2010年4月30日金曜日

出会いの意味

自分にとっての、相手との出会いの意味は、できるだけ深く考えようにしている。

が、相手にとっての、自分との出会いの意味は、むしろできるだけ考えないようにしてきた。

自分との出会いが相手にとって肯定的な意味を持つと考えられるほど、自己評価が高くなかった。

自分以外の人間を変えようとすることの無意味さや罪について考える機会が、子どもの頃から多かった。

こんなところが、理由として思い浮かぶ。

ここのところ思い始めていること。

相手にとっての、自分との出会いの意味を、考えてもいいのではないか。

そのような意味を考えることの生産性、あるいは、そのような意味を考えないようにしていることの非生産性を、ぼんやりと感じる機会が増えている。

2010年4月29日木曜日

『紫式部日記』を読んだ

今年の古典読破計画の第4弾として、『紫式部日記』()を読んだ。

エロくてたまげた。

エロいというのは、下ネタ満載ということではない。

平仮名と漢字が並ぶ視覚的な姿。

そこから伝わる「無音の聴覚」。

これらがエロさを発散しまくりなのだ。

フランス映画で女優が何をしゃべっているのかさっぱりわからないにもかかわらず言葉の響きがとにかくエロい、ということがある。

あれと一緒。

現代日本語では、残念ながらあそこまでのエロさは出ない。

それから、読み手に伝わる「書き手の存在感」を極小まで抑制しながら、ギリギリゼロにはしない「おあずけ感」もたまらない。

エロは表現対象ではなく、表現主体の身心の奥深いあり方から発散される。

小学生が「チン○! チン○!」と叫んでエロいかという話だ。

表現主体の身心のあり方がエロければ、風の匂いを語っただけでもエロいのである。

さすが世界最古の長篇恋愛小説『源氏物語』の作者。

原文と現代語訳が並んでいるほうがわかりやすいかと思って講談社学術文庫版を買ったが、失敗。

これだけエロい文章の隣に、生硬な現代語訳だの注釈だのが並んでいるのは、目障りなだけ。

原文だけが続く版を買えばよかった。

2010年4月28日水曜日

短い箸

今年に入ってから、ときどき弁当持参で外出するようになった。

食費の節約や健康のことなどを考えて。

弁当箱は、フタの部分に短い箸を格納できる、プラスチック製のもの。



弁当を詰めたり、弁当箱を包んで鞄に入れたり、とった作業は、あわただしい外出時にはけっこう面倒に感じられるものだから、箸箱を別に持つ必要がない、というのは、この弁当箱を買うとき思っていた以上に、ありがたく感じられる。

ただ一つ大きな問題が。

弁当箱の蓋に納まるほど短い箸で食事をすると、これがもう自分でもびっくりするぐらい、寂しいーーーーぃ気持ちになる。

もう、心が折れる、という表現でも使いたくなるくらいに。

使う箸の長さが、これほど自分の精神状態に影響を与えるとは思わなかった。

ちょっと面倒でも、箸箱と箸を別に買って持ったほうがいいのかも。

2010年4月27日火曜日

宇宙にメモ

頭の中は、宇宙より広い。

位相幾何学的には、ヘンな話だけど。

アイデアが浮かぶとき、そのアイデアは、空いっぱい、宇宙にはみ出るほど大きな空間に、立体的かつ流動的かつ直接に感情的な、生きたマインドマップとして展開される。

自分の中で、イコール、自分を取り囲む宇宙空間を、まさに展開しつつあるアイデアを、どう保存するか。

紙に書くにしても、電子機器に入力するにしても、その画面サイズは、元のアイデアが有する空間的スケールと比べて、あまりにも小さい。

いまだアイデアの概念化が進まない段階、空間的スケールそのものがアイデアの欠くべからざる一部に感じられる段階において、この画面サイズの制約は、アイデアの転写そのものの不可能性を意味するかのように思われる。

そのうえ、そのような小さな紙や電子機器に意識を向け、筆記や入力の動作をすること自体が、広大な空間に展開しているアイデアの生命を、雲散霧消させてしまいかねない。

で、メモをとることもなく、ただアイデアが生きたまま展開されていくに任せることになる。

この宇宙空間に、そのままメモができたらいいのに、などと思う。

自分とほぼ同じスケール、ほぼ同じ柔軟性の頭脳を持った相手に、面と向かって、話し言葉で、自分のアイデアを伝えられるならば、それに近いことはできる。

相手の頭の中にも、自分の頭の中とほぼ同じ広さ、ほぼ同じ容量の宇宙があるわけだから。

ただ、そうそう、自分の中にアイデアが湧いているときに、都合のよい話し相手がそばにいるものでもない。

残念ながら。

2010年4月26日月曜日

ウォークマンのヘッドフォン

一昨年の12月に買ったウォークマン(NW-E026F)。

先月末にヘッドフォンのコネクタとケーブルの接続が悪くなり、右チャンネルの音だけかすれるようになったので、ヘッドフォンを買い直すことに。

同じメーカーのヘッドフォンならほぼ同じ音なのだろう、とあまり考えずに、付属ヘッドフォンと似た形のSONY製ヘッドフォン(MDR-EX77SL/B)を買った。

実際に接続して聴いてみたら、まったくと言っていいくらい、音が違ってしまった。

新しく買ったヘッドフォンは、とんでもなく高音強調。

シャカシャカうるさくてかなわない。

佐々木のウォークマンには5分割7段階のイコライザーが付いている。

高音を下げたり、中低音を上げたり、いろいろいじってみたが、付属ヘッドフォンのような音にはならない。



これも慣れの問題か、と思い、しばらく上の写真の設定で聴き続けてみることに。

約1ヶ月たってみて、やや高音強調ぎみだな、とは思うものの、これはこれで自然に思えるようになってきた。

やはり慣れの要素が大きかったよう。

2010年4月25日日曜日

先生のこれから

自分が役立てるノウハウを学ぶために来ているはずの場で、講師自身の今後だとか、将来予測だとかを聞きたがる人を見ていると、自分自身のあり方を直視したくない欲求の強さというか、そういう欲求を自覚して抑制する能力の低さというか、そういうものを感じてしまい、自分はああならないようにしなければ、と決意してしまう。

2010年4月24日土曜日

「日垣式ノウハウ全公開」講座を受けた

本日都内で開催されたジャーナリストの日垣隆さんの「日垣式ノウハウ全公開」講座を受けた。

受講者約250人。

今回の講座で佐々木が学んだ重要なことは、次の二つ。

大きく先を読むこと。

そして突破すること。

2010年4月23日金曜日

あえて料理に手間を掛ける

パソコンに向かって文章を作る、という仕事は、体の使い方として、あまりにも偏っている。

その偏りを正すために、全身を使う仕事を、意識して日常の中に取り入れないといけない。

その一環として、あえて面倒な料理を作ってみる。

それも安くて栄養価の高い食材を、できるだけおいしくする方向で。

たとえば10cm~15cmぐらいの小イワシが15匹ぐらい入って128円のパックを買ってきて、エラとハラワタを一匹ずつ包丁を使わずに指先で除去して、皮ごと薄切りにしたショウガと一緒に酒と醤油で煮て、頭から骨まで丸ごと食べるとか。

家計費の節約にもなるし、体にもいい。

2010年4月22日木曜日

外部の人間としての会社への関わり

請負の業務マニュアル製作者は、発注会社に対して、外部の人間として、一時的に関わる。

外部の人間としての一時的な関わりだからこそ、関わるときは、相当しつこく、強いイニシアチブをとって、食らいつくように関わらなければならないのだということが、最近ようやくわかってきた。

2010年4月21日水曜日

脇役物語

人生を物語になぞらえたとき、自分が主役であることにこだわることが、むしろ自分を脇役へと押しやる、というパラドクスがあるような気がする。

自分が物語の脇役であるゆえんを正しく自覚したとき、これまたパラドキシカルなことに、その脇役の脇役たるゆえんを主題とした新たな物語が始まり、自分が主役へと押し出される。

2010年4月20日火曜日

Happy New Body!

「もういくつ寝るとお正月」的な、幸福へのカウントダウン感覚。

対象としては必ずしも、お正月のような、時間の経過によって自動的に実現するイベントだけに限定しなくてもいいのではないか。

継続的な努力の結果として目標とする状態が達成される瞬間に対しても、仮想的に、このようなカウントダウン感覚を持ってもいいのではないか。

なんてことを考えた。

たとえば武術で達人になるとか。

新しい事業が軌道に乗るとか。

2010年4月19日月曜日

もっさ!

近ごろ人の姿とか振る舞いとかを見ていて、「もっさい」という形容詞が頭に浮かぶことが多い。

それが、「もっさ」い人と出会うことがたまたま増えたせいなのか、もともと周りにいた人が急に「もっさ」くなりはじめたせいなのか、「もっさ」さに対する自分の感性が急に鋭敏になりはじめたせいなのか、自分自身が「もっさ」さとは逆の方向に成長しはじめたせいなのか、それまで言葉で説明できていなかった違和感が急に「もっさい」という形容詞で説明できることに気づいたせいなのかは、よくわからないのだけども。

2010年4月18日日曜日

亀裂

家から駅に向かう途中にある、小さなビルの玄関の前。

左官職人風の格好をした、50代ぐらいのおっさんが、道端にペタンと座って両足を広げ、ビルの土台部分のコンクリートに走る小さな亀裂を、黙ってにらみつけていた。

おっさんの左手にはメモ帳、右手には鉛筆が握られていた。

コンクリートの亀裂の修復か何かを頼まれたのだろう。

佐々木はこれまでそのビルの前を15年近く、毎日のように、何千回と通り過ぎて来たのだが、そのビルの土台部分に亀裂が走っていることなど、一度も気づかなかった。

おっさんがにらみつけているのを見て、今日はじめて、その亀裂の存在に気がついた。

で、いくつか考えたこと。

専門家が日々にらめつけるほど注目している対象のほとんどが、一般の人には、その存在すら認知されていない。

それに注目している人の存在を知って、はじめてその存在に気づく、というものが、数多くある。

あるいはいわゆる心の傷のようなものでさえも。

文章を書く、読む、というコミュニケーションには、こういう存在への認識を広げる、という側面もある。

等々。

2010年4月17日土曜日

首から下と文章

体の中のいろいろな部分同士が、ただただばらばらになっていて、うまく連動していない。

高岡英夫先生の言葉を使えば、センター・トゥー・センターになっていない。

この部分というのが、生理学的レベルのものなのか、身体意識レベルのものなのか、心の中の思いレベルのものなのか、自分にさえよくわからない。

そういうことを強く感じながら、自分の中に感じられるいろいろな部分同士の中心同士を合わせよう合わせよう、その過程で、こうしたばらばらの部分の正体が何なのかも、見極めていこう、と試行錯誤する中で、気づいたこと。

自分の首から下の体が、どうやら、文章を書く、という作業に、参加したがっているのではないか。

佐々木にとってあまりにもあたりまえのことで、これまでその自覚さえなかったが、佐々木は文章を書くとき、自分の脳で文章を作り出してきた。

首から下の体は、実体的に脳や目を支えたり、脳から紙やキーボードへの出力を担ったり、脳に感覚を提供したり、といった形で文章の作成に関与してはいたが、文章の作成作業それ自体に、主役として参加することはなかった。

もしかすると、首から下の体に文章を作らせることが、可能なのではないか。

体の中の各部分同士のセンター・トゥー・センターが進みはじめて、そんなことを感じはじめている。

首から下の体は、自ら文章を生成することに、まだ慣れていない。

脳は、首から下の体に文章を生成させることに、まだ慣れていない。

だがこれができはじめると、まず文章の質が変わる気がする。

文章が生成されるスピードも、桁違いに上がる気がする。

気がする、というレベルに過ぎないが。

2010年4月16日金曜日

うろ覚えのヘーゲル

「新しい時代の善は、旧い時代の悪として現れてくる」
ヘーゲルがどこかで、こんなことを書いていなかったっけ。

たしか、ソクラテスへの死刑判決に関わって、個人が真理を追究するという新しい時代の善が、ギリシャの共同体にとっては悪として現れてきた、みたいな文脈での言葉だったはず。

手元にあるヘーゲルの訳本をあたっても、該当する箇所が見つからない。

いかにもヘーゲルが言いそうな言葉だと思うのだが。

善悪、好悪、価値判断について考えるとき、いつもこの言葉を思う。

2010年4月15日木曜日

ケチ

最近まで佐々木は、「ケチであること」と「浪費をしないこと」の区別が、よくついていなかった。

友人関係とか家族関係とか、狭い人間関係だけを見ている限りは、「ケチであること」と「浪費をしないこと」の区別は、よく見えてこない。

国民経済とか世界経済とか、もっと大きな枠組みの中で、お金がぐるぐる回るとは、国民全体にとって、あるいは人類全体にとって、どういうことなのかがわかってはじめて、「ケチであること」と「浪費をしないこと」の区別は見えてくる。

この区別がよく見えていない人は、たぶん、ほとんどの場合ケチである。

逆に、この区別がよく見えている人は、たぶん、ほとんどの場合ケチではない。

つまり佐々木は最近までケチだった。

そしてそのことを自覚できていなかった。

ケチでない人と接する機会が増えてきて、かつ、ケチでない人たちがケチでないことの意味を自分なりに一生懸命考えて、ようやく最近、この区別が見えてきた。

2010年4月14日水曜日

体系的なもの

カール・ヒルティはどこかで、「体系的なものはおおむね虚偽である」という意味のことを述べているとか。

この言葉を聞いたとき、そりゃないだろう、と思った。
《真理が現実に存在するためにとりうる真の形態は、学問としての体系のほかにはない。》(『精神現象学』「序論」)
というヘーゲルの言葉を、佐々木はほとんど信仰に近いまでに信じているから。

でも最近ようやくわかった。

ヒルティのいわゆる「体系的なもの」とは、要は形而上学的体系なのだ。

それなら佐々木も同意する。

他人にものを教えたい、という情熱が、佐々木には本当に希薄だ。

他人が教えようとしていることを、うまく伝えてあげたい、という情熱なら、人並み以上にあるのだが。

その原因は一つではないが、「形而上学的体系の虚偽性」は、間違いなくその大きな原因の一つだ。

真理は、ゆるゆる棒に乗ったときのフラフラ感、ユラユラ感と、同じ姿をしている。

それを一つの形に固めて「これが真理でござい」と託宣してみせる恥ずかしさ。

他人に教える、ということをなすためには、それはしかたのないことなのだけれども。

2010年4月13日火曜日

お金と子供銀行券

お金について、最近考えたこと。

日本経済における日本銀行券の役割は、子供のままごとにおける子供銀行券の役割に等しい。ある意味、お金と子供銀行券との間に、さしたる違いはない。

と、あえてお金を軽く見るように努める。

と同時に、「命の次に大切なもの」として、お金を真剣に扱うにようにも努める。

こういう、相反する努力を同時にすることが、けっこう大切なことなのではないか。

2010年4月12日月曜日

トイレと背広

トイレの呼称はあれこれと変化してきた。

かわや。

せっちん。

はばかり。

ちょうず。

お手洗い。

化粧室。

ご不浄。

そのものズバリの表現から放たれる不潔感を避けようと婉曲表現を編み出したところで、その婉曲表現が同じような不潔感を放ちだすのは時間の問題。

で、背広にネクタイ。

これらを着用してるのは、「一応ちゃんとした人」というしるしのはずである。

だが「ちゃんとしていない人」が「ちゃんとした人」を装うために着用することが多くなるにしたがい、これらを着用していること自体が、「ちゃんとしていない人」のしるしになっていくような気が。

あるいはすでになっているかも、とも。

ひどすぎ?

2010年4月11日日曜日

物語治

過去から未来にわたる一つの物語が、組織の成員に共有されることによって組織が統括されるということが、あり得る。

というか、もはや物語を媒介にしてしか、組織は統括され得なくなる。

そのようなことを、神田昌典さんの『全脳思考』で紹介されている「全脳思考モデル」をここ最近実践しながら、思いはじめている。

法を媒介にした社会統括を「法治」と呼ぶが、このような社会統括を、何と呼べばよいだろう。

「物語治」?

えらく語呂が悪い。

2010年4月10日土曜日

『投資ミサイル』を読んだ

竹内謙礼さんと青木寿幸さんの新刊『投資ミサイル』を読んだ。

お二人の前回の共著『会計天国』に続き、佐々木のようなビジネス界のダメダメ人間にとって、本当にありがたい本。

だいたい、ビジネス書を書くような能力の高い人たちの多くは、ビジネス界のダメダメ人間たちがいかにダメダメかが、そもそも見えていない。

見えていたとしても、そのダメダメぶりを、冷笑や訓戒の対象としてしか見ていない。

このお二人の本は、ビジネス界のダメダメ人間をダメダメ人間たらしめている本質的な思考を、外側からではなく内側から暴き描き出したうえで、ダメダメ人間から脱却するために必要な考え方、それも人生訓・経営訓レベルではなく設計レベル・計数レベルでの考え方を、心暖まるエンターテイメントストーリーで、わかりやすく教えてくれる。

このような本を出していただいて、ほんとうにありがとうございます、という感じ。

2010年4月9日金曜日

『少年リンチ殺人』(文庫版)を読んだ

日垣隆さんの『少年リンチ殺人―ムカついたから、やっただけ―《増補改訂版》』を読んだ。

被害者少年とその家族への感情移入はほぼまったくせず(そりゃ辛すぎるし)、もっぱら加害者少年とその家族に感情移入しつつ読んだ。

で、強く内面化された規律を持ち得なかった不幸、裏を返せば、強く内面化された規律を持ち得た幸福、みたいなことを思った。

かっこよくいたい。

仲間外れにされたくない。

こういう感情に支配された状態への嫌悪を、改めて強めもした。

そういう感情が少なすぎることの問題、というのをよく考えることが多かったここ最近ではあったけれども。

2010年4月8日木曜日

殺戮者のデータ

インディアスの破壊についての簡潔な報告』の著者であるサス・カサスは、スペイン人に虐待・虐殺されたインディオたちの人数や、彼らが住む島や国の面積などについては、詳細に報告している。

ところが、虐待・虐殺を行った側のスペイン人たちの人数や、彼らが本国でどのような生活をしていた人間だったのかについては、ほとんど報告していない。

読み手として想定されている当時のスペインの王族たちにとっては、それは自明のことだった、ということなのだろうか。

唯一、スペイン人側の人数が書かれているのは、次の箇所。
《当時、スペイン人の数は僅かであったが、その後、金があるという噂をみ耳にして四〇〇〇人か五〇〇〇人のスペイン人がペルーへ押し寄せた。彼らは多くの広大な王国や地方へと広がって行ったが、その広さは五〇〇レグワ〔1レグワ=約5.6キロメートル〕から七〇〇レグワ以上にも及んだ。彼らは前述したのと同じか、またそれ以上に凶暴で残忍な所業を重ね、それらの王国や地方をほとんど破壊した。事実、その当時から今日にいたるまで、スペイン人たちは〔マルコス〕神父が計算した数の何千倍もの人々を破滅へ追いやり、絶滅させた。彼らは神と国王を畏れず、無慈悲にも人類の大部分を絶滅させた。今日にいたる一〇年の間に、彼らはそれらの王国に暮らしていた四〇〇万任以上のインディオを虐殺したのである(また、今日でも変ることなる殺戮は続けられている)。》(148~149ページ)
この「四〇〇〇人か五〇〇〇人のスペイン人」というのが、どれくらいの期間にわたっての数字なのかが、わからない。

一度に400人~500人のインディオが殺されたとか、5000人のインディオが斬り殺されたとか、そういう数字がポンポン出てくるのだが、これだけの殺人が何人のスペイン人によって実行されたのかがわからないため、どうもリアルなイメージを持てない。

2010年4月7日水曜日

強欲と奴隷労働

インディアスの破壊についての簡潔な報告』を読んで考えたことの続き。

スペイン人がインディオを虐殺して、脅迫して、酷使したのは、彼らが強欲だったから、という分析が、本書ではされている。

思うのだが、奴隷労働の成果ごときで満たされる程度の欲望とは、欲望のありかたとして、あまりにも貧弱なのではないか。

強欲さではなく、強欲さの不足こそが、奴隷労働の原因であるとも言えるのではないか。

当然、奴隷労働では満たされないほどの欲望そのものも、奴隷労働で満たされた欲望の産物なのだろうけれども。

2010年4月6日火曜日

恐怖を与えることが生存基盤だった時代

インディアスの破壊についての簡潔な報告』で報告されているスペイン人達を、あのような残虐な行為に駆り立てた動機が、いまひとつわからない。

で、動機と思われることが書かれている箇所に、赤線を引いたりしてみている。

いくつか書かれている動機らしきものの中に、インディオたちに恐怖を与えるため、というのがあった。

ある時代においては、他民族に少しでも大きな恐怖を与えることが、自民族の繁栄の基盤になったのかもしれない。

そのような時代においては、他民族に恐怖を与えないことは、自民族の衰退をも意味したのかもしれない。

現代の社会では、企業を含む少なからぬ組織が、他者の好感を得ることに、膨大な努力と予算を注いでいる。

現代社会におけるあの努力と同じ質量と動機をもって、他者に恐怖を与えるためにあらゆる努力が払われていた時代があったということなのだろう。

そう考えると、人類というのは進歩しているものだと思う。

2010年4月5日月曜日

「無法者」

インディアスの破壊についての簡潔な報告』の著者ラス・カサスは、インディオを虐殺したスペイン人たちを、「無法者」とか「悪人」とかと表現している。

共同体のごく一部の人間が残虐な犯罪を犯したのであれば、犯人を「無法者」とか「悪人」とかと呼んで、犯罪の原因を個人的な資質に帰すこともできるだろう。

だが、中南米に上陸したスペイン人たちが、ほとんど例外なく、当たり前のように虐殺に加わっていたとしたならば、その虐殺の原因を実行者の個人的な資質に帰すのは、無理があると思う。

彼らスペイン人たちが、本国スペインでどのような生活をしていた人たちなのか。

それが、この本を読んでいま一つわからないことだ。

2010年4月4日日曜日

倫理の歴史性

インディアスの破壊についての簡潔な報告』を読むと、スペイン人たちによるインディオの虐待・虐殺のすさまじさに、慄然とする。

「腰が抜ける」という経験をしたことはないが、読んでいて、「腰が抜ける」の100分の1ぐらいに相当するような現象が自分の腰にジワジワと来るような、そんな感覚を覚える。

人類史上まれにみる残虐ぶり、と思える一方で、こんなことも思う。

他民族を無慈悲に虐殺することを非倫理的と感じる感覚自体が、歴史的産物なのではないか、と。

つまりは、ラス・カサスが目撃した虐殺の残酷さが歴史的なのではなく、あのような虐殺を残酷と感じるラス・カサスの感覚自体が、歴史的なのではないか。

過去においては、異民族を無慈悲に酷使・虐待・虐殺することが当然だった時代が、おそらくずっと長く続いていた。

たぶん、そのような異民族の酷使・虐待・虐殺によって可能になった繁栄があってはじめて、異民族を酷使・虐待・虐殺することは非倫理的だ、という思想が現実性を帯びるようになったのではないか。
《人間が立ち向かうのはいつも自分が解決できる問題だけである、というのは、もしさらに詳しく考察するならば、課題そのものが、その解決の物質的諸条件がすでに現存しているか、または少なくともそれが出来はじめている場合に限って発生するものなのだ、ということが常にわかるであろう》
というカール・マルクスの言葉を佐々木は
「課題は、その解決手段と同時に発生する」
と要約して座右の銘にしている。

その考え方でいくと、ラス・カサスがスペイン人によるインディオ虐殺を問題視したということは、この時代になってはじめて、こうした大規模な虐殺を廃絶するための現実的な条件が出来始めてきたとうことなのかもしれない、などということを考えもした。

2010年4月3日土曜日

持続と変化のジレンマ

インディアスの破壊についての簡潔な報告』には、インディオたちが、やってきたキリスト教徒たちを、いかに歓待したか、キリスト教徒たちが、インディオたちの歓待にもかかわらず、インディオたちを無慈悲に搾取・虐殺したか、といったことが、延々と書かれている。

読んでいて不思議になるのが、なぜインディオたちは、キリスト教徒たちを歓待するのを、なかなかやめなかったのか、ということ。他の部族がキリスト教徒たちに虐殺されているという情報が、何年も伝わらずにいることなど、あり得ないように思ったのだ。

おそらく、「やってきたヨソ者には、まず親切にする」というルールは、インディオたちにとって、単なる道徳ではなく、いわば生きるために必須の原理だったのではないか。

著者のラス・カサスによれば、キリスト教徒たちがやってくるまで、かの地のインディオたちは、この地上でもまれに見るほどの平和と繁栄を享受していた。

その平和と繁栄を可能にした原理の一つが、「やってきたヨソ者には、まず親切にする」というルールだったのではないか。

キリスト教徒たちがやってきたときも、インディオたちは迷うことなくこのルールに従った。

それがそれまで自分たちの生存と繁栄を可能にしてきたルールだったから。

しかしキリスト教徒たち相手にこのルールを適用することは、かえってインディオたちの滅亡の原因となった。

ある条件において生存と繁栄の原因になる思考法・行動原理が、別の条件では、かえって滅亡の原因になることがある。

そんなことを思わずにはいられない。

しかしだからといって、インディオたちが、特にその指導層が、容易にその思考法・行動原理を改めなかったことを、安易に軽蔑することはできない。

それまで自分たちの生存と繁栄を保証してきた思考法・行動原理に忠実であること自体が、指導層の権威の欠くべからざる一要素になっていることを、無視することはできない。

共同体の指導層は、伝統的な思考法・行動原理に忠実でなければ、その権威を維持できず、したがって共同体そのものも維持できない。

しかし同時に、伝統的な思考法・行動原理を墨守しているだけでは、外敵の侵入という特殊な条件下で、共同体を維持することはできない。

この持続と変化のジレンマを、極限的な形で強いられた実例を、この本におけるインディオ滅亡の記録に見ることができる。

2010年4月2日金曜日

カシーケ・アトゥエイ

インディアスの破壊についての簡潔な報告』、印象に残ったところ、考えさせられたことが、たくさんあった。

その中の一つ。

「キューバ島について」の章の、40~42ページ(岩波文庫版)で紹介されている、アトゥエイという名前のカシーケ(首長)についてのエピソード。

「キリスト教徒たちがもたらす災禍や非道な所業から身を守るために、かつて大勢の部下を率いてエスパニョーラ島を逃れてキューバ島に渡って来た」アトゥエイは、キューバ島にもついにキリスト教徒がやって来たことを知ると、部下を全員集め、なぜキリスト教徒たちがあれほど残虐なことをすると思うかと、部下たちに尋ねる。

「キリスト教徒たちが生まれつき残酷で悪人だから」と部下たちが答えると、アトゥエイは次のように諭す。
《「ただそれだけで、あのような非道を行うのではない。彼らには、彼らが崇め、こよなく愛している神があるからだ。彼らが私たちを征服したり、殺したりするのは、私たちにもその神を崇めさせるためなのだ」と言い、傍にあった金属製の装身具のいっぱい詰まった小籠を手に取り、言葉を続けた。「これがキリスト教徒たちの神だ。この籠の前でアレイト(つまり、舞いと踊り)をしようではないか。そうすれば、たぶんこの神は大喜びして、私たちに悪事を働かないようキリスト教徒たちに命じるだろう」》
部下たちは全員「賛成、賛成」と叫び、へとへとになるまでその「神」の前で踊り続ける。踊りが終わると、アトゥエイは「このような物を持っていたら、キリスト教徒たちは奪おうとして私たちを殺すに違いないから、川へ捨ててしまおう」と提案し、全員の賛同を得て、装身具が入った小籠を川に投げ捨てる。

このエピソードを最初に読んだとき、佐々木は思った。

なんて非科学的な考え方をするんだろう。装身具の前でへとへとになるまで踊れば神様が守ってくれるなんて‥‥。こんな考え方をしているから、ヨーロッパ人たちにあっけなく征服されてしまうんじゃないか。

だがよく考えてみると、この本に登場するインディオの首長たちの中で、もっともよく自分の部下たちを守ったのは、おそらくこのアトゥエイなのだ。

キリスト教徒たちが残虐なことをする理由を「単に残酷な悪人だから」とした部下たちと、「貴金属という神を崇めさせようとしているから」としたアトゥエイを比べたとき、結論だけを見れば、アトゥエイのほうが誤っていたとも言える。

しかし、その思考方法に注目すると、アトゥエイのほうが部下たちよりも、より構造的で、より思想的で、より根源的な原因を見極めて対策を打とうとしていた、とも言えるのではなだろうか。

「奴らがひどいことをするのは、奴らがひどい奴らだからだ」という同義反復的な問題分析からは、解決からの逃避や、場当たり的な対処しか生まれてこない。

なぜアトゥエイが、共同体のリーダーとして、もっともよく自分の部下たちを守ることができたのか。

自分たちの生活基盤そのものであるエスパニョーラ島を決然と捨て、キリスト教徒のいないキューバ島に、共同体丸ごと、新たな生活基盤を求めたこと。キューバ島にキリスト教徒がやって来てからも、共同体の生存条件を確保しながら、共同体を率いて島内を巧みに逃げ回ったこと。こうした現実的な行動に関わる立案、決断、統率能力が高かったことが、一番大きかったとは思う。

だが、それだけではないのではないか。

もっと観念的な活動に関わる思索、説得、守節能力が高かったからこそ、アトゥエイは、より現実的な行動においても、優れた立案、決断、統率能力を発揮できたのではないか。

つまりは、問題把握と解決のグランドデザインを、世界観・思想レベルで問い、答え、貫く能力があったからこそ、共同体を丸ごと率いてキリスト教徒の虐待から逃れるという難行を、ある程度の期間にわたって遂行できたのではないか。

この時代にあっては、世界観・思想レベルでのグランドデザインを描くとは、「神は我々に何を望んでいるか」という問いに答えること以外では、あり得えなかったはずだ。

装飾品を入れた籠の前でヘトヘトになるまで踊る、という解決策にしても、一見ナンセンスのようにも思えるが、共同体に希望と確信と連帯をもたらす効果は、間違いなくあったことだろう。そして、そうした希望と確信と連帯こそ、あのような極限的状況で共同体が生き延びるうえで、もっとも必要とされたものだったのではないか。

そのように考えていくと、アトゥエイの思考や判断を「非科学的」と軽蔑することが、ひどく浅はかなことのように思えてきた。

アトゥエイは最期、キリスト教徒に捕まり、生きたまま火あぶりの刑に処される。木に縛り付けられたアトゥエイに、フランシスコ会の聖職者が、キリスト教の神と信仰について説いて聞かせる。
《〔聖職者はアトゥエイに〕もし言ったことを信じるなら、栄光と永遠の安らぎのある天国へ召され、そうでなければ、地獄に落ちて果てしない責め苦を味わうことになると語った。カシーケ〔=アトゥエイ〕はしばらく考えてから、キリスト教徒たちも天国へ行くのかと尋ねた。彼はうなずいて、正しい人はすべて天国へ召されるのだと答えた。すると、カシーケは言下に言い放った。キリスト教徒たちには二度と会いたくはない。そのような残酷な人たちの顔も見たくない。いっそ天国より地獄へ行った方がましである、と。》
「キリスト教徒たちも天国へ行くのか」という問い、その答えに対する即座の反応、いずれも、共同体の世界観・思想を確立し貫徹した指導者ならではの問いであり、反応であると、感じずにはいられない。

死後の生活に生前の信仰が影響を与えることは、ない(なぜなら死後の生活など存在しないから)という立場を、佐々木は取る。しかし、処刑を目前にしてのアトゥエイのこの言動は、残されたインディオたちの認識にも、キリスト教徒たちの認識にも、多大な影響を与えたことは間違いないだろう。

共同体の存続に祭事が重要な役割を果たしてきたことは、「政治」の「政」を「まつりごと」と読むことからもうかがわれる。アトゥエイのエピソードは、この重要性について、改めて考えるきっかけを与えてくれた。

また、共同体が危機に瀕したときの指導者のあり方についても、多くのことを考えさせられるエピソードだった。

2010年4月1日木曜日

『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を読んだ

古典読書会の課題で、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を読んだ。

今年、もっとも多くのことを考えさせられた本になるかもしれない。

「読んでおくべき本」というのは、こういう本のことを言うのだと思う。

恥ずかしながら、ラス・カサスという人のことを、これまでまったく知らなかった。

最初この名前を見たときは、赤坂サカスに入っている、エスニック料理店の名前かと思ったくらい。

印象に残ったところ、考えさせられたこと、何回かに分けて書いてみたい。


『インディアスの破壊についての簡潔な報告』読書メモ
 
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