2010年10月31日日曜日

『養生訓』を読んだ

古典読破計画。

今月は貝原益軒(1630-1714)の『養生訓』。

江戸前期から中期の儒学者、博物学者、庶民教育家である著者が、
《人身は至りて貴とくおもくして、天下四海にもかへがたき物にあらずや。然るにこれを養なふ術をしらず、慾を恣にして、身を亡ぼし命をうしなふ事、愚なる至り也。身命と私慾との軽重をよくおもんぱかりて、日々に一日を慎しみ、私慾の危をおそるる事、深き淵にのぞむが如く、薄き氷をふむが如くならば、命ながくして、ついに殃(わざわい)なかるべし。豈(あに)、楽まざるべけんや。》
として、主に健康と長命のための欲望コントロールを説いた、著者晩年の書。

現代人の健康は、おそらく「欲求が満たされない」ことよりも、むしろ「欲求が満たされ過ぎる」ことによって害されている。

いくらそのことを自覚しても、満たされ過ぎる欲求に歯止めを掛けるのは難しい。

その難しい欲望のコントロールも、『養生訓』の格調高い文体で説かれると、居住まいを正されるというか、しっかりしなきゃだめだよな、自分! という気持ちになる。

おもしろかったのは、養生を重視することに対する反対論として、
《或人うたがひて曰。養生をこのむ人は、ひとゑにわが身をおもんじて、命をたもつを専にす。されども君子は義をおもしとす。故に義にあたりては、身をすて命をおしまず、危を見ては命をさづけ、難にのぞんでは節に死す。もしわが身をひとへにおもんじて、少なる髪・膚まで、そこなひやぶらざらんとせば、大節にのぞんで命をおしみ、義をうしなふべしと云。》
という説が紹介され、それに対して
《答て曰、およその事、常あり、変あり。常に居ては常を行なひ、変にのぞみては変を行なふ。其時にあたりて義にしたがふべし。無事の時、身をおもんじて命をたもつは、常に居るの道なり。大節にのぞんで、命をすててかへり見ざるは、変におるの義なり。常におるの道と、変に居るの義と、同じからざる事をわきまへば、此うたがひなかるべし。君子の道は時宜にかなひ、事変に随ふをよしとす。たとへば、夏はかたびらを着、冬はかさねぎするが如し。一時をつねとして、一偏にかかはるべからず。殊に常の時、身を養ひて、堅固にたもたずんば、大節にのぞんでつよく、戦ひをはげみて命をすつる事、身よはくしては成がたかるべし。故に常の時よく気を養なはば、変にのぞんで勇あるべし。》
という反論がされていたところ。

『葉隠』を読んだときも感じたが、江戸時代のこういう言説を読むと、やっぱり男って基本的に社会の消耗品なんだなァとつくづく思う。

2010年10月30日土曜日

電子書籍端末に欲しい機能

トルストイの『戦争と平和』、まだ読破中。

とにかく登場人物が多い。

で、名前を覚えられない。

出てきた登場人物が、前にどこで登場した奴なのか、思い出せない。

こういうとき、電子書籍で、たとえばその人物の名前をタッチすると、初出箇所に戻って、またワンタッチで元のページに戻ってとか、その人物の各章・各ページにおける登場回数を一覧したりとか、その人物のプロフィール・別名・愛称がわかったりとかすると、便利だなと思う。

佐々木はKindleもiPadも持ってないけど。

そんなカネがあったら、そのぶん紙の本を買ったほうがいいだろ、と思えて。

2010年10月29日金曜日

足利学校跡へ

今日は取材で栃木県足利市へ。

取材先が足利市、と聞いたら、もうあそこに立ち寄るしかない。

史跡 足利学校跡

「足利学校」と聞いて、おー!あの!足利学校!! と、佐々木と同じ興奮を覚えてくれる人が、果たして何人いるか……。

佐々木はいわゆる歴史マニア的な視点から、足利学校に関心を持つわけではない。

上杉がどうのこうのとか、武田がどうのこうのとか、そういう個別実証史的な話にはほとんど興味がない。

佐々木が興味を引かれるのは、認識論的に捉えた日本史(経済・政治・文化史)における、足利学校の位置づけである。

あるいは、日本における精神的な交通関係の発達史における、足利学校の位置づけである。

やはり現地で展示などを見てこそ、往時の学問のありかたをビビッドに思い描くことができた。

あと、足利学校の紹介ビデオに、明治時代に足利学校の取り壊しを阻止した田崎早雲という人の写真が登場する。いい顔をしている。人間、年取ったらあれぐらいの風格をかもしだしたいものだと思った。


「學校門」前で自分撮り

2010年10月28日木曜日

部屋でYシャツにアイロンかけてる私

次からは気をつけよう、と誓ったミスを、まさにその「次」に繰り返してしまうと、これはいったいどんな無意識の作用かと、にわか精神分析家になって、しばし考え込んでしまう。

新しいYシャツを買った。

せっかくなので、けっこう奮発した。

形態安定加工された、アイロンがけ不要なやつ。

着て、脱いで洗濯して、洗濯機から出したところで、何があったか(それすらも覚えてない……電話が掛かってきた? 何かアイデアを思い付いてメモした?)、そのまま放置。

1時間以上放ったらかして、ようやく気づいてあわてて広げて干すも、脱水直後のシワが見事に定着。

乾いてもそのまま。

形態安定加工なだけに!

しかたなく、霧吹きを使いながらアイロンをかけてシワをのばす。

せっかくアイロンがけが要らないやつを買ったのに。

けっこう奮発したYシャツなのに。

次からはこんなミスは繰り返すまい、と誓う。

で、次にそのYシャツを着て、脱いで、そうだ今回は放置しないように気をつけよう、と思いながら洗濯して、洗濯機から出したところで、何があったか(また覚えてない)、そのまま放置。

また1時間以上放ったらかし。

気づいて、あわてて広げて干して、前回よりさらに見事なシワシワっぷり。

乾いてもそのまま。

さすが形態安定加工!

で、また霧吹きを使いながらアイロンをかけてシワをのばす。

まぁいいんだけど。

アイロンがけする時間はけっこう好きだから。

と負け惜しみ。

2010年10月27日水曜日

料理脳

パソコンに向かって文章を書いたりレイアウトを整えたりするときと、料理をするときでは、脳の使い方がまったく違う。

なので、仕事を一区切りつけて料理に取りかかった瞬間、次のことを、強烈に感じる。

  • 一度に作る料理の品数が多ければ多いほど、脳のより広い領域が、より複雑に使われる。

  • 料理一品に使う材料が多ければ多いほど、〔同上〕。

  • 作った料理を食べさせる相手が多ければ多いほど、〔同上〕。

当たり前、といえば当たり前なのだが。

一日に何食、何品、何種類の材料を料理して、何人に食べさせるか。

一日で見れば小さな違いでも、これが10年、20年、30年と積み重なってくると、脳の発達にえらい差が出てくると思う。

2010年10月26日火曜日

がんじがらめ

「自分の欲求」と「道徳」をまぜこぜにして、何か特定の行動・態度・思考・感情を選択することを直接・間接に迫られると、精神的に、がんじがらめにされた気持ちになる。

相手が「欲求」を「欲求」として伝えてくれたなら、自分がその欲求をどのように・どこまで実現してあげられるのか、前向きに考えられる。

相手が「道徳」を「道徳」として伝えてくれたなら、その道徳がどのような場面に妥当し、自分がどのように実践できるのかを、客観的に考えられる。

相手が「自分の欲求」と「道徳」をまぜこぜにしていると、そのまぜこぜぶりの分析にまず自分の思考が向いてしまう上に、分析の結果を果たして相手に伝えていいものなのかとか、伝えて相手が理解できるのかとか、そういうところで思考が停滞してしまう。

あの「がんじがらめ感」の構造を分析すると、たぶんこんな感じ。

ふだん付き合いのある人からその手のコミニュケーションを迫られることはないのだが、今日はめったに連絡を取らない知人から電話があり、ひさしぶりにあの「がんじがらめ感」を味わった。

自分も気をつけよう。

2010年10月25日月曜日

言葉で言い表せるような目標でいいのか

「名前が付いていない」、もしくは「それを表現する言葉がない」ということと、「それが存在しない」、もしくは「実現し得ない」ということを混同することは、凡庸な人生を歩むための、十分条件の一つだと思う。

「名前が付いている」、もしくは「それを表現する言葉が既にある」ということは、それがたいていの人に知られている凡庸なものであることの証明だ。

何と言ったらいいのかわからない、どう表現していいのかわからないからといって、それが存在しない、実現し得ないと勘違いするからこそ、人は既に誰もが知っているような凡庸な目標へと突き進んでしまうのではないか。

何と言ったらいいのかわからない、どう表現していいのかわからないことこそ、1年の目標、10年の目標、生涯の目標としては、ふさわしい気がする。

2010年10月24日日曜日

江ノ電愛

今年は江ノ電全線開通100周年なんだとか。

最新車両500形の扉上に設置されている液晶モニターで、江ノ電各駅・各区間の、開通当時と現在を紹介する映像を流していた。

地味に淡々と、江ノ電の今昔を紹介するだけの映像なのだが、クオリティが半端なく高い。

よっぽど江ノ電を愛してる人間じゃないと、あれだけの映像作品は作れないはずだ。

またそれだけの愛情の対象になり得る何かを、江ノ電は持っている。

今日本で、江ノ電ほど人々から愛されている鉄道路線は、他にないと思う。

2010年10月23日土曜日

包丁とキッチン・ナイフ

物の名前が、その物を扱う人間の「体の使い方」に大きな影響を与えることに、最近気づいた。

佐々木が家で料理に使っている包丁は、洋包丁、いわゆる牛刀である。

包丁は英語では「キッチン・ナイフ」と呼ばれる。

西洋の感覚では、包丁はナイフなのである。

ふとそのことを思い出して、「これはナイフなんだ」と思いながら包丁を使ったら、急に自分の全身のあり方が変わって、より刃筋が立った、合理的で楽な切り方ができるようになった。

和包丁と洋包丁の扱い方が違うことぐらい、頭ではわかっていた。

しかし「包丁」という名前に影響されて、洋包丁を「ナイフ」として扱えていなかった。

「ほうちょう」という言葉は、あくまで和包丁の表現として生み出された言語表現だ。

当然、物としての和包丁自体だけでなく、和包丁を合理的に扱う身体のあり方も反映する形で、「ほうちょう」という言葉は生み出され、定着したことだろう。

つまり、「ほうちょう」という音の響き自体が、和包丁を最も合理的に扱う身体のあり方を喚起するようにできているのである。

いくら「ほうちょう」の西洋版だからといって、道具としてのあり方も、それを合理的に扱う身体のあり方も、和包丁とは根本的に異なる洋包丁に、「ほうちょう」という名前を当てはめてしまったのは、ちょっと無理があったのではないか、なんてことを思った。

2010年10月22日金曜日

気持ちのよいバイリンガルたち

日本語は"I"と"You"という概念を持たない言語である。

だがこのことは、日本人が"I"と"You"という概念を持てないことを意味しない。

英語教育が義務教育の課目としてほぼすべての国民に提供され、英語を習得していること自体がステータスと見なされるこの日本においては、本人の意欲がある限り、英語の学習はきわめて容易である。

ひとたび英語の学習を始めれば、"I"と"You"という概念を身につけることなど、わけもない。

英語を第一言語として育ち、"I"と"You"という概念を無意図的に身につけた人々より、むしろ日本語を第一言語として育ち、"I"と"You"という概念を意図的に身につけた人々のほうが、"I"と"You"という概念をより客観的かつ本質的に理解できる、とさえ言えるのではないか。

少なくとも、世界語として通用しない言語を第一言語として育った人々には、世界語として通用する言語を第一言語として育った人々に比べ、第二言語を習得するインセンティブがより強力に働く。

"I"と"You"という概念が存在しない言語と、"I"と"You"という概念が存在する言語の、両方を通して世界を見る能力を身につけるうえで、日本人は、きわめて恵まれた環境にいる国民なのである。

日本語と英語のバイリンガル能力を身につけた日本人は少なくないが、その多くは、話し言葉のレベルのバイリンガルに留まっており、書き言葉のレベルのバイリンガルにまで達した日本人は、決して多くはない。

あえて非常に意地悪で誇張した表現をすると、せっかくのバイリンガル能力を、日本語話者に対しては英語話者として振る舞い、英語話者に対しては日本語話者として振る舞うことによって、自分を偉そうに見せる目的にしか使えていないのではないか、と感じさせるバイリンガルも、ときどきいる。

その多くは、話し言葉のレベルのバイリンガルに留まるバイリンガルである。

一般に書き言葉のレベルに達したバイリンガルたちには、独特の人格的魅力、もしくは気持ちのよさを感じる。

それは、第一言語で文章を書くことの苦労、第二言語で文章を書くことの苦労、その両方を引き受け、一方の苦労で得た力を他方の苦労に役立て、という苦労を積み重ねることを通じて、自分の思考を練り上げてきた人々だけが発する魅力、もしくは気持ちのよさなのではないかと思う。

2010年10月21日木曜日

砂浜

終日小雨。

基本的に雨の日に海や山に行くことはないのだが、しばらくパソコンのモニターをにらみっぱなしで目が参りかけていたので、鎌倉の海岸へ。

夏の晴れた日ならはだしになるのだが、今日は気温が低く小雨も降っているので、靴のまま砂浜に下りる。

砂浜に下りると、体中にびっくりするぐらいの気持ちよさが走った。

全身の細胞がうひゃひゃひゃと笑い出したように。

今日は靴を履いたままなのに、それでも全身に砂の感触が伝わってくる。

アスファルトやコンクリートで地球とのつながりを遮られていることが、体にとって相当ストレスだったのだとわかる。

砂の色やきめ細かさによって、その上に立ったときの全身感覚がだいぶ違って感じられたのは、感覚が研ぎ澄まされてきたせいなのか、それとも気温が低いせいなのか。

白い砂の上より、黒い砂の上のほうが、温かい。

それは単に黒い砂の方が熱の吸収がよいというだけのことなのか。

黒い砂の上では、靴底を通して砂の暖かさが伝わってくるのではなく、全身の細胞がダイレクトに熱を発しはじめる感覚がある。

それがけっこう不思議。

2010年10月20日水曜日

ロシア貴族

古典読破計画、先月はトルストイの『戦争と平和』。

いまだ読破中。

とにかく長い。たいていの世界文学全集で、2巻にまたいで収録されている。文庫だと丸々4巻分。

で、やったら読みにくい。内容がまったく頭に入ってこない。

だが150年近くも世界中で読み継がれてきた作品の内容が理解できないのを、作品のせいにするわけにもいかない。

なので図書館でいろいろな訳者のものにチャレンジ。

岩波文庫改訳版、中央公論新社「世界の文学」版、集英社世界文学全集版、新潮文庫版。

一番読みやすかったのは、新潮文庫(工藤精一郎訳)版。

なのでこれを購入。

既にいろいろな版に目を通したせいもあるだろうが、ようやく内容が頭に入り始める。

作品世界になかなか入り込めなかった理由はいろいろあるだろうが、当時のロシア貴族の生活や認識をまったく思い描けなかったことが、一番大きかったように思う。

この作品で描かれているのが当時のロシア貴族の生活と認識である、というだけではなく、この作品が想定している読者も、当時のロシア貴族だったのではないか。

この作品が当時のロシア貴族向けに書かれたものだ、という想定のもとに、なんとか読者としての自分もロシア貴族になりきって読もうとすると、少しずつ作品の世界が扉を開けはじめた。

2010年10月19日火曜日

底抜けのグルーブ

武術の稽古で「居つかない体のあり方」を追求していると、あらゆる身体運動が、「居ついてるか、居ついてないか」の観点で認知されるようになってくる。

自分の身体運動も、他人の身体運動も含めて。

そういう観点でとらえると、音楽演奏におけるいわゆる「グルーブ」も、その根本にあるのは、リズム・テンポに居つかない、演奏者の体のあり方である。

演奏者の体が「居つき」からどれぐらい解放されているかが、演奏の「グルーブ」の質を決めているのである。

「グルーブがある」と一般に評価されているプロミュージシャンであっても、そのグルーブは、本質的な体のあり方として、両足を床に居つかせたまま、全身をうねらせることで作り出されている、と感じられることが多い。

まぁ当然と言えば当然の体の使い方だ。

ただまれに、あたかも本人が立っている床が抜けて、演奏者の足元のはるか真下から、演奏者本人の身長をはるかに越えるスケールの「身体」がグルーブしているかのように感じさせる演奏を、聴くことがある。

たとえば、ジョン・レジェンドの「Ordinary People」とか、アリシア・キーズの「If I Aint Got You」とか。

今のところ日本人でこういうグルーブが出せるミュージシャンを、佐々木は知らない。

2010年10月18日月曜日

読みもしないのに

日本ではほとんど認知されていないアイン・ランドだが、アメリカでは大卒以上の人間なら基本的に誰でも知っている超有名作家のようだ。

熱心なファンも多い一方で、その徹底した個人主義(=反全体主義)、合理主義(=反宗教、神秘主義)、利己主義(=反利他主義)は、激しい批判・非難にさらされ続けてもいる。

ランドの悪口を言う人のほとんどは、そもそもランドの作品を読んでいないらしい。

読みもしないで悪口を言うなんて、ひどいものだ。

とか思ってたら、読みもしないのに悪口を言いたくなる思想家に、このまえ佐々木も出会ってしまった。

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学』(マイケル・サンデル著、鬼澤忍訳)で紹介されていた、ジョン・ロールズとかいう思想家。

サンデルの紹介を読む限り、ランドと真逆の思想。

共同体の構成員の全員が「無知のベール」をかぶった状態で共同体のルールを選択する状況になれば、全員、自分が強者なのか弱者なのかもわからないのだから、弱肉強食のルールは選択されず、平等主義のルールが選択されるはずだ、とかなんとか。

紹介文や引用文を読んでるだけで、理論的に論破したくなるというより、感情的に罵倒したくなってくる。

あまりにも反発を覚えたので、ひとつその著書を買って読んでやろうかと思ったが、1冊8千円近くもして、つい購入を躊躇。

ランドを読みもせずにランドの悪口を言う人々の気持ちが、よくわかった。

2010年10月17日日曜日

前に行かなくても前方力、進まなくても進垂線

進垂線は「足裏面内玉上完全鉛直垂体一致軸前後遅速度移動」(高岡英夫『上丹田・中丹田・下丹田』95頁)なのだが、移動しようとするセンターを移動しないように止めておくときに使うのも、進垂線なのではないか。

たとえば背中を丸めていったときとか、腕を挙上していったときとか、自分の体を外部から押されたり引かれたりしたときとか。

なんてことを何年か前に思いついて、周囲の数人に話したら、キョトンとした顔をされた。

昨日急にそれを思い出したので、ここにメモしておく。

2010年10月16日土曜日

セイシャイン・ジャパン

明治維新で日本から武士階級はなくなった。

武士階級の存在を支える社会構造自体が消滅したのである。

だが武士階級とその存在を支える社会構造が消滅した今も、武士たちが持っていた高い精神性は、日本の内外で尊敬と模倣の対象であり続け、民族の誇りの一つとされている。

スポーツの国際試合における日本代表チームの呼称に、武士を表わす「侍」をカタカナ表記した「サムライ」が用いられるのも、その現れだ。

さて以下は、実現可能性0%の未来予想である。

50年後、日本から「正社員」という身分は消滅する。

いわゆる「正規雇用」を可能もしくは必要とする社会構造自体が、消滅するのである。

だが「正社員」および「正規雇用」を可能もしくは必要とする社会構造が消滅したあとも、「正社員」たちが持っていた組織への高い忠誠心と自己犠牲の精神は、日本の内外で尊敬と模倣の対象であり続け、民族の誇りの一つとされ続ける。

そのころには、チームスポーツの国際試合における日本代表チームの呼称に、「正社員」をカタカナ表記した「セイシャイン」が用いられることになるに違いない。

つって。

2010年10月15日金曜日

セルフイメージ

人の話を聴く。

人の写真を撮らせてもらう。

その人の魅力が、できるだけ伝わる言葉づかいを選んで、文章にまとめる。

その人の魅力が、できるだけ伝わる写真を選んで添える。

で、本人にチェックしてもらう。

この言葉づかいはちょっと……この写真はちょっと……と謝絶が入る。

ここではじめて、自分がとらえたその人のイメージと、本人のセルフイメージの間にズレがあることに気づく。

そりゃ、そういうズレがあるのも当然だ、とは思う。

自分だって、録音された自分の声を聞けば「これが俺の声か!」と驚くし、録画された自分の映像を見れば「これが俺の姿か!」と驚くんだから。

ただ、外からとられたその人のイメージと乖離したところに本人のセルフイメージが存在することが、外からその人を見ていてもわからないことに、興味を覚える。

外からとられたその人のイメージ自体は、客観。

外からとられたその人のイメージと乖離したところに本人のセルフイメージが存在すること自体も、現実。

「客観」ってなんだろうなとか思う。

2010年10月14日木曜日

スゴ友

考えてみると佐々木は今まですごい友人、すごい先輩に恵まれてきた。

高校に入学したときは、周囲の人間が読んでる本の、レベルの高さにたまげた。

周りを見ると、夏目漱石だの志賀直哉だの、教科書でしか見たことがないような作家の文庫本を、休み時間に読んでる連中がうようよいる。

当時佐々木が読んでた小説といえば、基本的に辻真先とか井上ひさしとかのお気楽系ばかり。

なんだか恥ずかしくなって、下校途中の本厚木前の有隣堂で、難しげな文庫本を買っては読むようになった。

あの読書人の友人たちがいなかったら、文学だの哲学だのに興味を持つこともなかったかも。

今よりももっと思考が大雑把な人間になってたかも。

大学に入って学生寮に住むようになると、今度はボランティアで自立身体障害者の生活介護やら少年団の指導員やらをしている先輩が、周りにうようよ。

佐々木はボランティア経験なんてそれまでゼロ。

社会はどうあるべきか? みたいな議論が恥ずかしいと思いつつも嫌いではない、空理空論家だった。

これも結局見栄と勢いで自立身体障害者の生活介護やら地域少年団の指導やらに関わるようになって、空理空論のバカバカしさを身に沁みてわからされた。

あの先輩たちにボランティア活動に引っ張り込まれていなかったら、下手すりゃ、いまだに世の中についての空理空論をもてあそぶ人間になってたかも。

大学の合気道部の1つ上の先輩に、とんでもなく明るく素直で前向きな人がいた。

その先輩と接してたら、なにかと暗く屈折して後ろ向きになる自分が、恥ずかしくなってきた。

こんなに明るく素直で前向きでいるのも、ありなんだ、と思った。

あの先輩との出会いがなかったら、佐々木は今の何十倍も暗く屈折して後ろ向きな人間になっていたはず。

佐々木の今の生活に役立っているいろいろな能力や姿勢が、もとをたどると、佐々木がすごい!と感じた友人や先輩との出会いによってもたらされたことがわかる。

2010年10月13日水曜日

アイン・ランド『アンセム』を読んだ

アイン・ランドの『アンセム』(藤森かよこ訳)を読んだ。

藤森さんが訳して日本アイン・ランド研究会のホームページに無料公開してくださっていたものを、だいぶ前にプリントアウトして持っていたのだが、ずっと読み通さないままでいた。

(藤森さん訳の『アンセム』はこちら

なにしろ冒頭の雰囲気があまりにも重苦しかったので。

先月の東京アイン・ランド読者会での脇坂あゆみさんの講演で、"We the Living"、"Anthem"(『アンセム』)、"The Fountainhead"(『水源』)、"Atlas Shrugged"(『肩をすくめるアトラス』)の4作品を読めば、ランドはわかる、と脇坂さんがおっしゃっていたので、読まずにいた『アンセム』、これを機に読み通してしまうことにした。

一応ハッピー・エンドとはいえ、やっぱり最後まで重苦しかった。

でもこの重苦しさが、ランドが20代で脱出した、ソ連の全体主義の重苦しさなのだろう。

結末近くの、次の一節が、心に刺さった。
《わたしは、人々の中からわたしの友を選ぶ。わたしは、友を選ぶのであって、奴隷や主人を選ぶのではない。わたしは、わたしの心にかなう友を選び、その友を愛し尊敬する。友に命令したり、従ったりはしない。お互いにそれを望むときには、互いの手を取り、ときにはひとりで歩く。なぜならば、人間は、自らの精神の殿堂においては、ひとりだから。それぞれの人間が、自らの殿堂を侵されず汚されないように保持することができるようにしよう。その人間が望むときに、他の人間と手をつなぐことを許そう。しかし、そんなときでも、その人間の聖なる殿堂の入り口を踏み越えることはしないでおこう。

自らの選択によるものと、再考したうえでのことでなければ、<我々>という言葉は、語られてはいけない。この言葉を、ひとりの人間の魂の中に最初に置かれては絶対にいけないのだ。そんなことになれば、<我々>という言葉は、怪物になる。この地上のすべての悪の根源となる。多数の人間がひとりの人間を迫害する原因となる。口に出して告発もできない虚偽となる。》(第十一章)
《I shall choose my friends among men, but neither slaves nor masters. And I shall choose only such as please me, and them I shall love and respect, but neither command nor obey. And we shall join our hands when we wish, or walk alone when we so desire. For in the temple of his spirit, each man is alone. Let each man keep his temple untouched and undefiled. Then let him join hands with others if he wishes, but only beyond his holy threshold.

For the word "We" must never be spoken, save by one's choice and as a second thought. This word must never be placed first within man's soul, else it becomes a monster, the root of all the evils on earth, the root of man's torture by men, and of an unspeakable lie. 》
"I"と"You"という概念が存在することが、日本語という言語に比しての、英語という言語の素晴らしさだと、佐々木は常々思っていた。

だが英語を第一言語とする人々でさえ、"I"を主語にした思考が"We"を主語にした思考に押しつぶされてしまう経験をすることがあるのだということが、この作品を読んで一番心に残った。

2010年10月12日火曜日

向こう側に存在するという形でしか存在できないものの存在

『風姿花伝』の有名な言葉、「秘する花」。

この言葉の意味が、ずっと腑に落ちずにいた。
《秘すれば花なり、秘せずば花なるべからずとなり。この分目を知ること、肝要の花なり。そもそも、一切のこと、諸道芸において、その家々に秘事と申すは、秘するによりて大用あるがゆゑなり。しかれば、秘事といふことを現はせば、させることにてもなきものなり。これを、させることにてもなしといふ人は、いまだ秘事といふことの大用知らぬがゆゑなり。》(『風姿花伝』「第七 別紙口伝」)
秘事は秘密にするから効果があり、内容を暴露すれば大したことがない……。

それって、ペテンとどう違うのか。

いまひとつわからずにいた。

で、最近、つくづく実感するようになったこと。

向こう側に存在する、という形でしか存在できないものって、あるんだな、と。

礼儀とか作法って、ある面堅苦しいもので、まだ親密になっていない人との間に関係を築いていくうえでの必要悪のようなものだったり、人と人とが親密になっていく過程ではできるだけ解除していったほうがいいものだったり、ときにはどうしても親密になる気になれない人との間に設けられる壁のようなものになったりもするけども、そういう否定的な面だけでなく、肯定的な面もあって、それが存在することでしか立ち上がらない、その向こうに存在するという形でしか存在しない、相手のあり方、というのがあるじゃないか、なんてことを考えていて、思った。

世阿弥が言いたかったこととは、あまり関係がないかもしれないけど。

2010年10月11日月曜日

砂糖

砂糖を使わないと味が整わないような料理は、調理法が根本的に誤っている。

料理研究家の故・丸元淑生が、どこかでそんなことを書いていた。

砂糖を使わないと味が整わないのは、体が必要としている栄養素が、過剰な加熱や加工で失われている証拠。

体が必要としている栄養素を素材から失わせるような調理法は、日常食の調理法としては、根本的に誤り。

特に精製した砂糖は、内蔵に過剰な負担を掛け、内蔵への過剰な負担がさらなる砂糖への欲求を起こさせる点で、麻薬的。

たしかそんなような論旨だった。

きっと正しいと思う。

周囲を観察しても、痩せたいのに痩せられない、とボヤいている人は必ず、家庭でも砂糖を使った料理を食しているように見える。

なので基本的に、料理には砂糖を使わない。

だが佐々木はソース焼きそばが大好きである。

ほぼ毎週作る。

3食分作って2食で平らげる。

ソース焼きそばのソースには、砂糖が大量に使われているに違いない。

あと佐々木は外出先のカフェで仕事をするとき、よくコーヒーと一緒に甘いものを頼んでしまう。

コーヒーだけで1時間も2時間も居るのも悪いし、とか言い訳をして。

土産だお礼だ差し入れだと言って、よく菓子類をもらう。

それもバリバリ食べる。

料理に砂糖を使わないようにしている意味がない。

まぁないってことはないか。

なんでもほどほどだよな。

2010年10月10日日曜日

ジンブレイド、ウナ~アキレス腱のラインを攻める

ジンブレイドのトレーニング、ふくらはぎ側のラインに手をつけ何日かして気づいた。

いきなりふくらはぎ側のライン全部に手をつけるのは、急ぎすぎ。

ラインがでたらめになる。

やっぱり才能もセンスもない人間は、ゆっくり少しずつ攻めないと駄目。

まずはウナ~アキレス腱のライン。

ウナ~アキレス腱のラインだけ取り出してやってみると、この部分の前半と後半でも、感じが違う。

足裏から足横にヌルッと抜ける前半部。

足横からふくらはぎにスッと抜ける後半部。

味わい深い。

2010年10月9日土曜日

"Star Guitar" PV

コンピューターグラフィックって、登場した頃はおそらく、ソフトもハードもえっらいお金の掛かるものだったから、コンピューターグラフィックを使えたのは、コンピューターグラフィックを使わなくてもハイレベルな表現ができる人たちに限られていたのではないかと思う。

コンピューターグラフィックに必要なソフトやハードがどんどん安価になり、ほとんど素人に近い人々にまで普及しはじめたのが、たしか1990年代。

なんか安易にコンピューターグラフィック使ってるなぁ……という感じの画像や映像をそこらじゅうで目にするようになり、佐々木はコンピューターグラフィックっぽい画像や映像を見るだけで、嫌気が差すようになってしまった。

で、2002年にケミカル・ブラザーズの「Star Guitar」という曲のプロモーションビデオを見たときは、というか、そのプロモーションビデオがコンピューターグラフィックで作られていることに気づいたときには、本当にたまげた。

最初見たときは、あーいい曲だな、曲の感じがビデオの車窓風景とよく合ってるな、ぐらいにしか思わなかったから。

コンピューターグラフィックを使う意味があった、と心底納得できる映像作品を見たのは、あのプロモーションビデオがはじめてだった。

その後の佐々木自身の仕事のやり方にまで影響を受けた、と言うと、どう考えてもおこがましい。

だがそう言いたくなるぐらい、大きな衝撃を受けたビデオだった。

その衝撃の中身をあえて言語化すると、以下のような感じか。

●本当にすごい技術は、ぼんやり見てると、すごい技術であることに気づかせない。

●テクノロジーの進歩で、ある作業がより簡単にできるようになったら、それで節約された以上のエネルギーを、創造的な仕事に振り向けなければならない。

●表現においてテクノロジーは手段に過ぎないのであって、「テクノロジーによる表現」が「テクノロジーの表現」になってはならない。あくまでも「身体感覚の表現」の実現手段の一つとしてのテクノロジーでなけれはならない。











2010年10月8日金曜日

本来のナントカ

「本来の○○」というのは、思考停止ポイントになりやすい概念だと思う。

「本来」という言葉が使われるのを見たり聞いたりするたびに、「それって永遠の過去からそうなのか?」と疑うようにしている。

2010年10月7日木曜日

林道散歩

パソコンをカシャカシャやるのが仕事みたいな人間は、ときどき山とか海とか自然に触れる機会を持たないと、体をおかしくすると思う。

なので今日は日中ちょっと丹沢へ。

山に行くと、地球上のあらゆる事物・現象が生命現象なのだということが、よくわかる。

動物や植物のような生物だけではなく、山も川も雲も、道端の石ころも。

なにしろ街中と違って、空に浮かぶ雲や連なる山々や流れゆく川を含めたすべてを、不断かつ相互に浸透していく運動形態そのものとして、眼前に捉えることができる。

そのように捉えた景色の総体を、改めて、生命現象として、運動的かつ統一的に脳に描こうとしたら、脳が悲鳴を上げた。

そんなスケールのでかい運動像は描けない、と。

やっぱり街中で暮らしてると、脳に描かれる運動像が縮こまるなと思った。











2010年10月6日水曜日

骨と皮

これまでほとんど手をつけてこなかった、ジンブレイドのふくらはぎ側のラインに、少し手をつけはじめている。

ジンブレイドのふくらはぎ側のラインを使うと、腰椎や胸椎の、腹側の意識が活性化される。

そりゃそうだよな。

ジンブレイドは支持点の集合なんだし、支持点は重心落下点とセットで機能するものなんだし、重心落下点はセンターの切片なんだし、センターは腰椎や胸椎の前を通ってるんだし、ジンブレイドをスムーズに使おうと思ったら腰椎や胸椎が反らないようにしないといけないんだし。

で、腰椎や胸椎の腹側の意識が活性化すれば、骨格全体の意識が活性化される。

あと、ジンブレイドのふくらはぎ側のラインを使うと、皮膚の意識も活性化される。

そりゃそうだ。

ふくらはぎの表面を支持点が正確に上がっていくためには、支持点がふくらはぎの皮膚よりも外に行っても、内に行ってもいけない。だからふくらはぎの皮膚の形状を、正確に意識しなければならない。ふくらはぎの皮膚の意識が活性化すれば、体全体の皮膚の意識が活性化する。

結果、全身の骨格と皮膚の意識が活性化する。

極端に言うと、内臓や筋肉が消えて、骨格の上に皮膚がおおいかぶさっているような。

「骨と皮」と言えば飢餓の象徴で、あまりいいイメージではない。

でもこの「骨と皮」のイメージは、けっこう愉快。

2010年10月5日火曜日

フロム『愛するということ』を読んだ

古典読書会。

先月の課題は、エーリッヒ・フロム『愛するということ』。

パッと燃え上がった恋愛感情は、あっというまに冷めて、憎しみに変わる。

そんなようなことが、この本のどこかに書いてあったと思う。

この本に対する佐々木の感情が、まさにそんな感じだった。

最初ざっと通読したときは、高尚で深遠な名文句の数々の虜になり、あちこち傍線引きまくってしまった。

2回目、熟読してみると、急に著者の思考のアラが目につき始め、最後は心の中で著者を罵倒しまくりだった。

感情レベルの愛は真の愛ではないのだ、みたいなことを、フロムはしきりに書いている。

たしかに感情レベルの愛が、感情レベルの愛のまま持続することはないだろう。

しかしだからといって、感情レベルの愛は真の愛ではないというのは、ヘンではないか。

ヘーゲルが『精神現象学』で、「つぼみが花になり、花が実になるからといって、つぼみや花は、植物のあり方として偽であった、ということはない。つぼみ、花、実、それぞれが、植物にとって同じように必然的なのだし、つぼみ、花、実、と流動していくことこそが、植物の本性なのだ」みたいなことを書いている。

感情レベルの愛が、やがて憎しみに変わるか、意志レベルの愛にレベルアップするかしなければならないからいって、感情レベルの愛を「真の愛ではない」と否定するのは、つぼみは花になり花は実になるのだから、つぼみや花は「真の植物ではない」と否定するようなものなのでは?

現実に存在するものを指して「真の○○ではない」と断じ、現実には存在しえないものを「真の○○」として描いてみせる人たちは、だいたいおかしな政治的主張をしはじめるものだ。

フロムもそうだった。

最後のほうを読むと、資本主義を廃絶しなければ人は「真の愛」を享受できない、みたいなことを主張している。

この男が夢想する理想社会は、絶対、愛の対象をより好みするような「真の愛を知らない」「利己的な」人間が、もれなく思想改造か処刑の対象になるような、ヒットラーもスターリンもびっくりの全体主義社会に違いない、と思った。

アイン・ランドが、愛の対象をより好みすることの当然さをあれほど主張していた理由が、この本を読んでよくわかった。

2010年10月4日月曜日

辻真先さんのつぶやき

ミステリ作家・アニメ脚本家の辻真先さんがTwitterをされていることを、最近知った。

http://twitter.com/mtsujiji

佐々木は中学生から高校生のころ、辻さんのミステリ小説の大ファンだった。

そのころ辻さんが書かれた作品は、ほぼすべて読んでると思う。

当時すでにベテラン作家だった辻さん、現在はもう78歳だとか。

衝撃、と言ってよいほど驚きだったのは、Twitterで辻さんが書かれているつぶやきの、読み心地の良さ。

Twitterらしく、本当に気軽な感じで身辺雑記を書かれているだけなのだが、読んでいて不思議なくらい、ほんわかと温かな気持ちになってくる。

緊張や不安や反発を、みじんも感じさせない。

これだけ読み心地のよい言葉をつぶやき続けているTwitter利用者を、佐々木は他に知らない。

これって、単に好みの問題だろうか。

違うと思うのだが。

読者にとっての読み心地への気配りが、既に血肉化しているからこそ、ごく簡単に書き散らしたような文章でさえ、あれだけ気持ちのよい表現になるのだと思う。

動けば技になる、ではないが、書けば達文の境地、とでもいうか。

書き言葉のホスピタリティの権化、とでもいうか。

80歳近くなられても、あれだけ心地の良いコミュニケーションができる存在でいられる、というのは、大きな希望。

2010年10月3日日曜日

エッセイ700連発

この日記も今日で700日目。

あと300日で1000日連続更新である。

1000日連続更新。

それを果たしたあたりで得られる自己成長に、今から大きな期待を持っている。

「石の上にも3年」の「3年」とは、単なる語呂の良さで選ばれた数字ではあるまい。

何事も1000日続ければ別次元の世界が開ける。

そのことが多くの先人たちによって体験・実証されてきたからこそ、「3年」という数字が格言という形で定着したのだろう。

天才と呼ばれる人たちは、こうした反復信仰に異議を唱えることが少なくない。

大事なのは正しいやり方に1日も早く気付くことであって、間違ったやり方を何千日続けても、正しいやり方は身につかない、というわけだ。

お説ごもっとも、と思う。

ただその正しいやり方に気付くセンスやスピードについて、佐々木にはある種のあきらめがある。

何年もやり続けてようやくわかる。

それ以外の形での成功体験が、佐々木にはない。

それは才能がない、ということなのだろうなのだろうが、才能がなかったおかげで、反復・継続する才能だけは身についた、とも言えるのではないか。

毎日書き続けるため、日記の長さや内容については、ハードルをできるだけ低くしている。

1行でもよし。

内容もくだらなくてよし。

ただ、単なる出来事を書くのではなく、必ず自分なりの発見や洞察を書くようには心がけている。

文章化して公開できるだけの発見や洞察が毎日1つあるということは、文章化されなかったり、公開できなかったりする発見や洞察が、少なくともその3倍から5倍はあるということだ。

1週間で最低20~30。

1年間で最低1000~1500。

それだけの発見や洞察を積み重ねていけるなら、年齢を重ねていくことに期待や喜びを持つことも、許されるような気がする。

2010年10月2日土曜日

サトイモを皮つきで煮てみた

ダイコンもニンジンも、ゴボウもレンコンもジャガイモも、基本的に皮をむかずに調理している。

野菜は皮ごと食べたほうが、栄養的によいと言うので。

ただ、さすがにサトイモばかりは、必ず皮をむいて使っていた。

あの泥と区別がつかないようなヒゲだらけの皮は、とても口に入れていいものには感じられなかった。

だが今日、思い切って、サトイモを皮ごと煮てみた。

ここのところ外食が続いて、体が自然食っぽいものに飢えてたこともあったし。

泥だらけのサトイモを洗いながら、鍋にたっぷりの湯を沸かす。

洗ったサトイモを、皮ごと4つから8つに切る。

塩を多めにふって手で揉み、ぬめりを出す。

湯が沸いたところで、ぬめりを出したサトイモをざっと水洗いし、鍋に入れる。

鍋に少し酢をたらす。

2分ほど沸騰させて、火をとめる。

ふたをして10分ほど置く。

その間に昆布とカツオ節で出汁を取り、酒と醤油で調味しておく。

10分置いた鍋から湯を捨て、調味した出汁を注ぎ、沸騰させ、とろ火にし、串が通るぐらいの柔らかさになるまで煮る。

今回は皮ごとなので、40分ぐらい煮てみた。

完成。

ビジュアル的にそうとうエグい。

モザイクが必要かもしれない。



食べた感想。

皮はぎりぎり食べられる固さ。

中身はやたらと柔らかい。

皮と中身が調和してない。

まぁまぁ、普通に食べられはする、という程度の味。

体にはたぶんいい。

もう一度やるかは、微妙なところ。

2010年10月1日金曜日

東北本線

取材で宮城県角田市へ。

行きは大宮から福島まで新幹線を使い、約4時間。

電車の中でも仕事はできるので、帰りは在来線を使って、約7時間。

ミスを取り返すための仕事だったから、交通費、節約したかったし。

ポメラとICレコーダーを膝に乗せて書きまくる。



むしろ電車の中のほうが集中できるくらい。

息抜きに、なんとなく車窓をパシャパシャ。













 
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