2009年12月31日木曜日

今年最も感銘を受けた人

今年最も感銘を受けた人。

本を通じての出会いではあるが、吉田松陰。

吉田松陰に出会えただけでも、今年、古典読破計画を立てて実行した甲斐があった。

2009年12月30日水曜日

日垣隆さん主催の読書会に行ってきた

本日都内で開催された、ジャーナリストの日垣隆さん主催の読書会に行ってきた。

テキストはクリス・アンダーソン著『フリー~〈無料〉からお金を生みだす新戦略』(NHK出版)と『日本の論点 2010』(文藝春秋)。

日垣さんに気持ちよくしゃべっていただく、という観点からすると、オーディエンスとして、若干お行儀が悪かったことを反省。

日垣さんが『日本の論点』を毎年読破して自分の弱点を発見し克服していく動機として、「負けず嫌い」であることを挙げられていたが、その「負けず嫌い」っぷりを間近で目の当たりにできたことは、大きな収穫。

佐々木は自分の中の「負けず嫌い」な部分を、抑制しすぎているところがある。

自分を成長させていくエネルギー源として、もっと自分の中の「負けず嫌い」を解放していいのではないか。

そんなことを思った。

2009年12月29日火曜日

ゆる体操で消えていく悩み

先日、高岡英夫先生が指導されるゆる体操の講座に出席してきた。

講座の中で、高岡先生のリードで手の中の骨を徹底的にさすり、その前後で、棒を持ったりタオルを絞ったりといった動作が、どのように変化するかを体験する、というワークがあった。

結果は、かなり衝撃的だった。

高岡先生のリードで手の中の骨をゆるめたあとは、たとえば棒を持つと、客観的には極めて柔らかく、フワッと握っているように見えるにもかかわらず、自分の主観としては、まるで自分の手が、その棒をはめ込むために作られたパーツであるかのように、極めてしっかりとした握りになった。

タオルを絞ると、自分の手や腕が、そのタオルを絞るために作られた機械になったかのように、タオルがキリキリと締め上げられた。

そこから敷衍して思ったこと。

自分の身心が今後ますますゆるんでいけば、問題に遭遇するたびに、自分の身心が、ちょうどその問題を解決するために作られた機械になったかのように、瞬時に機能できるようになるのではないか。

道具に感情があるとすれば、ハサミにとっては切ることが喜びであり、ハンマーにとっては叩くことが喜びだろう。

自分の身心の状態が、自分が遭遇している問題の解決にぴったりの状態になれば、その問題を解決すること自体が、自分の身心にとって奥深い喜びとなるに違いない。

ということは、問題に遭遇して悩むということがなくなるということだ。

身心がゆるんでいった果てに、そのような理想状態が存在する。

これは大きな希望だ。

「高能力」と「ゆる」の関係を、極めて具体的な形で実感できた体験だった。

2009年12月28日月曜日

頼りにならない人

危機的な状況にあって、頼りにならない人でいるということは、自分自身の存在もまた、問題の一部になっているということだ。

すべての場面で、というのは無理にしても、できるだけ多くの場面で、頼りにならない人ではなく、頼りになる人になりたい。

2009年12月27日日曜日

うらおもて

一枚のコインの表と裏を、同時に直接見ることはできない。

だがコインの表(おもて)面を、「これは表面である」と意識しながら見るとき、人は見えない裏面までいわば見ている。

そういう見方は、たまたま上を向いている面が表面だったから表面を見ている、という見方とは違う。

2009年12月26日土曜日

錯覚

人間ってここまでだめになれるんだ、とあきれるほどだめな人と一日を過ごすと、帰り道で見かける人がみんなすばらしい人に見え、人間ってここまですばらしくなれるんだ、と感動するほどすばらしい人と一日を過ごすと、帰り道で見かける人がみんなだめな人に見える。

2009年12月25日金曜日

贈り物

物が稀少で時間や空間が潤沢であった時代と、物が潤沢で時間や空間が稀少になった時代とでは、感謝の表明として物を贈ることの適否が逆転することもあり得ると思うのだが、贈り物というのは慣習や感情がからむことでもあり、自分が属する集団で集団として何か贈り物をしよう、という話が持ち上がったとき、そのことに対して疑問を差し挟むのは、やはりちょっとはばかられる。

2009年12月24日木曜日

ストレス

心身を破壊するかと思えるほどのストレスも、工夫と訓練を重ねることで、そよ風程度に思えるようになると信じたい。

2009年12月23日水曜日

話しっぱなし

カフェとかで隣の席から聞こえてくる二人組の会話が、一人は話しっぱなし、もう一人は聞きっぱなし、という状態だったりすると、話しっぱなしの側の知的能力が、あまり高くないんだろうなぁ、と思ってしまう。

しかし、自分が人と会話していているときは、気がつくと、自分が話しっぱなしの側だったりする。

2009年12月22日火曜日

近所の夜景

リハビリ病院から一時外泊する母と、実家に向かう夜。

到着の直前、介護タクシーの運転手さんが、遠くに見える街の灯々を見て、

「きれいな夜景ですねぇ…」

とつぶやいた。

あの夜以来、日が暮れてからあの道を通るのが、楽しみになった。

自分の幸福の量と質は、接した他人が表現した幸福の量と質に、相当程度規定されるようだ。

これは逆に、自分が表現した幸福の量と質が、他人の幸福の量と質を規定するということでもある。

2009年12月21日月曜日

足の裏から一歩前進

ジンブレイドの、内踝の下からアキレス腱に掛けてのライン。

このラインが、最近ようやく、「うまくできてるなぁ」と思えるようになってきた。

今までは、足の裏のラインを意識するのがやっと。

体幹が前に出始めたときに、足の裏のラインの後ろ側が前方にずれやすいことを自覚できるようになって、やっと足の裏のラインが機能し始めたのだと思う。

2009年12月20日日曜日

『省けん録』を読んだ

今年の古典読破計画の締めくくりとして、佐久間象山の『省けん録』を読んだ。



幕末の思想家であり砲術家・兵学者であった筆者が、弟子の吉田松陰の海外密航未遂の罪に連座して獄につながれていたときの思索を、出獄後、子孫に残す目的でに筆録した本。

ひさしぶりに古典を読む醍醐味を堪能させてもらった。

古典を読む醍醐味を一言で言えば、人間精神の高みを尋ねることができること、と言えるだろう。

それはさらに、人間精神の最高峰における発展の歩みを辿る楽しみと、それまで想像もしていなかった方向への「高み」を知る楽しみの、二つに分かれるように思う。

この『省けん録』は、どちらかといえば後者の楽しみを提供してくれる本だ。

話題は次から次へと変わっていき、叙述の展開に体系性はない。

東洋の道徳に西洋の技術、という考え方も、当時の日本においては先進的だったかもしれないが、人類史的に見れば、あくまでローカルな発想にすぎない。

ただ、叙述に込められた精神の格調高さには、打たれる。

この『省けん録』、原文はすべて漢文なのだ。



岩波文庫には訳も掲載されているのだが、この「訳」というのは漢文の書き下し文であって、現代語訳ではない。




漢文で書かれた『省けん録』の原文を眺めているだけで、思想を漢文で表明することを当然のこととしていた当時の知識人たちの精神のありようや、そのような知識人たちが文化的に先導していた当時の日本という国のありように、興奮を覚えずにはいられない。

2009年12月19日土曜日

修業

高岡英夫先生が『センター・体軸・正中線』で紹介されているジンブレイドという身体意識のトレーニングを習慣化して、1年以上。

最近ようやく気がついたこと。

ジンブレイドを掛けて、体幹が前に出始めたとき、軸足の裏のラインのうち、後ろ側の部分が、体幹の動きに引きずられて、一緒に前に出てしまっていた。

体幹が前に出始めたとき、軸足は体幹に対して相対的に後ろに行くのだから、当然、ジンブレイドの足の裏のラインも、体幹に対して後ろに行くのである。

ものっすごく、あたりまえのことだ。

ある面、修業というのは、あたりまえであるはずのことを、自分がまるでできていないことに気づかされることの、繰り返しだと思う。

2009年12月18日金曜日

体をチェックする切り口

自分の体に意識を向け、ゆるんでないところはないかチェックするときは、体を部分部分に分けて意識していく。

「腕、脚、体幹」だとか、「骨、筋肉、内臓」だとか、大まかなまとまりで意識していくこともあるし、細かい骨同士の関係に注目してみたり、血管に意識を向けてみたり、切り口はいろいろある。

切り口を変えるごとに、体がゆるむ感じも違ってくる。

最近試してるのは、直立した自分の体を、センター(鉛直線)を中心に「前右、前左、後右、後左」の四つに分ける切り口。

自分の体の背中側がゆるみにくいことが、よくわかる。

この切り口自体が、センターの意識や、体を割る意識を活性化させる。

2009年12月17日木曜日

煎茶、紅茶、果物、FMラジオ

好きで、毎日のようにやっていたことが、突然いやになって、パッタリやめてしまう、ということがある。

煎茶。

これは20歳~30歳過ぎぐらいまで、仕事をしながら、1日に何リットルという単位で飲んでいた。

湯を沸かす、急須に茶葉を入れる、急須に湯をそそぐ、葉が開くのを待つ、湯飲みにつぐ、湯飲みを口に運ぶ、といった一連の動作が、おそらく喫煙者にとっての喫煙のような役割を果たしていた。

それがあるとき、突然、煎茶を自分で淹れて飲む気が失せてしまい、茶葉を買うのもやめてしまった。

今では、外出先などで煎茶を飲むことはあるが、自分の家で飲むことはまったくない。

紅茶。

これは35歳ぐらいからつい最近まで。

朝起きたら、すぐに紅茶を淹れて飲むのが習慣だったが、突然やる気がしなくなった。

朝の紅茶、日中の強いコーヒーと、カフェイン過剰状態ぎみだったのかもしれない。

果物。

これは20歳過ぎから最近まで、朝起きてすぐ食べるのが習慣だった。

先月あたりから、できるだけ消化器官に負担をかけないことを心がけるようになってから、朝起きてすぐ果物を食べる気もなくなってしまった。

FMラジオ。

30歳ごろから去年ぐらいまで。

仕事の合間、家事をしながらよく聴いていたが、急に聴く気が失せた。

番組の送り手が「聴き手にこういう気分になってほしい」と意図しているその気分が、自分にとっては、心地のよいものではなくなってしまった。

ある種、子ども扱いされて怒る老人の感情に近いのかも。

2009年12月16日水曜日

何を求めるか

何を一番追い求めるかは、人それぞれ。

お金だったり、他者からの承認だったり、生活の安定だったり。

で、その何かを追求して行動していると、同じものを追求する人が集まってくる。

やっぱり仲間が欲しいから。

追求していたものが一定レベル以上で手に入ると、さらに人が集まってくる。

やっぱり手本が欲しいから。

そのときどんな人が集まるかは、追求の対象に、かなり依存する。

佐々木だってお金も欲しいし、他者からの承認も欲しいし、生活の安定も欲しい。

すごく欲しい。

ただこうも感じる。

他の何よりもお金を求める人。

他の何よりも他者からの承認を求める人。

他の何よりも生活の安定を求める人。

こういう人たちが、身の回りにわんさか集まってきた状態というのは、ちょっときついかも。

2009年12月15日火曜日

良い問い

人間の認識の大半は、自分で行なった「問い」に対する「答え」として存在している。

だから、自分の認識の質を高めるためには、良質の「問い」が自分に向き続ける仕組み作りが必要である。

勝間和代さんの『ビジネス頭を創る7つのフレームワーク力』という本を読んでいたら、ラテラル・シンキングを促進する言葉として、

「抜け道はないか? 見落としはないか? 前提に間違いはないか?」

という問いが出てきた。

勝間さんはラテラル・シンキングについて知ってから、この問いを紙に印刷し、机の前に三年間貼り続けたのだとか。

佐々木は仕事場の壁にかなり大きなコルクボードを掛けて、紙に書いた良質の問いや規範や目標を貼り付け、毎日眺めるようにしている。

勝間さんのこの問いも、たいへん良い問いだと思ったので、さっそく紙に書いて貼り付けた。

2009年12月14日月曜日

5キー式キッチンタイマー

在宅で仕事をする人間にとって、キッチンタイマーは必須の道具である。

たとえば「ちょっと休憩」といったとき、何分休憩したら仕事に戻るのか決めて、その時間になったらアラームが鳴るようにしておかないと、いつまでもダラダラと休んでしまう。

机に向かっての作業も、時間を区切ったやったほうがいい。30分以上座りっぱなしでいるのは体に悪い。

佐々木は現在、料理用に二つ、自宅での仕事&トレーニング用に一つ、道場でのトレーニング用に一つ、計四つのキッチンタイマーを所持している。

使っているうちに壊れてしまったり、あまりにも使い勝手が悪かったりして、廃棄してしまったものも含めると、過去に15個以上はキッチンタイマーを購入していると思う。

キッチンタイマーの時間設定方法には、大きく分けて次の五つがある。

●「分」キーと「秒」キーで設定する2キー式


●「10分」キー、「1分」キー、「10秒」キーで設定する3キー式



●「10分」キー、「5分」キー、「3分」キー、「1分」キー、「10秒」キーで設定する5キー式


●「0」キーから「9」キーで設定する10キー式


●アナログ式


佐々木にとって最も使い易いのは、5キー式である。

10キー式よりもキーが少ないぶん、ボタン探しに迷う時間がない。

10分、5分、3分など、よく設定する時間を一発で設定できる点で、3キー式や2キー式よりも優れている。

ところが家電品店の売り場などで見ると、この5キー式、どうやら一番人気がない。

パッと見、「10分」「5分」「3分」「1分」「10秒」以外の時間設定ができないように見えるせいではないか。

2分に設定したければ「1分」キーを2回押せばいいし、6分に設定したければ「5分」キーを1回、「1分」キーを1回押せばいい。

頭の中でこういう計算するのにかかる時間、キーを探す時間、キーを繰り返し押す時間、すべてを総合して、5キーが一番優れていると思うのだが。

それからキッチンタイマーを選ぶときは、次の点もポイントになるだろう。

●耐久性に優れているか
●時間が秒単位で表示されるかどうか
●カウントダウンだけでなくカウントアップにも使えるか
●時間設定が1回ごとに消去されないか

特に最後の「時間設定が1回ごとに消去されないか」は、意外に重要だ。

たとえば40分に設定したとして、40分後、アラームが鳴ったとき、時間設定が1回ごとに消去されるタイプのタイマーだと、自分が何分に設定していたのか、忘れてしまうことがある。

同じ時間設定で繰り返し使いたいときも、時間設定が1回ごとに消去されるタイプだと、毎回設定し直さなければならず、めんどうだ。

以上を総合して、佐々木が最もお勧めするキッチンタイマーは次の商品である。

MAGタイマー 時間だよ セブン DX

2009年12月13日日曜日

『世界一やさしい問題解決の授業』を理解できる中学生ってどれぐらいいるのだろう

渡辺健介さんの『世界一やさしい問題解決の授業』は、今の佐々木には、とても役立つ本だった。

だがこの本、中学生向けにしては、あまりに難しすぎはしないだろうか。

内容も、表現も、説き方も。

方法を読んで理解すれば、すぐに自分でも使えるようになる、というのは、才ある人の特徴だ。

おおかたの人間は、方法を読んで理解できたとしても、自分ではその方法がいっこうに使えるようにならない、という現実を、嫌になるほど持たされる。

その現実への配慮が、この本には欠け過ぎている。

説明の言葉も、中学生向けにしては、抽象的だ。

「まえがき」にはこうある。
《みなさんの将来の夢は何ですか? 今どのような悩みがありますか? 壁に直面したとき、自分の力で乗り越え、人生を切り開いていけるという自信がありますか? それとも、あきらめてしまいそうですか?
この本で紹介する「考え抜く技術」、そして「考え抜き、行動をする癖」を身につければ、たとえば苦手な教科を克服する、部活でよい成績を残す、文化祭を盛り上げるといった、日常生活で直面するさまざまな問題を解決できるようになります。そして、自分自身の才能と情熱が許す限り、夢を実現する可能性を最大限まで高めることができるようになります。
つまり、自ら責任が持てる人生、後悔しない人生を生きることができるようになるのです。
〔‥‥〕
さあ、一緒に問題解決の思考法を楽しく学びましょう!
みなさんも一歩踏み出す力がきっと身につくはずです!》
「壁に直面する」、「人生を切り開く」、「可能性を最大限まで高める」、「自ら責任が持てる人生」。

こういった言葉を、中学生が、単なるコトバとしてではなく、生々しい像として、果たして思い描けるものなのだろうか。

中学生に向けて思考法の説明をするなら、三浦つとむの『哲学入門』の「まえがき」ぐらいの易しさが必要なのではないかと思う。
《これは哲学学校一年生の読本です。
いまのコドモは、小学校に通いながら、数学をはじめ植物学、動物学、物理学、化学、さては医学、社会学、政治学、経済学など、科学のイロハを勉強しているではありませんか。それなのに、哲学だけは専門学校や大学の先生でないとわからないものだということになっているようです。どうしてそうなのか、わたくしには合点がいきません。
『哲学入門』と名のついた本もずいぶん出ています。しかし、哲学のイロハを教える本が、『哲学事典』などと首っぴきで食いつきそうに深刻な顔をしなければよめないなんて、どうかと思いますね。
この本は決してそんな本ではありません。ノンキに笑いながらよんでください。面白かったら何度もくりかえしてよんでください。お友達とこういう問題について話し合って研究してください。
一九四八年九月  東京にて     著者》

2009年12月12日土曜日

『世界一やさしい問題解決の授業』を読んだ

渡辺健介さんの『世界一やさしい問題解決の授業―自分で考え、行動する力が身につく』を読んだ。

マッキンゼーのコンサルタントだった筆者が、マッキンゼーで活用されている問題解決手法のエッセンスを、中学生向けにわかりやすく教える本。

自分の問題解決能力の低さを、なんとかしたい。

中学生向けに書かれた本なら、自分にも役立てられるのではないか。

そんな思いで、読んでみた。

読んでよかった。

問題解決の流れだとか、原因と打ち手の関係だとか、問題解決の流れにおける仮説の位置づけだとか、これまで佐々木の中でいまひとつ明確になっていなかった考え方を、はっきりと自覚させてもらえた。

「課題分析シート」だとか、「効果vs.実行のしやすさ」のマトリクスだとか、実行プランのフォーマットだとか、「評価軸×評価」リストといったツール類も、強力そうだ。

こういったツール類は、作るのにちょっと手間が掛かっても、作るのと作らないのとでは効率が大違いだと思った。

この本で紹介されている考え方やツールは、自分一人の問題解決にももちろん役立つだろうが、それよりもむしろ、集団で物事を達成していくときの基盤として、力を発揮するだろう。

こういう考え方やツールを共有している場合と、共有していない場合とでは、物事の進み方が、牛車と飛行機ぐらいに違いそうだ。

神田昌典さんの『全脳思考』では、この本で紹介されているようなロジカルな手法では解決できない問題へのアプローチ法が紹介されていたが、ああいうインスピレーション指向のアプローチ法も、ロジカルな手法の基本を押さえていてこそ、有効性を発揮するのだと思う。

2009年12月11日金曜日

来年は東京でアイン・ランドの読者会を開く

「来年やりたいこと」をつらつらと考えていたら、アイン・ランドの読者会を、無性に開きたくなってきた。

他にもやりたいこと、やらなければならないことが山ほどある中、この上また新しく何かを始めるのはいかがなものか、という疑念も、しきりに湧いてくる。

その一方で、やってみたい、という欲求も押さえがたい。

とりあえず、Webサイトだけ作ってしまった。

2009年12月10日木曜日

周囲の雑音を遮断して仕事に集中したいとき聴くCD

外出時には、ポータブルオーディオプレーヤー(ウォークマン)を持ち歩く。

入れてあるのは、ポッドキャストのラジオ番組だとか、ビジネス知識のオーディオ教材だとか、英語のオーディオブックだとか、音楽だとか、いろいろ。

音楽も、洋邦ポップスからロック、ジャズ、フュージョン、クラシック、寮歌と雑多。

ただ、周囲の雑音を遮断して、仕事に集中する目的で聴ける音楽となると、限られている。

演奏のクオリティが低いとイライラする。

歌詞が入ってると気が散る。

集中力を高めたいのでリラックス系も困る。

かといって騒がしくても仕事にならない。

音楽に意識を奪われてしまうほど荘厳なのも駄目。

演奏のクオリティが高いインストルメンタルで、適度にエネルギッシュで、軽快で、しかも控えめ。

今のところ、佐々木の手持ちのCDの中には、該当するものが一枚しかない。

The Best of Herbie Hancock: The Blue Note Years」という、ハービー・ハンコックのベスト盤。



別にジャズ愛好家というわけでもないし、ハンコックのファンというわけでもない。

いつ、どんなきっかけで買ったのかも、忘れてしまった。

何かの気まぐれで、自分があまり聴かないジャンルの音楽も聴いてみたくなって、たまたま名前を知っているミュージシャンのベスト盤を買ってみたのだと思う。

だがこのCD、前述の目的で使うには、本当に重宝する。

佐々木にとっては、前述した条件に、まさにドンピシャリの演奏。

2009年12月9日水曜日

移動はできるだけ小走りで

ここ最近、移動で歩くときは、できるだけ小走りで行くようにしている。

体力は放っておくと落ちていくことが、ますます強烈に自覚されてきたこともあるが、それだけではない。

最近やたらと体が軽くて、歩いていると、自然に走り出したくなってくるのである。

たとえ荷物を持っていても。

単純に、気分や体調が上向きなせいもある。

今年は春から秋にかけて落ち込み気味だったが、冬になってまた調子が出てきた。

あとはおそらく、あちこちのコリが解消され、インナーマッスルが鍛えられてきた効果が大きい。

ずっと積み重ねてきた、武術やゆる体操などのトレーニングのおかげである。

他にも、なんやかんやと心掛けていることはあるので、そういったことの効果が総合的に出てきたのだろう。

2009年12月8日火曜日

小食

最近まで、朝昼晩、できるだけ規則正しく食事することを心がけていた。

しかしここのところ、食べたものを消化すること自体が体に掛ける負担、というものが、気になるようになってきた。

それで最近は、間食をできるたけ避ける、食事の間隔を開ける、食欲を感じないときは食事を抜く、といったことを試している。

まだ始めたばかりなので、かえって空腹にみまわれ過ぎて大食いしてしまうという失敗も、けっこう繰り返している。

ただ、何も食べない時間を意識的に長くとることで内蔵が休まることは、強く実感できた。

もっと体に負担を掛けない食事の仕方を工夫していきたい。

2009年12月7日月曜日

長寿

佐々木は基本的に、できるだけ長生きしたいと思っている。

やりたいこと、実現させたいことは、まだまだ数えきれないほどある。

人間社会がこれからどのように変化していくのかも、できるだけ長く見届けたい。

佐々木は今38歳だ。

今の日本の常識からすれば、まだまだ長生きしたと言える年齢ではない。

だが最近、主観的にはほんの少し前に自分がやっていたことが、計算してみると20年も前に自分がやっていたことだった、ということがあって、それをきっかけに、自分の年齢に対する思いを改めた。

「俺、ものすごく長生きしてるじゃん」と。

この日記もそうだが、何かを一日も欠かさず続けるというのは、1年だけでも大変な根気の積み重ねを要する。

何事かを38年続けてきた、と言えば、何か相当な境地に達していることが想像される。

あたりまえだが、自分が生きてきたこの39年近く、自分は1日たりとも死んでいない。

自分が1日を生きるために、自分の身体や精神が行なわなければならない膨大な運動を考えると、よくもまぁ39年近く1日も休まず、これだけのことを積み重ねてきたなと思う。

死に伴う痛みや苦しみは避けたいし、自分の死をできるだけ先延ばしにしたい思いに変わりはない。

だが39年近くこうして生きてきただけでも、実際たいへんなものだ、と感じてからは、今この瞬間に自分の人生が終ったとしても、それほど悔やまれるものではないな、と、けっこう心の底から思うようになっている。

2009年12月6日日曜日

蟹の注文が殺到

ここ2週間ほど、ほぼ毎日のように、蟹を注文したいという電話が掛かってくる。

そのたびに間違い電話であることを申し上げ、受話器を置く。

掛けてきた人の話を総合するに、どうやらある地方のテレビで、蟹を売る店のことが取り上げられ、そこで紹介された電話番号が、うちの事務所のフリーコール番号に似ているらしい。

これまで10人以上の方が掛けてきて、全員、中年から老年の女性。

テレビを見て、蟹を注文する。

番号をよく確認せずもせず、電話を掛ける。

そういう女性の声や話し方には、ある共通した特徴がある。

もっと言うと、佐々木がふだん仕事やプライベートで接する人々の中には誰一人としていないような声であり、話し方だ。

これ以上は悪口になるので書かない。

間違い電話が、着信者負担で頻繁に掛かってきて、佐々木はちょっと怒っているのである。

2009年12月5日土曜日

ジンブレイドサモン棒

東急ハンズで、長さ90センチ、半径18ミリの円柱を縦に四つに切った形の木材(「ラミン40φ×1/4×900」)を購入し、半分に切ってもらってきた。



木材が420円、カット代が52円、計472円。

毎朝のジンブレイドのトレーニングに使うためだ。

トレーニングメニューの最初に、芯を引っ込めたボールペンの先で内踝とウナの位置を強く突いたあと、足裏から脚裏にかけてのラインをこすってジンブレイドの意識を高めているのだが、ジンブレイドのトレーニング自体は、トレーニングメニューの後のほうにやっている。

だからその頃には、最初にこすったときの意識が、かなりぼやけている。

だが、ジンブレイドのトレーニングの直前に、しゃがんで足裏をこすり直す気には、どうもなれない。

ジンブレイドのトレーニングを行なうにはセンター(重力線とその延長線に沿って形成された直線状の身体意識)が必要なのだが、しゃがんで自分の足裏をこすっていると、それまでせっかく高めてきたセンターの意識が、どうも崩れてくる。

しかしトレーニングを行なう直前に、足裏の意識は高めたい。

それでこれまでは、ゆるゆる棒の長棒を踏んで、足裏の意識を高めていた。



ただ、ゆるゆる棒は円柱状なので、踏んでもシャープな意識が得られない。

これは三角柱状の棒を買ってきたほうがいいな‥‥とだいぶ前から思いつつ、つい面倒で先延ばしにしてきたのを、昨日ようやく実行した。

写真のように踏んづけて、インサイドジンブレイドとアウトサイドジンブレイドの両方を高めてから、高岡英夫先生の『丹田・肚・スタマック』で紹介されているインサイドジンブレイド→アウトサイドジンブレイドのトレーニングをやると、非常に具合がいい。

2009年12月4日金曜日

匿名言論で失われる何か

佐々木は、ネット上で実名と顔写真を公開しながら文章を書いている。

人数から言えば、ネット上では実名で文章を書いている人の方が、圧倒的に少ない。

匿名で文章を書いている人から見ると、自分の正体を知られることで失われるものは、あまりにも大きいのだろう。

逆に言えば、自分の正体を知られずに言論を行なうことで、大きな利益を得ているわけだ。

しかし世の中に代償のない利益はない。

ネット上に匿名で文章を書いている人々の多くは、得られる利益と引き換えに、自分の中で何が損なわれ、失われているのか、案外無自覚なのではないか。

その損なわれ失われているものが何なのか、佐々木もうまく表現できない。

それは多分、現実の自分がこの世に生まれ生きていることの意味だとか、自分の魂だとかに関係することだと思う。

2009年12月3日木曜日

「~なう。」という新しい表現は日本人の認識を大きく変える気がするなう

140文字以内でつぶやきを投稿するWebサービス「Twitter」で、少なからぬ人々が、「~なう。」という新しい日本語表現を使っている。

たとえば
「銀座なう」=「私は今、銀座にいます」
「帰るなう」=「私は今から家に帰ります」
というように。

佐々木個人の美意識としては、使うのを控えたい表現だ。

しかしこの「~なう。」という新しい表現、案外、日本人の認識に、望ましい変化をもたらす表現なのではないか、という気がしている。

以前書いたように、一般に表現は〈主体表現〉と〈客体表現〉から成り、言語においては、〈主体表現〉と〈客体表現〉を切り離して行なうことができる。

日本語と英語の根本的な相違の一つに、〈主体表現〉と〈客体表現〉の順序の違いがある。

日本語は、〈客体表現〉→〈主体表現〉の順序を取る言語だ。

たとえば
「銀座にいま~す。」
と言ったとき、「銀座にい」の部分は、表現される対象のあり方を表現する〈客体表現〉であり、「ま~す」の部分は、表現された対象に対する表現主体のスタンスを表現する〈主体表現〉だ。

これに対して英語は、〈主体表現〉→〈客体表現〉の順序を取る言語だ。

たとえば
「I'm in Ginza.」
と言ったとき、日本語で「ま~す」に相当する部分は、先に「I'm」という表現で済まされてしまっている。

(厳密に言えば、〈主体表現〉と〈客体表現〉は相互に浸透しているのだが、ここではそこまで踏み込まない)

この〈主体表現〉と〈客体表現〉の順序の違いがもたらす影響は、かなり大きい。

英語の「I」に相当する表現が日本語に存在しないというのも、その影響の一つだ。

日本語で主語を明示しようとすると、その主語は〈客体表現〉の一部として示さなければならなくなる。

たとえば
「私は銀座にいます。」
というように。

これに対して英語では、主語を〈主体表現〉の一部として示すことができる。

議論をはしょるが、この日本語の特性は、個人の主体性確立を阻む一因になっているように思われる。

「~なう。」という表現は、日本語の歴史上始めて、主語としての「I」を明示する〈主体表現〉なのではないだろうか。

たとえば
「銀座にいま~す。」
と書いたとき、誰が銀座にいるのかは、文脈に依存する。基本的には「私」なのだろうが、文脈によっては他の誰かである可能性もある。

ところが
「銀座なう。」
と書いたときは、銀座にいるのが「私」であることが明示的に表現されている。

「あなた」でもない、「彼・彼女(ら)」でもない、ほかならぬ「私」のこととして何かを表現する。

そのような〈主体表現〉は、おそらくこれまでの日本語には存在しなかった。

だから佐々木は、この「~なう。」という表現が一般化することが、案外、日本人の主体性確立に貢献するのではないか、という仮説を持っている。

2009年12月2日水曜日

昭和5年の『少年倶楽部』を読んでみた

昨日は所用で都内に出たついでに、上野の国際子ども図書館に、戦前の子ども向け雑誌である『少年倶楽部』(複製版)を、閲覧しに行ってきた。

一つは、以前ネットで目にして心に残った文章が、『少年倶楽部』昭和5年1月号に掲載された記事の抜粋ということだったので、その作者を知り、その全文を読みたかったから。

もう一つは、江藤淳の『閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本』を読んで、戦前の言語空間というものを、実感として捉えたくなったから。

あまり時間もなく、昭和5年の1月号と2月号だけ、閲覧してきた。

以前佐々木が読んで心に残った文章というのは、こちら。
《「やれば出来る」

富士山に登つた人間は、登らうと思つた人間だけが登つたのです。これは余りに分りきつたこと、しかも之が大真理です。富士山に登つた者のうち、只一人でも『散歩するつもりでつい登つた』といふ人もなく、『阿蘇へ登るつもりで、いつか富士に登りついた』といふやうな人も絶対にありません。

富士山に登らうと思ひながら途中で故障を起した人があつたかも知れません。しかし、兎も角登つた人は誰でも、一度は必ず登らうと決心した人にきまつてゐます。

富士山に登るとき、五合目が半ばではありません。五合目まで登れば病気にでもならない限り、登りつくにきまつています。そんなら三合目か、二合目か、一合目か、どこが半ばか。私は断言します。富士山に登らうといふ決心のついたとき、其の人はすでに富士登山といふ仕事の半分以上を成就してゐます。

形に於いては、登らうと決心した人も、しない人も、同様です。見かけは違ひません。しかし実際は大変ちがつて居ます。決心がつくと、その人は毎日の健康に気をつけます。風邪も引かないやう、お腹もこはさないやう、どんな小さい事にも気をつけます。さうしてぼちぼちと登山用の品々を準備します。けれども、登らうと云ふ気のない人は、旅費も用意しません。支度は勿論とゝのへません。健康にもそれだけの注意は払いません。登らうとする人と登らうとしない人の心持ちと態度には、随分のちがひが出来てゐます。それだから、いよいよ登りかけた其の時よりも、登らうと決心のついた時、既に半分以上の進行をしてゐると申すのであります。
〔‥‥〕》
(漢字は新字体に改めた)
作者は後藤静香(ごとう せいこう)という方だった。

この記事に限らず、「立派な大人になるんだぞ」という少年たちへのメッセージが雑誌全体に満ち満ちていていることに、強い感銘を受けた。

読者である少年たちの側にも、そうしたメッセージに応えて立派な大人になろうという志がみなぎっていたようで、雑誌に掲載されている通信講座や専門学校や科学玩具の広告も、そうした少年たちの志に訴えるものが多かった。

こうした精神風土が戦後瓦解したことを嘆く人々の思いが、少しは理解できた気がした。

日本という国の来し方行く末について考えるうえで、戦前の『少年倶楽部』は、ぜひ目を通しておくべき資料だと思った。

2009年12月1日火曜日

『閉された言語空間』を読んだ

日垣隆さん主宰の古典読書会メーリングリストの課題で、江藤淳の『閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本』を読んだ。

この本は、大きく二つの部分に分けられると思う。

一つは、膨大な一次資料を駆使して、史実を解明していく部分。

もう一つは、解明された史実を証拠に、筆者自身が被害者の一人として、加害者たちを糾弾していく部分。

佐々木にとって最も印象的だったのは、この二つの部分の〈精緻さ〉の、大きな落差だった。

実証部分の精緻さや、その土台となった徹底的な調査には、深い敬意を抱かずにはいられない。

他方、糾弾部分の議論の荒っぽさには、たいへん失礼ながら、あまりにもナイーブ、という印象を受けた。

占領期日本におけるアメリカ主導の検閲を糾弾するにあたり、江藤が用いている論法は、大ざっぱに言えば、
「おまえら、〈言論の自由〉を錦の御旗に掲げてるくせに、日本では〈言論の自由〉を、こんなにも徹底的に、しかもこっそりと、圧殺してるじゃないか!」
というものだ。

大衆向けジャーナリズムでなら、こういう論法も有効なのかもしれない。

しかし欧米のまともな知識人が、こんな論法をまじめに相手にするとは、佐々木にはとうてい思えない。

一般に個人において〈自己の生存〉が〈自己の信条〉に優先するのと同様、国家においても、〈国家の存続〉は〈国家の理想〉に優先する。

〈国家の存続〉そのものが危機にさらされる戦時下において、〈国家の理想〉の扱いが平和時における扱いと異なるのは、当然のことだ。

また、戦時下の自国における〈言論の自由〉の圧殺と、占領した敵国における〈言論の自由〉の圧殺とを、同列に扱えないことも、少し考えればわかる。

ところが江藤は、戦争時と平和時、自国と敵国、それぞれにおける〈言論の自由〉の区別と連関を何ら検討することなく、すべてをごっちゃにして、「〈言論の自由〉の圧殺」として同一レベルに論じているのだ。

「あとがき」で江藤は、次のように述べている。
《私はむしろこの本を、日本の読者のみならずアメリカの知的読者にも読んでもらいたいものだと考えている》
江藤は、あたかもサル学者がサルの行動を分析するように、占領期日本におけるアメリカの行動を分析したつもりでいるのだろう。

しかし残念ながら、江藤による渾身の告発も、欧米の多くの知識人の目には、「サル山のサルの叫び」としか写らないはずだ。

もし、この本からアメリカ糾弾の部分を取り去り、実証研究の部分のみを抽出して、英語で発表したなら、人類への知的貢献としての価値はむしろ上がり、江藤が意図した「加害者アメリカの告発」も、世界のより広い層に対して達成されるのではないか。

そんなことも思った。
 
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