2010年6月30日水曜日

先生、煮干しはおやつに入りますか

18歳のときから39歳の今に至るまで体重はずっと58kgプラスマイナス3kg(身長170cm)

ダイエット本が書けるかな。

間食はナッツ類、ドライフルーツ類、あと煮干し。

いつもじゃないけど。

2010年6月29日火曜日

欲望の現象形態としての人間

副業で広告文を書くようになってから、人間の欲望に対して、それまでよりも濃密な注意を払うようになった。

以前は、肉体としての人間が欲望を持つ、というとらえ方をしていたように思う。

最近では、欲望が肉体をまとって動き回ってるのが人間である、というとらえ方をした方が、より現実の人間の理解として正しいような気がしてきている。
「人間同士のコミニュケーションとは、欲望同士のコミュニケーションである」
とか
「〈生物〉が〈生命〉の〈現象形態〉であるように、〈人間〉は〈欲望〉の〈現象形態〉である」
とかいった命題も頭に浮かんだ。

公務員や教師になるのでもない限り、資本制社会でまっとうな社会人として生きるには、こういう人間理解が不可欠なのかもしれない。

もちろん、こういう人間理解に基づく社会のあり方自体が限界に近づいていると考える人たちもいて、佐々木もそういう人たちにけっこう共感的なのだけど。

2010年6月28日月曜日

ヘロドトス『歴史』を読んだ

古典読破計画。

今月はヘロドトス『歴史』()。

冒頭いきなり執筆動機として他民族との歴史認識の違いが詳説されるのがおもしろい。

民族というのはそれぞれが好き勝手に自らの歴史を書くもので、しかもそれぞれの民族が好き勝手に自らの歴史を書いていること自体が、ますますそれぞれの民族をして自らの歴史を書かしめるのだな、と。

あとやっぱ古代社会って本能むき出しでわかりやすい。

女の掠奪とかそんなことが開戦の動機になってしまんだから。
《そもそも女を掠奪するというのは悪人の所業であるに相違ないが、女が掠奪されたことに対して本気になって報復しようとするなどというのは、愚か者のすることであり、奪われた女のことなどは全く顧みないのが賢明な態度であると彼らはいう。女の方にもその気がなければ、掠奪されるはずのないことは自明なことだからというのである》(上巻11ページ)
ってヤンキーの抗争かと突っ込みたくなる。

ただ古代社会に比べればはるかに洗練された現代の国際社会も、一皮むけば、やはり古代社会を突き動かしていたのと同じエネルギーに突き動かされているのだろう。

単にそれが洗練によって見えにくくなっているだけで。

そういう視点で現代の国際社会を見れるようになっただけでも、この本を読んだ価値はあった。

2010年6月27日日曜日

人間は一人でも生きていける

「人間は一人では生きていけない」という命題は学問的に考えて一つの真理と思うが、真である命題の逆の命題は偽である、というのは形而上学的発想の最たるものであって、「人間は一人でも生きていける」という命題も、「人間は一人では生きていけない」という命題と同じ程度に、真理として認めてやるべきだろう。

たとえば孤独感というのは、「人間は一人では生きていけない」という命題を過剰に真と認め、「人間は一人でも生きていける」という命題を過剰に偽と認めるところに生じる感情なのではないか。

人生全体から見れば短い時間のことに過ぎないとしても、事実として、人間は一人になれる。たとえば『The Fountainhead(水源)』(アイン・ランド)冒頭のハワード・ロークのように。

その事実を事実として正しく認められないところから、周囲の人々に対する過剰な不満や、過剰な孤独感は生まれてくるのではないか。

今日そのように思った。
《Howard Roark laughed.
 He stood naked at the edge of a cliff. The lake lay far below him. A frozen explosion of granite burst in flight to the sky over motionless water. The water seemed immovable, the stone -- flowing. The stone had the stillness of one brief moment in battle when thrust meets thrust and the currents are held in a pause more dynamic than motion. The stone glowed, wet with sunrays.
 The lake below was only a thin steel ring that cut the rocks in half. The rocks went on into the depth, unchanged. They began and ended in the sky. So that the world seemed suspended in space, an island floating on nothing, anchored to the feet of the man on the cliff.》(『The Fountainhead』冒頭)
「ハワード・ロークは笑った。
 彼は巨岩の上に、裸で屹立していた。はるか真下には、湖が広がっている。花崗岩の巨大な爆発が、湖面から天空へと飛翔し、凍結していた。静止した湖面を、花崗岩の巨岩が浮遊しているかのようだ。巨岩の静止は、推力と推力がぶつかるところに生じる、運動以上にダイナミックな、一瞬の静止だった。巨岩は幾筋もの太陽光線に濡らされ----光を放っていた。
 眼下の湖は、巨岩を真っ二つに切断する、鋼鉄の薄いリングでしかない。湖面に映る巨岩は、湖面上の巨岩とまったく同じ姿で、湖の深みへと伸びていく。空中に出現し、空中に消失する巨岩----まるで巨岩上に屹立する男の足元に、世界全体が繋がれ、浮遊しているかのようだ。」(佐々木訳)

2010年6月26日土曜日

頭の中の大型洗濯機

大量の情報の中から利用価値のある情報を取捨選択して整除しているときは、頭の中にある大型洗濯機で情報という大きく重い固まりをぐるんぐるん回して、情報に付着した汚れを洗い流している感じ。

「ウィーン、ウィーン」という音まで聞こえてくる。

2010年6月25日金曜日

紙とペンがないと機能しない頭

眼の悪さは眼鏡で矯正できる。

頭の悪さは紙とペンで矯正できる。

まだ眼鏡の世話になったことはない。

紙とペンには毎日のように世話になっている。

2010年6月24日木曜日

言語化と現実

ある意味、我々がある現実を現実として認識できているのは、その現実をかつて誰かが言語化してくれていたからである。

今日佐々木が言語化したことも、いつか必ず誰かの現実認識を一つ広げるはず。

2010年6月23日水曜日

業務マニュアル作りを外注する怖さへの理解が足りなかったと反省

業務マニュアル作りを外注するのは、怖い。

ノウハウを競合に漏らされてしまうのではないか。

顧客情報を流出させられるのではないか。

社内事情を社外に暴露されてしまうのではないか。

発注する側が感じるであろう、そうした怖さへの理解が、足りなかったと先日反省。

そうした怖さを取り除く努力をもっとしなければならない。

集客の段階でも。

営業の段階でも。

成約の段階でも。

インタビュー開始の段階でも。

インタビュー終了の段階でも。

製作途中の段階でも。

納品の段階でも。

納品後の段階でも。

2010年6月22日火曜日

城跡

出張で立ち寄った地方都市。

息抜きに散策していると、城跡公園が。

中に入るとあまり整備が行き届いていない。

城壁や堀のあちこちが崩壊している。

だがむしろそのことが、かつて築城に動員された人々の仕事ぶりを、生々しく感じさせた。

崩壊しかかった城壁や堀が伝える、かつての築城労働の生々しいイメージからは、広大な城を築くという労働自体を必然化させた、かつての社会のあり方の生々しいイメージも浮かび上がった。

築城を必然化させる社会構造の像は、さらに抽象化されることで、〈政治〉や〈国〉の本質として意識された。

〈政治〉は、現在進行中の姿においては、必ずその本質が覆い隠された形で遂行される。

むしろ遂行においてその本質が覆い隠されること自体が、〈政治〉の本質の一部である。

崩壊しかかったかつての城壁や堀は、現在進行中の〈政治〉以上に、〈政治〉の本質を生々しくさらけ出していた。

2010年6月21日月曜日

井上真紀「猿猴、月を捉ふ(下)」について

今月発売された『学城』第7号、とりあえず南郷継正先生の巻頭言と「武道哲学講義 〔Ⅵ〕」、それから井上真紀さんの「猿猴、月を捉ふ(下)」だけ読んだ。

井上真紀さんの「猿猴、月を捉ふ(下)」について一言。

あのラストはどうなんだろう。

凡庸すぎ、甘ったるすぎ、と佐々木には感じられた。

それは『学城』第5号に掲載された前編「猿猴、月を捉ふ(上)」に受けた感銘が大きかったからこそなのだが。

あのような後編を続けるくらいなら、いっそ前編のみで「完」としておいてもよかったのではないかと思うぐらい。

あるいは、あのようなラストを凡庸すぎ、甘ったるすぎ、と感じること自体が、佐々木が抱えるある種のコンプレックスの現れなのだろうか。

2010年6月20日日曜日

背骨を丸める

今週から朝のトレーニングメニューに、背骨を丸めるストレッチを取れ入れた。

反り返った腰椎が少しゆるんだら、ジンブレイドのトレーニングがちょっとうまくいった。

体の側から自分の能力を高めていくうえで、反り返って固まった腰椎がボトルネックになっていることが自覚された。

2010年6月19日土曜日

広告文の設計

広告文を書くのがとにかく苦手で、その書き方をずっと考えてきた。

とりあえず現時点で考えていることを以下にまとめる。

一般に商業文は、読者の「問い」に対する「答え」の連鎖として構成される。

広告文も、読者の「問い」とその「問い」に対する「答え」の連鎖として設計することになる。

広告文の設計は、読者による次の二つの「問い」を確定することろから始まる。
  1. 読者による最後の「問い」
  2. 読者による最初の「問い」
読者による最後の「問い」は、言語的な「答え」によって解決される「問い」ではない。

その商品・サービスを実際に購入し、利用することによって解決される「問い」である。

あえて言語化するなら、
「それを買ったとき現実に自分が体験することは?」
とでもなるだろうか。

すなわち広告の設計においては、「商品・サービスを購入する」という行為自体が、「問い」への「答え」を得る連鎖の一部なのである。

読者による最初の「問い」は、上記の最後の「問い」を踏まえたうえで、次のように考えることによって確定する。
  1. その広告を、どのような「問い」を持った読者の目に触れさせるのか
  2. そのような「問い」を持った読者に対し、次にどのような「問い」を起こさせればよいのか(起こさせ得るのか)
こうして「問い」と「答え」の連鎖の始点と終点が確定されたら、確定された始点と終点を結ぶものとして、広告文の各章、各節、各文を構成していく。

どうすれば、確定された始点と終点を、広告文によって結ぶことができるか?

それは、広告文を構成するすべての章、節、文に、次の二つの機能を果たさせることによってである。
  1. 読者の「問い」に答える
  2. こちらが意図する(かつ展開上自然な)「問い」を読者に起こさせる

2010年6月18日金曜日

佐々木が他人に教えられること

“隣の芝生は青い”的感慨ではあるが、「他人に教えられること」を持っている人を、少しうらやましく感じるときがある。

佐々木が他人に教えられることといったら、次の二つぐらいだ。
  1. 俺が教えられることなど何もない。
  2. 俺のマネをしてもロクなことはない。
上記二つの命題の反証となる事実を探そうと思えば見つかりはする。

だがそうした事実的な証明がいっこうに感情的な納得を導かないのは、これらの命題が真偽の問題である以上に、倫理や美学の問題だからだろう。

真善美の問題以外にもう一つ原因を考えるなら、実利か。

人様に教えられるようなノウハウを自分では何一つ持っていないことは、言葉で説明してもらわないと何一つ理解できない勘の悪さと並んで、マニュアル制作者になるために不可欠の資質である。

欠落は資質なり。

2010年6月17日木曜日

人間の内面同士の連鎖構造としての市場・ビジネス・経済

他人の内面をわずかな材料から理解する努力を意識的に始めてみると、市場とかビジネスとか経済とか呼ばれるものが、人々の内面同士の構造的な連なり合いとしても観察され得ることに気づいた。

この観察により、市場やビジネスや経済が、より実践の指針となる形での、動的な構造像として浮かび上がってきた。

市場やビジネスや経済を、数字や言語や図式や映像や推測的な感情像だけで理解しようとしていたときには、得られなかった像だ。

2010年6月16日水曜日

他人の内面を理解する努力

他人の内面を誤解したまま理解した気になるリスクを避けるために、他人の内面を理解する努力自体を放棄し続けてきた結果、いつのまにか他人の内面を理解する能力自体が低下していた。

特に、ある分野の人々の、ある種の活動に関わる内面について。

いまさら気がついて急に理解しようとしても、自分の脳が「あんな奴らのあんな内面など理解したくない」と抵抗するぐらいに。

そのことが原因で生じる問題を、今突きつけられているところ。

わずかな材料しかなくても、あえて相手の内面に入り込んで理解を試みることで得られる利益は、誤解を理解と思い込むことで生じる損失より大きい。

それが今日の発見。

2010年6月15日火曜日

〈センター〉に仕事をさせる

世の中にある仕事を「頭の上に乗っけて処理する仕事」と「体の中に入れて処理する仕事」の2種類に分けて、「頭の上に乗っけて処理する仕事」について書くからには、書く自分自身もまた、その仕事の全体像を「頭の上に乗っけて」理解しなければならない。

自分の主観としては、身体意識の理論でいう〈天玉〉を接点に、自分の〈センター〉でその仕事の〈センター〉を支える感じ。

それは自分の〈センター〉に仕事をさせる、つまりは、〈センター〉に情報の構造化と文章化をさせる、という感覚でもある。

自分の〈センター〉に仕事をさせようとすると、それをさせまいとする部分が自分の体の中に見つかる。

それは身体の〈拘束〉としても意識されるし、より認識的には、「我(が)」としても意識される。

なんとか自分の〈センター〉が仕事をする状態に持っていこうと、身体の〈拘束〉の緩解と「我(が)」の解体を試みる。

件の仕事は、それなしには完遂できないように思えるほど、今の自分には難しい。

まさかこんな形で〈センター〉の必要性をつきつけられるとは、思ってもみなかった。

2010年6月14日月曜日

頭の上に乗っける仕事、体の中に入れる仕事

ここしばらくどうにも書けなくて困っていた文章があった。

なぜ書けないのか。

その原因をずっと考えていた。

今日急にひらめいた。

世の中には2種類の仕事があるのではないか。

それは「頭の上に乗っけて処理する仕事」と「体の中に入れて処理する仕事」だ。

佐々木はずっと「体の中に入れて処理する仕事」ばかりをやってきた。

しかし世の中の多くの人々がやっている仕事は、実は「体の中に入れて処理する仕事」ではなく、「頭の上に乗っけて処理する仕事」なのではないか。

それを勘違いして、世の中で働くすべての人が「体の中に入れて処理する仕事」ばかりをしているものだと思いこんでいたからこそ、件の文章が書けなかったのではないか。

そう考えたら急に視界が開けた。

「頭の上に乗っけて」とか「体の中に入れて」とか、いったいこれらは比喩なのか、それとも意識の持ちようなのか。

自分でもわけがわからないのだが。

日記は楽だな。

読者の理解も感情も何も気にせずただ閃いたことをそのまんま書けばいいんだから。

2010年6月13日日曜日

人間としての本質力を高めるトレーニング

自分の人間としての本質力を高めるトレーニングはある面自分の人間としての本質的な駄目さ加減を確認する方法でもあるので努力のわりに成果が出ないことがあまり続くと本当に自分が生きていること自体が嫌になっていくる。

2010年6月12日土曜日

『やっぱりおおかみ』の衝撃

日本アイン・ランド研究会の藤森かよこさんが先月の「アキラのランド節」で紹介されていた絵本『やっぱりおおかみ』(佐々木マキ)を入手して読んだ。

たまげた。

絵本の説明は藤森さんがもう尽くされている。

なのでもうしない。

藤森さんは
《この絵本を選んで、お子さんに読み聞かせるお母さんがたくさん日本に存在してきた、ということに驚きます。だって、そうでしょ?でなければ、1973年の出版以来、29版もされてきたはずがありません。絵本って、まずは親が子どものために選ぶのですから。今どきの日本の多くのお母さんが、この絵本をよっしゃ!と選択判断して、お子さんに読み聞かせるとするのならば、いや~~日本の未来も明るいでっせ。 》
とお書きになっている。

その点は本当に驚き。

日本の文化って厚みあるなぁと思う。

というか、この絵本が日本の文化に新しい厚みを付け加えたと言うべきか。

エンディングの
《そうおもうと  なんだかふしぎに  ゆかいな  きもちに  なってきました》
の、家々の屋根と、空の描写!

こういうふうにビルの上や山の上から、家々の屋根を眺めたり、空を眺めたりしているときの自分の気持ちがよみがえってくる。

同じ風景を見ていても、屋根を眺めているときの気持ちと、空を見ているとの気持ちは違う。

『やっぱりおおかみ』のエンディングで描かれた地平線の位置は、その瞬間の狼の気持ちの中で占めている「家々の屋根」と「空」の比率を示している。

空は燦々と明るいのではなく、淡々と明るい。

見てて泣けてきた。

2010年6月11日金曜日

書けない文章

同じ文章を書くのでも、自分にはまったく書けないタイプの文章がある、というのが最近の発見。

そういうタイプの文章を書こうとしても、脳がロックしたかのように働かない。

自分でも驚くくらい。

ある種の廃用性症候という感じ。

2010年6月10日木曜日

グリーンに乗せるプロセスとカップに入れるプロセス

机上のゴルフ論の、続き。

カップインまでのプロセスがグリーンに乗せるプロセスとカップに入れるプロセスから成るということが、目的実現一般を考えるうえで、ずいぶん示唆的であることのような気がしてきた。

鈍才を自認する人間はしばしば「ウサギとカメ」のカメに自分を擬す。

つまりは時間はかかってもあきらめさえしなければ目標は達成されるかのような幻想を抱く。

これはゴルフで言えば最後のカップに入れるプロセスを無視した考え方だ。

単にグリーンに乗せるだけでよいのなら小刻みに回数を打ち続ければいつかはグリーンに乗るだろう。

しかし最後のカップインは漠然と回数を打ち続けることでは達成されない。

ゴルフに関心が湧かないということは、実はこの最後のカップに入れるプロセスを無視して目標実現プロセスを構想する傾向の現れなのではないか。

そう考えるとちょっと怖くなった。

自分の目標の達成されなさ加減を省みて。

2010年6月9日水曜日

ゴルフと散歩

中学生のときに校舎裏に捨てられていた学校机の脚を真ん中から切断して作った“パター”で友人たちとゴルフボールを引っぱたいて土に埋めた缶に入れて興じた遊びを“ゴルフ”と呼ぶのでもない限り、ゴルフをやったことが一度もない。

プロスポーツとしてのゴルフにもまったくといっていいぐらい興味がない。

なのだがなぜか急にゴルフに熱中する人々の心情を理解したいという欲求が頭をもたげてきた。

ゴルフの本質を理解するために、ゴルフと真逆の活動は何かと考えてみる。

ゴルフと真逆の活動は何か。

それは散歩ではないか。

たとえば林に飛び込むティーショット。

たとえばバンカーに転がり込むアプローチショット。

散歩的な発想から言えばどちらにも価値がある。

カップインのみを価値と定義する。

定義した価値の実現に全精力を注ぐ。

これは散歩とは真逆の発想だ。

ゴルフ的発想からすれば散歩は相対主義への逃避だろう。

ゴルフが楽しまれているのは、ある面、相対主義に逃避しない人生のメタファーとしてなのではないか。

なんてことを突然思った。

たぶん自分自身が自分自身の「相対主義への逃避」を相対化したくなったのだろう。

2010年6月8日火曜日

『当世書生気質』を読んだ

日垣隆さん主宰の古典読書会の課題で、坪内逍遥『当世書生気質』(岩波文庫)を読んだ。

文体は古い。

舞台になる世界に関する知識もない。

なので、作品の世界に入り込んでいけるか、最初はちょっと心配だった。

しかし、登場人物が翻訳の仕事を受ける、という話が出てきたところで、急に親しみが湧き、それ以降は、わりとすいすい読み進めることができた。

佐々木自身も翻訳の仕事をしているので。

おもしろかったのは、日本語に、やたらと英語のルビがふられているところ。

《「人間は元が有情動物(パッショネイト・アニモル)ぢゃから、向こうから惚る(ラブ)してくれば、まさか排しがたい事もあるぢゃ」》(151ページ)とか。

ああいうやたらと英語がまじるセリフって、当時の書生のおもしろいしゃべり方を、リアルに表現した結果なのだろうか。

それとも、読者を笑わせるための、誇張表現なのだろうか。

こういうところに限らず、全体的に、いわゆる「ネタ」なのか「ガチ」なのか判断がつかなくて、宙ぶらりんな気持ちになるところが多かった。

たとえば「第十回」と「第十一回」の間に、著者自身による釈明文みたいなのが掲載されている。

あれを最初に読んだときは、思わず爆笑してしまった。

《須「我」ポカ。須「アイタタタタ。」ポカポカポカ。》

みたいなドタバタシーンのあと、いきなり筆者が顔を出して、作品についての弁明をはじめる、というのが可笑しくて。

しかもやたらと堅苦しい文体で、《(第一)》、《(第二)》、とか、妙に論理的で。

きっとこれは、読者を笑わせるための仕掛けなのだろう、と。

ところが読んでいるうちに、だんだん自信がなくなってきた。

これ、もしかして、読者を笑わせるためにやってるんじゃなくて、本気で弁明をしていのか? と。

やはリテラシーがないと、作品というのは楽しみきれない。

でもまぁ、あえてこうやって楽しみきれない作品にも挑戦することが、リテラシーの蓄積につながるのだろう、きっと。

2010年6月7日月曜日

逃避

仕事のうえで自分の能力の不足を感じたとき、自分の脳のどの部位が固まっていることが障害になっているのか、という意識の仕方をよくする。

で、その部分の疲労を取ったりゆるめたりということ時間を使う。

ただ純粋に仕事の遂行という観点から見たとき、それってある種、テスト前になると読書に逃避する学生と同じなのではないかと思ったりもする。

2010年6月6日日曜日

畠山美由紀の表現

表現というのは、「現れない何か」が「裏」にあって、それが「表」に「現れる」から「表現」なのだろう。

言うなれば「現れない裏」が〈原因〉で、「現れる表」が〈結果〉だ。

表現における〈原因〉と〈結果〉のどちらにより注力するかによって、〈原因志向〉の表現者と、〈結果志向〉の表現者がいる。

佐々木が畠山美由紀を好きな理由の一つに、彼女が〈原因志向〉の傾向を非常に強く持っていることがあるように思う。

いわゆるヒットチャートに名を連ねるボーカリストには、〈結果志向〉の表現者が多いような気がする。

音楽に限らず、一般的に商業的な大成功をおさめるには、〈原因志向〉にならずに〈結果志向〉になることが、十分条件ではないにせよ必要条件であるのかもしれない、なんてことも思った。

2010年6月5日土曜日

現金書留

茨城県のとある施設から利用代金16,708円の請求書が来る。

振込先口座が記載されていないので電話で問い合わせると、

「窓口に現金で持ってきてください」

とのお答え。

神奈川県にいるので窓口まで行けない、とお伝えすると、

「その場合は現金書留で送ってください」。

絶句。

「‥‥差し支えなければ、なぜ銀行振込を受け付けていただけないのか、教えていただけますか?」

と尋ねると、

「申し訳ないのですが、代金は窓口でお支払いいただくか、現金書留で送っていただくことになっています」。

ふだんの生活では絶対に遭遇することがないような種類の人々の存在を知ることができていい経験だった、と思うことにする。

2010年6月4日金曜日

「自分」の定義

「自分」とか「自己」とか「己(おのれ)」とか「我(が)」とか言われるものは、なければないで作らなければならないし、できたらできたで壊さなければならない。

「自分」と認識してるものを、今は壊さなければならない時期だと感じている。

「自分」等と言われるものは、自分が勝手に作ってしまった限界なのではないか。

「自分」の定義の中に「自分」が入っているのはおかしいが、現実のあり方はたいていこんなものだろう。

2010年6月3日木曜日

喋る法人

法人というものを、自分はまったくわかっていなかった、と最近気づいた。

法人ってある種ほんとに生命体なんだ、というのが最近の実感。

法人って、喋るのだ。

いやいや喋るのは個人でしょ?

たしかにそうなんだが。

たとえば「人間が喋るんじゃなくて口が喋るんだ」という屁理屈を認めるとして、「法人が喋るのではなく個人が喋るのだ」というのは、そういう屁理屈に近い、というか。

「個人が法人を代表して喋る」という認識の仕方では認識できない面を、「法人が個人の口を借りて喋る」という認識の仕方が明らかにする、とでも言ったらいいか。

口は人間がコントロールできるが、法人は、個人のほうが喋る気になってくれないと喋れない、という違いはあるが。

なんだかえらく要領を得ない話だが、個人的に、かなりの知的興奮と経済的実利をもたらす思いつきなので、メモしておく。

2010年6月2日水曜日

難しくなる仕事

依頼される仕事がどんどん難しくなってきたように感じるのは自分の能力が落ちてきているからなのか、それともより難しい仕事が遂行できることを期待されるようになってきたからなのか。

2010年6月1日火曜日

スポーツとしての論戦

競技スポーツを楽しむ習慣がない。

運動神経も鈍い。

そもそも勝利への執着を持てない。

なのでやっても楽しめない。

同様に議論を楽しむ習慣もない。

相手の議論の不備に気づくころにはたいてい議論そのものが終わっている。

「どっちだっていい」

「どっちの言い分ももっとも」

たいていの議論に感じるのはこんな気分。

ただ最近思ったこと。

スポーツで勝利を得ることに全力を尽くすことで高度かつ効率的に開発される身心の領域が存在するように、論戦で勝利を得ることに全力を尽くすことで高度かつ効率的に開発される精神の領域というのも、確かに存在するな、と。

裏を返せば、論戦を回避することで開発の機会が失われる精神の領域が存在するということだ。

かといって本気で論戦に加わる気にはまだならないけども。
 
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