2010年3月31日水曜日

22世紀

テレビをつけたら、40過ぎのおっさんと、20歳前の女の子との、バラエティートークみたいな番組をやっていた。

「きんさん・ぎんさん」の蟹江ぎんさんは、19世紀の終わりから21世紀の始めまで、世紀を越えて生きて、ライト兄弟の初飛行から宇宙ステーションまでをリアルタイムで目撃したすごい人だ、みたいな話があって、次のようなやりとりがあった。
おっさん「今スタジオにいる人の中で、22世紀を目撃できる可能性があるのは、あなたしかいないんですヨ! 俺だって見たいよ! 22世紀がどんなふうになるのか‥‥。でももう物理的に不可能ですから!」

女の子「みんなの未来は私に託されてるんですね? じゃあ私ががんばってみんなの目となって、22世紀をこの目で見ますよ(笑)」
もちろんバラエティー番組だから、ネタとして交わされた会話ではある。

だが、「俺だって見たいよ! 22世紀がどんなふうになるのか‥‥。でももう物理的に不可能ですから!」というおっさんの言葉に、妙にジーンときてしまった。

22世紀の人類がどんなふうになるのか、ぜひこの目で見てみたい。

でもとてもじゃないけど、実現できるとは思えない。

このなんとも言えない飢餓感。

2010年3月30日火曜日

Logicoolのマウス

デスクトップパソコン用のマウスを買い換えた。


Logicool LS1 レーザーマウス イエロー LS-1YL

ついでに、ノートパソコン用のワイヤレスマウスも買った。


Logicool ワイヤレスマウス M205 オレンジ M205OR

どちらもLogicoolの製品。

Windowsパソコンを使うようになって10年ぐらいだが、Windowsパソコン用のマウスを買い換えるときは、すべてLogicoolのものを買っていると思う。

理由は、クリック感がちょうどよいから。

固すぎず柔らかすぎず。

粗い感じがなく繊細。

毎回、他社製品にもいいのがあるのではないかと試してみるのだが、結局、Logicoolよりも優れたクリック感のマウスはないことを確認して終わる。

今回ノートパソコン用に買ったワイヤレスマウスは、USB接続部をマウスに格納するとマウスの電源スイッチが機械的にOFFになり、USB接続部をマウスから外すとマウスの電源スイッチが機械的にONになる優れもの。



2010年3月29日月曜日

人生の評価尺度

自分の葬儀に集まった人に、自分がどんな人だったと言って欲しいか。

これを考えることで、自分の価値観を明らかにする、という手法がある。

自分の人生設計を、自分の人生最後の日から考えるというのは、うまいやり方だ。

だが、自分の人生の評価の中心に、自分の人生に対する他人の評価を持ってくるというのは、どうかと思う。

「あんな人生であいつは幸せだったんだろうか」と周囲からはいぶかしがられながら、当の本人は「俺の人生、本当に理想的だった」と思いながら死んでいく。

むしろこのほうが理想的だと思うのだが。

人生に対する価値尺度そのものが、本人独自のものであったということ。

これこそが、かけがえのない人生を送ったということなのではないか。

2010年3月28日日曜日

立つ必要性を意識から追い払う

高岡英夫先生の新刊『体の軸・心の軸・生き方の軸』に、人間が立ちあがるためには、どうしても首の付け根(「拘束背芯」)と腰の付け根(「拘束腰芯」)を固めなければならない、という話が出てくる。

最近、朝目が覚めて、寝たまま腰モゾモゾ体操をやるとき、よくこの話を思い出す。

ここ(腰の付け根)とここ(首の付け根)は、立ち上がるためにどうしても固めなければならない部分なんだよなぁ、と。

立ち上がるためにどうしても固めなければならない部分である、ということは、立ち上がる必要さえなければ、固める必要はない部分である、ということでもある。

で、もしも立ち上がる必要がなかったら、と想像しながら、寝ゆるをやってみる。

自分が魚だったらどうだろう、とか。

自分が四足動物だったらどうだろう、とか。

そうすると、自分は立ち上がらなければならない、という固定観念が、まさに自分の腰の付け根や首の付け根を固定する働きをしていることが、実感としてわかる。

立つという運動が、自分の存在とほとんど不可分なものとして意識されていることも、わかる。

立ち上がる必要性をあえて意識から追い払うと、腰の付け根や首の付け根を固めていた意識も薄まり、結果として腰の付け根や首の付け根の緩解も進む。

2010年3月27日土曜日

『感覚の分析』を読んだ

エルンスト・マッハの『感覚の分析』を図書館で借りて読んだ。

レーニンは『唯物論と経験批判論』で「マッハ主義者」をやたらと叩いていたが、なるほど「主義者」が出るのも納得の魅力的な言説。

佐々木が高校生時代にマッハを読んでいたら、けっこうハマってたと思う。

自分の認識に対する徹底的な分析と大胆な単純化。

こういう説き方は好き。

西田幾多郎が『善の研究』で「初はマッハなどを読んでみたが、どうも満足はできなかった」と書いていたその「どうも満足できない」ところが、どういうところかも、なんとなく想像がついた。

ただ、その「満足できない」ところをなんとか説こうとする西田の説き方には、あまりにも学問的厳密さが欠けていたと思う。

あーもっとこういう本をきちんと読みたいのだがなにしろ時間がない。

2010年3月26日金曜日

コンセントのない人間

たぶん佐々木が中学生ぐらいのとき、ラジオのトーク番組で、ある男性ミュージシャン(杉真理か誰か)がゲスト(佐野元春か誰か)に向かってポソッと
「人間が一番不思議ですよねぇ‥‥だってコンセントもつながってないのに動いてるんですから(笑)」
と言っていたのが、ずっと耳に残って離れない。

以来、ときどき道行く人々の動きを眺めては

「おー‥‥電源コードもなしに動いてる動いてる!」

と、妙な興奮と驚きを覚えている。

電源コードがコンセントから外れているドライヤーから、いきなり熱風が吹き出したら、オカルトだろう。

そういうオカルトが目の前で起きているような気持ちで、動いている人間たちを眺めてしまうのだ。

この不思議さを、どうすればまともに説明できるのか。

看護のための「いのちの歴史」の物語』(本田克也・加藤幸信・浅野昌充・神庭純子)で説かれている「生命史観」に依るのでもなければ、神による世界の創造を支持するほかないような気がしてくる。

逆にというか、唯物論的かつ弁証法的な「生命史観」を踏まえることもなければ、神による世界の創造を支持することもない、という者は、ある意味、神による世界の創造を支持する者より、知的誠実さに欠けるのではないか。

2010年3月25日木曜日

『一九八四年』を読んだ

今年の古典読破計画の第三弾として、ジョージ・オーウェルの『一九八四年[新訳版]』を読んだ。

どういう世界を描いた小説か、ということは、あちこちで散々目にしていた。

で、読む前から、空想的かつ寓話的な社会システム描写ばかりに力が入った小説、というイメージを勝手に持っていた。

読んでみると、意外なほどに個人の内面の機微が描かれていて、物語の世界にすっかり引き込まれてしまった。

ただ恋愛の描写だけは、なぜか滑稽なほどにSFチックだったが。

けっこう、この作品を読んで、人間の社会に本気で絶望してしまった人も多かったのではないか。

それぐらいの力を持った作品だ。

どうやら自分は『一九八四年』を読んでも社会に絶望しない程度には楽観的な人間である、ということを確認できたことが、『一九八四年』を読んで得られた最大の成果である、なんて言い方もできるかもしれない。

「附録 ニュースピークの諸原理」が過去形で書かれていることの意味は、解説を読んではじめて気づいた。

2010年3月24日水曜日

反作用ベクトルと仲良く

高岡英夫先生の新刊『体の軸・心の軸・生き方の軸』を読んでから、作用・反作用のベクトルに敏感に。

妙な言い方だが、これまで佐々木は、作用ベクトルに対する反作用ベクトルをろくに感知できていなかったがゆえに、反作用ベクトルを押さえ込もうと無駄なパワーを使わざるをえなくなり、それがゆえに、作用ベクトルをかけること自体を無意識に嫌悪し忌避していたところがあったなぁ、と。

「作用ベクトル・反作用ベクトル」という表現は、高岡先生はこの本でされていないけども。

たとえば洗い物なんぞをしていても、左手で持ったスポンジを、右手で持った皿に押し当てるとき、皿から返ってくる抗力ベクトルを感知できていないからこそ、スポンジを皿に押し付ける力が無駄に必要になる。

作用ベクトルと反作用ベクトルをうまく調和させるようにすれば、必要な力はうんと減る。

また外れ合おうとする両ベクトルをうまく合わせていくこと自体、楽しい。

当然、こうした作用ベクトルと反作用ベクトルの関係性は、スポンジと皿の間だけでなく、手とスポンジの間にも、手と皿の間にも、手~腕~体幹を構成する骨格や筋肉同士の間にも、体幹と脚~足の間にも、自分と床との間にも、絶えず成立している。

洗い物をしているだけで、武術の稽古はできる、という気になってくる。

なんてことを思っていたら、高岡先生もこのようなことをお書きになっている。
《〔‥‥〕パンチを繰り出す場合、腕がどれだけの質量があるかがわかっていれば、自分がとのように筋力を発揮すればどのぐらいのスピードで腕が動いてくれるか、また自分が振った腕が相手にどのぐらいのダメージを与えるかがわかる能力が高いことになります。質量の大きい腕はスピードを高めるのは大変ですが、同じスピードでも質量が大きい腕は、当たれば威力があります。
 そして、腕を相手に当てて、相手にダメージを与えるには、何となく当てたのではだめです。相手にぶつかる打点と自分の腕の重心を結んだライン上に、腕の重心が運動しなくてはいけないのです。それがそれると、力がそれるのであまりダメージを与えられません。重心が感じられていれば、その能力も当然高いわけです。》

2010年3月23日火曜日

軸のない思考、軸のない行動

高岡英夫先生の新刊『体の軸・心の軸・生き方の軸』では、身体運動における軸と、精神活動や行動における軸とのつながりについても、ていねいに説かれている。

軸がより明瞭な状態で身体運動をする場合と、軸がより曖昧な状態で身体運動をする場合とで、自分の脳の活動の仕方に、どのような違いがあるか。

高岡先生のセミナー等に参加して、この違いは、いろいろな形で実感できている。

では、この実感に照らして、自分のふだんの精神活動や行動は、軸がより明瞭な状態で行われているか、それとも軸がより曖昧な状態で行われているか。

残念ながら後者であることが、実感としてわかる。

これが実感としてわかったことも、この本を読んでの収穫の一つ。

2010年3月22日月曜日

引力ベクトルの海

高岡英夫先生の『体の軸・心の軸・生き方の軸』を読んで、目を見開かされた箇所の一つ。
高岡 地球はとてもとても大きい物体です。自分が立っている真下にも地球は存在しますが、自分の左右にも、前にも後ろにも地球という物体はあります。しかも相当量あります。
 たとえば、一辺100kmくらいの立方体の塊を想像すると、そのくらいの塊は地球の中にいくらでもあります。地球にある塊は、全部地球の一部であり、質量を持った物体です。ですから、その1つ1つと人間の間に万有引力が働いています。ということは、人間の重心とそれぞれの物体の重心を結ぶように、最初に重力ベクトルと表したベクトルと同じ類のものが物理学的には引けるわけです。

-重力は、自分の真下の方向に働いているとしか考えたことはありませんでしたが、よく考えてみるとそういうことになりますね。では、物理学で見る、あの1本のラインはどこから来ているのでしょうか。

高岡 それぞれの物体と人間の間に引けるベクトルでも表される万有引力を次々に合成していった結果が、人間の中心と地球の中心を結んだあのラインで表されるのです。
 たとえば、まず、隣同士の2つの1辺100kmの立方体をくっつけて1つの塊とすると、その塊の重心と自分の重心の間に、万有引力のベクトルが新たに1本引けます。次に2つをくっつけた塊をさらに2つくっつけて1つの塊とすると、その新たにできた塊の重心と自分の重心の間に、万有引力がまた新たに1本引けます。そのように地球を構成するすべての部分を次々に整理していくと、晴れて最後に、ちょうど地球の中心と自分の中心を結んだ万有引力、すなわち重力がその方向に働いていることになります。地球の中心と人間の中心の間に働いている重力は、何千本、何万本と無限に働いている万有引力を総和していった結果、ようやくそこに生まれてくる現象なのです。

-そういうことだったのですね!

高岡 さらに、もうお気づきの方もいると思いますが、細かくいえば、人間の身体も切り分けられます。たとえば頭は1つ、腕1本を2つ、胴体は5つ、脚1本は4つに切り分けて、それぞれの中心と、地球の中心の間にも万有引力は生まれるわけです。もっと細かくいえば、そのように切り分けた身体と、1辺100kmの立方体に切り分けた地球の塊の間にも生まれています。それを先にやったように、どんどんどんどん隣同士を足し合わせて整理していくと、最後は人間の重心は身体のヘソの奥あたりに整理され、地球の重心はその中心に整理される結果、多くの塊同士の間に働く万有引力も、重力という1つの力に整理されるのです。》
この箇所を読んでから、自分の体を構成するさまざまなパーツと、自分の前にも後ろにも右にも左にも下にも広がる巨大な地球を構成する無数のパーツとの間に、無数の引力のベクトルが感じられるようになって、その感覚が楽しい。

主観的には、地上を歩きながら、引力のベクトルの海を泳いでいるような気分だ。

無数の引力ベクトルが合成されて1本の重力ベクトルに統合される過程を省略して、いきなり1本の重力ベクトルを感じ取ろうとするのは、悪しきプロセスカットなのではないかという気もしてきた。

2010年3月21日日曜日

『体の軸・心の軸・生き方の軸』の鮮やかさ

高岡英夫先生の最新刊、『体の軸・心の軸・生き方の軸』。

内容的にも発見や興奮の多い本だったが、まずその切り口に、感動してしまった。
《身体運動を単なる人の形をした物体の動きとして見れば軸は物理現象です。一方、軸をコントロールしているのは脳です。脳ではさまざまな精神作用がおこなわれていますから、軸は精神現象でもあります。
ですから、軸とは何かが科学的に明らかになれば、物理現象と精神現象が融合したところに存在する人間のさまざまな運動や行動などの多様な現象領域を、いままで以上に画期的に、合理的しかも包括的に理解することができるはずです。》(「はじめに」)
この鮮やかさ。

身体意識という、複雑で巨大で、直接目で見ることもできなければ手で触れることもできない世界の構造を、先生は1980年代以来、さまざまな切り口で説かれてきている。

その深みと広がりの極限を垣間見せることを重視した説き方をされたこともあれば、一般の人々にとっての理解しやすさを重視した説き方をされたこともあるし、実証研究の世界の人々にとっての受け入れやすさを重視した説き方をされたこともある。

今回のこの「物理現象-脳-精神現象」という切り口は、一般の人々にとっての理解のしやすさ、実証研究の世界の人々にとっての受容のしやすさ、どちらにも優れた切り口だと思う。

シンプルで新鮮。

センター・体軸・正中線』で採用されていた、脳と神経や感覚器との相互作用にも言及しながらの説き方は、たしかにより議論としてより厳密であったが、そのぶん一般の人々にとってはややハードルが高かったのではないか。

精神現象の生理学的基盤を「脳」の一語で簡潔に表現しながら、物理現象と精神現象の融合領域の解明が持つ意義を見事に説ききった上記の引用文、思わず何度も読み返してしまった。

2010年3月20日土曜日

一番長く使っている贈り物

今までもらった贈り物の中で一番長く使っているのは、幼稚園卒園のとき幼稚園からもらった文鎮。

もう30年以上使い続けている。



こちらが裏。



こちらは高校卒業のとき高校同窓会からもらった文鎮。



こちらが裏。



二つセットで、本からの引用をパソコンに手入力するときに重宝している。



壊れることも、飽きることも、買い足したくなることもないものだから、死ぬまで使い続けるのだろう。

2010年3月19日金曜日

おっさんの商談

カフェとかで書き物をすることがある。

近くの席の人がおしゃべりしていると、いまいち集中できない。

なので耳栓代わりにヘッドフォンを耳に入れ、音楽を流す。

ただ不思議なことに、いかにも「おっさん」といった雰囲気の、中年男性同士の商談に限っては、近くでされても、なぜか集中を削がれない。

いかにも「できるビジネスマン」といった雰囲気の(あるいはそういう雰囲気を発散させようとしている)若い男性同士の商談。

上司から部下への説教あるいは自慢話。

中年女性グループの世間話。

家族連れの大騒ぎ。

ティーンエイジャー同士の戯れ。

生命保険の売り込み。

マンツーマン英会話レッスン。

カフェなどでよく遭遇するこれらの会話には、どうしても気を散らされてならないのだが。

発散される知性とか品性とか声量とか声質とか自己顕示欲とかに関して、「おっさん」の商談には、佐々木にとって耳障りな要素がない、ということなのか。

商談中の「おっさん」が発する波長が、佐々木自身の仕事モードの波長に対して、かなり親和的ということもあるのかもしれない。

2010年3月18日木曜日

20%の幸福

80%の不幸、20%の幸福、ということを、近ごろよく思う。

幸福の割合が20%しかないことをもって、全体を「不幸」と一般化しない。

幸福の割合自体を、無理に上げようとしない。

20%の幸福に、より100%に近い意識を集中することを考える。

みたいな。

2010年3月17日水曜日

ツイッター140字は多すぎ

アイン・ランドは日本よりも英語圏にファンが多い作家だし、アイン・ランド・ファンの集まりが日本で持たれるということ自体、大げさに言えば世界史的意義のあることだから、東京アイン・ランド読者会ツイッター・アカウントには、英語のつぶやきも投稿してみた。

で、ツイッターは半角文字で投稿するときも1件最大140字なのだということを、はじめて知った。

全角文字で最大140字なら、半角文字で最大280 字だろうと、勝手に思い込んでいた。

英語でつぶやこうとすると、これがもうびっくりするぐらいあっという間に、140字が埋まってしまう。

とてもじゃないが、日本語で140字に相当するような内容は、つぶやけない。

たぶん日本語なら70字ぐらいの内容しか、英語だとつぶやけない。

だから、書きながら感じる「まだ言い尽くせない」感が、ものすごい。

だからこそ、書き手はもっと書きたくなるし、読み手はつっこんで尋ねたくなるし、という感じで、コミュニケーションが促進されていくのだろう。

英語話者がツイッターで行っているコミュニケーションのありかた、つまりはツイッター開発者が想定したコミュニケーションのあり方を基準に見ると、日本話者がツイッターで行っているコミュニケーションのありかたは、ずっと自己完結的なのだとわかった。

2010年3月16日火曜日

時の番地、時の道

「本日は2010年3月14日、日曜日。

ただいまの時刻は午後1時4分です。

これより、第1回、東京アイン・ランド読者会を開催いたします!」

たかだか参加者7名の気楽な歓談会の開始を告げるには、いささか大仰すぎる開会宣言をしながら、半世紀以上前のアメリカでアイン・ランドの手によって"The Fountainhead"や"Atlas Shrugged"が生み出された瞬間と、それから時が流れに流れ、2010年のここ東京で彼女のファンが集った瞬間とが、がっちりつながった、と佐々木は感じていた。

時の番地、時の道。

「ここは相模大野9丁目」と述べれば、相模大野1丁目とのつながりが、自ずと明らかになるようなものだ。

日本橋の下の水は遠く英国のテームズ河につながっている、と昔ある人が言ったという逸話を思い出しもした。

2010年3月15日月曜日

自分が生きる社会の悪口

自分が生きる社会の悪い点が気になる状態。

自分が生きる社会の悪い点が気にならない状態。

どちらの状態にも、とどまりっぱなしではいけないと思う。

佐々木は今、自分が生きる社会の悪い点は気にしないでおこうとしているところ。

自分が生きる社会の悪い点をまた気にするときがくるとすれば、それはその悪い点の克服に自分が与れると感じられるようになったときだろう。

2010年3月14日日曜日

本日第1回東京アイン・ランド読者会開催

来年は東京でアイン・ランドの読者会を開く」と思い付いてこの日記に書いたのが、去年の12月11日。

あれから約4か月。

水源』翻訳者の藤森かよこさんのお力添えもあり、本日、「第1回東京アイン・ランド読者会」を神奈川、埼玉、千葉、静岡、愛知からの7人の男女で開催。

今年の目標、一つ達成。

2010年3月13日土曜日

流行思想

ひょいと夏目漱石全集を開いたら、「文学の哲学的基礎」という明治40年4月東京美術学校での講演録が出てきて、こんな一節があった。
《〔‥‥〕先ず私と云うものがあると見なければならぬ、貴所方(あなたがた)があると見なければならぬ。空間というものがあると見なければならぬ。時間と云うものがあると見なければならぬ。又因果の法則と云うものがあって、吾人を支配して居ると見なければならん。是は誰も疑うものはあるまい。私もそう思う。
 所が能く考えて見ると、それが甚だ怪しい。余程怪しい。通俗には誰もそう考えて居る。私も通俗にそう考えている。然し退いて不通俗に考えてみるとそれが頗る可笑しい。どうもそうではないらしい。〔‥‥〕此手、此足、痒いときには掻き、痛いときには撫でる此身体が私かと云うと、そうも行かない。痒い痛いと申す感じはある。撫でる掻くと云う心持ちはある。然し夫より以外に何にもない。あるものは手でもない足でもない。便宜の為に手と名づけ足と名づける意識現象と、痛い痒いと云う意識現象であります。要するに意識はある。又意識すると云う働きはある。是丈けは慥(たしか)であります。是以上は証明する事は出来ないが、是丈けは証明する必要もない位に炳乎(へいこ)として争う可からざる事実であります。して見ると普通に私と称して居るのは客観的に世の中に実在して居るものではなくして、只意識の連続して行くものに便宜上私と云う名を与えたのであります。何が故に平地に風波を起して、余計なと云うものを建立するのが便宜かと申しますと、「」と、一たび建立すると其裏には、「貴所方(あなたがた)」と、私以外のものも建立する訳になりますから、物我の区別が是で付きます。そこが入らざる葛藤で、又必要な便宜なのであります。》
ちょうど西田幾多郎の『善の研究』やらウィリアム・ジェイムズの『純粋経験の哲学』やら出隆の『哲学以前』やらで、似たような発想をさんざん読まされたばかり。

こういう思想が、だいたいこのへんの時代の、流行だったのだろうか。

流行というか、ある種の「通らなければならない道」なのかも。

そういえば佐々木が10代の頃は「記号の恣意性」に関する言説が大流行してたっけ。

2010年3月12日金曜日

マン・ツー・マン英会話レッスンの不思議

カフェなどでときどき、英会話のマン・ツー・マン・レッスンを英語話者から受けている人を見かける。

横で聞いていていつも不思議に思うのだが、ああいった英会話レッスンは、なぜかほとんどの場合、講師がほぼ話しっぱなし、生徒はほぼ聞きっぱなし、で進行している。

英語話者の話を聞くだけなら、別にオーディオ教材で十分ではないか。

「生徒がいやでも話すように、質問をしまくれ」
「レッスン時間の半分以上は生徒にしゃべらせろ」

と講師に指導している英会話学校は、ないのだろうか。

英会話の実力の伸びは、単純に生徒が話す量に連動すると思うのだが。

もしかすると、企業としての英会話学校の業績や地位は、その教育成果には、あまり連動しないのかもしれない。

もっと言うと、英会話のマン・ツー・マン・レッスンを受けている人たちは、学習成果が上がらなくても、本当はたいして困らないのかもしれない。

だからこそ、あのような「講師が話しっぱなし、生徒は聞きっぱなし」の英会話レッスンが、相も変わらずそこら中で行われているのではないか。

2010年3月11日木曜日

日本語におけるエクスクラメーションマーク

レーニンの『唯物論と経験批判論』を読んだ。

古典読書会メーリングリストの課題で西田幾多郎の『善の研究』が取り上げられたとき、佐々木の西田批判を読んで、レーニンの『唯物論と経験批判論』におけるマッハ批判を思い出した、とおっしゃった参加者の方がいたので。

ドストエフスキーの『罪と罰』を読んだときにも感じたが、エクスクラメーションマークの多さが気になってしかたがない。

日本語は発音に抑揚がない言語と言われる。

これは必ずしも日本人が感情に乏しいからではない。

発音の抑揚に頼らなくても、言語表現自体で感情の起伏を豊かに表現できるからこそ、発音に抑揚がなくなるのだ。

発音の抑揚に頼らなければ感情の起伏を表現できない言語において、音声言語における発音の抑揚に相当する表現を文字言語で行う仕組みの一つが、エクスクラメーションマークである。

だから日本語への翻訳において、原語のエクスクラメーションマークは、そのままエクスクラメーションに置き換えるべきではない。

それに相応する感情の起伏を表現し得る文字表現に置き換えなければならない。

2010年3月10日水曜日

『もし高校野球の女子マネージャーが‥‥』著者解説記事を読んだ

昨日新聞を読んでいたら、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』(岩崎夏海著)について、著者の岩崎さん自身が語った記事が載っていて、興味深く読んだ。

岩崎さんは、「女子高生とドラッカー」という組み合わせを思い付いたときは、コメディーに仕上げることを考えていたのだとか。

ドラッカーのマネージャー論を、女子高生が間違って野球部のマネージャーにあてはめてしまったところから、ハチャメチャな展開が始まる、みたいな。

ところが、岩崎さんが女子高生の気持ちになってドラッカーの『マネジメント』を読んでみると、最初から最後まで、野球部の運営にはまることばかり。

これではコメディーにならない、ということで、王道の青春小説に路線変更したらしい。

インタビュー記事の最後のほうに、次のような箇所があって、けっこうウルっときてしまった。
《本書の内容は、ビジネスの現場だけでなく、NPOなどの非営利組織でも使えるし、家庭にだって適用できる。でも著者としては、とくに学生に読んでほしい。学校は、部活をはじめ集団行動がとても多い場所だ。にもかかわらず、学生がマネジメントを学ぶ機会はほとんどない。以前、テレビで高校の合唱コンクールのドキュメンタリーを見たことがある。練習の際に、リーダーの生徒がみんなを統率できなくて困っていた。出演者はだれも有効なアドバイスをかけられない。僕はそれを見て、もどかしい思いでいっぱいになった。本書を、あのとき泣いていた彼女に届けたい。》
なぜウルっときたかというと、一つは、テレビで見た一女子高生にそこまで感情移入できる岩崎さんの優しさに、感動したから。

もう一つは、私自身が高校時代、文化祭のクラス出し物でうっかりリーダー役を引き受けて、いかに自分に人を統率する力がないかを痛感させられる体験をしたことを、思い出したから。

佐々木が現在個人事業者なのも、あのときの失敗体験が一因になっているのかも、などと思ったり。

《とくに学生に読んでほしい》という岩崎さんの言葉を読んで、改めて思ったこと。

ドラッカー理論の適用対象という観点で見たとき、「大人の営利組織」に適用するのが常識の理論を、「子供の非営利組織」に適用してしまったのが、この本のユニークさだったのだな、と。

「大人-子供」と「営利組織-非営利組織」の、二つの軸のユニークさがあるわけだ。

「大人の営利組織」のほうが、「マネジメントが重要である」という認識だけは共有されているぶん、拙いマネジメントでも通用してしまう、という面があるのかもしれない。

「マネジメントが重要である」という認識さえ共有されていないような「子供の非営利組織」でも通用するようなマネジメントを考えることが、かえって「大人の営利組織」のマネジメントを根本から見直す視点を与えてくれるのではないか。

なんてことを、ふと考えさせられた記事だった。

2010年3月9日火曜日

頭が疲れ過ぎ。

今日は朝からずっと寒かった。

日中みぞれ。

強い風。

夜になって雪。

明日の朝起きて積もっていたら、家の前の道の雪かきをしよう。

2010年3月8日月曜日

体の奥

ゆるをやるとき、自分の体の表面近くばかりをゆすりゆらしゆるめていて、体の奥深いところまゆすりゆらしゆるめられていなかったことに、最近気づいた。

お金さえ出せば数日内に地球の裏側まで行けてしまう時代に、十年以上かかってなお自分の体の中が意識され尽くされない不思議さというか、もどかしさを思う。

2010年3月7日日曜日

庶民派

「○○は××すべきだ」という当為文を「国」や「企業」のような組織を表す普通名詞を主語にして本気で(あるいは少なくとも本気に見えるように)書き話せる人を庶民派と呼ぶのだと思う。

組織が笑うか。

組織が泣くか。

組織が怒るか。

笑いもしなければ泣きも怒りもしない存在になぜ主体性を求める。

そんな屁理屈を抜かす奴に庶民派を名乗る資格はない。

2010年3月6日土曜日

「ゆ」+「る」

ゆるゆる、と体がゆるむようにつぶやきながら歩いていて、気づいた。

「ゆる」をひとまとまりの単語とだけ意識してつぶやくのと、「ゆ」という一音、「る」という一音、それぞれが持つ力を独立に味わいながらつぶやくのとでは、自分の心身に与える影響の大きさが、まるで違う。

後者のほうが、効果が断然高い。

「ゆる」の「ゆ」という音と「る」という音については、高岡英夫先生が『極意と人間』で次のようにお書きになっている。
《 「ゆ」の音をたぐってみよう。ゆったりの「ゆ」、湯の「ゆ」、行くの口語音の「ゆ」、悠悠自適、悠久の「ゆ」、遊の「ゆ」、愉快の「ゆ」、優の「ゆ」、融の「ゆ」、友の「ゆ」、幽の「ゆ」……。深遠にして豊かなリラクゼーションの世界が「ゆ」という音の中に広がっていることが分かろう。
 一方「る」は、見る、振る、来る、知る、はねる、回る……の「る」である。動詞を作る「る」であり、正に動性、ダイナミズムを最も体現する音であることが分かる。
 「ゆ」がリラクゼーション、「る」がダイナミズム、合わせて「ゆる」=ダイナミック・リラクゼーションという不思議なほどの、見事な関係が存在するわけだ。》(260頁)
一音一音が持つ、このような宇宙規模での意識世界の広がりを、全身で味わうということだ。

ただメッセージをつぶやくというトレーニングも、意識の仕方次第で、桁違いに効果が変わる。

極小部分に心を込めることが、極大の効果を生む。

トレーニング時間の少なさは、このような工夫で補わないといけない。

2010年3月5日金曜日

さんきゅう

本日は私佐々木 一郎の39歳の誕生日でありました。

お祝いのメッセージを頂戴したみなさま。

この場でも改めて御礼申し上げます。

自分が50歳を迎えるにあたってすばらしい40代だったと振り返ることができるような、そんな10年を創造していくうえでの基礎を築く。

そういう39歳の1年=365日=52週間にしたいと思います。

2010年3月4日木曜日

親切な古紙回収員さん

今日は資源ゴミの日。

大量の雑誌、書籍を廃棄するつもりでいたのだが、朝ゴミ置場に持っていくのを、うっかり忘れてしまった。

昼前にあ、と気づいて、もう回収してしまった後かと思いつつ両手に雑誌の束を下げて玄関を出ると、ちょうど回収車が家の前を通るところ。

あー、と思いかけたところで回収車が止まり、運転していた回収員さんが笑顔で「うしろに乗っけなよ」と。

ありがたく雑誌束を荷台に載せさせてもらうと、「もう他にはないの?」。

親切な対応に感激。

ありがとう、大野産業株式会社の回収員さん。

2010年3月3日水曜日

相手の立場で同時チェック

申込書などに自分の住所氏名を書くとき、字が雑になりやすい。

書く機会が多すぎて、かえって崩れが進行・定着しやすいこともあるだろう。

思いを込めて書くような内容でもない、ということもあるだろう。

たくさんの記入欄がゴチャゴチャと並ぶ書式自体が、ていねいに文字を書く気をそぐ、ということもあるかもしれない。

あまり雑な字を書いても人格を疑われるので、これはなんとかしなければいけない、と思っていた。

最近気づいたのは、読み手の感情に思いを寄せながら書くと、わりと整った文字になりやすい、ということ。

自分が書いた文章を、読み手の立場になって読み返す、ということは、よくやる。

ただその場合は、いったん書き終わってから(少なくとも頭の中で文章が生成されてから)、読み手の立場に移行する。

文章の生成と、読者の立場での検討は、あまり同時進行ではやらない。

自分の住所氏名のように、その場で生成するわけではないケース、記憶から情報を引き出すだけでよいケースの場合は、文字に書き表しながら、同時に読者の立場で観察する、ということが可能だ。

で、営業などで人に接するときも、同じように相手の立場で自分を観察しながら相手に接すればよいのだ、と気づいた。

2010年3月2日火曜日

潜在ニーズ

お客様が自覚していたニーズを満たしたところで、お客様に感動していただくことはできない。

もっと、お客様が自覚していないニーズを顕在化させることに焦点を当てたマーケティング&営業をしなければならない、と今日急に思った。

2010年3月1日月曜日

『善の研究』にがっかり

今年の古典読破計画の第二弾として、西田幾多郎の『善の研究』を読んだ。

読みながら、もう目玉おやじかというぐらい、著者に突っ込まずにはいられなかった。

「オイッ、幾多郎! オイッ、幾多郎!」と。

純粋経験を唯一の実在としてすべての存在と当為を説明する、というのが、本書における西田の試みである。

我々が自己の認識の起源を内省的にたどれば、たしかに、西田の言う純粋経験に行き当たる。

だから我々の認識内容のすべてを純粋経験から説明することも、一応可能ではある。

だがこれはたとえるなら、個人の起源をたどれば受精卵に行き着くからといって、人間のすべてを受精卵から説明しようとするのと、同じようなことなのではないだろうか。

生命体における生殖を介した種の保存という仕組み自体が、生命の歴史のある段階で登場してきたのと同様に、生命体における意識という仕組み自体も、生命の歴史のある段階で登場してきた、つまり永遠の過去から存在しているわけではない、というのが、ごく冷静な考え方だと思うのだが。

いったい西田は、人間が登場する前の地球であるとか、生命体が登場する前の地球であるとか、地球が登場する前の宇宙であるとかを、どうやって純粋経験から説明しようと言うのだろうか。

そのような根本的疑義を抱えつつ本書を読んでいると、こんな文言が目に飛び込んできた。
《時間というのは我々の経験の内容を整頓する形式にすぎないので、時間という考の起るには先ず意識内容が結合せられ統一せられて一となることができねばならなぬ。然らざれば前後を連合配列して時間的に考えることはできない。されば意識の統一作用は時間の支配を受けるのではなく、かえって時間はこの統一作用に由って成立するのである。》(99ページ)
どうやら西田の理屈では、「意識が登場する以前の世界」などという時間的考察の対象自体が、意識の産物である、ということのようだ。

西田はさらに、個人に意識があるように、宇宙にも意識はあるのだ、とまで主張する。
《意識はすべて統一に由りて成立するのである。而してこの統一というのは、小は各個人の日々の意識間の統一より、大は総べての人の意識を結合する宇宙的意識統一に達するのである(意識統一を個人的意識内に限るは純粋経験に加えたる独断にすぎない)。自然界というのはかくの如き超個人的統一に由りて成れる意識の一体系である。我々が個人的主観に由りて自己の経験を統一し、更に超個人的主観に由りて各人の経験を統一していくのであって、自然界はこの超個人的主観の対象として生ずるのである。》(240ページ)
こういう屁理屈をこねくりまわす男を見ていると、ワイド版岩波文庫で、頭を思いっきりはたいてやりたくなる。

観念論全般を否定したいのではない。

観念論なら観念論で、もっときちんと筋を通して見ろと言いたいのである。
 
QLOOKアクセス解析