2009年3月31日火曜日

F/I比

認識の枠組みは、人それぞれ違う。

認識の枠組みがあまりにも隔たっている人とは、コミュニケーションが難しい。

だが仮に、認識の枠組みが自分と完全に一致している人がいるとしたら、そのような人とのコミュニケーションは、おそらく意味がない。

お互いの認識の枠組みが、どれぐらい重なり合っているか。

裏を返せば、どれぐらいずれているか。

その「互いの認識の枠組みのずれ度」を横軸に取り、コミュニケーションの快感を縦軸に取ると、釣り鐘状の曲線が得られる気がする。

コミュニケーションの快感が最も高い「互いの認識の枠組みのずれ度」というものがあって、そこを越えても、こそに至らなくても、コミュニケーションの快感は下がっていく。

「互いの認識の枠組みのずれ度」が100%でも0%でも、コミュニケーションの快感は0になる。

で、そのような「互いの認識の枠組みのずれ」がもたらすコミュニケーションの快感の源泉には、「おもしろさ」と「おかしさ」の二種類があるのではないか。

英語で言えば、「interesting」と「funny」だ。

「interesting」と「funny」は、どう違うか。

「相手の認識の枠組みに自分も近づきたいと思う」のが「interesting」。

「相手の認識の枠組みに自分が近づきたいとは思わない」のが「funny」。

そう定義できるように思う。

相手の言動に「互いの認識の枠組みのずれ」を感じたとき、それが「interesting」と感じられることもあるし、「funny」と感じられることもある。

総体的に見て、相手の言動のうち、「interesting」に感じらる言動と「funny」に感じらる言動との比率を、ごく大ざっぱに数値化することは可能ではないか。

「funny」と「interesting」の比率だから、この数値を「F/I比」と呼ぶことにする。

「F/I比」を横軸に、コミュニケーションの快感を縦軸に取ったグラフも、やはり釣り鐘状の曲線になる気がする。

2009年3月30日月曜日

疲労が怖い

無理をすれば疲れがたまる。

疲れがたまればミスをしやすくなる。

会社に所属していたり、家族と一緒に暮らしていたりすれば、自分のミスをフォローしてもらえる可能性も比較的高い。

だが佐々木のような独身一人暮らしの個人事業者は、ささいなミスが身の破滅につながる可能性が、きわめて高い。

だから佐々木はミスが怖い。

ミスの増加につながる疲労の蓄積が怖い。

佐々木がアルコールを避けるようになったのも、一つには、アルコールを飲んだ翌朝の疲労が気になりだしたからだ(もう一つは、長期的な脳細胞への影響が怖くなりはじめたから)。

その恐怖感を共有できない人々は、プライベートでも、割と平気で「無理」を要求してくる。

当然、と言っていいと思うが、会社に所属していたり、家族と一緒に暮らしている人に多い。

もちろんそういう人にも、説明すれば、佐々木が感じている恐怖を理解してもらえる。

だがいちいち説明するのが面倒くさくて、そういう人とは、自然に疎遠になってしまう。

2009年3月29日日曜日

多数決

これは善悪の問題ではなく、単なる好き嫌いの問題なのだが、佐々木は多数決があまり好きではない。

多数決で決めたことは、「みんなの判断」になってしまう。

それが成功に終わっても失敗に終わっても、「みんなの判断」で実行したことからは、大切なことを、誰も骨身に沁みて学ばない。

それが成功に終わっても失敗に終わっても、「誰かの判断」で実行したことからは、少なくともその「誰か」が、大切なことを骨身に沁みて学ぶ。

多数決というのは、ある種のジョークとして行われるべきものだと思う。

こんなくだらないことで多数決かよ、みたいな。

多数決で決めるのが本気でいいと思っているらしい人に遭遇すると、自分とのあまりの認識の隔たりに、なんと言ってやっていいのかわからなくなる。

2009年3月28日土曜日

鏡でチェック

社会人は通常、外出前に自分の姿を鏡で確認する。

別に、自分の外見が美しいからではない(そういう理由で鏡を見る人も、いることはいるだろうが)。

とりあえず修正可能な問題点を発見して、可能な範囲で修正するためだ。

そのような確認と修正を怠る人間は、社会人として一人前に扱われない。

外見上の難点それ自体が問題視されるというよりも、むしろ、自分の難点をコントロールする意志の欠如が、問題視されるのだと思う。

自分の難点をコントロールする意志の欠如は、自分の行動全般をコントロールする意志の欠如を連想させ、周囲の人々を不安にする。

自分の外見上の難点は鏡で発見できるが、自分の思考の難点を発見するには、どうすればいいだろうか。

いろいろな方法があるだろうが、自分の考えを文章に書くというのは、かなり確実な方法の一つだろう。

自分の考えを文章に書いてみると、自分の考えの曖昧さ浅薄さや身勝手さや矮小さを、突きつけられる。

いい気になって書いたことを、あとで読み返して恥ずかしくなることも多い。

毎日鏡を見る習慣のない社会人は珍しい。

だが、毎日自分の考えを文章に書く習慣のない社会人は、いくらでもいる。

そのような社会人は、自分の思考の難点によって周囲の人々を不快にしているだけでなく、自分の思考の難点をコントロールする意志の欠如によって、周囲の人々を不安にしている可能性が高いのではないか。

ちょうど、鏡で自分の姿を確認せず外出した人が、周囲の人々を不快にし、不安にするように。

少なくとも佐々木は、文章を書く習慣のない人に対して、そのような不快や不安を感じることが多い。

2009年3月27日金曜日

生活を根底から規定する自然力

TQ―心の安らぎを発見する時間管理の探究』(ハイラム・W・スミス著、黄木信、ジェームス・スキナー訳)を読み返していたら、こんな詩が目にとまった。
《私はいつもあなたのそばにいる
一番頼りになる助け手でもあれば、あなたが背負う最大の重荷でもある
成功への後押しもすれば、足を引っ張って失敗にも導く
私はあなたの命令次第で動く
あなたのすることを私に任せてくれれば
私は素早く正確に片付けてしまう
私の扱いは簡単
しっかり指示すれば、それでいい
どのようにしてほしいのか明確に示してくれれば
少しの練習のあとで自動的にそのことをこなす
私はすべての偉人の下僕であり
そして残念ながら、すべての失敗者の下僕でもある
偉大な人が偉大になったのは私のおかげ
失敗した人がしくじったのも私のせい
私は機械ではないが、機械のように正確に
そして知性あふれる人間のように賢く働く
利益になるように私を使うこともできれば
破綻をきたすように使うこともできる
私にとってそれはどちらでもよい
私を利用して訓練し、しっかり指示してくれれば
世界をあなたの足もとに届けてあげよう
しかし、私を甘く見ればあなたを滅ぼすだろう
私は誰だろうか?
私は習慣である
(『習慣』作者不詳)》
原文はこちらのよう。
《I am your constant companion
I am your greatest helper or
your heaviest burden.

I will push you onward
or drag you down to failure.
I am completely at your command.

Half the things you do,
you might just as well turn over to me,
and I will be able to do them quickly
and correctly.

I am easily managed;
you must merely be firm with me.
Show me exactly
how you want something done,
and after a few lessons
I will do it automatically.

I am the servant of all great men
and, alas, of all failures as well,

Those who are great,
I have made great.
Those who are failures,
I have made failures.

I am not a machine,
though I work with all the precision
of a machine
plus the intelligence of a man.

You may run me for profit,
or run me for ruin;
it makes no difference to me.

Take me, train me,
be firm with me
and I will put the world at your feet.
Be easy with me,
and I will destroy you.

Who am I?

I am HABIT!

("HABIT" author unknown)》
自分は習慣の主人になっているだろうか。

習慣の奴隷になっていないだろうか。

ある面では主人になっているし、ある面では奴隷のままだ。

工夫と意志次第では、習慣の力にまだいくらでも働いてもらえる余地があることは、間違いない。

もっと自分が生産的で幸福になるために、習慣に対して創造的かつ意志的になりたい。

石原明さんが潜在意識を「潜在意識さん」と呼んでいるように(『「成功曲線」を描こう。』)、岡本吏郎さんが無意識を「無意識くん」と呼んでいるように(『成功はどこからやってくるのか?』)、習慣を「習慣くん(ハビットくん)」と呼んでもいいかもしれない。

ただ感覚としては、習慣の力には自然力のイメージがふさわしい。

TQ―心の安らぎを発見する時間管理の探究』の原題は、"The 10 Natural Laws of Successful Time and Life Management"(時間・生活・人生のマネジメントを成功させる10の自然法則)。

やはり自然法則なのだ。

とてつもなく大きな弾み車。

ちょっとやそっとでは動き出さない。

一定方向に力を与え続けていると、少しずつ回り出す。

いったん勢いがついたら、ちょっとやそっとでは止まらない。

だが放っておけばいつかは止まってしまう。

習慣とはそういうイメージだ。

2009年3月26日木曜日

『売り込まなくても売れる! ― 説得いらずの高確率セールス』を読んだ

キーワードマーケティング研究所の滝井秀典さんが先月の営業セミナーで紹介されていた、『売り込まなくても売れる! ― 説得いらずの高確率セールス』(ジャック・ワース、ニコラス・E・ルーベン著、坂本希久子訳、神田昌典監修)を読んだ。

これまた滝井さん推薦の『凡人が最強営業マンに変わる魔法のセールストーク』(佐藤昌弘著)同様、営業のやり方だけでなく、ビジネスモデルのあり方にまで開眼させられる本で、傍線引きまくりだった。

佐々木が読んで特に反省させられたのは、次の三か所。
《見込み客というのは、まず商品に対するニーズがあり、商品を希望し、資金があり、こちらが【満足条件】を満たせば一定の時間で購入契約をする意志のある相手のことだ。》
見込み客の定義が甘かったために、佐々木はこれまでずいぶん無駄な努力をしてしまっていた。
《どの業界でも市場競争力には「価格・品質・サービス」の三つがある。一般に、競争市場では、どんな起業も《三つを同時には提供できない》。〔‥‥〕価格・品質・サービスの各分野で自分の会社が売り物にできるのは何かを決めることが第一段階だ。》
佐々木はともすると、「価格・品質・サービス」の三つを同時に追おうとしてしまっていた。
《商品の話は抜きにして、相手をよく知り、信頼と尊敬に値する人物かどうかを判断する。取引を進めるかどうかはその判断しだいだ。/この人は信頼も尊敬もできないとわかったときにそれを取り繕うのは難しい。〔‥‥〕信頼も尊敬もできない相手と商売しようとしても、呼吸が合わない。呼吸が合わないと、トラブルばかりでろくな結果にならない。/【高確率セールス】では《信頼と尊敬に値する相手》とのみ取引する。》
「信頼も尊敬もできない相手とは取引しない」という決意が希薄だったために、佐々木はいくつものトラブルを抱えてしまっていた。

2009年3月25日水曜日

筋肉の重み

非常に調子よくゆるんで立てたときは、自分の骨格に対して、自分の筋肉の重みが掛かる感覚がある。

論理的には、自分の筋肉に対して骨格の重みが掛かったり、骨格に対して内臓の重みが掛かったり、筋肉に対して内臓の重みが掛かったり、といったことも感じられるはずだ。

しかしまだその境地までは到達していない。

2009年3月24日火曜日

不惑わくわく

「不惑」と呼ばれる年齢もあと2年。

「迷いがない」ということは、「心が定まっている」ということだろう。

それは大切なことだ。

組織活動の実行段階では、リーダーの心が定まっているかどうかが、活動の成否を分ける。

一方で、「定まっている心」は、ともすれば「自分が変化するのを拒む心」にもつながる。

物ごとの考え方ややり方で、他人と衝突したとき、気がつくと、「相手が変化すべき理由」、「自分は変化する必要がない理由」ばかりを考えている。

個人としての成長が、鈍化し始めている証拠ではないか、と気づいて慄然とする。

「心が定まる」ことを是としつつも、「定まった心」の是非を客観的にチェックし続けることを心がけたい。

これは、人とのコミュニケーションのためにも必要なことだ。

まったく心が定まっていない人。

完全に心が定まってしまった人。

どちらの人とも、生産的で幸福なコミュニケーションはできない。

2009年3月23日月曜日

統合的なパーソナリティーの抑圧

キーワードマーケティング研究所の滝井秀典さんが先月の営業セミナーで紹介されていた、佐藤昌弘さんの『凡人が最強営業マンに変わる魔法のセールストーク』を読んだ。

営業のやり方だけでなく、ビジネスモデルのあり方にまで開眼させられる本だった。

本筋からは外れる話ではあったが、「交流分析」の紹介もおもしろかった。

これは、人間の心は「1.批判的な親心」、「2.養育的な親心」、「3.無邪気な子供心」、「4.従順な子供心」の四つのパーソナリティーから成り立っている、という理論。

超一流の営業マンは、相手に合わせてこの四つのパーソナリティーを瞬時に切り換えているが、そんな器用なマネはできない凡人は、この四つを統合する「5.理性的・合理的な大人の心」で相手に接し続ければよいと。

なるほどと納得。

ただ、いつも「5.理性的・合理的な大人の心」でいられるようになれば、それで万々歳かといえば、そんなことはないだろう。

ビジネスの場では、それでけっこううまくいくのかもしれない。

しかし、統合的なパーソナリティーが他の四つのパーソナリティーを抑圧し過ぎると、おそらくプライベートでの人間関係に支障が出る。

佐々木自身が、そのような問題を抱えている気がする。

2009年3月22日日曜日

喫論・禁論・分論

佐々木は外国で生活した経験がないのでわからないのだが、日本人は比較的「議論嫌い」が多いとよく聞く。

たしかに、「公共の場では議論を慎むべき」という空気はよく感じる。

一方で、日本人にも何かと議論せずにはいられないタイプはいる。

日本においては、議論は喫煙のようなものになっていると言えるかもしれない。

議論好きの日本人の多くは、議論が嫌悪される環境を避け、議論好き同士で集まって議論にふける。

議論する相手が身近にいないときは、ネット上の掲示板やブログに一人でごちゃごちゃと書き込んだりする。

公共の場の分煙化が進んだ結果、タバコ嫌いの人々がタバコの煙をほとんど吸わずに済むようになったのと同様、日本においては、公共の場の「分論化」が進んだ結果、議論嫌いの人々は議論にほとんど接しないで済むようになった。

タバコの煙を吸わないようにすることが健康によいことは、ほぼ間違いないと思う。

これに対して、議論に接しないようにすることが当人の幸福に資するのかどうかは、ちょっと疑わしい。

2009年3月21日土曜日

ときほぐれるように、ときほぐれるように

高岡英夫先生が開発された「ゆる体操」(『仕事力が倍増する“ゆる体操”超基本9メソッド』等を参照)を、佐々木はここ10年以上、習慣的に行っている。

きちんと数えたことはないが、「ゆる体操」に含まれる体操の数は、名前が付いているものだけでも、軽く100を越えるのではないか。

またそれぞれの体操に、やり方やメッセージやポイントが膨大に含まれている。

自分の状態や進歩に合わせて、そのときどきで、ハマる体操やポイントも変わっていく。

最近ハマっているのは、「寝ゆる黄金の3点セット」の一つ「腰モゾモゾ体操」をやるときの、「ときほぐれるように、ときほぐれるように」というメッセージ。

基本的にはこの体操、「モゾモゾ、モゾモゾ」とつぶやきながら行う。

この「モゾモゾ」というのも、たいへん優れたメッセージだ。

「モゾモゾ」の「モ」で体が柔らかくなり、「ゾ」でコリや疲れがこそぎ落とされるような感覚がある。

ただ佐々木の場合、「モゾモゾ」だけだと、どうも仙骨周りの拘束がなかなか解体されず、やっていてだんだんイライラしてきてしまう。

そこで「ときほぐれるように、ときほぐれるように」というメッセージをつぶやくと、仙骨周りの拘束が中から解体され始める感覚がある。

「モゾモゾ」は拘束の外側からのアプローチ、「ときほぐれるように」は拘束の内側からのアプローチという感じが、佐々木にはする。

特に「ときほぐれるように」の「と」の音には中心にダイレクトに到達する力を感じるし、「き」の音には全体を切り裂くような力を感じる。

2009年3月20日金曜日

みかん山

ぽかぽか陽気、富士山、坂道、猫一匹。


2009年3月19日木曜日

春到来

コートを置いて外出。





2009年3月18日水曜日

『資本主義と自由』を読んだ

今年の古典読破計画の第三弾として、ミルトン・フリードマンの『資本主義と自由』(村井章子訳)を読んだ。

佐々木は、福澤諭吉が説く「独立自尊」の精神に深く共感している。

だから、「大きな政府」よりも「小さな政府」を支持する。

この本でミルトン・フリードマンが主張している政策にも、ほぼ同意する。

ミルトン・フリードマンの「小さな政府」論は、政府による社会保障の必要性も踏まえた、現実的で穏健的なものだ。

だが、どういうわけだろう。

ミルトン・フリードマンの政策的主張には同意できるのだが、その政策的主張を導くロジックには、まったく魅了されなかった。

逆に、佐々木はカール・マルクスの政策的主張にはまったく同意できないのだが、その政策的主張を導くロジックには、深く魅了される。

ミルトン・フリードマンのロジックからは、この世界を丸ごと把握しようとする気魄が感じられないのだ。

自分の理屈に都合のいい現実だけを、適当につまみ食いしている印象だ。

社会モデルとして「ロビンソン・クルーソー的人間同士の契約」モデルが頻出するのも気に入らない。

現実の社会はそのようにはできていない。

少なくとも歴史的に、人間社会はそのようには発生していない。

「大きな政府」のデメリットや「小さな政府」のメリットを説いた本なら、これよりもずっとわかりやすい本が、何冊も出版されている。

申し訳ないがこの本を「古典」と呼ぶのは、ちょっと無理がありそうだ。

2009年3月17日火曜日

全会一致

「他人に反対されてもやりたい」と発案者が思っているアイデアは、たとえ発案者以外の全員から反対されたとしても、良いアイデアだ。

良いアイデアを実行した結果、たとえ失敗に終わったとしても、それは良い失敗だ。

「他人が賛成するならやりたい」と発案者が思っているアイデアは、たとえ全員の賛成を得られたとしても、悪いアイデアだ。

悪いアイデアを実行した結果、たとえ成功に終わったとしても、それは悪い成功だ。

極論だが、そう思う。

2009年3月16日月曜日

当人にとっての驚き

唐津一さんが『ビジネス難問の解き方』で書いていたように、「情報量とは驚きの量」だ。

人が何か発言をするときは、自分の発言に一定以上の情報があると思うからこそ、その発言をする。

言い換えれば、自分の発言に何らかの驚きがあると思うからこそ、その発言をする。

聴き手にとって驚きがあると思ったから、というだけではない。

話し手にとっても驚きがあった着想だからこそ、その着想は話される。

たとえば「世の中、カネがすべてだ」という発言をする人は、「世の中はカネがすべて」という考えに、聴き手が驚くだろうと思ったからそのように発言するばかりではない。

自分自身がそのような考え方に驚いたからこそ、そのような発言をするのだ。

本当に「世の中はカネがすべて」と信じきっている人は、むしろ「お金よりも心の方が大切」という考えに驚きを感じて、「お金よりも心の方が大切だよ」などと発言したりするものではないだろうか。

だから、ある人の発言内容を、そっくりそのままその人の考えと見なすことは、できない。

発言とは多くの場合、聴き手または話し手にとって「驚き」であると、当人がたまたまそのとき感じたことに過ぎない。

2009年3月15日日曜日

制御不能な身体

高岡英夫先生が『究極の身体』などの著書で指摘されているように、高度な能力を発揮するためには、身体が高度にゆるんでいることが不可欠だ。

身体のゆるみには、レベルがある。

たとえば自分の体を10のレベルまでゆるめることを目指していて、現状では3のレベルまでしかゆるんでいないとする。

このとき、3→4→5→‥‥というふうに少しずつレベルを上げていけば、いつかは10のレベルに到達できるのだろうか?

まったくそんなことはないということを、最近痛切に感じる。

自分の体がいきなりレベル10までゆるんだら、どういうことが起こるか。

自分で自分の体をコントロールできなくなる。

達人レベルの身体調整者に体を調整してもらうと、そういう状態になる。

佐々木も何度か体験した。

ところが自分で自分の体をゆるめようとしているときは、無意識のうちに、目指すレベルを「現在の自分がコントロールできる範囲」に限定しがちなのだ。

体のゆるみのレベルには、脳の制御能力のレベルが対応している。

3のレベルまでゆるだ体には、3のレベルの制御能力を持つ脳が対応している。

この脳は、放っておくと、3のレベルの制御能力でコントロールできる範囲までしか、体をゆるめようとしない。

短期間で(遅くとも自分が死ぬまでに)10のレベルまで体をゆるめるためには、「自分の体を、自分ではコントロールできない状態までゆるめる」決意が毎回必要になる。

これは体操法の問題というよりも、マインドセットの問題だ。

2009年3月14日土曜日

必ず道はある

石原明さん推薦の本『大きく考えることの魔術』(ダビッド・J. シュワルツ著、桑名一央訳) を読み返していたら、こんな一節が目にとまった。
「必ず道はある」と自分に言い聞かせること

自分に「もうだめだ、この問題を解決する方法はない」と言えば、たちまち消極的な考えがあなたを支配する。そうではなく「この問題を解決する道は必ずある」と信じるならば、積極的な考えがあなたの心にどっと流れこんできて、ほんとうに解決する道がみつかるだろう。大切なのは「必ず道はある」と信じることだ。そうすれば自動的に、(やよようとか、引き返そうといった)消極的なエネルギーが転換され、(続けていこう、もっと先へ進もうという)積極的エネルギーが沸いてくるのである。》
「必ず道はある」。いい言葉だな。

思わず筆ペンを取り出して大書きしてしまった。

2009年3月13日金曜日

かもねぎ

「鴨がネギをしょって来る」どころか、カセットコンロと出し汁と調味料と薬味までしょって来るような幸運に、佐々木はこれまで何度もめぐり合ってきた。

そのぶん、一般的な苦労が足りない面はあるかもしれない。

ただそんなことを考えてもしかたがない。

幸運はありがたく受け取って、今度は自分自身が「ネギとカセットコンロと出し汁と調味料と薬味をしょった鴨」になる。

そうすればまたどこからか、「ネギとカセットコンロと出し汁と調味料と薬味をしょった鴨」がやって来る。

その繰り返しでいいと思う。

2009年3月12日木曜日

取材にシャーペンは必携

業務マニュアル製作の仕事には、クライアントの職場に出向いてのインタビューが必要だ。

インタビューのときのメモ道具には、最近はノートパソコンを使っている人が多いようだが、佐々木は手書き派。

A4クリップボードに挟んだ薄いA4方眼紙や、スケジュール帳の裏表紙に常時貼り付けてあるポストイットに、色ボールペンで、マインドマップ式で書きつけていく。

で、佐々木がこれまで行ってきたインタビューの場所は、いずれもオフィスやカフェなどだった。

ところが昨日取材に行った場所は、高級建材卸会社のショールーム。

床は天然木のフローリング、着席したテーブルも美しい白木造り。

いつものようにメモを取ろうとボールペンを手にして、佐々木はちょっと青ざめた。

永江朗さんが『インタビュー術!』という本で、「インタビューの道具」として次のように書いていたのを思い出したからだ。
ペン 書ければなんでもいい。唯一気をつけているのは、シャープペンシルを持ち歩くこと。喫茶店やオフィスでインタビューするときはいいが、小売店を取材するときなどは店頭で立ち話ということもある。そんなときは、油性であれ水性であれ、ボールペンやサインペンだと、万が一ペンを落っことして商品を汚してしまったら大変だ。商品は買い取ればいいけれども、お互い気まずい空気になる。小売店を取材するときはシャープペンシルでメモをとる。》
ペンを持った手が滑って、テーブルやフローリングにインクの跡を付けてしまったらどうしよう。

これまでこういう場所でインタビューをしたことがなかったので、シャープペンシルを持ち歩いていなかった。

ペンを落とさないようにずっと用心しながらメモを取るのは、けっこう大変だった。

帰宅してすぐ、シャーペンを鞄に入れた。

ノートパソコンでメモを取っている人も、パソコンが壊れたときのことを考えて、シャーペンとメモ用紙を常時必携したほうがいいと思う。

2009年3月11日水曜日

友だち

国や地方自治体の議員・首長の選挙が近づいてくると、特定候補への投票を依頼する電話が、自称「友だち」から掛かってくるのが普通であるらしい。

「らしい」というのは、佐々木は今まで一度も、そのような電話をもらったことがないからだ。

武術仲間10人ぐらいと食事をしているとき、そのような投票依頼のことが話題になったことがあった。

佐々木以外の全員が、そのような投票依頼を受けた経験があることを知って、佐々木はかなり驚いたのだが、むしろそのような経験がない佐々木のほうが、仲間たちから驚かれてしまった。

なぜ佐々木には、投票依頼をしてくる「友だち」がいないのだろうか?

単に友人が少ないからか?

もちろんそれもあるだろう。

だが、「そのような依頼をしても無駄な人間」と、知り合いの全員から見なされているから、と考えることもできるだろう。

あるいは、単に知り合いであるという理由だけで相手の政治的な意思を変更させ得ると考えているような人々から、「友だち」と認定されるような人間ではなかったから、とも。

それはそれで誇らしいことなのではないか?

と、佐々木は勝手に思っている。

2009年3月10日火曜日

一人で黙って考えない

「一人で黙って考える」習慣というのは、かなり特殊な習慣であるらしい。

少なからぬ人々にとって、「考える」ことと「話し合うこと」はイコールなのだ。

つまり、話し相手が目の前に存在しないところでは「検討する」という行為をしない、というのは、多くの人にとっては、ごく当たり前のことだったのだ。

そんなこともわからずに今まで生きてきたのか、とバカにされるかもしれないが、佐々木は最近ようやくそのことに気がついた。

そのことがわからなかったがために、他人の言動に対して、今までずいぶん不思議な思いをしてきた。

議題や目的を整理せずに会議を開こうとしたり、会議の前に自分の見解を整理してこなかったりするのは、単に本人の段取りが悪かったり、能力が低かったりするせいなのだと思い込んでいた。

どうやらそうとも言い切れないようだ。

2009年3月9日月曜日

たかがサークルの会計

佐々木が会計を担当しているのは、言ってしまえば、たかが会員数50人、年会費2万円弱の趣味のサークルに過ぎない。

そんなサークルの帳簿をわざわざ複式簿記で付け、毎年年度末が近づくと月別の収支貸借表を作成し、当年度の収支予測を出し、過去10期近くの収支推移をにらみながら次年度の予算案を作成することに、いったいどれほどの意味があるのか?

それだけの苦労をするだけのメリットが、ほんとにあるのか?

もっと大雑把に「絶対に足りなくならない」水準に会費を設定して、帳簿も預金通帳だけにしてしまって、余ったぶんはパーッと使う、みたいな会計でも、会員にとってのメリットはたいして変わらないのではないか?

複式簿記で帳簿を付けても、かえって会員にわかりにくくなるだけではないか?

そんな疑問を抱えながらも、佐々木が会計の地道な作業を続けるのは、岡本吏郎さんの『裏帳簿のススメ』の、次のようなフレーズが頭から離れないからだ。
《創造は単純作業の連続からしか生まれない。》
《不思議なことに、経理など地道な作業を怠る会社はいろいろな面で典型的な負の連鎖に入っていく。そのなかでも面白い負の連鎖に、会社の機械がよく壊れるという連鎖がある。
〔‥‥〕
さらに、こういった会社の特徴。
キャンペーンや忘年会などの大きな行事があるときほど、事件が起こる。ほんとうに不思議なのだが、ふだん、当たり前のことを当たり前にやっていない者たちに、「おまえらは、そんなことをする権利などないのだよ」と神様が言っているのではないかと思えるようなタイミングで事件が起きる。》
《〔‥‥〕儲かっていない会社はお金を大事にしていない。「数字」を大事にしないのだから、お金も大事にできないのだ。
毎日の売上代金は、毎日、売上代金専用の通帳に入れるのは当たり前だ。〔‥‥〕毎日の入金は自分で行かなくてはならない。それはどんなに忙しくてもしなくてはならないことだ。
しかし、たったこれだけのこともできない人がいる。金庫にはドンドンお金が貯まっていく。そして、それは支払日まで金庫に積まれ、支払日に入金することになる。しかし、貯まっているから伝票とのチェックもままならない。そうやって、まとまって入金されるお金の末路はひとつ。
消えるのだ。
忽然と消える。
横領の場合もある。
盗まれる場合もある。
ほんとうにどこにいったかわからない場合もある。
理由などどうでもよいだろう。目の前からお金が消える事実には変わりない。
こういうことを何回も見てきた。「そういうことが起きるから、ちゃんとやりなさい」と言う私のことばも聞かず、横領にあった人を何人も見てきた。お金は大事にされないと消えるのだ。》
《数字とお金はほんとうに不思議な存在だ。
「大事にすれば集まる」というのはわかるけれど、その大事にするという意味はとても深いような気がする。そして、それは理屈ではない。
その人が、数字やお金に向かうときの気持ちのすべてが結果となって出るとしか思えないのだ。》

2009年3月8日日曜日

道端

草花を見ていると春が近づいているとは感じるが、まだまだ寒い。



2009年3月7日土曜日

言言不一致

言ってることに矛盾がない人間は、言ってることとやってることが、必ず矛盾する。

これは、世界のすべては運動(=変化)しており、ヘーゲルが言うように「運動は存在する矛盾そのもの」だからだ。

客観的な事物が矛盾の複合体として存在する以上、事物を正しく反映した認識も、必然的に矛盾の複合体となる。

矛盾の複合体である認識を言葉で表現すれば、これまた当然に、言葉の内容も矛盾の複合体にならざるを得ない。

話に矛盾がないということは、その話が現実の半分しか反映していないということと、ほぼ等しい。

自分の話から矛盾を排除して平然としていられるということは、その人が現実に対してまともに責任を負っていないということとほぼ等しい、とさえ言える。

組織においても、責任ある立場にない者ほど、上層部の言葉の矛盾を嫌悪する。

矛盾の重要性を直観している上層部は「臨機応変」の重要性を強調するが、上層部が望むような形で「臨機応変」が実現されることはめったにない。

臨機応変な行動を組織的に実現するには、現実が持つ矛盾に対する理論的な認識を、組織内で共有する必要がある。

このような理論的な認識の共有は、文字言語なくしては不可能だ。

佐々木は業務マニュアルを書くとき「理論編」に相当する部分を重視するが、それにはこんな理由もあるのだ。

2009年3月6日金曜日

写真の勉強を始める

ゆえあって写真の勉強を始めた。

カメラなんて基本的にすべてオートで撮影してきたが、小さなデジカメでも、設定をいろいろといじってみると、けっこう面白いものだ。





2009年3月5日木曜日

満38歳になりました

♪Happy birthday, 俺!

ここ数日は雨・雪・曇りと続いたが、今日は朝から快晴。

十分過ぎる祝福。

2009年3月4日水曜日

確定申告

あまりにも正確な定義は、単なる言葉の言い換えに終わってしまい、対象の本質を何ら明らかにしない。

定義は少しばかり不正確なほうが、かえって対象の思わぬ特質を浮き彫りにしたりする。

ジャーナリストの日垣隆さんが、メルマガで確定申告に触れたところで
《堅気(かたぎ)である方のほとんどは確定申告とは縁がないでしょう。》
と書いていたのを読んで、佐々木は思わず笑ってしまった。

「堅気(かたぎ)の職業とは、確定申告をしない職業のことである」

という定義が頭に浮かんでしまったからだ。

まったく不正確きわまりない定義ではあるが、一般に「職業」というものが持つ思わぬ側面について、考えさせられる。

2009年3月3日火曜日

山田ズーニーさんの『伝わる・揺さぶる!文章を書く』

佐々木は文章を書くことを仕事にしているし、仕事上のやりとりもほとんどメールで行う。

だから佐々木が犯す「仕事上の失敗」のかなりの部分は、「文章の失敗」によって占められる。

「文章の失敗」をしでかしたとき、佐々木が文章読本類の中で一番読みたくなるのは、山田ズーニーさんの『伝わる・揺さぶる!文章を書く(PHP新書)』だ。

この本は、「よい文章」を書くためのテクニックを説いた本ではない。

周囲の人々と「よい関係」を築いていく。

さらには、自分自身と「よい関係」を築いていく。

そういったことのために必要なことの一部として、「よい文章」を書くことを位置づけている。

だからこの本では、身近な具体例をいくつも取り上げて「伝わる・揺さぶる」文章の書き方を検討しながらも、検討のほとんどの部分は、書き手自身の客観的な立場と個人的な思いの、深い掘り下げに当てられている。

リナックスカフェ代表取締役の平川克美さんは、『ビジネスに「戦略」なんていらない』で次のように述べていた。

《〔‥‥〕ビジネスにおけるわたしたちの人称は、いわばひとつの役割演技としての人称です。
 社長、部長、係長といった役職はもとより、医者、銀行家、八百屋、魚屋、大工といった職業もまたそれぞれの仕事の内容を示す呼称であると同時にひとつの役割演技としての人称でもあるのです。これらの役割演技を演じているのは「平川克美」とか「山田太郎」とかいう本人の名前です。しかし、たとえばわたしならリナックスカフェ代表取締役平川克美という場合の「平川克美」はひとつの役割演技の呼称なのです。別の言い方をすればキャラですね。芸風と言ってもいいかもしれません。〔‥‥〕
 ここで重要なのは、ビジネスの舞台では、それぞれがそれぞれのキャラを身にまといながらも、そのキャラを操っている交換不可能な「わたし」という個性が同時に存在しているということなのです。
 この場合、キャラは仕事の内容そのものに基礎づけられており、複数の存在が可能ですが、そのキャラをまとった個性は社会制度や規範や生活環境や自身の欲望というものが編み上げたこの世で唯一のものです。個人はここでは業務遂行的な課題と自己確認的な課題に引き裂かれたような関係にあります。この引き裂かれたような関係こそが仕事の面白さの源泉であり、エネルギーを生み出す源泉であると言えるのです。
 〔‥‥〕ちょっとややこしい話になりますが、自分の演じているキャラと自分の個性(=自分が自分であるところのもの)との落差の不断の交換プロセスが、ひとりの個人の中で生起しており、同時に他者との間においても行われている。ビジネスのコミュニケーションは、遂行的な課題についての遂行的なコミュニケーションですが、同時にそれぞれの「社会的な自分」と「個としての自分」がつくる落差のコミュニケーションでもあるわけです。》


ビジネスの現場では純粋に「社会的な自分」同士が向き合うのだ、という発想で書かれた文章本なら、書店のビジネス書コーナーにいくらでも並んでいる。

文章を書くことは「個としての自分」の表現だ、という発想で書かれた文章本なら、書店の教育書コーナーにいくらでも並んでいる。

だが、ビジネスの現場では「社会的な自分」を「個としての自分」が裏で操っている者同士がコミュニケーションしている、という事実への洞察に基づいて文章本を書いている人は、佐々木の知る限り、山田ズーニーさん以外にはいない。

「個としての自分」を「社会的な自分」に優先させていては、ビジネスのコミュニケーションはうまくいかない。

これはあたりまえのことだ。

だが、「社会的な自分」を「個としての自分」に優先させ過ぎても、やはりビジネスのコミュニケーションはうまくいかないのだ。

それでは「個としての自分」が「社会的な自分」を維持できなくなる、というだけではない。

ビジネスの場で向き合う「社会的な相手」の向こうにも、やはり「個としての相手」がいるからだ。

山田ズーニーさんのこの本を読むたびに、こういったコミュニケーションに関わる奥深い問題に気づかされる。

2009年3月2日月曜日

抽象を介した共感

佐々木が中学生のとき、美術の先生から聞いた話。

その先生が学生時代、全盲の友人と歩いていて、夕日の美しさに思わず「わぁー!! 真っ赤な夕焼け!!」と叫んだところ、「『真っ赤』ってどんな色?」と全盲の友人から聞かれた。

困ったその先生、あれこれ考えた末、こたつにその友人の手を入れさせて「こんな色だよ」と説明し、「ごめんね」と謝った。

うまく説明できなくてごめん、という意味だったか、目の見えないあなたに色の話なんかしてごめん、という意味だったかはわからないが、とにかくたしか、謝った、とおっしゃってたと思う。

その全盲の友人は、「いいよ、ありがとう」と言ってくれたそうだが。

佐々木も全聾の友人と話しているとき、音楽のことがふと頭に浮かんでも、つい話すのをためらってしまうことが多い。

それは、耳が聞こえないない相手に音楽について説明することに難しさを感じる、ということだけでなく、音が聞こえない相手に音の話をすること自体に、どこか罪悪感を感じているのだと思う。

でもその罪悪感って、無意味だよな、と最近思うようになった。

一昨日書いたように、大髙博幸さんがラジオで化粧について話すのを聴くのは、化粧のことに興味がない佐々木にとっても楽しい。

化粧に興味がない佐々木は、いわば化粧への感覚を持たない。

ましてラジオで化粧話をされても、化粧品の効果を認知することすらできない。

それでも、「化粧できれいになる喜び」を抽象化して言葉で表現してもらえれば、その喜びは伝わる。

自分が感覚を持たない世界に、自分の認識が広がる喜びも得られる。

全盲の人にとっての、色彩への感動を伝える言葉も、同じだと思う。

全聾の人にとっての、音楽への感動を伝える言葉も、同じだと思う。

感動を抽象化して言葉で表現することは、その感動に対する感覚を持たない人にも、感動の機会を広げることなのだ。

2009年3月1日日曜日

キーワードマーケティング研究所の営業セミナーに出席

昨日はキーワードマーケティング研究所の滝井秀典さんのセミナーに出席した。

今回のテーマは営業成約率の向上。

滝井さんのセミナーは、事例や方法の単なる解説ではない。

誰にでも理解し共感できる身近な事実から、人間の感情や行動に潜む法則性を浮き上がらせ、ビジネスにも自己成長にも役立つシンプルなノウハウとして提示してくれる。

だから応用が効く。

応用が効くというのは、業態を問わないとか、事業環境が変化しても有効性を失わないとかいうことだけでない。

そのセミナーのテーマをはるかに超える領域にまで、有効性を発揮するのだ。

たとえば去年6月の文章術セミナーでは、単なるコピーライティングの技術にとどまらない、「人に動いてもらうこと」そのものの根本に関わる考え方、技術、そしてトレーニング方法を教えられた。

今回のセミナーも、冒頭で滝井さんが「営業プロセスがない物販は今回は対象外」とおっしゃっていたが、とんでもない。

人が何かを買うときや、買ったあとの心の動きや行動に、売り手のメッセージや問い掛けが与える影響の分析は、マーケティングにも大いに役立つものだ。

滝井さんの教材には、コンバージョン率の高いホームページの作り方を解説したDVDがあるが、今回のセミナーは、「成約率の高いホームページの作り方」としても聴ける内容だった。

佐々木は営業とかマーケティングとかいう以前に、ビジネスモデルの段階で方向が定まらず苦しんでいたのだが、今回のセミナーで、大きく目の前が開けた。

滝井さんがすばらしいのは、「自分の利益のために他人を操る」という発想が皆無なことだ。

買い手にとっても売り手にとっても最も幸福になる形を追求することで、ビジネスを成功させるという観点からの方法論なので、やましさで自分の感情を傷つけることなく、安心して打ち込むことができる。

ペットビジネスをしていたとき、小犬が輸送中に一頭でも死んだらビジネスをやめるつもりでいた、という話には、目頭が熱くなった。
 
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