2009年9月30日水曜日

レヴィナス『困難な自由』を読んだ

今年の古典読破計画の第九弾として、エマニュエル・レヴィナスの『困難な自由―ユダヤ教についての試論』(内田樹訳)を読んだ。

著書やブログでいつも鋭く深い洞察を示されている内田さんが「師」と仰ぐほどの人物の著書で、しかも内田さんご自身による翻訳ということで、楽しみに読み始めたのだが、これがもうびっくりするぐらい、わからない。

ヨーロッパ・ユダヤ人である著者が、同じヨーロッパ・ユダヤ人に向けて説いている内容の中に、佐々木の問題意識とかみ合ってくるものが、ほとんどと言っていいくらい、見当たらない。

この本の中で最も印象に残ったのは、内田さんによる「訳者あとがき」の、特に次の部分だった。
《それから後の十年間、わたしはほとんど「写経」に近い気分でレヴィナス先生の著作を訳し続けた。〔‥‥〕
いま「写経」と書いたけれど、それがわたしのレヴィナスの先生の著作を訳しているときの気分にいちばん近い表現ではないかと思う。「写経」というきは、言葉を意味もわからず写しているうちに、その言葉が「受肉」してきて、写経生自身の知的なフレームワークを書き換えてしまう‥‥というダイナミックなプロセスである。レヴィナス先生の著作の翻訳がわたしにもたらしたのも、それに類比できるような事件である。〔‥‥〕
〔‥‥〕哲学史上の熟知されたエピソードのように「レヴィナスの思想は要するに‥‥である」というふうにたいへんすっきりした「説明」をしてくれる学者も(たくさん)いる。そういう人にとっては、レヴィナス先生は「要するに‥‥にすぎない」という程度の人に見えているのであろうし、そのような人に向かって「それは誤解です」と異論を立ててもしかたがない。著作を「解釈」する人間と、「写経」する人間は求めているものが違うのである。すらすらとレヴィナスを「解釈」できる人々は、自分がかくも賢明な人間であり、それゆえ「今の自分以外のもの」になる必要がないことを言祝いでおり、「写経」する人々は自分の愚かさと狭さに苦しみ、「今の自分ではないもの」になることを切望し、その手がかりを師の教えのうちに探している。》
佐々木にも、学生時代には「写経」に近い気分で格闘した書物が何冊かあった。

その中の特に心に響いた箇所は実際に何度も書き写したし、その作業は佐々木の精神や文体の大事な一部を作り上げた。

そういう体験を持てた幸福を、内田さんのこの一節は思い出させてくれた。

この『困難な自由』が、佐々木の知的フレームワークを書き換えるほどの影響を及ぼしはじめるときが、いつかは来るのかどうか。

これから折に触れてこの本を読み返し、時間をかけて検証していきたい。

2009年9月29日火曜日

「剣聖の剣・宮本武蔵 第一編・第二編」感想

先日、高岡英夫先生が指導される「剣聖の剣・宮本武蔵 第一編・第二編」を受講した。

以下は高岡先生の指導内容ではなく、受講中に佐々木が勝手に感じたことである。


(1)宮本武蔵肖像画の手について

宮本武蔵の有名な肖像画島田美術館所蔵)。

あの肖像画に描かれている武蔵の手は、妙にツルンとして子供っぽい。

顔の表情のいかつさと、まったくバランスが取れていない。

そのアンバランスさは、描き手の描写力の足りなさによるものではないかと、佐々木はなんとなく思っていた。

しかし、あのようにツルンとした感じに描かれるほかない手のありようが、現実にあり得ること、そしてそのような手のあり方が、いかに恐ろしい威力を発揮するかということが、今回「剣聖の剣・宮本武蔵」を受講してわかった。


(2)「水を本として」について

『五輪書』の「地之巻」に、「水を本(もと)として、心を水になる也。」というくだりがある。

このくだりに限らず、『五輪書』には、わけのわからない表現が次から次へと登場する。

そういったわけのわからなさは、もちろんこちら側の理解力のなさによる面も多いのだろうが、武蔵の言語表現力の足りなさによる面も多いのではないかと、佐々木はなんとなく思っていた。

しかし今回「剣聖の剣・宮本武蔵」を受講して、「水を本として」というのが、いかにすさまじく的を得た言語表現であるかということが、わかった。

「もとはといえば」という言い方があるように、「もと」を問題にしなければならないということ自体が、「もと」から離れていかざるをえないことと、「もと」から離れてはならないことの、両方を示唆している。

自分がある方向に移動・変化しているとき、その方向を、ある「もと」との相対関係において把握できているかどうかの違いは、大きい。

敵との闘いの場面に限らず、なにかことを成す場面において、自分の身心に生じる変化を、「もと」となるべき「水の状態」からの乖離として認識することの重要性。

この重要性をズバリ一言で表現すれば、「水を本として」以外にありえないのではないか。

そのことを自分の体を通して発見・理解できたような気がして、感動を覚えた。


(3)自分の足首の固さについて

以前から感じていることではあったが、今回特に、自分の足首の固さが上達のネックになっていることを感じた。

その固さを解消するための、簡単で毎日続けられる体操法も、今回教えていただけた。

毎日実行して、柔らかい足首を自分のものとしたい。

2009年9月28日月曜日

1分=60秒

1分=60秒
3分=180秒
5分=300秒
10分=600秒
30分=1800秒
60分=3600秒
わずか数秒でできることの多さを思い、時間を大切に使うため、こんなことを書いた紙を壁に貼って、ときどき眺めている。
《砂漠で一滴の水を惜しむように、一刻を惜しめ。一刻値千金の連続が、ブランド人への道だと思え。》
(トム・ピーターズ『ブランド人になれ!』(仁平和夫訳))

2009年9月27日日曜日

私は筆

心を込めて字を書くとき、身心の状態がよいと、地球の中心からペンや筆の軸を貫くセンター(身体意識のライン)が感じられることがある。

こういうときは、ペンや筆を下ろすたびに、ペン先や筆先が紙をとらえるだけでなく、胸鎖関節から鎖骨、上腕、前腕、手首、手、ペン・筆までを含めた全体が、地球の中心をとらえる感覚がある。

自分の体でセンターや地球の中心を捉える感覚を得られる頻度よりも、自分が持ったペンや筆でセンターや地球の中心を捉える感覚を得られる頻度のほうが、高い。

いっそ自分の体が筆になったことをイメージして、筆を操作するように自分の体を操作してみたらどうなるだろう、と試してみたら、これが意外に具合がよい。

身心の状態がよければ、ペンや筆でセンターや地球の中心を捉えるように、自分の体でセンターや地球の中心を捉えられる。

腰から下は筆の穂のようなものだと思えば、下半身もより柔らかく使える。

2009年9月26日土曜日

日垣隆さんの『折れそうな心の鍛え方』を読んだ

ジャーナリストの日垣隆さんの新著、『折れそうな心の鍛え方』を、メルマガ購読者特権で発売日前に入手して読んだ。

日垣さん自身の体験をベースに、ウツにならない、なってもそこから立ち直るためのノウハウを、50項目にまとめた本。

健康な精神状態をいかに維持するか? という問題には、佐々木も切実な関心を抱いていたから、自分でもいろいろと研究し、実践してきた。

おかげでこれまではなんとか、深刻なウツ状態を体験せずにきている。

しかしこの本で日垣さんが書いているように、自分ではどうにもならない原因で、将来自分が深刻なウツに陥ることだって、あるかもしれない。

そのような状態になったとき、試せる手段や方法は、多ければ多いほどいい。

日垣さんのこの本は、そういう手段や方法を、豊富に提供してくれる。

佐々木の場合、食事とか体操法とか、一人で解決する方法に頼りがちなところがある。

この本では、他人に協力してもらう方法や考え方も数多く紹介されているので、参考になる。

日垣さんがウツに陥っている苦しさをメルマガに書いたとき、読者から「自分とまったく同じだ」という反響メールが、毎日大量に寄せられたのだとか。

それらのメールに対して日垣さんは、「つらいのは自分だけじゃなかったんだ‥‥」と安堵することなどは微塵もなく、密かに
「ウツがうつるから、メールなんて送ってくるな。勝手になつかないでほしい」
「一緒にしないでくれ。俺の苦しみはあんたらのとは違う」
と思っていたそうだ。

このエピソードは、人は極度に辛い状況に陥ると「自分のケースは特殊」と思いがちで、それが自分のストレスをさらに増殖させる、という文脈で紹介されているものだ。

そのようなメールを送ってきた読者を、非難する文脈で紹介されているわけではない。

ただ、佐々木も当時日垣さんへの励ましめいたメールを送ろうかと思いかけつつ、なんとなくそういうことはすべきではないような気がして思いとどまった、その判断の正当性が評価されたようで嬉しかったし、そう判断した理由を言語化してもらえたことも、嬉しく感じた。

2009年9月25日金曜日

身体

お金も体力も使わずに楽しめる人生の喜び、となると、やはり究極は、自分の身体だろう。

もちろん身体には脳も含まれていて、精神は脳の機能だから、「自分の身体を楽しむ」といったときには、「自分の精神を楽しむ」ということも含まれる。

スズムシやマツムシの声は、聴覚が失われたらもう楽しめない。

空に浮かぶ雲も、視覚が失われたらもう楽しめない。

しかし生きている限り、身体が失われることはない。

自分の身体を楽しむ習慣を身につけることは、人生への絶望を遠ざけるうえで、きわめて有効な手段と言ってよい。

2009年9月24日木曜日

よく晴れた日、空に浮かぶ雲を眺める。

これもまた、お金も体力も使わずに楽しめる人生の喜びの一つ。

雲のすごいところは、あの美しい造形・質感・運動に、なんらの〈意図〉も〈実体〉も存在しないことだ。

言ってしまえば、空気の湿度・温度・密度の分布が変化しているだけ。

空の中の「雲がある」ところと「雲がない」ところの違いは、要は、その場所に存在する水分子が、液体または固体の状態で存在するか、気体の状態で存在するか、の違いでしかない。

雲という「もの」が存在するわけではないのだ。

空中の水分子のそれぞれが、気温や気圧の変化に応じてただ法則的に、気体、液体、ときには固体へと状態を変化させているだけなのに、そのことが空全体としては、あのような美しい雲の姿や運動になる。

その不思議を思いつつ眺めているだけで、飽きない。

2009年9月23日水曜日

スズムシ

これを楽しめるだけでも、人生は生きる価値がある。

心からそう思える何かを、身の回りの、お金も体力も要らないことの中に、いくつも見つけておく。

何があっても、人生に絶望しないためには、不可欠なことだろう。

秋の夜に聞く虫の声は、そんな楽しみの一つ。

そういえばときどき、「自分の葬式で流して欲しい曲」をリクエストしている人がいる。

佐々木の葬式には、スズムシ、マツムシ、コオロギなどの虫の声を、メドレーで流してもらえるといいなと思う。

2009年9月22日火曜日

文章苦行

文章を書くのがものすごくうまい人から、文章マニュアル製作の相談を受けたことがある。

その人とその人の部下とでは、何が違うと思うかと、そのときその人に聞いてみた。

いくつかあった答えの中に、「(文章が拙い人は文章を良くするために)苦しんでない」という言葉があった。

マニュアル製作の話は結局流れてしまったが、この答えは、記憶に鮮明に残った。

読み手がなめらかに読める文章だからといって、書き手がなめらかに書いているわけではない。

あたりまえのことなのだが、自分が文章を書くためにしているような苦労を、もしかすると他人はしてないのではないか、とつい思ってしまう。

あれだけなめらかな文章を書く人も、やっぱり文章を良くするために苦しんでいる。

自分は、むしろ苦しみ方が足りないと思うべきなのではないか。

そんな反省をさせられる言葉だった。

2009年9月21日月曜日

師への不義理

武の世界でも学の世界でも、師匠から師匠へと渡り歩くようなことをしてきたわけではない。

だが一人の師匠にひたすらつきっぱなしだったわけでもない。

つく師匠を変えたとき、それまでの師匠の元から佐々木が去ったときのやりかたは、決して義理にかなうものではなかった。

なぜ去るのかの説明も、それまでの指導への感謝も、別れの挨拶もなく、ただ自然消滅的に、師匠の元に通うのをやめてしまっただけだった。

弁解をさせてもらえば、いずれの師匠の元でも、佐々木は数多いる弟子の一人に過ぎず、師匠と特別親しく言葉を交わす関係にもなかった。

師匠を変えるということは、それまでの師匠に満足できないものがあるからにほかならず、それほど親しい関係にない師匠に向かってわざわざそんなことを説明に行くのは、気が重すぎたのである。

ただそういう不義理をしたことは、佐々木の心の中の小さなしこりとして残り続けている。

2009年9月20日日曜日

主語としての国民

ニュース番組でよく見るパターン。

キャスターが

「○○○に対し、国民はどのような期待(意見、感想)を持っているのでしょうか」

と問いかける。

続けて、ごく短い街頭インタビューが数本流れる。

ここで主語として登場する「国民」とは、おそらく「顕著な名声を持たない人々」という意味である。

あるいは、「その問題に対して、責任ある地位に就いていない(就く気もない)人々」という意味かもしれない。

「国民」が主語として扱われたとき、佐々木がイメージする像は、これらとは異なる。

イワシの群れが方向を変えるとき、必ず一匹か二匹か、群れ全体と違う方向に向かう個体がいる、という話を聞いたことがある。

群れが向かった方向にたとえばクジラが口を開けて待っていても、群れが全滅しないため、というのがこの現象の解釈の一つなのだとか。

説得力のある解釈だと思う。

仮にイワシと会話ができるとして、群れとは別の向きに向かったイワシに「なぜそっちに行ったのか?」と聞けば、あれこれと理由を付けて答えるかもしれない。「ついうっかりしていた」とか、「大勢に従わないのがオレのポリシーなんだ」とか。

だが、そのような個々のイワシの回答には、おそらくたいした意味はない。

個々のイワシの意思(仮にあったとして)とは関係なく、群れとして生き残るための仕組みがあって、その仕組みに従わされる形で、群れ全体の中の一部の個体が、「群れ全体とは別の方向に行こう」というという意思を持たされてしまうのだから。

このように、群れ全体が生き残るために、全体の中の一定割合の個体に特定の行動をとらせる仕組みに注目して、そこに「群れの意思」を見るという見方も、おそらく可能だろう。

人間も同じではないか。

たとえば選挙で、ある割合の国民はA党に投票し、ある割合の国民はB党に投票し、またある割合の国民は棄権する。

それぞれの国民にその理由を聞けば、あれこれと答えるかもしれないが、その回答におそらくたいした意味はない。

国民が全体として生き残るためには、ある割合の国民はある方向を良しとし、またある割合の国民は別の方向を良しとする、という風に考えが別れることが、おそらく必要なのだ。

国民の考えがそのように別れることで、国民全体としての生存の可能性が増大する仕組みに注目し、そこに「国民全体としての意思」を見るという見方も、おそらく可能だろう。

「国民」が主語として扱われたとき、佐々木がイメージするのは、このような、個々の国民の意思とは関係なく、国民の意思や行動が一定の割合に分割され、結果として全体としての生き残りの可能性が増大するシステムである。

2009年9月19日土曜日

ダイエット

ときどきふと思う。

ダイエットが産業になるような社会において、

果たして労働は義務なのだろうかと。

2009年9月18日金曜日

論理的な人

自分の考えの正しさを証明するために、論理を用いる人。

自分の考えの誤りを発見するために、論理を用いる人。

どちらも論理的な人だが、佐々木の目には、後者の人のほうがより知的に見える。

おっ。

140字以内でつぶやけた。

2009年9月17日木曜日

己に向かう指

Twitter。

読むのはおもしろい。

でも書くのはちょっと躊躇。

思い付いたことを思い付くままに、たった140字以内で書くなんて、ちょっと怖くてできない。

他人を指させば、三本の指は己を向く。

ある対象について思い浮かんだことを表現すれば、それは対象についての表現であると同時に、表現した人間自身についての表現でもある。

認識の根拠となる事実の正否如何、事実に対する判断の当否如何、表現の適否如何、そもそも表現すること自体の適否如何。そしてまた、同じ判断基準を己に向けた場合の己のありかた如何。

何かについて思い付いたことをひとこと書けば、たちまちその言葉から、「三本」どころか五本、六本の「指」が自分に向かってくる。

たかだか140字以内では、それらの「指」に対する釈明を、とても済ませられない。

2009年9月16日水曜日

吊られるセンター

高岡英夫先生が概念化された身体意識(体性感覚的意識)の一つ、センター(重力線とその延長線に沿って形成された直線状の身体意識)。そのセンターが結ぶ、地芯(地球の中心)と天芯(天の中心)。

(『センター・体軸・正中線』等参照)

最近、センター自体が、自分の体とは独立に、地芯に乗ったり天芯から吊られたりする、という意識の持ち方を試している。

自分の体のことは意識せずに、身体意識が身体意識に乗ったり吊られたり、という意識を持つわけだが、この意識の持ち方で、自分の体のあり方が、相当いい状態になる感覚がある。

自分が地芯に乗ろう、自分が天芯に吊られようとしているわけではないのに、結果として、自分の体が地芯に乗ったり、天芯に吊られたりする感覚だ。

それがおもしろくてハマっている。

2009年9月15日火曜日

核武装による平和と繁栄

「現在の地球上では、すべての大国が核武装しているからこそ、大国同士の戦争が起こらずに済んでいるのであり、仮に地球上から核兵器を廃絶すれば、現在の我々が享受しているような平和と繁栄は、失われざるを得ない」という考え方がある。

佐々木もこの考えに同意する。

だがだからといって、核兵器の廃絶を願う人々を軽蔑することが、正しい態度と言えるのだろうか。

佐々木はそうは思わない。

核兵器によって守られている平和と繁栄は、核兵器によって破壊される。

その可能性は、常に存在している。

現実主義的な人々は、その可能性が現実になることは絶対にない、と自らに信じさせている。

核兵器で攻撃すれば核兵器で反撃される状況で、核兵器を使用する国が現れるわけはない、というわけだ。

なるほど理屈は合っている。

だが歴史は、理屈では起こり得ないはずのことが起こることの繰り返しだった。

核戦争の可能性が現実になることを防いでいるのは、おそらくこのような理屈だけではない。

核兵器の廃絶を願う人々が一定数以上存在すること自体も、核戦争の可能性が現実になることを防ぐ力になっているのではないか。

大国同士が核兵器で武装してさえいれば核戦争は起きないのだと信じ込んでいる人々が一定の数を上回ったとき、つまりは、核兵器の廃絶を願う人々が一定の数を下回ったとき。

そのときこそ、核戦争の可能性が現実になるときであるような気が、佐々木はしている。

2009年9月14日月曜日

微差

〈微差〉の積み重ねだけが〈大差〉を生む。

日々できるのは、〈微差〉をつくることだけ。

今日はいくつの〈微差〉をつくれるだろう。

2009年9月13日日曜日

水あか

3年前に買った洗濯機。

とつぜん大量の水あかが出るようになり、洗濯物に付着。

もう買い替えどきなのか?

と思い掛けつつも、目の細かい大きめの洗濯ネットを何枚か買ってきて、全部の洗濯物をネットに入れて洗濯することでとりあえず対処。

しばらくそうやっていたら、いつのまにか、水あかはほとんど出なくなった。

洗濯機、このまままだしばらくは使えそうだ。

たまりにたまったあかが浮き出てきて、もう寿命かと思わせつつも、あかが出るに任せておくと、やがてあかを出しきって、また元のように働き出す。

人や組織もそうなのかも。

2009年9月12日土曜日

土付きゴボウ

ゴボウはたいてい、土付きのものと、土を洗い落としたものの、2種類が売られている。

土を洗い落とすのがめんどうそうで、値段もたいして変わらないので、佐々木は土を洗い落としたゴボウばかり買っていた。

ところがある日、気まぐれで土付きのゴボウを買ってみたところ、土付きのほうが、食べたとき体に滋味が染み渡る感じがする。

気のせいかもしれないが。

土を洗い落とすのも、やってみればそれほどめんどうな作業ではない。

それで最近は、もっぱら土付きのほうを買っている。

2009年9月11日金曜日

詐欺師の肖像

プロフィール写真の撮り方を解説した本を、一冊買って読んでみた。

筆者が紹介する方法で撮られた写真と、ごく平凡に撮られた写真。

二つ並べて、「どうですか? 私の方法で撮った写真のほうが、ずっと魅力や信頼感が増したでしょう?」みたいな構成だったのだが、佐々木の印象は逆だった。

ごく平凡に撮られたプロフィール写真のほうが、ずっと信頼できる人物に見えた。

筆者が紹介する方法で撮られた写真からは、言葉は悪いが、「なんだか詐欺師みたい」という印象さえ受けた。

この本の版元は、かなり固い内容の本も出している、比較的有名な出版社だ。

筆者自身も、プロフィール写真の専門家として活躍しているようだ。

ということは、少なからぬ人々が、「プロフィール写真から感じる信頼性」について、この本の筆者とほぼ同じような感性を持っているらしい。

この点についての佐々木の感性は、どちらかと言えば少数派に属するようだ。

ただ、筆者の感性に対して佐々木が感じた違和感の原因が、佐々木の感性のみにあるかと言えば、そうでもないような気がする。

この本が出版されたのはまだ景気が比較的良かったころで、佐々木がこの本を読んだのは、景気がかなり落ち込んでからだ。

「世間から信頼される人物像」のあり方も、当然景気の影響を受けるに違いない。

それから筆者は、アメリカでプロフィール写真の勉強をしてきた人物だ。

たとえ日本国内の実態に合わなくても、アメリカ的であることに価値があると見なされる日本の精神風土は、いまだ健在である。

そのあたりも、佐々木が感じた違和感の原因になっているように思う。

2009年9月10日木曜日

書くこと・考えること

「書くことは考えること」と言われる。

人の考えは書くことで深まり、鮮明になっていく。

これは書くことの積極面だ。

当然、その裏には消極面もある。

書くことに習熟することは、ある面、自分の認識の内容を、文字言語の形式によって制約していくことでもある。

文字言語で表現される「自分の認識」と、自分の内面で流動している認識との、不一致。

この不一致に対する許容度をゼロにするならば、文字言語による表現などなしえない。

したがって書くことによる認識の発展は、起こりえない。

この不一致に対する許容度を無限大にするならば、文字言語による表現は、中身のない作文にしかならない。

したがってやはり、書くことによる認識の発展は、起こりえない。

「書くこと」を「考えること」につなげていくためには、この「書いたこと」と「考えていたこと」の不一致に対する許容度の、自覚的なコントロールが必要であるように思う。

2009年9月9日水曜日

天芯から吊られるスォード

高岡英夫先生が『センター・体軸・正中線』で紹介されている「ジンブレイド」のレーニング法を、左右1回ずつ行うのを、朝の日課にしている。

これは高岡先生から習ったわけではないのだが、最近、ジンブレイド自体が天芯から吊られている意識を持つことを試みて、これがなかなか具合がよい。

2009年9月8日火曜日

火事場のバカゆるみ

先日、武術の昇段審査を受けた。

審査前の短い時間には、いやがおうにも集中力が高まる。

その高まった集中力で取り組んだゆる体操やリアストレッチによって、自分で期待していた以上のゆるみや、センターや、天芯や、肩包面を体現することができた。

手にした武器が、自分でも意外なほど滑らかに、適切な軌道を描いて飛んでいく感覚があった。

自分の体も武器も、天から吊られた状態で。

いわゆる「火事場のバカぢから」は、「火事場のバカゆるみ」でもあることが、よくわかった。

2009年9月7日月曜日

フォーム

ゆる体操の指導員が足りないそうである。

日本ゆる協会には「指導員を派遣してほしい」という要望が全国から寄せられているのだが、ゆる体操指導員試験の難関を突破する人が、なかなか現れないのだとか。

ゆる体操に取り組んでいると、どきどき、「指導員を目指しませんか?」という案内が来る。

だが佐々木は、自分がゆる体操の指導員を目指す気には、とてもなれない。

肉体的な面でも精神的な面でも、自分のゆるみ方が他人の手本になるとは、とうてい思えないからだ。

「理想的にゆるんだ人間ならするであろう動きや発言」というものを、フォームとして身に付けて、それらを演じることで指導者の役割を果たすことも、あるいは可能なのかもしれない。

だがその本質的なバカバカしさに、自分の感情はきっと耐えられないと思う。

この種のバカバカしさは、ある意味あらゆる仕事に必然的に伴うものだが、それでも人が仕事に立ち向かうのは、そのようなバカバカしさを乗り越えさせるだけの事情や動機が、仕事に含まれているからだ。

ゆる体操を他人に指導するという仕事の中に、佐々木はまだ、そのような事情や動機を見いだすことができずにいる。

2009年9月6日日曜日

クジャクの羽産業

市場に溢れる商品やサービスの少なからぬ部分は、「自分を立派に見せたい」という欲求を満たす目的でのみ供給されている。

これらの商品やサービスがその利用者に果たす役割は、クジャクの雄にその羽(上尾筒)が果たす役割と同じである。

だからこれらの商品やサービスを供給する業界を、佐々木はひそかに「クジャクの羽産業」と呼んでいる。

2009年9月5日土曜日

録音

仕事でよく、インタビューをする。

インタビューは、ICレコーダーで録音する。

あとで聞き返してみると、相手が言ったことを、インタビュー時には正反対に理解していたことがときどきあって、驚く。

日常の会話では、録音して後で聞き返すなどということは、まずない。

気づかないうちに、他人の話を正反対に理解していることも、きっとあるのだと思う。

自分が話したことも、その一部は、正反対に理解されているに違いない。

2009年9月4日金曜日

手根骨

手首の中には、小さな8個の骨がある(舟状骨、月状骨、三角骨、豆状骨、大菱形骨、小菱形骨、有頭骨、有鈎骨)。

これらを総称して、手根骨という。

最近、これらの手根骨をバラバラにゆるめることが、全身に及ぼす影響の大きさに、ハマっている。

手首が固まっているのは、手首を固める形で、全身の運動が構造化されているからだ。

手首をゆるめようとすれば、全身をゆるめざるをえなくなるだけではない。

手首をゆるめて使う形で、全身の運動を再構成せざるをえなくなる。

この再構成プロセスは、なかなか劇的である(少なくとも主観的には)。

これまで背骨を分化して使う努力を熱心にしてきたわりには、いまひとつ具体的な運動能力の向上に結び付かなかった。

固まった手首が(=手首を固めて使う全身運動構造が)、背骨同士をゆるめて使う運動を阻害していたのが、その原因の一つであったことに気づかされる。

2009年9月3日木曜日

湯種る

「ゆだねる」に、頭の中で「湯種る」という漢字を当てるのは、佐々木が好きなリフレーミングの一つ。

「湯」は、温かさ。

温かさは、安心感。

自分を何かに「ゆだねる」怖さを、やわらげてくれる。

「種」は、創造の源泉。

希望の象徴。

恐怖を克服して「ゆだねる」ことで生まれてくる何かへの期待を、感じさせてくれる。

高岡英夫先生の教えに、「ゆるゆるにゆるみきって、地芯から立ち上がるセンターに身を任せる」というのがあるのか、これが佐々木にはできない。

「ゆだねる」→「湯種る」というリフレーミングは、地芯から立ち上がるセンターに身を任せられない自分の弱点の克服にも、力を発揮してくれるような気がしている。

2009年9月2日水曜日

ナイフの研磨と使用

花伝書(風姿花伝)』(川瀬一馬校注・現代語訳)を読むまでは、能の稽古では、いくつもある脚本や踊りを繰り返し演じることが、その中心を占めているものとばかり思っていた。

ところが「花伝書」では、「物学(ものまね)条々(じょうじょう)」という、様々な人物類型の模写について論じた章が、具体的な稽古論のほぼすべてを占めている。

個別の曲や舞に関する注意は、ほぼ皆無だったと思う。

しかも“ものまね”と言っても、現代のものまね芸人がやるようなものまねではなく、きちんと形が決まったものだったらしい。

「物学条々」の「唐事」という節の冒頭に、次のように書かれている。
《これは、およそ格別のことなれば、さだめて稽古すべき形木もなし。》〔「形木」=手本とか型〕
「唐人のものまねの稽古には決まった手本や型がない」とわざわざ述べられているということは、「他のものまねの稽古には決まった手本や型がある」ということだろう。

南郷継正先生の『武道の復権』に、次のような箇所がある。
《[‥‥]ナイフを研ぐときに砥石にナイフを当てるのを適当にしてナイフを研ぎますか。もしそうであるとすれば、そのナイフは恐らく絶対に切れるナイフにはならないでしょう。良く切れるナイフにするには、砥石にピタリとナイフを当てて、その角度が変化しないようにして研がなければならないのです。しかしながら、そのナイフを使うときは、自在に切ってよいのです。この違いが分かりますか。》
(「空手の本質と指導の論理」)
恵まれた“ナイフ”を持った人は、“ナイフを研ぐ”プロセスを持たなくても、“ナイフを使う”ことができてしまう。ところが“ナイフの鋭さ”は、“ナイフ”を使ってるうちにいつか必ず失われる。“ナイフを研ぐ”プロセスを持たずに“ナイフを使う”ことができてしまった人には、“ナイフを研ぐ”能力が身に付いていない。そのときになってあわてても、失われてしまった“ナイフの鋭さ”は、元には戻らない。

『武道の復権』と同様、「花伝書」の少なからぬ箇所が、そのような戒めを説いているように、佐々木には思えた。

南郷先生が武道の世界で創出した基本論、上達論、勝負論などが、「風姿花伝」のさまざまな教えに、いちいち当てはまって見えた。

2009年9月1日火曜日

『風姿花伝』を読んだ

今年の古典読破計画の第八弾として、世阿弥の『花伝書(風姿花伝)』(川瀬一馬校注・現代語訳)を読んだ。

次の文句が、心に残った。
《去年(こぞ)盛りあらば、今年の花なかるべきことを知るべし。》
(「第七 別紙口伝」)
この文句が心に残ったのは、今の自分が、順境とは言えない境遇にあるからだろう。

今の自分は、とても花の盛りとは言えない。

しかし今年盛りではないからこそ、来年以降の盛りに希望を持てるのではないか。

そんなふうに勇気づけられる文句だった。
 
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