2009年8月31日月曜日

進化

進化には、生存環境が安定することによって起こる進化と、生存環境が脅かされることによって起こる進化の、二つがあるように思う。

個人も組織も民族も、生存環境が安定したときには安定したときなりの、生存環境が脅かされたときには脅かされたときなりの、進化を目指せばよいのではないか。

2009年8月30日日曜日

みそ汁

民宿などに大勢で泊まると、夕食や朝食のとき、他のおかずは先に並べられて冷めてしまっていても、みそ汁だけは、熱い状態で直前に並べられることが多い。

「みそ汁が冷めない距離」なんていう言い方もある。

熱さというのは、みそ汁という料理の一部なのだ。

特に朝の熱いみそ汁には、寝ぼけた脳を目覚めさせる力もある。

だから佐々木は、みそ汁は熱いうちに飲みきってしまうのが、常識だと思っていた。

ところが他の人と同じ宿に泊まって、同じ食卓を囲んでみると、これが少しも常識ではないことがわかる。

少なからぬ人々が、せっかく熱いまま出されたみそ汁が冷めるに任せて、生ぬるくなったみそ汁を飲んでいる。

佐々木には信じられないことだが。

2009年8月29日土曜日

我流

武術の稽古を、優れた師範の直々の指導を受けながら、かつ仲間からの厳しいチェックを受けながら続けていると、自分の中に定着している体の動きや脳のプログラムが、いかに理想からかけ離れたものであるか、理想に近づくのがいかに難しいかを、日々痛感させられる。

我流で身に付けているもののぶざまさ。

我流を脱することの難しさ。

これはきっと武術に限らない話。

2009年8月28日金曜日

イケイケ感

この前なんとなくテレビをつけたら、政治をテーマにしたらしいトーク番組で、何かの専門家らしい女性が、しきりに「イケイケ感が、イケイケ感が……」と繰り返していた。

表情や口調の真剣さと、「イケイケ感」という言葉の軽さのギャップに違和感を覚え、よく耳を澄ますと「イケイケ感が」じゃなくて「医系技官が」と言っていたのだった。

佐々木はこの手の駄洒落ネタに遭遇すると、同じことを考えている人がいないか、Googleで検索してみることを習慣にしている。

佐々木ごときが思いつく駄洒落など、ほぼ100%、既に他の人が思いついてネットのどこかに書いているのだが、「イケイケ感 医系技官」で検索しても、クリーンヒットはなかった。

なのでここに書き付けておくことにする。

医系技官のイケイケ感。

2009年8月27日木曜日

あるとともにない

飛ぶ矢は止まっている。

ゼノンが提出したこの有名なパラドックスについて、ヘーゲルはたしか、次のようなことを述べている。

このパラドックスは、運動の本質を明かすものである。

あるものが運動するのは、それがある瞬間にはここにあり、次の瞬間にはそこにあるためだけではなく、ある瞬間にここにあると同時に、ここにないためである。

佐々木にとって、これは理屈はわかっても腑に落ちない説明の典型だった。

ところが最近は、この「あるものが運動するのは、それがある瞬間にここにあると同時に、ここにないためである」という説明が、「そうだよなぁ、ほんとにそうだよなぁ」と、深い実感を伴って理解できるようになってきた。

それどころか、「運動って、それ以外あり得ないよなぁ」とまで思うようになった。

たとえば佐々木は、日頃できるだけ心を明るく保つように心掛けてはいるものの、そういつもいつも、明るい気持ちでいられるわけでもない。

ときには、「俺みたいな人間に、果たして生きていく資格があるんだろうか」みたいな思いにとらわれることもある。

こういうときというのは、「生きていく資格がある」のか、それとも「ない」のか、「あれかこれか」という、いわば形而上学的思考に陥っているのである。

「生きていく資格があるとともにない」というのが、自分を含むあらゆる人間の現実なのだとわかると、とたんに視野が開けてくる。

「生きていく資格があるとともにない」という矛盾が、社会力による個人の変化の本質ではないだろうか。

この矛盾があるからこそ、個人の社会性ある変化が生じるように思う。

ちょうど、「空間の一点に存在するとともに存在しない」という矛盾があるからこそ、飛ぶ矢が宙を飛んでいくように。

「自分には生きていく資格があるとともにない」という矛盾を認識し、ゼノンの飛ぶ矢をイメージするとき、それこそ矢のごとき勢いで、止めようもなく進歩していく自分が思い浮かぶ。

「自分には生きていく資格があるのか?」と思い悩むのは、あたかも飛ぶ矢自身が、「飛ぶ矢は静止している(物体は空間の一点に存在するかしないかのどちらかだから)」と言われて、「自分は空間の一点に存在しているのか?いないのか?」と悩んだ挙げ句、本当に静止してしまうようなものなのだ。

2009年8月26日水曜日

地球外の水

地球以外の太陽系惑星にも水が存在すると考える人と、そうは考えない人がいる。

佐々木は、地球以外の太陽系惑星には、水は存在しないと思う。

地球以外の太陽系惑星にも水が存在すると考える人は、極端なことを言うと、H2O分子が1個でも存在していれば、水が存在することになる、と考えているのではないか。

分子だろうが原子だろうが、物の状態は絶えず変化していくから、地球以外の太陽系惑星でも、分子レベルでH2Oの状態が現出することだって、あるかもしれない。

でもそういうのは、「水が存在する」とは言わないと思う。

これまた、専門家には笑われる考え方かもしれないけど。

2009年8月25日火曜日

すぐ役に立つ本

なかなか役に立たない本は、役に立ちはじめると、いつまでも役に立つ。

すぐ役に立つ本は、一瞬役に立って、すぐ役に立たなくなる。

2009年8月24日月曜日

依存症

人間のさまざまな活動と、本人の生存に対するそれらの関係を考えてみると、人間の活動や状態の少なからぬ部分が、「○○依存症」の「○○」に当てはまってしまうような気がする。

それは「安定」とか「変化」とかでさえも。

2009年8月23日日曜日

『武道講義』

武道学者の南郷継正先生の『武道講義 第一巻 武道と認識の理論Ⅰ』をはじめて手にしたのは、佐々木がまだ20歳のとき。

一読しての感想は、「南郷先生は、いったいどうして、こんなものを書いてしまったのだろう」だった。

タイトルからは、武道理論そのものが、体系的に展開されているものとばかり想像していたのに、その内容は、南郷先生自身が弁証法を学ぶのにどれほど苦労されたかとか、世の中の学者と呼ばれる人々の実力や志がいかに低いかとか、大志や誇りや情熱が人生にいかに重要であるかとか、そんな話ばかり。

しかもあきれるほど、同じ話の繰り返し。

武道講義 第二巻 武道と認識の理論Ⅱ』が発売されて、ようやく武道理論が展開されるのかと思いきや、またも同じような話。

それでもこれら『武道講義』シリーズを投げ捨てることなく、繰り返し繰り返し読み込んだのは、『武道の理論』、『武道の復権』、『武道とは何か』、『武道への道』、『武道修行の道』で展開された南郷先生の理論の有効性を、合気道の稽古を通じて、自分の体と頭で、確信できていたから。

19歳ではじめて南郷先生の著書、『武道修行の道』を読んだときは、失礼ながらその大言壮語ぶり、唯我独尊ぶりに、あきれ返ったものだった。

それでもその理論には、信じて実行せずにはいられないだけの、明確さと思想性の高さがあった。

約1年、木刀の素振りで南郷理論を実践し、理論どおりの成果が得られたときは、南郷理論の有効性を確信できただけでなく、大きく科学というものの意義を、頭ではなく体で実感することができた。

「物事を理解するとはどういうことなのか」を、はじめて理解することができたような気がした。

そのような経緯があっただけに、一読時には執筆の意図さえ理解できなかった『武道講義』も、理解できるまで読み込んでやろうという気に、自然になったのだ。

『武道講義』の意義にはじめて納得がいったときには、『武道講義』を既に数十回は読み返していただろうか。

その瞬間のことは、今でも鮮明に覚えている。

自分が通っていた大学の、専門課程の80人ほどが入る教室の、真ん中の前から5列目あたりの席。

授業が始まる前に『武道講義 第二巻』を読み返していて、突然、わかった。

「ああそうか、『武道講義』は“講義”なのか。南郷先生は、『武道講義』の読者をご自身の弟子と見立てて、ご自身が獲得した学問的実力を、読者にも本気で獲得させようとしているのか。だからこういう内容、こういう展開、こういう語り口なのか」と。

これだけかかって、ようやくその意義を理解できた『武道講義』だけに、『武道講義』を他人に勧めるなどということは、佐々木にはとてもできない。

2009年8月22日土曜日

コミュニケーション能力

「優れたコミュニケーション技術を身につけている」ということと、「コミュニケーション能力に優れている」ということは、別のことだ。

佐々木のコミュニケーション能力は低い。

コミュニケーション技術を学んで身につけることで、コミュニケーション能力の低さを、かろうじて補っている。

以前書いたが、佐々木は他人の感情や思考を知るために、「自分の表情をその人の表情に合致させる」という手法を、ときどき使う。

この手法は、『盗まれた手紙』(エドガー・アラン・ポー)の次の一節から学んだ。
《「〔‥‥〕僕は八歳ばかりの子供を知っていたが、この子は『丁か半か』という勝負で言い当てるのがうまくて、みんなに褒められていた。この勝負は簡単なもので、はじき石でやるのだ。一人がこの石を手にいくつか持っていて、相手にその数が丁か半かときく。もし当てたら、当てたほうが一つ取るし、違ったら、一つ取られるのだ。いま言ったその子供は学校じゅうのはじき石をみんな取ってしまったものだよ。むろん、彼は当てる法則といったようなものを持っていたのだ。というのは、ただ相手のはしっこさを観察して、その程度をはかるということなんだ。〔‥‥〕僕はこの子供に、彼の成功の基であるその〔自分の知力と相手の知力の〕完全な合致をどんな手段でやるのかと尋ねたら、こう答えた。『僕は、誰かがどれくらい賢いか、どれくらい間抜けか、どれくらい善い人か、どれくらい悪い人か、またその時のその人の考えがどんなものか、というようなことを知りたいと思うときには、自分の顔の表情をできるだけ正確にその人の表情と同じようにします。それから、その表情と釣り合うように、または一致するようにして、自分の心や胸に起ってくる考えや気持を知ろうとして待っているんです』というのさ。この生徒のこの答えは、ロシュフコーや、ラ・ブリュイエールや、マキアヴェリや、カンパネラのものとされている、あの、あらゆる贋の深遠さよりも深いものだよ」》
この手法でわかるのは、基本的に、「過去のある瞬間におけるその人の認識」や、「その人の認識の一般的な傾向」だ。

自分と向かい合っている間の、その人の認識の、瞬間瞬間における変化ではない。

人と向かい合っている間、相手の表情をずっと真似し続けるなどということは、できないからだ。

つまり、「自分の表情をその人の表情に合致させる」という手法で知ることができる他人の感情や思考は、いわば静止画的、写真的なのだ。

これに対して、佐々木から見てコミュニケーション能力が高い人は、現に自分と向かい合っている相手の感情や思考の瞬間瞬間における変化を、佐々木がこの手法を用いてようやくわかる以上のレベルで、察知できているように見える。

こうした人たちは、いわば動画的、ライブ映像的に、他人の感情や思考の変化を認識できるのだろう。

そのうえ、そのようにして把握した感情や思考の瞬間瞬間における変化を、よりポジティブな方向に変化させられるようなアクション・リアクションを、ほとんど無意識のうちに、瞬間瞬間に行うことができる。

そのような能力を持った人が、佐々木から見てコミュニケーション能力に優れた人だ。

このようなコミニュケーション能力を発揮するうえで、論理とか礼儀とかは、むしろ障害になることが多い。

コミュニケーション技術と呼ばれる多くの技術は、こうした論理や礼儀に属している。

つまりコミュニケーション技術は、しばしばコミュニケーション能力の開発と発揮を妨げる、と言っていいように思う。

2009年8月21日金曜日

わざと迷う

武道学者の南郷継正先生の著書を読み込むのを、朝の日課にしている。

ここ最近読んでるのは、『武道講義 第四巻 武道と弁証法の理論』。

同書に、出隆(いで たかし)の『哲学以前』から、次のくだりが引用されている。
《 この話は『哲学とは何か』の考察に始まらなねばならぬ。それだけは承知している。
 しかし、ただそれだけでは最早一歩も身動きができない。そこには不審がある。疑惑がある。迷いがある。淋しさがある、自問の責苦がある、躊躇の足枷がある、それは悪夢の沼を渉らんと焦慮する者のごときである。如何にするも次の一歩が踏み出せない。-淋しく迷った挙句の果に、心は振出しの変更を求める。
 しかし何から始むべきか。何が初めであるか。初めは何であるか。『初め』とは何か。『何』とは何か。……
 初めに『道』があって、これをたどって知らず識らずここまで来たものらしい、がしかし今はその道も霧の彼方に包まれたのか。初めに『行い』があって、それでここまでやって来たらしいが、今はそれさえ覚えていない。よほどの道をたどって来たらしい。色々の行いをやって来たらしい。》
上記の出隆の言葉について、南郷先生は次のように述べている。
《〔‥‥〕哲学者出 隆は、なにから始むべきか、を問い、なにが「初め」であるかと問い、「初め」とはなにかを問うて、「何」とはなにかを問うているばかりか、自らの力でその「答え」すらだしきっているのである。曰く、「初めに『道』があって、これをたどって知らず識らずここまで来た」が、「今はその道も霧の彼方に包まれ」てしまっている、また「初めに『行い』があって、それでここまでやって来た」し、それも「よほどの道をたどって来た」ときちんとわかっているのである。つまり、答えはでているのであり、自らのだしたその答えのごとくをしっかりと彼、出 隆はなせばよかったのである。
 しかるに彼、哲学者出 隆は、自ら哲学とはなにかを問い、そして哲学のたどってきた道のいかほどかを問いながら、自らの答えが迷う方向の道を自らがわざと錯覚しているのである。》
「自らの答えが迷う方向の道を自らがわざと錯覚している」という表現に、ドキリとさせられた。

それは自分のことではないかと。

間違いや失敗は、繰り返していると癖になる。

客観的には、わざと間違えている、わざと失敗している、としかいいようのない状態になる。

自分ではそのつもりがないのに。

認識においては対象の本質に、行動においては意図した目標に、もっとズバッと、一直線に踏み込む癖をつけなければ、と反省。

2009年8月20日木曜日

本を廃棄

木曜日、資源ゴミの日。

もう捨ててもいいだろう、という本を廃棄。

要点はもう自分の中に吸収した、という本は、ときどきこうやって処分していかないと。

本を読むのは好き。

でも本に囲まれるのは嫌。

本を保管する空間だって、タダじゃないんだし。

2009年8月19日水曜日

紅白

ミュージシャンの平原綾香が、
紅白歌合戦で、いろいろな人たちが、いろいろなオーラを出しているのを目の当たりにしたら、“あぁ、私は私のままでいいんだ”という確信が持てた
というような意味のことを、どこかで述べていた。

紅白歌合戦に出演するほどの歌手であれば、それまでも自分だけの才能を存分に発揮し、発揮した才能を国民的レベルで賞賛されてきたはず。

それでもなお、突き抜けた才能、自分だけの才能を発揮することへの確信が得られなかった。

同じように突き抜けた才能を持つ人々が、それぞれの突き抜けた才能を発揮している場に居合わせて、はじめてそのような確信を持つに至れた。

そのことが、佐々木の心に残った。

2009年8月18日火曜日

環境

愚かでも生きていける環境を与えられると、人は実際に愚かになる。

というと、ちょっと乱暴すぎるかもしれない。

けど、それも一面の真理と思う。

自分の周りの人々の愚かさに接しても。

自分自身の愚かさを突きつけられても。

だから、自分や他人の愚かさにうんざりしかけたときは、それほどの愚かさをもってしても生きることが可能だった環境のすばらしさに、感動すればよいのではないかと思う。

2009年8月17日月曜日

問いたくない問い

認識したくない現実、というのは誰にでもあると思う。

人間の認識は、自分が発した問いに対して、自分が得た答えだ。

自分が認識したくない現実の裏には、自分が問いたくない問いがある。

だから、「自分が問いたくない問いは何か?」という問いは、自分の認識の壁を突き崩してくれる。

2009年8月16日日曜日

「相手」に焦点を当てる

ユニカルイー・ウーマンの社長である佐々木かをりさんが、最近のブログで、仕事で長期的に安定した成果を出すコツは、「自分」ではなく「相手」に焦点を当てることだと述べられている。
《 仕事ができる人というのは、安定しています。
 長期的に、常に、安定した成果を出す。すごく前向きになったり、突然落ち込んだりといった気分のムラもありません。だから私は、そんな心の安定を追求しています。
 もちろん、怒ったり、笑ったり、いろいろしますが、仕事のパフォーマンスは、まあ、一定している方ではないか、と思っています。怒っても短時間。仮に、気持ちの戻りがうまくいかないと自分でわかるときは、安定する方法を知っているので、自らを短時間で戻すために、できることをします。だから、気持ちが何日も落ち込むことは、ないのです。
 仕事をしているうちに身についた技術かもしれませんが、でも、高校生、大学生のアルバイトのときだって、安定していたように思います。
 秘密は何だかわかりますか。「相手」に焦点を当てること。相手のことを考えていると、心は安定するんです。「自分」のことを心配していると、気持ちが上がったり、さがったりする。たぶん私は10代のころから、あまり、自分のことを心配してこなかったんでしょう。何とかなる、と思っていることが、心の安定をつくっているのかもしれません。
 もし、気分が落ち込んでいる人がいたら、もう、自分のことを心配しないで、相手のこと、成果のことを考えたらどうでしょう。》
「相手」のことではなく「自分」のことを心配しているから、気持ちが上がったり下がったりする。

身につまされる指摘だ。

もっと「相手」のことに焦点を当てて、ものごとを考えようと思った。

2009年8月15日土曜日

幸せ

幸せそうにしている人には、いろいろな人が近づいてくる。

もちろん、相手の幸せを祝福したい、自分も幸せの輪に加わりたい、という人も近づいてくるけど、世の中そういう人ばかりではない。

なかには、自分より相手が幸せでいる不公平を呪いたい、相手を幸せから引きずり落としたい、という人だっている。

佐々木自身、他人の幸せを目にして起こる感情は、決してポジティブなものばかりではない。

だから、たとえ「幸せだ~~~~~っ」と絶叫したくなるほど幸せなことがあっても、佐々木はそのことを、公の場では控えめにしか表現しない。

2009年8月14日金曜日

全体と部分

業務マニュアルの冒頭には、業務の全体像が、示されなければならない。

全体像は、部分像をいくら集積しても、浮かび上がってはこない。

全体を見ているときは部分が見えず、部分を見ているときは全体が見えない。

ちょうど、コインの表を見ているときはコインの裏が見えず、コインの裏を見ているときはコインの表が見えないように。

コインを何度も裏返して見ているうちに、コインの表と裏の合成像が浮かび上がってくるように、全体を見たり、部分を見たりを繰り返していくうちに、全体と部分の合成像が浮かび上がってくる。

全体像を言語化して伝えるためには、全体と部分の合成像が浮かび上がっただけでは、まだ足りない。

全体と部分の、構造像を浮かび上がらせなければならない。

構造像は、自分の頭の中での仮説構築と検証の繰り返しによって、浮かび上がらせるほかない。

2009年8月13日木曜日

針の穴、針の先

クライアントへのインタビューで都内に出た帰り、急に高いところからの景色を眺めたくなり、都庁の展望室へ。

202メートルの高さから見下ろすと、地上を歩く人々が、針の穴ほどの大きさにしか見えない。

人々の頭となると、針の穴どころか、針の先ほどの大きさだ。

この高層ビルを設計した人の脳の大きさも、今地上に見える人々の脳の大きさとまったく同じであることを、思わずにはいられなくなる。

人間の脳は、自分自身を針の先の大きさに見下ろすほど巨大な建築物を、構想し、現実化してしまうものなのだ。

すごい。

すごすぎる。



2009年8月12日水曜日

ポジティブ

マーカス・バッキンガムとドナルド・O・クリフトンの共著『さあ、才能(じぶん)に目覚めよう』(田口俊樹訳)に、「34の強み」という章がある。

そこでは、「学習欲」や「共感性」など「強みになりうる34の資質」のそれぞれについて、その資質を持つ人の特徴と、その資質を強みとする人々の証言が、まとめられている。

その「34の資質」の中に「ポジティブ」という項があり、《あなたは人をよく誉め、すぐに微笑みかけ、どんな状況においても常にポジティブな面を探します》云々と説明が続いたあと、「〈ポジティブ〉を強みとする人たち」の一人として、次のような証言が紹介されていた。
《「世の中は、悲観的な人が多すぎます。もっとプラス志向の人、世の中のいい面に眼を向ける人が必要です。悲観的な人を見てると、気が滅入ります。以前の職場に、毎朝私のオフィスに入ってきては、愚痴を言っていく人がいました。そんなとき、わざとどこかに隠れたものです。その人の姿が見えると、トイレに駆け込んだり、ほかの場所に行ったり。その人と一緒にいると、世の中が救いようのない場所に思えてきてね。そういうのがたまらなくいやだったんです」》
(サニー・ G、コミュニケーション・マネージャー)
この証言を読んで、佐々木は吹き出してしまった。

この人、ぜんぜんポジティブじゃないじゃん。

「ポジティブでいることの効用を大切している」ことと、「資質としてポジティブである」ことは、まったく違う。

「どんな状況においても常にポジティブな面を探す」人なら、「職場に悲観的な人がいる」という状況においても、ポジティブな面を探すのではないか。

で、「ポジティブでいることの効用を大切している」が、「資質としてポジティブ」ではないというのは、佐々木自身のことでもある。

自分自身が悲観的なくせに、悲観的な人を見ては自分の気を滅入らせる。

だから佐々木は、自分自身の心に絶えず浮かんでいる悲観的なことを、できるだけ口にしない。

「ポジティブでいることの効用を大切している」が「資質としてポジティブ」ではない、他の多くの人のためにも。

2009年8月11日火曜日

不死のイメージ

村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に、時間をどこまでも分割していくことによって実現する不死、という考え方が登場する。
《「〔‥‥〕あなたの肉体が死滅して意識が消え朽ち果てても、あなたの思念はその一瞬前のポイントをとらえて、それを永遠に分解していくのです。飛ぶ矢に関する古いパラドックスを思い出して下さい。『飛ぶ矢はとどまっている』というあれですな。肉体の死は飛ぶ矢です。それはあなたの脳をめがけて一直線に飛んできます。それを避けることは誰にもできません。人はいつか必ず死ぬし、肉体は必ず滅びます。時間が矢を前に進めます。しかしですな、さっきも申しあげたように思念というものは時間をどこまでもどこまでも分解していきます。だからそのパラドックスが現実に成立してしまいます。矢は当たらないのです」
「つまり」と私は言った。「不死だ」
「そうです。思念の中に入った人間は不死なのです。正確には不死ではなくとも、限りなく不死に近いのです。永遠の生です」》
(「ハードボイルド・ワンダーランド(百科事典棒、不死、ペーパー・クリップ)」)
言うまでもなく、いかなる形であれ現実には不死はあり得ない。

しかし、村上春樹が『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で描いて見せた不死のイメージには、他の不死のイメージから隔絶した“リアリティ”があった。

佐々木自身、自分の死をイメージするとき、その瞬間を限りなく先延ばししたい、という欲望よりも、その瞬間に達するまでの「密度」を限りなく濃密にしたい、という欲望のほうが、はるかに現実性があるように感じる。

2009年8月10日月曜日

つぶれてる自分

一昨日、運動科学総合研究所の「上丹田初級」の講座に参加し、上丹田が形成されることによって実体としての脳が高いポジションに定位され(固定ではなく)、そのことと直接に、脳の機能が高まるという体験をした。

その裏返しとして、自分の通常のありかたとして、上丹田が明確に形成されていないために、実体としての脳がいわばつぶれた状態になり、そのことと直接に、脳の機能もいわばつぶれているということが、実感としてわかった。

身体意識が適切に形成されていないために、実体としての身体がつぶれ、そのことと直接に、身体の機能がつぶれているという現象は、脳に限らず、身体のあらゆる部分についても、身体の総体についても、起きていることが推測される。

自分は、つぶれている。

このことの自覚は、大きな希望であるように思われる。

適切なトレーニングによって、身体が実体としてつぶれた状態を克服できれば、身体の機能たるさまざまな身体的・精神的能力が、大幅に改善されることが見込まれるのだから。

2009年8月9日日曜日

「上丹田初級」の講座に参加

昨日は運動科学総合研究所の「上丹田初級」の講座に参加。

高岡英夫先生の直接指導。

上丹田が、かなり明確に形成された状態を体験できた。

上丹田が明確に形成された状態の実感としては、臓器としての脳のポジションが高くなり(本来あるべき位置と姿勢に定位され)、それと直接に、脳の機能(頭脳活動の全体)が高度化かつ高次元化される感覚。

ちょうどセンターが形成されたとき、身体のポジションが高くなり、身体の機能が高度化かつ高次元化される感覚が、脳で起こる感じ。

逆に上丹田が薄れていくと、脳がだらしくなくつぶれていき、それと直接に、脳の機能もだらしなくなっていく感覚があった。

筋肉の鍛練の限界はすぐに来るが、上丹田の鍛練にはほとんど限界がない、という意味のことを高岡英夫先生がおっしゃっていたのが、心に残った。

2009年8月8日土曜日

饒舌

自分が語ろうとしていることは相手にとって興味深いことである、という仮説に従って語り始め、相手の反応によって仮説が否定された場合は話題を変えて別のことを語り始める、というのが饒舌な人であり、自分が語ろうとしていることは相手にとってどうでもいいことである、という仮説に従って押し黙り、仮説を否定するだけの強力な証拠が見つかった場合に限り語り始める、というのが寡黙な人なのだと思う。

2009年8月7日金曜日

思考停止ポイント

山田ズーニーさんが『伝わる・揺さぶる!文章を書く』で、次のように書いている。
《 私はある日、知人からこのようなメールをもらった。
「何か話をするときには、お互い心のどっかに揺らぎみたいな物がないと議論にならないな」
 自分の頭でものを考えるとは、常に「揺らぎ」続けることでもある。絶対というものを持たず、不安定なまま、自分の内面、まわりの人間や状況に応じて、その場、できる限りのベストな判断をしていこうとすることだ。
 ところが、これは、なかなかしんどい作業だ。だから、揺らぎを止めて、ゆるぎないものにどかんと腰を下ろして安心したくなる。
 それが「思考停止のポイント」だ。
 大きいか、小さいかは別にして、だれにもそういうものがある。あなたの「思考停止ポイント」どこだろう?》
「自分の思考停止ポイントはどこか?」というのは、すごい問いだと思う。

この問いは佐々木の心に深く刺さり、ときどき頭をもたげてくる。

この問いを発し続けられる限りは、人間としての成長が止まらずに済む気がする。

2009年8月6日木曜日

無無

中学校や高校の理科の教科書に、原子の構造として、原子核の周りを電子がグルグル回っている図が載っていた。

子供のころは別に疑問にも思わなかったが、あの原子核と電子の間にある隙間って、何なのだろう。

物質がいっさい存在しない、純粋な無?

現実の世界には、「無」の空間なんて存在しない気がする。

富士山を指して、「あれが富士山だ」と言うことはできる。

しかし、どこまで富士山で、どこからが富士山でなくなるのか、その境界をはっきりと示すことはできない。

原子核とか電子も、それと同じように、境界がはっきりとは存在しない形で存在しているのではないか。

高気圧と低気圧は、互いに絶えず入れ代わっている。

高気圧の部分は絶えず低気圧になろうとしているし、低気圧の部分は絶えず高気圧になろうとしている。

気圧というのは大気という物の状態だけど、物それ自体も、まったく同じように、絶えず他の物になろうとしているのではないか。

電子は絶えず電子以外のものになろうとしているし、原子核は絶えず原子核以外のものになろうとしているのではないか。

量子力学って、要はこういうことを、数学的に表現しようとしているだけなんじゃないか、と佐々木は思っている。

専門家には笑われるかもしれないけど。

2009年8月5日水曜日

「ゆる」の原点に帰って

ゆる体操が今のような形になる前は、「ゆる体操」ではなく「ゆる」と呼ばれていた。

決まった動作があるわけでもなかったし、体だけを対象とするメソッドでもなかったからだと思う。

人間の体は、揺すると揺れる。

揺れると緩む。

この「」「」「」の「」と「」をとったのが、「ゆる」である、と説明されていた。

自分が一番緩むような揺れ方を探し、そのような揺れ方が一番起こるような揺すり方を、各自で工夫する。

それが「ゆる体操」になる前の「ゆる」だった。

決まったやり方を「正しく」やるという発想とは、最も遠いところにあるメソッドだった。

この原点を、最近は忘れていた。

揺すると揺れる。

揺れると緩む。

改めて、そう心の中でつぶやきながら「ゆる」をやると、ここ最近得られなかった深い緩みが得られた。

2009年8月4日火曜日

上品

「上品/下品」というのは、残酷な概念だと思う。

ある価値基準に照らして「下品」と断じられる文化は、多くの場合、当の価値基準で「上品」とされる文化を可能にした、土台そのものになっている。

ヘーゲルのいわゆる「花に否定される蕾」、「果実に否定される花」を思い出す。

2009年8月3日月曜日

ヘッドホンステレオ

自宅で仕事をしていると、政党の宣伝カーが家の前に止まり、演説を始めた。

自分の言葉ではない、借り物の言葉をつないだだけの演説を、拡声器を通して聞かされるのは、軽い拷問だ。

こういう住宅街での演説は、法律で規制したほうがよくないか、との思いが頭をかすめる。

だがその思いを、言論の自由を大事に思う気持ちが押しとどめる。

仕事を中断して外出しようか、と思いかけて、試しにヘッドホンステレオを耳に入れ、ボリュームを上げ気味にして聴いてみた。

最近のヘッドホンステレオは、本当に性能がいい。

あの拷問のような演説が、お気に入りの音楽で、すっかりかき消されてしまった。

これなら、あの空虚で迷惑なだけの演説を、いくら近所でやってもらっても大丈夫。

問題なく仕事に集中できる。

言論の自由万歳!

2009年8月2日日曜日

もの

数日前、テレビをつけたら、「クラシックジャンボ(ボーイング747-300型機)引退」のニュースが流れていた。

最後のフライトに向かうジャンボジェットに、日航の職員らしい100人近くの人々が一列に整列し、手を振っている映像だった。

言ってしまえば「大のおとな」たちが、飛行機に向かって真面目に手を振っている光景を、一瞬、滑稽と感じかけた。

いやいや、あれは別に飛行機に手を振っているんじゃなくて、飛行機に乗っているお客さんに向けて、あくまでひとつのセレモニーとして、手を振ってるんだな。

と思いなおし、納得しかけたところで、また考えが変わった。

やはりあの職員たちは、引退していく飛行機そのものにも、心からの惜別と感謝と慰労を込めて、手を振っていたのだ。

ちょっと前にテレビで、新人の航空整備士が、先輩整備士の指導を受けている場面を見たことがあった。

飛行機の翼のフラップ部分のネジを締めたあと、万が一ネジがゆるんでも落下しないように、針金できつく固定する作業の指導だった。

数本のネジに太い針金を巻き、大きなペンチできつくねじり、ニッパーで端を整えていく。

針金を締め上げる作業の繰り返しで、新人整備士の手は、大きなマメだらけになっていた。

新人が作業を終えると、先輩整備士のチェック。

先輩整備士は、針金の巻き方が基準を満たしていないことを指摘すると、すべての針金をニッパーで切断し、一からのやり直しを命じていた。

あの大きな飛行機のネジ一本にさえ、心血を込めた整備が日々繰り返されている。

飛行機一機に対して、就航から引退までの間に、整備に関わるスタッフの人数、整備に注がれる努力の量の膨大さは、想像を絶する。

整備だけではない。

設計、製造から運行、操縦、機内サービス、清掃に関わった人々。

備品や消耗品の製造や供給に関わった人々。

こうした人々まで含めると、おそらく億人単位の人々が、一機の飛行機を存在させるために関わっているのではないか。

そう考えると、飛行機は単なる「物」ではない。

「物」として現れた、億人単位の人々の、組織化され実体化された「魂」なのだ。

引退にあたり、一機の飛行機が人々の心からの惜別と感謝と慰労の対象になることは、なんら不自然なことではない。

2009年8月1日土曜日

「うまい」と「すごい」

日垣隆さんの古典読書会メーリングリストの課題で、太宰治の『人間失格』を読み返した。

太宰治には高校生の頃ハマり、新潮文庫から出ていた作品は当時すべて買いそろえ、繰り返し読みふけった。

太宰の最初の創作集である『晩年』、特にその中の「葉」、「逆行」、「ロマネスク」といった作品など、何十回読み返したか、わからないくらいだ。

そこまでハマった太宰治だが、この『人間失格』については、なぜか、読んだ記憶がほとんど残っていなかった。

少なくとも目を通したことは確かなのだが、「はしがき」と「第一の手記」の、あの有名な書き出しぐらいしか、覚えていなかった。

メジャーなものに食いつくのを潔しとしない、あまのじゃく精神のせいもあっただろう。

だが今回『人間失格』と『晩年』を読み比べてみて、やはり理由はそれだけではなかったと思った。

「人間失格」は、いちいち「うますぎる」のだ。

鉄棒にわざと失敗したのを「白痴に似た生徒」に見抜かれて動揺する場面にしても、明日から酒をやめられたらお嫁さんになってほしいと煙草屋の17、8歳の娘に酔っぱらって冗談で頼んで、翌日昼間から酒を飲んでその娘のところに行き、「あら、いやだ。酔った振りなんかして」とか言われる場面にしても。

作者にとって扱い慣れた素材を、テクニックだけで書いているように感じられるのだ。

『晩年』に、「道化の華」という短編が納められている。

「人間失格」でも取り上げられている、鎌倉の海での自殺未遂とその後の警察や親類や知人とのやりとりを扱った小説で、主人公の名前も同じ「大庭葉蔵」。

読み返してみて、やはり「人間失格」よりも「道化の華」のほうが、よほどすごい小説だと思った。

陳腐な表現だが、切ればページから血が吹き出るような生々しさを、「道化の華」には感じた。

「うまい」と「すごい」は違うんだと、改めて実感した。
 
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