2010年5月31日月曜日

成長する以外の選択肢はない

今の能力では要求される水準を達成できない仕事。

今の処理能力ではこなしきれない仕事量。

要求される水準を達成できるように、依頼されただけの量をこなせるように、短い時間で自分が成長するほかない。

今年は想像していた以上にすごい1年になるかも。

2010年5月30日日曜日

つなぎ箸

弁当を持って外出したとき、弁当箱に付属する短い箸で食事をすると異様に寂しい気持ちになる、ということを以前書いた

似たようなことを感じる人は少なくないらしい。

長い箸を二つに分割してネジでつなげて使う「つなぎ箸」というのが売られていた。

こりゃいいかも、と買ってみた。



で、さっそく今日、外出先で使った。

が、期待していたほどの満足を得られなかった。

長さが中途半端なのだ。

佐々木がふだん家で使っている箸は長さ23センチ。

今回買ったつなぎ箸は長さ21センチ。

弁当箱に付属していた箸は長さ18センチだから、一応それよりは長い。

が、とても満足できる長さではない。



わざわざネジを回して連結する手間を掛けてでも長い箸を使いたい。

こういう願望を持つ人間というのは、おしなべて、もう普通の長さの箸では満足できないぐらいの、長い箸好きなのではないか。

そういう長い箸好きの欲求を満たすための商品としては、いかにも中途半端な長さだ。

というか、この21センチのつなぎ箸を使ってみて、自分が異常なぐらいの長い箸好きなのだとういことを、はじめて自覚した。

家で使っている23センチの箸も、自己観察してみると、佐々木は箸の後端ギリギリを持って使っている。



あと1センチは長くていいのではないかと思っているぐらい。

とにかく長い箸をヒョイヒョイと扱いたいという潜在欲求が強烈にあるらしい。

ネットで調べると、長さ23センチのつなぎ箸というのは売られていた。

どこかで長さ24センチのつなぎ箸を出してほしい。

2010年5月29日土曜日

畠山美由紀の歌声に癒される

ここ何日間か畠山美由紀の「星が咲いたよ」と「ロマンスをもう一度」の2曲をWALKMANで延々リピート再生して聴いている。

こういう曲を延々聴いていたくなるというのは、要は、佐々木がかなり疲れているということなんだと思う。

ただ見通しの立たない将来への不安だとか、身心を一方的に蝕まれるような徒労感に押しつぶされかかっているときには、たぶん、こういうしっとりとした曲に癒しを求めたりはしない。

こういう曲に癒されるようになったこと自体、自分が抱える不安だとか疲労だとかが、とりあえず自分のコントロールの範囲内に収まりはじめたことの現れのような気がする。




2010年5月28日金曜日

美味くてたまげた釜揚げしらす

仕事で和歌山県に行った。

訪問先で、お土産に、と釜揚げしらすとちりめんじゃこを持たされた。

今回はお土産をもらうべき立場ではなかったのだが、先方の溢れるご好意に甘え、受け取ってしまった。

家に帰って食べてみて、あまりの美味さにたまげた。

露弥水産の「釜揚げしらす」と「上干チリメン」。

通販もしているようだ。

2010年5月27日木曜日

飛行機

15年ぶりぐらいに飛行機に乗った。

なんか大人になると子供時代に持っていたみずみずしい好奇心が失われるみたいな社会通念があるけど、あれは逆だと思った。

40歳近くなって飛行機の窓から見下ろす雲や地上の景色は子供の頃に飛行機の窓から見下ろした雲や地上の景色よりもはるかに驚きと感動に満ちていた。

2010年5月26日水曜日

ウォーレン・バフェットの父

投資家ウォーレン・バフェット氏の伝記『スノーボール ウォーレン・バフェット伝』を読んだ。

ウォーレン・バフェット氏自身の考え方や生き方にも大いに魅力を感じたが、それよりもまず先に、バフェットの父の考え方や生き方に引き付けられてしまった。

バフェット氏は父について、この本の冒頭近くで次のように語っている。
《子供を教育すると、両親が重んじる事柄を子供はいち早く吸収する。世界にどう思われるかだけを重んじる親なら、子供は自分のふるまい方を忘れてしまい、外のスコアカードに動かされるようになる。私の父は、内なるスコアカードが一〇〇パーセントの人だった。
つまり、徹底した一匹狼だったんだ。だが、一匹狼であることが目的の一匹狼ではなかった。人にどう思われるかを気にしなかっただけだ。人生をどう生きるべきかということは、父に教わった。父のような人にはその後、一度も会ったことがない。》
バフェット氏がそれほど尊敬していた父、ハワード・バフェットとはどのような人なのだろう、と思いながら本を読み進めていくと、途中にその肖像写真が掲載されていた。

それが下の写真。



一瞥して体に電撃が走った。

ハワード・バフェットはビジネスマンから下院議員になった人で、金本位制やアイソレーショニズムを信奉する、きわめてリバタリアン的な政治的立場の人だったようだ。

日本による真珠湾攻撃について、
「ヨーロッパでの戦争にアメリカ国民を参加させるには、日本にわれわれを攻撃させるしかないから、真珠湾攻撃を事前に知っていても、それを国民に伏せておく、というものだ」
と評していた、という話が、この『スノーボール』にも出てくる。

ハワード・バフェットが下院議員選に落選したときの選挙ビラ、なんていうのもこの本には載っていて、そこには次のような一節があった。
《On every issue I have used a simple American yardsitck ... I have asked myself, "Does this proposal move us TOWARD OR AWAY FROM HUMAN LIVERTY?"》
「私はすべての問題に対して、あるシンプルなアメリカ的基準を用いてきました。私は自分自身に対して次のように問い掛けてきたのです。すなわち、『この提議は、我々を自由に近づけるだろうか? それとも我々を自由から遠ざけるだろうか?』と」
ウォーレン・バフェット氏やその父ハワード・バフェットのさまざまなエピソードを読んでいると、アメリカの保守主義ってやっぱかっこいいなぁ、と改めて思う。

2010年5月25日火曜日

ゴツゴツと引っかかる文体が気持ちいい

古典読書会の今月の課題で坪内逍遥の『当世書生気質』を読んでいる。

すいすいとなめらかに読める文体ではないが、近頃こういうゴツゴツと引っかかる文体が気持ちいい。

きちんとペースを決めて古典を読んできたことの効果が出始めているようで嬉しい。

2010年5月24日月曜日

悲しみに関するパラドクス

失う悲しみが繰り返されないように何一つ失うものを持たないようになった状態それ自体が悲しいというのは悲しみに関する一つのパラドクスだと思う。

2010年5月23日日曜日

脳の脱皮

脳をさんざん酷使しながら脳疲労の解消法をやりこんでたら、たまっていた脳疲労の固まりが崩れて、脳が脱皮しはじめたかのような感覚を覚えた。

主観では、脱皮後の脳には次の能力が組み込まれている。

1.脱皮を繰り返して回復し成長する能力。

2.上記の能力自体を向上させる能力。

主観通りならエラいことだ。

2010年5月22日土曜日

〈アンチ・ゴールドラッシュ〉市場

ゴールドラッシュで儲けたのは、金を掘った人ではなく、金を掘る人にシャベルや衣類や食事を提供した人だった、という有名な話。

たとえば

「金を堀りに行くなんてくだらない。今の生活を変えないのが一番だ」

と思いたい人に

「その通り。あなたの考えは正しい」

と言ってあげる内容の本を売って儲けた人がいたら、その人もまたゴールドラッシュで儲けたことになるんだろうな、ということを、ふと思った。

もちろん今の時代に通じる話として。

2010年5月21日金曜日

理論派か感覚派か

自分は理論派か。

それとも感覚派か。

自己分析は難しい。

そこで次の仮説を考えた。

 A=ここ3週間で他人の非論理性に不満を抱いた回数。

 B=ここ3週間で他人の理屈っぽさに不満を抱いた回数。

 A>Bなら理論派。

 A<Bなら感覚派。

どうだろう。

2010年5月20日木曜日

去年のスケジュール帳

去年のスケジュール帳を引っ張り出して眺めてみた。

1年前よりも自分は成長していると思った。

それもかなり。

じんわりと嬉しい。

2010年5月19日水曜日

脳疲労の回復時間に対する先入観

これぐらいの脳疲労をしているときは、回復にこれぐらいの時間がかかる、という先入観が、脳疲労の回復を遅らせている、ということがあるのではないか。

もっと短時間でさっさと脳疲労が解消されることがあり得る、と想像を働かせることで、脳疲労がさっさと解消されることがあり得るのではないか。

そんなことを思って、試してみて、実際その通りだった。

2010年5月18日火曜日

子ども脳

子どもの頃は今みたいにいつも脳が疲れてはいなかった。

5月の晴れた空を見ていたら思い出した。

今の処理スピードでは間に合わないぐらいの仕事の依頼をいただいている。

子どもの頃のあの脳の状態に戻さないとと思った。

そのためにはたぶん今よりももっといい意味でいい加減にならないといけない。

脳の奥にかかっているブレーキをもっと外してやらないといけない。

2010年5月17日月曜日

Facebookへの移行を検討中

一昨年の11月から延々と書き続けているこの日記、Facebookに移行しようかと思い始めている。

Facebookって、決して日記用に設計されているツールじゃないけども。

人は自分が毎日行っていることによって作られていく、と言われる。

コメントなしトラックバックなしのブログ形式で日記を書くことを、1年半以上続けていること自体が、今の佐々木の精神のあり方を、かなり規定しはじめているような気がしている。

今の形のほうが、居心地はよい。

Facebookに参加して発言することには、まだ違和感を感じる。

ただその違和感をあえて乗り越えることが、今の自分には必要な気がしている。

2010年5月16日日曜日

たるむことの大切さ

高岡英夫先生の新刊『「ゆるめる」身体学』の「はじめに」に
《本書では、まず、いまのあなたをある言葉に対する思いこみ、つまり「言葉の呪縛」から救いだすことを試みる》
とある。

序章第一節の見出しは「ゆるむのはよくないことか」。

序章の「ある言葉に対する思いこみ」とは、おそらく、「ゆるむことはよくない」という思いこみだろう。

だが佐々木にとって、この本によって最も「思いこみ」の解体を余儀なくされたのは、「たるむ」という言葉についてだった。

ゆるむのは良いこと、たるむのは悪いこと、と、佐々木は完全に思い込んでいた。

高岡先生ご自身、以前はそのような説き方をされていたように、佐々木は記憶している。

ところが、この本では、たるむことの大切さが、随所で説かれている。

先生そりゃないよ、という感じだ。

「たるむ」という言葉に対して何十年も持ち続けてきた悪いイメージを、いまさら自分の中から払拭できるものか。

ちょっと絶望に近いほどの困難を、この本を最初に読んだときは、感じた。

実際のところは、なんのことはない、2、3週間かそこらで払拭されてしまったのだが。

2010年5月15日土曜日

『「ゆるめる」身体学』の文体に対する率直な感想

高岡英夫先生の新刊『「ゆるめる」身体学』の文体について、一昨々日書いた

現在の日本社会で指導的な地位にある「運動野と感覚野を使わない言語活動」の能力を突出させた人々を、第一の読者と位置づけられたがゆえの文体だろう、と。

そのような感想を抱いたこと自体、佐々木自身が「運動野と感覚野を使わない言語活動」の能力を突出させた人間ではなくりつつあることの現れなのだと思う。

高岡先生が「ゆる」のコンセプトを唱道され始めたころ、佐々木は高岡先生の文体に違和感を感じて感じて、しかたがなかった。

極意と人間』、第三章「自由と拘束(フリーとスティフ)」、五「『ゆる三法』とは何か」とか。

「ゆる体操」が発表されたころ、たとえば「ひざコゾコゾ体操」で「コゾコゾ」とつぶやこうとすると、自分の脳が、自分の意識とは別に頑強に抵抗して、脳が痛みを発するほどだった。

「『コゾコゾ』なんていう日本語はない!」と。

実務翻訳者として、「使用が認められていない日本語表現」を排除することに、何年も職業的努力を重ねてきていたわけだし。

ただそういう違和感を感じること自体、自分が固まっているということなのだろうと頭では理解できたから、そういう感情が解消される方向を目指して、努力を重ねてきた。

で、このたびの新刊『「ゆるめる」身体学』の文体を見ての、率直な感想。

なんかつまんねぇ文体だな、と。

佐々木もほんと変わった。

2010年5月14日金曜日

アルファベットの海

「言葉を紡ぐ」とか、「言葉を組み立てる」とかいう表現がある。

「紡ぐ」とか「組み立てる」とか言うからには、その材料があるはず。

言葉の材料、とでも言うべきものが。

言葉を紡ぎ組み立てる側も、紡がれ組み立てられた言葉を受け取る側も、材料から紡がれ組み立てられた言葉にばかり注意がいく。

せいぜい、材料から言葉が紡がれ組み立てられるプロセスにも、注意の半分がいくぐらい。

材料そのものが増えるありさまには、注意がいかない。

海岸で海を見ていると、波は沖からこちらに向かってばかり進んでくるように見える。

沖に向かって返されていく流れは、水面下にあって見えない。

言葉が紡がれ組み立てられるプロセスにばかり注意がいくのも、それと同じなのかもしれないと思った。

海岸から水面下を沖に向かって進んでいく流れと、沖から海岸に向かってくる波は、ワンセット。

同じように、言葉の材料から言葉へ、つまりは意識へ、と流れる流れは、意識から言葉の材料へと流れていく流れと、ワンセットであるような気がした。

英語で言えば、言葉の材料は、アルファベットの海とでもいうべき姿をしている。

第二言語として英語を学習しながら、英語がものにならない人々は、アルファベットの海から英語を紡ぎ出す流れにばかりを作ろうとして、意識からアルファベットの海へと逆流していく流れを作っていないのではないか。

なんてことを最近、不自由な英語を使いながら、思った。

2010年5月13日木曜日

あんぱんが食べられない

銀座4丁目の木村家1階で売っている、焼きたての酒種あんぱん(小倉、桜)を食べた。

スーパーやコンビニで売られている普通のあんぱんが食べられなくなった。

2010年5月12日水曜日

『「ゆるめる」身体学』を読んだ

高岡英夫先生の新刊『「ゆるめる」身体学』を読んだ。

感情を排除して、事実と論理を明示することに専念した感じの文体。

あるいは、優秀な英日翻訳者が、英語による論説を日本語に訳したような文体。

そのまま機械翻訳にかけても、おそらくほとんどの部分が、英語話者にも意味が通じる英文になるのではないだろうか。

擬態語に関する部分の機械翻訳は、さすがに難しいだろうが。

このような文体のご著書は、最近の先生には、あまりなかった気がする。

なぜ高岡先生は、このような文体でこの本を書かれたのだろうか?

この本の229ページに、次のように書かれている。
《大人の男性たち、特に非常にたくさんの知識を頭に詰めこんでいる中高年の男性たちは、運動野と感覚野を使わずに言語活動をしがちだ。小脳も間脳も中脳も使わない。言語活動だけが独立して、記憶蓄積装置と結び付いて、それだけの活動をしがちである。》
おそらく先生は、ここで言う「運動野と感覚野を使わずに言語活動をしがち」な中高年の男性を主なターゲットとしたがゆえに、このような文体を選択したのではないだろうか。

日本社会が現在の危機的な状況を脱するには、現在の日本社会で指導的な地位にある人々に、この本に書かれた内容を理解してもらわなければならない。

だが今の日本社会は、まさに「運動野と感覚野を使わない言語活動」の能力を突出させた人々が、指導的な地位につく構造になってしまっている。

だからこそこの本は、そのような言語による表現しか受け入れられなくなってしまった人々にも、受け入れられやすい文体で書かれなければならない。

そのようなお考えがあったのではないかと、勝手に推測している。

2010年5月11日火曜日

脳疲労解消の効果、続き

脳の中心付近の疲労が解消されてくると、身体が、意外なほど自動的に、こちらの期待を越える動きをしてくれる。

会社にたとえるなら、脳の表面付近が社長、脳の中心付近が社員で、これまでなにからなにまで社長がやり方を指示しなければ動かなかった社員が、突然目覚めて、社長の意図や状況を察知して勝手に社長の期待を越える成果を上げてくれるようになった感じ。

社長は楽でしょうがない。

ただこの社員、まだ目覚めたばかりで、それほどスタミナもないし、それほど有能でもないのだが。

2010年5月10日月曜日

ソーシャル・ネットワーキング・サービスと自己

どのような社会ネットワークのあり方の中で育ったか、ということは、「自分」というもののあり方を、根底的に規定する。

もしも佐々木が縄文時代の部族社会に生まれていたら。

もしも佐々木が江戸時代の下層農家に生まれていたら。

もしも佐々木が昭和初期の財閥の家に生まれていたら。

佐々木は、今の佐々木ではあり得なかったはず。

今の佐々木は、FacebookやTwitterなどのソーシャル・ネットワーキング・サービスがまだ存在しない時代に、形成された。

だから、これらのソーシャル・ネットワーキング・サービスを利用するにあたっては、既に形成されている佐々木の自己同一性ができるだけ保たれるような利用の仕方から、できるだけ外れないような利用の仕方に限定して利用するようになる。

だが、もしこれらのソーシャル・ネットワーキング・サービスが中心的な役割を果たすような社会ネットワークの中で、佐々木が生まれ育ったとしたら?

佐々木は、今の佐々木ではあり得なかったと想像される。

これらのソーシャル・ネットワーキング・サービスは、これらのサービスがまだ存在しない時代の「自分」概念を、大きく変容させるような気が、最近している。

2010年5月9日日曜日

脳疲労が解消された状態、追加

昨日のメモに追加。

  • 延髄の疲労を解消するメソッドがツボにはまると、突然、大腰筋の付近から深く大きな呼吸が発生する。

2010年5月8日土曜日

脳疲労が解消された状態

5月5日の「脳疲労解消力アップ」講座(運動科学総合研究所、高岡英夫先生)に参加して、自分の脳疲労が劇的に解消されたときの状態を、自分の主観に即して、メモしておく。

  • 自分の脳が、タラの白子のように、白く、柔らかく感じられた。自分の脳の色をこれまで意識したことはなかった。強いて言うなら、当然光が当たっていない箇所なわけだから、黒だろうか。それが白く感じられた。また、たいへん柔らかく感じられた。

  • 大脳、小脳、延髄、間脳など、脳を構成するそれぞれの部位が、異なった性質を持つものとして感じられた。これまでは、ほぼ一体のものとしてしか感じられていなかった。脳を構成するそれぞれの部位が、それぞれ個性を持ち、しかもその個性が、それぞれ勝手なありかたとしての個性ではなく、その個性があるがゆえに全体に適切に貢献できるという形での個性として、感じられた。

  • 脳の各部位同士が、サポートし合っている感覚を感じることができた。小脳や延髄などが大脳の働きをサポートしている感じ、逆に大脳が小脳や延髄の働きをサポートしている感じ。

  • 脳を構成する各部位が、重力に対して安らっているように感じられた。小脳や延髄が、脛骨に沿って、ずるーんと垂れ下がってんる感じ。それまでは、これらの脳の部位が、無理に高さを維持しようとして、ちょうど緊張状態において肩が上がるように、大脳と一体化するように無理に上げられていた感覚だった。

  • 脳の各部位が重力に対して安らっている状態が感じられると、自分の全身の中で、重力に対して安らっていない部位が、気になって感じられた。特に、腰から背中にかけての無理な力みが、気になって感じられた。そのように無理に腰や背中が力んだ状態では、脳のほうも、十分に重力に対して安らえない感覚。腰や背中の力みを、工夫しながらゆすって解消していくと、脳の各部位を、より重力に対して安らわさせることができた。

  • 脳疲労が解消された状態で野菜を切ると、いつもよりも容易に、スパスパと野菜が切れる感覚があった。

2010年5月7日金曜日

「脳疲労解消力アップ」講座に参加

5月5日に開催された運動科学総合研究所の「脳疲労解消力アップ」講座(高岡英夫先生)に参加した。

あえて脳に負荷をかけて疲労させ、解消法で解消し、解消したらまた負荷をかけ、ということの繰り返しで、脳の実力はどこまでも向上していく、という冒頭での先生のお話が、刺さった。

まだ脳疲労解消法を習わないうちから、さっさと家に帰って脳に負荷を掛けまくる仕事がしたくなったくらい。

教わったメソッドはどれもすばらしかったが、特に、側頭葉にたまった疲労を解消するメソッドが、新鮮だった。

やってみて、自分の側頭葉に、想像していなかったほど疲れがたまっていたことがわかった。

このメソッドをやり続けていくと、自分の顔つきが変わってしまうかもしれない。

1時間ごとなど、時間を区切って、生活の中に意識的に脳疲労解消法を入れていく、という教えは、早速その日から実践。

調子がいい。

ただ一つ問題が。

公共の場でフルにやるには、ちょっと恥ずかしいメソッドが多い。

工夫のしどころ。

2010年5月6日木曜日

論じられているもの、論ずべからず

多くの人の議論の的になっていることは、論じるのを避けるに限る。

そのような論争に参加すること自体を、自分の職業にしているのでもない限り。

その議論について頭を働かせようとするだけで、過去にその議論に加わった無数の人々の侮罵、瞋怒、怨嗟のエネルギーが、体に押し入ってくる。

2010年5月5日水曜日

文体と水分

古典から現代まで、いくつかの日本文学全集を1巻数十秒程度の超速読で読み通してみて、文体そのものが放つ気の質という点で、谷崎潤一郎以上の、ダントツの印象を与える作家が、一人いた。

それは川端康成だ。

人間の身体の約70%は水であると言われる。

感覚や感情や思考の基盤は身体だ。

身体の構成要素の大半が水である以上、その身体を基盤に生じる感覚や感情や思考も、当然、水と同じ性質を背後に有している。

ところが文字言語においては、感覚や感情や思考が有している水のクオリティが、見かけ上、決定的に失われている。

点と線の組み合わからなる文字が何列もの直線に並べられた姿に、感覚や感情や思考の基盤の大半を占めていた水の姿は、すでに見る影もない。

川端康成の文体のすごいところは、文字言語という、水とは正反対の質の表現形式から、人間の体が持っている水分のクオリティを発散させているところだ。

川端康成の文体と比べれば、他の大半の作家の文体は、擬態語で言えばすべて「ゴツゴツ」の一括りである。

2010年5月4日火曜日

日本史上最高のエロじじい

エロを語らずに、エロを感じさせる。

そういう文章表現があり得るということを、『紫式部日記』を読んで知った

で、そういう文章表現をできる作家が、他にもいるのか。

図書館に行き、古典、現代合わせて、いくつかの日本文学全集を、1巻につき数十秒程度の超速読で、読み通してみた。

結果、一人だけ突出して、文体そのものから、エロを発散させている作家がいた。

それは谷崎潤一郎。

暫定ではあるが、佐々木は谷崎潤一郎を、日本史上最高のエロじじいと認定することにする。

2010年5月3日月曜日

『政治神学』を読んだ

今年の古典読破計画の第5弾としてカール・シュミットの『陸と海と―世界史的一考察』を読むべく書店に注文したのだが、届くまでに3週間ぐらいかかりそうなので、同じ著者による『政治神学』(田中浩/原田武雄訳)を図書館で借りて読んでみた。

お世辞にも整理された論述とは呼べない本だったが、次の箇所は刺さった。
《主権者とは、例外状況にかんして決定をくだす者をいう。》
《現代国家理論の重要概念は、すべて世俗化された神学概念である。たとえば、全能なる神が万能の立法者に転化したように、諸概念が神学から国家理論に導入されたという歴史的展開によってばかりでなく、その体系的構成からしてそうなのであり、そして、この構成の認識こそが、これら諸概念の社会学的考察のためには不可欠のものである。例外状況は、法律学にとって、神学にとっての奇蹟と類似の意味をもつ。このような類似関係を意識してはじめて、ここ数百年における国家哲学上の諸理念の発展が認識されるきである。なぜなら、現代の法治国家の理念は、理神論、すなわち、奇蹟を世界から追放し、奇蹟の概念に含まれている自然法則の中断、つまり直接介入による例外の設定を--現行法秩序への主権の直接介入を拒否するのとまったく同様に--拒否する神学および形而上学、を踏まえつつ確立してきたのである。》
神学が圧倒的な影響力を持つ時代や社会に関する体験知が、佐々木にはない。

シュミットは神学から現代国家理論を類推させているが、逆に現代国家理論から神学を類推し、さらには現代社会から中世社会を類推するための、思わぬ手掛かりを与えられたような気がした。

2010年5月2日日曜日

『禁煙セラピー』を読んだ

読むだけで絶対やめられる禁煙セラピー』(アレン・カー著、阪本章子訳)を読んだ。

本当に読むだけでタバコをやめることができた人が続出、との評判を聞いたので。

佐々木はタバコは吸わないが、自分が抜け出せずにいるいくつかの悪習の克服に役立つのではないかと思ったのだ。

ところが本の冒頭から、喫煙は習慣ではない、と。

著者によれば、喫煙者がタバコを吸い続ける理由は

(1)ニコチン中毒
(2)洗脳

の二つ。

佐々木が期待したような、「悪習の克服」に簡単に役立つような内容ではなかった。

ただ、「簡単に役立たない」ということと、「役に立たない」ということは、イコールではない。

佐々木が自分の「悪習」だと思っていることも、実は「中毒」と「洗脳」の結果ではないか?

よく読むとこの本は、そのような視点を与えてくれる。

現実に「中毒」と「洗脳」の結果である症状を、それとして自覚することは、きわめて難しい。

この本の表現を借りれば、「中毒」と「洗脳」にはまることは、「巨大迷路」に迷い込むようなものだから。

どうやら簡単にできることではなさそうだが、自分が無自覚のうちにはまりこんでいる「中毒」と「洗脳」の克服に、この本の内容を、ぜひ応用してみたい。

現実に33年間にわたって「中毒」と「洗脳」の「巨大迷路」をさまよい、抜け出した著者の体験には、そうとう貴重なものが埋まっていると思ったほうがよさそうだ。

2010年5月1日土曜日

ヒットソングのキラキラ

たまにラジオをつけて、今日本でヒットしているらしい曲を聴くと、「キラキラキラキラ‥‥」という擬音で表現したくなる人工音が、かなりの確率で、バックに入っている。

あのキラキラ音が入っているのといないのとでは、曲の売れ行きが、おそらくかなり違うのだろう。

そういえば、夜の街頭にたむろして騒ぐ迷惑な若者を追い払うために、若者にだけ聞こえる高周波の不快音を発生させるという装置の話を、どこかで読んだことがある。

あれの裏返しということか。

佐々木は音楽の作り方のことはまったくわからないのだが、あのキラキラ音はどうやって入れるのだろう。

たとえばワープロで文章を作るときは、太字にしたい箇所があれば、その部分を選択して「B」(ボールド)アイコンをクリックすればよい。

あれと同じ感じで、モニター上で楽譜のある部分を選択して、何かのアイコンをクリックすれば、そこにあのキラキラ音が入る、という感じなのだろうか。

一つ不思議なのは、いわゆる「洋楽」を多めに流しているFMラジオを聴いていると、外国の曲には、あのキラキラ音が入っていることがほとんどないように感じられることだ。

あのキラキラ音は日本独自のものなのか。

それとも、キラキラ音が入っていない外国音楽が、意識的に選択されて「洋楽」として日本に輸入されているということなのか。
 
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