2009年11月30日月曜日

1週間行動記録表を5分刻みに変更

先月末に作って1ヶ月ほど使った15分刻みの1週間行動記録表を、5分刻みのフォーマットに変更した。



 ●「1週間行動記録表」ダウンロードページ

1ヶ月も自分の行動を記録していると、より細かい単位で記録したい欲求が出てくるし、記録も簡単な略号で行なえるようになってくる。

1時間のコマが3×4の12マスに分割され、1週間分並んだ表を眺めていると、注意深く時間を使えば1週間でどれほどのことができるか、逆にうかうかしていると1週間がどれほどあっという前に過ぎてしまうかが、よくわかる。

時間に関するピーター・F・ドラッカーの言葉をもう一度引用する。
「あらゆるプロセスにおいて、成果の限界を規定するものは、もっとも欠乏した資源である。それが時間である。時間は、借りたり、雇ったり、買ったりすることができない。その供給源は硬直的である。需要が大きくとも、供給は増加しない。価格もない。限界効用曲線もない。簡単に消滅する。蓄積もできない。永久に過ぎ去り、決して戻らない。したがって、時間は常に不足する。時間は他のもので代替できない。〔‥‥〕
時間はあらゆることに必要となる。時間こそ真に普遍的な制約条件である。あらゆる仕事が時間の中で行なわれ、時間を費やす。しかるに、ほとんどの人が、この代替できない必要不可欠な資源を当たり前のように扱う。おそらく時間に対する愛情ある配慮ほど、成果をあげている人を際立たせるものはない。」

2009年11月29日日曜日

アウトサイドジンブレイドのトレーニングも朝のメニューに入れる

高岡英夫先生の『センター・体軸・正中線』という本に、ジンブレイドという、足裏から腰にかけて成立する身体意識(体性感覚的意識)のことが紹介されている。

この本に書かれているように、ジンブレイドには、インサイドジンブレイドとアウトサイドジンブレイドの二種類がある。

インサイドジンブレイドのトレーニング方法は『センター・体軸・正中線』で、アウトサイドジンブレイドのトレーニング方法は『丹田・肚・スタマック』で、それぞれ解説されている。

インサイドジンブレイドについては、ちょうど去年から、毎朝のメニューに入れて継続的にトレーニングしていたが、アウトサイドジンブレイドについては、運動科学総合研究所で定期的に開催される講座で取り上げられるとき以外、まったくといっていいほど、トレーニングしていなかった。

インサイドジンブレイドもろくにできていないのに、アウトサイドジンブレイドにまで手をつけるのは、「二兎を追うもの一兎をも得ず」への道のように思えたからだ。

アウトサイドジンブレイドを体現するといのうは、とんでもなく高度な世界の話で、自分のように身体能力の低い人間が、本気で目指すべき世界ではないような気がしていた。

しかし昨日、高岡英夫先生が指導されるアウトサイドジンブレイドの講座に出て、やり方によっては、自分程度の人間でも、けっこうまともにアウトサイドジンブレイドのトレーニングに取り組めることがわかり、俄然やる気が出てきた。

そこで今日から、アウトサイドジンブレイドのトレーニングも、毎朝のメニューに入れることにした。

具体的には、毎朝やっている身体意識・武術関係のトレーニングを、次のように変更する。
  • トレーニング開始時の、芯を引っ込めたボールペンの先での内踝→ウナ→インサイドジンブレイドのサモンのところ、インサイドジンブレイドのサモンのあとに、アウトサイドジンブレイドのサモンも入れる

  • 杖と剣の稽古が終ったあとの、ゆるゆる棒の長棒を踏んでのスォードサモンのところ、そのあと同じようにして、ドライブもサモンする

  • そのあとやっていたインサイドジンブレイドのトレーニング法(『センター・体軸・正中線』で紹介されている方法)の前に、前足を出した状態でインサイドジンブレイド、同じ状態でアウトサイドジンブレイド、左右それぞれ1回ずつを追加

  • これまでやっていたインサイドジンブレイドのトレーニング法(『センター・体軸・正中線』で紹介されている方法)の代わりに、インサイドジンブレイドをかけてからのアウトサイドジンブレイド(『丹田・肚・スタマック』で紹介されている方法)を、左右それぞれ1回ずつ

2009年11月28日土曜日

巨悪

自分の思考を柔軟にするための一つの極論として、次の命題を頭に置いている。

巨悪は存在しない。

悪はいつも小さなものだ。

巨悪が巨悪に思えるのは、その善なる本性が大きすぎて、観察者に理解できないからである。

言い換えれば、観察者自身の認識が小さすぎるからである。

2009年11月27日金曜日

『罪と罰』を読んだ

今年の古典読破計画の第十一弾として、ドストエフスキーの『罪と罰』(江川卓訳、岩波文庫)を読んだ。

残念ながら、いまひとつ物語の世界に入っていけなかった。

共感できる登場人物が、一人も出てこなかったのだ。

とにかく会話にエクスクラメーションマーク(「!」)が多すぎる。

ほとんどすべてのページに、エクスクラメーションマークが現れる。

読んでいて落ち着かない、というだけではない。

末尾がエクスクラメーションマークになるような発言ばかりする、ということは、自分の感情を他人にぶつけるばかりで、他人の立場というものをろくに考慮しない、ということだ。

そんな人物たちに、共感できるはずがない。

主人公が語る反道徳的な思想にも、単にそう考えることが本人の感情に心地よい、という以上の動機が感じられない。

佐々木が好きなアイン・ランドの『水源』や『肩をすくめるアトラス』の主人公たちも、ある意味反道徳的な思想を語りはする。

しかしそこには、世間的に道徳的とされている思想がはらむ反道徳性や危険性に対する、公憤がある。

『罪と罰』の登場人物たちには、ただただ人間的なスケールの小ささしか感じなかった。

唯一、あ、自分と似てる、と思ったのは、第一部の冒頭、主人公が自分自身の行動の奇妙さに気づいて
「ふむ‥‥そうか‥‥人間というやつは、いっさいを手中にしているくせに、弱気ひとつがたたって、みすみすそのいっさいを棒にふっているわけなんだ‥‥こいつはまちがいなく公理だぞ‥‥」
とつぶやくところ。

自分を含む人間の行動や心理の中に法則性を発見して、言語化せずにはいられないところは、佐々木と似てるな、と。

別の訳者による同じ著者の『地下室の手記』を読んだときもそうだったのだが、パラパラとページをめくっているだけで、心臓の動悸が上がり、胸の中心が重苦しくなる。

ドストエフスキーの作品は、もう死ぬまで読まないかも。

(と書いてしまうと、それも惜しいような気がしてくるのだが)

2009年11月26日木曜日

15分刻み1週間行動記録表

ピーター・F・ドラッカーは、時間管理について次のように述べている。
《私の観察では、成果をあげる者は仕事からスタートしない。時間からスタートする。計画からもスタートしない。何に時間がとられているかを明らかにすることからスタートする。次に、時間を管理すべく、時間を奪おうとする非生産的な要求を退ける。そして最後に、その結果得られた時間を大きくまとめる。すなわち、時間を記録し、管理し、まとめるという三つの段階が、成果をあげるための時間管理の基本となる。》
《時間を管理するには、まず自らの時間をどのように使っているかを知らなければならない。》(『経営者の条件』)
行動しながら、自分の行動を記録するというのは、実にめんどうだ。

だからこれはずっと、「理屈はわかっていても実際にはやらないこと」の代表だった。

しかし佐々木も、自分の時間の使い方の愚かしさにだんだん嫌気がさしてきて、ついに先月意を決した。

A3の用紙に15分刻みで1週間分の行動を記録できるフォーマットを、Excelで自作した。

プリントアウトしてコピーしたこの記録紙を、仕事机の上に常に起き、起きてから寝るまでの行動を愚直に記録してみた。

外出中は、スケジュール帳に簡単に自分の行動を記録し、帰ってから転記する。



1ヶ月ほどやってみたが、これは期待以上の効果があった。

「自分は何にどれぐらいの時間を使っているのか」などといった分析は、めんどうなのでやっていない。

そんなことをしなくても、「この時間に自分が何をしたのか」をただ紙に書いていくだけで、十分すぎるほど、時間を大切に使うモチベーションが上がる。

記録紙が、自分の上司のような役目を果たしてくれるのだ。

下記のページに、佐々木が作ったフォーマットをアップしておく。

 ●「15分刻み1週間行動記録表」ダウンロードページ

ちなみにA3用紙のプリントアウトは、セブンイレブンのコピー機から行うことができる。

セブンイレブンのコピー機をA3カラープリンタとして使う方法は、下記のページを参照。

 ●「ネットプリント」ホームページ

2009年11月25日水曜日

ブログに具体的日常の感想を書かないほうがいい理由

ブログには、あまり具体的日常の生々しい感想を書かないほうがいい。

思いがけずクライアントの社内情報や出会った人のプライバシーをネット上に曝すことになってしまう、ということもあるが、それだけではない。

村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』で、ある登場人物が事故死したとき、その人物を生前「どうしようもない馬鹿」と評していた13歳の少女が
「自分がひどいことをしたような気がする」
と後悔の色を見せたことに対して、34歳の主人公「僕」が
「そういう考え方は本当に下らないと僕は思う」〔‥‥〕「後悔するくらいなら君ははじめからきちんと公平に彼に接しておくべきだったんだ。少なくとも公平になろうという努力くらいはするべきだったんだ。でも君はそうしなかった。だから君には後悔する資格はない。全然ない」
と諭したあと、
「ねえ、いいかい、ある種の物事というのは口に出してはいけないんだ。口に出したらそれはそこで終ってしまうんだ。身につかない。」
と戒める場面がある。

現実の生活は希望と絶望のごった煮で、下手すれば心のつぶやきの半分近くは、怨嗟、悪態、憂虞、絶念の言葉で占められる。

そういった現実をなんとか少しでもましにできないかと暗中模索、試行錯誤している途中の心のありさまをそのまま文字にしてしまったら、「それはそこで終ってしまう」。

だから佐々木はそういうことを文字にしていない、と言いたいのではなく、むしろそういうことをよく文字にしているので、反省の意味でここに書いておく。

2009年11月24日火曜日

ビジネスセンスのある人たちがやっていること

プロのデザイナーが空中でペン先を回転させてから円を描く、という話が、頭から離れない。

いろいろなことの比喩として、頭をもたげてくる。

この話には、ビジネスの大事な一面が、表現されているのではないだろうか。

ペン先から紙の上に残されていくインク跡は、〈商品・サービス〉のたとえ。

結果として描かれる円形は、〈お金〉のたとえ。

素人は、現実の紙の上に線を引いていく結果として、円形を得る。

玄人は、観念の世界で円形を得てしまってから、その転写として、現実の紙の上に線を引く。

2009年11月23日月曜日

来年の目標

昨日は、月に一度の武術稽古会。

稽古が始まる前に、佐々木がマネージャーを務める地区組織の、簡単なミーティングを行う。

今年最後のミーティングなので、「来年はどんな年にしたいか」というテーマで、会員に一言ずつ発言してもらった。

去年最後の稽古会のときも同じテーマでミーティングを行い、佐々木は次の目標を宣言した。
  • 前提として、一年一年を、前の年よりもよい年にしたい。

  • 武術で一つ上の段位を取る。

  • 古典と呼ばれる本を月1冊読む。

去年ミーティングの場で宣言した目標は、今年すべて達成できた(一つ目の目標については、基準が主観的になってしまうが)。
  • ある程度の人数がいる前で宣言する。

  • 数字を入れる。

  • 期限をきる。

  • 文字にする。

これらによって、目標が達成される確率が高まることを、改めて実感している。

今年佐々木が宣言した来年の目標は、次の二つ。
  • 武術で一つ上の段位を取る。

  • 人との協力関係を広げ強める。あえて数字を入れると、2010年の終わりに振り返ったとき、「今年は新しくこの人と良い協力関係を築けた」と思える人が、10人以上いるようにする。

他にもいろいろと目標はある。

これらの目標を、具体的にどうすれば達成できるか。

約1ヶ月かけて、ゆっくり楽しみながら考えていきたい。

2009年11月22日日曜日

アルファベットなめんなよ

日本人が英語をものにできない、小さな原因の一つとして、アルファベットをなめている、ということがあると思う。

英語では基本的に、アルファベットの26文字、プラスわずかな数字と記号で、森羅万象を表現する。

これに対して日本語は、仮名だけで48文字。漢字は常用漢字だけで約2000字。

たとえばスパイクシューズの爪の数が半分になれば、おおざっぱに言って、爪一本あたりに掛かる負荷は、2倍になる。

世界という大地を言語というスパイクシューズでつかむと考えたとき、英語は日本語と比べて、爪の数が約100分の1、爪一本あたりに掛かる負荷が約100倍ということだ。

「a」とか「b」とか「c」とかいった文字の一つ一つに、いわば世界全体の重さの26分の1の負荷が掛かる。

多くの日本人に欠けているのは、この「26文字で世界全体をつかむ」という感覚だと思う。

極論すれば、「26文字で世界のすべてを把握し表現しなければならない」という制約を課されれば、ああいった言語が、自然に立ち上がってこざるをえないのである。

2009年11月21日土曜日

美しい円の描き方

インダストリアルデザイナーの山中俊治さんが、最近のブログで、紙に手書きで円を描くときの、プロとアマの違いを紹介されている。
《普通は「丸」を描こうとすると、ある点から出発して、あたりを一周回ってきて出発点につなぎますが、これだとつなぎ目がいびつになります。デザイナーの描き方は違いました。空中に少し浮かせた状態でペン先を一定のスピードで円運動させながら当たりを付け、軌道が安定してきたところで、ふわりと着地させます。そのままするすると一周以上、紙の上を走らせてから、すっと浮上させるのです。
始まりも終わりもない悠久の円運動を作り、その一部を紙に定着させる。このテクニックは私が最初に覚えたデザイナーの技になりました。》
単にプロとアマの仕事の違いの一例として印象深かっただけでなく、何か、人生を自分の意に適う形で成し遂げる方法を、示唆されたような思いがした。

自分が存在しない状態から存在する状態へと移行する形で人生が始まり、そしてまた自分が存在する状態から存在しない状態へと移行する形で人生が終るという意味で、人生も一つの円運動だ。

書き始めと書き終わりのつながり方は決して思い通りにならないものとはいえ、実在・空想を問わず無数の人物の人生に学びそれぞれに自分の人生を重ねるのは、デザイナーが美しい円を描くべく空中でペン先を回転させる行為に等しいのではないか、という気がした。

2009年11月20日金曜日

人を喜ばせることばかり考えていると自分が死ぬことも怖くなくなるらしい

小山薫堂さんの『人を喜ばせるということ―だからサプライズがやめられない』を読んだ。

放送作家、脚本家、ラジオパーソナリティとして活躍する筆者が、ふだん周囲の人々に仕掛けている数々のサプライズを紹介した本。

小山さんにとっては、周囲の人を喜ばせるために頭をひねることが、そのまま仕事上の発想トレーニングにもなっているようだ。
《日常のなかで、ぼくはタクシーの運転手さんと仲良くなろうと心がけています。
仕事をしている運転手さんをいかに喜ばすか、というのが、ひとつの発想トレーニングになるんです。
運転手さんは普通、あんまり喜ばないですよね。だからどうにかして喜ばせたくなる。
〔‥‥〕「あの人を喜ばせることができたら、ほかの人も喜ばせることができる」ってね。》
特に印象に残ったのは次の箇所。
《「どういうふうに死にたいか」と以前聞かれて、ぼくはサプライズが好きだから、ハート型の石を飲み込んでおいて、火葬場で焼かれたあとにハート型だけが残っている、という死に方だと答えました。
〔‥‥〕
死ぬときのサプライズを考えていると、不思議なことに、死ぬことが怖くなくなるんです。人生を掛けた最後のサプライズでしょ。なにをやってやろうかななあ、と思うわけです。
すると不謹慎かもしれませんが、「早く死なないかなあ」と思っちゃうくらい。》
で、表題のような感想を抱いた次第。

2009年11月19日木曜日

自転車の比喩

自転車というのは、よくいろいろな比喩や例に用いられる。

最初はできなかったことが、チャレンジしているうちに突然できるようになり、やがて当たり前のことになってしまうことの、例に出されたり。

リスクは避けるべきものではなく、コントロールすべきものであり、それは誰でもやっていることであることを納得させるための、引き合いに出されたり。

やはりその身近さだとか、体感性だとかが、多くの人の実感に訴える比喩を可能にするのだろう。

「自分ではわかったつもりでいたが、実際に経験してみて、自分が頭でしか理解していなかったことに気づかされる」といのうは、優れた比喩の特徴だ。

最近、自転車に乗るとき自分が意識的・無意識的にやっているさまざまなことが、他の分野で自分がやっていること・やろうとしていることの諸要素にいちいち対応することが、強い実感として感じられる。

ビジネスやお金全般について、特にそれを感じる。

それから、自分の感情もまた、自分の理性にとって、ある面において、自転車のような乗り物であることにも気づかされる。

練習しなければ自転車で思い通りの場所に行けるようにはならないように、そして自転車も低級品から高級品までピンキリであるように、また自転車がさび付いていてはスムーズな移動ができないように、自分自身の感情もまた、コントロールの訓練や、アップグレードや、整備の対象になることを感じている。

2009年11月18日水曜日

反感と学び

自分が反感を覚える人。

そういう人の思想や行動原理の優れたところに、突然、気づかされる。

そういう経験が重なると、他人に反感を覚えたときほど、何かその人から学べる点はないかと、必死に探すようになる。

佐々木が今尊敬し学んでいる人たちの多くは、佐々木が当初強い反感を覚えた人たちだ。

そしてその反感は、佐々木が尊敬し学ぶようになった今でも、決して消えたわけではない。

自分が反感を覚える人々の中に自分が学べる要素を探っていく、というのは、ほとんど佐々木の“癖”と化している。

これは必ずしもよいことではない。

ある意味、自分の“弱み”に集中しているのと同じことだから。

しかしこの“癖”自体を自分の“強み”にすることも、おそらくは可能だと思う。

2009年11月17日火曜日

『現代用語の基礎知識 2010年版』を購入した

今年も『現代用語の基礎知識』を購入した。

目的は二つ。

一つ目は、とりあえず全ページに一気に目を通して、今という時代の概要をおさえる。

二つ目は、毎日、パッと開いたページの一項目を音読して、脳を鍛える。

いずれも、日垣隆さんがメルマガで推薦されていたので。

全ページ一気読みは3年前から、音読は1年前から、それぞれ実践している。

2010年版が昨日届いたので、さっそく30分ほどかけて、全ページに目を通した。

今年は「綴込付録 人物で読む昭和&平成年表」がおもしろかった。

1945年から2009年まで、ほぼ見開き1年で、その年を代表する人物数名をピックアップして解説している。

人物の選定、解説、イラスト、年表、レイアウト、いずれも見事。

昭和から平成までの一年一年の流れが、見事に浮かび上がる。

音読は、脳を鍛える目的のほか、発音をきれいにする目的もあってやっている。

発音というのは、放っておくと際限なくだらしなくなっていってしまう。

アナウンサーのような発音を目指し、唇や口腔内や顎やお腹にしっかりと意識を込め、途中でつかえないように、一項目を音読する。

本文の見出しにはそれぞれ英訳も付いているので、英語の勉強にもなる。

音読の習慣は、忙しいとついサボってしまうので、タックシールに「発音練習」と書いて表紙に貼り、いつも枕元に置いておくようにしている。

2009年11月16日月曜日

文章に共感してくれる人

ある意味、文章に共感する人は、少なければ少ないほどよい。

最も価値が高い文章は、共感する読者が一人しかいない文章である。

なぜならその文章に書かれていることは、その読者にとって、周囲に誰一人として共感してくれる人がいなかったことであり、筆者は、その読者に共感してあげられるただ一人の人になるのだから。

2009年11月15日日曜日

『南郷継正 武道哲学 著作・講義全集 第8巻』を入手した

発売されたばかりの『南郷継正 武道哲学 著作・講義全集 第8巻 武道哲学総論Ⅱ』を入手した。

第8巻に収められているのは、『武道とは何か』の全集版と、講義録「東京大学学生に説く哲学・論理学への道 序説」。

南郷先生の『武道とは何か』に、特にそこに収められている鈍才論に、20歳ごろの佐々木がどれほど胸を熱くしたかを、南郷先生の愛読者でない人に伝えることは難しい。

全集収録にあたって『武道とは何か』は『武道学綱要』と改題され、新たに各章末に、読者からの計16の質問に対する解答が付加されている。

ざっと読み通して、薩摩示現流の《地上に棒を林立させ、そのなかを絶叫しながら駆けまわって打ちまくる》修練法について、絶叫することで脳そのものに実力がつき、身体力も旺盛になる、と説かれたところが強く印象に残った。

佐々木は生活の中で大声を出す機会があまりないのだが、大声を出せる場面では、「脳に実力をつけ身体力を旺盛にする」ことを心がけて声を出そうと思った。

一つだけ、不満に感じたこと。

『武道学綱要』のところどころに、南郷先生のお弟子さんたちの修業写真が掲載されている。

写真自体は見事なのだが、ほとんどの写真に説明がない。

構成が学問的に厳密であることは、『武道学綱要』について、南郷先生ご自身が誇られている点の一つだと思う。

説明文なしの写真は、この学問的構成の厳密さを損っている気がした。

2009年11月14日土曜日

人生論

人間の幸福という観点からすると、考え方レベルでのジレンマの解決の重要性は、物レベルや制度レベルでの解決の重要性に、勝るとも劣らない。

「精神構造」と呼ばれる構造は、人間がぶつかる考え方レベルでのジレンマの解決として生み出され、発展してきたのに違いない。

人間の生活が高度になればなるほど、人間がぶつかる精神的ジレンマも高度になり、解決のためには、より高度な精神構造が必要になる。

その必要を満たすのが、広い意味での人生論なのだろう。

科学や技術や制度は、人間がぶつかる客観的ジレンマの解決に必要不可欠だが、広い意味での人生論もまた、人間がぶつかる主観的ジレンマの解決に必要不可欠なのだ。

2009年11月13日金曜日

構造とジレンマ

生物の進化を学んでいても、社会の発展を学んでいても、最近よく思うのだが、あらゆる構造は、何らかのジレンマの、解決として発生したのではないか。

物質の構造にしても、生体の構造にしても、人間の協業の構造(=制度)にしても、行動の構造(=規律)にしても、精神の構造(=ものの考え方)にしてもだ。

だから、解決できないジレンマにぶちあたった、ということは、物だか制度だか規律だか考え方だかのレベルで、新しい構造が必要だ、ということに等しいのだと思う。

人間の幸福という観点からすると、考え方レベルでのジレンマの解決の重要性は、物レベルや制度レベルでの解決の重要性に、勝るとも劣らない。

生/死は物レベルの事象だが、幸/不幸は精神レベルの事象だからだ。

2009年11月12日木曜日

メロディーの底層・補足

作曲者や演奏家が、音の配列を、情動のどれだけ深いところから生成しているかによって、鑑賞者の情動がどれほど深く揺さぶられるかが、規定されるのだと思う。

2009年11月11日水曜日

メロディーの底層

サルにタイプライターを無限に打ち続けさせる。

そうすると、いつかはシェークスピアの作品が打ち出されるか。

確率論の教科書などで、そういう問題に出会う。

文章を書くという行為は、手持ちの文字を適当に並べ替えていって、偶然意味のある文章になるのを待つ、という行為ではない。

文字の配列、という層の一つ下には、モヤモヤっとした、言葉にならない思いの層が存在している。

この思いの層に生じる運動に、文字の配列という表現形式を与えていくのが、書くという行為である。

佐々木は音楽のことはよくわからないのだが、メロディーの場合はどうなのだろう。

サルにピアノの鍵盤を叩かせてまともなメロディーが演奏される確率は、サルにタイプライターを打たせてまともな文章ができる確率よりは、高い気がする。

作曲は、作文に比べて、表層的な配列レベルの操作の比重が高いのではないだろうか。

とはいえ、やはり音楽の場合も、音の配列、という層の一つ下に、モヤモヤっとした、音にならない情動の層が存在していることに変わりはないだろう。

この情動の層における、質の高い運動の生成に、音の配列の層における表現形式を与えたのが、優れた音楽なのではないか。

で、おそらく優れた演奏家たちは、音楽作品における音の配列を、音の配列として反復しているのではない。

音楽作品が創作されたときの、情動の層から音の配列が生成されるプロセスを、演奏のたびに再現できているのが、優れた演奏家であるような気がする。

2009年11月10日火曜日

国政への関心

スティーブン・R・コヴィーは『7つの習慣』で、「関心の輪」と「影響の輪」について説いている。

「関心の輪」は、自分が関心を持っている事柄と、そうでない事柄を分ける円。

円に含まれるのが、自分が関心を持っている事柄。

「関心の輪」に含まれる事柄は、さらに自分がコントロールできる事柄と、そうでない事柄に分けられる。

自分がコントロールできる事柄を囲む円が、「影響の輪」。

主体的な人は、自分がコントロールできる事柄にエネルギーを集中する。

つまり、「影響の輪」の内側に集中する。

「影響の輪」の外側、つまり自分がコントロールできない事柄に集中すると、無力感にとらわれるばかりか、自分が本来コントロールできる事柄もコントロールできなくなっていく。

国の内政や外交は、佐々木のような一般人の生活にも、根底的な影響を及ばす。

だから国政は、「関心の輪」の中に入れておかざるをえない。

では国政が自分の「影響の輪」の内側にある事柄かと言うと、これはなかなか微妙。

感覚的には、ほとんど地震や台風に近い。

賛成も反対もなく、ただ対策と対応あるのみ、といのうが、佐々木の基本的な態度。

だが国政に対する主体性を完全に放棄してしまうのも、なんとなく良心がとがめる。

それで、国政に対して自分がどう主体的に関わるべきなのか、ということを、ときどき考える。

最近強く思うのは、政治的な事柄については、「どれだけ正しく理解できるか」ということよりも、「どれだけ多くの人と協力関係を築けるか」ということのほうが、よほど重要だということ。

政治的な事柄について、「自分が正しく理解すること」や「他人に正しく理解させること」にエネルギーを費やしている人の多くが、「多くの人との協力関係を築く」という観点から言えば、結果的にマイナスになるような言動を繰り返している。

佐々木もいろいろな政策について、できれば正しい理解に基づく判断をしたいから、いろいろと本を読むなどして勉強する。

ただ、その理解の正しさには、おそらく半分以下の重要性しかない。

現実的に重要なのは、実生活やネット上などで接する人々との関係を、より協力的なものにしていくことなのだということは、いつも意識していたい。

2009年11月9日月曜日

『地頭力を鍛える』を読んだ

細谷功さんの『地頭力を鍛える 問題解決に活かす「フェルミ推定」』を読んだ。

ビジネスコンサルタントとして、十年以上にわたり多様な現場の問題解決に携わってきた筆者が、問題解決のベースになる能力の構造と、その鍛え方を説いた本。

自分の能力を根底から高めてくれる本に出会うたびに、「もっと若い頃に読みたかった」という感想を抱くが、この本もまさにそう。

細谷さんの曖昧さのない説き方のおかげで、自分の考え方の癖や短所を、明確な構造図に位置づけて把握することができた。

地頭力を構成する三つの思考力、「結論から考える」「全体から考える」「単純に考える」の本質が、「離れて考えること」ではないか、という細谷さんの示唆は、まさにそのとおりだと思う。

「こちら」から「向こう」へ、「部分」から「全体」へ、「具体」から「抽象」へ、という三つの方向への「離れ」が必要であるというのは、身体感覚的に納得がいく。

2009年11月8日日曜日

写経

学生時代、心に響いた文章があると、いらない紙の裏などに、万年筆で繰り返し書き写した。

たとえば次のような文章だ。
《人間の生きる目的は何かとか、人生をいかに生きるべきかとか、大きな目的意識や大きな生活態度について自覚しなくても、日常生活をすすめていくことはできる。しかしこれらを自覚して正しい目的を確立し正しい生活態度を打ちたてていないかぎり、日常生活の目的や行動の正しい位置づけや一貫した価値判断は生れてこないし、困難や障害をのりこえて目的をつらぬこうとする情熱や強固な観念的原動力をつくりだすこともむずかしい。》
《徹底した教育によって正しいものと信じこんでいたこれまでの目的意識や価値判断が、敗戦によって一挙にあやまっていたと知らされたときの日本人は、それに代るものを求め精神構造の空洞を埋めようとして、哲学へ走った。哲学書に対する爆発的な要求が起って、専門家にすら難解と定評のある西田哲学の書物がベストセラーになり、またスターリンの弁証法的唯物論と史的唯物論のパンフレットや哲学教科書や解説書などがとぶように売れて、進歩的な出版社を大いにうるおしたのであった。》
《大衆は、哲学的教養を身につけるために哲学書を要求したのでもなければ、小哲学者になろうとして哲学書を求めたのでもなかった。大衆は新しい時代における人生の指針を求め、人間として正しく生きるためのよりどころを求めたのである。哲学書を人生論として読もうとしたのである。》
《人生論ときくと、知識人は冷笑する。たしかに、人生論と名のって書店に売られているものの大部分は、観念論哲学者や評論家や文学者の手になる評論や随筆で、社会科学的な分析に堪えられないひよわいものでしかないけれども、だからといって人生論は有効性がないとか社会科学になりえないとかいうことにはならない。むしろ反対に、社会科学を正しくふまえた具体的な人生論が建設され大衆化されていないからこそ、これらのひよわい随筆的人生論が美文の魅力によって大衆をとらえるのである。》
《個人の人生には始めがあり終りがあるけれども、それは人類の歴史・社会の発展の中に存在し、過去の時代と未来の時代につながっている。過去の時代の遺産をうけつぎながら人生の創造がはじまり、未来の時代に遺産をのこしながら人生の創造が終っていく。個人の個々の行動とその影響は、その一生のなかで位置づけ評価されるだけでなく、その一生における社会的な影響のなかで位置づけ評価されるだけでなく、さらにそれらを超えた大きな歴史的な観点において位置づけ評価されなければならない。たとえ苦難にみちた一生であっても、それを正しく評価することによって人間としての誇りを感じ深い満足感を得ることができるような生きかたが存在することを、科学的な人生論はあきらかにするであろう。》
(三浦つとむ『指導者の理論』1960年)


こういう文章を書き写すことが、自分にとっては写経のような役割を果たしていたのだと思う。

2009年11月7日土曜日

レーザーの多重性

高岡英夫先生は、人体を上下に貫く身体意識である「センター」に、「垂軸」と「体軸」の区別があることを論じられている(『センター・体軸・正中線』他)。

垂軸とは、重力線に沿って形成される軸である。

体軸とは、背骨に沿って形成される軸である。

ここら先は佐々木の勝手な思いつきだが、体の中心から進行方向に向かって一直線状に伸びる身体意識である「レーザー」にも、これと似た区別があるように感じられる。

非常に感覚的かつ抽象的な話になるが、「状況が自分に要求している行動の中心軸」と、「時間の流れの軸」の二つが、センターで言う「垂軸」にあたる軸で、「自分が取る行動の軸」が、センターで言う「体軸」にあたる軸である。

自分に行動を要求している状況は、常に複数存在している。

だから、「状況が自分に要求している行動の中心軸」も、複数存在している。

いずれかの軸を選択し、さらに「時間の流れの軸」にも沿う形で「自分が取る行動の軸」を一致させないと、行動をなめらに遂行できない。

「時間の流れの軸」は、単一ととらえることもできるが、たとえば1秒未満単位、秒単位、分単位、時間単位、日単位、週単位、月単位、年単位、10年単位、一生単位、1世紀単位、1000年単位‥‥と、それぞれ異なる軸を持って存在しているととらえることもできる。

感覚的に、「状況が自分に要求している行動の中心軸」は曲線状であり、「時間の流れの軸」は直線状である。

ついでに、主体的な人間同士が共同体を築く場合、行動面での相手のレーザーを感知し、自分の行動のレーザーと調和させる能力が、互いに必要になる。

2009年11月6日金曜日

レーザー

高岡英夫先生の『センター・体軸・正中線』に、「センター」という身体意識と、「レーザー」という身体意識が紹介されている。

基本的に、センターは体の中をまっすぐ上下に貫く身体意識であり、レーザーは体の中心から進行方向に向かって一直線状に伸びる身体意識だ。

ここ最近、自分の体を構成する各パーツの中心や、パーツの中心同士の合理的な配列を、徐々に体性感覚の次元で意識できるようになってくるにつれ、こうした「体の内部での中心同士の合理的配列」の延長として、「地球の中心と自分の中心の合理的配列」を意識できるようになってきた。

つまりは、自分のセンターを実感できるようになってきた。

さらに、センターについて自分が実感できはじめたことを、ちょうど90度前方に倒す形で、レーザーにも応用できるようになった。

つまり、レーザーの意識と自分の体のあり方が、かなりダイレクトにつながってきた。

この感じをもっと育てていくと、運動レベルだけでなく、行動レベルでも顕著な改善を達成できるような気がしている。

2009年11月5日木曜日

成長イメージ

種子から芽吹いた幼樹が、若樹を経て大樹へと成長していくように、自分の能力がこれから将来にわたってまだまだ伸びていくことを、ようやく、実感としてイメージできるようになってきた。

このイメージを持てるだけでも、得られる幸福感は大きい。

このイメージがまったく持てないことが、幸福度が低い原因になっている人は多いと思う。

2009年11月4日水曜日

日記を書き始めて1年

この日記を書き始めたのは、昨年の11月4日

昨日で、ちょうど1年が過ぎたことになる。

なんとか1日も欠かさず書くことができた。
「3年間1日も欠かさず日記を書き続けた人は、何事かを成す人である。10年間1日も欠かさず日記を書き続けた人は、何事かを成した人である」
そんな格言を、どこかで読んだ。

これからもこの日記は、死ぬまで1日も欠かさず書き続けることにしたい。

2009年11月3日火曜日

無理

自分で自分の体を持ち上げたら、空中に浮き上がるか?

そんなことはあり得ない。

だが我々凡人は、それに近い馬鹿げた試みを、無意識のうちに行っているものだ。

ゆる体操をやっていると、そのことがよくわかる。

ゆる体操に取り組んでもう10年以上経つが、自分が馬鹿げた体の使い方をしていたことに気づかされることが、いまだに、ほとんど毎日のように、ある。

つい一昨日も、武術のある動作をするとき、頭蓋骨と頸椎(首の骨)のつなぎ目のところで、無意識のうちに、首から下を吊り上げようとするかのような力の使い方をしていたことに気づかされた。

その無理な力の使い方を改善したら、頸椎から下、胸椎や腰椎の使い方から、足の使い方に至るまで、改善が及んだ。

2009年11月2日月曜日

『代議士の誕生』を読んだ

日垣隆さんの古典読書会メーリングリストの課題で、ジェラルド・カーティスの『代議士の誕生』(山岡清二、大野一訳)を読んだ。

1967年の衆議院総選挙における大分二区の自民党新人候補、佐藤文生氏の選挙活動を、当時コロンビア大学大学院政治学博士課程の学生だった筆者が、11か月にわたり佐藤家に居候して密着取材し分析した学術研究書。

2009年版の巻頭には、2009年8月の総選挙における政権交代に関する、筆者の分析も掲載されている。

印象に残ったのは、この本の主人公である佐藤文生候補の後援会(=風雲会)事務所が、就職相談所と、進学相談所と、結婚相談所を、一まとめにしたような活動をしている、というところ。
《風雲会に寄せられた高校進学の相談は、一九六六年の一年間で約一〇〇件。〔‥‥〕三月から四月にかけては、事実上、スタッフ全員が入学の世話にかかりきりになる》(221ページ)
《就職斡旋の件数も年間一〇〇~一五〇件にのぼる。別府のあるホテルでは、従業員のほぼ全員が佐藤と村上勇の世話で入ったところさえある》(221ページ)
《風雲会の事務所には、結婚適齢期の娘をもつ親たちから預かった大量の見合い写真がある。〔‥‥〕春と秋の結婚シーズンは、結婚式場への出席はほとんど日課になってしまう》(222ページ)
佐々木自身は、今まで進学や就職などにあたって、政治家の事務所の世話になったことはない。

そのような世話を受けず、「自力で」人生を切り開ける人間が、強い人間なのだと考えていたようなところがあった。

裏を返せば、そのような個人的な問題で政治家に頼ることを、どこかで軽蔑していたわけだ。

しかし最近、特に自分自身のこととして思うのは、「人に頼らない」強さは、そのまま「人に頼れない」弱さなのではないか、ということだ。

社会的な観点からしても、「代議士が選挙民の個人的生活の世話を焼く」と言うと、どこか代議士の本分を逸しているような印象を与えるが、「地域の人々の個人的生活の世話を焼く人が代議士になる」と考えれば、これはごく真っ当な民主制のあり方だろう。

そのようなあり方を軽蔑していたかつての自分を、今は少し恥ずかしく思ってもいる。

2009年11月1日日曜日

イワシ

イワシを手早くおいしく料理するスキルは、人生における幸福を確実に増大させる。

300円かそこらの材料費で、舌も体も心も喜ぶ主菜を4人分あつらえられる力があれば、少々の貧乏など恐くなくなる。

 
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