2009年1月31日土曜日

紫の上がよかった

『源氏物語』の漫画化作品『あさきゆめみし』(大和和紀)にはたくさんの女性が登場するが、中でもよかったのは紫の上だった。

光源氏の愛をいわば争う関係である明石の上と、尊敬し合い理解し合いいたわり合う関係を築けたところとか。

光源氏が自分の女性遍歴を語って聞かせられる唯一の女性になれたところとか。

死期が迫っての「‥‥ああ‥! この世はなんと美しいのだろう‥‥!」の境地など、人生の理想とさえ思う。

紫の上に対する光源氏の扱いなど、ずいぶんひどいことをするものだ、と憤りを覚えもする。

だが紫の上が到達した、あの他者を愛し理解し世界そのものに感動する境地は、光源氏が紫の上に与えた愛と苦しみの両方があってこそのものだった。

他人に苦しみを与えることは、他人を愛することの欠かすべからざる一部だ。

すなわち、罪を犯すことを拒んで、人に愛だけを与えることできない。

源氏物語が千年以上にわたって愛読されてきたの大きな理由の一つは、この真理を描ききっているところにあるのではないだろうか。

最期まで出家を願いながら光源氏の懇願ゆえに出家を果たせず、それでいて、安易に出家していったどの登場人物よりも高い精神的境地に到達した紫の上の姿は、この点で何よりも示唆的だと思う。

2009年1月30日金曜日

『あさきゆめみし』を読んだ

『源氏物語』の漫画化作品である『あさきゆめみし』(大和和紀)を読んだ。

日垣隆さん主催の古典読書会メーリングリストで、日垣さんから今月の課題として提示されたので。

漫画を買って読むのは、10年以上ぶり。

少女漫画タッチの漫画を買って読んだのは、たぶん生まれて初めて。

ざっと全体を読んだときは、とても感情移入できる作品とは思えなかった。

まず少女漫画タッチの絵からして受け付けなかったし、現代とは倫理観があまりに違っていたし、貴族の世界の人間関係など想像を絶していたし。

しかしきちんと読んで見ると、思ってた以上に作品世界に引き込まれてしまった。

光源氏の最期の場面の「色は匂へど」の歌には、ちょっと涙ぐんでしまったほど。

『源氏物語』が千年以上にわたって愛されてきた理由が、この漫画のおかげでよくわかった。

『源氏物語』が国民の宝であるなら、この国民の宝を、これほどまでに親しみやすい形にしてくれた『あさきゆめみし』も、また国民の宝だと思った。

2009年1月29日木曜日

キーワードマーケティング研究所のセミナーに出席

昨日はキーワードマーケティング研究所主催のセミナーに出席した。

前半は滝井秀典さんが、後半は竹内謙礼さんが、2009年の市場予測と戦略を語る内容。

セミナー後は懇親会にも出席。

佐々木はこういう懇親会にはめったに出席しないのだが、起業で成功した人や、起業を志して勉強している人との交流は、想像していた以上にためになった。

佐々木に数々の貴重なお話しを聞かせてくださったみなさま、ありがとうございました。

2009年1月28日水曜日

人に動かされる

デール・カーネギーの『人を動かす』は、さすがに古典的名著と言われるだけのことはあり、人との接し方について、多くの貴重な学びを与えてくれる。

一方で、

「こういう『人を動かす』方法で人に動かされてしまう人って、人としてどうなんだ?」

と思わなくもない箇所も、少なくない。

聴き手が関心を向けてくれるのをいいことに、自分の関心事だけを延々しゃべり続けたり。

事実と意見の区別もつかず、事実レベルの誤りの指摘さえ、頑として受け入れなかったり。

こういう人を自分が尊敬できるかといえば、それはとても無理。

自分が長く付き合っていく人は、自分が尊敬できる人であってほしい。

だから、長く深く付き合っていきたい人に対しては、『人を動かす』の禁を破り、大いに誤りを指摘し、大いに批判し、大いに議論を吹きかけたい。

2009年1月27日火曜日

腸骨が気持ちいい

先日坐骨がいい感じになってきたと書いたが、ここ最近は、腸骨全体の状態がとてもいい。

左右の腸骨の内蔵側と脚側の両面が、かなりはっきりわかるようになってきた。

まだまだ、周囲の筋肉が固まったまま骨に癒着してはいる。

ただ、その癒着から腸骨が徐々に解放されて、骨として持っている本来の機能を果たし始める感覚が、非常に心地よい。

特に、明け方、目覚め近くにこの感覚が強まる。

腸骨の周囲がゆるんで腸骨が解放されてくるのを夢見心地に感じて、自分の掌底で自分の腸骨を動きやポジションを補助しながら、その気持ちよさに夢中になっていると、目覚まし時計のアラームが鳴るというのが、ここ最近の典型的な目覚めのパターンだ。

2009年1月26日月曜日

カール・マルクスの燃える闘魂

佐々木がカール・マルクスを好きなのは、彼の学説が無謬だからでもなければ、彼の政治的主張に佐々木が賛同するからでもない。

人類が全体としてぶつかっている巨大な壁を、己の学問の力でぶち抜こうと志す彼の闘魂が、佐々木は好きなのだ。

佐々木はプロレスのことはよく知らないが、アントニオ猪木にいまだに人気があるのは、彼が格闘家として不敗だったからでもなければ、政治家としての主張や行動が支持されたからでもないだろう。

猪木ファンが猪木の闘魂やファイトスタイルを愛するのと同じように、佐々木はマルクスの闘魂や学問スタイルを愛するのだ。
《学問にとっては平安の大道はない。そしてその険阻(けんそ)な小径(こみち)をよじ登るに疲れることを厭(いと)わぬ人々のみが、ひとりその輝ける絶頂に到達する幸せをもつものである》(『資本論』フランス語版序文)
これは「学問」を「人生」や「起業」に変えても、そっくりそのまま通用する名言だろう。
《科学の入口には、地獄の入口と同じように、つぎの要求がかかげられなければならない。

  ここでいっさいの優柔不断をすてなければならぬ。

  臆病根性はいっさいここでいれかえなければならぬ

  * ダンテ『神曲』》(『経済学批判』序言)
これもそう。人生の入り口にも起業の入り口にも、地獄の入り口とまったく同じ要求がかかげられなければならないはずだ。

2009年1月25日日曜日

「うちの仕事、もう全部できそうですね」

業務マニュアルづくりのためのインタビューで、クライアントの会社に何回目かの訪問をしたとき、佐々木があまりにも根掘り葉掘り細かなことまで聞くので、「うちの仕事、もう全部できそうですね」と笑われたことがある。

弊事務所は、「新人が初日から戦力になる業務マニュアルをつくる」ことを標榜している。

これは本気でそう決意しているのであって、だから佐々木は、佐々木自身が「このマニュアルを読めば自分でもなんとかこの仕事ができる」と確信できるまで、徹底的にマニュアルを作り込む。

そのためにクライアントから聞き出さなければならないことは、ものすごく多い。

クライアント自身が考えているよりも、はるかに多い。

新人にとっていかに多くのことが「わからない」かということが、中で働いている人には、わからない。

だから一般に、「新人が初日から戦力になる業務マニュアル」を社内でつくることは、おそらく不可能に近いだろう。

2009年1月24日土曜日

「自分の」領域を他人から犯されたくないという気持ち

爆笑問題の太田光が、どこかでこんな話をしていた。

太田の家では、掃除などの家事は、基本的に奥さんがやっている。

あるとき、奥さんが忙しくて、しばらく家の掃除ができなかったので、太田が気を利かせて、奥さんがいない間に、家の中を片づけ掃除機をかけておいた。

帰ってきた奥さん、片づいた家の中を見.るとたちまち機嫌を悪くして、「何よこれ、私へのあてつけのつもり!?」という感じで、太田に当たり散らしたのだとか。

芸人のネタをあまり真に受けるのもなんなのだが、この奥さんの気持ち、佐々木にはすごくよくわかる。

佐々木も、自分の部屋を勝手に他人に掃除されるのは、基本的に好まない。

部屋が整理された状態になること自体は好きだ。

だから掃除をしてくれること自体は、とてもありがたい。

と同時に、「自分の」領域で、こちらが頼みもしないことを他人がすることに対しては、なんとなく不快な感情を持ってしまう。

我ながら、やっかいな感情だとは思うのだが。

現代人なら、多かれ少なかれ、誰にでもこういう感情はあるのではないだろうか。

「自分の」領域を、他人から犯されたくないという気持ち。

ひるがえって考えてみると、佐々木は「頭がスッキリする業務マニュアル」を書くことを仕事にしている。

いわば、「他人の頭の中を整理すること」を仕事にしているわけだ。

「他人の頭の整理」も、たぶん「他人の部屋の整理」と同じだろう。

望まれてやるぶんには、歓迎してもらえる。

望まれもしないのにやれば、不興を招く。

2009年1月23日金曜日

自分は信頼を発散しているか?

トム・ピーターズの『ブランド人になれ!』(仁平和夫訳)は名言の宝庫だ。

たとえば
《あなたがいま立っているところ、そこがあなたのステージだ。さあ、力の限りを尽くして、ひとさし舞ってみろ。あなたのステージを、みんなが見てる。誰も見ていなくても、天が見ている。》
なんて、いつ読んでも泣きそうになる(紙に書いて壁のコルクボードにとめてある)。

その『ブランド人になれ!』に「ブランドは信頼のマーク」という章があって、次のようなことが書かれている。
《輝けるブランドになるためには、絶対に、信頼される人間にならなければならない。》
《あの人に頼めば絶対に大丈夫--そう言われる人が、ブランド人である。》
《厳しく自分を問い詰めてみよう。自分は信頼を発散しているか。自分の言葉には信頼の香りがするか、自分の身体から信頼が匂いたつか。じっくり考えてみよう。》
最近驚かされるのは、業務マニュアルづくりの打ち合わせやインタビューでクライアントの会社を訪問したとき、まだ数回しか顔を合わせていないのに、あるいはまだ初対面だというのに、明らかに企業秘密に属するような情報や手順を見せてくれたり、ファイルにして渡してくれたりする方が多いことだ。

佐々木が業務マニュアル製作の事業を始めようと思ったとき、最も不安だったことの一つは、果たしてこのような仕事を、外部の、見ず知らずの人間に任せてもらえるものなのか? ということだった。

明らかにニーズはある。

そのニーズに応える自信もある。

ただ、業務上の秘密やノウハウを絶対に外部に漏らさないと、信用してくれる会社がどれだけあるのか。

それが不安だった。

こうして実際に弊事務所を信頼して任せてくれるクライアントが現れて、佐々木のほうがびっくりするくらいの信用のしかたをされるようになって、おずおずとだが、思う。

もしかすると、自分は信頼を発散できはじめているのではないだろうか。

佐々木はその信頼に、絶対に応えなければならない。

2009年1月22日木曜日

締め切りを守ろうとする力のすごさ

業務マニュアルづくりのためのインタビューを終えて、「こんなに複雑な仕事、いったいどうすりゃ新人にもわかるように説明できるんだ?」、「さすがにこれは1週間ではムリじゃないか?」と途方にくれるような状況でも、締め切りが近くなってくると、突然、「これしかない!」、「これならわかる!」という説明のしかたがひらめいて、締め切りまでには、ちゃんと、わかりやすいマニュアルができあがる。

こういうときは、自分の能力に感動しさえする。

2009年1月21日水曜日

年相応

先日都内に出たとき、昼食を駅ナカの定食屋さんでとった。

「ライス大盛り、サービスできますけどどうしますか?」と聞かれて、「同じ値段なら量が多いほうが得」と単純に考えて、大盛りをお願いした。

出て来た量、そんなに多いとも思えなかったのだが、最後、ご飯もおかずも1割を残したところで、急に体がそれ以上を受け付けなくなる。

食べ物を残すこと、捨てることには、ものすごく抵抗があるのだが、無理をすると明らかに午後の仕事に差し支えそうだったので、残して席を立つ。

自分で注文した料理が多すぎて残すというのは、はじめてのことかもしれない。

ちょうど前日の夜も、自分で用意した料理に、最後「ちょっと作り過ぎたかな?」という感じがしたばかり。

食事の量も、年相応にしていかないといけない、ということかも。

2009年1月20日火曜日

料理の時間

佐々木の外食率は低い。

たいてい食事は自分で作る。

それができるのは、実務翻訳とか、業務マニュアル製作とか、ほとんどの作業を自宅でできることを生業にしているからなのだが。

むしろ、あまり外食しなくても住む仕事を、意図的に選んで生業にしている面もある。

食事を自分でつくるメリットは多い。

大きく分けると三つ。

一つ目。

外食によりもはるかに健康的で、はるかに美味しい食事が、はるかに安くできる。

二つ目。

料理はいい息抜きになる。

料理研究家の故丸元淑生さんは、週末の常備菜づくりを、たしか「魚釣りと同じで無心になれる時間」と表現していた。

趣味でやる魚釣りと同じ位置づけと考えれば、多少手間がかかる料理も、ある程度の頻度でやる意欲がわく。

三つ目。

これは佐々木にとってのメリットだが、業務マニュアルづくりの能力が高まる。

一般的には、仕事の段取りを組み立てる能力が高まる、と言ってよいと思う。

料理は基本的に、五感と五体を駆使して生産し、五感と五体で消費する。

「適当に」としか表現のしようがないが、かといって、どうやってもいいというわけでもない、という手順にあふれている。

こういう労働を日々やっていると、業務マニュアルライターとして、初めて見る仕事の手順や勘どころを体で理解する能力が、自然に高まる気がする。

2009年1月19日月曜日

坐骨がいい感じになってきた

昨年末に運動科学総合研究所の「下丹田」、「中丹田」の講座に出て以来、呼吸法を朝のルーティーンに入れている。

当然、呼吸法をやる準備として、ゆる体操の一つである「坐骨モゾモゾ座り」をやる。

そのおかげで最近、坐骨をかなり気持ちよく使えるようになってきた。

というか、今までいかに坐骨(を含む骨盤全体、ということは要は体全体)を不合理に使っていたかが、わからされてきた。

高岡英夫のゆるウォーク』という本に、「上半身を支える正しいライン」というのが紹介されている。

《(「かかとクルクル体操」の特筆すべき効果の一つは)脚の中に、股関節から脛骨の真下までつながる1本の線が感じられるようになることである。

股関節から脛骨の真下につながる1本の線とは何か。これが上半身の体重を支える正しいラインである。立っているとき、このラインで支えられるようになると、他の部位から自然にムダな力が抜け、ストンと立てるようになる。》


たしかに、「股関節から脛骨の真下までつながる1本の線」で上半身の体重を支えられると、体から余計な力が抜ける。

逆にこの線で体重を支えられないと、特に脚や腰の外側に無駄な力が入って、自然にガニ股になる。

「股関節から脛骨の真下までつながる1本の線」で上半身を支えて立とうとすれば、必然的に、適切な足幅(右足と左足の間隔)が決まってくる。

「坐骨モゾモゾ座り」をここ半月ほど毎朝やってわかったのは、座るときにも「上半身を支える正しいライン」があって、この正しいラインで体重を支えながら座ろうとすれば、必然的に「適切な坐骨幅」(左右の坐骨同士の間隔)が決まってくるということだった。

佐々木はこれまで、骨盤自体がいわばガニ股になっていた。

坐骨の状態が特にいいときは、立っているときにも、左右の坐骨を真下にしたラインが腰の中に通る感覚がある。

そういうときは、左右の腸骨がそれぞれ独立して垂れ下がっている感じが少しする。

2009年1月18日日曜日

「おい、夕日がすんげぇきれいだぞ!」

ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』(池田香代子訳)に、酷寒と飢餓と重労働と暴力と伝染病で衰弱した人々が毎日のように死んでいく強制収容所にあって、美しい夕日を見るだけのために、仲間にせかされみんなで重い体を引きずり外に出たエピソードが紹介されている。
《 あるいはまた、ある夕べ、わたしたちが労働で死ぬほど疲れて、スープの椀を手に、居住棟のむき出しの土の床にへたりこんでいたときに、突然、仲間がとびこんで、疲れていようが寒かろうが、とにかく点呼場に出てこい、と急きたてた。太陽が沈んでいくさまを見逃させまいという、ただそれだけのために。

 そしてわたしたちは、暗く燃えあがる雲におおわれた西の空をながめ、地平線いっぱいに、鉄(くろがね)色から血のように輝く赤まで、この世のものとも思えない色合いでたえずさまざまに幻想的な形を変えていく雲をながめた。その下には、それとは対照的に、収容所の殺伐とした灰色の棟の群れとぬかるんだ点呼場が広がり、水たまりは燃えるような天空を映していた。

 わたしたちは数分間、言葉もなく心を奪われていたが、だれかが言った。

 「世界はどうしてこんなに美しいんだ!」》
極限的に悲惨な状況にあってなお、というか極限的に悲惨な状況にあるからこそ、人が自然の美しさに感動できるということに、心打たれるだけではない。

感動を仲間と共有することが、人間にとって、文字通り死ぬほど疲れ切った体を立ち上がらせるほど意味のあることなのだということに、心動かされる。

佐々木は自分が感じた感動を周囲に伝えなさ過ぎる。

伝えることをあきらめ過ぎる。

伝わらない人間に伝えると、せっかくの感動が穢されるとさえ思っている。
《打明けて語りて

何か損をせしごとく思ひて

友とわかれぬ》

(石川啄木『一握の砂』)
あの強制収容所にあって、夕日がきれいだからとにかく出てこい! と仲間をせき立てた被収容者は偉い。

いや「偉い」というのは、たぶん違うのだろう。

本人にしてみれば、そうせずにはいられなかったからそうした、というだけのことなのだろう。

ただ『夜と霧』のあのエピソードを読むと、そうやって感動を共有しようとする人間はやっぱり社会にとってすごく必要だ、と思わずにはいられない。

2009年1月17日土曜日

生きるための心理的抑圧

今年の古典読破計画の第一弾として読んだ、ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧 新版』(池田香代子訳)。

この本の趣旨からはある意味ずれるのだが、「生きるための心理的抑圧」とでも言うべき問題が、佐々木の心をとらえた。

つまり、無意識下に抑圧しておくことでかろうじて自分の精神を正常に保てるような、抑圧しておかなかったら精神的にまともに日常生活を送れなくなるような、そんな「異常な体験」の問題だ。

多くの元被収容者は、強制収容所での体験を語りたがらない。
《 強制収容所についての事実報告はすでにありあまるほど発表されている。したがって、事実については、ひとりの人間がほんとうにこういう経験をしたのだということを裏づけるためにだけふれることにして、ここでは、そうした経験を心理学の立場から解明してみようと思う。その意義は、強制収容所での生活をみずからの経験として知っている読者とそうではない読者にとってでは異なる。第一の読者グループにとっての意義は、彼らが身をもって経験したことがこんにちの科学で説き明かされることにあり、第二のグループにとっては、それが理解可能なものになる、ということだ。つまり部外者にも、他者である被収容者の経験を理解できるようにし、ひいてはほんの数パーセントの生き延びた元被収容者と、彼らの特異で、心理学的に見てまったく新しい人生観への理解を助けることが、ここでの眼目なのだ。なぜなら、これはなかなか理解されないからだ。当事者たちがよくこう言うのを耳にする。

 「経験など語りたくない。収容所にいた人には説明するまでもないし、収容所にいたことのない人には、わかってもらかるように話すなど、とうてい無理だからだ。わたしたちがどんな気持ちでいたのかも、今どんな気持ちでいるのかも」》
なぜ戦争などの異常な体験をした人々は、自らの体験を語るのを拒むのか?

同じ体験をしていない者にとっては、これを理屈として理解することは容易でも、実感として納得することは困難だ。

もちろん直接の理由は「同じ体験をしていない」からだが、それだけではない。

自分自身にも、語ることを無意識に拒否している「異常な体験」がありながら、その「異常な体験」自体が自分の無意識下に抑圧されているため、「異常な体験」を語るのを自らに拒ませる機序も、対象化されないからだ。

自分のこととして理解できないことは、他人のこととしても理解できない。

『夜と霧』を読むと、異常な体験をした人々が自らの体験を語るのを拒む理由が、理屈としてだけでなく、実感としてわかるようになる。

それは、読者自身が、自らの異常な体験を無意識下に抑圧し語るのを拒んでいる機序を、対象化する契機にもなる。

当然、読者の周囲の人々が心の内に秘めている同じ機序を、対象化する契機にも。

それはなぜか?

一つには、『夜と霧』で語られている体験の異常さが、あまりにも突出しているから。

カール・マルクスが指摘しているように、物事の仕組みは、その物事がまだ発展しきっていない状態で見ても、正しくは理解できない。その物事が発展しきった状態で見てはじめて、物事の仕組みを正しく理解できる。そして、発展しきった状態を見て得られた理解は、まだ発展しきっていない状態を理解するために、大いに役立つ。
《ブルジョア社会は、もっとも発展した、しかももっとも多様な、生産の歴史的組織である。だからこの社会の諸関係を表現する諸カテゴリーは、この社会の仕組の理解は、同時にまた、すでに没落してしまったいっさいの社会形態の仕組と生産諸関係とを洞察することを可能にする、そして、こうした過去の社会形態の破片と諸要素とをもってブルジョア社会はきずかれているのであり、それらのうち、部分的にはなお克服されない遺物がこの社会でも余命をたもっているし、ただの前兆にすぎなかったものが完全な意義をもつものにまで発展している等々である。要するに、人間の解剖は猿の解剖にたいするひとつの鍵である。これに反して、低級な種類の動物にある、よる高級な動物への暗示が理解されうるのは、この高級なものそのものがすでに知られているばあいだけである。こうしてブルジョア経済は、古代やそのほかの経済への鍵を提供する。》(『経済学批判』所収「経済学批判序説」)
ナチスによる強制収容所での極めて異常な体験と、その体験の心理的影響を理解することは、それよりも異常度の低い、我々レベルの「異常な体験」とその心理的影響を理解するための、鍵になるのだ。

もう一つは、著者フランクルが自分の体験を極めて冷静に、学問的に分析して叙述しているから。

いくら異常な体験を語られても、「あんなひどいことがあった」、「こんなこともされた」、という語り方から、聴き手が自らの内面をえぐるような学びを得ることは難しい。

自らの体験を学問的に対象化することで人類の共有財産にしようとするフランクルの使命感には、ただ打たれる。

この本を読んで、「生きるための心理的抑圧」の問題が佐々木の心をとらえたのは、単に佐々木が個人的にそのような問題を抱えているからだけではない。

「クライアント会社のスタッフにインタビューして、クライアント会社の業務マニュアルを作成する」という、佐々木の仕事自体にも、この問題が関係してくるからだ。

恥部のない組織はない。

仕事のやり方に恥部を持たない職業人もいない。

業務マニュアルづくりのためのインタビューをしていると、ときどき、相手の体が微妙に固くなるのを感じることがある。

そういうとき、佐々木は基本的にそれ以上はその話を追わない。

正直言ってそのぶん、業務マニュアルはわかりにくいものになる。

しかし、そういう心理的抑圧は、個人が安定した日常生活を続けるためにも、組織が安定した日常業務を続けるためにも、必要なものだと佐々木は考えている。

包帯を巻いてあげられないのなら、他人の傷に触れてはいけません」という名言を小説に引用していたのは、たしか三浦綾子だったっけ。

2009年1月16日金曜日

壁にぶつかるのがうれしい

何か自分が問題にぶつかったとき、その問題を解決する力というのが、ここ最近、急激に増してきたような気がする。

壁にぶつかるとうれしい、突破するのが楽しいから、という気分。

よく切れる包丁を買うと、手当たり次第に切ってみたくなるのと、同じ感じ。

限界が見えてくるのは、素晴らしいことだ。

それは、いよいよ限界を越えるときが来た証拠なのだから。

2009年1月15日木曜日

青空の気持ちよさで脳の疲れが吹き飛ぶ

昨日は一日抜けるような青空。

空を見上げていると、青空の気持ちよさと自分の体の中が、突然一つになったような感覚になる。

連日のインタビューと執筆でたまりにたまった脳の疲れが、それで一気に吹き飛ぶ。


(クライアントへのインタビューに向かう電車から)

2009年1月14日水曜日

信用を築くには

信用。

それは最も大切な財産だと思う。

落としたお金は、誰かが拾って届けてくれるかもしれない。

失った信用は、誰にも取り戻せない(本人が1から築き直すしかない)。

所有する不動産の価格がいくら上下しても、本人の人間的価値には何の影響もない。

周囲や社会からの信用の高さは、本人の人間的価値そのものだ。

信用は、いったいどうすれば築けるのだろうか?

そんなの簡単なことだ、とユニカルインターナショナル社長でイー・ウーマン社長の佐々木かをりさんは言う。

佐々木かをりさんによれば、ゼロから相手の信用を得るには、次を実行しさえすればいい(『ミリオネーゼの手帳術』)。

(1)こちらから約束をする。
(2)約束したことをスケジュール帳に書く(約束を守るために必要なことも考えて書く)。
(3)約束の日時が来たらその通り実行する(約束通りであることを伝えて認識させる)。
(4)上の三つを繰り返す。


約束というのは、簡単なことでいいのだ。たとえば「明日の午後三時にお電話させていただきます」とか。

それで、本当に午後三時きっかりに電話を掛ける。「昨日お約束させていただいた三時ですので、お約束どおり、お電話させていただきました」という風に。

こういうことを繰り返しているだけで、まったくゼロからでも信用は築けてしまうものなのだ。

佐々木かをりさんのこの教えを、佐々木は6年前に知って、ほぼ忠実に実行してきた。

翻訳でも業務マニュアル製作でも、佐々木がこれまで途切れることなく注文を取れてきたのは、この教えに学んだおかげが大きいと思う。

ただ最近思うのは、「守れる約束をする」ことを重視するあまり、大きな約束をすることを自分は避けてしまっているな、ということ。

もっと大きな約束をしてみせないと、次の成長段階には進めない。

もっと大きな約束をしてみせなければならない。

2009年1月13日火曜日

達人の言葉

達人の言葉には、凡人にとってはわけがわからないものが多い。

松下幸之助が成功の秘訣を聞かれて、「雨が降れば傘をさす」と答えたというのがその典型。

武術の世界ではたしか、「敵の刀が通らないところに行けばいいんだ」みたいなことを言った達人もいたっけ。

こんなことを教えられたところで、凡人には役立てようもない。

ただ、なぜ達人たちはこういうわけのわからない教えを垂れたくなるのか? と反省してみる必要はあるだろう。

きっと達人たちの目には、「雨が降ってるのに傘をさそうとしない」、「敵の刀が自分に向かって振り下ろされているのにその場から動こうとしない」凡人たちの振る舞いが、不思議で不思議で仕方がないのだ。

さすがに、土砂降りの雨の中で手に持った傘をささない人は少ないだろう。

だが刃物で襲いかかられたとき、多くの人は、体が固まってその場から動けなくなってしまうのではないか。

いわゆる「居つき」だ。

現状維持が死を招く状況に直面して、なお現状維持に汲々とする。

そういう誤りを、多くの人が知らず知らずのうちに犯す。

今までの状態、今までのやり方で通用したからといって、いつでも、いつまでも、そのやり方が通用すると思うな。

必要な変化を、いつでも瞬時にできるようにしておけ。

そう達人たちは教えてくれているのではないか、と佐々木は思う。

2009年1月12日月曜日

自分の骨の形

ゆる体操を始めて12年、最近ようやく、自分の背骨の形が上から下までわかりかけてきた。

背骨というのは、多くの人が意識しているより、ずっと太いものだ。

特に下の方の背骨は、標準体型の人なら、体の奥行きの半分ぐらいの太さがある。

佐々木が12年前にゆる体操(当時は「ゆる体操」ではなく「ゆる」と呼ばれていた)を教えてもらって、最初に感動したのは、自分の前腕の中に骨が2本あることが、初めて実感できたことだった。

もちろん解剖図などで見て、知識としては、前腕の骨が2本に分かれていることを知っていた。

手で触った実感として、なんとなく骨が2本に分かれていることもわかってはいた。

しかしゆる体操をやって、前腕の2本の骨がバラバラになるように、バラバラになるように、とゆすっていたら、ほんとに2本がバラバラに動き始めたのは、かなり感動的なことだった。

だいたい、自分の体の中にある骨の形さえ把握できずにいて、自分の体の外にある世界や人々について把握しようなんて、ちゃんちゃら可笑しいことなのではないか、と思わなくもない。

2009年1月11日日曜日

情報収集力を高めるには

情報量とは驚きの量である。

これは評論家の唐津一(からつ はじめ)さんが『ビジネス難問の解き方―壁を突破する思考』でしている定義だ。
《そもそも情報の価値とは、どういうものなのか。これについて、コンピュータの原理を構築したことで有名なクロード・シャノンやノーベルト・ウィーナーらが体系づけた「情報理論」では、「情報量」という表現を使い、こう説明している。

報告書というものは分厚ければ分厚いほど、多くの情報がつまっていると思いやすいが、その中身がすべて自分の知っていくことばかりだったとしたら、そこから受け取る情報量はゼロに等しい。逆に、たったひとことしか記されていなくても、それが読む人に大きなインパクトを与えることもある。これが「情報量」の定義である。

すなわち、文字の多寡だけでは情報量の大小ははかれない、「受け手が知らなかった内容をどれだけ伝えているか」が、情報量のものさしになるというわけだ。ただし、これだけではまだ不十分である。じつは情報量というものは、受け手の「予測」をどのくらい覆すかという点に価値基準をおくべきなのである。

予測が覆れば、その後の行動も変わらざるをえない。ある人間に新しい情報を伝えたことで、それ以後の行動がどのくらい変わっていくか。その変化の比率によって情報量を規定しようというのが「情報理論」の考え方である。要するに、情報量とは驚きの大きさだといっていい。》
「どれほど多くの情報を得られるか」は、「どれほど驚く能力があるか」に制約される。

情報の受け手の立場から考えれば、そうも言えるだろう。

あるいは、「情報収集力とは驚く能力である」とも定義できるかもしれない。

ふだん当たり前だと思っていることに、何か驚くべきことはないか。

学ぶことは何もないと思っている相手から、何か学べることはないか。

そういう問い掛けが、情報収集力を高めるのだ。

そういえば内田樹さんはこんなことを言っていた。
《「知性とは驚く能力のことである」というのはロラン・バルトの名言である。

「驚かない」というのは要するに知性が鈍感だということである。

自分の手持ちのフレームワークにしがみつき、どんな新奇なことに遭遇しても、既知に還元して説明しようとする人間は、その狭隘なたこつぼから一生出ることがない。

その反対に、日常的に経験するあたりまえの事象のうちに「ん? なんか、変じゃない?」というふうにひっかかりを感知し、あらゆることのうちに驚きのタネを見つけることができる知性の方ができはずっと上等だ。

「驚かない」人間はどんどん鈍感になり、「既知」のうちに安んじる。

「驚く」人間は自分の周囲にたえず「未知」を発見してわくわくする。

さて、命にかかわるような大事件が起きたときに、適切に対処できるのはどちらだろう。

もちろん「驚く」ことに慣れている人間である。

この人にとって「驚く」ことは主体的な営みである。自ら選んだ世界へのかかわり方である。

驚きに対して、能動的なのである。

だから、「驚く人は、驚かされない」。

ひごろ驚かない人は、その鈍重で堅固なフレームワークが「壊れる」まで、変化に気づかない。そして、何の準備もないまま、いきなり想像を絶した命がけの事件に直面することになるのである。

だから、「驚かない人は、驚かされる」のである。》

2009年1月10日土曜日

ヘーゲルとゆるゆる棒

佐々木がこれまで他人に話したことがほとんどなくて、かつ、これまで一度も他人に理解されたことがないことを書く。

高岡英夫先生が開発したトレーニング器具に、「ゆるゆる棒」というのがある。以前は「統一棒」と呼ばれていた。

下の写真のように、木製の長棒と短棒を組み合わせた簡単な器具で、この上に立ったり、両手をついたりして使用する。



佐々木は今から12年前に、大学の合気道部の後輩に勧められて、初めてこのゆるゆる棒に乗った。

乗った瞬間、佐々木が真っ先に思ったことは、「あー! これがヘーゲルの言う『絶対精神』か!」ということだった。

ゆるゆる棒に乗ったときの、ふら~っとして一か所に定まらない状態にさせる「あれ」、「あれ」を哲学者ヘーゲルは、あらゆる運動の根底的な原動力として「絶対精神」と呼んだのか、と佐々木は、自分の体で納得してしまったのだ。

それは佐々木にとっては、かなり感動的なことだった。

ただ残念ながら、この感動を共有する相手が、佐々木にはいなかった。

まずゆるゆる棒に入れ込んでいる人間が、ほどんどいない。

ヘーゲルに入れ込んでいる人間も、ほとんどいない。

その上、ゆるゆる棒に入れ込む層とヘーゲルに入れ込む層は、ほとんど重ならない。

5年ほど前に一度だけ、武術で同じ地区組織に属する仲間数人に話してみたが、やっぱり理解されなかった。

初めてゆるゆる棒に乗ったときに同じことを思った人間は、佐々木以外にもいるのだろうか?

もしそんな人がいたら、とても嬉しいのだが。

(ゆるゆる棒は、運動科学総合研究所のコールセンターから購入できる)

2009年1月9日金曜日

体は伝染する

「頭スッキリ・胸わくわく・腹どっしり」となる業務マニュアルを作りたい、と一昨日書いた。

マニュアルを読んでそういう体の状態になってもらえるためには、マニュアルを書く佐々木自身の体が、そういう状態になっていなければならない。

体の状態は伝染する、と佐々木は思う。

リラックスした人がいると周囲の人もリラックスできるし、緊張している人がいると周囲の人も緊張する。

否、ほんとはそんな単純な話でもない。

その場にふさわしくないほどリラックスしている人がいると、かえって周囲の人が緊張することもある。

これから闘う相手が緊張しているのを見て、こちらがリラックスできることもある。

ただ一般的に、よい体の状態の人は、その人に関わる人々の体の状態をもよくしていく、と言っていいのではないか。

佐々木はそれを、業務マニュアルを通じてやろうとしている。

もっと言えば、ただインタビューするだけで、あるいはホームページやブログを読んでもらうだけで、それができる存在になろうとしている。

そんなこと、ほんとにできるのか?

できると信じるから、この仕事を始めたのだ。

2009年1月8日木曜日

相手の能力が自分よりも低く思えたとき

佐々木が通っていた大学に、森毅(もり つよし)という数学の先生がいた。

マスコミにもよく登場していた方だから、顔を見たことがある人も多いだろう。

佐々木は大学一回生のとき、この先生の、大学教官としての最後の年の数学史の講義を受けることができた。

たいへん雑談の多い講義というか、雑談の合間に、ときどき数学史の話が出るような講義だった。

一度、講義の中で先生がふと、次のよう意味のことをおっしゃったことがあった。
「自分より優れた人間から学ぶというのは、平凡な人間だってできることだ。自分より劣った人間から学ぶには、ちょっと高級な能力が必要だ」
数学史についてはほとんどすべてと言っていいくらい忘れてしまったのに、この教えだけは、妙に佐々木の頭に残った。

むしろ年を経るごとに、この教えの重要性は佐々木の中で増してきている。

なぜ、「自分より劣った」人間から学ぶことが大切なのか?

佐々木の考えでは、その理由は三つある。

一つ目。

「相手が自分より劣っている」というのは、端的には、「自分ができることが相手にはできない」ということだ。

何かが「できない」ことの構造をよく調べてみると、何かが「できる」ことの構造が、より鮮明に理解できることがある。

自分がなぜ「できる」のか理解することは、さらに「できる」ようになるために、とても役立つ。

二つ目。

人があることを「できない」のは、より困難で、より時間がかかる方法でやろうとしているせいであることが、しばしばある。

注意しなければならないのは、より容易で、より速くできる方法が、必ずしもよい方法とは限らないことだ。

より容易で、より速くできる方法には、必ずその方法なりのマイナス面がある。

逆に、より困難で、より時間がかかる方法にも、その方法なりのプラス面がある。

条件が変われば、より困難で、より時間がかかる方法のほうが、よいこともあるのだ。

何かが「できない」人が取っている方法をよく調べてみると、自分が気づきもしなかった方法に気づかされたり、自分が取っている方法の思わぬ欠点に気づかされたりすることが、よくある。

三つ目。

「劣っている」とか「優れている」とかいうのは、必ずある尺度に基づいてなされる判断だ。

「相手が自分より劣っている」と思うのは、自分が「優れている」と判断されるような尺度で相手を判断しているからだ。

あるいは、相手の方が「優れている」と判断されるような尺度で自分を判断することを、拒否しているからだ。

「相手が自分より劣っている」と感じたとき、「相手の方が優れている点はないか?」と探してみると、自分を判断するための、新しい尺度を手に入れることができる。

それは自分の成長の幅を広げるために、とても役立つ。

佐々木は自分の能力の低さに日々呻吟している人間だが、それでも、「こいつよりは自分は上だ」と感じてしまうことがよくある。

そんなときはふと、森先生のあの教えが頭に浮かんで、佐々木をして「こいつから学べることを意地でも探してやろう」という気にさせるのだ。

2009年1月7日水曜日

頭スッキリ・胸わくわく・腹どっしり

YMO(イエローマジックオーケストラ)の結成当初、リーダーの細野晴臣は、バンドのコンセプトを「頭クラクラ・みぞおちワクワク・下半身モヤモヤ」と表現した。

その伝で行くと、佐々木が作りたい理想の業務マニュアルのコンセプトは、「頭スッキリ・胸わくわく・腹どっしり」と表現できそうだ。

「頭スッキリ」
自分が関わる仕事が、全体としてどんな仕組みで動いているのかが、鮮明に頭に入る。⇒場面に応じて適切な判断ができるようになる。

「胸わくわく」
自分の仕事がどれほど人の役に立つのかがわかる。⇒情熱をもって仕事ができる。
努力すれば、もっと人の役に立つ仕事ができることがわかる。⇒成長への意欲が湧く。

「腹どっしり」
仕事でぶつかり得る障害とその解決方法が、前もってわかる。⇒困難にも対処できる自信がつく。

2009年1月6日火曜日

書類とコード類の整理には山根式袋ファイル

書類の整理には、山根式袋ファイルを使っている。

山根式袋ファイルというのは、下の写真のように、A4(角形2号)封筒に50音順インデックスを書き込めるようにしたもの。収納に便利なように、封筒の上のほうはカットする。





山根一眞さんの『A4革命』(絶版)に、この袋ファイルを作るための定規の型紙が掲載されていたので、コピーして厚紙に貼りカッターで切り抜いて、下の写真のような定規を作った。



この定規の型紙は『整理 (情報の仕事術)』にも掲載されている様子(こちらも絶版だが)。

上のインデックスには内容の頭3文字(カタカナ)、下のインデックスには日付を記入するのだが、佐々木は日付インデックスはあまり使わないので、日付インデックス用の線は引いていない。

郵便物などで届いたA4封筒は捨てずに取っておいて、ときどきまとめて袋ファイルにしておく。

使用済みのA4封筒では足りないときは、未使用のA4封筒から作る。

新しいクライアントから依頼があったら、逐次そのクライアント用の袋ファイルを作って、そのクライアントに関わる紙の資料は、すべてその袋ファイルに入れる。資料が入りきらなくなったら、内容で分類して袋ファイルを増やしていく。

セミナーに出席したときも、そのセミナー用の袋ファイルを作って資料を入れる。

家電を買ったら、それ用の袋ファイルを作って取扱説明書や保証書を入れる。

資料を入れた袋ファイルは、クライアント関係、セミナー資料関係、取扱説明書関係、お金関係、という具合におよその分類で分け、書類棚に50音順に並べる。



こうしておくと、資料探しで時間を取られることがほとんどなくなる。

さらに佐々木は資料だけでなく、デジタルカメラや携帯電話などのUSBケーブルや充電コードなども、この袋ファイルで整理している。

コード類というのはお互いに似ているので、まとめて置いておくとどれがどれだかわからなくなる上に、こんがらがってほどけなくなりがちだ。どこに置いたかもわからなくなりやすい。

袋ファイルで整理すれば、これらの問題も一気に解決される。

2009年1月5日月曜日

初稽古

昨日は、武術で同じ地区組織に属するTさんと、ある体育館の武道場で初稽古。

初稽古といっても、佐々木は元日から家での早朝の一人稽古は続けているのだが、やはり自宅と武道場ではまったく稽古環境が違うし、仲間のサポートなしにできる稽古にも限界がある。

武道場は貸し切り状態で、静かに、心行くまで稽古ができた。

たいへんに空気のよいところで、気温の低ささえ、すがすがしさを高めてくれていた。

自分の動きを背中側からチェックしてもらったり、サポートしてもらったりする稽古を、もう10年近くも続けている。

これだけ背中側の運動や意識を高めるトレーニングを積み重ねている人々は、世界中を見回してさえ、そうはいないだろうとさえ思う。

単に武術のトレーニングになっているだけでなく、自分を客観視する能力の向上にも役立っているのではないか、という気がする。

2009年1月4日日曜日

Wordのポテンシャルの高さを知っておこう

ワープロソフトとしてMicrosoft Wordを使っている人は多い。

だがこのソフトでどれほど多くのことができるかを知っている人は、意外に少ない。

仕事でよくWordを使う人は、ぜひ一度梶本洋子さんの『Wordでマスターする使えるビジネス文書 レイアウトの極意』に目を通しておくことをお勧めする。

この本を読むと、DTP(印刷物レイアウト)ソフトとしてもドロー(絵描き)ソフトとしても、Wordがいかに高いポテンシャルを秘めているかがわかる。

Wordでベジェ曲線を扱えるということは、佐々木はこの本で始めて知った。

たとえば佐々木は、下のような図もWordで作ってしまっている。



率直に言ってこの本、ハウツー本としては、決してわかりやすいわけではない。

格闘技にたとえるなら、入門者向けに基本技とその上達方法を解説した本ではない。

プロ同士が実際にリングで闘っている場面をビデオで撮影して、後から本人が解説しているような本、とでも言えばいいだろうか。

だから初心者が真似しようとしたところで、簡単に真似できるはずもないのだ。

しかし、仕事でWordを使っていて「これってなんとかならないのか!?」という壁にぶつかったとき、それが突破できる壁なのかできない壁なのかの、手掛かりを与えてはくれるだろう。

それだけではない。

この本にみなぎる梶本さんの職人魂が、素晴らしいのだ。

筆者のプロフェッショナリズムに触れられるだけでも、この本を買う価値はあると思う。

その一端に触れてもらうため、「はじめに」だけは、ここに全文を引用しておきたい。
《「Wordではたいしたことはできない」と世間一般では思われているようである。ここで言う世間一般とは、この本の執筆に関わった数人を除く、Wordユーザー全員のことである。Microsoftの社員とて例外ではない。その証拠にMicrosoftのWebサイトに存在するpdf形式のドキュメントは、9割がたMacintosh上のQuarkXpressやPageMakerなどで作られており、Wordで製作されているのは、ほとんど文字だけのニュースリリースくらいである(2003年1月1日現在)。嘘だと思うならMicrosoftのサイトから、カタログや解説資料のpdfをダウンロードしてAcrobatで開き[ファイル]-[文書のプロパティ]-[概要]をみればよい。Microsoftですらこうなのであるから、世のカタログやポスター、小冊子、ミニコミ誌、その他もろもろの印刷物は、ことごとくWord以外のツールが使われている。Wordの普及度から考えれば、誠に不思議としか言いようがない。デザインや印刷に関わる人々は言う、「Wordで商用に耐えるデザインなぞ不可能だ」と。本当だろうか?
私は、パソコンなるものがこの世に登場した当時から、様々なプラットフォーム上で、様々なツールを使ってきた。無論、Macintosh上のツールも一通り極めた。そして「普通の商業印刷ならWordで十分である」という結論を得た。どれくらい「十分」であるかは、この本の作例を一通り眺めてもらえば、理解できるだろう。これがWordの実力なのだ。十分商用に耐える。それも特別な技術なしに。
Microsoft Wordとは、その開発元であるMicrosoftが考えている以上のキャパシティーを秘めたソフトなのである。
筆者は、このことを世に知らしめたかった。そして、それを実感して欲しかった。その思いの結実が、本書である。本書には、筆者が持つノウハウのすべてを注ぎ込んだ。具体的な操作方法まで細かく記載している。無論、Wordにも限界があり、印刷用のデータを作るために開発されたツールにどうしても一歩譲る。ほんの一歩。
パソコンを買えば、大抵おまけのように付いてくるソフトで、ここまでのことができるのだ。もっとWordを使おうよ!
ともすれば小難しくなりがちな文章ゆえ、会話言葉と大阪弁を頻出させてしまった。気分を害された方に、ごめんあそばせ。
最後に、幾多の出版社に断れ続けた私達の企画を、そのままの形で実現させてくださったアスキーの佐藤英一氏に最大級の感謝を。
筆者を代表して 梶本 洋子

付記
本書の作例は、二科展で大臣賞まで取った藤井浩二のデザインである。Wordの実力を十二分に発揮するには、どうしてもプロのデザインとアドバイスが必要だった。ここにたどり着くまでに、幾人ものデザイナーに声をかけた。そして、ことごとく断られた。曰く「プロのツールではない」、「Macでないとデザインはできない」、「そんなものに名前が出ると信用にかかわる」等々、拒否反応は激烈を極め「悪いことは言わないから、やめなさい、村八分にあうよ」と心底心配してくれる人まで出る始末であった。そんなこんなで、意気消沈していた私達に、藤井は言ったものである。「MacやWindows言うたかて突き詰めたらどっちも0と1の世界や、何とかなるやろ。だいたい道具に縛られながらデザイン考えてどないしまんねん。紙と鉛筆やったら紙と鉛筆なりの、MacやったらMacなりの、WordやったらWordなりのデザインをしたらよろしおまんねん。『弘法、筆を選ばず』て言いまっしゃろが。」かくして、本書は、Wordのテクニックを解説する本であると同時に、藤井浩二作品集でもある。藤井はひたすらデザインを考え、我々がWordで実現を試みた。結果的には、ほぼ100%Wordで再現でき、改めてWordのポテンシャルの高さが証明されたわけである。》

2009年1月3日土曜日

未来の希望の真髄は人が学ぶこと

佐々木がこれまで聴いた中で最も感動的な歌は、ルイ・アームストロングが歌う「この素晴らしき世界」("What a Wonderful World"、ジョージ・ダグラス作曲、ジョージ・デヴィッド・ワイス作詞)だ。

サッチモ(ルイ・アームストロング)のボーカルもいいし、メロディもいいのだが、なんといっても歌詞が素晴らしい。

人生における幸福は、この歌の詞に言い尽くされているのではないかとさえ、佐々木は思う。

特に、最後の四番の歌詞がいい。
I hear babies cry, I watch them grow

They'll learn much more than I'll ever know

And I think to myself, what a wonderful world

Yes, I think to myself, what a wonderful world
「この世界の素晴らしさ」を歌い上げていった最後のクライマックスが「より素晴らしい未来」で飾られ、その真髄として、「人々がより努力なく生きられること」でもなく、「人々がより多く消費を楽しむこと」でもなく、「人々がより愛し合うこと」ですらなく、「人々がより多く学ぶこと」が歌われていることに、深く、深く、深く、心を揺さぶられる。

以下は佐々木の拙い訳。
赤ん坊たちの泣き声が聞こえてくるよ

みんな一日一日と大きくなっていくね

この子たちは僕が一生かかって知ることができるより

もっとたくさんのことを学んでいくんだろうな

ああ世界はなんて素晴らしいんだろう

ほんとに世界はなんて素晴らしいんだろう

2009年1月2日金曜日

今年の古典読破計画

昨年末に思い付いた「古典月1冊読破計画」、今年は次のスケジュールで行くことにした。

 1月 ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧
 2月 吉田松陰『講孟箚記
 3月 ミルトン・フリードマン『資本主義と自由
 4月 本居宣長『玉勝間
 5月 ジークムント・フロイト『精神分析入門
 6月 近松門左衛門『曽根崎心中
 7月 クロード・レヴィ=ストロース『悲しき熱帯
 8月 佐久間象山『省けん録
 9月 エマニュエル・レヴィナス『困難な自由
 10月 井原西鶴『日本永代蔵
 11月 フョードル・ドストエフスキー『罪と罰
 12月 世阿弥『風姿花伝

候補をリストアップしていると、読みたい古典があれもこれもと浮かんできて、「やっぱり月1冊じゃなくて月2冊にしようか?」と思わなくもなかった。

まぁしかし無理は禁物。古典以外にも読みたい本はいくらでもある。着実に、月1冊ずつ読んでいきたい。
《歩き続きけたいから 走るのはがまん》
-矢野顕子「The Girl of Integrity
佐々木より上の世代の方には「まだそんな本も読んでなかったの?」と驚かれるかもしれないし、逆に同世代以下の方には「そんなにムツカしそーな本を読むの?」と驚かれるかもしれない。

古典といえば、大晦日は樋口一葉の「大つごもり」を音読してみた。

ジャーナリストの日垣隆さんがメルマガで《一度ぜひ「声に出して」読んでみてください。大晦日の夜に相応しい短編です》と推薦されていたので。

昨年の大晦日も日垣さんの薦めで「大つごもり」を読み始めたのだが、あまりにも果てしない一文の長さに頭がクラクラしてきて、あえなくダウン。

しかしその後1か月以上かけて、辞書を引き引き読破してみると、やはりあの時代、あの文体でしか描き得ない人情の機微に胸を打たれるとともに、「あんなに難しそうに見えた文章が自分にも読めた」という自信にもなった。

今年は二回目ということもあり、つっかえつっかえしつつも、思ったよりはスムーズに音読できた。

音読してるみと、また黙読では決して味わえない興趣が。
《〔‥‥〕拝みまする神さま仏さま、私は悪人になりまする、成りたうは無けれど成らねば成りませぬ、罰をお当てなさらば私一人、遣ふても伯父や伯母は知らぬ事なればお免しなさりませ〔‥‥〕》
のあたりが、特にジーンと来た。

2009年1月1日木曜日

新年のご挨拶

あけましておめでとうございます。

みなさまにとっても佐々木自身にとっても、今年が昨年よりずっと、ずっと、ずっと、ずっと、よい年になりますように。
 
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