのは無理。

2011年6月1日水曜日

同時発話

電話で話すとき、発話のタイミングが3回に2回はかぶってしまう人とは、気が合わなすぎるのだろうか。それとも気が合いすぎるのだろうか。
 
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