2010年11月30日火曜日

「ストレッチ」という言葉について

筋繊維は、収縮時と弛緩時とで、その質が変わる。

この点、たとえばゴムひもなどとは違う。

たしかにゴムひもは、引っ張れば伸びる。

引っ張れるのをやめれば縮む。

しかしゴムひも自体の質が変化するわけではない。

筋繊維は、弛緩時に、どこまで柔らかくなり得るのだろう。

高岡英夫先生の著作のどこかに、筋繊維は、つきたての餅のように柔らかくなり得る、という趣旨のことが書いてあったと思う。

現実に可能かどうかはともかく、「弛緩時につきたての餅のようになる筋肉」というのは、目指すべき理想状態として、適切であるように思われる。

つきたての餅は、つまんで持ち上げれば、それ自身の重みで、どこまでも伸びていく。

その伸び方は、たとえばゴムひもを引っ張って伸ばしたときの伸び方とは、まったく違うものだ。

筋繊維を、弛緩時に、つきたての餅のような伸び方をするような質のものに変えていく努力。

筋繊維を、ゴムひものように伸ばしていく努力。

この二つの努力は、まったく違う。

むしろ、相反する努力なのではないか。

つまり、筋繊維をゴムひものように伸ばそうとすればするほど、筋繊維が弛緩時につきたての餅のように柔らかくなる方向から遠ざかっていってしまうのではないか。

「ストレッチ」という言葉を聞いて、多くの人が想像してしまうのは、筋繊維をゴムひものように伸ばしていく努力だ。

だから、身体運動の指導者たちは、関節の可動域を広げる運動に「ストレッチ」という言葉を当てることに対して、十分に慎重でなければならないと、佐々木は思っている。

2010年11月29日月曜日

頭の回転、半減中

先々週末に風邪をひいてから、体調も、頭の回転も、低下している。

予定通り、予想通りに仕事が進んでくれれば、問題なく対応できる程度ではあるのだが、残念ながら、予定通り、予想通りに進む仕事は一つもない。

予定外、予想外の事態が起きたとき、凡庸な対応しかできないのがもどかしい。

運良くその都度、自分の対応の凡庸さを打ち消してくれる人や状況に助けられてはいるが。

2010年11月28日日曜日

筋肉の質感

骨の質感。

髪の質感。

爪の質感。

こういったものが一様かつ一定なものとして思い浮かべられるのはよい。

だが筋肉の質感が一様かつ一定なものとして思い浮かべられる状況というのは、かなりまずいのではないか。

高岡英夫先生の『「ゆるめる」身体学』に、オリンピックで金メダルを取る選手の筋肉について、弛緩しているときはマシュマロ以上にやわらかく、収縮すると瞬時に鋼鉄のように硬くなる》という描写があった。

筋肉が弛緩したときと収縮したときの、質感の差。

この差の可能性を、日常的にもっと大きく意識しておくことが大事なのではないかと、最近思った。

弛緩しているときはマシュマロ以上にやわらかく。

収縮するときは鋼鉄のように硬く。

大きな筋肉だけでなく、背骨周り、手首足首周りなどの微小な筋肉群についても。

2010年11月27日土曜日

ジャンル評価の上げ下げ

先日インタビューさせていただいたあるラーメン店チェーン幹部の方が、自チェーン店の近所においしいラーメン店ができると助かる、その近所一帯がおいしいラーメン屋のある場所と認知されてお客が集まるから、自チェーン店の近所にまずいラーメン店ができると困る、その近所一帯がまずいラーメン屋のある場所と認知されてお客が来なくなるから、という趣旨のことをおっしゃっていた。

それを聞いて改めて思ったこと。

●自分がいい仕事をすれば、同じ仕事をしている他の人のためにもなる

●自分がへたな仕事をすれば、同じ仕事をしている他の人にも迷惑をかける

●同じ仕事をしている他の人がうまくなるのを自分が助けられれば、自分のためにもなる

2010年11月26日金曜日

イライラ

ここ数日他人のイライラにぶつかったり自分がイライラしたりすることが続いたのは年末が近づいてきて忙しい人が増えてきたせいなのか。イライラしたくなる状況に遭遇したときほど心身をゆったりさせることを心がけようと思った。

2010年11月25日木曜日

うー

今日1日だけで仕事のオファーが7件。

ご指定のスケジュールでお引き受けできたのが1件

スケジュールは当方任せということでお引き受けできたのが3件。

ご指定のスケジュールではお引き受けできず別の日程を提案したのが2件。

同じくご指定のスケジュールではお引き受けできずお断りしたのが1件。

うーもうしわけない。

2010年11月24日水曜日

戦場の青空

トルストイの『戦争と平和』、まだまだ読破中。

文庫で4巻あるうちの、3巻目の途中。

後半に入って、トルストイの(訳者の?)筆の調子がどんどんよくなってきた気がする。

トルストイは、人間分析より、歴史分析のほうが得意なのではないか。

少なくとも佐々木には、トルストイの人間分析よりも歴史分析のほうが、ずっと面白い。

ここまで読み進めた時点で、妙に印象に残っているシーンがある。

1巻目の、最初の戦場の描写がはじまったあたり、ニコライ・ロストフという登場人物が、敵の砲弾に倒れた軽騎兵が担架で運ばれていくのを直視できずに、青空を見上げるところ。
《ニコライ・ロストフは顔をそむけて、まるで何かをさがしもとめるように、遠くを、ドナウ河の流れを、空を、太陽をながめはじめた。空のなんと美しく見えたことか、なんと淡青く澄んで、しずかで、そして深い空だろう!》(新潮文庫『戦争と平和』(一)工藤精一郎訳、345ページ)
フィクション、ノンフィクションを問わず、戦争を扱った作品に接するたびに、もし自分が兵士として戦場に放り込まれたら? という想像をあれこれ重ねてきた。

『戦争と平和』のこのシーンは、佐々木にとっては、非常にリアリティが感じられた。

たぶん佐々木は、もしも一兵卒または民間人として戦場に放り込まれることがあったら、状況が許す限り、青空や山河を眺め続けていると思う。

2010年11月23日火曜日

概念の消滅

佐々木が子供のころ、バスにはクーラーが付いていないのが当たり前だったから、クーラーが付いたバスには「冷房車」というステッカーが貼ってあった。

電車は、佐々木がものごころついたころには、確かクーラー付きとクーラーなしが混在状態。「冷房車」というステッカーが貼ってあったかどうかは忘れたが、夏、クーラー付きの電車が来ると「やったー冷房車だー」と嬉しかったことは、鮮明に覚えている。

バスにも電車にもクーラーが付くのが当たり前になると、「冷房車」という言葉は消滅した。

佐々木が生まれる前、鉄道の黎明期には、「暖房車」なんていう言葉もあったらしい。暖房が入っていない列車が当たり前に走っていたということだ。

概念は、それに対応する事物の消滅によって消滅するだけでなく、それに対応する事物の遍在化、もしくはその対立概念に対応する事物の消滅によっても、消滅する。

今後、同じようにして消える言葉ってなんだろう。

「ブロードバンド」。これはもう消えた。

「地上波デジタル」。これもアナログ停波で消える。

「スマートフォン」。携帯電話が全部スマートフォンになったら消える。

「電気自動車」。ガソリン自動車が消えたら消える。

「異常気象」。20年も異常気象だったら異常じゃなくなる。

まだありそう。

2010年11月22日月曜日

羽田

羽田空港の、あのどでかい敷地に、何十機という旅客機がひしめき合って、次から次へと離着陸する光景や、羽田から離陸した飛行機から見下ろす、東京湾を埋めつくさんばかりの貨物船の群れを見ていると、人間という生き物が相互交流に注ぐエネルギーのとほうもなさに、感動する。

世界一の高層ビルの高さよりも、世界一の海底トンネルの長さよりも、人間の総体としての交通量のほうが、よっぽど感動的だと思う。

2010年11月21日日曜日

風邪をひいた

昨日から風邪。

声がかすれるほどではないが、喉の奥が腫れて唾がのみ込みにくい。

喉のその部分に対応しているのか、脳の後ろの下のほうの真ん中付近も腫れぼったい。

で、脳全体、体全体が、なんとなく不調。

今日はほとんど一日だらだら寝ていた。

夜には回復しはじめて、またちょっと仕事。

2010年11月20日土曜日

指導者が発する問いの傾向

指導者は、「発する問いの傾向」によって、おおざっぱに次の2種類に分けられる。

●自分が答えを知っている(と思っている)問いを発する傾向が強い指導者

●自分を含めて、誰も答えを知らない問いを発する傾向が強い指導者

前者の指導者の周囲には、「答えを教えて欲しい」タイプの人々が多く集まる。

後者の指導者の周囲には、「答えを自分で考えたい」タイプの人々が多く集まる。

前者の指導者が、自分の周囲に集まる人々に対して、「みんな自分の頭で考えようとしない」と怒っている光景を、目にすることがある。

滑稽、とまではいかないにせよ、かなり微笑ましい光景だと思う。

2010年11月19日金曜日

札幌へ

取材の仕事で札幌へ。

日中の現地の最低気温は氷点下2度、との予報を前日に目にして、靴下を3重に、ズボン下を2重にし、マフラーも手袋も用意して乗り込んだのだが、行ってみれば日中は11度まで気温が上がり、相模原とたいして変わらぬ気温。

午前中1件、午後1件、それぞれ1時間強のインタビュー。

羽田朝6時50分発の飛行機で出かけ、新千歳夕方5時半発の飛行機で日帰りしてきた。

これまで仕事で出かけた場所としては、今回が一番遠い。

全国を、世界を、と股にかけて活躍しているビジネスマン・ビジネスウーマンのみなさんなら、東京から札幌への出張など日常茶飯時の部類なのだろうが、せいぜい神奈川と東京の都県境を股にかける程度でちまちま仕事をしてきた佐々木としては、わざわざ羽田から札幌まで飛行機に乗せてまで佐々木に仕事をさせよう、と考える企業さんが出てきたというだけでも、感慨深い。


お約束の時計台前で自分撮り。

2010年11月18日木曜日

自分が創造性を発揮する能力と他人に創造性を発揮させる能力

自分が創造性を発揮する能力。

他人に創造性を発揮させる能力。

この二つは互いに重なる部分もあるが、正反対の部分もある。

自分自身の創造性が高い人は、えてして、自分が思い付いたすばらしいアイデアを、他人に理解させ実行させることに夢中になりがちである。

これは相手から見れば、他人が思い付いたアイデアを理解し実行することに専念するよう、強いられることと同じである。

つまり創造性を発揮することの真逆である。

だから自分自身の創造性は高くても、他人に創造性を発揮させる能力は低い、という人は多い。

もちろん、自分自身の創造性も高く、他人に創造性を発揮させる能力も高い、という人もいる。

そういう人はたぶん、どこかで自分の中の葛藤を克服して、そのような両立を体現するに至ったのだと思う。

ところで、「発せられた問いに対する答えを見つける能力」と、「まだ誰にも答えがわからない問いを発する能力」というのも、互いにかなり違った能力である。

「自分が創造性を発揮する能力」が高い人は、「発せられた問いに対する答えを見つける能力」も高い気がする。

「他人に創造性を発揮させる能力」が高い人は、「まだ誰にも答えがわからない問いを発する能力」も高い気がする。

ついでにもう一つ。

「自分が創造性を発揮する能力」が高い人は、他人に「消費の喜び」を与える。

「他人に創造性を発揮させる能力」が高い人は、他人に「生産の喜び」を与える。

2010年11月17日水曜日

豊かになるための手段としての暴力や脅迫の有効性の低下

自分が豊かになるための手段としての、他人に対する暴力や脅迫の有効性が、相対的に低下したこと。

これもまた、単純労働の機械化が進んだことによって、「自分が考えた通りに他人を働かせる能力」が高い人間よりも、「他人をして自ら創造的に働かせる能力」が高い人間の方が、より豊かになれるようになって、よかったことの一つ。

インディアスの破壊についての簡潔な報告』で紹介されているような残虐行為が、かつて常態だったのは、人間が今よりも残虐だったから、というよりむしろ、暴力や脅迫によって他人を労働させることによって豊かになることが現実に可能だったから、と言えるのではないか。

「他人をして自ら創造的に働かせる能力」が高い人間の方がより豊かになれるような時代になってしまえば、そもそも暴力や脅迫によって他人を労働させようとする動機自体が消滅していく。

こういうのを進歩というのだと思う。

2010年11月16日火曜日

単純労働の機械化の積極面

単純労働の機械化によってもたらされた、最大の積極面の一つは、「自分が考えた通りに他人を働かせる能力」が高い人間よりも、「他人をして自ら創造的に働かせる能力」が高い人間の方が、より豊かになれるようになったことだと思う。

「自分が考えた通りに他人を働かせる能力」が高い人間と働くより、「他人をして自ら創造的に働かせる能力」が高い人間と働いた方が、単純に、気分がいい。

2010年11月15日月曜日

結果と方法

自分の脳の回転が最高潮に高まっているときは、たとえば文章を読むにしても、文字の海に脳をさらすだけで、文字から(「意味」ではなく)「像」(五感情像)が勝手に立ち上がってくるような感覚がある。

だからといって、「字面に自分の脳をさらして像を立ち上げる」のを「速読の方法」と称してよいものでもないだろう。

単なる「結果の叙述」に過ぎないものを、「方法」と称している例が、世の中には少なくない気がする。

2010年11月14日日曜日

商品の海

地球に誕生した生命体の活動によって、地球の表面が水で浸されていった結果、生命体がそのままの形態では地球との相互浸透を保てなくなり、新しい段階の生命体へと進化した、というくだりは、『看護のための「いのちの歴史」の物語』(本田克也・加藤幸信・浅野昌充・神庭純子著)の中でも、好きなところの一つ。

この生命体と水との関係って、人間と商品の関係にも当てはまるのではないか、と思っている。

人間と地球との相互浸透の維持を危うくするほどの、商品の海。

この海の中で地球との相互浸透を保つには、人間自身が、新しい形の認識や行動を生み出していくほかない。

生命体が自らの生存を危うくするほど大量の水を生み出した事実を、悪意や愚かさで説明してもしかたがないように、人間が自らの生存を危うくするほど大量の商品を生み出している事実を、悪意や愚かさで説明してもしかたがないと思う。

生命が海の誕生を進化の契機としたように、人間も商品の海の誕生を進化の契機にすればいいのではないか、と。

2010年11月13日土曜日

『脳の右側で描け』使用前・使用後

絵を描くのが苦手、という人は、ベティ・エドワーズの『脳の右側で描け』(北村孝一訳)という本を買って、この本で紹介されているワークを実際にやってみたほうがいいと思う。

絵を描くのが苦手、ということは、単に絵を描く能力がないだけではない。

絵を描くのを苦手たらしめるような脳の使い方を、自分がしている、ということでもある。

この本で紹介されているワークをやると、そのことがよくわかる。

別に絵を描くのが得意になる必要はない、という人にとっても、自分の脳の使い方のクセを知ることには、大きな価値があると思う。

この本の問題点は、翻訳が相当ぎこちなくて、書かれてある説明文を理解するのに、やたらと苦労させられることだ。

まぁでも、それも脳の訓練だと思えばいい。

以下に、3年前に佐々木がこの本に従って描いた絵を列挙する。

■2008年2月13日 この本で紹介されている方法を学ぶ前に、鏡を見ながら描いた自画像。似てねー。気持ち悪ぃー。


■同じく2008年2月13日 この本で紹介されている方法を学ぶ前に、記憶だけを頼りに描いた友人の顔。似てないっ。しょぼいっ。


■同じく2008年2月13日 この本で紹介されている方法を学ぶ前に描いた、自分の左手。時間を掛けて真剣に描いたのだが、貧相。


■同じく2008年2月13日 この本で紹介されている方法に従って模写した絵。自分ではけっこう感動した。


■2008年2月20日 この本で紹介されている方法に従って模写した絵。


■2008年3月26日 この本で紹介されている方法に従って描いた、自分の左手。


■2008年4月16日 この本で紹介されている方法に従って描いた、ハサミを握る自分の左手。


■2008年4月30日 この本で紹介されている方法に従って描いた、仕事用の椅子。

2010年11月12日金曜日

自慢

ある大企業の営業部の課長さんが、先日、佐々木が顧客インタビューするのを横で見ていて、佐々木の質問力の高さにびっくりして、会社に帰ってから「君たちもあの人(=佐々木)のようなヒアリングができるようになりなさい」と課の人たちを叱ったんだそーな。

2010年11月11日木曜日

She「ピー」you.

依頼される仕事、あるいは期待される仕事を、こなしきれないのがもどかしい。

自分の頭が、もっと速く回転してほしいと真剣に思う。

今はウンウン考えてる時間が長すぎる。

コンピューターのCPUの進化速度並のペースで、脳の処理能力を上げたい。

あと今日のタイトルは妙にエロい。

2010年11月10日水曜日

空気が見える

3年ほど前に『脳の右側で描け』(ベティ・エドワーズ著)という本を買って、そこで紹介されていた絵の描き方の訓練法を、しばらく実践したことがあった。

著者ベティ・エドワーズの言う「右脳(=非言語的、総合的、具体的、非時間的、直観的)モード」と「左脳(=言語的、分析的、象徴的、抽象的、時間的、理性的)モード」の区別で言えば、「左脳モード」で物事を見る傾向が強かった佐々木にとって、この本の訓練法で「右脳モード」を鍛えた結果見えてくるようになった世界は、非常に新鮮だった。

同じ頃、仕事上の必要に迫られて「売れる見せ方」を学ばなければならなくなり、広告やら店やらでの商品の見せ方をずいぶん研究したが、その研究にあたっても、「右脳モード」での見方は役に立った。

今でもデパートなどに行くと、商品よりも、むしろ商品の背景となっている棚やケースや壁面に目を凝らしてしまう。

背景への注目。

これは売り手が本来期待している見方ではない。

売り手が期待するように商品に注目して見るときと、商品の背景に注目して見るときとで、ものの見方がガラリと変わること。

そのこと自体に、やみつきになる楽しさがある。

で、今日も取材で都内に出たついでにデパートに立ち寄り、商品の背景を眺めて楽しんでいるうちに、ふと、商品の背景ではなく、商品の手前に存在する空気を見たらどうなるだろう? とひらめいた。

空気って、見えないものの代名詞なのに。

試してみて驚いたのだが、空気って、「見える」のだ。

本当に。

文字通り空気が「見える」わけではないのだが、「空気を見る」努力をする前とした後とでは、目の前の光景が、まったく違って見える。

純生理学的に、眼筋が活性化するせいもあると思う。

距離感の把握が緻密になるぶん、物がより立体的に見えるようになるせいもあると思う。

まぁなにしろ驚いた。

2010年11月9日火曜日

オリオン座

冬の楽しみの一つは、星がよく見えるようになること。

佐々木が住む相模原市南区は典型的な市街地で、特に星空がきれいなわけではないが、それでもこの季節になると、オリオン座をはじめとする有名星座がはっきりと夜空に浮かぶようになる。

オリオン座は、古代ギリシャ時代の昔から、「オリオン座」と呼ばれていた。

紀元前9世紀に書かれたホメロスの二大叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』には、既にオリオン座をはじめとする星座への言及がある。

そう百科事典にあったので、古典読破計画で読んだ『イリアス』を読み返してみた。

あったあった。

アキレウスの母テティスから依頼されて、火と鍛冶の神ヘパイストスが、アキレウスのために作った盾の描写に、オリオン座が登場していた。
《最初に大きく頑丈な盾を、全面に精巧な細工を施して作った。まわりには輝きわたる見事な三重の厚さの縁をめぐらし、これから銀の提げ紐を垂らす。盾の本体は五重の造りで、意匠を凝らした装飾が施してある。
 そこには大地あり天空あり海がある。疲れを知らぬ陽があり、満ちゆく月、また天空を彩る星座がすべて描かれている--すばる(プレイアデス)に雨星(ヒュアデス)、さらに力強いオリオン、また「熊」座、これは別の名を「車」座ともいい、同じ場所を廻りオリオンをじっと窺っている。この星のみはオケアノスの流れに浸かることがない。》(『イリアス』「第十八歌」松平千秋訳)
3千年も昔のギリシャ人と同じ星の配列、同じ巨人のイメージを、自分が今見ていると思うと、えらく感動する。

2010年11月8日月曜日

魂の告白

NHKでやっていた「ER緊急救命室」というアメリカ製テレビドラマ。

もううろ覚えなのだが、たしか15年ぐらい前に放送された回で、ジュリアナ・マルグリーズ演じるキャロル・ハサウェイ看護婦長が、緊急救命室に搬送されてきた15歳ぐらいの黒人少年から何かの秘密を打ち明けられ、同僚看護婦から、その秘密を警察だかに通報するように勧められたとき、自分はその少年の信頼を裏切ることはできない、という趣旨の反論をする場面があった。

元の英語の台詞は覚えていないのだが、そのときの日本語字幕に「だって魂の告白を受けたのよ」とあったのが、忘れられない。

「魂の告白」という言葉自体が、それこそ佐々木の魂に打ち込まれてしまって、他人から受けた「魂の告白」をあだやおろそかに扱わせない規範と化している。

企業からの依頼で顧客インタビューに行くと、取材先の顧客が、自分の人生の重大事を語り始めることがある。

拝聴しつつ、大切な話を聞かせてもらってありがたいなぁ思うと同時に、これはまとめるのが大変だなぁと思う。

記事の性格上、取材先の人生だの信念だのに割ける分量など、わずかなものだ。

そのわずかな分量で、取材先の思いの全重量を発散させなければならない。

そういう文章を書くのは、とんでもなく時間がかかる。

意気に感じるものがなければやってられない。

2010年11月7日日曜日

『物理学とは何だろうか』を読んだ

ジャーナリストの日垣隆さんが主宰する古典読書会、先月の課題は朝永振一郎著『物理学とは何だろうか』()。

南郷継正先生が先日出版された全集第九巻(「武道講義 武道と認識の理論Ⅰ」)で、次のようなことをお書きになっていた。
《例えば、法学の大家として何十年にもわたって学界に君臨し続けた東京帝国大学のある銀時計卒業者が、有斐閣の「法律学全集」のトップにその名を連ねながら、十年かかってようやくその学問レベルの一般論を体系的書としてものにしたものの、その内容たるや「法とは何か」を文学的レベルで(つまり、二百年もの昔のヘーゲルの法哲学レベルですら)、何等説ききることができなかったという悲しい現実、あるいは世界有数といわれたある物理学者が、岩波新書でこれまた遂に未完として恥を曝している今日をみただけでも、学問の確立がいかに大難関かの一端を垣間見てとれるというものです。》(167頁)
この「世界有数といわれたある物理学者」が「遂に未完として恥を曝している」とされる岩波新書こそ、おそらくは本書『物理学とは何だろうか』だろう。

自分が学問を確立できたわけでもないのに、南郷先生の尻馬に乗って「朝永の論には体系性というものが欠落している」等と批判するのも、あまり格好のよいことには思えない。

なので、努めて著者に対して好意的に、著者が読者に対して望んだであろう態度をもって、本書を読んだ。

結果、予想以上の知的興奮を覚えながら、本書を読むことができた。

佐々木の記憶が正しければ、この本、たしか高校時代に一度読んでいる。

当時、学問とか、学者とか、岩波新書とか、そういった諸々に対して自分が抱いていた、はるか雲の上を見上げるような憧れの気持ちを、懐かしく思い出した。

あの頃から20年以上も経ち、学問とか学者とか岩波新書とかに対して、当時のような憧れの念を抱くことは、もうなくなった。

しかし今回、上記のような態度で本書を再読して、そうした憧れとは別の思いをもって、本書の世界に耽溺することができた。

その思いを一言で言えば、仕事でぶつかった問題を解決していかなければならない者としての共感、とでもなるかと思う。

科学史上の偉人たちの仕事と、自分が日々取り組んでいるチマチマとした仕事とを、同じ「仕事」という言葉で捉えて、彼ら偉人たちに共感を覚えるなど、おこがましいことだとは思うのだが……。

日垣さんがどこかで、仕事と趣味を分けるのは、依頼と締切の存在だ、といったようなことを書かれていた。

この定義を読んだときは、なるほどと深く納得させられたのだが、「依頼と締切」では定義しきれない側面というのも、やはり仕事にはある。

問題の解決とか、社会への貢献とか。

ケプラーもニュートンも「依頼と締切」に従って宇宙の謎を解いたわけではないだろうが、それでも「ケプラーの仕事」とか「ニュートンの仕事」という言い方をするのは、仕事一般に、そういった問題解決や社会貢献の側面があるからなのだろう。

で、自分の仕事に含まれる問題解決や社会貢献の側面など、ケプラーやニュートンの仕事と比べれば無いも同然であるにせよ、やはり仕事に取り組むモチベーションの部分では、そういう問題解決や社会貢献の側面が大きな要因になっていて、だからこそ、この『物理学とは何だろうか』を読んで、おこがましくも彼ら偉人たちに、共感などしてしまったのだろう。

それでまた著者が、彼ら偉人たちの問題解決への試行錯誤や、結果としての人類への知的貢献を、実にビビッドに描いてる。

もちろん、著者自身が先端研究者として物理学上の難問を解き、人類への知的貢献を果たしたからこそ、ではあるのだろうが、それだけでは、あそこまでビビッドに科学者達の頭の中を描写することはできなかったはず。

あの描写力もまた、著者ならではの才能だろう。

ただ、ケプラー、ガリレオ、ニュートンと並べたとき、なぜかニュートンについてだけは、「理論を導く過程」をほとんど省いて、ほとんど「理論の解説」に終始しているのは、どういうわけだろうか。

ニュートンの仕事が数学的であることと、何か関係があるのか。

ニュートンの思考過程を辿る資料が、残っていないのか。

ケプラーとガリレオのところでは、かなり綿密に彼らの試行錯誤の過程をたどっているのだが。

中でも自分の思考に引き寄せて共感してしまったのが、例の「円への執着」である。

こういう図式的な先入観って、よく現実認識を誤らせるよな~、と。

人間同士の関係でも、人間とお金の関係でも、二者間の距離が離れ始めると関係自体が解消されていかのように思い込んで、二者間の距離が一定の法則に従って離れたり縮んだりしながら、関係が続いていく、ということが見抜けなかったり。

本書に登場する科学者達の中で、佐々木がダントツですごいと思ったのは、サディ・カルノーだった。

カルノーの天才性は、問題の設定の仕方自体に発揮されている。

乱暴な言い方をしてしまうと、カルノー以外の科学者達の天才性は、問題の解決の仕方において発揮されているに過ぎない。

カルノーは、本書に登場する科学者達の中で、最も原理的なレベルで問題を設定できた人である。

カルノー以外の科学者達は、カルノーに比べれば、実体的なレベルで問題を設定しているに過ぎない。

なんてことを思った。

そりゃ、惑星の運動法則って、スケールの大きな話だ。

でも惑星の運動って、実際に目に見えてる。

分子や原子の構造となると直接目には見えないが、やはり実体の構造を問題にしていることに変わりはない。

これに対してカルノーが設定した問題は、「熱から取り出せる動力には原理的な限界があるのか」。

こりゃすごい問題設定の仕方だ。

こういうのを、原理的に問題を設定する、というのだと思った。

しかもこれだけ原理的な問題について考察する論文を、誰もが経験的に知っている蒸気機関の話から説き起こしている。
《熱は運動の原因となることかでき,しかもそれが非常に大きな動力をもつことを知らぬ人はない.今日ひろく普及している蒸気機関が,そのことを誰の目にも明らかに証明している.
 熱こそ,地球上でわれわれの目にはいる大規模な運動の原因となるものである.大気の攪乱,雲の上昇,降雨,その他もろもろの大気現象,そしてまた,地球の表面に溝を掘りながら進む水の流れ--人間はそのごく一部を利用しているにすぎない--などは熱によるものである.地震や火山の爆発の原因もまた熱にある.
 われわれは,この莫大な熱の貯えのなかから必要な動力をとりだすことができる.自然は,いたるところに燃料を供給して,いついかなるところでも熱とその動力を生じさせることを可能にしてくれている.この力を発生させて,われわれの使用に供することが,火力機関の目的である.
 この機関は,はかりしれない重要性をもち,日に日に普及しているだけに,その研究はまことに興味ある課題である.それは文明世界に大変革をもたらすべく運命づけられているようにみえる.火力機関はすでに,鉱山を採掘し,船を動かし,港や河をさらえ,鉄をきたえ,木を削り,穀物をひき,糸をつむぎ布を織り,きわめて重い積荷を運搬する等々のことをしている.火力機関はおそらくそのうちに,普遍的な原動力となり,畜力や水の落下や風力よりも好まれるようになるであろう.それは畜力にくらべて経済的だという長所をもつ.また水の落下や風力にくらべると,いつどこででも使用でき,けっして働きを中断しないという長所がある.
 ひとたび火力機関が十分改良されて,その建造および燃料の費用が低減されるならば,火力機関は望ましい諸性質をすべて兼ねそなえることになり,その全体を予見しがたいほどの産業の飛躍的発展をもたらすであろう.》(サヂ・カルノー「火の動力についての考察」1824年、広重徹訳、冒頭部分)
論述力もすごい。

これだけ天才的な問題設定力と論述力がありながら、生前は誰からもその仕事の価値が理解されなかったとは……。

心中察するに余りあるとはこのことだ。

上巻178ページで、ウィリアム・トムソンが、発表後20年埋もれていたカルノーの著書を読んで「その内容に驚きかつ圧倒された」とあるのを読んだときは、そうだよねぇ、そうだよねぇ、こいつ(=カルノー)天才だよねぇ! と、心底嬉しくなってしまった。

ぜひカルノーの著書も読んでみたいと思い、『カルノー・熱機関の研究』(みすず書房)をAmazonで検索したところ、絶版、売り切れ。

ネット古書店で1冊だけ3,500円で売られていたのを入手。

まだパラパラとめくってみただけだが、本当にわくわくさせられる内容だ。

カルノーに出会えただけでも、『物理学とは何だろうか』を再読した甲斐があった。

2010年11月6日土曜日

秋なのにナッツ

ナッツ類をやたらと食べる。

140グラム入りの皮むきピーナツの袋や、130グラム入りの皮むきクルミの袋が、数日から1週間で空になっていく。

特に食後、脳が強烈にナッツ類を欲しがる感じがする。

袋を片手にボリボリ食べながら、ちょっと食べ過ぎなんじゃないか、中毒なんじゃないか、と自分で思う。

今日はタイトルオチなので、これぐらいにしておく。

2010年11月5日金曜日

あなたと私のどちらがいつ死んでも

インダストリアルデザイナーの山中俊治さんの「アイデアは二律背反を疑うところから始まる」という言葉が好きだ。

自分の未来に希望を持ち続けること。簡単に言えば、ずっと生きていたいと思うこと。

仮に自分の人生が今この瞬間に終わるとしても、自分の人生は、これまででも十分満足のいくものだったと考えること。簡単に言えば、もういつ死んでもいいと思うこと。

この二つは、論理的に背反するようにも思われる。

だがこの背反を両立させることにこそ、幸福はあるのではないか。

人との関係も同じだ。

相手との関係の未来に希望を持ち続けること。簡単に言えば、お互いずっと生き続けて、関係を深めていくことを願うこと。

仮に今この瞬間にどちらの人生が終わりを迎えても、二人の関係は、これまででも十分満足のいくものだったと考えること。簡単に言えば、もうどちらがいつ死んでもいいと思うこと。

この二つは、論理的に背反するようにも思われる。

だがこの背反を両立させるところにこそ、幸福な人間関係はあるのではないか。

10年ほど前にこいつとは一生付き合っていくんだろうなと思っていた友人が事故死して遺体と対面したときはショックのあまり全身が痙攣し始めてその場にへこたりこんで1時間以上も身動きがとれなくなって自分でもびっくりしたものだが、あの体験で親しい人間を失う悲しみの上限というものを把握できたおかげで、死別を含むあらゆる別離に対するおおらかな覚悟をもって、人との関係を築けるようになった。

簡単に言えば、別離を不幸と結び付けずに考えられるようになった。

それがどれほど自分の幸福に役立ったかわからない。

2010年11月4日木曜日

仙腸関節

何かが「できるようになる」ということとは別のこととして、そのことが「できた状態がイメージできるようになる」ということがある。

前者が先に来ることもあれば、後者が先に来ることもある。

「まさかできるとは思っていなかったことができてしまった」というのは、前者が先に来たケースである。

「できた状態をイメージすることさえできなかったことが、イメージだけは実感として持てるようになり、やがて実際にできるようになった」というのは、後者が先に来たケースである。

佐々木の仙腸関節はまだ拘束されたままだが、仙腸関節の拘束が解消されると、身体および精神がどのような状態になるか、ということを、かなりリアルな実感としてイメージできるようになってきた。

仙腸関節をゆるめる手技を、武術の稽古仲間に、ここ10年以上、1~2週間に一度はほどこしてもらい続けているおかげである。

2010年11月3日水曜日

推書

あなたにこの本をぜひ読んでほしい、と勧められた本が、えらくありきたりな説教本だったりすると、こんなくだらない本に感動するような奴だったのか、とがっかりさせられたり、俺はこんなあたりまえのこともできていない人間と思われているのか、と落ち込んだり。

もちろんそこは謙虚に、いやいや、俺がこの本の真価を読み取れていないだけかもしれない、とか、実際こんなあたりまえのことも自分はできてないのかもしれない、とか、省思省察するのだけど。

本ってうかつに人に勧められない。

2010年11月2日火曜日

胴体の重み

きわめて大甘な主観ではあるが、胴体(首から下、両肩より内側、足の付け根より上)全体を、胸椎12本、腰椎5本、仙骨、尾骨が縦に並んで納まった、一つの大きな袋として感じられるようになってきた。

と同時に、胴体全体としての重みと、背骨全体としての重みも、感じられるようになってきた。

当然、センターのあり方や、背骨の使い方にも影響があった。

繰り返すが、きわめて大甘な主観。

2010年11月1日月曜日

問題と解決

たいていの問題は、それ自体が、別の問題の解決になっている。

そのことを見落としたまま問題を解決すると、その問題が解決していた別の問題が、再問題化することになる。

というかそもそも、その問題が解決していた別の問題が再問題化しないように、その問題が解決されること自体を阻む人々が現れる。

ということをわきまえている人は、問題をむやみに解決しようとしない。

が。

そのことをわきまえずに問題を解決しにかかる人を、あえて止めようともしない。

蛮勇によってのみ達成される偉業というのも間違いなくあるから。
 
QLOOKアクセス解析