2011年4月30日土曜日

鉄道事業者共同制作「暴力行為防止ポスター」への違和感メモ

先冬、鉄道の駅や車内に掲載されていた、下のポスター。



見た瞬間から、強烈な違和感を覚えて、その違和感の正体が自分でわからないままモヤモヤしているうちに、掲載終了となってしまった。

あの違和感の正体は、なんだったのだろう。

ムリヤリ整理すると、たぶん次の3点。

(1)暴力って、啓蒙によって抑止すべきものか?

(2)職場であんなにハッピーな人間が、車内暴力なんかするか?

(3)職場における同僚との談笑が「守るべき幸福」の象徴って、ヘンじゃないか?

2011年4月29日金曜日

砂利道鍛練再開

快晴。完全に初夏の陽気。

家の外での足裏鍛練は5月から始めるつもりだったけど、今日からに前倒し。

半年ぶりぐらいの、裸足での砂利道歩き。

痛くて歩けない、なんてこともなく、普通に歩けた。

よかった。

秋まで、昼間家にいられる日は、晴れてれば毎日やるつもり。

これができるのが在宅仕事のいいところ。

最大のメリットの一つとさえ言えそう。

それぐらい効果を実感している。

2011年4月28日木曜日

足裏鍛練再開

3ヶ月ほどさぼっていた室内での足裏鍛練を先週再開して、3ヶ月さぼると体っていうのはここまで弱くなるものかと驚いたり情け無くなったりしていたが、鍛練を再開して1週間もしたら、また再開前の強さが戻ってきて、一安心。

5月になったら、家の外での足裏鍛練も再開するつもり。

鍛えなきゃ、自分の脳も体も使い物にならなくなっていくばかり。

2011年4月27日水曜日

略春

一日中、強風。

昼間は初夏の日差し。

夜になって雨。

今年は1月びっくりするぐらい寒くて、2月びっくりするぐらい暖かくて、3月びっくりするぐらい寒くて、4月になっても相変わらず寒いとか思ってたら急に暑くなって、春らしい気分を、ほとんど味わわずじまい。

満開の桜も、車窓から見たり、歩きながら横目で見たりしたぐらいだったし。

2011年4月26日火曜日

代弁という身体運動

「自分が言いたかったことを代弁してくれている」と感じさせる言葉というのがある。

書き言葉でも、話し言葉でも、歌でも。

言葉の送り手が、言葉の受け手に、この「代弁してくれてる感」を、どれぐらい意図的に起こさせているか、の程度には、レベルの差がある。

言葉の送り手が単に「自分が言いたいこと」を表現した結果、たまたま言葉の受け手が「自分が言いたかったことを代弁してくれている」と感じる、というのが、最低レベル。

言葉の送り手が、「自分が言いたいこと」ではなく、「言葉の受け手が『自分が言いたかったことを代弁してくれている』と感じるであろうこと」を、言葉の受け手にそう感じさせるように表現し、そのとおりに言葉の受け手が感じる、というのが、最高レベル。

特に聴き手を目の前にしての歌唱(コンサート)の場合、上記のレベルの差が、意識レベルでの身体運動の構造の差として、如実に現象することになる。

上記の「最低レベル」において、歌手は、自分自身の身体と認識を出発点、聴き手の身体と認識を到達点として、歌の言葉をつむぐ。

上記の「最高レベル」において、歌手は、聴き手の身体と認識を出発点、自分自身の身体と認識を中継点として、歌の言葉をつむぐ。

意識レベルでの身体運動の規模がより大きく、構造がより複雑なのは、後者である。

コンサートにおいて、そのようなレベルで言葉をつむいでいると感じさせる歌手が、まれに存在する。

2011年4月25日月曜日

1人、2人、3人、4人、おおぜい

昨日は半年ぶりぐらいで「飲み会」というものに参加。

うそかほんとか知らないが、アフリカかどこかの部族の言語で、数詞が1、2、3、4、5……ぐらいまでしかなくて、あとはぜんぶ「たくさん」になってしまう言語がある、と聞いたことがある。

この部族を佐々木は笑えない。

飲み会に限らず、6人以上集まっての会話になると、他人の話の意味を理解するだけで、脳がパンクしてしまう。

脳がパンクして、自分からはほとんど何もしゃべれなくなる。

飲み会で喜ばれるような話のネタの持ち合わせもない。

へぇー、ほぉー、と、ひたすらみなさんの話を拝聴。

使わない能力は退化すると改めて実感。

基本的に実用的な文章さえ書いていればよい生活を10年も続けているうちに、人を楽しませる能力、特に、話し言葉で人を楽しませる能力が、ほぼ消え失せてしまった感じ。

2011年4月24日日曜日

意味不明の感謝

「佐々木さんのおかげで……」

と改まったお礼の言葉をいただくことが、ここ数ヶ月で5、6回はあった。

いずれも佐々木本人には、感謝されるようなことをした自覚はなし。

「はぁ?」

ってな感じ。

なんで?

どんなことにも感謝していれば幸せが引き寄せられる、という自己啓発系の方法論が、佐々木の周りにも浸透してきた?

佐々木のあまりの自己評価の低さを見かねての気遣い?

現実に佐々木が無自覚にやってることが、人様のお役に立つようになってる?

嬉しかったり、謎だったり。

2011年4月23日土曜日

ウィキペディアでのアイン・ランド評

ウィキペディアで「アイン・ランド」の項を見たら、
《社会福祉そのものを否定し、貧困層を「寄生者」としてみている。一方、富裕層を成功者や生産者として評価し、マルクスとは全く逆の思想を展開している。アメリカ共和党やアメリカのネオ・コンサバティブに信奉者が多い。
貧困は本人の努力不足として、現代の格差社会(親が裕福ならば子はスタートの時点で教育やコネクションといった数々の恩恵にあずかれる)には触れていない。また、貧困は個人の怠慢といった思想から、日本的な全体主義に近い思想家でもある。》
とか、
《アイン・ランドの思想は、マルクス主義とは対極に位置する。労働者が富を創出するのではなく、資本家こそすべての富を創出し、労働者こそ無益な寄生者とみなす。》
とか書かれてあった。

ずいぶん悪意のある書き方をするなぁと思った。

貧困の原因を言うなら、富の産出に力を尽くしている人々を、あべこべに「富の収奪者」として攻撃する思想が、むしろ貧困を生み出しているありさまを、ランドは暴き出したのであって、別に貧困の原因を、個人の怠慢だけに帰結させているわけではないだろうに。

社会から資本家を一掃して労働者ばかりの世の中を作れば、労働者は豊かな生活を享受できるとする思想のアホらしさを、ランドは暴いて見せたのであって、労働者が無益な寄生者などとは、一言も言ってないだろうに。

2011年4月22日金曜日

コンプレックス解消系商材「利用者の声」における他者評価の扱い

コンプレックスというのは、主観性の強い現象だ。

だから、コンプレックスの原因を解消しても、その客観的な評価が、本人が期待した水準に及ぶことは、まれであるように思う。

本人が主観的に満足すること自体は大切なことだから、コンプレックスの原因を解消することに、決して意味がないわけではないが。

だから、コンプレックス解消系の商品やサービスの広告における「利用者の声」で、どこまでもリアリズムを重視するならば、「使用後」における「他者からの評価」にはあえて触れないほうが良い、という考え方もあり得る。

リアリティの確保だとか、信義だとかの観点で。

たとえ社交辞令的な他者評価であっても、他者評価は他者評価なんだから、臆せず書けば良い、という考え方もあり得る。

広告効果の向上だとか、コンプレックス解消の促進だとかの観点で。

微妙なところ。

2011年4月21日木曜日

あいかわらず低い身体能力

気温の上昇と共に、トレーニングに対する意欲もまた強まってはきた。

が、トレーニングに打ち込めば打ち込むほど、自覚させられるのは自分の身体能力の低さ。

こんなに低い身体能力の人間が生きてられる世の中ってほんとすごいと、妙な感慨を抱く。

2011年4月20日水曜日

40歳で読む『肩をすくめるアトラス』

アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』(脇坂あゆみ訳)再読中。

作品世界に体現された思想の、巨大さと、緻密さと、厳格さ、深遠さに、改めてすげーっ! すげーっ! と感嘆しきり。

感銘を受けたところに付箋を貼っていったら、たちまち付箋のカタマリ状態に。

「人生のバイブル」と呼ばれるに、これほどふさわしい小説はおそらく他にない。

2004年にはじめてこの小説を読んだ時、佐々木はまだ33歳。

『肩をすくめるアトラス』の世界を仰ぎ見る立場でいることが、まだなんとか許される年齢だった。

40歳というのは、もうそういう立場でいることが許される年齢ではない。

『肩をすくめるアトラス』で指弾される人間としての堕落が、自分自身の現実として痛感されるばかり。

あと初読時には、作品世界のスケールの大きさや思想的な深みに対する感動はあったが、登場人物たちに感情移入して泣けてくるようなことは、たしかなかったと記憶している。

今回再読してあちらこちらで泣きそうになるのは、実体験に基づく共感力というやつが、少しは向上してる証拠だろうか。

2011年4月19日火曜日

お金に苦労したことがないお嬢様や元お嬢様の気持ちなんてどうやって想像すりゃいいんだ

お金に苦労したことがないお嬢様や元お嬢様を主な読者とする広告記事を執筆中。

自分の想像力の限界を試されていると感じる。

2011年4月18日月曜日

ある意味「Why」は「How」の対義語である

いわゆる5W1H(だれが・なにを・いつ・どこで・なぜ・どのように)の問いの中で、「なぜ」という問いに対する答えが最も多様になるのは、なぜか。

この問題について考えているうちに、そもそも5W1H(だれが・なにを・いつ・どこで・なぜ・どのように)を対等のものとして並べること自体に、無理があるような気がしてきた。

「りんご」、「みかん」、「すいか」、「果物」を、対等のものとしては並べられないように。

まずは「だれが・なにを・いつ・どこで・どのように」は、どちらかと言えば、事実に関わる問いである。

これに対して「なぜ」は、どちらかと言えば、解釈に関わる問いである。

また、「だれが・なにを・いつ・どこで」は、大きな目で見れば、「どのように」に含まれてしまう気もする。

てなことをつらつら考えているうちに、「なぜ」と「どのように」は、対義語なのではないか、という気がしてきた。

時間を流れを、時間の流れ通りにたどる問いが「どのように」。

時間の流れを、時間の流れとは逆にたどる問いが「なぜ」。

図にすると、下のような感じ。





こうしてみると、「なぜ」という問いの答えが多様になる理由も見えてくる。

2011年4月17日日曜日

『肩をすくめるアトラス』読み返し中

映画化された『肩をすくめるアトラス』(アイン・ランド原作“ATLAS SHRUGGED”)が、4月15日にアメリカで公開された。

佐々木はまだ映画を観ていないが、これを機に改めて、『肩をすくめるアトラス』を読み返し始めた。

サラっと読み返すだけのつもりが、引き込まれて、止まらなくなった。

『肩をすくめるアトラス』に込められたランドの思想の厳しさと、我が身の現実を照らし合わせて、忸怩たる思い。

2011年4月16日土曜日

“目的”か“仕組み”か“経緯”か

いわゆる5W1H(だれが・なにを・いつ・どこで・なぜ・どのように)の問いの中で、「なぜ」という問いに対する答えが最も多様になるのは、なぜか。

その理由の一つは、「なぜ」という問いで問われているのが、“目的”、“仕組み”、“経緯”の、少なくとも3通りに解釈できるから。

「なぜ、スパゲティーを茹でるとき塩を入れるのですか」、「湯の温度を上げるためです」。これは“目的”を答えている。

「なぜ、海の色は青く見えるのですか」、「水が赤色の光を吸収するからです」。これは“仕組み”を答えている。

「なぜ、部屋がこんなにちらかっているのですか」、「ここ一週間忙しくて片づける暇がなかったからです」。これは“経緯”を答えている。

「なぜ、山に登るのですか」、「そこに山があるからです」。これは“目的”を聞かれて、“経緯”とも言えないような“経緯”を答えることで“本質”を答えた、とでもなるのだろうか。

自然現象の背後に“神の意志”を認める人は、自然現象に関わる「なぜ」という問いに対しても“目的”を答えるだろうし、“神の意志”を認めない人は、“仕組み”や“経緯”による答えしかしないだろう。

このようにな、「なぜ」という質問の趣旨を回答者がどう受け取るかによっても、回答者がどういう世界観を持ってるかによっても、「なぜ」という問いに対する答え方は変わってくるのである。

2011年4月15日金曜日

ポワ~ン

結婚相談所の宣伝を目的とした、成婚者へのインタビュー記事を何本か作ったことがある。

掲載された自分の原稿を最初に見ての率直な感想は、「ずいぶん読みにくいレイアウトにされてしまったなぁ」というものだった。

眺めていてなんとなくポワ~ンとした気持ちになるレイアウトというか。

文章を書いた当人としては、やはりできれば、読者に始めから終わりまで一字一句漏らさず読んでもらいたい。

だから最初は正直、ちょっと悲しかった。

が、そもそも結婚なんて、頭がポワ~ンとならなければ、しないものなのかも。

冷静に文章を読んで内容を検討する、なんていうモードで、人は結婚しようなんていう気にはなれないものなのかも。

2011年4月14日木曜日

「なぜ」の怠惰さ

「なぜ」という問いに対する答えが多様になるのは、なぜか。

一般に因果関係というものが、「一つの結果に一つの原因」のような単純な関係にはなっていないことも、その理由の一つだろう。

池に石を投げ入れて波紋が生じたとき、普通に考えれば「池に波紋が起きた原因」は「石を投げ入れたこと」なのだろうが、池が凍っていれば波紋は起きなかったのだから、「池が凍っていなかったこと(たとえば前日まで張っていた氷が溶けていたこと)」だって「池に波紋が起きた原因」の一つだ(三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』)。

考えようによっては「なぜ」という問い自体が、「怠惰な問い」、もしくは「傲慢な問い」なのかもしれない。

そもそも複雑で無数に存在するはずの因果関係を、むりやり単純化し、一つに絞って、私にわかるように説明せよ、と回答者に要求する問いなのだから。

人間関係において、相手から「なぜ」という疑問を持たれないのは悲しい。

それは、相手から関心を持たれていないということだから。

しかし、「なぜ」と問えば「なぜ」という疑問が解消する、と相手に思われているのも悲しい。

それは、相手からその程度の関心しか持たれていないということだから。

2011年4月13日水曜日

歌詞の見た目

PUFFYが「渚にまつわるエトセトラ」(作詞:井上陽水 作曲:奥田民生)を歌ってる動画を、最近たまたま見た。

画面下に、歌詞のキャプションが入ってる動画。

PUFFYは歌詞が面白い歌が多いと、前から思ってはいたが、その歌詞を改めて文字として眺めて、「文字の並びの見た目の気持ちよさ」に、驚いた。

言葉が発する魅力には、意味内容が持つ魅力とは別に、音の響きの魅力だとか、文字のつらなりの見た目の魅力もある。

歌詞というのは基本的に耳で聞くものだから、文字のつらなりとしての見た目の魅力は、本来それほど重要ではないはずである。

様々な歌の歌詞を検索できるサイトで、井上陽水が作詞した歌の歌詞を、いろいろ見てみた。

佐々木が聞いたことのない歌も含めて、どの歌も、「文字の並びの見た目の気持ちよさ」に溢れていた。

他の有名な作詞家が作った歌詞も、いろいろ見てみた。

井上陽水ほど「文字の並びの見た目」が気持ちよい歌詞を書く作詞家は、見当たらなかった。

日本のポップスでは「英語の日本語のチャンポン」の歌詞が一般的だが、これを改めて「文字の並び」として見ると、予想以上に見苦しく感じられた。

中島みゆきが作る歌詞の「文字の並びの見た目」が、その意味内容や音の響きの魅力と比較すると、それほど大して魅力的ではないのも、意外だった。

以上、まったく主観的な印象論で、根拠は何もない。

でもまぁ、発見は発見。

ほんとにくだらない発見。

2011年4月12日火曜日

2011年4月10日神奈川県議選開票結果(相模原市南区)

昨日の続きで、県議選の方も。

トップ当選された方の、得票数のぶっちぎりぶりと、選挙広報の脱力っぷりのコントラストが、印象的。

【2011年4月10日神奈川県議選開票結果(相模原市南区)】
定数:3人
立候補者数:6人
有権者数: 218,088人
投票者数: 107,188人
投票率: 49.15%

細谷政幸さん(53歳、自民党、新人) 33,356票 当選


山下昌一朗さん(35歳、民主党、新人) 17,415票 当選


小林大介さん(35歳、みんなの党、新人) 17,395票 当選


長谷川久美子さん(49歳、無所属、現職) 13,588票 落選


中村武人さん(36歳、民主党、新人) 11,887票 落選


河野幸司さん(65歳、共産党、現職) 9,684票 落選

2011年4月11日月曜日

2011年4月10日相模原市議選開票結果(南区)

昨日は神奈川知事選挙、神奈川県議会議員選挙、相模原市長選挙、相模原市議会議員選挙の投票日。

佐々木が投票した候補者は、県知事選→落選、県議会選→当選、市長選→落選、市議選→落選。

自分が住んでる地域が、どういう人がどれぐらいの票を獲得する地域なのかということを知っておくことも、それなりに大事なことのように思えたので、市議選について公表された各候補の得票数と、選挙広報掲載稿を並べてみた。


【2011年4月10日相模原市議選開票結果(南区)】
定数:19人
立候補者数:29人
有権者数: 216,959人
投票者数: 107,168人
投票率: 49.4%

阿部善博さん(40歳、無所属、現職) 6,776票 当選


大槻研さん(36歳、みんなの党、新人) 6,010票 当選


鈴木秀成さん(34歳、民主党、新人) 5,233票 当選


石川将誠さん(34歳、無所属、現職) 4,745票 当選


久保田浩孝さん(50歳、公明党、新人) 4,734票 当選


大崎秀治さん(51歳、公明党、新人)4,471票 当選


加藤明徳さん(53歳、公明党、現職) 4,448票 当選


中村知成さん(41歳、民主党、新人) 4,257票 当選


金子豊貴男さん(61歳、社民党、現職) 4,060票 当選


寺田弘子さん(57歳、無所属、現職) 3,995票 当選


古内明さん(47歳、無所属、現職) 3,976票 当選


稲垣稔さん(67歳、無所属、現職) 3,876票 当選


大田浩さん(35歳、共産党、新人) 3,836票 当選


折笠峰夫さん(67歳、無所属、現職) 3,686票 当選


桜井はるなさん(53歳、民主党、新人) 3,663票 当選


市川圭さん(32歳、みんなの党、新人) 3,516票 当選


藤井克彦さん(51歳、共産党、現職) 3,503票 当選


須田毅さん(69歳、無所属、現職) 3,503票 当選


溝渕誠之さん(87歳、無所属、現職) 3,486票 当選


東條恵美子さん(66歳、無所属、現職) 3,224票 落選


財津秀明さん(54歳、みんなの党、新人) 3,215票 落選


大槻和弘さん(55歳、無所属、現職) 3,071票 落選


渋谷浩さん(63歳、無所属、新人) 2,495票 落選


石川達さん(41歳、民主党、新人) 2,356票 落選


西村綾子さん(71歳、無所属、現職) 2,213票 落選


篠崎健太さん(29歳、民主党、新人) 2,142票 落選


津久井知恵さん(35歳、無所属、新人) 1,212票 落選


小林美穂子さん(68歳、無所属、新人) 1,152票 落選


吉田悌さん(43歳、無所属、現職) 838票 落選

2011年4月10日日曜日

オートミールの固粥の作り方

「おかゆ」というのは柔らかく煮た米のことだから、「オートミールの固おかゆ」というのは二重形容矛盾だと、昨日書いた。

あとで辞書や百科事典で調べたら、歴史的には「かゆ」というのは米やアワなどに水を加えて煮たものの総称で、必ずしも水分の多いものだけを指したわけではなかったらしい。

水分の多いものが「汁粥」、少ないものが「固粥(または堅粥)」。

だから現在「ご飯」と呼ばれているのは「米の固粥」なんだとか。

なら、佐々木が食べてるあれは、「オートミールの固粥」ということで何の問題もない。

一応、作り方を。
1.水200ccを小鍋で沸かす。

2.水が沸騰したら、オートミール180ccを入れ、よくかき混ぜて弱火にする。
  (オートミールを計量するカップは、水を計量するカップとは別にする。濡れた計量カップにオートミールを入れると、くっついてめんどうだから)

3.ふたをして、3分たったら火を止める。

4.器に移す。
オートミールの固粥の良いところは、米のご飯より圧倒的に短時間で作れて、しかも米のご飯の代りになるところ。

コーンフレークはパンのおかずにしか合わないが、オートミールの固粥はご飯のおかずに合う。

というか、揚げ物などのように、パンのおかずにもご飯のおかずにもなるようなおかずには、むしろ合わない。

メザシとか、ジャコとか、佃煮とか、そういうおかずに合うのが、このオートミールの固粥の特長。

食物繊維も多い。

オートミールの固粥の欠点は、見た目があまりよろしくないところ。

2011年4月9日土曜日

「オートミールの固おかゆ」

玄米がスーパーの店頭から姿を消している間、米の買い置きが底をつくのを先延ばしにするため、ご飯の代りに、時々オートミールの固おかゆを作って食べていたと、一昨日ここに書いた。

「オートミールの固おかゆ」って、正式な呼び方がわからなかったので佐々木が勝手にひねり出した表現だけど、考えてみればヘンな表現だ。

「おかゆ」と言ったら、普通は柔らかく煮た米のことである。

だから「オートミールの」「固い」おかゆというのは、形容矛盾を二重に犯している。

でも、こういう形容矛盾を犯さざるを得なくなるのは、ある種、言語表現の宿命のようなものだ。

文字または音韻の羅列という、表現対象とは感性的に似ても似つかぬ手段を用いて、読み手または聞き手に表現対象を想像させなければならない言語表現においては、読み手または聞き手が知らない対象、もしくはこれまで存在していなかった対象を表現するためには、読み手または聞き手が知っている別の対象、もしくはこれまで存在していた別の対象からの類推で、表現対象を想像させなければならないのだから。

三浦つとむがどこかで、「赤い白墨」を例にして、このことを説明していた。

昔はチョークのことを「白墨(ハクボク)」と言った。

「墨」って、漢字の訓読み(スミ=炭)から言っても、「黒」を含む部首構成から言っても、黒いから「墨」なのだ。

だからそもそも「白墨」っていう表現が「白い黒い」で形容矛盾。

チョーク一般が「白墨」と呼ばれるようになると、「赤い白墨」などという表現も出てきて、「赤い白い黒い」の二重形容矛盾。

みたいな。

佐々木はたぶん10年ぐらい前から、時々ご飯の代わりにオートミールの固おかゆを作っている。

丸元淑生の本のどこかに、オートミールのおかゆのレシピが載っていた。

ご飯の代わりになるように、だんだん水の量を減らして作るようになり、「おかゆ」とは呼べないぐらいの固さにするようになった。

Googleの画像検索で「オートミール」を検索すると、ドロドロのおかゆ状のものか、クッキー状のものか、どちらかしか出てこない。

もしかすると、オートミールを佐々木と同じように「固おかゆ」にして食べてる人って、他にいないんだろうか。

2011年4月8日金曜日

「なぜ」と聞くために

いわゆる5W1H(だれが・なにを・いつ・どこで・なぜ・どのように)の問いの中で、答えが最も多様になる問いは、「なぜ」である。

その理由の一つは、質問者からの「なぜ」という問いに対する回答者の答えが、「回答者が質問者をどう評価しているか」によって、大幅に変わるからである。

「回答者による質問者の評価」には、おそらく「質問者の知識」、「質問者の理解力」、「質問者の人格」の3つがある。

佐々木が仕事でインタビューをする時、インタビューの目的が「なぜ」を聞くことにある場合でも、インタビューの前半で「なぜ」という問いを発することは、ほとんどない。

インタビューの前半では、ひたすら「なぜ」以外の4W1H(だれが・なにを・いつ・どこで・どのように)の問いを積み重ねる。

「なぜ」以外の4W1Hの問いを積み重ねることを通じて、自分に対する回答者からの評価をどの程度高められるかによって、最も問いたい「なぜ」に対する回答の深みが、大きく違ってくるからである。

「なぜ」以外の4W1Hの問いを積み重ねることを通じて、回答者についての知識を多く・正しく・深くすると当時に、回答者に、自分の理解力と人格を信頼させようとしているのである。

2011年4月7日木曜日

約1カ月ぶりの納豆

夜7時頃、いつも買物してる生協に行ったら、納豆売り場に、3パック組のパック納豆が1銘柄だけ、7、8個だけあった。

納豆売り場に納豆があるのを見るのは、久しぶり。

納豆は震災後数日で、売り場から消えていた。

特に納豆が食べたかったわけではなかったのだが、おー帰ってきたかー、みたいな気持ちになって、1個購入。さっそく夕食に食べた。

約1カ月ぶり。

一昨日ぐらいには、玄米5kgを購入。

玄米も、長い間売り場から消えていた。

米は震災後1週間ぐらいで売り場から姿を消し、1週間ぐらいそのままだった。

震災前から買ってあった玄米がまだ十分あったので、特に米の確保には走らなかったが、一時は、しばらく米が食べられなくなる事態も覚悟した。

買い置きしてある米が切れるのを先延ばしするため、米のご飯の代わりに、オートミールの固おかゆを作って食べたりもしていた。

先週あたりから、白米は米売り場に戻ってきたのだが、なぜか玄米はしばらく戻って来なかった(発芽玄米とか特殊なやつは戻ってきていたが)。

その玄米も戻ってきて、とりあえず安心。

2011年4月6日水曜日

なぜなぜ

いわゆる5W1H(だれが・なにを・いつ・どこで・なぜ・どのように)の問いの中で、答えが最も多様になる問いは、「なぜ」である。

なぜ、「なぜ」という問いに対する答えは、多様なのか。

その答えは、多様である。

なぜ、「なぜ、『なぜ』という問いに対する答えは、多様なのか」という問いに対する答えは、多様なのか。

きりがないので、これぐらいにしておく。

2011年4月5日火曜日

わるもの・おろかもの

社会は、変化し続ける。

ある時は、「昨日と同じ今日」が永遠に続くかのように、ゆっくりと。

ある時は、「昨日の常識が今日の非常識」の日々が永遠に続くかのように、急速に。

前者の期間は長く、後者の期間は短い。

社会の変化を推し進める上で、「悪者・愚か者を見つけ出し、咎め立て、懲らしめ、追い払う」というスタイルの言説や活動が力を持つのは、後者の期間においてである。

前者の期間において、上記のスタイルの言説や活動が有効性を発揮するのは、むしろ、社会の変化を押し止める目的においてである。

前者の期間において、社会の変化を推し進める目的で上記のスタイルを選択する言説や活動は、客観的には、社会の変化を推し進める運動から排除された人間の、泣き言・自己顕示・自己満足として現象する。

佐々木は、主観的には、社会の変化を歓迎する立場の人間である。

また佐々木の認識では、現代の日本は前者の期間にあり、後者の期間の訪れは当分ない。

だからこそ佐々木は、上記のスタイルの言説や活動から、意図的に距離を置いてきた。

今回の震災後の一連の出来事によって、現代日本が後者の期間に突入することがあるのかどうか。

ないと信じたい。

あるという可能性も否定しがたい。

てなことをここ最近、ぼんやりと思う。

2011年4月4日月曜日

声を良くしたい

自分がインタビューした時の音声をICレコーダーで聞き返すと、もっと声を良くしたいなと思う。

声には、自分の体や認識が持っている弱点が、あからさまに反映されると感じる。

自分の声のひどさを正していくことで、自分の体や認識の弱点も正されていくのではないかと期待している。

「文は人なり」とは言うが、文章なんて、書いてから公表するまでにいくらでも修正できる。

肉声はそうはいかない。

「文は人なり」である以上に、「声は人なり」であると実感する。

声の良い人に接すると、その人の人格にまで憧れの念を抱く。

2011年4月3日日曜日

自然現象に上から目線

日本人の子供は、小学校、中学校合わせて9年間、高校まで入れると計12年間の、理科教育を受ける。

理科では、ほぼあらゆる自然現象が、神やそれに類する存在抜きで説明できることを学ぶ。

このような理科教育を受けることを通じて、また、このような理科教育を受けた大人に接することを通じて、日本人は、自然現象全般に対する、いわば「上から目線」を獲得する。

こうした「自然現象に対する上から目線」は、多くの現代人にとってあまりにも当たり前になっていて、自然現象に対するそれ以外の目線での見方が存在すること自体、想像することがない。

だが義務教育が登場する以前の時代においては、自然現象を現代のような「上から目線」で捉えること自体、大多数の人々にとって想像外のことだった。

自然は基本的に崇め奉るべき存在だったし、現代社会において自然科学が追求されているのと同等以上の真剣さで、自然やその背後に存在する神を慰撫する祭祀が実践されていた。

近代以前の時代や、近代以前の時代から続く諸行事・諸慣習を理解するときは、このような「自然現象に対する下から目線」(「自然現象に対する上から目線」を想像することさえできない状態)を実感を伴って想像することが大事だと、ふと思った。

2011年4月2日土曜日

心情的反ペット・脱ペット

飼い主から飼育放棄されたペット。

殺処分されるペット。

想像するだけでいたましい。

この「いたましい」という感情は、飼育放棄されたペットの保護や飼い主への啓蒙に取り組む活動家たちと佐々木が、おそらく共有しているものだ。

佐々木がペット保護活動家たちと異なるのは、つい次のように思ってしまうところである。

そもそも人間がペットの飼育などしなければ、ペットの飼育放棄も殺処分も起こり得ない。

「ペットを可愛がりたい」という欲望を人間が抑制しないこと自体が、ペットに関わる悲劇の根本原因なのではないか。

その意味で佐々木は、心情的に、反ペット・脱ペットの立場を取っていると言える。

その一方で、そのような立場を言明したりそのような思想の伝播や実現を追求してはならないとも、佐々木は考えている。

ペット産業に真面目に携わる人々に直に接する機会を多く持ち、彼らの真摯さに尊敬の念を抱いていることもある。

ペットを飼っている人々の多くが、ペットとの関わりを通じて豊かな情操を育てていることを実感していることもある。

そもそも「誰一人ペットを飼わない状態」など実現しようがないこともある。

だがそれだけではない。

人間の欲望を抑制させることで理想を実現する、という発想自体に、危険なものを感じているから、というのが大きい。

今、特定の発電方法を廃止を求める思想が、大きな力を持ち始めている。

その思想の中身に、佐々木は心情的には共感する。

その一方で、人間の欲望を抑制させることで理想を実現する、という発想に共通する危険性を感じてもいる。

2011年4月1日金曜日

詩人と学者

一流の詩人も、一流の学者も、とらえてるものは同じで、ただその表現方法が違うだけなんだなと、最近、実感として思った。

別に自分が一流の詩人になったり一流の学者になったりしたわけじゃないけど。

詩人とか学者に限らず、理論家であっても、実践家であっても、「一流の人物だけがとらえている共通の何か」というのはあって、それが「本質」と呼ばれているのだろう。
 
QLOOKアクセス解析