2010年1月31日日曜日

文章発信をしない人が講師を務めるセミナー

文章発信がこれだけ簡単になった時代に、著書もなければ執筆記事もなく、ブログもなければツイッターもやってない、という人が講師を務めるセミナーの案内に対しては、どうせ他人の説の受け売りか、自分の体験の過剰な一般化以外、何一つ聞くべき内容がないセミナーなのではないか、という先入観を、つい持ってしまう。

2010年1月30日土曜日

古代人の欲求と現代人の欲望

古代ギリシアの叙事詩『イリアス』を読んでいて、なにかいまひとつ、物語に入り込めない感覚を覚えた。

背景となる世界に関する知識がない。

言葉が翻訳語でこなれていない。

そういったこととは、また違う理由があるように感じた。

しばらく考えていて、ひとつ思いついた。

作者が想定している読者像が、現代人たる佐々木のあり方と、かなりずれているせいではないか。

では、どんな感覚を持った読者なら、この叙事詩の世界に入り込めるのだろう。

そう考えながら、自分の認識のモードを、いろいろ変えてみた。

ラジオの周波数を合わせるように。

で、なるほどこういうモードの認識の人間なら、この叙事詩の世界に入り込めそうだ、というモードがひとつ見つかった。

それは、自分の中の肉体的欲求を抑制せず、全開にするモード。

食いたい、やりたい、ぶち殺したい。

古代人たちは、こういった欲求に、現代人たちよりももっと直接的に、突き動かされていたのではないか。

現代人の場合、一見肉体的な欲求を満たす行動においても、より高い社会的承認を得られるような方法を追求せずにはいられない。

共同体の規範に従って行動することで社会的承認が得られていた古代と、共同体の基準に従って行動を選択することによって社会的承認が得られる現代との、違いとも言えるかもしれない。

本を読むことは、その本で想定されている読者像を読むことでもある。

そんなことに、気づかせてもらった。

2010年1月29日金曜日

のぞみ

東海道新幹線の各駅停車が「こだま」号、一部の駅しか止まらないのが「ひかり」号になったのは、音が速くて、光はもっと速いから。

じゃあ、「のぞみ」号は?

そうか。

未来のことを思うということは、時間の流れを抜き去るくということだから、願望は、この世に存在するどんなものより速いのか。

なんてことに、今日のぞみ号に乗っていて、いまさらながら気がついた。

そういえばSF作家の星新一が、どこかで次のようなことを書いていた。

星が少年時代、父親に向かって、光より速いものはないんだと、本で仕入れたばかりの知識をひけらかした。

すると星の父親は、次のようなことを言った。

たとえば、人類が太陽系の外れに宇宙基地を建設したとする。

太陽系の外れから地球までまでは、光の速さでもなかなかたどり着かない。

だが、この宇宙基地で働く一人の男が、ふと、地球に残してきた家族は今ごろどうしているだろう、と思うとき、この男の思考は、太陽系の外れから地球までの距離を、一瞬で飛び越える。

だから人間の思考は、光よりも速い。

2010年1月28日木曜日

視線の方向

無茶な愚痴というのはある。

あーあ、冬ってなんでこんなに寒いんだろう、とか。

あーあ、夏ってなんでこんなに暑いんだろう、とか。

他人が口にすると、無意味なこと言ってるなァ、と思う。

しかし気がつくと、自分でもけっこう、頭の中ではこういう無茶な愚痴をつぶやいてる。

最近だと、あーあ、なんで頭のてっぺんに目がついてないんだろう、とか。

頭のてっぺんに目がついていれば、自分の体軸と視線を一致させながら、生活することができる。

そうすれば、自分の中心がもっとはっきり意識されることだろう。

それに、いつもいつも、上を向いて生きていられる。

目指さなければならない水準は遥か上方にあるというのに、今の自分と同レベルのことばかりを追ってしまうのは、頭のてっぺんに目がついていないからだ。

という無茶な愚痴。

2010年1月27日水曜日

求道者

接客マナーの講師をしている人が書いた本を読んだ。

顧客満足の向上に、少しは役立つのではないかと思って。

読んでみて、接客マナーに対する、著者のあまりにも求道的な姿勢にびっくり。

とてもとても、心がけレベル、マナーレベルの話ではない。

自分も何か学んで取り入れよう、という気力さえ起きないほどの、レベルの高さ。

運動不足を解消したくて格闘技スクールに入ったら、実はグリーンベレーの養成所でした、というぐらいの、認識の隔たり。

どんな分野でも頂点の高さはすごい。

この先生に接客マナーを叩き込んでもらった人は、幸せだ。

体と魂に叩き込まれた一流の接客マナーは、本当にその人の財産だと思った。

一つだけ、違和感として感じたこと。

ある業界について、接客マナーのレベルの低さを、著者が批判している箇所があった。

その箇所を読んで、思い出されてならなかったのは、著者には失礼ながら、「ハンマーしか持たない者にはすべてが釘に見える」という格言。

接客マナーを上げることが、その業界に要求されている本質的な価値の向上に資さないケースだって、間違いなくある。

ある価値をあまりにも求道的に追求すると、その価値基準でしか物事を判断できなくなってしまうことの、生きた見本を見た思いだった。

2010年1月26日火曜日

古代叙事詩における神々

自分が生きている社会や時代に、存在しないもの。

そういうものを、よその社会や、過去の時代に見つけたとき。

そういうときは、「これは自分が生きている社会で言うと、何にあたるのか?」と考えずにいられない。

長く翻訳の仕事をしてきた影響だろう。

イリアス』を読んでいて、古代世界における叙事詩は、現代世界における夜のニュース番組かもしれないと思った、と昨日書いた。

それに関連して考えたこと。

『イリアス』の世界にあたり前のように登場する、ギリシャ神話の神々。

現代世界における夜のニュース番組では、いったい何が、古代叙事詩におけるあの神々の役割を果たしているのだろう。

とりあえずの仮説。

それは、コメンテーターやキャスターが、ニュースにコメントするときに持ち出してみせる倫理ではないか。

現代世界において倫理は、一人一人の個人の中にバラバラに存在しているようでもあり、個人を超越して存在しているようでもあり、という、どっちつかずの存在のしかたをしている。

この倫理が、古代世界では、神々として、あくまでも個人を超越した存在として、観念されていたのだろう。

古代においても現代においても、自分(たち)に起きた出来事について、自分(たち)が行なおうとしていることについて、その意味とか理由とか価値とかを考えずにはいられない、という人間の性質に変わりはないのではないか。

そういった意味とか理由とか価値とかを考えるにあたって、現代人が個人の倫理に依拠するところ、古代人は共同体の神々に依拠していた、ということなのだと思う。

2010年1月25日月曜日

演出された報道の必要性

今年の古典読破計画の第一弾として、『イリアス』を読んでいる。

古代世界における叙事詩というのは、現代世界において、何に相当するのだろう。

現代世界における芸術作品は個人によって楽しまれることを前提に創作されるが、古代世界における芸術作品は、おそらく、民族全体に楽しまれることを前提に創作された。

民族にとっての歴史的事件を、美しい叙事詩の形で共有することが、民族の存続と発展にとって現に有益だったからこそ、『イリアス』のような長大な叙事詩が創作されたのだろう。

共同体に発生した事件に、芸術的な演出を加えることによって、共同体全体で共有することの、社会的必要性。

現代社会でこの必要性を主に満たしているのは、テレビでやってる、夜のニュース・スポーツ番組なのではないだろうか。

あれらの番組に、さまざまな音楽や効果音や映像効果が使われたり、美人キャスターや庶民派コメンテーターが起用されたりするのは、もちろん一人でも多くの視聴者を獲得するためなのだろう。

だが、そういった制作者たちの意図とは別に、現代社会においてあれらの番組が、古代社会で叙事詩が果たした役割のとちょうど同じ役割をはたしているからこそ、あのような演出が行なわれるのだ、と見ることもできるような気がした。

2010年1月24日日曜日

文章の印象と語りの印象

元東京農工大学生協職員の“生協の白石さん”こと、白石昌則さんが、視聴者からの質問に答えるラジオ番組を、偶然耳にした。

白石さんの文章は、これまでもいくつか目にして、学生たちからの質問に対する誠意と機知に富んだ回答ぶりに、感銘を受けていた。

しかし白石さんの声を聴いたのは、初めて。

驚いたのは、白石さんの話し方がタレント並になめらかで、しかも、文章を読んで受ける印象と、語りを聴いて受ける印象に、まったくといっていいほどズレがなかったこと。

書くのはうまくても喋るのはへたという人は、いくらでもいる。

文章の印象と語りの印象がまったく違う人も、いくらでもいる。

佐々木の場合はどうなのだろう。

たとえばこの日記で佐々木のことを知った人が、実際に佐々木に会って、どんな印象を持つものなのか。

ぜひ聞いてみたい気がする。

2010年1月23日土曜日

専門技能と人格

ある専門的な技能を習得することによって、その技能を習得した人ならではの人格的美質が備わる、ということがあるような気がする。

たとえば佐々木はピアノを弾けないが、ピアノの演奏技術を習得した人には、ピアノの演奏技術を習得した人ならではの人格的美質、というものがあるのではないか。

逆に、ピアノの演奏技術を習得した人から見ると、ピアノが弾けない人は、単に「ピアノが弾けない人」と見えるだけでなく、「ある種の人格的美質が欠落した人」と見えるのではないだろうか。

ピアノが弾けない人は、自分にそんな欠落が存在することなど、想像することすらないような欠落が。

実は佐々木自身が、自分が習得している専門的技能を持たない人に対して、その技能を持たない人に特有の人格的難点、というものを感じてしまうことがあるから、こんなことを考えてしまったのだが。

2010年1月22日金曜日

メンバーは顧客

土井英司さんが先月「ビジネスブックマラソン」で紹介されていた『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』(岩崎夏海著)を読んだ。

いい本だった。

笑っちゃうぐらいの「出来過ぎ」感動ストーリーなのだが、「出来過ぎ」ぶりがあまりに徹底していて、かえって素直に感動できてしまった。

マネジメント論的に印象に残ったのは、野球部の部員も、野球部にとっての〈顧客〉なのだ、と規定するところ。

佐々木が業務マニュアルを書くときは、読み手であるスタッフの感情に、徹底的に配慮する。

広告文を書くにあたって顧客の感情に配慮するのと同じ水準で、スタッフの感情に配慮したマニュアルを書かなければならない、と思っている。

だが、「スタッフも会社の〈顧客〉である」という発想は、佐々木にはなかった。

常識にも反する。

しかし、「スタッフも会社の〈顧客〉である」という発想を、あえて全面的に受け入れてみると、急に視野が広がったような感覚を覚えた。

何か新しい発想のビジネスができそうな気がしてきた。

2010年1月21日木曜日

「中二病」という言葉を使いたい病

「中二病」という言葉を聞くと、ドキッとする。

いい歳こいた大人が、こんなことに熱くなってしまうのは、いかがなものか。

自分自身に対してそんな疑念が湧くことが、少なくないから。

ただ、「中二病」という言葉を使いたくてしかたなくなる、というのも、精神発達のある段階における一症候であるには違いない。

「自分はもう小学生ではない」ということを、顕示したい。

これは、中学生特有の欲求だ。

だから少し揶揄するような表現を用いるならば、「自分は中二病ではない」、もしくは「中二病を自覚できる程度には成熟している」ということを極度に顕示したがる症状を、「中三病」と呼ぶことも可能だろう。

2010年1月20日水曜日

罵倒

罵倒されたときは、ただ罵倒されるに任せる。

相手の中にたまった怒りのエネルギーは、解放してやる。

相手が怒りのエネルギーを解放することで感じている気持ちよさを、こちらも一緒になって感じてしまえばよい。

相手の言い分がヘンだと思っても、反論はしない。

相手の言い分がヘンだと思えるうちは、まだ相手の立場を理解できていないのだ。

質問されれば、説明はするが。

それが攻撃のための質問ではなく、理解のための質問であるなら。

自分にむかってぶつけられた怒りのエネルギーとロジックのすべてを吸収し、ゆっくり時間を掛けて消化していく。

消化しているあいだ、自分の生産性は落ちる。

それはしかたがない。

相手に向かって等量のエネルギーとロジックをぶつけ返したところで、それで生産性が上がるわけでもない。

2010年1月19日火曜日

くりごと

今オレ、いいこと言った。

なんてつい、自分の言葉にうっとりして、「たった今オレが言ったいいこと」を、二度も三度も口にする。

他人がやるのを見ていると、実にみっともない。

でも気がつくと、自分もやっている。

なんとか、防ぐ方法はないものか。

ただこうも思う。

みっともない、とわかっていながら、それでも繰り返し口にしたくなるほど、うまい言い回しが口をついて出た、ということは、その会話が、少なくとも自分自身にとって、それだけ有益だった、ということだ。

会話において口にされる言葉は、話し手の力だけではなく、聴き手の力も合わさって、生み出される。

だから、つい自分の言葉にうっとりして、みっともないくりごとをしてしまったときは、それだけ自分にとって有益な言葉を生み出すのを助けてくれた、聴き手としての相手の力に、感謝しなければならない。

逆に、会話の途中で相手がみっともないくりごとを始めたときは、相手にとってそれだけ有益な言葉を生み出すのを助けた、聴き手としての自分の力を、こっそり誇ってよい。

2010年1月18日月曜日

世界標準と日本人

内田樹さんの『日本辺境論』を読んだ。

特に印象に残ったところ。
《日本人は後発者の立場から効率よく先行の成功例を模倣するときには卓越した能力を発揮するけれども、先行者の立場から他国を領導することが問題になると思考停止に陥る。ほとんど脊髄反射的に思考が停止する。あたかも、そのようなことを日本人はしてはならないとでも言うかのように。あたかも、他国の範となることが日本人だけには禁じられているとでも言うかのように。そのようなことをしたら日本人はもう日本人ではなくなってしまうとでも言うかのように。》
《日本が世界に向けて「私が世界標準を設定するので、諸国民もまたこれに従っていただきたい」という文型で教化的メッセージを発信した例を私は知りません。
〔‥‥〕
「教化」というのは、「諸君は私のメッセージを理解せねばならない。なぜなら、諸君が私のメッセージを理解せねばならない理由を諸君はまだ知らないが、私はすでに知っているからである」というアドバンテージを主張できるものだけがなしうることです。人々がまだ知らないことを、すでに知っている人間にだけできることです。そして、私たちはこういう言葉を口にすることができない。どれほどつよく望んでも口にすることができない。
私たちにできるのは、「私は正しい。というのは、すでに定められた世界標準に照らせばこれが正しいからである」という言い方だけです。それ以外の文型では「私の正しさ」について語ることができない。》
なるほどなぁ、と。

「世界標準」を自ら定めるべく研鑽し発言している日本人だって、いないわけじゃないと思う。

高岡英夫先生とか。

学問誌『学城』の寄稿者たちとか。

ただ、「世界標準を定めるような仕事は、外国人がやるべき仕事であり、日本人がやるべき仕事ではない」と多くの日本人が考えているからこそ、ああいった先生方が、そのスケールと実力に見合うだけの評価を受けられないのだ、と考えると、納得がいく。

2010年1月17日日曜日

呼吸が楽になるように

ゆる体操で足首をゆるめたら、なぜか、呼吸が楽になった。

体の各部のあり方は、思いもよらない形で、互いに結び付いている。

足首のあり方がよくなることで、センターの通りが全身的によくなり、それが呼吸の改善に結びついたのだろう。

体のあり方や動きの改善が、うまくいってるか。

これを判断するとき、

「自分の呼吸が、より楽になるか」

というのは、一つの指標として使えそうだと思った。

2010年1月16日土曜日

内省

自分で自分の内面を分析しているとき、その分析をまさに行っている主体としての自分は、分析の対象から外れている。

仮に、「自分を分析している自分」の分析を始めたとしても、その瞬間、「『自分を分析している自分』を分析している自分」にとって「『自分を分析している自分』を分析している自分」が分析の対象外になっていることに、変わりはない。

で、自分の内面の分析はけっこうやりつくしているつもりでいても、その分析を行っていた自分の内側に、膨大な未分析の領域が広がっていることに突然気づいて、驚かされたりする。

自分の中心が、一番見えない。

2010年1月15日金曜日

古典読破計画2010

去年始めた古典読破計画、今年は次のスケジュールで行く。

1月 ホメロス『イリアス』
2月 西田幾多郎『善の研究』
3月 ジョージ・オーウェル『一九八四年』
4月 紫式部『紫式部日記』
5月 カール・シュミット『陸と海と 世界史的一考察』
6月 山本常朝『葉隠』
7月 ヘロドトス『歴史』
8月 荻生徂来『政談』
9月 トルストイ『戦争と平和』
10月 貝原益軒『養生訓』
11月 J・A・L・シング『狼に育てられた子』
12月 谷崎潤一郎『細雪』

書名だけは知っていても、思い切ってこんな計画でも立ててみないことには、おそらく死ぬまで読まないだろう本ばかり。

2010年1月14日木曜日

解決と希望

昨日も書いたが、ハリウッド映画で用いられているストーリー設計術は、そっくりそのまま、ビジネス設計術としても応用できる。
「ログライン」
「プロット・ポイント1」、「ミッド・ポイント」、「プロット・ポイント2」
「ブースター・ロケット」
「外的ゴール」と「内的ゴール」
「日常」と「非日常」
「非日常からの誘惑」
「プレミス」と「ディベート」
「アイデア」と「アンチ・アイデア」
「キャラクター・アーク」
「プロタゴニスト」と「アンタゴニスト」
「メンター」
「単純なストーリーと複雑なキャラクター」
「ゴール」と「ステーク」
「フック」
「セットアップ」と「ペイオフ」
「スライス・オブ・ライフ」
「トーン」
これらは、田中靖彦さんが著書『ハリウッドストーリーテリング』で、脚本設計上の概念として紹介しているものの一部だが、モノ余りの時代におけるビジネスを設計するにあたっても、これらは必須の概念だと思う。

ビジネス設計術の教科書としてこの本を読んだとき、佐々木が一番衝撃を受けたのは、次の箇所だ。
《〔‥‥〕短編の最後で、全ての問題を一気に解決しようとしないこと。あなたの主人公は、初期設定の段階で何らかの問題を抱えて登場するわけだが、物語の最後に来た時、多くの生徒が、その問題を無理やり、あるいは一気に解決しようとする。例えば、ある生徒の主人公は、“テレビ・ゲーム中毒”いう問題を抱えて登場する。そして物語の最後には、それぞれの主人公がひきこもりでなくなり、ゲーム中毒でなくならなければ、物語が完結しないかのような脅迫観念に囚われる。しかしこの脅迫観念は、全く無用なものである。特に短編では、物語の最後で、主人公の問題の全てを解決しようとしてはいけない。〔‥‥〕人はそう簡単に変わるものではないのである。〔‥‥〕引きこもり主人公とゲーム中毒主人公を書いた生徒達に僕がアドバイスしたのは、主人公達の問題を完全に解決する代わりに、その短編が終った後、観客が「あの主人公は、この後いつか、あの問題を解決するかもしれない」という小さな希望をエンディングに入れるということであった。〔‥‥〕》
ビジネスは、顧客が抱える問題を解決するものとして設計しなければならない。

佐々木は、このような考えに凝り固まっていた。

たとえ顧客が抱える問題を解決できなくても、解決への希望を提供することさえできれば、ビジネスは成立する。

むしろ場合によっては、解決への希望は、解決それ自体よりも、顧客にとって価値がある。

そのことに目を見開かされたことが、この本を読んで得られた最大の収穫だった。

2010年1月13日水曜日

『ハリウッドストーリーテリング』を読んだ

田中靖彦さんの『ハリウッドストーリーテリング』を読んだ。

ハリウッド在住の脚本家である著者が、ハリウッド映画の緻密に計算された脚本術を解説した本。

本を読んで受けた衝撃としては、1年に一度あるかないかぐらいの大衝撃を受けた。

その衝撃の少なからぬ部分は、まさかこの本からこんな衝撃を受けるとは思わなかった、という意外性から来たものだ。

佐々木はこの本を、文章、特に広告文の上達に役立つだろう期待して購入した。

だが著者も書いているように、映画の脚本を観客にとって満足度のいくものにしていく技術は、自分自身の人生を、自分自身にとって満足のいくものにしていくためにも役立つのだ。

自分の人生設計を考えるときや、自分の人生に思いもかけずふりかかった出来事について考えるとき、ハリウッド映画の物語設計に用いられている諸概念を当てはめてみると、驚くほど人生の見通しがよくなり、希望と確信が湧いてくる。

それだけではない。

これは筆者が書いていないことだが、映画脚本の構成法は、そのままビジネスの設計法としても読めるのだ。

映画脚本は、「アクト1」=状況設定、「アクト2」=葛藤、「アクト3」=解決、というふうに構成される。

この構成は、「誰が(何が)、どうして(何をして)、どうなる話」と要約される。

これは、顧客視点でのビジネス設計そのものではないか。

佐々木は常々、自分のビジネスセンスのなさを嘆いている。

この本で、下手な脚本家が犯しちな誤り、として紹介されていることの多くが、佐々木がビジネスを設計するうえで犯してきた誤り、現に犯している誤りに、そっくりそのまま当てはまってしまうこと。

これが、何よりの驚きだった。

2010年1月12日火曜日

ジンブレイドと反り腰

今朝ジンブレイドのトレーニングをしていて、発見したこと。

ジンブレイドを使おうとすると、佐々木は腰が入ってしまう。

腰が入ってしまうと、ジンブレイドは使えない。

腰の中立を維持すればするほど、ジンブレイドはジンブレイドとして機能する。

あたりまえのことだが、こんなことさえ、自分ではなかなか気づかない。

2010年1月11日月曜日

『ビジネス・ゲーム』を読んだ

ベティ・L・ハラガンの『ビジネス・ゲーム―誰も教えてくれなかった女性の働き方』(福沢恵子、水野谷悦子訳)を読んだ。

ビジネスはゲーム。

このゲームのルールを、ほとんどの男性は少年時代からごく自然に身につけているが、多くの女性は身につけていない。

そのような観点から、ビジネスの世界で生きようとする女性に向けて、このゲームのルールと、攻略法を解説した本。

女性向けに書かれた本ではあるが、男性である佐々木にも非常に参考になった。

男が従っている暗黙のルールというものは、男自身には、明確に自覚されないので。

それから、大企業で働いた経験がない佐々木にとっては、大企業で働く男女の行動原理を明らかにしてくれるという点でも、ありがたい。

あと、筆者の意図とはまったく関係がないのだが、この本のいわゆる「ゲームのルール」を、あたかも崇高な倫理、あるいは人生における絶対的真理であるかのように思い込んで生きてしまった人が、定年退職後に、妻から「粗大ゴミ」などと呼ばれてしまうのかも、とも思った。

2010年1月10日日曜日

「施身聞偈」を読み返した

ここ数日、起床後の読書として、『学城』誌を読んでいる。

南郷継正先生以外の執筆者による論文は、初読時には、かなり読みとばしてしまっていた。

じっくり読んでみると、思っていた以上に、レベルの高い論考が多い。

今朝は、井上真紀さんの「施身聞偈(悟りへの道を考える)」を精読した。

学問誌に小説? という違和感から、ろくに目も通さずにいたが、なかなかすごい短編。

古典と呼ばれる本でも、読んでみるととても古典とは思えないことがあるし、新しい本でも、これはもしかすると古典になるのではないか、と思うこともある。

「施身聞偈」、もしかすると古典になるかも。

2010年1月9日土曜日

腰の中から吐き気

以前も書いたが、ゆる体操をやっていて、長い間強烈に拘束されていた部分がゆるみはじめると、あたかもその部分にたまっていた“邪気”が解き放たれたかのように、吐き気がこみ上げてきて、空嘔吐をしてしまうことがある。

同じ体操で、同じ箇所から吐き気がこみ上げることが、数日から1週間続く。

“邪気”が吐き出されきったかのように、吐き気がこみ上げてこなくなって、半年から1~2年経ったところで、また別の箇所から、吐き気が起こるようになる。

ここ最近は、足ネバネバ歩きをやっていて、腰の中から、吐き気がこみ上げてくる。

自分の主観としては、足ネバネバ歩きがこれまでになく上手にできるようになり、腰の中の、それまでゆるまなかったところがゆるみはじめたからこそ、起きる現象だ。

足ネバネバ歩きがこれまでになく上手にできるようになってきた原因の一つは、足足スリスリ系のゆる体操に時間を掛けるようになったことだ思う。

2010年1月8日金曜日

好き→嫌い→好き

佐々木が大学時代に直接指導をいただいた恩師の一人に、教育学者の田中昌人という先生がいた。

既に数年前に亡くなられている。

田中先生が構築された理論に、「可逆操作の高次化における階層-段階理論」というのがある。

佐々木は大学時代、田中先生をして「あなたのことを考えると心臓が痛くなる」と言わしめたほど、ある意味、デタラメ極まりない学生生活を送っていた。

田中先生の授業に真面目に出ていたわけではないし、田中先生の本もきちんと読み込んでいない。

そういういい加減な人間の理解ではあるが、「可逆操作の高次化における階層-段階理論」というのは、およそ次のような理論だ。

たとえば手を握る、という動作は、手を開く、という動作ができてはじめて、十全に機能する。

同様に、右に向かって寝返りを打つ、という動作は、左に向かって寝返りを打つ、という動作ができてはじめて、十全に機能する。

同様に、帰納という精神操作は、演繹という精神操作ができて、はじめて十全に帰納する。

このような対になる操作は、いくらでも例が出てくる。

人間における、こうした対になる操作が、単に手を握ったり開いたり、といったレベルから、右に寝返りを打ったり左に寝返りを打ったり、というレベルを経て、さらには精神的な操作を含むより高次な操作へ、と高度化していくあり方には、弁証法を道しるべにして研究していくと、法則性や構造性が見出される。

この法則性や構造性を理論化したのが、「可逆操作の高次化における階層-段階理論」である。

まちがっていたらホントごめんなさいだが。

なんで急に、田中先生のことを思い出したか。

ある人のことをいったん好きになって、しばらくしてその人のことが嫌いになったとき、もう二度とその人のことを好きになれない、というのは、ある意味、手を握ることはできても、手を開くことはできないようなものなのではないか。

いったん嫌いになった人のことも、また好きになることができるようなる、というのも、一つの人間的な成長で、「可逆操作の高次化」なのではないか。

そんなことをふと思いついたのをきっかけに、田中先生のこと、そしてあの難解な理論のことを、思い出したのである。

2010年1月7日木曜日

有機的と機械的

言語は生命現象そのものである、ということが改めて実感されてみると、言葉に対するそれまでの自分の理解が、ずいぶんと機械的なものであったと反省される。

有機的な現象を機械的に把握してしまう、というのは、佐々木がよく犯しがちな誤りの一つである。

2010年1月6日水曜日

言葉は本当に生き物

「言葉は生き物」と言われる。

最近まで佐々木は、この表現を、「正しい言葉」の基準は絶えず変化していく、ぐらいの意味でとらえていた。

だが、ふと思いついて、生物のあり方の動的な構造性(弁証法性)と、言語のあり方の動的な構造性(弁証法性)の間には、どれぐらい共通性があるだろうか、という問題意識を持ってみたところ、これが驚くほど、共通性が浮かび上がってくる。

「言葉は生き物」という表現が、それまでとはまったく次元の違う実感を伴って、迫ってきた。

構造と呼べるような構造もないような状態から、明確な構造を持つ類が発展してきた、発展史的なあり方も。

単細胞生物のような単純な体の類と、脊椎動物のような複雑な体の類が、共存している生態的なあり方も。

絶え間なく代謝を続ける本質的なあり方も。

言語は、まさに生命現象だ。

そう理解してみると、英語の理解も、より実感を伴うものになってきた。

2010年1月5日火曜日

潤沢と稀少

クリス・アンダーソンの『フリー~〈無料〉からお金を生みだす新戦略』を読んで、一番心に残ったところ。

著者の勤務先では「共有フォルダから不要なファイルを削除する」ことを求めるメールがときどきIT部門から送られてきて、そのたびに筆者は不要なファイルを探して削除していたが、調べてみると、記憶容量を増やすために必要なコストなど微々たるものだった、という話。
《どうしてこんなことが起きたのだろう。答えは簡単だ。どういうわけか、記憶装置は高価なものだと私たちが信じ込んでいたのだ。実際には、とるに足りないほど安くなっていたというのに。私たちは、ハードディスクの容量という潤沢なものを稀少なもののように扱い、社員の時間という稀少なものを潤沢なもののように扱っていた。まったく逆にしていたのだ》(253ページ)
潤沢なものと稀少なものを正反対に認識する、という誤り。

ぜったいに、いろいろなところで、知らず知らずのうちに、やらかしているはずだ。

潤沢なものを稀少だと思い込んでいないか。

稀少なものを潤沢だと思い込んでいないか。

今の世の中、これは死活的に重要な問いだと思う。

2010年1月4日月曜日

『戦中派不戦日記』を読んだ

古典読書会メーリングリストの課題で、山田風太郎の『戦中派不戦日記』(新装版 講談社文庫)を読んだ。

100年以上前に撮影された映像や写真を見ると、興奮を覚える。

あれとよく似た興奮を覚えた。

大東亜戦争終結の年の風景が、あまりにもリアルに描かれていたので。

しかも映像や写真と違い、その時代を生きる人の内面までもが、活写されている。

新聞や雑誌に発表された文章と違い、読者や世間を意識しての、取り繕いもない。ただただリアル。

この日記を出版するにあたり、昭和48年に筆者が書いた「まえがき」と「あとがき」も、すばらしい。

日記の記述がどのように読まれるべきかを、当時の自分を突き放しながら、冷静に語っている。

たとえば、
《いまから思えば、例えば当時の毎日の食物などについてもっと記録を残しておけばよかったなどの悔いはあるが、その時点においては、それはあまりに日常化していたから、特に書くに値しなかったのである。空腹の描写が少ないのは、そのとき空腹でなかったということではない》(5ページ)
とか。

この本、タイトルがよくないと思う。

「不戦」というと、「反戦運動の闘士」みたいな印象を受けてしまう。

もっと素直なタイトルでいいのに。

この日記に描かれたような観察や、思索や、批評ができる人物を輩出することこそが、「学問の府」としての大学だとか、教養だとかの、社会的存在意義なのではないか。

そんなことも思った。

2010年1月3日日曜日

トレーニング

しばらく前に、体のあちこちが悪いという、六十代ぐらいの女性と話す機会があった。

医者から数えきれないぐらい薬を処方されて、毎日飲んでいるのだとか。

遠視に乱視で、最近は白内障も入り、満足にものも見えない。

そう聞いて、視力を復活させるトレーニングみたいなものはやってみたのか、と尋ねた。

するとその女性、「お医者さんから薬はもらってるんだけどね」と答える。

質問の意味が伝わらなかったのかと思い、雑誌とか新聞とかに、よくそういうトレーニング法の広告が出ているではないか、と聞き直した。

それでもやはり、「薬は飲んでるの」と答える。

驚いたことにこの女性、「自分の心身を鍛える」という観念が、頭からまったく欠落しているらしい。

考えてみると、ふだん佐々木は、自分自身を鍛えて向上させる、ということに、異様な情熱を持つ人ばかりと付き合っている。

だからいつのまにか、あたかも世の中、そういう人ばかりであるかのような、錯覚に陥っていた。

自分を鍛えることなど考えもしない、という人のほうが、本当はきっと多数派なのだ。

己の蒙に、目を見開かされた。

2010年1月2日土曜日

良いイメージ

先日高岡英夫先生のリードで手の中の骨を徹底的にゆるめるワークをやって、もう一つ驚いたこと。

手の骨がゆるみにゆるんだ結果、何を握っても、自分の手が、その物を握るのにおあつらえ向きの状態になってしまったことに感動したはいいのだが、その後しばらくすると、そのような感動的な状態は、一向に再現されなくなってしまった。

いつのまにか、「何を握っても、自分の手が、その物を握るのにおあつらえ向きの状態になる」という、イメージを追うようになってしまっていたのである。

良いイメージを追ってはいけない。

このことは、高岡先生がずいぶん前から教えてくださっていたことだ(『極意と人間』等)。

自分でもわかっているつもりでいた。

「良いイメージを追わない」ことに十年以上取り組んで、いまだに気がつくと、平気で良いイメージを追っている。

愕然とさせられる。

2010年1月1日金曜日

新年のご挨拶

あけましておめでとうございます。

みなさまにとっても佐々木自身にとっても、今年が昨年よりずっと、ずっと、ずっと、ずっと、よい年になりますように。
 
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