2009年6月30日火曜日

臨機応変、天真爛漫

『孟子』(中公クラシックス)を読んでいたら、次の章句が目にとまった。
《孟子曰わく、大人(だいじん)なる者は、言(げん)必ずしも信ならず、行い必ずしも果たさず。惟(ただ)義の在る所のままにす。》
(孟子 第八巻 離婁章句(十一))
《孟先生がいわれた。
「人の長となる大人〔=王・諸侯のような人の長となるべき徳をそなえた人〕というものは、話したことばを全部ことばどおり守るとは限らないし、やりかけた行動を最後までやり抜くとは限らない。その時、その場所に適した道義の要求にしたがうだけだ」》
(貝塚茂樹訳)
《孟子曰わく、大人(だいじん)とは、その赤子(せきし)の心を失わざる者(ひと)なり。》
(孟子 第八巻 離婁章句(十二))
《孟先生がいわれた。
「人の上にたつ大人は、赤子(あかご)の気持を失っていない天真爛漫な人である」》
(貝塚茂樹訳)
上記の二章について、訳者の貝塚茂樹さんは、次の注釈を付けられている。
《前章の、政治的状況の変化に応じて変節や裏切りさえあえてしなければならぬという大人が、本章ではまた赤子のような気持を失ってはならぬとされている。これは明瞭な矛盾だとする人もあろう。政治的変節や裏切りは、それを赤子のような純粋な気持で行える人にしてはじめて許される、と孟子は考えたのだと解釈したい。》
学者らしい解釈だなぁ、と佐々木は思った。

貝塚さんは、
「過去の発言や決定にとらわれない臨機応変さ」

「赤ん坊のような天真爛漫さ」
を兼ね備えたリーダーを目にしたことが、一度もなかったのだろうか?

成功しているリーダーは、ほぼ例外なくこの二つの資質を備えていると思うのだが。

2009年6月29日月曜日

『わが闘争』を読んでいる

日垣隆さんの古典読書会メーリングリストの課題で、アドルフ・ヒトラーの『わが闘争』を読んでいる。

「穏健さ」を大切にしていると、つい目をつぶってしまうこと、というのがある。

過激な主張は、そのような蒙を啓いてくれる。

2009年6月28日日曜日

マーケット

東急田園都市線の駅の改札を出たら、目の前に「○○フラワーマーケット」という名前の小さな花屋があった。

フラワー“マーケット”?

フラワー“ショップ”の間違いじゃないか?

売り手が複数いて、買い手が売り手を選べるのがマーケットだろ?

‥‥という違和感を感じる。

それをきっかけとして、「マーケットの本質は何か?」という問いが、しばし頭を支配する。

しばらく考えていると、突然、「マーケットという仕組みが世の中に存在すること」が、とてつもなくありがいことであるように感じられてきた。

それは、宗教家の神に対する感謝に匹敵しようかというほどの感謝だった。

なぜかはうまく説明できないのだが。

市場の自由化を、単なる金儲けの欲求や学問的な立場からではなく、ほとんど宗教的と言っていいほどの信念と情熱をもって、実現しようとしている人々がいる。

彼らの内面が、はじめて論理としてではなく感情としてわかった気がした。

2009年6月27日土曜日

「ゴミ」を拾える認識

「プロデューサーの仕事はゴミを拾うことです。全部が見えている人間にしかゴミは拾えないのだから」
作家の橋本治さんが、アートマネジメントの学生にこう教えたのだとか(「内田樹の研究室」)。

けっこう、衝撃を受けた。

職場の管理者は、スタッフが現場の「ゴミ」に気づかないことを、しばしば嘆く。

(この「ゴミ」は、必ずしも物としてのゴミだけを指すわけではない)

こうしたとき管理者は、スタッフが現場の「ゴミ」に気づかない原因を、スタッフの能力や人間性に求めがちである。

だが「ゴミ」を「ゴミ」として認識するには、「職場や組織に期待されていること」を体系的かつ具体的に認識できていることが、不可欠なのだ。

スタッフが現場の「ゴミ」に気づかなかったとき、管理者は、「職場や組織に期待されていること」を体系的かつ具体的に教育できていない自分自身を、反省する必要があるのではないだろうか。

もちろん、「ゴミを拾わせる」こと自体、あるいは自分が「ゴミを拾う」姿を見せること自体、「職場や組織に期待されていること」を教育するうえで有効な方法ではあるのだが。

2009年6月26日金曜日

「困難の分割」は方法ではなく結果である

「困難は分割せよ」(ルネ・デカルト)

「小さな仕事にわけてしまえば、とりたてて難しいものなどない」(ヘンリー・フォード)

「一時一事」
これらの格言を残した先人たちは、「小さな部分に分けてみたら、難しい問題を容易に解決できた」という体験を、確かにしたのだろう。

その体験から、困難を克服するための方法として、これらの格言を残したに違いない。

だが現に困難の渦中にある者が、これらの格言に学んで問題を小さな部分に分けようとしても、たいていは分けられないという現実がある。

「問題を小さな部分に分ける」ことが可能になるためには、問題の全体像と構造が把握されていなければならないからだ。

実はこれらの格言を残した先人たちも、問題を小さな部分に分けることなく、大きな全体として把握し解決する努力を重ねてきたからこそ、ある日突然、問題の全体像と構造が把握され、結果として問題を合理的に分割することが可能になり、問題を部分ごとに解決することができたのである。

彼らの主観としては「問題を分割したら解決できた」ということになるのだろうが、「問題の全体に取り組んだから、問題を分割できるようになり、解決できた」というのが現実なのだ。

だから仕事の指示をするときは、仕事の全体像と構造を提示することが欠かせない。

弊事務所が製作するマニュアルが、必ず業務の全体像の提示から始まるのには、こういう理由があるのだ。

2009年6月25日木曜日

苦しいときの吉田松陰

逆境を感じたときは『講孟箚記』の次の一節を思い出す。
《〔‥‥〕余、野山獄に在る時、友人土谷松如、『居易堂集』を貸し示す。其の中に『潘生次耕に与ふるの書』あり。才を生じ才を成すと云ふことを論ず。大意謂へらく、天の才を生ずる多けれども、才を成すこと難し。譬へば春夏の草木花葉、鬱蒼たるが如き、是才を生ずるなり。然れども桃李の如きは、秋冬の霜雪に逢いて皆零落凋傷す。独り松柏は然らず。雪中の松柏愈々青々たり。是れ才を成すなり。人才もまた然り。少年軽鋭、鬱蒼喜ぶべき者甚だ衆し。然れども艱難困苦を経るに従ひ、英気頽廃して一俗物となる者少からず。唯真の志士は、此の処において愈々激昂して、遂に才を成すなり。故に霜雪は桃李の凋む所以、即ち松柏の実する所以なり。艱苦は軽鋭の頽るる所以、即ち志士の激する所以なり》(講孟箚記巻の四上 第十五章)
《〔‥‥〕わたしが野山の獄にいた時、友人の土谷松如が、明の遺臣徐俟齋の『居易堂集』を貸してくれたが、そのうちに『潘生次耕に与える手紙』があり、それには、才を生じ才を成すことが論じてあって、その大意は次のようであった。「天が人に才能を与えることは多いが、その才能を完成することはむつかしい。才能を与えるとは、あたかも、春夏に草木の花や葉が深く茂るようなものであって、桃や李(すもも)の類は、秋冬の霜や雪にあえば、みな枯れ落ちてしまうが、松や柏(はく)だけはそれと異なり、雪の中にますます青々とその翠(みどり)をたたえている。才能を完成するとは、この雪中の松柏の姿のようなものである。人間の才能もこれと等しく、世のなかには、年若く気鋭く、その能力が豊かで喜ぶべきものが多く存在する。しかるに艱難困苦を経るにつれて、そのすぐれた気性が頽(くず)れて、結局、一俗物になってしまうものが少なくない。そのうちにあって、ただ真の志士だけが、その艱難困苦に対処していよいよふるい起ち、ついにその才能を完成するのである。されば、霜雪(そうせつ)は桃や李(すもも)が枯れる原因であり、同時に松や柏(はく)が完成する原因なのである。同様に、艱苦は人の鋭い気性が頽(くず)れる原因であり、同時に志士がふるい起つ原因なのである」。》(近藤啓吾訳)

2009年6月24日水曜日

社員教育

社員教育には二つの面がある。

「社員にえる」面と、「社員をてる」面だ。

大ざっぱに言うと、「教える」とは、「どうなれば成功なのか」と「どうすれば成功できるのか」を事前に伝えることである。

「育てる」とは、失敗や問題点を事後的に指摘することである。

「教える」を抜きにした「育てる」は、効率が悪い。

だが「育てる」に比べて、「教える」ははるかに難しい。

「どうなれば成功なのか」や「どうすれば成功できるのか」を伝えるには、仕事の本質や構造を解析したうえで、明確に言語化・図表化しなければならないからだ。

この困難な「教える」を可能にするのが、弊事務所が製作する業務マニュアルである。

2009年6月23日火曜日

「All Rights Reserved.」はやめた

事務所ホームページやこの日記のデザインを改めた。

これを機に、ページ下の「All Rights Reserved.」の表示をやめた。

ホームページを作ったとき、他の会社や事務所もやっていたので、あまり深く考えずに「(C) 200* SASAKI Ichiro. All Rights Reserved.」と表示したが、よく考えてみると、この表示はあまりにも無意味だった。

佐々木のデザインや文章を仮に誰かが複製しても、その人は何の利益も得ることができない。

佐々木自身も何の損害も受けない。

そもそも佐々木は、ホームページのデザインや、ホームページに公開している文章から、何の利益も得ていない。

佐々木のデザインや文章は、必ず他人が考えたデザインや文章が元ネタになっている。

こういう状態で「All Rights Reserved.」などと宣言するのが、ちょっと恥ずかしくなってきたのだ。

2009年6月22日月曜日

ウッヒョ~~!

太宰治に「トカトントン」という短編小説がある(新潮文庫『ヴィヨンの妻』所収)。

この小説の主人公の男は、何かに心が燃えかかるたびに「トカトントン」という幻聴が聞こえ、心が冷めきってしまう。

佐々木にも、「トカトントン」にあたる幻聴のようなものがある。

それが「ウッヒョ~~!」という狂声だ。

元は、佐々木が高校時代に同学年で親しくしていた、Tという毒舌な男の口癖だった。

Tはこの「ウッヒョ~~!」を、自分や他人が「集団的に頭カラッポ状態になって馬鹿げたことに興じる」ことの、シニカルな描写として使っていた。

「どうせおまえも『ウッヒョ~~!』とか言って、踊りまくってたんだろ?」みたいな。

それが妙に頭に残って、ふとした折に、この「ウッヒョ~~!」が頭の中で聞こえてくるようになってしまった。

佐々木に「ウッヒョ~~!」が聞こえてくるのは、人と話していて、ちょっと複雑なことや真面目なことが思い浮かんだときだ。

そういうことを口にしようと思ったとたん、この「ウッヒョ~~!」が聞こえてきて、佐々木は口をつぐんでしまう。

「ウッヒョ~~!」が象徴しているのは、きっと次のような反応だ。
「おもしろいこと考えるんだネ(笑)」
「あなたってほんと変わってるわね~(笑)」
「なんだかムツカシイ本を読んでるのね(笑)」
「そういう理屈っぽいことを言うのは、ゆるみ方が足りないからだよ」
要は「無理解によって価値あるものを穢す」行為と言えるかもしれない。

2009年6月21日日曜日

『セブン-イレブンの仕事術』を読んだ

セブン-イレブンの仕事術』(岩本浩治著)を読んだ。

高校卒業後就職したソフトウェア開発会社でシステムエンジニアをしていた筆者が、28歳でセブン-イレブン・ジャパンに転職、コンビニ経営をゼロから叩き込まれ、実戦(実践ではなく)から学びとり、35歳で退職してコンサルトとして独立するまでの体験を、フィクション形式で描いた本。

セブン-イレブンの店舗を見る目が、この本を読んですっかり変わってしまった。

一利用者として、セブン-イレブンの店舗は他のコンビニチェーンの店舗と比べて頭一つ抜きんでている印象を持っていたが、その裏にどれほどの苦闘があったかがうかがい知れた。

特に印象に残った箇所は以下。

●セブン-イレブンへの入社を志望するにあたり、売りになる経歴が何一つないと考えた「私」が、履歴書の“中身”ではなく“厚さ”で勝負しようと考え、現在の会社で5年間やってきたことを十数ページにわたって手書きでつづったところ。

●「私」が店員として送り込まれた不振店で、「癖が強くて言うことを聞かない」と言われていた「店の主」のパート女性の信頼を獲得するところ。

●「私」の厳しい指導に反発したアルバイト達がボイコットに出たとき、一人で朝から夜までぶっ通しで店の全業務をこなして乗り切ったことで「妙な自信」が付き、従業員への対応が大らかになった結果、反抗的だったアルバイト達が素直になったところ。

●新人指導員のトレーニングを依頼された「私」が、《茶道や武道と同じように“OFC〔店舗経営指導員〕道”というものがあるとするならば、OFC業務にもまた、基本となる“かたち”がある》として、「仕事のかたち」を解説するところ。

2009年6月20日土曜日

理解力

理解力を構成する重要な力の一つは、佐々木の理解では、「物事を簡単に理解しない力」である。

この「物事を簡単に理解しない」には、「『自分はもう理解した』と簡単に理解しない」、「『自分には理解できない』と簡単に理解しない」、「『理解しても仕方ない』と簡単に理解しない」、といったことも含まれる。

2009年6月19日金曜日

問いをコントロールする

文章のわかりにくさには、単語レベルや文レベルのわかりにくさ以外に、構成レベルのわかりにくさがある。

「構成レベルのわかりにくさ」の本質は、読み手の〈問い〉に書き手が答えていないことにある。

言い換えると、「書き手の頭の中にある〈問い〉」と「読み手の頭の中にある〈問い〉」が一致していないことにある。

人間の時々刻々における認識のうち、中核的な部分を成すのは、自分が発した〈問い〉に対して自分が得た〈答え〉である。

得られた〈答え〉は意識に顕在化するが、その引き金となった〈問い〉の方は、多くの場合意識に顕在化しない。

つまり、今この瞬間に自分の頭に浮かんでいることが、いかなる〈問い〉に対する〈答え〉としてもたらされたのかは、たいてい自覚されていない。

このことを自覚せずに、書き手が自分の頭に浮かんだことを書きつらねると、読み手の側は、その時点で自分の頭の中にある〈問い〉に対する〈答え〉にならない情報を読まされることになる。

自分自身の〈問い〉に対する〈答え〉になっていない情報は、人間の頭にほとんど入らない。

だから書き手は、読み手の頭の中にある〈問い〉をコントロールしなければならない。

この役割を果たすのが構成であり、目次であり、見出しである。

読み手の頭の中にある〈問い〉をコントロールするためには、何よりもまず、今この瞬間に自分の頭に浮かんでいることが、いかなる〈問い〉に対する〈答え〉としてもたらされたのかを自覚しなければならない。

2009年6月18日木曜日

『曾根崎心中』を読んだ

今年の古典読破計画の第六弾として、近松門左衛門の『曾根崎心中』(角川文庫、諏訪春夫訳注)を読んだ。

1703年(元禄16年)に大阪で実際にあった、醬油屋の手代徳兵衛(25歳)と遊女屋の抱え女お初(21歳)の心中事件を題材にした、世話浄瑠璃。

これって今で言うと、テレビのワイドショーでやってる、話題の事件の“再現VTR”なんじゃないだろうか。

同じ時代に生きて、元ネタの事件に対する興奮を共有していないと、ドラマの世界にまったく入り込めない。

この作品、当時の庶民文化をのぞき見るための「資料」ではあっても、「古典」ではないと思った。

たださすがに日本語のリズムはきれいだったけど。

「いやいやそうではないのだ、『曾根崎心中』はやはり日本の戯曲における古典なのだ」と、誰か佐々木の蒙を啓いてくれる専門家がいてくれるとありがたい。

2009年6月17日水曜日

「できるはず・わかるはず」

《人間はふつう自分と比較して他人を評価する。そのときにどうしても落差を小さく扱いがちである。それで愚かな者は他人を過小評価する失敗を、逆に賢い者は他人を過大評価する失敗を、起しやすい。》
(三浦つとむ「大正時代の学者たち-唯物史観研究史の一齣」『三浦つとむ選集・補巻』)
能力の高い人にものを教わるとき、よくこの言葉を思い出す。

教える側の「できるはず・わかるはず」と、教わる側の「できる・わかる」の間には、たいていとんでもない落差がある。

2009年6月16日火曜日

リハビリ病院に見学と面談に行ってきた

くも膜下出血で先々月倒れた家族の受け入れO.K.を出してくれたリハビリ病院に、見学と面談に行ってきた。

リハビリ室や食堂などを職員の方に案内してもらった後、医療ソーシャルワーカーの方との面談。

本人の発症前の生活や性格、現在の状態などについて聞かれた後、以下の説明を受けた。

●このリハビリ病院は365日介護で、土日や祝日も休みなくリハビリテーションを行っている。

●今回受け入れが決まったのは、回復期リハビリテーション病棟。

●現在の国の制度では、リハビリテーションについて「あれもやってはいけない」「これもやってはいけない」等とさまざまな規制がある。回復期リハビリテーション病棟では、その規制にとらわれず、集中的なリハビリテーションを行う。

●ただし回復期リハビリテーション病棟での受け入れには、二つの縛りがある。

●縛りの一つは、リハビリテーションの効果が高い回復期の患者であること。回復期とは、発症後2カ月以内を差す。今回の場合、最初の手術は4月だったが、その後も追加の手術を行っているので、5月27日から数えて、7月27日まで受け入れられる。

●リハビリテーションは、一日も早く始めたほうがいい。

●もう一つの縛りは、入院期間の上限が厳密に決められていること。骨折の場合は90日。今回のような脳血管症の場合は150日。

その他、費用、支払方法、面会時間、手続き、転院方法などについても細かく説明を受けた。

その場で他の家族とも相談し、受け入れをお願いしてきた。

リハビリ病院と現在入院中の病院との間のやり取りを経て、家族が付き添える日に転院ということになる。

2009年6月15日月曜日

『会計天国』を読んだ

竹内謙礼さん、青木寿幸さんの『会計天国』を読んだ。

ビジネスの維持・発展に必要な会計の知識を、軽いタッチのコメディーを通して学ばせてくれる本。

本の趣旨からすれば、物語の部分は、読者の理解を助けるための手段に過ぎない。

だがその物語のセリフのあちこちに、佐々木はウルッとさせられてしまった。

この世の中は、お金について無知な人間を、容赦なく押しつぶしていくようにできてる。

だからといって、世の中に向かっていちゃもんをつけたり、自分で自分を哀れんだりしてんじゃねーよ!

「お金について無知」という性質は、人の中で独立して浮かんでいるわけじゃないんだ。

その人が持っているある特質の現れ方の一つが、「お金について無知」という形になっているに過ぎない。

「お金について無知」という形で現れているその特質は、実は人が幸せになるうえで、欠くべからざる要素としても存在している。

ゆえに「お金について無知」という弱点を克服した人は、「お金に聡い」だけの人が決して手にできない幸せを手にすることができるんだ。

だから世の中に向かっていちゃもんをつけたり、自分で自分を哀れんだりしてるヒマがあったら、もっと真剣にお金について学べ!

そして学んだことを実行しろ!

お金について真剣に学んで、学んだことを実行する努力を惜しまない人が幸せになれる程度には、世の中っていいところなんだぜ。

‥‥佐々木がこの本にウルッとさせられたのは、こんなメッセージを勝手に受け取ってしまったからだと思う。

筆者たちにそんな意図はないかもしないが。

2009年6月14日日曜日

「わかってほしいこと」と「わかってもらえそうなこと」

会話において、「わかってほしいこと」と「わかってもらえそうなこと」との間には、当然ズレがある。

「わかってもらえそうにない」が「わかってほしい」ことを、どれぐらい話せるかは、相手のことをどれくらい尊敬しているかだとか、相手にどれくらい親しみを感じているかによる。

そして「わかってもらえそうにない」が「わかってほしい」ことというのは、「自分でもよくわかっていない」ことでもある。

だから、佐々木から「なんだかよくわけのわからない話」を聞かされた人は、佐々木が尊敬や親しみを感じている人ということになる。

そんなことは言わなくてもわかってるだろうけど。

2009年6月13日土曜日

『学城』第6号

『学城』第6号(日本弁証法論理学研究会、現代社)が一昨日到着。

昨日、今日と朝の読書の時間に読みふけってしまい、朝の武術稽古を大幅カットしてしまった。

特に強く印象づけられたところは以下。

●本田克也さんによる、故海保静子さんの「学究ゼミ」指導の描写

●田島翔鷹さんによる、故海保静子さんの空手指導の描写

●浅野昌充さんによる、現代物理学の形而上学性批判と弁証法的な宇宙生成論の提示

●南郷継正先生による、司法試験勉強中で内閣総理大臣を志望する東大生の質問への回答としての、社会変革論・人生論

2009年6月12日金曜日

おいしい乾燥わかめ

武術仲間のF君からおすそわけしてもらった千葉県勝山産の乾燥わかめが、めちゃくちゃうまい。

けっこうな分量をもらってしまい、一人で食べきれるか心配だったのだが、もうすぐ食べきってしまいそうだ。

水でもどすと、磯の香りがすごい。

味噌汁に入れて食べると、海のエキスを凝縮して体に取り込んでいる感じがする。

袋には「美容と健康に 磯の幸 勝山名産 新わかめ 風味絶佳」とあり、個人名と住所と電話番号が書いてある。

ネットで検索しても見つからない。

2009年6月11日木曜日

リハビリ病院から受け入れO.K.が出る

先々月くも膜下出血で倒れて入院中の家族の、医療費支払いとオムツ類購入のため、日中見舞いに行く。

帰りがけに、病院の医療ソーシャルワーカーの方に会う。

受け入れを打診していた相模原市内のリハビリ病院から、ちょうどO.K.の連絡がきたところだったとのこと。

先月医療ソーシャルワーカーの方からうかがった話では、リハビリ病院は制度上最初の入院から2カ月以内の患者しか受け入れることができず、患者の状態によって受け入れを拒否される場合もあるとのことだったので、手術から2カ月近く経って食事は鼻のチューブからという現状を考えると、リハビリ病院での集中的なリハビリはあきらめて、自宅介護に移行する他なさそうだな、と考えていたところだった。

向こうのリハビリ病院の医療ソーシャルワーカーの方に連絡をとり、来週月曜日の午前中に見学の予約をする。佐々木がO.K.であれば、転院の運びとなる。

夕方、見舞いに行ってきたという近所の方から電話があった。時間を掛けて話しかけていたら、「まだ帰らないでください」とか「寒いです」とか、いくつか言葉が出たとか。

少しずつ良い方に向かっている。

2009年6月10日水曜日

恥ずかしいミス

昨日はクライアントの事務所に出向き、業務マニュアル製作のためのインタビュー。

2時間にわたるインタビューを終え、退出しようとドアに向かいかけたそのとき、クライアントから「忘れ物ですよ」と声を掛けられる。

クライアントの業務を撮影したビデオカメラを、置いて帰ろうとしてしまっていた。

これはめちゃくちゃ恥ずかしい。

「お客様の情報を外部に漏らすことは絶対にありません」と宣言している業務マニュアル製作事務所の代表が、お客様の業務の映像を納めたカメラを置き忘れてどうする。

信用台無しだ。

いつもインタビューからの帰路では、ICレコーダーやビデオカメラが入った鞄を、かなりの緊張感を持って抱えているのだが。

インタビューが終わった瞬間ということで、気が抜けてしまっていた。

一つ教訓。

インタビュー先からの退出時には、忘れ物がないか十分にチェックしなければならない。

2009年6月9日火曜日

過食

ストレスのせいか、ここのところやや過食ぎみ。

一食きちんと食べても、だらだらと食欲が収まらない。

精神的なショックで食欲が無くなる、ということはこれまで何度かあった。

だがストレスで食欲が過大になるということは、これまで無かった気がする。

ありがたいことに体の防衛機能はきちんと働いて、口の中の皮が剥け始める。

体からの警告には、おとなしく従うことにする。

2009年6月8日月曜日

頭の疲れ

ここ数か月、頭に「熱性の気」とでもいうのか、疲れた感じがたまって、なかなか抜けない。

それで生産性が落ちて、困っている。

一昨日、武術の地区道場の稽古で、3軸がきちんと通るように、玉同士が重なり合あって乗り合いぶら下がり合うように、その重なり合い・乗り合い・ぶら下がり合いが天芯・地芯にまで達するように、と意識しながら取り組んだところ、頭の中がスーッとして疲れが抜ける感覚があった。

(3軸、玉、天芯・地芯については高岡英夫先生の『センター・体軸・正中線―自分の中の天才を呼びさます』を参照)

昨日、武術仲間のTさんと二人で稽古したとき、胸郭の拘束を緩める手技をほどこしてもらったところ、胸郭がゆるむと同時に、頭の疲れも抜けた感覚があった。

最近読んだ『病気にならない「冷えとり」健康法』(進藤義晴著 )を参考に、靴下を重ね履きにしてみたり、ズボン下を履いたり、上半身を半袖にしたりしてみたところ、これも頭に熱っぽさがたまる状態の改善に効果があるように感じられた。

まだいろいろと工夫の余地がありそうだ。

2009年6月7日日曜日

『宮本武蔵は、なぜ強かったのか?』を読んだ

高岡英夫先生の『宮本武蔵は、なぜ強かったのか?』を読んだ。

エンディング近くの
《宮本武蔵の人生というのは、突出した天才が、悟りというものと真正面から向き合った一生だったのです。》
に、涙がボロボロッとこぼれ落ちてしまった。

恥ずかしいこと極まりない。

泣いたことがではない。

佐々木ごときの凡人が、宮本武蔵ほどの天才の人生に、一瞬とはいえ、自分の人生を重ね合てしまったことが恥ずかしいのだ。

2009年6月6日土曜日

否定と必然

以下はヘーゲルの言葉の中でも、佐々木が好きなものの一つ。
《人々は、哲学説のあいだに差異があるのを、真理が進歩してゆく発展過程としてとらえることなく、差異のなかに矛盾しか見ない。--花が咲けば蕾(つぼみ)が消えるから、蕾は花によって否定されたと言うこともできよう。同様に、果実により、花は植物のあり方としてはいまだ偽であったことが宣告され、植物の真理として花にかわって果実が現われる。植物のこれらの諸形態は、それぞれに異なっているばかりではなく、たがいに両立しないものとして排斥しあっている。しかし同時に、その流動的な本性によって、諸形態は有機的統一の諸契機となっており、この統一においては、それらは互いに争いあわないばかりでなく、どの一つも他と同じく必然的である。そして、同じく必然的であるというこのことが、全体としての生命を成り立たせているのである。--ところが一つの哲学説に反対がとなえられる場合、反対をする人の常として、このような仕方で自分自身のことを理解することがない。また、この事態を受けとる人々の意識も、一般に、矛盾しあう両論をその一面性から解放して自由な態度で受容することができず、対立し争いあっているかにみえる形態のなかに、相互に必然的な諸契機を認めえないでいる。》
(『精神現象学』山本信訳)
蕾は花によって否定された。

ゆえに植物に蕾は不要である。

みんなで蕾のない植物づくりを目指そう。

‥‥とでも言うかのような主張を目にするたびに、佐々木はヘーゲルのこの言葉を思い出す。

2009年6月5日金曜日

消費

「消費」の対義語は「生産」だ。

対義語は、必ず二つセットで理解される。

「上」の意味は理解できるが「下」の意味は理解できない、ということはあり得ない。

したがって「消費」を理解できているということは、「生産」を理解できているということにほかならない。

ところで対義語というのは、必ずしも一つに限定されるものでもない。

「オモテ」の対義語は基本的には「ウラ」だろうが、「オモテ」と「ナカ」を対義語として扱う場合もある。

だから「オモテ」の意味を完全に理解するには、「ウラ」の意味を理解するだけでは不十分で、「ナカ」の意味も理解していなければならない、ということになる。

「ウラ」の逆として理解されるべき特性と、「ナカ」の逆として理解されるべき特性との間に、近接と重複があって、こうした近接と重複も含む特性に、「オモテ」という語があてられるている、という言い方もできるだろう。

こういう場合の「オモテ」に相当する語は、<周辺対義語>とか<付帯対義語>と呼ぶことができるかもしれない。

「消費」の場合はどうだろう。

「生産」以外に、「消費」の対義語はないだろうか。

すなわち「消費する」という行為には、「生産する」という行為の逆として理解されるべき特性以外に、別の行為の逆として理解されるべき特性はないだろうか。

佐々木は、あると感じている。

ただそれを表現するぴったりな言葉が見つからない。

ぴったりな言葉ではないのだが、「生きる」という言葉は、「消費する」という行為が持っているある特性の対立概念を、かろうじて表現しているように思う。

「消費する」と「生きる」を対義語として理解してみると、「消費すること」に対しても、「生きること」に対しても、新たな理解の深まりがある。

2009年6月4日木曜日

砂利道鍛練の意義

砂利道を裸足で歩くトレーニングの意義は、佐々木の考えでは、次の二つ。


1.「感覚受容器官としての足の裏の開発」およびこれと表裏一体のものとしての「足の裏から受容する感覚の開発」

我々は普段、靴下を履いた上に、靴を履いて歩き回っている。

地面からの皮膚感覚受容という観点からすると、この状態を聴覚にたとえれば、聴覚健常者が耳栓をして生活しているようなものである。

耳栓をして生活していれば、脳にはぼやけた聴覚像しか反映しない。

この状態が続けば、聴覚像を形成する脳機能が衰える。

耳栓を外せば、再び聴覚像が鮮明になり、聴覚像を形成する脳機能も復活する。

砂利道を裸足で歩けば、ちょうどこれと同じことが、足の裏からの皮膚感覚に起こる。

人間の認識は五感覚の合成像を出発点に形成されるから、五感覚のうちの一感覚でも活性化すれば、認識が全体として活性化する。


2.直接的な外界の変化を正確かつ瞬時に認知し、自らの運動を正確かつ瞬時に制御する能力の開発

砂利道を裸足で歩く場合、足元をよく注意していないと、ガラス片などを踏んで怪我をする恐れがある。

ぼんやりと考え事をしながら歩く、ということができない。

だから、自分の運動に合わせて時々刻々と変化する外界を正確かつ瞬時に認知し、自らの運動を正確かつ瞬時に制御する能力が開発される。

人間には、直接的な外界の認識から離れて、未来を予想したり、行動を計画したり、過去を回想したり、他人の認識を追体験したり、ファンタジーを空想したりする能力がある。

これらは人間にとって必要な能力ではあるが、こうした能力を使い続けることは、認識と現実のつながりが失われる危険性を高めることでもある。

認識と現実のつながりが失われることが極まった状態が、精神病である。

だから自分の運動に合わせて時々刻々と変化する外界を正確かつ瞬時に認知し、自らの運動を正確かつ瞬時に制御する能力を開発することは、精神病の予防策にもなる。


以上の二つが、佐々木が考える砂利道鍛練の意義だが、これだけではないような気がしている。

これだけでは、南郷継正先生が、なぜ足の裏をヤケドさせることを推奨しているのかの説明がつかない。

2009年6月3日水曜日

砂利道鍛練再開

昨年冬から中断していた裸足での砂利道散歩を、昨日再開した。

裸足での砂利道歩きは、武道学者の南郷継正先生が推奨されている鍛練方法。
《以上の〔『武道講義 第四巻 武道と弁証法の理論』で紹介した〕、私が毎年夏に行っている暑い太陽に熱せられた鉄板やマンホールのフタや黒くとがった砂利道や溶けそうになっているアスファルトの上や、海岸の黒い砂浜での「足の裏のヤケド、またヤケドの連続の夏の鍛練」は、一九八三年ころから始まって二十年以上にも及んでいるのです。そのおかげで、前記のように四十代よりは五十代、五十代よりは六十代と年齢を重ねるに合わせて体調もよくなり、頭脳活動も活発になっていった、つまりはカラダもアタマも「こんなに良くなっていいのか」と思うほどに実力が向上していったのです。足の裏のヤケド、またヤケドの連続の練習は、若い女性にはあまり勧められるものではありませんが、三十代以上の人たちには、ぜひ実践してほしいことです。具体的な実践としては、これは五月ごろの気温が二十五度を越すころの晴天の日から始められたらよいと思います。そして七月ともなれば、翌日は立つことが困難なくらいの足の裏のハレをともなってくるはずです。でも、これを数年間もつづけることができれば、あなたはまず「医者知らず」の体調となっていくばかりか、アタマの冴えかたは自分にとって気味の悪いくらい(?)のものとなってくるはずです……。》
(『なんごうつぐまさが説く看護学科・心理学科学生への”夢”講義(3)』)
佐々木は、南郷先生の流派の空手道場を主宰されている方のブログに触発され、二年前から、夏の晴れた日に行っている。

鍛練と言っても佐々木の場合は、家の周囲の砂利敷き駐車場を、数分掛けて歩き回ってくるだけなのだが。

あとは月に一回程度、海岸を素足で1時間ほど歩き回るくらい。

その程度の鍛練でも、脳がいい形で鍛えられる実感がある。

足の裏も、床にしっかり吸いつく感覚がある。

2009年6月2日火曜日

『精神分析入門』から目を背けさせるもの

『精神分析入門』(ジークムント・フロイト、新潮文庫上巻下巻、高橋義孝、下坂幸三訳)を一読したとき、最初の「序論」と最後の「世界観というものについて」には引き込まれたのだが、肝心の中身のほうには、いまひとつ魅力を感じなかった。

原因として最初思い浮かんだのは、次の二つ。

一つは、書かれた当時は革命的だった学説も、現在では常識と化しているから。

もう一つは、個別具体的な夢や無意識は時代性や国民性に依存する面が大きいので、現代日本の常識からは、当時のオーストリアの人々の夢や無意識の構造を理解し難いから。

ただ再読するうちに、最初は意識できなかった原因もあったことに気づいた。

一つは、人間の無意識やそこに生じた傷に目を向けること自体が、ある種の不快感を伴うこと。

この不快感は、大怪我を負った人の写真や、手術中の体内の映像に対して感じる感覚に近い。

もう一つは、自分自身の無意識やそこに生じた傷に目を向けさせないような抑圧が、自分自身の中で絶えず機能していること。

これらの原因を自覚できてからは、『精神分析入門』の中身を急に興味く読めるようになった。

2009年6月1日月曜日

『精神分析入門』を読んだ

今年の古典読破計画の第五弾として、ジークムント・フロイトの『精神分析入門』(新潮文庫上巻下巻、高橋義孝、下坂幸三訳)を読んだ。

医師も非専門家も含む聴衆を相手にフロイトが行った28回の講義をそのまままとめた『精神分析入門』と、その補足として書かれた『精神分析入門(続)』から成る本。

第一講「序論」と、最後の第三十五講「世界観というものについて」が、特に印象に残った。

第一講「序論」では、精神分析の実践や教育に伴う困難や、精神分析上の知見に対する世間の反対や嫌悪の原因などが説かれる。

新しい科学の領域を確立した人物ならではの、誇りと説得力に溢れた章だった。

最終講「世界観というものについて」では、精神分析が拠って立つ科学的な世界観が、哲学的な世界観および宗教的な世界観との対比において説かれる。

無意識という、それまで科学の対象外とされてきた領域を、科学的研究の対象として開拓したフロイトだったからこそ、科学者が堅持しなければならない原理や世界観について、徹底的に自覚的であったことが、よくわかる章だった。

佐々木はフロイトに対して、こうした科学的な原理や世界観の縛りを解体するような方向の仕事をした人物、というイメージを勝手に持っていたが、それが誤解であったことがわかった。
《「科学は人間の精神活動の一領域であり、宗教および哲学は、科学とは少なくとも同価値の別の領域であって、科学はこの両者になに一つ口出しすべきではない」と言うことは許されません。「科学も宗教も哲学もみな真理を目指すという同じ要求を持っているのであり、人間がどこからその確信をえてこようと、どこへその信仰を移そうと、その選択は各人の自由である」このような見解は特に高貴で、寛容で、包括的で、偏狭な先入観を免れているとみなされます。残念ながら、ただそのような見解には根拠がありません。それは全く非科学的な世界観の有害性を分ち持っているのであり、実際上は非科学的な世界観と同じものなのです。有体に言って、真理は寛容でありえず、いかなる妥協も譲歩も許さず、科学的研究は人間活動の一切の領域を自分の領域とみなし、ある他の勢力がその一部分を自分のものとして勝手に差し押さえようとしますと、容赦なく批判的にならざるをえないのです。》
(下巻439ページ)
 
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