2010年7月31日土曜日

自分の目に映る他人が示すもの

たとえばある人と会って話をして「この人は繊細な人だ」と感じるのは、そう感じた人自身が、繊細さを大切にしていることの、現れなのだと思う。

相手が自分の目にどう映るかということ自体が、自分がどんな尺度で人を見ているかということに依存するということもあるが、それだけではない。

おそらく相手自身が、意識的にであれ無意識的にであれ、こちらがどんな尺度で人を見ているかということに影響を受けた振る舞いをしてしまっているのだ。

だから、ある人に「繊細な人」という印象を与えた人が、別の人にはまるで違う印象を与えるということも起こる。

2010年7月30日金曜日

感情と筋肉

自分の骨や筋肉や内蔵の状態を四六時中内観していると、自分の感情の動きも、筋肉や内臓の動きとして感覚されるようになってくる。

自分にとって望ましくない感情の動きには、自分にとって望ましくない、筋肉や内臓の動きが対応している。

なにかのはずみに自分の感情が暴走しかかると、自分の感情が暴走しかかっていることに気づくより先に、自分の筋肉や内臓が悪い状態にいきかかっていることに気づく。

自分の筋肉や内臓の状態を補正していると、ことさら感情を補正しなくても、結果として感情が補正されている。

2010年7月29日木曜日

悪霊

書店で本を眺めていて、『自分でできる悪霊退散』というタイトルの本が目にとまり、相当長い時間、笑いをこらえるのに苦労させられた。

自分でできる、悪霊退散。

苦悩の原因を悪霊に帰する神秘主義、そしておどろおどろしさ。

自分でできることは自分で済ませるという合理主義、そしてライト感覚。

そのギャップがすごすぎる。

2010年7月28日水曜日

落書き

これまで自分の中で「表現のあり方」ととらえられていたものごとが、急に「コミュニケーションのあり方」としてとらえられることが増えたのは、仕事で商用文を書くようになったことと関係があるのか、それともないのか。

落書きもそう。

チラシの裏とかにやるやつではなく、壁とかにスプレー缶でやって、「落書きは見つけ次第警察に通報します」などと警告されるやつ。

人をコミュニケーションへと駆り立てるのは、おそらく、「コミュニケーションが成立した」という思いと「コミュニケーションが成立していない」という思いの矛盾である。

「コミュニケーションが成立した」という認識が皆無のところに、コミュニケーションへの動機は起こらない。

成立させようとしたコミュニケーションが100%成立したなら、これまた、それ以上コミュニケーションを継続させようとする動機は起こらない。

だから、ある「コミュニケーションのあり方」を理解するためには、人がそのような「コミュニケーションのあり方」へと駆り立てられた背景に、どのような「コミュニケーションが成立した」という思いと「コミュニケーションが成立していない」という思いの矛盾があったのか、という洞察が必要なのではないか。

この矛盾には、ポジティブな形とネガティブな形がある。

ポジティブなほうを直接話法で表現すれば、「私はあなたのことがもっと知りたい」になるだろう。

ネガティブなほうを直接話法で表現すれば、「あなたは私のことをわかってくれない」になるだろう。

街の迷惑な落書きを眺めながら、この落書きをした人間を、このような「コミュニケーションのあり方」へと駆り立てたのは、どんなネガティブな矛盾だったのかと、しばらく想像をめぐらせた。

2010年7月27日火曜日

尊敬は麻薬

他人からの尊敬には麻薬性がある。

他人から与えられる尊敬の言葉には、自信喪失のどん底にある人間に生きる意欲を取り戻させるだけの力がある。

だがいつも誰かからの尊敬を期待するようになったり、期待する尊敬が得られないと怒りや絶望を感じるようになったり、相手に対して報復的な振る舞いをするようになってしまったら、「他人からの尊敬」の奴隷になったも同然。

何の奴隷であっても奴隷状態は不快指数が高い。

太宰治はどこかで「恥ずかしいこと、それは尊敬されることだ。自分のすべてを、何もかも見通す方がいられるのに、尊敬されるなんて、そんな恥ずかしいことがあるのか」という意味のことを言ったとか。

他人からの尊敬であれ、自分がする尊敬であれ、尊敬という行為の対象から現実の自分を排除するというのは、「他人からの尊敬」の奴隷状態に陥るの防ぐ方法の一つとして、ありではないかと思う。

尊敬というのは、現実の他人、それから可能性としての自分、この二つだけを対象にすべきもの、というのが、今の心がけ。

2010年7月26日月曜日

森毅先生

森毅先生が、一昨日亡くなられたと報道されていた。

佐々木は高校生の頃、森先生が書かれるエッセイの大ファンだった。

森先生が教鞭を取られる大学に、先生の大学教官としての最後の年に入学して、先生の数学史の講義を受講できたことは、佐々木の人生における大きな幸運の一つだったと思う。

先生が話された数学史の内容そのものは、申し訳ないことに、もうまったくと言っていいほど覚えていない。

むしろ先生が数学史について話している間は、ほとんど居眠りをしていたような記憶さえある。

ただそれでも森先生の講義を受講できてよかった、と心から思うのは、先生の講義を生で受講することを通して、知性というものの生きたあり方を、皮膚感覚で吸収するという、貴重な体験ができたからだ。

知性に対する嫌悪や敬遠をあらわにする人や、自分は決して知的にはならないと固く決めているかのような人に、ときどき出会う。

たしかに知性は、自分の都合のいいように他人を操作したり、逆に他人の操作を受け入れたり、あるいは自分が他人より優れていることを認めさせたり(同じことだが他人が自分より劣っていることを認めさせたり)するための、道具として使われることが多い。

少なからぬ人たちが知性に対して嫌悪や敬遠の念を抱いているのは、知性が多くの場面で、そのように他人を支配するための道具として使われているからなのだろう。

20年前、教壇の森先生から、佐々木が皮膚感覚として学びとったこと。

それは、知性というのは温かくて安心できて快適なものだ、とでも言い表されるようなことだったと思う。

それは自分に対しても他人に対しても。

そういう知性観を吸収できたことが、これまでの佐々木の人生を、少なくとも佐々木自身にとって、大まかには温かくて安心できて快適な人生にしてくれたのではないかと、森先生の姿を思い出しながら、考えた。

2010年7月25日日曜日

男の判断

日垣隆さんの新著(電子書籍)『ルポ 脳生――難病ALSと闘う人々』を読んで、特に重たいと感じた事実の一つ。

ALSの発病に男女差はない。

にもかかわらず家族(特に配偶者)の判断で呼吸器をつけられた患者は男性のほうが多い。

どうもありていに言って、妻が夫の延命を断念する確率よりも、夫が妻の延命を断念する確率のほうが、高いということのようだ。

そのことを短絡的に善悪と結び付けることには慎重でなければならないだろうが、いざという場面での男の判断には、大事な何かが欠落する傾向があることは、自覚したほうがいいと思った。

2010年7月24日土曜日

日垣隆『ルポ 脳生――難病ALSと闘う人々』を読んだ

日垣隆さんの新著(電子書籍)『ルポ 脳生――難病ALSと闘う人々』を読んだ。

「ただ生きているだけで価値ある存在でいるということは、自分には無理なのではないか」という意味のことを、昨日、ここに書いた。

その翌日にこの本が発売され、なぜか特に迷いもなく購入してしまい、他にやらなければならないことがあるのにすぐ読み始め、一気に読み終えてしまった。

その偶然の不思議さを思った。

最初に登場する宮下さんがメディアから取材のオファーを受けたとき、主治医から「社会参加をしてください」と言われたことを思い出して「そうだこれも一つの社会参加だ」と思ってO.K.を出したという箇所。

「社会参加」という文字を思わず何度も読み返して、胸の奥が震え、泣きそうになった。

「社会参加」という言葉に、これほど荘厳な意義を持たせながら生きている人々がいることを、これまで想像したことがなかった。

2010年7月23日金曜日

ただあるだけで提供できる価値

片道電車賃330円、時間30分強で湘南海岸というのは、今の住まいの良いところの一つ。

煮詰まったら、とにかく海を見る。

海を見てさえいれば、言葉は脳が勝手に生産する。

海を見ていて先日思ったこと。

海はただ海でいるだけで、いつまでも眺めていたいと思わせるだけの価値を提供する。

人間にそんなことはありえるのかと。

それはやっぱり無理というのが、しばらく考えた末の結論。

自分が果たして、いつまで人に価値を提供できるのか。

それが不安で、そんなことを考えた。

2010年7月22日木曜日

『夫婦で年収600万円をめざす! 二人で時代を生き抜くお金管理術』を読んだ

花輪陽子さんの『夫婦で年収600万円をめざす! 二人で時代を生き抜くお金管理術』を読んだ。

この本は次のように始まる。
《「結婚するなら年収600万円以上の男性じゃなきゃいや!」
〔中略〕
こんなふうに思っていませんか?
〔中略〕
今の世の中で、年収が600万円以上もある男性を探し出して結婚するのは、なかなか険しく長い道のりです。それよりも、結婚して夫婦でともに年収600万円を稼ぐことをめざしたほうが、ずっと近道です。》
つまりこの本で提案されている「結婚して夫婦で年収600万円を稼ぐことをめざす」というプランは、あくまでも「年収600万円以上の男性と結婚することをめざす」というプランの、代替プランとして提案されている。

だから、女性に「年収600万円以上の男性と結婚することをめざす」というプランを抱かせるに至る根本的思想は、この本で提案されている「結婚して夫婦で年収600万円を稼ぐことをめざす」というプランにおいても、そっくりそのまま保持されている。

外国人と交流してはじめて自分が日本人であることを自覚するように、佐々木はこの本を読んで、お金や結婚や人生に対して抱いている根本思想が、きわめて多くの日本人女性が抱いている根本思想と、あまりにもかけ離れていることを、はじめて自覚した。

「夫婦で年収600万円を目指す」という考え方は、佐々木には、「夫婦で合計体重120キロを目指す」という考え方と同じくらい、奇妙なものに感じられる。

そのように感じられること自体が、佐々木が持っている夫婦観やお金観の奇妙さの現れなのではないかという気もする。

その奇妙さについて、もう少し自分の中で掘り下げてみたいと思った。

2010年7月21日水曜日

つかみ取れない

ものごとの上達が、レベル1、レベル2、レベル3、‥‥レベル10、と進んでいくとする。

レベルの向上は、階段を昇るように進んでいくわけではない。

レベル4ならレベル4に上がる前には、レベル3での、長い修練の積み重ねが必要になる。

レベル3での修練の積み重ねは、レベル4への向上を目標として行うものである。

にもかかわらず、レベル3での修練を積み重ねるべきときには、あくまでレベル3の修練を積み重ねを続けなければならない。

レベル3の修練を積み重ねるべきときにレベル4の修練に手を出せば、積み重ねてきたレベル3の修練の成果が、足元から瓦解していく。

レベル3の修練と、レベル4の修練は、内容的に、さまざまな点が正反対になる。

だから、いよいよレベル3の修練からレベル4に修練に移るべきときがきたとき(ヘンな表現だな)には、二重の意味で、これまでとは逆の努力を要求される。

一つは、レベル4の修練に手を出さない努力から、レベル4の修練を実行する努力へ、という意味で。

もう一つは、レベル3の修練とレベル4の修練が内容的に逆になる、という意味で。

レベル3からレベル4への移行のときがきているのに、レベル4への移行を拒否すれば、レベル2、レベル1への転落が待ち構えているだけ。

レベル3の維持は、あり得ない。

これまで手を出さなかった、手を出せなかった、手を出す必要性さえも認識できていなかったレベルに、手を出して、そのレベルをつかみ取らなければならない時期がきていることを、いろいろな分野で感じる。

上のレベルをつかみ取る、ということを長い間してこなかったせいで、つかみ取る能力自体が、消え失せかけていることに気づく。

つかみ取る能力の復活と、転落と、どちらが先に来るか。

そういう恐怖を、ジワリと味わされている。

2010年7月20日火曜日

飲み会でウケる話なんか聞きたくない

カスタマワイズ社長の村中さんが、読ませる文章の書き方とは、飲み会でウケる話の話し方である、とお書きになっている

自分の文章の書き方を再点検させられる一方で、こんなことも思った。

実際の飲み会では、俺、別に「ウケる話」なんか聞きたくないな、と。

飲み会の目的もいろいろだろうが、人と食事を共にする目的がその場の人とより親密になることにあるのならば、そこで話されるべきは「ウケる話」ではなく、むしろ「ワケのわからない話」なのではないか。

もし飲み会で話されるべきが「ウケる話」であるならば、今その瞬間に話をしているAさんよりも、仮にその場にいないBさんのほうがもっと「ウケる話」ができるなら、その場にはAさんがいるよりも、むしろBさんがいるほうが望ましい、ということになる。

「ウケる話」とは基本的に誰にでも「ウケる」話を指すのだろうから、その話の聞き手もまた、今その場にいる人でなくてもいい、ということになる。

話し手がその人である必然性もない。

聞き手がその場にいる人である必然性もない。

それが「ウケる話」なのではないか。

それは、人と人とが親密になるということとは、真逆のことだと思う。

佐々木が「ワケのわからない話」というのは、話している本人だけワケが(面白さが)わかっていて、聞いているほうはいっこうにワケが(面白さが)かわらない、というような話ではない。

そうではなくて、話している本人が、いったいどうやって言葉にしていいのかわからない、言葉にすることが許されるのかどうかもわからない、言葉にすることに意味があるのかどうかもわからない、話がどういう展開になるかもわからない、それでもなぜか、今目の前にいる聞き手には、聞いてもらいたいという気持ちを抑えることができない、と逡巡してしまうような話だ。

聞かされた側は、いったいなぜこの人はこんな話をしたくなったのか、こんな話に何の意味があるのか、こんなことを話題にすることが果たして許されるのか、と大いに困惑しながらも、それでも話し手の「どうしても話さずにはいられない気持ち」に引き込まれる。

聞き手が話し手と一緒になってその話の意味を考えているうちに、その話が今その場で話されたことの意味が、話し手と聞き手に、同時に理解される。

こういうのが、話し手がその人である必然性もあり、聞き手がその場にいる人である必然性もあるコミュニケーションなのではないか。

人と人とが親密になるというのは、こういうことなのではないかと思う。

2010年7月19日月曜日

人類最先端たらざるして何の己が人生ぞ、みたいな

たとえば天動説が一般に信じられていた時代に自分が生きていたとして、ごく一部の人々が説き始めていた地動説のことをまったく知らずに、自分が天動説を信じ込んだまま死んでいったとしたら、大きな目で見て、それはかなり残念なことであるような気がする。

あるいは電話がちょうど発明されたばかりの時代に自分が生きていたとして、ごく一部の地域で使用されはじめたばかりの電話というものを、自分が一度も体験せずに死んでいったとしたら、大きな目で見て、それもまたかなり残念なことであるような気がする。

自分が生きる世界や自分自身の理論的な把握においても、物質的な生活においても、人類は大きくは進歩を続けているわけで、その進歩の最先端を担う、それがかなわなくても、せめて進歩の最先端についていくことをあきらめてしまうことは、せっかく人間として生まれてきたことの意義を、大きく損ねるのではないか。

もちろん何を残念に感じるかは個人の自由だし、そのような自由を持っていること自体が、人間のすばらしさなのだけども。

最近だとiPhoneだとかiPadだとかの入手に大勢の人々を突き動かしたのも、この人類最先端たりたいという欲求なのだろう。

佐々木自身は、物質的な生活やそのツールにおいて人類最先端たりたいという欲求は、今はかなり希薄だ。

ただ自分が生きる世界や自分自身の理論的な把握において人類最先端たりたいという欲求の強さは、まだ人並み以上だと思う。

そういう佐々木の欲求を満たしてくれているのが、高岡英夫先生であり、「学城」誌執筆者の方々だ。

佐々木が尊敬する少なからぬ人々が、学問の世界で日本人が人類最先端を担うことなどあり得ないと言っている。

そう言われるとそうなのかな、と思うこともある。

ただ今のところ、高岡英夫先生や「学城」誌執筆者の方々を上回る体系性や実践性を持った理論家には、佐々木はまだ出会っていない。

2010年7月18日日曜日

北嶋淳「人間一般から説く障害児教育とは何か(3)」(「学城」第7号)

「学城」第7号で強く印象に残った論文。最後は北嶋淳さんの「人間一般から説く障害児教育とは何か(3) ―障害児教育の科学的な実践理論を問う」。

脳性まひで全盲、知的障害も併せ持つ小学五年生の男子児童T君。みんなが静かにしている場で一人大声で騒ぎ、イライラと落ち着かない。担当教師も持て余し、母親もただ困惑。

そんなT君が出してくる手をそっと柔らかく包み込み、手のひらをこすったり、くすぐったり、息を吹きかけたりしながら、その都度話しかける北嶋さん。落ち着いてくるT君。

さらに北嶋さん、母親に盲体験をさせることで、転居と転校に混乱するT君の認識を理解させる。

北嶋さんの指導実践それ自体が感動的であるだけではない。

そのような指導を選択した理由、そのような指導が効果を上げた理由を、人間一般、障害一般、障害児教育一般から説かれているので、あらゆる「認識のゆがみ」に対する理解・対処の指針として役立つ。

佐々木自身が抱える「認識のゆがみ」に対する理解・対処の指針としてさえも。

2010年7月17日土曜日

本田克也・瀬江千史「ウィルヒョウ 『細胞病理学』 なるものを問う(4)」(「学城」第7号)

「学城」第7号でもう一つ印象が強烈だった論文が、本田克也さんと瀬江千史さんの「ウィルヒョウ 『細胞病理学』 なるものを問う(4)―研究至上主義は学問への道を断つ」。

《生きている患者を診ることをせず、患者の患部から取りだしてきた病変部分だけを顕微鏡でみて、病気の診断をする方法》は、実際、今の医療のあり方そのものなのだろう。ウィルヒョウが犯したドイツ皇帝フリードリッヒⅢ世への誤診の悲劇は、日々繰り返され続けているのだろう。

現在医学部で標準的に使われている生理学の教科書が、人体の生理ではなく細胞の生理から始まっており、「細胞が集合したものが組織、組織が集合したものが器官、器官が集合したものが個体」という人体観で書かれているという事実には、驚きを通り越して怒りすら感じた。

2010年7月16日金曜日

悠季真理「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待(6)」(「学城」第7号)

「学城」誌に毎号安定しておもしろい論文を寄稿されているのが、悠季真理さん。

今号の「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待(6)」もたいへん興味深かった。

プラトンの対話篇から、その時代の人類の認識のレベルと当時のギリシャ社会のあり方を踏まえて、ソクラテスという人物が人類の認識の歴史にいかに位置づけられるかを論じられている。

これまでの哲学史の常識では、ソクラテスがはじめから普遍的な概念の獲得を目指して問答を仕掛けていたかのように理解されていたが、そうではないというのが悠季さんの分析。

権威者たちのやり方が感情的に不満で、ただ喧嘩腰につっかかっていっているだけの変人、というソクラテス像がおもしろかった。

当時のギリシャは、決して議論することが当たり前の社会ではなく、議論をふっかけて回るソクラテスは異質な存在だったというのは、今の日本のあり方とも重なるのかもしれないと思った。

人間は論理レベルの認識をはじめからもてるものでも、希求できるものでもない、ということを、具体的に理解できたのもよかった。

2010年7月15日木曜日

想像以上に深かった横田政夫「「超高層住宅」は人間にとって快適な住まいか」(「学城」第7号)

「学城」第7号で、表題から想像される以上に内容が深かったのが、横田政夫さんの「「超高層住宅」は人間にとって快適な住まいか ―「超高層住宅ブーム」を問う」。

超高層住宅の上層階への居住が人間の健康にもたらす悪影響については、佐々木が学生の頃から聞かされていたで、この論文から特に新しい知見が得られるとは思っていなかった。

だがこの論文、「いのちの歴史」から導かれる「人間とは何か」を説き、そこから「人間としてのまともな生活」を展開したうえで「まともな住宅のあり方」を論じている。

だから、単に超高層住宅の問題点を明らかにしてくれるだけでもなければ、まともな住宅のあり方を明らかにしてくれるだけでもなく、「人間としてのまともな生活」のあり方全般を明らかにしてくれる。

衣食住を含む具体的な日常生活、家庭生活を送るうえでの判断に役立つ、という意味では、今号だけでなく、これまでの「学城」の中で随一と言えるかもしれない。

2010年7月14日水曜日

本田克也「「生命の歴史」はいかにして構築されたか(1)」(「学城」第7号)にもまた興奮

「学城」第7号で、浅野昌充さんの「「生命の歴史」の歴史Ⅰ ―ダーウィン進化論が 「生命の歴史(生命史観)」 構築に果たした役割」に次いで興奮度が高かったのが、本田克也さんの「「生命の歴史」はいかにして構築されたか(1) ―ダーウィン『種の起源』が提起した難問とその論争をめぐって」。

ホヤという生物の登場と地殻変動の絡みを南郷継正先生が見抜かれたエピソードには、南郷先生の頭脳活動のレベルと自分の頭脳活動のレベルの間に、天と地どころではないほどのへだたりがあることを、改めて、まざまざとわからされた。

2010年7月13日火曜日

浅野昌充「「生命の歴史」の歴史Ⅰ」(「学城」第7号)に大興奮

先月出た「学城」第7号を、ようやく一通り読み終えた。

掲載論文のレベルが、前号に比べてまた飛躍的に高まっている。

今号は、南郷継正先生の巻頭言や講義録より、お弟子さんの論文のほうが、はるかに知的興奮度が高かった。

中でも大興奮だったのが、浅野昌充さんの「「生命の歴史」の歴史Ⅰ ―ダーウィン進化論が 「生命の歴史(生命史観)」 構築に果たした役割」。

ダーウィンの『種の起源』が、実は「進化」を説いていなかったこと。

生物の遺骸一般が化石になるわけではないこと。

化石化は、地球の地殻変動に対応できなかった種の絶滅が一気に進んだ場合に限って起こったこと。

等々。

自分の中では、天動説から地動説へ、ぐらいのパラダイムチェンジ。

2010年7月12日月曜日

とつか再開発くん

自殺率を都道府県別で見たとき、神奈川県は1、2位を争う低さなのだとか。

このデータを見たとき佐々木は思った。

神奈川県民ってなんかゆるいもんなぁ、と。

県民性がゆるいから自殺率が低い、と結論づけるのは短絡が過ぎるだろう。

第一不謹慎だ。

経済だけでなく、気候から文化まで含めたある種の豊かさが、ゆるい県民性としても、自殺率の低さとしても、現れているのではないか。

そんな気がする。

で、そんなゆるい県民性を象徴するようなキャラクターが存在することを、最近知った。

それが「とつか再開発くん」。



衝撃的にゆるい。

横浜市の戸塚駅西口再開発事業キャラクターで、再開発事務所勤務の男性職員が1時間もかけずにデザインしたのだとか。

ここまでゆるいキャラクターが、公的事業の公式シンボルとして制定されてしまった経緯に、深い興味を覚える。

YouTubeに動画がアップされていた。

やっぱりゆるい。

2010年7月11日日曜日

ボールペンの書き心地

書き心地がよいと自分が感じているボールペンを人に貸して、「このボールペン書き心地がいいですね」と言われると、非常に嬉しい。

言語化、数値化できない部分での価値を、言語化、数値化を介さずに共有できたことが嬉しいのかもしれない。

2010年7月10日土曜日

うちはうちわ

アパートにクーラーは付いているがもう10年以上使ってない。

扇風機も持ってない。

涼をとる手段はうちではもっぱらうちわ。

どんなにクソ暑い日も、うちにいるときはタオルで汗をぬぐいうちわであおぎながら仕事、家事、食事、読書、トレーニング、休息、就寝。

メインの涼み道具なんだから小さなうちわでは困る。

できるだけ大きなうちわで効率よく風を発生させたい。

あと骨組みがプラスチックのうちわは嫌だ。

来る風自体が安っぽく感じられる。

安っぽい風に当たってると人間自体が安っぽくなりそうな気がする。

今使ってるうちわは4年前に買ったもの。

デパートに行ってかなり真剣に選んだ。

ぱたぱたぱた、んー違う、ぱたぱたぱた、んー違う、という感じで。

最終的に、竹の骨組みに和紙を貼った1枚約2400円のうちわを2枚購入した。

計4,830円(消費税込み)。

軽くあおぐだけで、たいへん気持ちのよい風が来る。

大満足。

2010年7月9日金曜日

さすがに来月は楽になるはず

5月になれば楽になるだろう、と思っていた4月。

6月になれば楽になるだろう、と思っていた5月。

7月になれば楽になるだろう、と思っていた6月。

8月になれば楽になるだろう、と思っている7月。

2010年7月8日木曜日

文章のへその緒

出産というものを佐々木は体験したことがないし、これからも死ぬまで体験しないわけだが、商用文を完成させたときはいつも、自分の体の中から一個の生命体を絞り出したかのような感覚を覚える。

納品のメールの送信ボタンをクリックするときは、産んだ子どものへその緒を切るときというのはこんな感じかなどと思う。

納品してからもしばらくの間は、自分が完成させた文章が自分の体の一部であるかのような感覚が続く。

だから文章の一部削除だとか順序変更だとかの指示が納品直後に来ると、感情的には「あなたの腸は長すぎるので病院に行って短くしてもらってください」だの「病院に行ってあなたの胃袋と食道の順序を逆にしてもらってください」だのと指示されたかのような理不尽さを覚える。

電話で指示されるよりもメールで指示されるほうが痛みがきつい。

もちろん依頼あって製作する文章なのだから、こういう痛みに対して無感覚になることも仕事のうちなのだが。

メールで修正指示をくれる人はきっと、電話対応に佐々木の時間がとられることがないように気をつかってくれているのだろう。

一方で文章の修正指示を必ず電話でくれる人は、自分でも同じ痛みを感じてきた人なのかもしれないと想像したりもする。

2010年7月7日水曜日

規範化した言葉

佐々木が大学の学部4回生のとき受講した、故田中昌人先生の教育指導論ゼミでの話。

研究生の一人が、発表の中で田中先生の著書を引用したとき、著者名に「~先生」と敬称を付けた。
「『人間発達の理論』、田中昌人先生、1987年」
という感じで。

それを聞いた田中先生、間髪を容れず
「『人間発達の理論』、田中昌人!、1987年」
と訂正し、研究発表の中ではたとえ目の前にいる相手でも敬称を付けてはならないと指導されてから、
「真理以外の何ものも恐れないで」
と付け加えられた。

田中先生がおっしゃられたのは、あくまで「学問研究の場では」という限定付きの話だろう。

社会生活のすべてにおいて真理以外の何ものも恐れずに生きていたら命がいくつあっても足りない。

ただこの言葉を聞いたとき佐々木はまだ22歳。

「かっこいいな~」と感激のあまりこの言葉が規範化してしまったところがある。

ミリエル司教がジャン・ヴァルジャンに聞かせた言葉のように、と言ったらいくらなんでも言い過ぎなのだが。

2010年7月6日火曜日

成長が止まる恐怖

明日食べるものにも困るという状況には今のところない。

死の危険を身近に感じることもない。

今もっとも切実に感じる恐怖は、自分の能力がもうこれ以上伸びないのではないか、という恐怖だ。

その恐ろしさは年とともに増している。

佐々木もあと半年と少しで40代。

これから先伸び得るのは、自分が伸ばそうと固く決意した能力だけだろう。

これから先維持されるのは、自分が維持しようと固く決意した能力だけだろう。

それ以外の能力は、すべて衰えていく一方だろう。

そうことあるごとに実感する。

2010年7月5日月曜日

そこらじゅうの人間の根性を叩き直して回りたいという欲求

佐々木が他人に教えられることといったら、次の二つぐらいだ、と先日書いた
  1. 俺が教えられることなど何もない。
  2. 俺のマネをしてもロクなことはない。
これは以前から実際思っていたことであり、特に誇張はない。あえて口にしたり書いたりすることがなかっただけで。

ところが自分の思いというものは文章にして客観化した瞬間から「本当にそうか?」という批判的検討の対象になるもので、上記の思いも、書いたその瞬間から疑いの対象となった。

どうやら「俺が教えられることなど何もない」という思いの裏には、「そこらじゅうの人間の根性を叩き直して回りたい」という欲求が抑圧されていたようだ。

根性を叩き直される必要度から言えば、佐々木自身のほうがよほど上であるようにも思われるのだが。

「これが自分の思いだ」と思い込んでいるその思いの裏に、正反対の欲求が抑圧されているのが、面白いと思った。

2010年7月4日日曜日

敬意とその表現

相互に敬意をいだける関係というのは、理想的な人間関係の一つであるように思われる。

他人との間に相互に敬意をいだける関係を結ぶには、自分自身が、他人に対して敬意をいだける人間になることが必要である。

相手にどれだけ深い敬意をいだけるかは、相手のあり方や自分のあり方に依存するのはもちろんだが、どれだけ深い敬意を自分が表現できるかということにも依存する。

極論すれば、敬意は、その表現方法を身につけてはじめて自分の中にいだくことができる、とも言える。

だが方法は、形として完成された瞬間から、その生命を失いはじめる。

敬意の表現方法を、敬意の表現方法として身につけた瞬間から、表現されるはずの敬意は失われていく。

必要とされているのは、おそらく次のような循環である。

敬意の表現を身につけることを通して、自分の中に敬意を育てる。

敬意を育てるために身につけた表現は、既に生命を失った形式として捨てる。

自分の中に育った敬意にふさわしい表現を、新たに創造し身につける。

この循環を持続できる人間同士の間に成立するのが、相互に敬意をいだける関係なのではないか。

2010年7月3日土曜日

餌付け

鳥や獣に餌を与えることで満たされる欲望の一つに「他者よりも上の立場に立ちたい」という欲望があることは間違いないと思う。そしてそのことに自覚的な人は鳥や獣に餌を与えたりしないと思う。鳥や獣に餌を与えたがる人はとても多いから言わないけど。

2010年7月2日金曜日

シェイクスピアは絵がなきゃ無理

劇の台本を文字だけで理解するのは難しい。

まして外国の古典とあっては。

古典読書会の課題で、岩波文庫版のシェイクスピア『マクベス』を読み始めたが、まるで頭に入らない。

ならばと光文社古典新訳文庫版を読んでみたが、やっぱり頭に入らない。

困って図書館に行くと、吉田萌子さんが書かれた「素描シェイクスピア劇場」が。

絵付き。

これは頭に入った。

ありがたい。

2010年7月1日木曜日

『マクベス』を読んだ

日垣隆さん主宰の古典読書会、先月の課題は、シェイクスピアの作品をどれか。

佐々木が読んだのは『マクベス』。

3人の魔女が最高。

言葉が知的でリズミカルでパラドキシカルなところが。

「いいはわるい、わるいはいい」あるいは「きれいはきたない、きたないはきれい」。

そういうセリフが出てくるシェイクスピア作品があることは以前から知っていた。

今回はじめて元ネタを確認。

だが岩波文庫版の訳はなぜか《輝く光は深い闇よ、深い闇は輝く光よ》。

光文社古典新訳文庫版の訳は《晴々しいなら禍々しい、禍々しいなら晴々しい》。

何このスッキリしない訳?

解説を読むと、ここはそのあとのマクベス初登場のシーンのセリフとかかっているので、空模様っぽい表現で訳すべきなのだとか。

そんなのどうでもいいじゃん。

リズムよく訳すほうが大事だろ。

というのが率直な感想。
 
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