2009年10月31日土曜日

来年のスケジュール帳を買った

来年のスケジュール帳を買った。

今年と同じ、「能率ダイアリーメモリー2」。



その日行うべきことを、できるだけ詳しく書いておきたいから、ある程度のサイズが欲しい。

かといって、持ち歩けないほど大きかったり厚かったりするのも困る。

ということで、サイズはA5前後。

重いのは嫌なので、リフィル式は除外。

たくさん書き込めるように、1日1ページ型。

マインドマップ式に書き込んでいくので、フォーマットはシンプルなほうがいい。

書き込む内容や分量は状況に応じて変わっていくので、「to doリスト」だの「メモ」だの「ミッション」だのと、欄がきっちり決まっているのは困る。

佐々木のメモの仕方は、下の写真のように、とにかくメチャクチャなのだ。



休日がわからないのも困るので、外国製は除外。

月や曜日が英語で書かれているのも、わかりにくいので除外。

(スケジュール帳に限らず、日本人しか読まないのに、頭良さげに見せる目的でのみ英語を使っている製品は、基本的に嫌い)

ということで、書店や文具店で他のスケジュール帳もいろいろ見てみたのだが、条件に合うのはやはり「能率ダイアリーメモリー2」だけだった。

佐々木が持ち歩いている鞄(エレコム Lightio BM-CA11BK)の外ポケットにも、スッポリ収まる。



買ってきたところで、自分が使いやすいように、少しカスタマイズ。

まず、小口面に印刷された月識別マークのところに、サインペンで「1」、「2」、‥‥「12」と書き込む。



これを書き込んでおかないと、目的の日のページをすばやく開くことができない。

それから、冒頭の月間予定表の右下に、しおりとして付箋紙を貼る。



このスケジュール帳には、しおり紐が1本しかついていない。

しおり紐は、今月の予定表と今日の予定表の、どちらにも必要だと思うのだが。

しかたないので、しおり紐は今日の予定表のところに入れて、今月の予定表のしおりには、付箋を使う。

それから、巻末にノート用ページが12ページあるので、各ページの上隅に「2010年1月」、「2010年2月」、‥‥「2010年12月」と書き込む。月間to doリストとして使うためだ。




「2010年1月」のページの下にも、しおり用の付箋紙を貼る。

裏表紙を開けた見開きには、大きめのメモ用の付箋紙(ポスト・イット655RP-Y、76mm×127mm)を10数枚貼っておく。



所有者の氏名・連絡先欄がこの付箋紙で隠れてしまうので、自分の氏名・連絡先スタンプを右上に押す。

ポケット部分には、名刺を数枚入れておく。

裏表紙から開けてその次の見開きには、中くらいのメモ用の付箋紙(ポスト・イット654RP-YN、75mm×75mm)を10数枚貼っておく。



さらにその次の見開きには、小さなメモ用の付箋紙(ポスト・イット700Y、50mm×15mm)を二十枚ほど貼っておく。



表紙を開けた見開きには、書籍用のしおりを2枚ほど入れておく。



これは移動中に本を読みかけで閉じようとして、しおりがなかったときのためのもの。

スケジュール帳に自分のミッションや夢を書き込むことを勧める人は多いし、そのような構成になったスケジュール帳もいろいろ販売されている。

だが、持ち歩いて人目に触れるものに、そういったことが書き込んであるのは、やはりちょっと恥ずかしい。

そういうことを書き込むフォーマットは、別途自分で作って、家で書き込み、家に置いておくようにしている。

2009年10月30日金曜日

一流のサッカー選手たちの運動感覚を想像する

スポーツ全般について、子供の頃から苦手意識がある。

特にサッカーだ。

広いコートを入り乱れて走り回る、大勢の敵味方。

矢の速度で地を這い宙を舞うボール。

一瞬の静止もなく変化していく状況。

なぜサッカーが得意な人たちは、あれほど複雑かつ大量の情報を、まばたきする間もなく処理し、判断し、的確な対応ができるのか。

それが不思議でしょうがなかったし、そういったことができない自分が、情けなくてしかたなかった。

だがここ最近、ゆる体操などへの取り組みを積み重ねてくる中で、理想的な身体運動のありかたというものを、実感を伴って想像できるようになってきた。

自分の骨格を構成するパーツ同士がゆるんだ状態で、パーツの中心同士を重力線などに沿って適切に合わせることができたときの運動感覚が、自分の体外の物との関係にも成立することがわかってきた。

ここからはかなり想像が入ってくるが、意識の次元で骨格のパーツの中心同士を適切に合わせることができているときは、それぞれのパーツの位置や角度が、状況に応じて勝手に適切に変化していく。

骨格を構成するパーツは無数にあるわけだが、主観的には、これらすべてのパーツを同時に監視し操作しているわけではない。

主観的に行っていることは、「流動する中心同士が適切に合わさっている」状態に破れが生じたところを見つけて中心同士を合わせ直すことと、流動性が低下したところを見つけて流動性を回復させることだけである。

あとは各パーツが勝手に適切な運動をするのに任せるだけである。

一流のサッカー選手たちは、これと同じことを、自分の骨格を構成するパーツだけでなく、ボールや敵味方のプレーヤーやゴールなどに対しても行っているのではないだろうか。

そう考えると、凡人には魔法にしか見えない彼らのプレーにも、自分の実感を通して説明がつく。

2009年10月29日木曜日

流動する中心同士を合わせる能力

「流動する中心同士を合わせる能力が、さまざまな能力のベースになっている」という気づきについて、先日書いた

もう少し展開しておきたい。

「流動する中心同士を合わせる」と言ったとき、佐々木のイメージのベースにあるのは、脱力してゆるゆる棒に乗ったときの、自分の骨格や内蔵のさまざまなパーツの配列を適切に調節する努力だ。

この努力の達成度が一定レベルを超えたとき、自分の骨格が本来持っている機能が、重力に対して最も合理的に発揮されている実感が生まれる。

その前提には、脱力がある。

より一般化して言えば、流動するパーツ群の中心同士が合うことから生まれる合理性が発揮されるには、前提として、パーツ同士の流動性が維持されていなければならない。

また、ゆるゆる棒の例で言えば、骨格のパーツの中心同士を合わせるというのは、自分の体に働く重力に沿う形で合わせるのである。

より一般化して言えば、流動するパーツ群の中心同士を合わせるというのは、あくまでその場に働く自然力に沿う形で合わせるのである。

だから「流動する中心同士を合わせる能力」というのは、より正確には、「流動性を保ちながら、その場に作用する自然力に沿って、中心同士を合わせる能力」である。

この話を、自分の体内のパーツ同士の関係だけでなく、自分と体外の物体との関係や、社会関係にまで一般化した場合、上記の自然力には、個人の意志から独立して作用する社会力も含まれる。

えらく抽象的になってしまったが、とりあえず自分の中では新しい気づきだったので、書き残しておく。

2009年10月28日水曜日

視覚的な方向認知と体性感覚的な方向認知

どちらが上で、どちらが下か。

それぐらいのことは、たいていの人が、わかっているつもりでいる。

あまりにも当たり前すぎて、自分がわかっているかどうか、疑問に思うことすらない。

佐々木も、ゆる体操やゆるゆる棒に取り組み始めるまでは、そうだった。

自分の体がゆるみ始めると、どちらが上でどちらが下かということを、実は自分が正確に把握できていなかったということに気づかされて、驚く。

自分の体をカチカチに固めて、低レベルの身体運動に埋没している限り、「どちらが上でどちらが下か」ということを、体で正確に把握しなくても、なんとかやっていける。

ところが体がゆるんでくると、自分の体にかかっている重力の方向を常に正確に感知しないことには、まともに立っていることすらできない。

ここ最近、背骨と肋骨の間の関節(=脊肋関節)をゆるめることに、熱心に取り組んでいる。

調子のいいときは、自分が意識している脊椎の中心と、その左右にある肋骨の中心が、同時に感じられるような感覚がある。

そういうときは、脊椎の中心と肋骨の中心を「合わせる」ことも、また課題になる。

さらに、脊椎の中心と肋骨の中心を結ぶラインを延長する形で、自分の左右方向に展開するラインが浮かび上がってくる。

そういうときは、「どららが右でどちらが左か」ということが、これまでになく深い身体次元で把握できているように感じられる。

ちょうど、ゆる体操やゆるゆる棒に取り組み始めた頃に、「どちらが上でどちらが下か」ということを体でわかっていなかったことに気づかされたときと同じような、感動がある。

2009年10月27日火曜日

『誰とでも15分以上 会話がとぎれない!話し方66のルール』を読んだ

誰とでも15分以上 会話がとぎれない!話し方66のルール』(野口敏著)を読んだ。

きもの専門店で1万人以上の女性への接客経験を積み、現在はコミュニケーションスクールを主宰する筆者が、会話のコツを66項目にまとめた本。

基本編では「聞く力」「話す力」「質問する力」の基礎を説明し、応用編では「受け答えの技術」「関係づくりのコツ」「複数の人と会話するコツ」などを説明する。

読んで自分ができてないと反省させられる点、多かった。

たとえば以下。

●いきなり質問しないほうがいい

●「たまっている気持ち」を尋ねてあげる

●「どうでした?」とは尋ねない

●ネガティブな気持ちを打ち明けられたとき、ヘンに励ましたり、自分の価値観を押しつけたりしない

正直、「こんな調子で迫ってこられたら嫌だな」と感じるトーク例も少なくなかったが、具体例はあくまで具体例。人によって適切な話し方が違うのは当然のことで、大事なのは考え方だろう。

まだ自分には実行するのが難しく感じられる方法や、つい忘れがちなポイントも多かったので、ときどき読み返さないといけない本だと思った。

2009年10月26日月曜日

意識の位置関係

高岡英夫先生の理論では、体の中をまっすぐ上下に貫く身体意識(「センター」)のうち、もっとも基本的なラインは、背骨のやや前側を通る。

より正確には、背骨が出っ張っている箇所では中を抜け、へこんでいる部分では前面をかする(『センター・体軸・正中線』等参照)。

これは佐々木の勝手な感想だが、「背骨の前にセンターがある」と意識したときと、「センターの後ろに背骨がある」と意識したときとでは、得られる身体認識も、結果として生じる身体運動も、大幅に異なる。

どちらも同一の空間的位置関係を示す言語表現なのだが。

他にもたとえば、「自分の体の下に地芯(地球の中心)がある」と意識したときと、「地芯の上に自分の体がある」と意識したときとでも、このような差はある。

だが、「胃の下に腸がある」と意識したときと、「腸の上に胃がある」と意識したときとの間に、少なくとも佐々木には、顕著な差は感じられない。

何が違うのか。

一つは意識の濃さだろう。

もう一つ、両者が「支える、支えられる」という関係になっているかどうかが、大きいと思う。

2009年10月25日日曜日

センター・トゥ・センター

中心と中心を合わせる能力。

これが、いろいろな能力(もしかするとすべての能力)のベースになっていると、ここ最近強く実感している。

自分の骨格や内蔵などのパーツ同士の関係を瞬間瞬間において適切に調整していくにしても、外部の物を操作するにしても、人と人との協力関係を生み出し保ち発展させるにしても、結局はこの能力がベースになっている。

ネジをしめるときの、ネジ穴の中心とネジの中心を合わせる能力や、ネジの中心とドライバーの中心を合わせる能力のように、一方がほぼ固定された状態で中心同士を合わせる能力が必要とされる場面は、どちらかといえば例外的だ。

ゆるゆる棒(下写真)に乗り、自分の中心、ゆるゆる棒の中心、そして地球の中心を合わせようとすると、中心同士が合さること自体が中心同士を離れさせるような、中心と中心との永遠の追いかけっこ状態が生じる。



多くの場面で要求されるのは、このように中心同士が定まらず反発し合う状態で中心同士を合わせる能力だ。

ゆるゆる棒に乗れば誰でもわかるように、こうした状態で中心同士を合わせるためには、小脳の機能が高くなければならない。

また、こうした状態で中心同士を合わせることを要求されると、凡人は体を固めることで対応しようとしてしまうが、必要なのは逆に体をゆるめることである。

対象のセンターを捉えて自分のセンターと関係をとり結ぶ「センター・トゥ・センター」の能力の重要性については、高岡英夫先生がずいぶん前から力説されているが、佐々木はそのことを、頭でしか理解していなかった。

自分が持っているさまざまな“苦手感”のベースに、流動する中心同士を合わせる能力の欠如があることを実感するようになったのは、ここ最近のことだ。

まだまだ小脳が弱い。

そして体がゆるんでない。

2009年10月24日土曜日

ジンブレイドで割体

高岡英夫先生の『センター・体軸・正中線』に、「ジンブレイド」と名付けられた、足裏から脚裏を通って股関節に至る身体意識(体性感覚的意識)が紹介されている。

これは高岡先生から教わったことではなく、佐々木が勝手に試してみただけのことなのだが、足の裏のジンブレイドのラインから、足の甲まで垂直に足を切断する面を意識してみると、この面で足から体全体が三分割されるような感覚が生まれて、おもしろい。

足から脚がこの面で割れる感覚が生まれると、割れたそれぞれが独立に地面に置かれて、体と地面との結びつきがより強くなる感じもある。

2009年10月23日金曜日

勘違い一途

日本永代蔵』に収められた30の短編のうち、佐々木の心に特に残ったのは、「巻三」の「国に移して風呂釜の大臣」。

父親が亡くなる間際に
「汝等(なんじら)、過賄(すぎわひ)の種(たね)を忘れな」
(=おまえたちはただ世渡りの種を忘れるなよ)
と言い残したのを、油をとる菜種のことだと勘違いした息子が、いつかは菜種で金持ちになろうと日々模索を続け、あるとき人里離れた荒れ地を見つけて菜種を蒔いたところ十分な収穫があったので、この土地を払い下げてもらい、開拓して菜種農場として大規模に事業化し、ついには菜種の販売ルートまで開拓して九州で並ぶもののない長者になる話。

物語の後半ではこの息子が贅沢を覚えて身を滅ぼしていくのだが、おもしろかったのはこの前半部分。

父親は別に息子に菜種の栽培事業を勧めたわけではなく、ただ一般論として、生業をおろそかにするなと戒めただけだった。

それを息子が菜種で事業を起こせと教えられたと勘違いして、何もないところから菜種事業を起こして成功させてしまう。

未来のことについては、どんなに合理的な思考を積み重ねても、正確な予想ができるわけではない。

たとえ合理的な思考の結果でなくても、ぶれない軸は強みになる。

「ぶれない勘違い」の背後には、おそらく無意識レベルでの情報収集と判断が働いていて、無意識の判断はしばしば合理的な思考を凌駕する。

この物語の前半にはそんな含意があるような気がして、ちょっと勇気づけられたような気分になった。

佐々木自身が、しばしば合理的な思考の結果に目をつぶり、無意識の判断に身を任せてしまっているから。

2009年10月22日木曜日

江戸時代に書かれた文章を読む身体

日本永代蔵』を読んで感じたことをもう一つ。

自分の体が固まっている限り、江戸時代に書かれた文章を体で理解することはできない。

単語の意味や用法を辞書的に理解したり、背景となる事実を言語レベルで理解したりするだけでは、文章を頭でしか理解できないのだ。

自分の骨格を構成するすべての骨が互いにユルユルにゆるんで、そこにフニャフニャの筋肉がまとわりついたような状態にならないと、文章の背後にある作者の認識の流動性、そしてその背後にある作者の身体の流動性、さらには作者をとりまく世界の流動性を、読者である自分の身体が拒絶してしまう。

そのことに気づけたのは、高岡英夫先生が指導される「剣聖の剣・宮本武蔵」の講座で、武蔵の『五輪書』を武蔵の身体技法と重ね合わせて読む経験を持てたおかげである。

2009年10月21日水曜日

『日本永代蔵』を読んだ

今年の古典読破計画の第十弾として、井原西鶴の『日本永代蔵』(堀切実訳注)を読んだ。

普通の町人が大金持ちになる話、大金持ちが貧乏人に転落する話など、金銭にまつわる短篇小説30編から成る本。

刊行は1688(元禄1)年。江戸期を通じてベストセラー小説だったのだとか。

お金のことをおおっぴらに話すことは、当時は現代からは想像もつかないほど、人々にとってはばかれることだったはず。

そのおおっぴらには語りがたいお金にまつわる、リアルかつドラマティックなストーリーを、歌うような名調子で語ってみせたところが、この作品がヒットした理由かなと思った。

表面上、「どういうことをすると豊かになるのか」、「どういうことをすると貧乏になってしまうのか」という教訓や道徳を語っているように見える箇所もある。

だがおそらくこれらの説教部分は、作者から読者に向けたメッセージや教えというよりも、ある種のネタだと思う。

ある意味「下世話」な話題であるお金について語るのに、ことさら高尚めいた理屈を持ち出すことで「毒消し」をするのと同時に、「理屈の高尚さ」と「語られている内容の下世話さ」のギャップ自体におかしみを感じさせる仕掛けなのだ。多分。

訳注の堀切実さんはそういう解釈ではないようだが。

2009年10月20日火曜日

脳がパンパン

ここのところ、脳をあまりにも使うものだから、脳が頭蓋骨の中で軽く膨張している感覚がある。

頭を上からトントン叩いても、上下の歯をカチカチかみ合わせても、水をめいっぱい満たした薄い木樽を叩いたような音が、頭蓋骨の中で響く。

脳がくまなく使われてること自体はいいことなのだろうが、あまり使い過ぎて壊れやしないかと、ちょっと心配にもなる。

2009年10月19日月曜日

Not 'YES WE CAN' but 'WE CAN'

特定のことが「できるはず」「できなければならない」という信念だけでは行き詰まる。

へたをすれば「なにもできない」という絶望まで突き進みかねない。

信念は「何かができるはず」というレベルぐらいにとどめて、「何ができるだろう」という問いを生み続けたほうがいい。

自分に対しても、他人に対しても。

2009年10月18日日曜日

まともなリーダーになる

組織がうまくいかない原因のほとんどは、リーダーの力量が足りないことにつきると思う。

自分が属する組織(もしくは潜在的に属する組織)にまともなリーダーがいないとき、取り得る態度は次の三つだ。

1.その組織から逃げる。

2.その組織にまともなリーダーが現れるのを願う。

3.自分がその組織でまともなリーダーになるように努力する。

あとになって振り返ったとき、一番満足度が高いのは、最後の選択肢を選んだ人生であるような気がする。

もちろん、自分が属する(もしくは属し得る)すべての組織でリーダーになることを目指すのは、現実性に欠ける。

だが、「自分はどの組織でまともなリーダーになるのか」を自らに問い、決断し、決断したことを実現すべく努めることは、少なからぬ人々にとって現実的で必要なことだと思う。

2009年10月17日土曜日

空、海、蟹

海辺でぼんやり波の音を聞きながら、雲を見上げたり、蟹の行動を眺めたりするのは、大切な時間。





2009年10月16日金曜日

ハンドルネーム

これはある意味自分の弱点の一つだと思うのだが、佐々木は、ネット上でどこの誰かもわからない人間からハンドルネームでコミュニケーションを迫られるのが、大の苦手である。

このブログをコメント拒否の状態にしているのも、ひとえに、見知らぬ人間がハンドルネームでコミュニケーションを迫ってくるのを防ぐためだ。

Twitterで自分の発言をフォローしてくれる人が現れたときも、相手がハンドルネームだと、即ブロックしてしまう。

フォローされたからといって、自分が見る画面に特に変化があるわけではないのに。

自分でも、ほとんどビョーキだと思う。

理由はいくつか思い付くが、自分自身が思い付く理由など、実際の原因のうちのごく一部に過ぎないに違いない。

それを承知で書くなら、たぶんこういうことだ。

人間には現実ではないものを見る能力がある。

その能力は、現実を変えるためにも、現実から逃げるためにも、使うことができる。

もちろんどちらも必要だ。

だが、あまりにも現実から逃げることにばかりに人生時間を費やしている状態というのは、やはりなにか間違っている気がする。

ハンドルネームでコミュニケーションを迫ってくる人々には、この「現実から逃げることへの耽溺」を強烈に感じてしまうのだ。

世の中には、自分の顔写真も公開して実名でブログを書きながら、コメント欄に寄せられるハンドルネームでの投稿にも、ていねいに回答している人たちが大勢いる。

ああいう人たちを見ていると、自分の度量の狭さを、ちょっと反省させられたりもする。

2009年10月15日木曜日

鉄分控えめ

佐々木は元鉄道マニアである。

小学生のころの「将来なりたい職業」の上位には、常に電車の運転士があった。

『時刻表』の文字・数字を追いながら頭の中での旅行を楽しんだり、休日に仲間と鉄道写真を撮りに行ったり、お小遣いでNゲージの鉄道模型を買って走らせたりといったことを、高校に入学するぐらいまで、夢中になってやっていた。

だがさすがに高校生にもなると、「いい歳をした男が電車なんぞに夢中になっているのもいかがなものか」という反省が頭をもたげてきて、ほどなく鉄道趣味からは足を洗ってしまった。

さて群馬県安中市に、「碓氷峠鉄道文化むら」という施設がある。

ここでは素人でも1日講習を受けて修了試験に合格すると、JRの本物の電気機関車を体験運転できるらしい。

佐々木は3年ぐらい前に、何気なくつけたテレビでこの体験運転のことを知った。

そのとき、そんなことをさせてもらえる施設があること自体に驚いたと同時に、自分の中に湧き起こってきた感情にも、自分で驚かされた。

「ここで本物の電気機関車を運転できたら、もう自分の人生の夢はほとんどすべて叶ったようなものかも‥‥」と思ってしまったのである。

大学入学前後のころから、「人間は大きな志を持たなければならない」という思想にとりつかれ、以来、とても叶うか叶わないかわからないぐらいの夢を、意識的に追い求めてきた。

鉄道への興味も、もうすっかり失っていたはずだった。

それがまさか、電気機関車を運転できた自分をイメージして、人生最大の夢が叶ったかのような成就感が心に湧いてくるとは、思ってもみなかった。

自分の内にある欲望というのは、自分でもよくわからないものだ。

あの施設で電気機関車を運転できてしまったら、あとはもう自分が腑抜けになってしまいそうな気がして、運転体験講習に申し込むのは差し控えている。

2009年10月14日水曜日

恐怖に支配される理性

合理的に行動したい。

理性的な人間でありたい。

そのような欲求が強ければ強いほど、自分の感情、特に恐怖や怒りなどのネガティブな感情が、いかに自分の思考や行動を支配しているかを、自覚できなくなる。

見方によって、器にも、向き合う二人の横顔にも見える絵がある。



自分の理性はこの図における器のようなもので、自分の感情はこの図における横顔のようなものだと思う。

器に目を凝らしている限り、器を取り囲む横顔は見えない。

これがまた、理性が感情に支配されていることを本人はまったく自覚できていないにもかかわらず、他人にはそれがしばしば丸見えであるのが、恐ろしい。

2009年10月13日火曜日

地面に置かれる足の骨

武術の稽古をするとき、ちょっとした動作をするのにも、足首から先が不自然に力んでしまう問題が、ずっと解決されずにいる。

ただ最近は、足の中の骨の分化が進みはじめたこともあって、この問題にわずかながらも改善の兆しがある。

足の中の26個×2=52個の骨が、互いにゆるんだ関係を保ったまま、それぞれがナチュラルに地面に置かれ続けるように意識して稽古すると、そのことが達成される度合いに応じて、全身がより合理的に動く実感がある。

2009年10月12日月曜日

瀬戸内近辺の地図

神田昌典さんの『全脳思考』に、リラックスした状態で思い浮かんだイメージをイメージのまま描写してから、そのイメージが表す意味を考えて言語化する、というメソッドが紹介されている。

ここ数日、佐々木の脳裏に浮かんで離れないイメージがある。

それは瀬戸内海周辺地域の地図だ。

描かれ方は国土地理院発行の地図のような感じだが、紙ではない。

Googleマップのように、どこまでもスクロールされていく。

頭の中のスクロールは北九州、山陰、四国南部といった地域まで続くが、中心を占めるのは、瀬戸内海沿岸の、特に本州側の町々だ。

別に、この地域のクライアントから依頼があったわけでもない。

この地域に行く予定があるわけでもない。

この地域に関する本を読んだり、印象に残るニュースを目にしたわけでもない。

自分にとってはまったく唐突に、この地域の地図が頭に浮かんで、そのまま脳裏から離れない。

あまりにも鮮明なイメージが、あまりにも持続的に浮かび続けるので、「これはいったい何の意味があるのか?」と自分に問わずにはいられなくなっている。

答えはいくつか思い浮かんだが、真っ先に思い浮かんだのは、「ビジネスを全国展開できるようになれ」という合図なのではないか、ということだった。

ロバート・キヨサキが『金持ち父さんのキャッシュフロー・クワドラント』などで述べている、「Sクワドラント」(Self-employed, Solo, Specialist)の人間と「Bクワドラント」(Business owner)の人間の差にあたる部分に、最近特に個人的な成長課題を感じていることに、それは重なる。

2009年10月11日日曜日

足の骨

足の骨は、左右それぞれ、次の26個の骨から構成される。

  • 距骨×1
  • 踵骨×1
  • 舟状骨×1
  • 楔状骨×3(内側楔状骨、中間楔状骨、外側楔状骨)
  • 立方骨×1
  • 中足骨×5(第一~第五中足骨)
  • 趾骨×14(第二~第五趾骨のそれぞれが基節骨、中節骨、末節骨の三つから成り、第一趾骨は基節骨と末節骨の二つから成る)
これらの骨の一つ一つを独立して意識し、独立して機能させられるようになればなるほど、高度な身体活動や精神活動が可能になるのだと思う。

思う、としか書けないのは、佐々木自身がまだ、これら26個×2=52個の骨たちを独立して意識し機能させられる域に達していないからだが、それでもその方向に向けた進歩は続けている。

足をただ「足」として一つの固まりのようにしか意識できず、骨と筋肉さえ区別して意識できていなかった頃に比べれば、足だけでなく脳を含めた全身の機能が高まっている実感がある。

唐突だが、佐々木の中で、自分の身体のあり方への洞察は、常に人間の組織のあり方への洞察にもオーバーラップしている。

組織のトップが、組織の底辺を構成する人々をひとつの固まりとしか意識できていない状態と、一人一人を独立して意識できている状態とを比べれば、後者のほうが、はるかに高度な組織活動が可能になるはずだ。

2009年10月10日土曜日

変化の予感

ここのところ、下腿から足首にかけての拘束が、気になって気になってしかたがない。

これまでも、自分のこの部分の固さに、うんざりしてはきた。

ただそれは、ある種どうにも手の施しようのない状態として、自分の中に存在してきた。

それが少なくとも、拘束解消に向けた努力に対する成果らしきものが実感できる程度になってきた。

長い間強烈に拘束されていた部分がゆるみはじめると、あたかもその部分にたまっていた“邪気”が解き放たれたかのような吐き気がこみ上げてきて、空嘔吐をしてしまうことが、ときどきある。

ゆるをはじめて最初の数年ぐらいは、内蔵を中心にその現象が起きた。

ここ数年は、胸郭を中心にその現象が起きていた。

ここに来てついに、足脚でもその現象が起きはじめた。

下腿から足首の変化は、当然、股関節周辺や仙骨周辺や脳のありかたにも、変化を引き起こす。

自分の身体に大きな変化がもたらされるのも、近い気がする。

同時に、足脚の拘束などとは直接的な関係がない領域、たとえば仕事とか人間関係などの領域でも、大きな変化を予感させる出来事が、最近よく起きている。

2009年10月9日金曜日

『スターバックス成功物語』を読んだ

スターバックス成功物語』(ハワード シュルツ/ドリー・ジョーンズ ヤング著、小幡照雄/大川修二訳、原題"Pour Your Heart into It")を読んだ。

今年読んだ本の中で、おそらくベスト3に入るくらいの感銘を受けた。

昨日のエントリで、『イノベーションのジレンマ』を読み返した感想として、「顧客が対価を支払おうと思う以上のもの」を目指してしまうことへの疑念を書いた。

しかしこの『スターバックス成功物語』を読んで思った。

性能を追究することと理想を追究することは違う。
《〔スターバックスの創立者たちは〕三人ともビジネス王国を築く野心など持たなかった。三人がスターバックスを創立した理由はただ一つ、コーヒーや紅茶を愛し、シアトルの人々に最高のものを味わってもらいたかったのである。》
《スターバックスの創立者は市場調査などはせず、自分たちに必要なこと、つまり良質のコーヒー豆を扱うことだけに専念したのである。》
《顧客の要求するものを提供するだけでは駄目なのだ。顧客の知らない物や最高級品を提供すれば、顧客の味覚が磨かれるまで多少時間はかかるかもしれない。だが、顧客に発見の喜びと興奮を与え、ロイヤリティを確立することができるのだ。》
《顧客を引きつけるには、洗練された知性を身につけて本当に求める人たちにそれを伝えなければならない。そうすれば、たとえニッチ市場であっても予想以上の顧客が集まるだろう。》
『スターバックス成功物語』にも、「自分たちが提供したいもの」と「顧客が要求するもの」の矛盾にぶつかる場面が登場する。

少なからぬ場面でスターバックス経営陣は「顧客が要求するもの」を提供することを選択して成功を収めるわけだが、これは「自分たちが提供したいもの」と「顧客が要求するもの」のどちらにも極限まで忠実であろうとした結果であり、無原則に顧客の要求に応えた結果ではない。

理想を掲げてビジネスを行うことの困難と意義を、コーヒーショップという身近な業態を舞台に、感情や魂のレベルでわからせてくれる本だった。

自分自身がビジネスで理想を追う勇気も、与えてくれる本だった。

2009年10月8日木曜日

技術バカを待ち受ける陥穽

イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき』(クレイトン・クリステンセン著、玉田俊平太監修、伊豆原弓訳)を読み返した。

以前読んだときは、ハイテク企業にしか関係のない話のように思えて、あまり心に残らなかった。

しかし改めて読み返してみて、技術を高めることに注力し続けることが危険であるのは、なにもハイテク企業だけに限った話ではないなと思った。
《技術革新のペースがときに市場の需要のペースを上回るため、企業が競争相手よりすぐれた製品を供給し、価格と利益率を高めようと努力すると、市場を追い抜いてしまうことがある。顧客が必要とする以上の、ひいては顧客が対価を支払おうと思う以上のものを提供してしまうのだ。》
それこそ佐々木が取り組んでいる「業務マニュアルの製作技術の向上」だって、「顧客が対価を支払おうと思う以上のもの」を目指してしまっていないか、冷静に検討しなければならないだろう。

2009年10月7日水曜日

自分の身を守ろうとして自分を追い詰める

高岡英夫先生が指導される「剣聖の剣・宮本武蔵 第三編・第四編」を受講して、佐々木が勝手に感じたことをもう一つ。

自分の身が危険にさらされたとき、凡人は自分の身を守ろうとして、「水」の状態から遠ざかる反応をする。

これに対して宮本武蔵クラスの達人は、「水」の状態にさらに近づく反応をする。

「水」の状態に近づく反応は、凡人にしてみると、自分の身をさらに危険にさらす反応にしか思えない。

しかし自分に向かって真剣が振り下ろされた状況で、結果として生き残るのは、「水」の状態にさらに近づく反応をしたほうである。

「水」の状態に近づくことで生き残り敵が斬られるプロセスを横から観察すると、そこに貫かれる合理性に、ただ驚愕するほかない。

この合理性は、いくら頭で理解しても、心身が「水」にならない限り、実現できない。

われわれ凡人は、武術を離れた日常生活レベル、人生レベルでも、日々無自覚に、自分の身を守ろうとして「水」の状態から遠ざかる反応をしてしまうがゆえに、結果として自分を追い詰めてしまっているのではないか。

そのような反省もさせられた。

2009年10月6日火曜日

「剣聖の剣・宮本武蔵 第三編・第四編」感想

高岡英夫先生が指導される「剣聖の剣・宮本武蔵 第三編・第四編」を受講した。

これは受講中に佐々木が勝手に感じたことだが、『五輪書』の有名な
《是も上手のすることはゆるゝゝとみえて、間のぬけざる所なり》
で言われる「間のぬけた」状態というのは、要は「水」の状態から離れてしまった状態なのだなと思った。

当たり前といえば当たり前だが。

2009年10月5日月曜日

言いわけ

たとえば遅刻したときの言いわけに「踏切がなかなか開かなくて」とか「信号がなかなか青にならなくて」などとほざいたら、そうとう顰蹙を買うだろう。

しかし自分が何か失敗をしでかしたときは、案外、「踏切がなかなか開かなかったから」に類するような言いわけをしてしまうものだ。

すべてに完璧に備えることなど不可能だが、少なくとも自分の中で優先度が高い事柄については、こういう類いの言いわけをせずに済むように備えたい。

2009年10月4日日曜日

テレビ

4月にくも膜下出血で倒れ、現在リハビリ病院に入院中の家族を、週に1回ほど見舞いに行く。

かろうじて会話ができるところまでは回復した。

ただ、まだかすれたような声しか出せず、言葉はとぎれとぎれで、十分に聞き取れない。

話の内容も、ときどきトンチンカンになる。

それが、発声が悪いせいなのか、本人の頭がボケているせいなのか、こちらに予備知識がないせいなのかわからず、もどかしい思いをする。

ちょっとした会話に、たいへんな集中力を要求される。

そういうとき、4人部屋の病室で、同室の人がつけっぱなしで眺めているテレビの音が、ものずごく耳障りに感じられる。

単に音がかぶって、声が聞き取りにくくなるだけではない。

あのような状況でテレビの音声を聞いていて改めて思ったのだが、テレビ番組というのは、視聴者が頭を使わないで済むように、ありとあらゆる工夫がほどこさている。

頭を使いたくなくてテレビを見ているときには、そのことが気にならない。

しかし精神を集中して人と会話しようとしているときには、あのテレビ番組の音声というのが、「自分の頭を使おうとする状態」そのものを破壊する暴力として迫ってくるのだ。

少なからぬ人々が、一日のかなりの時間を、テレビを見たりその音声を聞き流したりして過ごしていることが、なんだかとても恐ろしいことのように思えてきた。

2009年10月3日土曜日

退屈な人

ジャーナリストの立花隆さんは『「知」のソフトウェア』の中で次のように述べている。
《いい話を聞くための条件を一語で要約するなら、こいつは語るに足るやつだと相手に思わせることである。「語るに足るやつ」とは、話が通じる相手ということである。知的に話が通じるためには、十分な予備知識と理解力を持っているなと相手に思ってもらわなければならない。情的に話が通じるためには、自分の気持をよくわかっていてくれるなと思ってもらわなければならない。そして最も基本的なこととして、人間として信頼できるやつだと思ってもらわなければならない。
問われる者は問う者に敏感に反応する。撞木と鐘と同じである。鐘はたたき方で鳴り方がちがう。》
人と話していて、相手の話を退屈に感じたときは、退屈なのは自分にとっての相手ではなく、むしろ相手にとっての自分なのかもしれない。

自戒したい。

2009年10月2日金曜日

佐々木が親しみを感じる人

佐々木が親しみを感じるのは、次の三つの質問に対しておもしろい回答を返してくれる人である。

1.最近、何かいいことあった?

2.最近、おもしろい本を読んだ?

3.最近、自分が成長したな~と思えることはあった?

上記の質問に対する答えがつまらない人に対しては、友人として親しく付き合いたいという欲求が、あまり起こらない。

というか、多くの人に対しては、上記の質問をすること自体を躊躇してしまう。

2009年10月1日木曜日

ドストエフスキー『地下室の手記』を読んだ

日垣隆さんの古典読書会メーリングリストの課題で、ドストエフスキーの『地下室の手記』(安岡治子訳)を読んだ。


(1)はじめてのドストエフスキー

ドストエフスキーの小説は、今回はじめて読んだ。

何年か前に国内で大きな通り魔事件が起きたとき、ドストエフスキーの小説を引き合いに出して犯人の動機を分析するコメントを、新聞などで複数見た記憶がある。

ああいった事件の分析に古い文学作品が持ち出されることに、当時は違和感を覚えていた。

しかしこの作品を読んで、なるほどドストエフスキーという人は、孤独で鬱屈した男の頭の中を描き出すうえで、人類史に残る仕事を成し遂げた作家なのだということがわかった。


(2)フォトリーディングで胸が締めつけられる

フォトリーディングの効果については、佐々木はまだ半信半疑なところがある。

だがこの『地下室の手記』は、最初に文字を追わずザーッとページをめくっただけで、胸が締めつけられ、心拍数が上がってしまった。

これはこれまで体験したことがなかったことだ。



(3)苦渋を平明に告白される心苦しさ

安岡治子さんの翻訳は、とても平明で読みやすかった。

ただああいう苦渋に満ちた独白を、平明な表現で読まされると、なんだか妙な心苦しさを感じる。

たとえばあきらかにショックを受けて落ち込んでいる人が、それを悟られまいと無理矢理笑顔を作っているのを、はたで見るときのような心苦しさと言えばいいだろうか。



(4)改行で読みやすくするのもよしあし

「訳者あとがき」の最後に
《ドストエフスキーの文章は一段落が非常に長く、現代の読者には読みづらいため、適宜改行を施したことをお断りする》
とある。

たしかに読みやすくはなっている。

しかし「読みにくい」ということも含めて表現の一つと見なしたほうがいいのではないか、と思わないこともない。

この追加された改行もまた、上述した「苦渋を平明に告白される心苦しさ」の一因になっているのでは、とも思った。



(5)印象に残ったところ

次の二箇所が、特に印象に残った。


1.
《今日は、雪が降っている。》(第一部の終り、82ページ)
ここまで延々続いた内向と苦渋の世界に、突然清浄な気が降り注いだ感じが印象的。


2.
《俺は、女がわざと嘲笑という仮面を被っていたこと、これは羞恥心の強い、清純な心の持ち主が、心の中にずかずかとうるさく立ち入って来られたときに使う、ごく当たり前の最後の手なのだということが、わからなかった。》(第二部、197ページ)
佐々木自身も、他人、特に女性の屈折した感情表現を見抜くことに対して苦手意識があるので。
 
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