2011年3月31日木曜日

40年後50年後が楽しみな日本

44年前、1967年に出版された梅棹忠夫の『文明の生態史観』を読んでいると、「現代の日本はこうである」という著者による説明の多くが、2011年現在の日本の実情とは正反対で、驚かされる。

格差がますます解消して国民が均一化している、とか。

増え続ける人口が社会問題になっている、とか。

近代化をめざす諸国から、急速に近代化を達成したお手本と見なされている、とか。

40年後、50年後の日本がどうなっているかというのは本当に楽しみで、それを考えると長生きしたいよなぁと思う。

2011年3月30日水曜日

梅棹忠夫「文明の生態史観」の「第一地域」と「第二地域」って名前の付け方が逆じゃないか

梅棹忠夫の「文明の生態史観」では、いわゆる旧世界(ユーラシア大陸およびその周辺の世界)のうち、西ヨーロッパと日本が「第一地域」、その中間の地域が「第二地域」とされる。

もうとっくに誰かが言ってることなのだろうが、この「第一」と「第二」は、逆にするべきではなかったか。

文明成立の歴史的順序からして。

後から文明化した地域を「第一」とするということは、西ヨーロッパ・日本よりも高度な文明を築く地域が、今後出現する可能性がないと考える、ということだ。

その可能性は、ないわけじゃないのではいか、と佐々木は考えてしまうのだが。

まぁ、梅棹の「文明の生態史観」は、過去から現在までの旧世界の歴史を説明するもので、未来にも通用する普遍的な法則性を追求したものではないのだから、これでいいのかもしれないが。

たしか岡田英弘が『世界史の誕生』 で、「世界史」はモンゴル帝国がヨーロッパ文明・中国文明に接触したところから始まった、みたいなことを主張していた。

極論すれば、梅棹の「文明の生態史観」が妥当性を持つのは、岡田英弘の言う意味での「世界史の誕生」まで、とも言えるかも。

少なくとも、新世界、特にアメリカ合衆国が世界史の前面に躍り出て以降は、妥当性を持たない、と言っていいのかも。

もちろん、現代に至っても、現実の諸文明・諸文化は、「世界史」成立以前の文明・文化のあり方の影響を濃厚に残しているわけだが。

2011年3月29日火曜日

封建制

梅棹忠夫が「近代日本文明の形成と発展」で、東アジアで本格的な封建制を確立できた社会は、日本以外にはなかった、みたいなことを書いていて、そんな考え方があったか、と驚かされた。

本当にそうなのか、ということを検証してみたいと思ったのが一つ。

それから、封建制の本質について、改めて自分にはっきりさせておきたいとも思った。

日本がどの程度「近代社会」なのか、という文脈で。

2011年3月28日月曜日

「東と西のあいだ」

梅棹忠夫の『文明の生態史観』の冒頭に収録されている、「東と西のあいだ」という論文。

この論文を読んで感心させられるのは、梅棹がアフガニスタン、パキスタン、インド、イランといった国々を旅行して、現地で見聞きする様々な文化に驚きまくってること。

現地で見聞きする文化に驚きまくるだけでなく、自分がそれまであたりまえだと思ってきた日本の文化にも、驚きまくってること。

「知性とは驚く能力のことである」って本当だなって、この論文を読むと改めて思う。

特に感心させられたのが、梅棹が「中洋」という概念を使うようになったいきさつを語った箇所。
《要するに、インドは東洋ではない。中国を中心に発展してきたわれら東洋諸国とは、本質的に文化的伝統を異にする世界である。インドはむしろ、もっと西のほうのイスラーム的世界とこそ、歴史を共有するものである。
 しかし、インドが東洋ではないとすれば、それはいったいなにか。もちろん、西洋ではありえない。インドが、西洋すなわちヨーロッパ的世界に属さぬことは、あきらかである。この、東洋でもなく、西洋でもないインドをさして、わたしがデリーでしりあったひとりの日本人の留学生は、うまいことをいった。
「ここは、中洋ですよ」
 わたしは感心して、このことばをつかうことにした。
 とにかくわたしは、いままで、インドおよびイスラーム諸国が、東洋でもなく西洋でもないことについて、明確な認識をもっていなかったことを、ふかくはじた。同時に、自分のはじをひとのせいにするようだが、この中洋的世界についてほとんどなにもおしえてくれなかった日本の学校教育を、ひどいとおもった。わたしのならった旧制中学校の東洋史の教科書には、インドのことは一ページほどかいてあったように記憶している。
 それから、日本のインテリは、なにごとにつけても、東洋ではこう、西洋ではこうと、東西の比較だけで世界をわりきってしまう傾向がある。わたしも、そういうかんがえかたにならされてきた。しかし、この発想法も、たいへんいけないとおもった。東洋・西洋のほかに、中洋を勘定にいれなければいけないのだ。》
「中洋」という概念を無名の留学生に教わったことを正直に書いてるのもいいし、それまでの自分の見方を正直に恥じてるのもいい。

「知性とは恥じる能力のことである」とも言いたくなる。

論文「文明の生態史観」で梅棹が「東洋と西洋」という二分法を批判した箇所
《世界を東洋と西洋に類別するということが、そもそもナンセンスだ。頭のなかでかんがえると、東洋と西洋との比較というと、いかにもきれいに世界を論じたような気になるが、じっさいは、東洋でも西洋でもない部分を、わすれているだけである》
を読んだ時は、正直、「なにをくだらないこと言ってるんだ」と思った。

二分法に収まらない中間領域が存在するのは、どんな二分法にも当てはまることだ。中間領域の存在を指摘したって、二分法の批判にはならない。

「東と西のあいだ」を読むと、「中洋」という概念の必要性が、事実と論理の両方から納得させられる。

2011年3月27日日曜日

梅棹「文明の生態史観」の学問的意義

梅棹忠夫の「文明の生態史観」が最も学問的な有効性を発揮するのは、おそらく、「日本史」の学問化においてだろうと思う。

梅棹本人は、きっとそのような限定をされるのは嫌だろうけど。

ヘーゲルやマルクスの発展史観は、社会科学を学問化する手段として、自覚的に構成されたものだ。

そのような学問的な方法的自覚は、梅棹の史観にはない。

梅棹が自明のものとして使用する「近代」だとか「封建制」だとか「古代」だとかいった概念も、学問的な厳密さを要求する立場からすれば、「旧世界」とか「新世界」とか、「第一地域」とか「第二地域」とか、そういった特殊性を捨象した社会一般に関する理論が学問的に確立されなければ、使用できないはずである。

ただ、社会科学が学問として確立された後、日本社会の歴史性を検討するにあたっては、おそらく梅棹の理論が役に立つ。

2011年3月26日土曜日

『文明の生態史観』を読んだ

古典読破計画。

先月は梅棹忠夫の『文明の生態史観』。

「文明の生態史観」は、著者が世界各地への調査旅行と独自の考察に基づいて確立した、旧世界(ユーラシア大陸およびその周辺地域)の文明の成り立ちに関する、一般論的過程的構造論である。

『文明の生態史観』は、この「史観」について、著者が一般誌で説いた論文11本を収録した本。

まず表題論文「文明の生態史観」から、ざっと読んだ。

なかなかスケールの大きい論考ではあるが、ヘーゲルの『歴史哲学講義』の論理性にははるかに及ばない、というのが第一印象。

ただ、速読で済ませてしまうにはあまりにももったいない豊かな内容が感じられて、冒頭論文「東と西のあいだ」から、じっくり読み始めた。

じっくり読んでよかった。

「文明の生態史観」は、著者が一応完成させた理論を、理論それ自体として解説した論文である。

筆者の理論は、それほど学問的な厳密さを追求した理論ではないから、理論を理論としてだけ提示されると、どうしても「アラ」にばかり目が行ってしまう。

これに対して「東と西のあいだ」は、筆者が見聞したユーラシア大陸各国の文化・文明のあり方から、独自の理論を確立していく過程を、旅行記の形式で書いた論文である。

この「東と西のあいだ」を読んでから「文明の生態史観」を読むと、筆者の理論の価値が、突然よくわかりはじめた。

この本についてはもう少し書いてみたい。

2011年3月25日金曜日

塊、粒、元素

福島で原発事故があって以来、放射能について、それこそ「われと我が身」に関わる重大関心事として、情報収集に努める日々が続く。

にわか勉強なだけに、せっかく手に入った情報も、理解しきれない場合が多い。

特に腑に落ちないのが、放射性物質の、濃度の問題である。

たとえば、水を例に考える。

太平洋の水。

コップ1杯の水。

水滴1個。

H2O分子1個。

どれも「水」だろうが、その振る舞いは、同じではない。

H2O分子が1つだけ存在していても、それはもはや、「水」としての振る舞いをしない。

物質は、量によって、その質を変えるのである。

水道水や農作物から放射性物質が検出されたとき、その濃度とか年間摂取量がどれぐらいなら、人体に影響があるとかないとかいった議論が、よくされる。

そうした議論を見ていると、そういった物質が、塊の状態で存在しようが、目に見えないほどの粒子の状態で存在しようが、元素レベルまで拡散した状態で存在しようが、まったく同じ振る舞いをする、という前提に立っているように感じられる。

物質が人体にもたらす影響を、ただ量的にのみ評価し、その量が許容範囲か、そうでないか、という議論だけをしているように感じられる。

「濃度がどれほど変化しても質を変えない物質が存在する」ということが、佐々木には信じられない。

だから、原発から漏出して健康への影響が心配されている各種の放射性物質も、どれぐらい塊になった状態で存在しているのか、どれぐらい拡散した状態で存在しているのかによって、その振る舞い自体が、質的に変化するはずだと予想している。

しかし、各種放射性物質の、そうした量に応じた質的変化を明快に論じた情報が、どうも今のところ見当たらない。

2011年3月24日木曜日

なぜか来続ける注文

企業の宣伝用インタビュー記事づくりの仕事なんて、あんな大震災があったら、もう当分はぱったり注文が来なくなるだろうと思って、さて次は何の仕事をしようかとけっこう真剣に考えかけてたのだが、震災後も思いのほか注文や問い合わせは来続けてる。

昨日も取材、今日も取材、明日も早起きして遠方まで打ち合わせ。

しばらく次の仕事探しは棚上げである。

2011年3月23日水曜日

《人間に自殺を選択させるほどの倫理の高みが持つ「否定の否定」的な意義》って

昨日の日記を読みかえして思った。《人間に自殺を選択させるほどの倫理の高みが持つ「否定の否定」的な意義》って、意味わからなすぎ。こういうわけのわからない表現しかできないっていうことは、何を書こうとしてるのか自分でもよくわかってないってことなのだが、なんとかもう少し言葉を補っておこう。40歳の誕生日を迎えた翌日から『こゝろ』を再読しはじめて、作品が発する「精神の重さ」に畏敬の念を覚えた。なぜ「精神の重さ」に畏敬の念を覚えるのか。人間の出生後健全な成長が続く限り体重が増加し続けるように、精神もまた、健全な成長を続ける限り「重さ」を増していくものなのかもしれない、と思った。にしても、作品中「先生」の最後は自殺……。人間を自殺に追いやる精神のどこが健全か? アイン・ランドの『肩をすくめるアトラス』に、次のような一節があった。《人殺しよりも卑劣な邪悪は自殺が美徳行為だと人に思い込ませることだ》("A viler evil than to murder a man, is to sell him suicide as an act of virtue."― "Atlas Shrugged", PART TWO: EITHER-OR, Chapter III: WHITE BLACKMAIL)。『こゝろ』が発する「精神の重さ」を肯定的にとらえたい気持ちと、人を自殺に追いやる精神のあり方を肯定しがたい気持ちの間で、整理が付かず、しばし考えた末の結論。これも「否定の否定」だなと。人を自殺に追いやる精神のあり方と、人をより高い生の境地に押し上げる精神のあり方は、精神のあり方としてある意味真逆ではあるが、前者のあり方を経過せずに到達しえない後者のあり方が、存在するのだろう。こう考えると少し気持ちの整理がついたというわけ。最後まで読んだ人がいたらご苦労さん。

2011年3月22日火曜日

財産と自殺

「夏目漱石の『こゝろ』は、40歳を過ぎてから読むべき小説」と高校時代、倫理の大畑哲先生に教えられ、先日『こゝろ』を再読了したものの、「なるほど、『こゝろ』は40歳を過ぎてから読むべき小説だ!」という納得感は、残念ながら、なかった。

むしろ「『こゝろ』は高校時代にこそ読んでおくべき小説」との思いを強くするばかりだったのだが。

いったいどんな意図で、大畑先生はあんなことをおっしゃったのかが、わからない。

高校生は、あんな重たい倫理についてつきつめて考えたりせず、のびのび青春を謳歌すべし、というおつもりだったのか。

40歳になった今だから『こゝろ』を読んでわかることがほとんどないというのは、自分が高校時代からろくに成長してないということの証明のようにも思われて、少々恥ずかしい

この年齢になったからこそ『こゝろ』を読んでわかったことをあえて無理矢理挙げるなら、「財産」に関することと、「自殺」に関することの二つか。

財産が人間にとって持つ意味、特に、階層的な流動性がそれほど高くない社会において恒産を奪われることの意味を、高校生当時の自分は、まだよく理解できていなかった。

人間に自殺を選択させるほどの倫理の高みが持つ「否定の否定」的な意義も、高校生当時の自分には、理解できていなかった。

2011年3月21日月曜日

キャピキャピ

本日、歯列矯正の事例広告の取材で、カメラマンを務めた。

来月から大学生になる18歳の女の子が、インタビュー対象。

取材時間は、約30分。

日常生活で、18歳前後の女の子と会話をする機会が、佐々木にはまったくない。

もちろん、コンビニやカフェやレストランで接する店員さんの中には、18歳前後の女の子もいるのだろう。

だが佐々木は、店員さんとやり取りするとき、基本的に個人的な会話はしない。

大学受験予備校に勤務していた頃は、18歳前後の生徒たちに、英文解釈や英文法を教えてもいた。

しかしその時も、生徒と個人的な会話をすることなどほとんどなかった。

道を歩いていても、電車に乗っていても、18歳前後の女の子が視界に入ってくることは、いくらでもあるはずである。

だがどういうわけか、彼女たちに特別な関心を引かれることが、これまでほとんどなかった。

で、今日の取材である。

仕事でインタビューや撮影をするときは、脳ミソから湯気が出るかっていうぐらい真剣に、対象を観察し続ける。

おそらく人生ではじめて、18歳の女の子を、30分以上にわたって、脳ミソから湯気が出るかっていうぐらい真剣に観察し続けた。

で、思った。

この年齢の女の子って、ほんっとに「キャピキャピ」してるんだなーと。

「キャピキャピ」って、音が聞こえてくるぐらい「キャピキャピ」。

女の子の「キャピキャピ」ぶりを、新鮮に感じただけではない。

「キャピキャピ」という擬態語が、あの年代の女の子たちのあり方を、あまりにも絶妙に表現していることに、改めて驚かされたのである。

いったい、誰がこんなうまい表現を考えたのかと。

女の子を観察しながら、感心しきりだった。

言葉の歴史を調べたいときによく参照する『日本国語大辞典』で、「キャピキャピ」を引いてみいたが、出ていない。

「キャピタリズム」や「キャピタルゲイン」は出ていたが、「キャピキャピ」は出ていない。

『大辞泉』には出ていた。
{1} [副](スル)騒々しいくらいくらい元気で明るく、やや落ち着きがないさま。主にハイティーンの少女について言った。「―した女の子」
{2} [形動]{1}に同じ。「―な女子大生」
『imidas』には、1987年の[新語流行語]として、「キャピキャピ・ガール」という項が立てられていた。
「キャピキャピ・ガール」:ピチピチ明るいが、中身が薄そうな女の子。彼女たちのしゃべる言語がキャピキャピ語。
ネット上では、「TVコマーシャル『ピッカピカの1年生』と言うシリーズの『ピカピカ』が、『ピカピカ』→『ピキャピキャ』と変化し、それがいつの間にか『キャピキャピ』になった」という説も紹介されていた。

もしかすると、そういう流れもあったのかもしれない。

が、それにしても、「ピカピカ」・「ピキャピキャ」と「キャピキャピ」の間には、意味的にも語感的にも、巨大な断絶がある。

「キャピキャピ」という語をはじめて使った人は、やっぱり天才だと思う。

2011年3月20日日曜日

満月

昨晩Twitterのタイムラインを眺めてたら
「今すごく月がきれいだから、外に出れる人は外に出てみなよ」
と誰かのツイートが。

外に出るとなるほど見事な満月。

過去18年間で最も月が地球に接近する日だったのだとか。

震災・原発事故関係の緊迫したツイートでタイムラインが埋めつくされる中、心なごまされたツイートだった。

どうせうまく撮れないだろ、と思いつつ、あまりにもきれいな月だったので、ついカメラと三脚を持ち出してパシャパシャ。

やっぱりうまく撮れなかった。

2011年3月19日土曜日

予想

阪神・淡路大震災が起きるまで、関西では大地震は起きないものと思い込んでいた。

(当時佐々木は関西に住んでいた)

関西で大地震が起きたこと自体が、想定の範囲外だった。

あの地震が起きた直後、日本の経済は壊滅的な打撃を受けるんじゃないかと、佐々木は予想した。

なにしろ人体にたとえれば、大動脈の一部が切れてしまったようなものなのだから。

実際の復興は、佐々木の予想の何十倍も早かった。

アメリカ同時多発テロ事件が起きるまで、高層ビルを崩壊させるようなテロが起こることなど想像もしていなかった。

あれだけの規模のテロがアメリカ国内で同時に起きたこと自体が、想定の範囲外だった。

あのテロの後も、世界中でテロが続いたのを見て、日本国内でもテロが多発するのではないかと、佐々木は予想した。

実際には、日本国内で佐々木が心配したようなテロが起きることはなかった。

世の中では、短期的には、佐々木の予想よりずっと悪いことが起こる。

ただしその後の推移は、長期的には、佐々木の予想よりずっと良いものになっていく。

そう一般化していいように思う。

今回の震災や原発事故の後の推移にも、これが当てはまることを願っている。

2011年3月18日金曜日

細胞たちを励ます

快晴。

午前中はこれが3月かっていうぐらいの寒さ。

朝、ここ数日苦しんでた仕事がようやく終わる。

息抜きに外出。

特に用もなかったのだが、午前中、地震以来はじめて、電車に乗ってみる。

暖房なし。

車内の明かりはときどきつくだけ。

新百合ケ丘で降りると、ちょうどスーパーの開店前の時刻。

やっぱり行列。

開店と同時に入っていく人々の後についていくと、特定の商品に殺到という感じではなく、みなさんそれぞれ必要なものを買われていく。

トイレットペーパーと電池は品切れだとか。

お一人さま一点限り、となってる商品が多い。

カセットボンベとか、携帯電話充電器とか。

帰宅して生協に買い物に行くと、こちらもお一人さま一点限りの商品が多い。

米とか納豆とかモヤシとか、数えきれない。

玄米は売り切れ。

どの程度の量からわからないが、おそらく事故を起こした福島の原発からは、半減期の長い放射性物質が漏出してるのだろう。

遠くにいようが風下から逃げようが海外に逃げようが、今後まわりまわって食べ物から空気から、体に取りこまれる可能性だってあるのだろう。

ただまぁ、放射性物質の漏出は今回がはじめてのことではないわけだし。

放射性物質に限らず、さまざまな有害物質がさんざん排出されまくってるわけだし。

放射性物質なんかに負けるなー、と、自分の体を構成する細胞たちを励ます。

自分の生命力が最大限に発揮されるように、生命力の消耗を最小限に抑えられるように、生活を、心の持ち方を、整える。

安全な環境で危機意識ゼロでだらだら生きるより、危険な環境で危機意識を持って生きたほうが、かえって健康に、充実した人生を生きられるってこともあるかもしれない。

と、考えてみる。

本日大きな余震はなし。

2011年3月17日木曜日

おんなこども

日中薄曇り。

午前10時前に、開店前のスーパー三和の前を通ったら、2つある入口に、それぞれ100人ほどの行列ができていた。

非常食や電池の買い出しだろうか。






福島での原発事故を受け、放射線の健康への影響について調べていて、小児、幼児、乳児、妊娠している女性の方が、成人よりも放射線に対する感受性が高いことを改めて確認した。

「おんなこども」という表現は、性差別的なニュアンスがあるため、公的な文章では使用を控えることが望ましいとされている。

朝日新聞愛読家庭で育ち、社会人になってからはずっと商業文の製作に従事してきた佐々木は、差別表現や差別思想に対して、実践的にも思想的にも、かなり回避的である。

「おんなこども」という表現や、その背後に存在する思想に対しても、佐々木はずっと回避的態度を取ってきた。

今回、原発事故に伴う放射線被曝リスクやその対応策の真剣な検討が必要になるに及び、「おんなこども」という表現の背後にある思想の、肯定的側面への認識を新たにした。

そのきかっけは、小児・乳幼児・妊婦の、放射線感受性の高さを確認したことだけではない。

自分が男で、近頃40歳になったことも、間違いなく、きっかけの一つになっている。

一昨日3月15日の時点で、ある親しい人から、万が一の事態に備えて1週間だけでも関西以西に避難することを勧められた。

佐々木が避難しなかったのは、予想される最悪の事態における放射線被曝による健康被害も、佐々木にとっては許容範囲と感じられたことが大きい。

単にめんどくさかったから、とも言えると思う。

ただそれだけではなく、佐々木のような中年男性がたとえば新幹線の一座席を確保することによって、そのぶん「おんなこども」の避難が遅れるようなことがあってはならない的な発想も、まったくないではなかった。

中年以降の男性の生命は「おんなこども」の生存のために犠牲にされてよい、という感覚は、男性がある年齢を過ぎると、思想的というよりも、むしろ生理的な感覚として、身体から生成されてくるものなのではないか。

そういうふうに、40歳になった今、感じている。

もちろん生存本能そのものが消滅するわけではないから、矛盾を背負った感覚ではあるのだが。

夜10時前、震度2の地震。

2011年3月16日水曜日

職場を守る貴さを思う計画停電3日目の日

曇りのち晴れ。日中強風。

終日自宅で仕事。

午後1時ごろ、震度3ぐらいの地震が来る。その後しばらくして震度2ぐらいの地震が数回。

午後、相模大野駅周辺へ。

営業してる店は半分ぐらい。

小田急OXは夜6時~夜9時の営業。

伊勢丹は夕方5時までの営業。

停電時間帯は下水処理に支障が出ると予想されるので、お風呂や台所の使用を控えてほしい、と市の有線放送。

水道、電気、ガス、といったインフラが使えることが、これまでの数十倍、ありがたく感じられる。

スーパーでレジを打っている人たち、トラックでスーパーやコンビニに商品を納入している人たち、カフェやレストランで接客をしている人たち、電車やバスを運転している人たち。とにかく目につくすべての働いている人たちが、これまで以上に輝いて見える。

ありがたいなぁ、この人たちが働いてくれてるおかげでこの社会が成立してるんだなぁ、という気持ちを改めて強くする。

自分の職場を守る貴さを思う。

夜10時半過ぎ、震度3強の地震。


夕方4時半ごろ、シャッターがしまった相模大野駅。駅員の方が「電車の運行再開は午後6時頃となります」とアナウンスしていた。


相模大野駅に張り出された小田急線運行時間の案内。

2011年3月15日火曜日

マイルドな被災地

曇り。

午前11時ごろ相模大野駅に行ってみると、駅職員の方が、ハンドマイクで「上り電車の運転はいった終了しました。次の運転は午後4時以降になります」とアナウンスされていた。

あちこちの店も、閉店してたり、「計画停電」の時間帯を外して営業してたり、節電のためか自動ドアを解放したままにしてたり、電気を暗くしてたり。

マイルドな被災、という感じ。

いつも行ってるスーパー(生協)は午後2時から夜6時の営業。

午後3時頃行くと、思っていたほどは欠品・売り切れはなかった。

完全に棚が空になってたのは、トイレットペーパー、水ペットボトル。

ほぼ棚が空になってたのが、インスタントラーメン類。

米は「1家庭1袋」とのアナウンスと表示が。

パン類はかなり少なめ。

野菜や果物や魚はほぼいつもどおり。

肉はいつもよりやや少ないぐらい。

どうにもならない震災被害情報や原発事故被害予測を眺めてると、ただひたすら精神が消耗していく。

仕事に戻ると、たとえ身悶えするほど難しい原稿の執筆であっても、精神の消耗が不思議なくらい収まっていく。

誰かのためなる、何かの役に立つ、という実感。

これの有無で、精神の消耗が全然違う。

ICレコーダーで震災前に自分が取材したときの音声を聞いていたら、自分の声に、自分で励まされた。

夜10時半ごろ、震度4ぐらいの地震があった。

2011年3月14日月曜日

『こゝろ』再読了

晴れのち薄曇り。

余震は1時間から数時間おき。弱い。

計画停電で、経堂以西の小田急線は終日運休。

横浜線も全線終日運休。

自宅での仕事なので影響はなし。

火曜日に予定していた打ち合わせが延期との連絡が入る。

その一方で、来週新たな取材の予定も。

近所の店は完全休業してるところがあったり、営業時間を短縮してるところがあったり。

スーパーやコンビニでティッシュペーパーとか食料を買いだめしてる人が多い。

昼前、ここ数日悩みに悩んだ原稿が、とりあえず完成。

地震情報が気になって中断していた夏目漱石『こゝろ』を、日中1時間半ほどかけて読了。

地震の前は、『こゝろ』を貫く精神の重さに、ただ畏敬の念の抱くばかりだった。

地震の被害情報や原発事故の予測情報に、自分の精神のバランスが乱れに乱れた状態で改めて『こゝろ』を読み始めると、あの重さが、浮足立っていた心を落ち着かせ、神経を安らげてくれた。

結局うちでは停電はなし。

2011年3月13日日曜日

参りかけてた神経がようやくまともな状態に戻った

終日快晴。

余震は1時間から数時間おきに。

震度3ぐらいのが1回。

あとは震度2以下。

横浜での用事を今日済ませてしまおうか、と一瞬思い立つが、まだ大きな余震が来る可能性がある、という情報を思い出し、帰宅できなくなるリスクを考え延期。

午後、歩いて町田へ。

商店街もデパートも家電量販店も、買い物客で溢れる、いつもの日曜日の町田。

なんか安心。

3時間ぐらい歩き回ってようやく、仕事、地震被害情報、その他もろもろで参りかけてた神経がまともな状態に戻った。

2011年3月12日土曜日

基本的には平常どおり

終日快晴。

引き続き自宅で仕事。

数分から1時間ぐらいの間隔で、余震が続く。

東北地方の様子がつい気になり、twitterのタイムラインだの、英米のニュースサイトだのを眺めてしまう。

で、神経が不必要に緊張する。

散歩に出ても、神経の緊張が解けきらない。

こういうときは料理。

料理してると神経が休まる。

2011年3月11日金曜日

とりあえず無事

午後3時前、相模原市南区の木造アパート2階の自宅で仕事中、最初の揺れ。

しばらくは、よくある強めの地震と気にもとめず仕事。

十秒以上同じ強さで揺れが続きおかしいと思い始めたころ、揺れがさらに強まり、アパート倒壊の危険を感じて外に避難。

電柱が揺さぶられるほど激しい揺れが、3分ほど続く。

部屋に戻ると、本棚の本が床に散乱。

机の上のパソコンモニターが床に転落。

机は15センチほど移動。

テレビ、オーディオスピーカー、その他様々なものが転倒、転落。

窓が勝手に10センチほど開く。

片づけている間も繰り返す余震。

危険を感じて外に避難するほどの揺れが、その後も3回。

20分ほどで部屋の片づけを終える。

ネットに接続し、しばらく情報収集。

仕事再開。

余震収まらず、いまひとつ集中できない。

夜9時ごろ、相模大野駅に行ってみる。

小田急線運転の再開見込が立たないとのことで、300人ほどの人が改札前で携帯をいじったり、座り込んだり。

小田急ホテルセンチュリー相模大野のエントランスホールも休憩所になっていて、100人程度の人が座り込んでいた。

駅ビルの壁にあちこちヒビが入り、タイルがはがれおちている。

小田急OXは営業中止。

スーパー三和は営業。

ファミレスはデニーズもガストも満席。

モスバーガーは営業。

マクドナルドは営業中止。

公衆電話はどれも10数人の行列。

タクシー乗り場には約150人の行列。

神奈中バスは普通に運行。

今自分にできることが思い付かず、平常通りの仕事を再開。

まだ余震おさまらない。

2011年3月10日木曜日

必要としている人々を遠ざけるメッセージ

ゆる体操とか、体をゆるめるメソッドの宣伝は、体をゆるめることの大切さを説く手段として、体が固まっていることのまずさを説くあまり、体を固めている人や、体が固まっている人を、無自覚のうちに貶めることによって、そうした人々を遠ざけてしまっていることが多い気がする。

体を固めることや、体が固まっていることが、問題を引き起こすとことは間違いないだろうが、体を固めることを、愚かさに解消するべきではない。

多数の人々が体を固めることによってはじめて実現している社会活動の恩恵を受けながら、体を固めている人々や、体を固めること自体を軽蔑的に扱う態度には、無神経、無教養、不謹慎、不人情、傲慢、忘恩、不義、厚顔を感じる。

2011年3月9日水曜日

『こゝろ』再読中

夏目漱石『こゝろ』、再読中。

電車の中で読んでいて下車駅を乗り過ごすくらい、夢中に。

作品中で「私」が「先生」からの最後の手紙を読み始めたとき、すでに「先生」がこの世を去っていたこと。

「『こゝろ』は40歳を過ぎて読むべき作品」と高校生当時の佐々木に示唆してくれた大畑先生が、佐々木が40歳になって『こゝろ』を再読している今、5ヶ月前にこの世を去られたばかりであること。

この二つが、重く重なる。

2011年3月8日火曜日

えらいこっちゃ

慢心・奢傲に陥らぬためにも、自分の長所を探すことより短所を探すことを心がけてきたが、あれやこれやと仕事を引き受けているうちに、わざわざ探すまでもなく自分の短所をつきつけられることが多くなってきた。

えらいこっちゃ。

このままだと自信喪失に陥る。

もっと自分の長所を探すことを心がけようと思った。

2011年3月7日月曜日

アーサー・ランサム全集

子供のころ夢中になった本といえば、真っ先に「アーサー・ランサム全集」が思い浮かぶ。

あれはまだ市立図書館が、市立**小学校の南隣にあったころ。

図書館の本をバーコードで管理するシステムはまだなくて、図書館の本の裏表紙の内側には必ず「貸出カード」というものが付いていたころ。

小学生だった佐々木が、**市立図書館から一番リピート借出して読んだのが、「アーサー・ランサム全集」の一連のシリーズだったと思う。

同じ本を10回以上は読んでるはず。

下手すると20回は読んでるかも。

図書館のどの棚のどのあたりに並んでいたかも、ありありと思い出せる。

「アーサー・ランサム全集」に夢中になる経験がなかったら、そもそも本に夢中になるということがない人間になっていたかも、とさえ思う。

だから大人になって、さまざまな児童文学関係者が選ぶ「児童文学ベスト10」のたぐいに、アーサー・ランサムの作品が入っていないのを見るたびに、えらくがっかりさせられていた。

アーサー・ランサムの世界って、基本的に男の子の世界なのかもしれない。

で、アーサー・ランサムの世界に夢中になるような男の子は、大人になって、児童文学に関心や関わりを持ったりなどしないものなのかもしれない。

Amazonでアーサー・ランサムの諸作品のカスタマーレビューを見てみたら、10人ぐらいのランサム・ファン達が、熱いコメントが寄せていた。

比喩でなく、ほんとに胸が熱くなった。

2011年3月6日日曜日

大畑哲先生

40歳になったらぜひやりたいと、高校3年生のとき思ったこと。

夏目漱石の『こゝろ』を再読すること。

高校3年で取った「倫理」の授業で、担当の先生が何かの折に、次のようなことをおっしゃったから。
「夏休みの読書感想文で、漱石の『こゝろ』を取り上げる人は多いのですが、私は、『こゝろ』は40歳を過ぎてから読むべき作品だと思っています」
ようやく昨日40歳になり、そういえばあの倫理の先生どうされてるかな、と思ってネットで調べてみた。

神奈川県の自由民権運動に関する著書が何冊もある先生ということは覚えていたので、「自由民権運動 神奈川」で検索したら、すぐ見つかった。

大畑哲先生。

昨年10月に、81歳で亡くなられていた。

ちょっと、泣けてきた。

佐々木が大畑先生の授業を受けた当時、先生は59歳。

教科書は使わず、『日本書紀』、内村鑑三『デンマルク国の話』 、エンゲルス『空想から科学へ』といった文庫本の輪読や、チャップリン映画のビデオ鑑賞などが、授業だった。

大畑先生の授業スタイルは、ある意味、「生徒一人一人と向き合う」スタイルの対極だった。

いつもニコニコ微笑みながら、目の前にいる「現実の生徒」に向かってというよりも、生徒たちの顔より少し高いところを見つめながら、「あるべき生徒像」に向かって語りかけるような授業スタイルだった。

我々生徒を指す二人称として、よく「諸君」という言葉を使われていたように記憶している。

その授業スタイルが、当時の佐々木には心地よかった。

その心地よさは、今思えば、大畑先生が語りかけている「あるべき生徒像」に自分を合わせようとすることが、自然と、自分の成長意欲に対する刺激になっていたがゆえの心地よさではなかったかと思う。

高校生の時点で既に好きな作品の一つだった『こゝろ』が、40歳を過ぎると、どのように読めるようになるのだろうか? という期待を持って生き続けてきたこと自体が、自分の成長を促進してきたようにも思う。

学生・生徒に対する教育者の真摯な関わりは、現実にその後の学生・生徒の人生を20年以上にわたって良き方向に導き得るのだということの一つの証左として、ここに大畑先生の思い出を記録しておく。

2011年3月5日土曜日

昇り階段

今日、40歳になった。

人生的な意味での自分の行く手が、視覚的なイメージとして目の前に浮かぶことがある。

果てしないキレットとか。

立ちふさがる絶壁とか。

暗闇とか。

40歳になった今日、突然目の前に現れたイメージは、まっすぐに天の果てまで続く昇り階段。

どこまでも駆け昇れ、よけいなものはもう捨てていけ、という無意識の声が聞こえる。

捨てていくべきものの具体像が、次々に思い浮かぶ。

2011年3月4日金曜日

嫌われるのもいい経験

子供に好かれる人を尊敬する。

自分がその対極の人間だから。

学生時代、大学の先輩から頼まれ、地域の小学校4年生~中学校3年生の子供たち10数人で構成される少年団の、指導員を引き受けたことがあった。

少年団と聞いて、男の子の集団を想像したので、年齢が違っても男同士話は通じるだろう、と気軽に引き受けた。

実際に初めてその少年団の集まり行ってみたら、全員、女の子だった。

女きょうだいを持たない佐々木は、女の子という人種が死ぬほど苦手である。

その苦手意識が伝わったこともあるのだろう。

少年団の女の子たちから、佐々木は思いっきり嫌われた。

人ってここまで他人から嫌われるものかっていうぐらい、嫌われた。

指導員になって約半年後、近隣の6つか7つぐらいの少年団が集まる合同サマーキャンプで、何かのゲームのチームを作るために、参加した100人弱の子供達(男女比約3対7)に、20人弱いる指導員の中から、好きな指導員を1人選んでその前に並ばせるイベントがあった。

1人の子供からも選ばれなかった指導員が2人いて、そのうち1人は佐々木だった。

その後もしばらくは指導員を続けたが、さすがにこれはかえって迷惑が掛かると思い始め、1年も持たずに辞任させてもらった。

やめ方もかなりひどかった。

大人同士は相手に多少嫌なところがあっても我慢するのが美徳とされているから、自分の言動や人格のどういうところが嫌われているか、大人になるとなかなか気づきにくい。

少年団には迷惑をかけてしまったものの、子供たちから何の隠し立てもなく嫌ってもらえたことは、実に得難い経験だった。

2011年3月3日木曜日

どうやらなんとか成長中

自分が成長してる時は成長が止まってる人といるのが辛くなりがちで、自分の成長が止まってる時は成長してる人といるのが辛くなりがち。

自分の身の回りを見渡してこれだけの勢いで成長してる人ってなかなかいないよっていう人と今日会食して、自分が辛くなるかならないか、事前にちょっと心配だったのだが、辛くならなくて嬉しかった。

単純にそういう人と会食できて嬉しかったというのとは別に。

2011年3月2日水曜日

祈らなくなった私

自分の不用意な言動が他人に対する侮辱になっていたことに気づくたびに、現実によって満たされない自分の誇りを他人を貶めることによって満たそうとする自分の弱さ未熟さを突きつけられ、慙愧に堪えず、その弱さ未熟さのよってきたるところである自分の心身のひどいゆがみを正さないことには生きてる資格がないくらいの思いに駆られ、一人になった時、ただ体の中から自然に湧き起こる動作として、両手を胸の前で合わせて目をぎゅっとつぶり、自分の心身のゆがみの対象化および矯正と自分の行為に対する反省を、同時並行的にかつ直接的同一性として行なっていた時期があった。いつ頃からかと言えばたぶん15年ぐらい前から。いつ頃までだったかと言えばたぶん3年前ぐらいまで。既に唯物論を選択した後だったから対象は神ではなかったが、対象が神でないことを除けば、外形的にも内面的にも、あれは「祈り」と呼んでよい行為だったと思う。気がつくと、あの「祈り」をいつのまにかしなくなっていた。それは自分の心身のゆがみがだいぶ正されてきたからなのか。自分が倫理的に鈍感になってきたからなのか。たぶん両方だと思う。

2011年3月1日火曜日

超困難超苦手分野原稿納品

昨日の超困難超苦手分野原稿、昨晩中に完成させて納品。

ベストは尽くした。

自分に欠けてる能力もいろいろわかった。

それぞれこれからの課題。
 
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