2009年12月31日木曜日

今年最も感銘を受けた人

今年最も感銘を受けた人。

本を通じての出会いではあるが、吉田松陰。

吉田松陰に出会えただけでも、今年、古典読破計画を立てて実行した甲斐があった。

2009年12月30日水曜日

日垣隆さん主催の読書会に行ってきた

本日都内で開催された、ジャーナリストの日垣隆さん主催の読書会に行ってきた。

テキストはクリス・アンダーソン著『フリー~〈無料〉からお金を生みだす新戦略』(NHK出版)と『日本の論点 2010』(文藝春秋)。

日垣さんに気持ちよくしゃべっていただく、という観点からすると、オーディエンスとして、若干お行儀が悪かったことを反省。

日垣さんが『日本の論点』を毎年読破して自分の弱点を発見し克服していく動機として、「負けず嫌い」であることを挙げられていたが、その「負けず嫌い」っぷりを間近で目の当たりにできたことは、大きな収穫。

佐々木は自分の中の「負けず嫌い」な部分を、抑制しすぎているところがある。

自分を成長させていくエネルギー源として、もっと自分の中の「負けず嫌い」を解放していいのではないか。

そんなことを思った。

2009年12月29日火曜日

ゆる体操で消えていく悩み

先日、高岡英夫先生が指導されるゆる体操の講座に出席してきた。

講座の中で、高岡先生のリードで手の中の骨を徹底的にさすり、その前後で、棒を持ったりタオルを絞ったりといった動作が、どのように変化するかを体験する、というワークがあった。

結果は、かなり衝撃的だった。

高岡先生のリードで手の中の骨をゆるめたあとは、たとえば棒を持つと、客観的には極めて柔らかく、フワッと握っているように見えるにもかかわらず、自分の主観としては、まるで自分の手が、その棒をはめ込むために作られたパーツであるかのように、極めてしっかりとした握りになった。

タオルを絞ると、自分の手や腕が、そのタオルを絞るために作られた機械になったかのように、タオルがキリキリと締め上げられた。

そこから敷衍して思ったこと。

自分の身心が今後ますますゆるんでいけば、問題に遭遇するたびに、自分の身心が、ちょうどその問題を解決するために作られた機械になったかのように、瞬時に機能できるようになるのではないか。

道具に感情があるとすれば、ハサミにとっては切ることが喜びであり、ハンマーにとっては叩くことが喜びだろう。

自分の身心の状態が、自分が遭遇している問題の解決にぴったりの状態になれば、その問題を解決すること自体が、自分の身心にとって奥深い喜びとなるに違いない。

ということは、問題に遭遇して悩むということがなくなるということだ。

身心がゆるんでいった果てに、そのような理想状態が存在する。

これは大きな希望だ。

「高能力」と「ゆる」の関係を、極めて具体的な形で実感できた体験だった。

2009年12月28日月曜日

頼りにならない人

危機的な状況にあって、頼りにならない人でいるということは、自分自身の存在もまた、問題の一部になっているということだ。

すべての場面で、というのは無理にしても、できるだけ多くの場面で、頼りにならない人ではなく、頼りになる人になりたい。

2009年12月27日日曜日

うらおもて

一枚のコインの表と裏を、同時に直接見ることはできない。

だがコインの表(おもて)面を、「これは表面である」と意識しながら見るとき、人は見えない裏面までいわば見ている。

そういう見方は、たまたま上を向いている面が表面だったから表面を見ている、という見方とは違う。

2009年12月26日土曜日

錯覚

人間ってここまでだめになれるんだ、とあきれるほどだめな人と一日を過ごすと、帰り道で見かける人がみんなすばらしい人に見え、人間ってここまですばらしくなれるんだ、と感動するほどすばらしい人と一日を過ごすと、帰り道で見かける人がみんなだめな人に見える。

2009年12月25日金曜日

贈り物

物が稀少で時間や空間が潤沢であった時代と、物が潤沢で時間や空間が稀少になった時代とでは、感謝の表明として物を贈ることの適否が逆転することもあり得ると思うのだが、贈り物というのは慣習や感情がからむことでもあり、自分が属する集団で集団として何か贈り物をしよう、という話が持ち上がったとき、そのことに対して疑問を差し挟むのは、やはりちょっとはばかられる。

2009年12月24日木曜日

ストレス

心身を破壊するかと思えるほどのストレスも、工夫と訓練を重ねることで、そよ風程度に思えるようになると信じたい。

2009年12月23日水曜日

話しっぱなし

カフェとかで隣の席から聞こえてくる二人組の会話が、一人は話しっぱなし、もう一人は聞きっぱなし、という状態だったりすると、話しっぱなしの側の知的能力が、あまり高くないんだろうなぁ、と思ってしまう。

しかし、自分が人と会話していているときは、気がつくと、自分が話しっぱなしの側だったりする。

2009年12月22日火曜日

近所の夜景

リハビリ病院から一時外泊する母と、実家に向かう夜。

到着の直前、介護タクシーの運転手さんが、遠くに見える街の灯々を見て、

「きれいな夜景ですねぇ…」

とつぶやいた。

あの夜以来、日が暮れてからあの道を通るのが、楽しみになった。

自分の幸福の量と質は、接した他人が表現した幸福の量と質に、相当程度規定されるようだ。

これは逆に、自分が表現した幸福の量と質が、他人の幸福の量と質を規定するということでもある。

2009年12月21日月曜日

足の裏から一歩前進

ジンブレイドの、内踝の下からアキレス腱に掛けてのライン。

このラインが、最近ようやく、「うまくできてるなぁ」と思えるようになってきた。

今までは、足の裏のラインを意識するのがやっと。

体幹が前に出始めたときに、足の裏のラインの後ろ側が前方にずれやすいことを自覚できるようになって、やっと足の裏のラインが機能し始めたのだと思う。

2009年12月20日日曜日

『省けん録』を読んだ

今年の古典読破計画の締めくくりとして、佐久間象山の『省けん録』を読んだ。



幕末の思想家であり砲術家・兵学者であった筆者が、弟子の吉田松陰の海外密航未遂の罪に連座して獄につながれていたときの思索を、出獄後、子孫に残す目的でに筆録した本。

ひさしぶりに古典を読む醍醐味を堪能させてもらった。

古典を読む醍醐味を一言で言えば、人間精神の高みを尋ねることができること、と言えるだろう。

それはさらに、人間精神の最高峰における発展の歩みを辿る楽しみと、それまで想像もしていなかった方向への「高み」を知る楽しみの、二つに分かれるように思う。

この『省けん録』は、どちらかといえば後者の楽しみを提供してくれる本だ。

話題は次から次へと変わっていき、叙述の展開に体系性はない。

東洋の道徳に西洋の技術、という考え方も、当時の日本においては先進的だったかもしれないが、人類史的に見れば、あくまでローカルな発想にすぎない。

ただ、叙述に込められた精神の格調高さには、打たれる。

この『省けん録』、原文はすべて漢文なのだ。



岩波文庫には訳も掲載されているのだが、この「訳」というのは漢文の書き下し文であって、現代語訳ではない。




漢文で書かれた『省けん録』の原文を眺めているだけで、思想を漢文で表明することを当然のこととしていた当時の知識人たちの精神のありようや、そのような知識人たちが文化的に先導していた当時の日本という国のありように、興奮を覚えずにはいられない。

2009年12月19日土曜日

修業

高岡英夫先生が『センター・体軸・正中線』で紹介されているジンブレイドという身体意識のトレーニングを習慣化して、1年以上。

最近ようやく気がついたこと。

ジンブレイドを掛けて、体幹が前に出始めたとき、軸足の裏のラインのうち、後ろ側の部分が、体幹の動きに引きずられて、一緒に前に出てしまっていた。

体幹が前に出始めたとき、軸足は体幹に対して相対的に後ろに行くのだから、当然、ジンブレイドの足の裏のラインも、体幹に対して後ろに行くのである。

ものっすごく、あたりまえのことだ。

ある面、修業というのは、あたりまえであるはずのことを、自分がまるでできていないことに気づかされることの、繰り返しだと思う。

2009年12月18日金曜日

体をチェックする切り口

自分の体に意識を向け、ゆるんでないところはないかチェックするときは、体を部分部分に分けて意識していく。

「腕、脚、体幹」だとか、「骨、筋肉、内臓」だとか、大まかなまとまりで意識していくこともあるし、細かい骨同士の関係に注目してみたり、血管に意識を向けてみたり、切り口はいろいろある。

切り口を変えるごとに、体がゆるむ感じも違ってくる。

最近試してるのは、直立した自分の体を、センター(鉛直線)を中心に「前右、前左、後右、後左」の四つに分ける切り口。

自分の体の背中側がゆるみにくいことが、よくわかる。

この切り口自体が、センターの意識や、体を割る意識を活性化させる。

2009年12月17日木曜日

煎茶、紅茶、果物、FMラジオ

好きで、毎日のようにやっていたことが、突然いやになって、パッタリやめてしまう、ということがある。

煎茶。

これは20歳~30歳過ぎぐらいまで、仕事をしながら、1日に何リットルという単位で飲んでいた。

湯を沸かす、急須に茶葉を入れる、急須に湯をそそぐ、葉が開くのを待つ、湯飲みにつぐ、湯飲みを口に運ぶ、といった一連の動作が、おそらく喫煙者にとっての喫煙のような役割を果たしていた。

それがあるとき、突然、煎茶を自分で淹れて飲む気が失せてしまい、茶葉を買うのもやめてしまった。

今では、外出先などで煎茶を飲むことはあるが、自分の家で飲むことはまったくない。

紅茶。

これは35歳ぐらいからつい最近まで。

朝起きたら、すぐに紅茶を淹れて飲むのが習慣だったが、突然やる気がしなくなった。

朝の紅茶、日中の強いコーヒーと、カフェイン過剰状態ぎみだったのかもしれない。

果物。

これは20歳過ぎから最近まで、朝起きてすぐ食べるのが習慣だった。

先月あたりから、できるだけ消化器官に負担をかけないことを心がけるようになってから、朝起きてすぐ果物を食べる気もなくなってしまった。

FMラジオ。

30歳ごろから去年ぐらいまで。

仕事の合間、家事をしながらよく聴いていたが、急に聴く気が失せた。

番組の送り手が「聴き手にこういう気分になってほしい」と意図しているその気分が、自分にとっては、心地のよいものではなくなってしまった。

ある種、子ども扱いされて怒る老人の感情に近いのかも。

2009年12月16日水曜日

何を求めるか

何を一番追い求めるかは、人それぞれ。

お金だったり、他者からの承認だったり、生活の安定だったり。

で、その何かを追求して行動していると、同じものを追求する人が集まってくる。

やっぱり仲間が欲しいから。

追求していたものが一定レベル以上で手に入ると、さらに人が集まってくる。

やっぱり手本が欲しいから。

そのときどんな人が集まるかは、追求の対象に、かなり依存する。

佐々木だってお金も欲しいし、他者からの承認も欲しいし、生活の安定も欲しい。

すごく欲しい。

ただこうも感じる。

他の何よりもお金を求める人。

他の何よりも他者からの承認を求める人。

他の何よりも生活の安定を求める人。

こういう人たちが、身の回りにわんさか集まってきた状態というのは、ちょっときついかも。

2009年12月15日火曜日

良い問い

人間の認識の大半は、自分で行なった「問い」に対する「答え」として存在している。

だから、自分の認識の質を高めるためには、良質の「問い」が自分に向き続ける仕組み作りが必要である。

勝間和代さんの『ビジネス頭を創る7つのフレームワーク力』という本を読んでいたら、ラテラル・シンキングを促進する言葉として、

「抜け道はないか? 見落としはないか? 前提に間違いはないか?」

という問いが出てきた。

勝間さんはラテラル・シンキングについて知ってから、この問いを紙に印刷し、机の前に三年間貼り続けたのだとか。

佐々木は仕事場の壁にかなり大きなコルクボードを掛けて、紙に書いた良質の問いや規範や目標を貼り付け、毎日眺めるようにしている。

勝間さんのこの問いも、たいへん良い問いだと思ったので、さっそく紙に書いて貼り付けた。

2009年12月14日月曜日

5キー式キッチンタイマー

在宅で仕事をする人間にとって、キッチンタイマーは必須の道具である。

たとえば「ちょっと休憩」といったとき、何分休憩したら仕事に戻るのか決めて、その時間になったらアラームが鳴るようにしておかないと、いつまでもダラダラと休んでしまう。

机に向かっての作業も、時間を区切ったやったほうがいい。30分以上座りっぱなしでいるのは体に悪い。

佐々木は現在、料理用に二つ、自宅での仕事&トレーニング用に一つ、道場でのトレーニング用に一つ、計四つのキッチンタイマーを所持している。

使っているうちに壊れてしまったり、あまりにも使い勝手が悪かったりして、廃棄してしまったものも含めると、過去に15個以上はキッチンタイマーを購入していると思う。

キッチンタイマーの時間設定方法には、大きく分けて次の五つがある。

●「分」キーと「秒」キーで設定する2キー式


●「10分」キー、「1分」キー、「10秒」キーで設定する3キー式



●「10分」キー、「5分」キー、「3分」キー、「1分」キー、「10秒」キーで設定する5キー式


●「0」キーから「9」キーで設定する10キー式


●アナログ式


佐々木にとって最も使い易いのは、5キー式である。

10キー式よりもキーが少ないぶん、ボタン探しに迷う時間がない。

10分、5分、3分など、よく設定する時間を一発で設定できる点で、3キー式や2キー式よりも優れている。

ところが家電品店の売り場などで見ると、この5キー式、どうやら一番人気がない。

パッと見、「10分」「5分」「3分」「1分」「10秒」以外の時間設定ができないように見えるせいではないか。

2分に設定したければ「1分」キーを2回押せばいいし、6分に設定したければ「5分」キーを1回、「1分」キーを1回押せばいい。

頭の中でこういう計算するのにかかる時間、キーを探す時間、キーを繰り返し押す時間、すべてを総合して、5キーが一番優れていると思うのだが。

それからキッチンタイマーを選ぶときは、次の点もポイントになるだろう。

●耐久性に優れているか
●時間が秒単位で表示されるかどうか
●カウントダウンだけでなくカウントアップにも使えるか
●時間設定が1回ごとに消去されないか

特に最後の「時間設定が1回ごとに消去されないか」は、意外に重要だ。

たとえば40分に設定したとして、40分後、アラームが鳴ったとき、時間設定が1回ごとに消去されるタイプのタイマーだと、自分が何分に設定していたのか、忘れてしまうことがある。

同じ時間設定で繰り返し使いたいときも、時間設定が1回ごとに消去されるタイプだと、毎回設定し直さなければならず、めんどうだ。

以上を総合して、佐々木が最もお勧めするキッチンタイマーは次の商品である。

MAGタイマー 時間だよ セブン DX

2009年12月13日日曜日

『世界一やさしい問題解決の授業』を理解できる中学生ってどれぐらいいるのだろう

渡辺健介さんの『世界一やさしい問題解決の授業』は、今の佐々木には、とても役立つ本だった。

だがこの本、中学生向けにしては、あまりに難しすぎはしないだろうか。

内容も、表現も、説き方も。

方法を読んで理解すれば、すぐに自分でも使えるようになる、というのは、才ある人の特徴だ。

おおかたの人間は、方法を読んで理解できたとしても、自分ではその方法がいっこうに使えるようにならない、という現実を、嫌になるほど持たされる。

その現実への配慮が、この本には欠け過ぎている。

説明の言葉も、中学生向けにしては、抽象的だ。

「まえがき」にはこうある。
《みなさんの将来の夢は何ですか? 今どのような悩みがありますか? 壁に直面したとき、自分の力で乗り越え、人生を切り開いていけるという自信がありますか? それとも、あきらめてしまいそうですか?
この本で紹介する「考え抜く技術」、そして「考え抜き、行動をする癖」を身につければ、たとえば苦手な教科を克服する、部活でよい成績を残す、文化祭を盛り上げるといった、日常生活で直面するさまざまな問題を解決できるようになります。そして、自分自身の才能と情熱が許す限り、夢を実現する可能性を最大限まで高めることができるようになります。
つまり、自ら責任が持てる人生、後悔しない人生を生きることができるようになるのです。
〔‥‥〕
さあ、一緒に問題解決の思考法を楽しく学びましょう!
みなさんも一歩踏み出す力がきっと身につくはずです!》
「壁に直面する」、「人生を切り開く」、「可能性を最大限まで高める」、「自ら責任が持てる人生」。

こういった言葉を、中学生が、単なるコトバとしてではなく、生々しい像として、果たして思い描けるものなのだろうか。

中学生に向けて思考法の説明をするなら、三浦つとむの『哲学入門』の「まえがき」ぐらいの易しさが必要なのではないかと思う。
《これは哲学学校一年生の読本です。
いまのコドモは、小学校に通いながら、数学をはじめ植物学、動物学、物理学、化学、さては医学、社会学、政治学、経済学など、科学のイロハを勉強しているではありませんか。それなのに、哲学だけは専門学校や大学の先生でないとわからないものだということになっているようです。どうしてそうなのか、わたくしには合点がいきません。
『哲学入門』と名のついた本もずいぶん出ています。しかし、哲学のイロハを教える本が、『哲学事典』などと首っぴきで食いつきそうに深刻な顔をしなければよめないなんて、どうかと思いますね。
この本は決してそんな本ではありません。ノンキに笑いながらよんでください。面白かったら何度もくりかえしてよんでください。お友達とこういう問題について話し合って研究してください。
一九四八年九月  東京にて     著者》

2009年12月12日土曜日

『世界一やさしい問題解決の授業』を読んだ

渡辺健介さんの『世界一やさしい問題解決の授業―自分で考え、行動する力が身につく』を読んだ。

マッキンゼーのコンサルタントだった筆者が、マッキンゼーで活用されている問題解決手法のエッセンスを、中学生向けにわかりやすく教える本。

自分の問題解決能力の低さを、なんとかしたい。

中学生向けに書かれた本なら、自分にも役立てられるのではないか。

そんな思いで、読んでみた。

読んでよかった。

問題解決の流れだとか、原因と打ち手の関係だとか、問題解決の流れにおける仮説の位置づけだとか、これまで佐々木の中でいまひとつ明確になっていなかった考え方を、はっきりと自覚させてもらえた。

「課題分析シート」だとか、「効果vs.実行のしやすさ」のマトリクスだとか、実行プランのフォーマットだとか、「評価軸×評価」リストといったツール類も、強力そうだ。

こういったツール類は、作るのにちょっと手間が掛かっても、作るのと作らないのとでは効率が大違いだと思った。

この本で紹介されている考え方やツールは、自分一人の問題解決にももちろん役立つだろうが、それよりもむしろ、集団で物事を達成していくときの基盤として、力を発揮するだろう。

こういう考え方やツールを共有している場合と、共有していない場合とでは、物事の進み方が、牛車と飛行機ぐらいに違いそうだ。

神田昌典さんの『全脳思考』では、この本で紹介されているようなロジカルな手法では解決できない問題へのアプローチ法が紹介されていたが、ああいうインスピレーション指向のアプローチ法も、ロジカルな手法の基本を押さえていてこそ、有効性を発揮するのだと思う。

2009年12月11日金曜日

来年は東京でアイン・ランドの読者会を開く

「来年やりたいこと」をつらつらと考えていたら、アイン・ランドの読者会を、無性に開きたくなってきた。

他にもやりたいこと、やらなければならないことが山ほどある中、この上また新しく何かを始めるのはいかがなものか、という疑念も、しきりに湧いてくる。

その一方で、やってみたい、という欲求も押さえがたい。

とりあえず、Webサイトだけ作ってしまった。

2009年12月10日木曜日

周囲の雑音を遮断して仕事に集中したいとき聴くCD

外出時には、ポータブルオーディオプレーヤー(ウォークマン)を持ち歩く。

入れてあるのは、ポッドキャストのラジオ番組だとか、ビジネス知識のオーディオ教材だとか、英語のオーディオブックだとか、音楽だとか、いろいろ。

音楽も、洋邦ポップスからロック、ジャズ、フュージョン、クラシック、寮歌と雑多。

ただ、周囲の雑音を遮断して、仕事に集中する目的で聴ける音楽となると、限られている。

演奏のクオリティが低いとイライラする。

歌詞が入ってると気が散る。

集中力を高めたいのでリラックス系も困る。

かといって騒がしくても仕事にならない。

音楽に意識を奪われてしまうほど荘厳なのも駄目。

演奏のクオリティが高いインストルメンタルで、適度にエネルギッシュで、軽快で、しかも控えめ。

今のところ、佐々木の手持ちのCDの中には、該当するものが一枚しかない。

The Best of Herbie Hancock: The Blue Note Years」という、ハービー・ハンコックのベスト盤。



別にジャズ愛好家というわけでもないし、ハンコックのファンというわけでもない。

いつ、どんなきっかけで買ったのかも、忘れてしまった。

何かの気まぐれで、自分があまり聴かないジャンルの音楽も聴いてみたくなって、たまたま名前を知っているミュージシャンのベスト盤を買ってみたのだと思う。

だがこのCD、前述の目的で使うには、本当に重宝する。

佐々木にとっては、前述した条件に、まさにドンピシャリの演奏。

2009年12月9日水曜日

移動はできるだけ小走りで

ここ最近、移動で歩くときは、できるだけ小走りで行くようにしている。

体力は放っておくと落ちていくことが、ますます強烈に自覚されてきたこともあるが、それだけではない。

最近やたらと体が軽くて、歩いていると、自然に走り出したくなってくるのである。

たとえ荷物を持っていても。

単純に、気分や体調が上向きなせいもある。

今年は春から秋にかけて落ち込み気味だったが、冬になってまた調子が出てきた。

あとはおそらく、あちこちのコリが解消され、インナーマッスルが鍛えられてきた効果が大きい。

ずっと積み重ねてきた、武術やゆる体操などのトレーニングのおかげである。

他にも、なんやかんやと心掛けていることはあるので、そういったことの効果が総合的に出てきたのだろう。

2009年12月8日火曜日

小食

最近まで、朝昼晩、できるだけ規則正しく食事することを心がけていた。

しかしここのところ、食べたものを消化すること自体が体に掛ける負担、というものが、気になるようになってきた。

それで最近は、間食をできるたけ避ける、食事の間隔を開ける、食欲を感じないときは食事を抜く、といったことを試している。

まだ始めたばかりなので、かえって空腹にみまわれ過ぎて大食いしてしまうという失敗も、けっこう繰り返している。

ただ、何も食べない時間を意識的に長くとることで内蔵が休まることは、強く実感できた。

もっと体に負担を掛けない食事の仕方を工夫していきたい。

2009年12月7日月曜日

長寿

佐々木は基本的に、できるだけ長生きしたいと思っている。

やりたいこと、実現させたいことは、まだまだ数えきれないほどある。

人間社会がこれからどのように変化していくのかも、できるだけ長く見届けたい。

佐々木は今38歳だ。

今の日本の常識からすれば、まだまだ長生きしたと言える年齢ではない。

だが最近、主観的にはほんの少し前に自分がやっていたことが、計算してみると20年も前に自分がやっていたことだった、ということがあって、それをきっかけに、自分の年齢に対する思いを改めた。

「俺、ものすごく長生きしてるじゃん」と。

この日記もそうだが、何かを一日も欠かさず続けるというのは、1年だけでも大変な根気の積み重ねを要する。

何事かを38年続けてきた、と言えば、何か相当な境地に達していることが想像される。

あたりまえだが、自分が生きてきたこの39年近く、自分は1日たりとも死んでいない。

自分が1日を生きるために、自分の身体や精神が行なわなければならない膨大な運動を考えると、よくもまぁ39年近く1日も休まず、これだけのことを積み重ねてきたなと思う。

死に伴う痛みや苦しみは避けたいし、自分の死をできるだけ先延ばしにしたい思いに変わりはない。

だが39年近くこうして生きてきただけでも、実際たいへんなものだ、と感じてからは、今この瞬間に自分の人生が終ったとしても、それほど悔やまれるものではないな、と、けっこう心の底から思うようになっている。

2009年12月6日日曜日

蟹の注文が殺到

ここ2週間ほど、ほぼ毎日のように、蟹を注文したいという電話が掛かってくる。

そのたびに間違い電話であることを申し上げ、受話器を置く。

掛けてきた人の話を総合するに、どうやらある地方のテレビで、蟹を売る店のことが取り上げられ、そこで紹介された電話番号が、うちの事務所のフリーコール番号に似ているらしい。

これまで10人以上の方が掛けてきて、全員、中年から老年の女性。

テレビを見て、蟹を注文する。

番号をよく確認せずもせず、電話を掛ける。

そういう女性の声や話し方には、ある共通した特徴がある。

もっと言うと、佐々木がふだん仕事やプライベートで接する人々の中には誰一人としていないような声であり、話し方だ。

これ以上は悪口になるので書かない。

間違い電話が、着信者負担で頻繁に掛かってきて、佐々木はちょっと怒っているのである。

2009年12月5日土曜日

ジンブレイドサモン棒

東急ハンズで、長さ90センチ、半径18ミリの円柱を縦に四つに切った形の木材(「ラミン40φ×1/4×900」)を購入し、半分に切ってもらってきた。



木材が420円、カット代が52円、計472円。

毎朝のジンブレイドのトレーニングに使うためだ。

トレーニングメニューの最初に、芯を引っ込めたボールペンの先で内踝とウナの位置を強く突いたあと、足裏から脚裏にかけてのラインをこすってジンブレイドの意識を高めているのだが、ジンブレイドのトレーニング自体は、トレーニングメニューの後のほうにやっている。

だからその頃には、最初にこすったときの意識が、かなりぼやけている。

だが、ジンブレイドのトレーニングの直前に、しゃがんで足裏をこすり直す気には、どうもなれない。

ジンブレイドのトレーニングを行なうにはセンター(重力線とその延長線に沿って形成された直線状の身体意識)が必要なのだが、しゃがんで自分の足裏をこすっていると、それまでせっかく高めてきたセンターの意識が、どうも崩れてくる。

しかしトレーニングを行なう直前に、足裏の意識は高めたい。

それでこれまでは、ゆるゆる棒の長棒を踏んで、足裏の意識を高めていた。



ただ、ゆるゆる棒は円柱状なので、踏んでもシャープな意識が得られない。

これは三角柱状の棒を買ってきたほうがいいな‥‥とだいぶ前から思いつつ、つい面倒で先延ばしにしてきたのを、昨日ようやく実行した。

写真のように踏んづけて、インサイドジンブレイドとアウトサイドジンブレイドの両方を高めてから、高岡英夫先生の『丹田・肚・スタマック』で紹介されているインサイドジンブレイド→アウトサイドジンブレイドのトレーニングをやると、非常に具合がいい。

2009年12月4日金曜日

匿名言論で失われる何か

佐々木は、ネット上で実名と顔写真を公開しながら文章を書いている。

人数から言えば、ネット上では実名で文章を書いている人の方が、圧倒的に少ない。

匿名で文章を書いている人から見ると、自分の正体を知られることで失われるものは、あまりにも大きいのだろう。

逆に言えば、自分の正体を知られずに言論を行なうことで、大きな利益を得ているわけだ。

しかし世の中に代償のない利益はない。

ネット上に匿名で文章を書いている人々の多くは、得られる利益と引き換えに、自分の中で何が損なわれ、失われているのか、案外無自覚なのではないか。

その損なわれ失われているものが何なのか、佐々木もうまく表現できない。

それは多分、現実の自分がこの世に生まれ生きていることの意味だとか、自分の魂だとかに関係することだと思う。

2009年12月3日木曜日

「~なう。」という新しい表現は日本人の認識を大きく変える気がするなう

140文字以内でつぶやきを投稿するWebサービス「Twitter」で、少なからぬ人々が、「~なう。」という新しい日本語表現を使っている。

たとえば
「銀座なう」=「私は今、銀座にいます」
「帰るなう」=「私は今から家に帰ります」
というように。

佐々木個人の美意識としては、使うのを控えたい表現だ。

しかしこの「~なう。」という新しい表現、案外、日本人の認識に、望ましい変化をもたらす表現なのではないか、という気がしている。

以前書いたように、一般に表現は〈主体表現〉と〈客体表現〉から成り、言語においては、〈主体表現〉と〈客体表現〉を切り離して行なうことができる。

日本語と英語の根本的な相違の一つに、〈主体表現〉と〈客体表現〉の順序の違いがある。

日本語は、〈客体表現〉→〈主体表現〉の順序を取る言語だ。

たとえば
「銀座にいま~す。」
と言ったとき、「銀座にい」の部分は、表現される対象のあり方を表現する〈客体表現〉であり、「ま~す」の部分は、表現された対象に対する表現主体のスタンスを表現する〈主体表現〉だ。

これに対して英語は、〈主体表現〉→〈客体表現〉の順序を取る言語だ。

たとえば
「I'm in Ginza.」
と言ったとき、日本語で「ま~す」に相当する部分は、先に「I'm」という表現で済まされてしまっている。

(厳密に言えば、〈主体表現〉と〈客体表現〉は相互に浸透しているのだが、ここではそこまで踏み込まない)

この〈主体表現〉と〈客体表現〉の順序の違いがもたらす影響は、かなり大きい。

英語の「I」に相当する表現が日本語に存在しないというのも、その影響の一つだ。

日本語で主語を明示しようとすると、その主語は〈客体表現〉の一部として示さなければならなくなる。

たとえば
「私は銀座にいます。」
というように。

これに対して英語では、主語を〈主体表現〉の一部として示すことができる。

議論をはしょるが、この日本語の特性は、個人の主体性確立を阻む一因になっているように思われる。

「~なう。」という表現は、日本語の歴史上始めて、主語としての「I」を明示する〈主体表現〉なのではないだろうか。

たとえば
「銀座にいま~す。」
と書いたとき、誰が銀座にいるのかは、文脈に依存する。基本的には「私」なのだろうが、文脈によっては他の誰かである可能性もある。

ところが
「銀座なう。」
と書いたときは、銀座にいるのが「私」であることが明示的に表現されている。

「あなた」でもない、「彼・彼女(ら)」でもない、ほかならぬ「私」のこととして何かを表現する。

そのような〈主体表現〉は、おそらくこれまでの日本語には存在しなかった。

だから佐々木は、この「~なう。」という表現が一般化することが、案外、日本人の主体性確立に貢献するのではないか、という仮説を持っている。

2009年12月2日水曜日

昭和5年の『少年倶楽部』を読んでみた

昨日は所用で都内に出たついでに、上野の国際子ども図書館に、戦前の子ども向け雑誌である『少年倶楽部』(複製版)を、閲覧しに行ってきた。

一つは、以前ネットで目にして心に残った文章が、『少年倶楽部』昭和5年1月号に掲載された記事の抜粋ということだったので、その作者を知り、その全文を読みたかったから。

もう一つは、江藤淳の『閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本』を読んで、戦前の言語空間というものを、実感として捉えたくなったから。

あまり時間もなく、昭和5年の1月号と2月号だけ、閲覧してきた。

以前佐々木が読んで心に残った文章というのは、こちら。
《「やれば出来る」

富士山に登つた人間は、登らうと思つた人間だけが登つたのです。これは余りに分りきつたこと、しかも之が大真理です。富士山に登つた者のうち、只一人でも『散歩するつもりでつい登つた』といふ人もなく、『阿蘇へ登るつもりで、いつか富士に登りついた』といふやうな人も絶対にありません。

富士山に登らうと思ひながら途中で故障を起した人があつたかも知れません。しかし、兎も角登つた人は誰でも、一度は必ず登らうと決心した人にきまつてゐます。

富士山に登るとき、五合目が半ばではありません。五合目まで登れば病気にでもならない限り、登りつくにきまつています。そんなら三合目か、二合目か、一合目か、どこが半ばか。私は断言します。富士山に登らうといふ決心のついたとき、其の人はすでに富士登山といふ仕事の半分以上を成就してゐます。

形に於いては、登らうと決心した人も、しない人も、同様です。見かけは違ひません。しかし実際は大変ちがつて居ます。決心がつくと、その人は毎日の健康に気をつけます。風邪も引かないやう、お腹もこはさないやう、どんな小さい事にも気をつけます。さうしてぼちぼちと登山用の品々を準備します。けれども、登らうと云ふ気のない人は、旅費も用意しません。支度は勿論とゝのへません。健康にもそれだけの注意は払いません。登らうとする人と登らうとしない人の心持ちと態度には、随分のちがひが出来てゐます。それだから、いよいよ登りかけた其の時よりも、登らうと決心のついた時、既に半分以上の進行をしてゐると申すのであります。
〔‥‥〕》
(漢字は新字体に改めた)
作者は後藤静香(ごとう せいこう)という方だった。

この記事に限らず、「立派な大人になるんだぞ」という少年たちへのメッセージが雑誌全体に満ち満ちていていることに、強い感銘を受けた。

読者である少年たちの側にも、そうしたメッセージに応えて立派な大人になろうという志がみなぎっていたようで、雑誌に掲載されている通信講座や専門学校や科学玩具の広告も、そうした少年たちの志に訴えるものが多かった。

こうした精神風土が戦後瓦解したことを嘆く人々の思いが、少しは理解できた気がした。

日本という国の来し方行く末について考えるうえで、戦前の『少年倶楽部』は、ぜひ目を通しておくべき資料だと思った。

2009年12月1日火曜日

『閉された言語空間』を読んだ

日垣隆さん主宰の古典読書会メーリングリストの課題で、江藤淳の『閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本』を読んだ。

この本は、大きく二つの部分に分けられると思う。

一つは、膨大な一次資料を駆使して、史実を解明していく部分。

もう一つは、解明された史実を証拠に、筆者自身が被害者の一人として、加害者たちを糾弾していく部分。

佐々木にとって最も印象的だったのは、この二つの部分の〈精緻さ〉の、大きな落差だった。

実証部分の精緻さや、その土台となった徹底的な調査には、深い敬意を抱かずにはいられない。

他方、糾弾部分の議論の荒っぽさには、たいへん失礼ながら、あまりにもナイーブ、という印象を受けた。

占領期日本におけるアメリカ主導の検閲を糾弾するにあたり、江藤が用いている論法は、大ざっぱに言えば、
「おまえら、〈言論の自由〉を錦の御旗に掲げてるくせに、日本では〈言論の自由〉を、こんなにも徹底的に、しかもこっそりと、圧殺してるじゃないか!」
というものだ。

大衆向けジャーナリズムでなら、こういう論法も有効なのかもしれない。

しかし欧米のまともな知識人が、こんな論法をまじめに相手にするとは、佐々木にはとうてい思えない。

一般に個人において〈自己の生存〉が〈自己の信条〉に優先するのと同様、国家においても、〈国家の存続〉は〈国家の理想〉に優先する。

〈国家の存続〉そのものが危機にさらされる戦時下において、〈国家の理想〉の扱いが平和時における扱いと異なるのは、当然のことだ。

また、戦時下の自国における〈言論の自由〉の圧殺と、占領した敵国における〈言論の自由〉の圧殺とを、同列に扱えないことも、少し考えればわかる。

ところが江藤は、戦争時と平和時、自国と敵国、それぞれにおける〈言論の自由〉の区別と連関を何ら検討することなく、すべてをごっちゃにして、「〈言論の自由〉の圧殺」として同一レベルに論じているのだ。

「あとがき」で江藤は、次のように述べている。
《私はむしろこの本を、日本の読者のみならずアメリカの知的読者にも読んでもらいたいものだと考えている》
江藤は、あたかもサル学者がサルの行動を分析するように、占領期日本におけるアメリカの行動を分析したつもりでいるのだろう。

しかし残念ながら、江藤による渾身の告発も、欧米の多くの知識人の目には、「サル山のサルの叫び」としか写らないはずだ。

もし、この本からアメリカ糾弾の部分を取り去り、実証研究の部分のみを抽出して、英語で発表したなら、人類への知的貢献としての価値はむしろ上がり、江藤が意図した「加害者アメリカの告発」も、世界のより広い層に対して達成されるのではないか。

そんなことも思った。

2009年11月30日月曜日

1週間行動記録表を5分刻みに変更

先月末に作って1ヶ月ほど使った15分刻みの1週間行動記録表を、5分刻みのフォーマットに変更した。



 ●「1週間行動記録表」ダウンロードページ

1ヶ月も自分の行動を記録していると、より細かい単位で記録したい欲求が出てくるし、記録も簡単な略号で行なえるようになってくる。

1時間のコマが3×4の12マスに分割され、1週間分並んだ表を眺めていると、注意深く時間を使えば1週間でどれほどのことができるか、逆にうかうかしていると1週間がどれほどあっという前に過ぎてしまうかが、よくわかる。

時間に関するピーター・F・ドラッカーの言葉をもう一度引用する。
「あらゆるプロセスにおいて、成果の限界を規定するものは、もっとも欠乏した資源である。それが時間である。時間は、借りたり、雇ったり、買ったりすることができない。その供給源は硬直的である。需要が大きくとも、供給は増加しない。価格もない。限界効用曲線もない。簡単に消滅する。蓄積もできない。永久に過ぎ去り、決して戻らない。したがって、時間は常に不足する。時間は他のもので代替できない。〔‥‥〕
時間はあらゆることに必要となる。時間こそ真に普遍的な制約条件である。あらゆる仕事が時間の中で行なわれ、時間を費やす。しかるに、ほとんどの人が、この代替できない必要不可欠な資源を当たり前のように扱う。おそらく時間に対する愛情ある配慮ほど、成果をあげている人を際立たせるものはない。」

2009年11月29日日曜日

アウトサイドジンブレイドのトレーニングも朝のメニューに入れる

高岡英夫先生の『センター・体軸・正中線』という本に、ジンブレイドという、足裏から腰にかけて成立する身体意識(体性感覚的意識)のことが紹介されている。

この本に書かれているように、ジンブレイドには、インサイドジンブレイドとアウトサイドジンブレイドの二種類がある。

インサイドジンブレイドのトレーニング方法は『センター・体軸・正中線』で、アウトサイドジンブレイドのトレーニング方法は『丹田・肚・スタマック』で、それぞれ解説されている。

インサイドジンブレイドについては、ちょうど去年から、毎朝のメニューに入れて継続的にトレーニングしていたが、アウトサイドジンブレイドについては、運動科学総合研究所で定期的に開催される講座で取り上げられるとき以外、まったくといっていいほど、トレーニングしていなかった。

インサイドジンブレイドもろくにできていないのに、アウトサイドジンブレイドにまで手をつけるのは、「二兎を追うもの一兎をも得ず」への道のように思えたからだ。

アウトサイドジンブレイドを体現するといのうは、とんでもなく高度な世界の話で、自分のように身体能力の低い人間が、本気で目指すべき世界ではないような気がしていた。

しかし昨日、高岡英夫先生が指導されるアウトサイドジンブレイドの講座に出て、やり方によっては、自分程度の人間でも、けっこうまともにアウトサイドジンブレイドのトレーニングに取り組めることがわかり、俄然やる気が出てきた。

そこで今日から、アウトサイドジンブレイドのトレーニングも、毎朝のメニューに入れることにした。

具体的には、毎朝やっている身体意識・武術関係のトレーニングを、次のように変更する。
  • トレーニング開始時の、芯を引っ込めたボールペンの先での内踝→ウナ→インサイドジンブレイドのサモンのところ、インサイドジンブレイドのサモンのあとに、アウトサイドジンブレイドのサモンも入れる

  • 杖と剣の稽古が終ったあとの、ゆるゆる棒の長棒を踏んでのスォードサモンのところ、そのあと同じようにして、ドライブもサモンする

  • そのあとやっていたインサイドジンブレイドのトレーニング法(『センター・体軸・正中線』で紹介されている方法)の前に、前足を出した状態でインサイドジンブレイド、同じ状態でアウトサイドジンブレイド、左右それぞれ1回ずつを追加

  • これまでやっていたインサイドジンブレイドのトレーニング法(『センター・体軸・正中線』で紹介されている方法)の代わりに、インサイドジンブレイドをかけてからのアウトサイドジンブレイド(『丹田・肚・スタマック』で紹介されている方法)を、左右それぞれ1回ずつ

2009年11月28日土曜日

巨悪

自分の思考を柔軟にするための一つの極論として、次の命題を頭に置いている。

巨悪は存在しない。

悪はいつも小さなものだ。

巨悪が巨悪に思えるのは、その善なる本性が大きすぎて、観察者に理解できないからである。

言い換えれば、観察者自身の認識が小さすぎるからである。

2009年11月27日金曜日

『罪と罰』を読んだ

今年の古典読破計画の第十一弾として、ドストエフスキーの『罪と罰』(江川卓訳、岩波文庫)を読んだ。

残念ながら、いまひとつ物語の世界に入っていけなかった。

共感できる登場人物が、一人も出てこなかったのだ。

とにかく会話にエクスクラメーションマーク(「!」)が多すぎる。

ほとんどすべてのページに、エクスクラメーションマークが現れる。

読んでいて落ち着かない、というだけではない。

末尾がエクスクラメーションマークになるような発言ばかりする、ということは、自分の感情を他人にぶつけるばかりで、他人の立場というものをろくに考慮しない、ということだ。

そんな人物たちに、共感できるはずがない。

主人公が語る反道徳的な思想にも、単にそう考えることが本人の感情に心地よい、という以上の動機が感じられない。

佐々木が好きなアイン・ランドの『水源』や『肩をすくめるアトラス』の主人公たちも、ある意味反道徳的な思想を語りはする。

しかしそこには、世間的に道徳的とされている思想がはらむ反道徳性や危険性に対する、公憤がある。

『罪と罰』の登場人物たちには、ただただ人間的なスケールの小ささしか感じなかった。

唯一、あ、自分と似てる、と思ったのは、第一部の冒頭、主人公が自分自身の行動の奇妙さに気づいて
「ふむ‥‥そうか‥‥人間というやつは、いっさいを手中にしているくせに、弱気ひとつがたたって、みすみすそのいっさいを棒にふっているわけなんだ‥‥こいつはまちがいなく公理だぞ‥‥」
とつぶやくところ。

自分を含む人間の行動や心理の中に法則性を発見して、言語化せずにはいられないところは、佐々木と似てるな、と。

別の訳者による同じ著者の『地下室の手記』を読んだときもそうだったのだが、パラパラとページをめくっているだけで、心臓の動悸が上がり、胸の中心が重苦しくなる。

ドストエフスキーの作品は、もう死ぬまで読まないかも。

(と書いてしまうと、それも惜しいような気がしてくるのだが)

2009年11月26日木曜日

15分刻み1週間行動記録表

ピーター・F・ドラッカーは、時間管理について次のように述べている。
《私の観察では、成果をあげる者は仕事からスタートしない。時間からスタートする。計画からもスタートしない。何に時間がとられているかを明らかにすることからスタートする。次に、時間を管理すべく、時間を奪おうとする非生産的な要求を退ける。そして最後に、その結果得られた時間を大きくまとめる。すなわち、時間を記録し、管理し、まとめるという三つの段階が、成果をあげるための時間管理の基本となる。》
《時間を管理するには、まず自らの時間をどのように使っているかを知らなければならない。》(『経営者の条件』)
行動しながら、自分の行動を記録するというのは、実にめんどうだ。

だからこれはずっと、「理屈はわかっていても実際にはやらないこと」の代表だった。

しかし佐々木も、自分の時間の使い方の愚かしさにだんだん嫌気がさしてきて、ついに先月意を決した。

A3の用紙に15分刻みで1週間分の行動を記録できるフォーマットを、Excelで自作した。

プリントアウトしてコピーしたこの記録紙を、仕事机の上に常に起き、起きてから寝るまでの行動を愚直に記録してみた。

外出中は、スケジュール帳に簡単に自分の行動を記録し、帰ってから転記する。



1ヶ月ほどやってみたが、これは期待以上の効果があった。

「自分は何にどれぐらいの時間を使っているのか」などといった分析は、めんどうなのでやっていない。

そんなことをしなくても、「この時間に自分が何をしたのか」をただ紙に書いていくだけで、十分すぎるほど、時間を大切に使うモチベーションが上がる。

記録紙が、自分の上司のような役目を果たしてくれるのだ。

下記のページに、佐々木が作ったフォーマットをアップしておく。

 ●「15分刻み1週間行動記録表」ダウンロードページ

ちなみにA3用紙のプリントアウトは、セブンイレブンのコピー機から行うことができる。

セブンイレブンのコピー機をA3カラープリンタとして使う方法は、下記のページを参照。

 ●「ネットプリント」ホームページ

2009年11月25日水曜日

ブログに具体的日常の感想を書かないほうがいい理由

ブログには、あまり具体的日常の生々しい感想を書かないほうがいい。

思いがけずクライアントの社内情報や出会った人のプライバシーをネット上に曝すことになってしまう、ということもあるが、それだけではない。

村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』で、ある登場人物が事故死したとき、その人物を生前「どうしようもない馬鹿」と評していた13歳の少女が
「自分がひどいことをしたような気がする」
と後悔の色を見せたことに対して、34歳の主人公「僕」が
「そういう考え方は本当に下らないと僕は思う」〔‥‥〕「後悔するくらいなら君ははじめからきちんと公平に彼に接しておくべきだったんだ。少なくとも公平になろうという努力くらいはするべきだったんだ。でも君はそうしなかった。だから君には後悔する資格はない。全然ない」
と諭したあと、
「ねえ、いいかい、ある種の物事というのは口に出してはいけないんだ。口に出したらそれはそこで終ってしまうんだ。身につかない。」
と戒める場面がある。

現実の生活は希望と絶望のごった煮で、下手すれば心のつぶやきの半分近くは、怨嗟、悪態、憂虞、絶念の言葉で占められる。

そういった現実をなんとか少しでもましにできないかと暗中模索、試行錯誤している途中の心のありさまをそのまま文字にしてしまったら、「それはそこで終ってしまう」。

だから佐々木はそういうことを文字にしていない、と言いたいのではなく、むしろそういうことをよく文字にしているので、反省の意味でここに書いておく。

2009年11月24日火曜日

ビジネスセンスのある人たちがやっていること

プロのデザイナーが空中でペン先を回転させてから円を描く、という話が、頭から離れない。

いろいろなことの比喩として、頭をもたげてくる。

この話には、ビジネスの大事な一面が、表現されているのではないだろうか。

ペン先から紙の上に残されていくインク跡は、〈商品・サービス〉のたとえ。

結果として描かれる円形は、〈お金〉のたとえ。

素人は、現実の紙の上に線を引いていく結果として、円形を得る。

玄人は、観念の世界で円形を得てしまってから、その転写として、現実の紙の上に線を引く。

2009年11月23日月曜日

来年の目標

昨日は、月に一度の武術稽古会。

稽古が始まる前に、佐々木がマネージャーを務める地区組織の、簡単なミーティングを行う。

今年最後のミーティングなので、「来年はどんな年にしたいか」というテーマで、会員に一言ずつ発言してもらった。

去年最後の稽古会のときも同じテーマでミーティングを行い、佐々木は次の目標を宣言した。
  • 前提として、一年一年を、前の年よりもよい年にしたい。

  • 武術で一つ上の段位を取る。

  • 古典と呼ばれる本を月1冊読む。

去年ミーティングの場で宣言した目標は、今年すべて達成できた(一つ目の目標については、基準が主観的になってしまうが)。
  • ある程度の人数がいる前で宣言する。

  • 数字を入れる。

  • 期限をきる。

  • 文字にする。

これらによって、目標が達成される確率が高まることを、改めて実感している。

今年佐々木が宣言した来年の目標は、次の二つ。
  • 武術で一つ上の段位を取る。

  • 人との協力関係を広げ強める。あえて数字を入れると、2010年の終わりに振り返ったとき、「今年は新しくこの人と良い協力関係を築けた」と思える人が、10人以上いるようにする。

他にもいろいろと目標はある。

これらの目標を、具体的にどうすれば達成できるか。

約1ヶ月かけて、ゆっくり楽しみながら考えていきたい。

2009年11月22日日曜日

アルファベットなめんなよ

日本人が英語をものにできない、小さな原因の一つとして、アルファベットをなめている、ということがあると思う。

英語では基本的に、アルファベットの26文字、プラスわずかな数字と記号で、森羅万象を表現する。

これに対して日本語は、仮名だけで48文字。漢字は常用漢字だけで約2000字。

たとえばスパイクシューズの爪の数が半分になれば、おおざっぱに言って、爪一本あたりに掛かる負荷は、2倍になる。

世界という大地を言語というスパイクシューズでつかむと考えたとき、英語は日本語と比べて、爪の数が約100分の1、爪一本あたりに掛かる負荷が約100倍ということだ。

「a」とか「b」とか「c」とかいった文字の一つ一つに、いわば世界全体の重さの26分の1の負荷が掛かる。

多くの日本人に欠けているのは、この「26文字で世界全体をつかむ」という感覚だと思う。

極論すれば、「26文字で世界のすべてを把握し表現しなければならない」という制約を課されれば、ああいった言語が、自然に立ち上がってこざるをえないのである。

2009年11月21日土曜日

美しい円の描き方

インダストリアルデザイナーの山中俊治さんが、最近のブログで、紙に手書きで円を描くときの、プロとアマの違いを紹介されている。
《普通は「丸」を描こうとすると、ある点から出発して、あたりを一周回ってきて出発点につなぎますが、これだとつなぎ目がいびつになります。デザイナーの描き方は違いました。空中に少し浮かせた状態でペン先を一定のスピードで円運動させながら当たりを付け、軌道が安定してきたところで、ふわりと着地させます。そのままするすると一周以上、紙の上を走らせてから、すっと浮上させるのです。
始まりも終わりもない悠久の円運動を作り、その一部を紙に定着させる。このテクニックは私が最初に覚えたデザイナーの技になりました。》
単にプロとアマの仕事の違いの一例として印象深かっただけでなく、何か、人生を自分の意に適う形で成し遂げる方法を、示唆されたような思いがした。

自分が存在しない状態から存在する状態へと移行する形で人生が始まり、そしてまた自分が存在する状態から存在しない状態へと移行する形で人生が終るという意味で、人生も一つの円運動だ。

書き始めと書き終わりのつながり方は決して思い通りにならないものとはいえ、実在・空想を問わず無数の人物の人生に学びそれぞれに自分の人生を重ねるのは、デザイナーが美しい円を描くべく空中でペン先を回転させる行為に等しいのではないか、という気がした。

2009年11月20日金曜日

人を喜ばせることばかり考えていると自分が死ぬことも怖くなくなるらしい

小山薫堂さんの『人を喜ばせるということ―だからサプライズがやめられない』を読んだ。

放送作家、脚本家、ラジオパーソナリティとして活躍する筆者が、ふだん周囲の人々に仕掛けている数々のサプライズを紹介した本。

小山さんにとっては、周囲の人を喜ばせるために頭をひねることが、そのまま仕事上の発想トレーニングにもなっているようだ。
《日常のなかで、ぼくはタクシーの運転手さんと仲良くなろうと心がけています。
仕事をしている運転手さんをいかに喜ばすか、というのが、ひとつの発想トレーニングになるんです。
運転手さんは普通、あんまり喜ばないですよね。だからどうにかして喜ばせたくなる。
〔‥‥〕「あの人を喜ばせることができたら、ほかの人も喜ばせることができる」ってね。》
特に印象に残ったのは次の箇所。
《「どういうふうに死にたいか」と以前聞かれて、ぼくはサプライズが好きだから、ハート型の石を飲み込んでおいて、火葬場で焼かれたあとにハート型だけが残っている、という死に方だと答えました。
〔‥‥〕
死ぬときのサプライズを考えていると、不思議なことに、死ぬことが怖くなくなるんです。人生を掛けた最後のサプライズでしょ。なにをやってやろうかななあ、と思うわけです。
すると不謹慎かもしれませんが、「早く死なないかなあ」と思っちゃうくらい。》
で、表題のような感想を抱いた次第。

2009年11月19日木曜日

自転車の比喩

自転車というのは、よくいろいろな比喩や例に用いられる。

最初はできなかったことが、チャレンジしているうちに突然できるようになり、やがて当たり前のことになってしまうことの、例に出されたり。

リスクは避けるべきものではなく、コントロールすべきものであり、それは誰でもやっていることであることを納得させるための、引き合いに出されたり。

やはりその身近さだとか、体感性だとかが、多くの人の実感に訴える比喩を可能にするのだろう。

「自分ではわかったつもりでいたが、実際に経験してみて、自分が頭でしか理解していなかったことに気づかされる」といのうは、優れた比喩の特徴だ。

最近、自転車に乗るとき自分が意識的・無意識的にやっているさまざまなことが、他の分野で自分がやっていること・やろうとしていることの諸要素にいちいち対応することが、強い実感として感じられる。

ビジネスやお金全般について、特にそれを感じる。

それから、自分の感情もまた、自分の理性にとって、ある面において、自転車のような乗り物であることにも気づかされる。

練習しなければ自転車で思い通りの場所に行けるようにはならないように、そして自転車も低級品から高級品までピンキリであるように、また自転車がさび付いていてはスムーズな移動ができないように、自分自身の感情もまた、コントロールの訓練や、アップグレードや、整備の対象になることを感じている。

2009年11月18日水曜日

反感と学び

自分が反感を覚える人。

そういう人の思想や行動原理の優れたところに、突然、気づかされる。

そういう経験が重なると、他人に反感を覚えたときほど、何かその人から学べる点はないかと、必死に探すようになる。

佐々木が今尊敬し学んでいる人たちの多くは、佐々木が当初強い反感を覚えた人たちだ。

そしてその反感は、佐々木が尊敬し学ぶようになった今でも、決して消えたわけではない。

自分が反感を覚える人々の中に自分が学べる要素を探っていく、というのは、ほとんど佐々木の“癖”と化している。

これは必ずしもよいことではない。

ある意味、自分の“弱み”に集中しているのと同じことだから。

しかしこの“癖”自体を自分の“強み”にすることも、おそらくは可能だと思う。

2009年11月17日火曜日

『現代用語の基礎知識 2010年版』を購入した

今年も『現代用語の基礎知識』を購入した。

目的は二つ。

一つ目は、とりあえず全ページに一気に目を通して、今という時代の概要をおさえる。

二つ目は、毎日、パッと開いたページの一項目を音読して、脳を鍛える。

いずれも、日垣隆さんがメルマガで推薦されていたので。

全ページ一気読みは3年前から、音読は1年前から、それぞれ実践している。

2010年版が昨日届いたので、さっそく30分ほどかけて、全ページに目を通した。

今年は「綴込付録 人物で読む昭和&平成年表」がおもしろかった。

1945年から2009年まで、ほぼ見開き1年で、その年を代表する人物数名をピックアップして解説している。

人物の選定、解説、イラスト、年表、レイアウト、いずれも見事。

昭和から平成までの一年一年の流れが、見事に浮かび上がる。

音読は、脳を鍛える目的のほか、発音をきれいにする目的もあってやっている。

発音というのは、放っておくと際限なくだらしなくなっていってしまう。

アナウンサーのような発音を目指し、唇や口腔内や顎やお腹にしっかりと意識を込め、途中でつかえないように、一項目を音読する。

本文の見出しにはそれぞれ英訳も付いているので、英語の勉強にもなる。

音読の習慣は、忙しいとついサボってしまうので、タックシールに「発音練習」と書いて表紙に貼り、いつも枕元に置いておくようにしている。

2009年11月16日月曜日

文章に共感してくれる人

ある意味、文章に共感する人は、少なければ少ないほどよい。

最も価値が高い文章は、共感する読者が一人しかいない文章である。

なぜならその文章に書かれていることは、その読者にとって、周囲に誰一人として共感してくれる人がいなかったことであり、筆者は、その読者に共感してあげられるただ一人の人になるのだから。

2009年11月15日日曜日

『南郷継正 武道哲学 著作・講義全集 第8巻』を入手した

発売されたばかりの『南郷継正 武道哲学 著作・講義全集 第8巻 武道哲学総論Ⅱ』を入手した。

第8巻に収められているのは、『武道とは何か』の全集版と、講義録「東京大学学生に説く哲学・論理学への道 序説」。

南郷先生の『武道とは何か』に、特にそこに収められている鈍才論に、20歳ごろの佐々木がどれほど胸を熱くしたかを、南郷先生の愛読者でない人に伝えることは難しい。

全集収録にあたって『武道とは何か』は『武道学綱要』と改題され、新たに各章末に、読者からの計16の質問に対する解答が付加されている。

ざっと読み通して、薩摩示現流の《地上に棒を林立させ、そのなかを絶叫しながら駆けまわって打ちまくる》修練法について、絶叫することで脳そのものに実力がつき、身体力も旺盛になる、と説かれたところが強く印象に残った。

佐々木は生活の中で大声を出す機会があまりないのだが、大声を出せる場面では、「脳に実力をつけ身体力を旺盛にする」ことを心がけて声を出そうと思った。

一つだけ、不満に感じたこと。

『武道学綱要』のところどころに、南郷先生のお弟子さんたちの修業写真が掲載されている。

写真自体は見事なのだが、ほとんどの写真に説明がない。

構成が学問的に厳密であることは、『武道学綱要』について、南郷先生ご自身が誇られている点の一つだと思う。

説明文なしの写真は、この学問的構成の厳密さを損っている気がした。

2009年11月14日土曜日

人生論

人間の幸福という観点からすると、考え方レベルでのジレンマの解決の重要性は、物レベルや制度レベルでの解決の重要性に、勝るとも劣らない。

「精神構造」と呼ばれる構造は、人間がぶつかる考え方レベルでのジレンマの解決として生み出され、発展してきたのに違いない。

人間の生活が高度になればなるほど、人間がぶつかる精神的ジレンマも高度になり、解決のためには、より高度な精神構造が必要になる。

その必要を満たすのが、広い意味での人生論なのだろう。

科学や技術や制度は、人間がぶつかる客観的ジレンマの解決に必要不可欠だが、広い意味での人生論もまた、人間がぶつかる主観的ジレンマの解決に必要不可欠なのだ。

2009年11月13日金曜日

構造とジレンマ

生物の進化を学んでいても、社会の発展を学んでいても、最近よく思うのだが、あらゆる構造は、何らかのジレンマの、解決として発生したのではないか。

物質の構造にしても、生体の構造にしても、人間の協業の構造(=制度)にしても、行動の構造(=規律)にしても、精神の構造(=ものの考え方)にしてもだ。

だから、解決できないジレンマにぶちあたった、ということは、物だか制度だか規律だか考え方だかのレベルで、新しい構造が必要だ、ということに等しいのだと思う。

人間の幸福という観点からすると、考え方レベルでのジレンマの解決の重要性は、物レベルや制度レベルでの解決の重要性に、勝るとも劣らない。

生/死は物レベルの事象だが、幸/不幸は精神レベルの事象だからだ。

2009年11月12日木曜日

メロディーの底層・補足

作曲者や演奏家が、音の配列を、情動のどれだけ深いところから生成しているかによって、鑑賞者の情動がどれほど深く揺さぶられるかが、規定されるのだと思う。

2009年11月11日水曜日

メロディーの底層

サルにタイプライターを無限に打ち続けさせる。

そうすると、いつかはシェークスピアの作品が打ち出されるか。

確率論の教科書などで、そういう問題に出会う。

文章を書くという行為は、手持ちの文字を適当に並べ替えていって、偶然意味のある文章になるのを待つ、という行為ではない。

文字の配列、という層の一つ下には、モヤモヤっとした、言葉にならない思いの層が存在している。

この思いの層に生じる運動に、文字の配列という表現形式を与えていくのが、書くという行為である。

佐々木は音楽のことはよくわからないのだが、メロディーの場合はどうなのだろう。

サルにピアノの鍵盤を叩かせてまともなメロディーが演奏される確率は、サルにタイプライターを打たせてまともな文章ができる確率よりは、高い気がする。

作曲は、作文に比べて、表層的な配列レベルの操作の比重が高いのではないだろうか。

とはいえ、やはり音楽の場合も、音の配列、という層の一つ下に、モヤモヤっとした、音にならない情動の層が存在していることに変わりはないだろう。

この情動の層における、質の高い運動の生成に、音の配列の層における表現形式を与えたのが、優れた音楽なのではないか。

で、おそらく優れた演奏家たちは、音楽作品における音の配列を、音の配列として反復しているのではない。

音楽作品が創作されたときの、情動の層から音の配列が生成されるプロセスを、演奏のたびに再現できているのが、優れた演奏家であるような気がする。

2009年11月10日火曜日

国政への関心

スティーブン・R・コヴィーは『7つの習慣』で、「関心の輪」と「影響の輪」について説いている。

「関心の輪」は、自分が関心を持っている事柄と、そうでない事柄を分ける円。

円に含まれるのが、自分が関心を持っている事柄。

「関心の輪」に含まれる事柄は、さらに自分がコントロールできる事柄と、そうでない事柄に分けられる。

自分がコントロールできる事柄を囲む円が、「影響の輪」。

主体的な人は、自分がコントロールできる事柄にエネルギーを集中する。

つまり、「影響の輪」の内側に集中する。

「影響の輪」の外側、つまり自分がコントロールできない事柄に集中すると、無力感にとらわれるばかりか、自分が本来コントロールできる事柄もコントロールできなくなっていく。

国の内政や外交は、佐々木のような一般人の生活にも、根底的な影響を及ばす。

だから国政は、「関心の輪」の中に入れておかざるをえない。

では国政が自分の「影響の輪」の内側にある事柄かと言うと、これはなかなか微妙。

感覚的には、ほとんど地震や台風に近い。

賛成も反対もなく、ただ対策と対応あるのみ、といのうが、佐々木の基本的な態度。

だが国政に対する主体性を完全に放棄してしまうのも、なんとなく良心がとがめる。

それで、国政に対して自分がどう主体的に関わるべきなのか、ということを、ときどき考える。

最近強く思うのは、政治的な事柄については、「どれだけ正しく理解できるか」ということよりも、「どれだけ多くの人と協力関係を築けるか」ということのほうが、よほど重要だということ。

政治的な事柄について、「自分が正しく理解すること」や「他人に正しく理解させること」にエネルギーを費やしている人の多くが、「多くの人との協力関係を築く」という観点から言えば、結果的にマイナスになるような言動を繰り返している。

佐々木もいろいろな政策について、できれば正しい理解に基づく判断をしたいから、いろいろと本を読むなどして勉強する。

ただ、その理解の正しさには、おそらく半分以下の重要性しかない。

現実的に重要なのは、実生活やネット上などで接する人々との関係を、より協力的なものにしていくことなのだということは、いつも意識していたい。

2009年11月9日月曜日

『地頭力を鍛える』を読んだ

細谷功さんの『地頭力を鍛える 問題解決に活かす「フェルミ推定」』を読んだ。

ビジネスコンサルタントとして、十年以上にわたり多様な現場の問題解決に携わってきた筆者が、問題解決のベースになる能力の構造と、その鍛え方を説いた本。

自分の能力を根底から高めてくれる本に出会うたびに、「もっと若い頃に読みたかった」という感想を抱くが、この本もまさにそう。

細谷さんの曖昧さのない説き方のおかげで、自分の考え方の癖や短所を、明確な構造図に位置づけて把握することができた。

地頭力を構成する三つの思考力、「結論から考える」「全体から考える」「単純に考える」の本質が、「離れて考えること」ではないか、という細谷さんの示唆は、まさにそのとおりだと思う。

「こちら」から「向こう」へ、「部分」から「全体」へ、「具体」から「抽象」へ、という三つの方向への「離れ」が必要であるというのは、身体感覚的に納得がいく。

2009年11月8日日曜日

写経

学生時代、心に響いた文章があると、いらない紙の裏などに、万年筆で繰り返し書き写した。

たとえば次のような文章だ。
《人間の生きる目的は何かとか、人生をいかに生きるべきかとか、大きな目的意識や大きな生活態度について自覚しなくても、日常生活をすすめていくことはできる。しかしこれらを自覚して正しい目的を確立し正しい生活態度を打ちたてていないかぎり、日常生活の目的や行動の正しい位置づけや一貫した価値判断は生れてこないし、困難や障害をのりこえて目的をつらぬこうとする情熱や強固な観念的原動力をつくりだすこともむずかしい。》
《徹底した教育によって正しいものと信じこんでいたこれまでの目的意識や価値判断が、敗戦によって一挙にあやまっていたと知らされたときの日本人は、それに代るものを求め精神構造の空洞を埋めようとして、哲学へ走った。哲学書に対する爆発的な要求が起って、専門家にすら難解と定評のある西田哲学の書物がベストセラーになり、またスターリンの弁証法的唯物論と史的唯物論のパンフレットや哲学教科書や解説書などがとぶように売れて、進歩的な出版社を大いにうるおしたのであった。》
《大衆は、哲学的教養を身につけるために哲学書を要求したのでもなければ、小哲学者になろうとして哲学書を求めたのでもなかった。大衆は新しい時代における人生の指針を求め、人間として正しく生きるためのよりどころを求めたのである。哲学書を人生論として読もうとしたのである。》
《人生論ときくと、知識人は冷笑する。たしかに、人生論と名のって書店に売られているものの大部分は、観念論哲学者や評論家や文学者の手になる評論や随筆で、社会科学的な分析に堪えられないひよわいものでしかないけれども、だからといって人生論は有効性がないとか社会科学になりえないとかいうことにはならない。むしろ反対に、社会科学を正しくふまえた具体的な人生論が建設され大衆化されていないからこそ、これらのひよわい随筆的人生論が美文の魅力によって大衆をとらえるのである。》
《個人の人生には始めがあり終りがあるけれども、それは人類の歴史・社会の発展の中に存在し、過去の時代と未来の時代につながっている。過去の時代の遺産をうけつぎながら人生の創造がはじまり、未来の時代に遺産をのこしながら人生の創造が終っていく。個人の個々の行動とその影響は、その一生のなかで位置づけ評価されるだけでなく、その一生における社会的な影響のなかで位置づけ評価されるだけでなく、さらにそれらを超えた大きな歴史的な観点において位置づけ評価されなければならない。たとえ苦難にみちた一生であっても、それを正しく評価することによって人間としての誇りを感じ深い満足感を得ることができるような生きかたが存在することを、科学的な人生論はあきらかにするであろう。》
(三浦つとむ『指導者の理論』1960年)


こういう文章を書き写すことが、自分にとっては写経のような役割を果たしていたのだと思う。

2009年11月7日土曜日

レーザーの多重性

高岡英夫先生は、人体を上下に貫く身体意識である「センター」に、「垂軸」と「体軸」の区別があることを論じられている(『センター・体軸・正中線』他)。

垂軸とは、重力線に沿って形成される軸である。

体軸とは、背骨に沿って形成される軸である。

ここら先は佐々木の勝手な思いつきだが、体の中心から進行方向に向かって一直線状に伸びる身体意識である「レーザー」にも、これと似た区別があるように感じられる。

非常に感覚的かつ抽象的な話になるが、「状況が自分に要求している行動の中心軸」と、「時間の流れの軸」の二つが、センターで言う「垂軸」にあたる軸で、「自分が取る行動の軸」が、センターで言う「体軸」にあたる軸である。

自分に行動を要求している状況は、常に複数存在している。

だから、「状況が自分に要求している行動の中心軸」も、複数存在している。

いずれかの軸を選択し、さらに「時間の流れの軸」にも沿う形で「自分が取る行動の軸」を一致させないと、行動をなめらに遂行できない。

「時間の流れの軸」は、単一ととらえることもできるが、たとえば1秒未満単位、秒単位、分単位、時間単位、日単位、週単位、月単位、年単位、10年単位、一生単位、1世紀単位、1000年単位‥‥と、それぞれ異なる軸を持って存在しているととらえることもできる。

感覚的に、「状況が自分に要求している行動の中心軸」は曲線状であり、「時間の流れの軸」は直線状である。

ついでに、主体的な人間同士が共同体を築く場合、行動面での相手のレーザーを感知し、自分の行動のレーザーと調和させる能力が、互いに必要になる。

2009年11月6日金曜日

レーザー

高岡英夫先生の『センター・体軸・正中線』に、「センター」という身体意識と、「レーザー」という身体意識が紹介されている。

基本的に、センターは体の中をまっすぐ上下に貫く身体意識であり、レーザーは体の中心から進行方向に向かって一直線状に伸びる身体意識だ。

ここ最近、自分の体を構成する各パーツの中心や、パーツの中心同士の合理的な配列を、徐々に体性感覚の次元で意識できるようになってくるにつれ、こうした「体の内部での中心同士の合理的配列」の延長として、「地球の中心と自分の中心の合理的配列」を意識できるようになってきた。

つまりは、自分のセンターを実感できるようになってきた。

さらに、センターについて自分が実感できはじめたことを、ちょうど90度前方に倒す形で、レーザーにも応用できるようになった。

つまり、レーザーの意識と自分の体のあり方が、かなりダイレクトにつながってきた。

この感じをもっと育てていくと、運動レベルだけでなく、行動レベルでも顕著な改善を達成できるような気がしている。

2009年11月5日木曜日

成長イメージ

種子から芽吹いた幼樹が、若樹を経て大樹へと成長していくように、自分の能力がこれから将来にわたってまだまだ伸びていくことを、ようやく、実感としてイメージできるようになってきた。

このイメージを持てるだけでも、得られる幸福感は大きい。

このイメージがまったく持てないことが、幸福度が低い原因になっている人は多いと思う。

2009年11月4日水曜日

日記を書き始めて1年

この日記を書き始めたのは、昨年の11月4日

昨日で、ちょうど1年が過ぎたことになる。

なんとか1日も欠かさず書くことができた。
「3年間1日も欠かさず日記を書き続けた人は、何事かを成す人である。10年間1日も欠かさず日記を書き続けた人は、何事かを成した人である」
そんな格言を、どこかで読んだ。

これからもこの日記は、死ぬまで1日も欠かさず書き続けることにしたい。

2009年11月3日火曜日

無理

自分で自分の体を持ち上げたら、空中に浮き上がるか?

そんなことはあり得ない。

だが我々凡人は、それに近い馬鹿げた試みを、無意識のうちに行っているものだ。

ゆる体操をやっていると、そのことがよくわかる。

ゆる体操に取り組んでもう10年以上経つが、自分が馬鹿げた体の使い方をしていたことに気づかされることが、いまだに、ほとんど毎日のように、ある。

つい一昨日も、武術のある動作をするとき、頭蓋骨と頸椎(首の骨)のつなぎ目のところで、無意識のうちに、首から下を吊り上げようとするかのような力の使い方をしていたことに気づかされた。

その無理な力の使い方を改善したら、頸椎から下、胸椎や腰椎の使い方から、足の使い方に至るまで、改善が及んだ。

2009年11月2日月曜日

『代議士の誕生』を読んだ

日垣隆さんの古典読書会メーリングリストの課題で、ジェラルド・カーティスの『代議士の誕生』(山岡清二、大野一訳)を読んだ。

1967年の衆議院総選挙における大分二区の自民党新人候補、佐藤文生氏の選挙活動を、当時コロンビア大学大学院政治学博士課程の学生だった筆者が、11か月にわたり佐藤家に居候して密着取材し分析した学術研究書。

2009年版の巻頭には、2009年8月の総選挙における政権交代に関する、筆者の分析も掲載されている。

印象に残ったのは、この本の主人公である佐藤文生候補の後援会(=風雲会)事務所が、就職相談所と、進学相談所と、結婚相談所を、一まとめにしたような活動をしている、というところ。
《風雲会に寄せられた高校進学の相談は、一九六六年の一年間で約一〇〇件。〔‥‥〕三月から四月にかけては、事実上、スタッフ全員が入学の世話にかかりきりになる》(221ページ)
《就職斡旋の件数も年間一〇〇~一五〇件にのぼる。別府のあるホテルでは、従業員のほぼ全員が佐藤と村上勇の世話で入ったところさえある》(221ページ)
《風雲会の事務所には、結婚適齢期の娘をもつ親たちから預かった大量の見合い写真がある。〔‥‥〕春と秋の結婚シーズンは、結婚式場への出席はほとんど日課になってしまう》(222ページ)
佐々木自身は、今まで進学や就職などにあたって、政治家の事務所の世話になったことはない。

そのような世話を受けず、「自力で」人生を切り開ける人間が、強い人間なのだと考えていたようなところがあった。

裏を返せば、そのような個人的な問題で政治家に頼ることを、どこかで軽蔑していたわけだ。

しかし最近、特に自分自身のこととして思うのは、「人に頼らない」強さは、そのまま「人に頼れない」弱さなのではないか、ということだ。

社会的な観点からしても、「代議士が選挙民の個人的生活の世話を焼く」と言うと、どこか代議士の本分を逸しているような印象を与えるが、「地域の人々の個人的生活の世話を焼く人が代議士になる」と考えれば、これはごく真っ当な民主制のあり方だろう。

そのようなあり方を軽蔑していたかつての自分を、今は少し恥ずかしく思ってもいる。

2009年11月1日日曜日

イワシ

イワシを手早くおいしく料理するスキルは、人生における幸福を確実に増大させる。

300円かそこらの材料費で、舌も体も心も喜ぶ主菜を4人分あつらえられる力があれば、少々の貧乏など恐くなくなる。

2009年10月31日土曜日

来年のスケジュール帳を買った

来年のスケジュール帳を買った。

今年と同じ、「能率ダイアリーメモリー2」。



その日行うべきことを、できるだけ詳しく書いておきたいから、ある程度のサイズが欲しい。

かといって、持ち歩けないほど大きかったり厚かったりするのも困る。

ということで、サイズはA5前後。

重いのは嫌なので、リフィル式は除外。

たくさん書き込めるように、1日1ページ型。

マインドマップ式に書き込んでいくので、フォーマットはシンプルなほうがいい。

書き込む内容や分量は状況に応じて変わっていくので、「to doリスト」だの「メモ」だの「ミッション」だのと、欄がきっちり決まっているのは困る。

佐々木のメモの仕方は、下の写真のように、とにかくメチャクチャなのだ。



休日がわからないのも困るので、外国製は除外。

月や曜日が英語で書かれているのも、わかりにくいので除外。

(スケジュール帳に限らず、日本人しか読まないのに、頭良さげに見せる目的でのみ英語を使っている製品は、基本的に嫌い)

ということで、書店や文具店で他のスケジュール帳もいろいろ見てみたのだが、条件に合うのはやはり「能率ダイアリーメモリー2」だけだった。

佐々木が持ち歩いている鞄(エレコム Lightio BM-CA11BK)の外ポケットにも、スッポリ収まる。



買ってきたところで、自分が使いやすいように、少しカスタマイズ。

まず、小口面に印刷された月識別マークのところに、サインペンで「1」、「2」、‥‥「12」と書き込む。



これを書き込んでおかないと、目的の日のページをすばやく開くことができない。

それから、冒頭の月間予定表の右下に、しおりとして付箋紙を貼る。



このスケジュール帳には、しおり紐が1本しかついていない。

しおり紐は、今月の予定表と今日の予定表の、どちらにも必要だと思うのだが。

しかたないので、しおり紐は今日の予定表のところに入れて、今月の予定表のしおりには、付箋を使う。

それから、巻末にノート用ページが12ページあるので、各ページの上隅に「2010年1月」、「2010年2月」、‥‥「2010年12月」と書き込む。月間to doリストとして使うためだ。




「2010年1月」のページの下にも、しおり用の付箋紙を貼る。

裏表紙を開けた見開きには、大きめのメモ用の付箋紙(ポスト・イット655RP-Y、76mm×127mm)を10数枚貼っておく。



所有者の氏名・連絡先欄がこの付箋紙で隠れてしまうので、自分の氏名・連絡先スタンプを右上に押す。

ポケット部分には、名刺を数枚入れておく。

裏表紙から開けてその次の見開きには、中くらいのメモ用の付箋紙(ポスト・イット654RP-YN、75mm×75mm)を10数枚貼っておく。



さらにその次の見開きには、小さなメモ用の付箋紙(ポスト・イット700Y、50mm×15mm)を二十枚ほど貼っておく。



表紙を開けた見開きには、書籍用のしおりを2枚ほど入れておく。



これは移動中に本を読みかけで閉じようとして、しおりがなかったときのためのもの。

スケジュール帳に自分のミッションや夢を書き込むことを勧める人は多いし、そのような構成になったスケジュール帳もいろいろ販売されている。

だが、持ち歩いて人目に触れるものに、そういったことが書き込んであるのは、やはりちょっと恥ずかしい。

そういうことを書き込むフォーマットは、別途自分で作って、家で書き込み、家に置いておくようにしている。

2009年10月30日金曜日

一流のサッカー選手たちの運動感覚を想像する

スポーツ全般について、子供の頃から苦手意識がある。

特にサッカーだ。

広いコートを入り乱れて走り回る、大勢の敵味方。

矢の速度で地を這い宙を舞うボール。

一瞬の静止もなく変化していく状況。

なぜサッカーが得意な人たちは、あれほど複雑かつ大量の情報を、まばたきする間もなく処理し、判断し、的確な対応ができるのか。

それが不思議でしょうがなかったし、そういったことができない自分が、情けなくてしかたなかった。

だがここ最近、ゆる体操などへの取り組みを積み重ねてくる中で、理想的な身体運動のありかたというものを、実感を伴って想像できるようになってきた。

自分の骨格を構成するパーツ同士がゆるんだ状態で、パーツの中心同士を重力線などに沿って適切に合わせることができたときの運動感覚が、自分の体外の物との関係にも成立することがわかってきた。

ここからはかなり想像が入ってくるが、意識の次元で骨格のパーツの中心同士を適切に合わせることができているときは、それぞれのパーツの位置や角度が、状況に応じて勝手に適切に変化していく。

骨格を構成するパーツは無数にあるわけだが、主観的には、これらすべてのパーツを同時に監視し操作しているわけではない。

主観的に行っていることは、「流動する中心同士が適切に合わさっている」状態に破れが生じたところを見つけて中心同士を合わせ直すことと、流動性が低下したところを見つけて流動性を回復させることだけである。

あとは各パーツが勝手に適切な運動をするのに任せるだけである。

一流のサッカー選手たちは、これと同じことを、自分の骨格を構成するパーツだけでなく、ボールや敵味方のプレーヤーやゴールなどに対しても行っているのではないだろうか。

そう考えると、凡人には魔法にしか見えない彼らのプレーにも、自分の実感を通して説明がつく。

2009年10月29日木曜日

流動する中心同士を合わせる能力

「流動する中心同士を合わせる能力が、さまざまな能力のベースになっている」という気づきについて、先日書いた

もう少し展開しておきたい。

「流動する中心同士を合わせる」と言ったとき、佐々木のイメージのベースにあるのは、脱力してゆるゆる棒に乗ったときの、自分の骨格や内蔵のさまざまなパーツの配列を適切に調節する努力だ。

この努力の達成度が一定レベルを超えたとき、自分の骨格が本来持っている機能が、重力に対して最も合理的に発揮されている実感が生まれる。

その前提には、脱力がある。

より一般化して言えば、流動するパーツ群の中心同士が合うことから生まれる合理性が発揮されるには、前提として、パーツ同士の流動性が維持されていなければならない。

また、ゆるゆる棒の例で言えば、骨格のパーツの中心同士を合わせるというのは、自分の体に働く重力に沿う形で合わせるのである。

より一般化して言えば、流動するパーツ群の中心同士を合わせるというのは、あくまでその場に働く自然力に沿う形で合わせるのである。

だから「流動する中心同士を合わせる能力」というのは、より正確には、「流動性を保ちながら、その場に作用する自然力に沿って、中心同士を合わせる能力」である。

この話を、自分の体内のパーツ同士の関係だけでなく、自分と体外の物体との関係や、社会関係にまで一般化した場合、上記の自然力には、個人の意志から独立して作用する社会力も含まれる。

えらく抽象的になってしまったが、とりあえず自分の中では新しい気づきだったので、書き残しておく。

2009年10月28日水曜日

視覚的な方向認知と体性感覚的な方向認知

どちらが上で、どちらが下か。

それぐらいのことは、たいていの人が、わかっているつもりでいる。

あまりにも当たり前すぎて、自分がわかっているかどうか、疑問に思うことすらない。

佐々木も、ゆる体操やゆるゆる棒に取り組み始めるまでは、そうだった。

自分の体がゆるみ始めると、どちらが上でどちらが下かということを、実は自分が正確に把握できていなかったということに気づかされて、驚く。

自分の体をカチカチに固めて、低レベルの身体運動に埋没している限り、「どちらが上でどちらが下か」ということを、体で正確に把握しなくても、なんとかやっていける。

ところが体がゆるんでくると、自分の体にかかっている重力の方向を常に正確に感知しないことには、まともに立っていることすらできない。

ここ最近、背骨と肋骨の間の関節(=脊肋関節)をゆるめることに、熱心に取り組んでいる。

調子のいいときは、自分が意識している脊椎の中心と、その左右にある肋骨の中心が、同時に感じられるような感覚がある。

そういうときは、脊椎の中心と肋骨の中心を「合わせる」ことも、また課題になる。

さらに、脊椎の中心と肋骨の中心を結ぶラインを延長する形で、自分の左右方向に展開するラインが浮かび上がってくる。

そういうときは、「どららが右でどちらが左か」ということが、これまでになく深い身体次元で把握できているように感じられる。

ちょうど、ゆる体操やゆるゆる棒に取り組み始めた頃に、「どちらが上でどちらが下か」ということを体でわかっていなかったことに気づかされたときと同じような、感動がある。

2009年10月27日火曜日

『誰とでも15分以上 会話がとぎれない!話し方66のルール』を読んだ

誰とでも15分以上 会話がとぎれない!話し方66のルール』(野口敏著)を読んだ。

きもの専門店で1万人以上の女性への接客経験を積み、現在はコミュニケーションスクールを主宰する筆者が、会話のコツを66項目にまとめた本。

基本編では「聞く力」「話す力」「質問する力」の基礎を説明し、応用編では「受け答えの技術」「関係づくりのコツ」「複数の人と会話するコツ」などを説明する。

読んで自分ができてないと反省させられる点、多かった。

たとえば以下。

●いきなり質問しないほうがいい

●「たまっている気持ち」を尋ねてあげる

●「どうでした?」とは尋ねない

●ネガティブな気持ちを打ち明けられたとき、ヘンに励ましたり、自分の価値観を押しつけたりしない

正直、「こんな調子で迫ってこられたら嫌だな」と感じるトーク例も少なくなかったが、具体例はあくまで具体例。人によって適切な話し方が違うのは当然のことで、大事なのは考え方だろう。

まだ自分には実行するのが難しく感じられる方法や、つい忘れがちなポイントも多かったので、ときどき読み返さないといけない本だと思った。

2009年10月26日月曜日

意識の位置関係

高岡英夫先生の理論では、体の中をまっすぐ上下に貫く身体意識(「センター」)のうち、もっとも基本的なラインは、背骨のやや前側を通る。

より正確には、背骨が出っ張っている箇所では中を抜け、へこんでいる部分では前面をかする(『センター・体軸・正中線』等参照)。

これは佐々木の勝手な感想だが、「背骨の前にセンターがある」と意識したときと、「センターの後ろに背骨がある」と意識したときとでは、得られる身体認識も、結果として生じる身体運動も、大幅に異なる。

どちらも同一の空間的位置関係を示す言語表現なのだが。

他にもたとえば、「自分の体の下に地芯(地球の中心)がある」と意識したときと、「地芯の上に自分の体がある」と意識したときとでも、このような差はある。

だが、「胃の下に腸がある」と意識したときと、「腸の上に胃がある」と意識したときとの間に、少なくとも佐々木には、顕著な差は感じられない。

何が違うのか。

一つは意識の濃さだろう。

もう一つ、両者が「支える、支えられる」という関係になっているかどうかが、大きいと思う。

2009年10月25日日曜日

センター・トゥ・センター

中心と中心を合わせる能力。

これが、いろいろな能力(もしかするとすべての能力)のベースになっていると、ここ最近強く実感している。

自分の骨格や内蔵などのパーツ同士の関係を瞬間瞬間において適切に調整していくにしても、外部の物を操作するにしても、人と人との協力関係を生み出し保ち発展させるにしても、結局はこの能力がベースになっている。

ネジをしめるときの、ネジ穴の中心とネジの中心を合わせる能力や、ネジの中心とドライバーの中心を合わせる能力のように、一方がほぼ固定された状態で中心同士を合わせる能力が必要とされる場面は、どちらかといえば例外的だ。

ゆるゆる棒(下写真)に乗り、自分の中心、ゆるゆる棒の中心、そして地球の中心を合わせようとすると、中心同士が合さること自体が中心同士を離れさせるような、中心と中心との永遠の追いかけっこ状態が生じる。



多くの場面で要求されるのは、このように中心同士が定まらず反発し合う状態で中心同士を合わせる能力だ。

ゆるゆる棒に乗れば誰でもわかるように、こうした状態で中心同士を合わせるためには、小脳の機能が高くなければならない。

また、こうした状態で中心同士を合わせることを要求されると、凡人は体を固めることで対応しようとしてしまうが、必要なのは逆に体をゆるめることである。

対象のセンターを捉えて自分のセンターと関係をとり結ぶ「センター・トゥ・センター」の能力の重要性については、高岡英夫先生がずいぶん前から力説されているが、佐々木はそのことを、頭でしか理解していなかった。

自分が持っているさまざまな“苦手感”のベースに、流動する中心同士を合わせる能力の欠如があることを実感するようになったのは、ここ最近のことだ。

まだまだ小脳が弱い。

そして体がゆるんでない。

2009年10月24日土曜日

ジンブレイドで割体

高岡英夫先生の『センター・体軸・正中線』に、「ジンブレイド」と名付けられた、足裏から脚裏を通って股関節に至る身体意識(体性感覚的意識)が紹介されている。

これは高岡先生から教わったことではなく、佐々木が勝手に試してみただけのことなのだが、足の裏のジンブレイドのラインから、足の甲まで垂直に足を切断する面を意識してみると、この面で足から体全体が三分割されるような感覚が生まれて、おもしろい。

足から脚がこの面で割れる感覚が生まれると、割れたそれぞれが独立に地面に置かれて、体と地面との結びつきがより強くなる感じもある。

2009年10月23日金曜日

勘違い一途

日本永代蔵』に収められた30の短編のうち、佐々木の心に特に残ったのは、「巻三」の「国に移して風呂釜の大臣」。

父親が亡くなる間際に
「汝等(なんじら)、過賄(すぎわひ)の種(たね)を忘れな」
(=おまえたちはただ世渡りの種を忘れるなよ)
と言い残したのを、油をとる菜種のことだと勘違いした息子が、いつかは菜種で金持ちになろうと日々模索を続け、あるとき人里離れた荒れ地を見つけて菜種を蒔いたところ十分な収穫があったので、この土地を払い下げてもらい、開拓して菜種農場として大規模に事業化し、ついには菜種の販売ルートまで開拓して九州で並ぶもののない長者になる話。

物語の後半ではこの息子が贅沢を覚えて身を滅ぼしていくのだが、おもしろかったのはこの前半部分。

父親は別に息子に菜種の栽培事業を勧めたわけではなく、ただ一般論として、生業をおろそかにするなと戒めただけだった。

それを息子が菜種で事業を起こせと教えられたと勘違いして、何もないところから菜種事業を起こして成功させてしまう。

未来のことについては、どんなに合理的な思考を積み重ねても、正確な予想ができるわけではない。

たとえ合理的な思考の結果でなくても、ぶれない軸は強みになる。

「ぶれない勘違い」の背後には、おそらく無意識レベルでの情報収集と判断が働いていて、無意識の判断はしばしば合理的な思考を凌駕する。

この物語の前半にはそんな含意があるような気がして、ちょっと勇気づけられたような気分になった。

佐々木自身が、しばしば合理的な思考の結果に目をつぶり、無意識の判断に身を任せてしまっているから。

2009年10月22日木曜日

江戸時代に書かれた文章を読む身体

日本永代蔵』を読んで感じたことをもう一つ。

自分の体が固まっている限り、江戸時代に書かれた文章を体で理解することはできない。

単語の意味や用法を辞書的に理解したり、背景となる事実を言語レベルで理解したりするだけでは、文章を頭でしか理解できないのだ。

自分の骨格を構成するすべての骨が互いにユルユルにゆるんで、そこにフニャフニャの筋肉がまとわりついたような状態にならないと、文章の背後にある作者の認識の流動性、そしてその背後にある作者の身体の流動性、さらには作者をとりまく世界の流動性を、読者である自分の身体が拒絶してしまう。

そのことに気づけたのは、高岡英夫先生が指導される「剣聖の剣・宮本武蔵」の講座で、武蔵の『五輪書』を武蔵の身体技法と重ね合わせて読む経験を持てたおかげである。

2009年10月21日水曜日

『日本永代蔵』を読んだ

今年の古典読破計画の第十弾として、井原西鶴の『日本永代蔵』(堀切実訳注)を読んだ。

普通の町人が大金持ちになる話、大金持ちが貧乏人に転落する話など、金銭にまつわる短篇小説30編から成る本。

刊行は1688(元禄1)年。江戸期を通じてベストセラー小説だったのだとか。

お金のことをおおっぴらに話すことは、当時は現代からは想像もつかないほど、人々にとってはばかれることだったはず。

そのおおっぴらには語りがたいお金にまつわる、リアルかつドラマティックなストーリーを、歌うような名調子で語ってみせたところが、この作品がヒットした理由かなと思った。

表面上、「どういうことをすると豊かになるのか」、「どういうことをすると貧乏になってしまうのか」という教訓や道徳を語っているように見える箇所もある。

だがおそらくこれらの説教部分は、作者から読者に向けたメッセージや教えというよりも、ある種のネタだと思う。

ある意味「下世話」な話題であるお金について語るのに、ことさら高尚めいた理屈を持ち出すことで「毒消し」をするのと同時に、「理屈の高尚さ」と「語られている内容の下世話さ」のギャップ自体におかしみを感じさせる仕掛けなのだ。多分。

訳注の堀切実さんはそういう解釈ではないようだが。

2009年10月20日火曜日

脳がパンパン

ここのところ、脳をあまりにも使うものだから、脳が頭蓋骨の中で軽く膨張している感覚がある。

頭を上からトントン叩いても、上下の歯をカチカチかみ合わせても、水をめいっぱい満たした薄い木樽を叩いたような音が、頭蓋骨の中で響く。

脳がくまなく使われてること自体はいいことなのだろうが、あまり使い過ぎて壊れやしないかと、ちょっと心配にもなる。

2009年10月19日月曜日

Not 'YES WE CAN' but 'WE CAN'

特定のことが「できるはず」「できなければならない」という信念だけでは行き詰まる。

へたをすれば「なにもできない」という絶望まで突き進みかねない。

信念は「何かができるはず」というレベルぐらいにとどめて、「何ができるだろう」という問いを生み続けたほうがいい。

自分に対しても、他人に対しても。

2009年10月18日日曜日

まともなリーダーになる

組織がうまくいかない原因のほとんどは、リーダーの力量が足りないことにつきると思う。

自分が属する組織(もしくは潜在的に属する組織)にまともなリーダーがいないとき、取り得る態度は次の三つだ。

1.その組織から逃げる。

2.その組織にまともなリーダーが現れるのを願う。

3.自分がその組織でまともなリーダーになるように努力する。

あとになって振り返ったとき、一番満足度が高いのは、最後の選択肢を選んだ人生であるような気がする。

もちろん、自分が属する(もしくは属し得る)すべての組織でリーダーになることを目指すのは、現実性に欠ける。

だが、「自分はどの組織でまともなリーダーになるのか」を自らに問い、決断し、決断したことを実現すべく努めることは、少なからぬ人々にとって現実的で必要なことだと思う。

2009年10月17日土曜日

空、海、蟹

海辺でぼんやり波の音を聞きながら、雲を見上げたり、蟹の行動を眺めたりするのは、大切な時間。





2009年10月16日金曜日

ハンドルネーム

これはある意味自分の弱点の一つだと思うのだが、佐々木は、ネット上でどこの誰かもわからない人間からハンドルネームでコミュニケーションを迫られるのが、大の苦手である。

このブログをコメント拒否の状態にしているのも、ひとえに、見知らぬ人間がハンドルネームでコミュニケーションを迫ってくるのを防ぐためだ。

Twitterで自分の発言をフォローしてくれる人が現れたときも、相手がハンドルネームだと、即ブロックしてしまう。

フォローされたからといって、自分が見る画面に特に変化があるわけではないのに。

自分でも、ほとんどビョーキだと思う。

理由はいくつか思い付くが、自分自身が思い付く理由など、実際の原因のうちのごく一部に過ぎないに違いない。

それを承知で書くなら、たぶんこういうことだ。

人間には現実ではないものを見る能力がある。

その能力は、現実を変えるためにも、現実から逃げるためにも、使うことができる。

もちろんどちらも必要だ。

だが、あまりにも現実から逃げることにばかりに人生時間を費やしている状態というのは、やはりなにか間違っている気がする。

ハンドルネームでコミュニケーションを迫ってくる人々には、この「現実から逃げることへの耽溺」を強烈に感じてしまうのだ。

世の中には、自分の顔写真も公開して実名でブログを書きながら、コメント欄に寄せられるハンドルネームでの投稿にも、ていねいに回答している人たちが大勢いる。

ああいう人たちを見ていると、自分の度量の狭さを、ちょっと反省させられたりもする。

2009年10月15日木曜日

鉄分控えめ

佐々木は元鉄道マニアである。

小学生のころの「将来なりたい職業」の上位には、常に電車の運転士があった。

『時刻表』の文字・数字を追いながら頭の中での旅行を楽しんだり、休日に仲間と鉄道写真を撮りに行ったり、お小遣いでNゲージの鉄道模型を買って走らせたりといったことを、高校に入学するぐらいまで、夢中になってやっていた。

だがさすがに高校生にもなると、「いい歳をした男が電車なんぞに夢中になっているのもいかがなものか」という反省が頭をもたげてきて、ほどなく鉄道趣味からは足を洗ってしまった。

さて群馬県安中市に、「碓氷峠鉄道文化むら」という施設がある。

ここでは素人でも1日講習を受けて修了試験に合格すると、JRの本物の電気機関車を体験運転できるらしい。

佐々木は3年ぐらい前に、何気なくつけたテレビでこの体験運転のことを知った。

そのとき、そんなことをさせてもらえる施設があること自体に驚いたと同時に、自分の中に湧き起こってきた感情にも、自分で驚かされた。

「ここで本物の電気機関車を運転できたら、もう自分の人生の夢はほとんどすべて叶ったようなものかも‥‥」と思ってしまったのである。

大学入学前後のころから、「人間は大きな志を持たなければならない」という思想にとりつかれ、以来、とても叶うか叶わないかわからないぐらいの夢を、意識的に追い求めてきた。

鉄道への興味も、もうすっかり失っていたはずだった。

それがまさか、電気機関車を運転できた自分をイメージして、人生最大の夢が叶ったかのような成就感が心に湧いてくるとは、思ってもみなかった。

自分の内にある欲望というのは、自分でもよくわからないものだ。

あの施設で電気機関車を運転できてしまったら、あとはもう自分が腑抜けになってしまいそうな気がして、運転体験講習に申し込むのは差し控えている。

2009年10月14日水曜日

恐怖に支配される理性

合理的に行動したい。

理性的な人間でありたい。

そのような欲求が強ければ強いほど、自分の感情、特に恐怖や怒りなどのネガティブな感情が、いかに自分の思考や行動を支配しているかを、自覚できなくなる。

見方によって、器にも、向き合う二人の横顔にも見える絵がある。



自分の理性はこの図における器のようなもので、自分の感情はこの図における横顔のようなものだと思う。

器に目を凝らしている限り、器を取り囲む横顔は見えない。

これがまた、理性が感情に支配されていることを本人はまったく自覚できていないにもかかわらず、他人にはそれがしばしば丸見えであるのが、恐ろしい。

2009年10月13日火曜日

地面に置かれる足の骨

武術の稽古をするとき、ちょっとした動作をするのにも、足首から先が不自然に力んでしまう問題が、ずっと解決されずにいる。

ただ最近は、足の中の骨の分化が進みはじめたこともあって、この問題にわずかながらも改善の兆しがある。

足の中の26個×2=52個の骨が、互いにゆるんだ関係を保ったまま、それぞれがナチュラルに地面に置かれ続けるように意識して稽古すると、そのことが達成される度合いに応じて、全身がより合理的に動く実感がある。

2009年10月12日月曜日

瀬戸内近辺の地図

神田昌典さんの『全脳思考』に、リラックスした状態で思い浮かんだイメージをイメージのまま描写してから、そのイメージが表す意味を考えて言語化する、というメソッドが紹介されている。

ここ数日、佐々木の脳裏に浮かんで離れないイメージがある。

それは瀬戸内海周辺地域の地図だ。

描かれ方は国土地理院発行の地図のような感じだが、紙ではない。

Googleマップのように、どこまでもスクロールされていく。

頭の中のスクロールは北九州、山陰、四国南部といった地域まで続くが、中心を占めるのは、瀬戸内海沿岸の、特に本州側の町々だ。

別に、この地域のクライアントから依頼があったわけでもない。

この地域に行く予定があるわけでもない。

この地域に関する本を読んだり、印象に残るニュースを目にしたわけでもない。

自分にとってはまったく唐突に、この地域の地図が頭に浮かんで、そのまま脳裏から離れない。

あまりにも鮮明なイメージが、あまりにも持続的に浮かび続けるので、「これはいったい何の意味があるのか?」と自分に問わずにはいられなくなっている。

答えはいくつか思い浮かんだが、真っ先に思い浮かんだのは、「ビジネスを全国展開できるようになれ」という合図なのではないか、ということだった。

ロバート・キヨサキが『金持ち父さんのキャッシュフロー・クワドラント』などで述べている、「Sクワドラント」(Self-employed, Solo, Specialist)の人間と「Bクワドラント」(Business owner)の人間の差にあたる部分に、最近特に個人的な成長課題を感じていることに、それは重なる。

2009年10月11日日曜日

足の骨

足の骨は、左右それぞれ、次の26個の骨から構成される。

  • 距骨×1
  • 踵骨×1
  • 舟状骨×1
  • 楔状骨×3(内側楔状骨、中間楔状骨、外側楔状骨)
  • 立方骨×1
  • 中足骨×5(第一~第五中足骨)
  • 趾骨×14(第二~第五趾骨のそれぞれが基節骨、中節骨、末節骨の三つから成り、第一趾骨は基節骨と末節骨の二つから成る)
これらの骨の一つ一つを独立して意識し、独立して機能させられるようになればなるほど、高度な身体活動や精神活動が可能になるのだと思う。

思う、としか書けないのは、佐々木自身がまだ、これら26個×2=52個の骨たちを独立して意識し機能させられる域に達していないからだが、それでもその方向に向けた進歩は続けている。

足をただ「足」として一つの固まりのようにしか意識できず、骨と筋肉さえ区別して意識できていなかった頃に比べれば、足だけでなく脳を含めた全身の機能が高まっている実感がある。

唐突だが、佐々木の中で、自分の身体のあり方への洞察は、常に人間の組織のあり方への洞察にもオーバーラップしている。

組織のトップが、組織の底辺を構成する人々をひとつの固まりとしか意識できていない状態と、一人一人を独立して意識できている状態とを比べれば、後者のほうが、はるかに高度な組織活動が可能になるはずだ。

2009年10月10日土曜日

変化の予感

ここのところ、下腿から足首にかけての拘束が、気になって気になってしかたがない。

これまでも、自分のこの部分の固さに、うんざりしてはきた。

ただそれは、ある種どうにも手の施しようのない状態として、自分の中に存在してきた。

それが少なくとも、拘束解消に向けた努力に対する成果らしきものが実感できる程度になってきた。

長い間強烈に拘束されていた部分がゆるみはじめると、あたかもその部分にたまっていた“邪気”が解き放たれたかのような吐き気がこみ上げてきて、空嘔吐をしてしまうことが、ときどきある。

ゆるをはじめて最初の数年ぐらいは、内蔵を中心にその現象が起きた。

ここ数年は、胸郭を中心にその現象が起きていた。

ここに来てついに、足脚でもその現象が起きはじめた。

下腿から足首の変化は、当然、股関節周辺や仙骨周辺や脳のありかたにも、変化を引き起こす。

自分の身体に大きな変化がもたらされるのも、近い気がする。

同時に、足脚の拘束などとは直接的な関係がない領域、たとえば仕事とか人間関係などの領域でも、大きな変化を予感させる出来事が、最近よく起きている。

2009年10月9日金曜日

『スターバックス成功物語』を読んだ

スターバックス成功物語』(ハワード シュルツ/ドリー・ジョーンズ ヤング著、小幡照雄/大川修二訳、原題"Pour Your Heart into It")を読んだ。

今年読んだ本の中で、おそらくベスト3に入るくらいの感銘を受けた。

昨日のエントリで、『イノベーションのジレンマ』を読み返した感想として、「顧客が対価を支払おうと思う以上のもの」を目指してしまうことへの疑念を書いた。

しかしこの『スターバックス成功物語』を読んで思った。

性能を追究することと理想を追究することは違う。
《〔スターバックスの創立者たちは〕三人ともビジネス王国を築く野心など持たなかった。三人がスターバックスを創立した理由はただ一つ、コーヒーや紅茶を愛し、シアトルの人々に最高のものを味わってもらいたかったのである。》
《スターバックスの創立者は市場調査などはせず、自分たちに必要なこと、つまり良質のコーヒー豆を扱うことだけに専念したのである。》
《顧客の要求するものを提供するだけでは駄目なのだ。顧客の知らない物や最高級品を提供すれば、顧客の味覚が磨かれるまで多少時間はかかるかもしれない。だが、顧客に発見の喜びと興奮を与え、ロイヤリティを確立することができるのだ。》
《顧客を引きつけるには、洗練された知性を身につけて本当に求める人たちにそれを伝えなければならない。そうすれば、たとえニッチ市場であっても予想以上の顧客が集まるだろう。》
『スターバックス成功物語』にも、「自分たちが提供したいもの」と「顧客が要求するもの」の矛盾にぶつかる場面が登場する。

少なからぬ場面でスターバックス経営陣は「顧客が要求するもの」を提供することを選択して成功を収めるわけだが、これは「自分たちが提供したいもの」と「顧客が要求するもの」のどちらにも極限まで忠実であろうとした結果であり、無原則に顧客の要求に応えた結果ではない。

理想を掲げてビジネスを行うことの困難と意義を、コーヒーショップという身近な業態を舞台に、感情や魂のレベルでわからせてくれる本だった。

自分自身がビジネスで理想を追う勇気も、与えてくれる本だった。

2009年10月8日木曜日

技術バカを待ち受ける陥穽

イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき』(クレイトン・クリステンセン著、玉田俊平太監修、伊豆原弓訳)を読み返した。

以前読んだときは、ハイテク企業にしか関係のない話のように思えて、あまり心に残らなかった。

しかし改めて読み返してみて、技術を高めることに注力し続けることが危険であるのは、なにもハイテク企業だけに限った話ではないなと思った。
《技術革新のペースがときに市場の需要のペースを上回るため、企業が競争相手よりすぐれた製品を供給し、価格と利益率を高めようと努力すると、市場を追い抜いてしまうことがある。顧客が必要とする以上の、ひいては顧客が対価を支払おうと思う以上のものを提供してしまうのだ。》
それこそ佐々木が取り組んでいる「業務マニュアルの製作技術の向上」だって、「顧客が対価を支払おうと思う以上のもの」を目指してしまっていないか、冷静に検討しなければならないだろう。

2009年10月7日水曜日

自分の身を守ろうとして自分を追い詰める

高岡英夫先生が指導される「剣聖の剣・宮本武蔵 第三編・第四編」を受講して、佐々木が勝手に感じたことをもう一つ。

自分の身が危険にさらされたとき、凡人は自分の身を守ろうとして、「水」の状態から遠ざかる反応をする。

これに対して宮本武蔵クラスの達人は、「水」の状態にさらに近づく反応をする。

「水」の状態に近づく反応は、凡人にしてみると、自分の身をさらに危険にさらす反応にしか思えない。

しかし自分に向かって真剣が振り下ろされた状況で、結果として生き残るのは、「水」の状態にさらに近づく反応をしたほうである。

「水」の状態に近づくことで生き残り敵が斬られるプロセスを横から観察すると、そこに貫かれる合理性に、ただ驚愕するほかない。

この合理性は、いくら頭で理解しても、心身が「水」にならない限り、実現できない。

われわれ凡人は、武術を離れた日常生活レベル、人生レベルでも、日々無自覚に、自分の身を守ろうとして「水」の状態から遠ざかる反応をしてしまうがゆえに、結果として自分を追い詰めてしまっているのではないか。

そのような反省もさせられた。

2009年10月6日火曜日

「剣聖の剣・宮本武蔵 第三編・第四編」感想

高岡英夫先生が指導される「剣聖の剣・宮本武蔵 第三編・第四編」を受講した。

これは受講中に佐々木が勝手に感じたことだが、『五輪書』の有名な
《是も上手のすることはゆるゝゝとみえて、間のぬけざる所なり》
で言われる「間のぬけた」状態というのは、要は「水」の状態から離れてしまった状態なのだなと思った。

当たり前といえば当たり前だが。

2009年10月5日月曜日

言いわけ

たとえば遅刻したときの言いわけに「踏切がなかなか開かなくて」とか「信号がなかなか青にならなくて」などとほざいたら、そうとう顰蹙を買うだろう。

しかし自分が何か失敗をしでかしたときは、案外、「踏切がなかなか開かなかったから」に類するような言いわけをしてしまうものだ。

すべてに完璧に備えることなど不可能だが、少なくとも自分の中で優先度が高い事柄については、こういう類いの言いわけをせずに済むように備えたい。

2009年10月4日日曜日

テレビ

4月にくも膜下出血で倒れ、現在リハビリ病院に入院中の家族を、週に1回ほど見舞いに行く。

かろうじて会話ができるところまでは回復した。

ただ、まだかすれたような声しか出せず、言葉はとぎれとぎれで、十分に聞き取れない。

話の内容も、ときどきトンチンカンになる。

それが、発声が悪いせいなのか、本人の頭がボケているせいなのか、こちらに予備知識がないせいなのかわからず、もどかしい思いをする。

ちょっとした会話に、たいへんな集中力を要求される。

そういうとき、4人部屋の病室で、同室の人がつけっぱなしで眺めているテレビの音が、ものずごく耳障りに感じられる。

単に音がかぶって、声が聞き取りにくくなるだけではない。

あのような状況でテレビの音声を聞いていて改めて思ったのだが、テレビ番組というのは、視聴者が頭を使わないで済むように、ありとあらゆる工夫がほどこさている。

頭を使いたくなくてテレビを見ているときには、そのことが気にならない。

しかし精神を集中して人と会話しようとしているときには、あのテレビ番組の音声というのが、「自分の頭を使おうとする状態」そのものを破壊する暴力として迫ってくるのだ。

少なからぬ人々が、一日のかなりの時間を、テレビを見たりその音声を聞き流したりして過ごしていることが、なんだかとても恐ろしいことのように思えてきた。

2009年10月3日土曜日

退屈な人

ジャーナリストの立花隆さんは『「知」のソフトウェア』の中で次のように述べている。
《いい話を聞くための条件を一語で要約するなら、こいつは語るに足るやつだと相手に思わせることである。「語るに足るやつ」とは、話が通じる相手ということである。知的に話が通じるためには、十分な予備知識と理解力を持っているなと相手に思ってもらわなければならない。情的に話が通じるためには、自分の気持をよくわかっていてくれるなと思ってもらわなければならない。そして最も基本的なこととして、人間として信頼できるやつだと思ってもらわなければならない。
問われる者は問う者に敏感に反応する。撞木と鐘と同じである。鐘はたたき方で鳴り方がちがう。》
人と話していて、相手の話を退屈に感じたときは、退屈なのは自分にとっての相手ではなく、むしろ相手にとっての自分なのかもしれない。

自戒したい。

2009年10月2日金曜日

佐々木が親しみを感じる人

佐々木が親しみを感じるのは、次の三つの質問に対しておもしろい回答を返してくれる人である。

1.最近、何かいいことあった?

2.最近、おもしろい本を読んだ?

3.最近、自分が成長したな~と思えることはあった?

上記の質問に対する答えがつまらない人に対しては、友人として親しく付き合いたいという欲求が、あまり起こらない。

というか、多くの人に対しては、上記の質問をすること自体を躊躇してしまう。

2009年10月1日木曜日

ドストエフスキー『地下室の手記』を読んだ

日垣隆さんの古典読書会メーリングリストの課題で、ドストエフスキーの『地下室の手記』(安岡治子訳)を読んだ。


(1)はじめてのドストエフスキー

ドストエフスキーの小説は、今回はじめて読んだ。

何年か前に国内で大きな通り魔事件が起きたとき、ドストエフスキーの小説を引き合いに出して犯人の動機を分析するコメントを、新聞などで複数見た記憶がある。

ああいった事件の分析に古い文学作品が持ち出されることに、当時は違和感を覚えていた。

しかしこの作品を読んで、なるほどドストエフスキーという人は、孤独で鬱屈した男の頭の中を描き出すうえで、人類史に残る仕事を成し遂げた作家なのだということがわかった。


(2)フォトリーディングで胸が締めつけられる

フォトリーディングの効果については、佐々木はまだ半信半疑なところがある。

だがこの『地下室の手記』は、最初に文字を追わずザーッとページをめくっただけで、胸が締めつけられ、心拍数が上がってしまった。

これはこれまで体験したことがなかったことだ。



(3)苦渋を平明に告白される心苦しさ

安岡治子さんの翻訳は、とても平明で読みやすかった。

ただああいう苦渋に満ちた独白を、平明な表現で読まされると、なんだか妙な心苦しさを感じる。

たとえばあきらかにショックを受けて落ち込んでいる人が、それを悟られまいと無理矢理笑顔を作っているのを、はたで見るときのような心苦しさと言えばいいだろうか。



(4)改行で読みやすくするのもよしあし

「訳者あとがき」の最後に
《ドストエフスキーの文章は一段落が非常に長く、現代の読者には読みづらいため、適宜改行を施したことをお断りする》
とある。

たしかに読みやすくはなっている。

しかし「読みにくい」ということも含めて表現の一つと見なしたほうがいいのではないか、と思わないこともない。

この追加された改行もまた、上述した「苦渋を平明に告白される心苦しさ」の一因になっているのでは、とも思った。



(5)印象に残ったところ

次の二箇所が、特に印象に残った。


1.
《今日は、雪が降っている。》(第一部の終り、82ページ)
ここまで延々続いた内向と苦渋の世界に、突然清浄な気が降り注いだ感じが印象的。


2.
《俺は、女がわざと嘲笑という仮面を被っていたこと、これは羞恥心の強い、清純な心の持ち主が、心の中にずかずかとうるさく立ち入って来られたときに使う、ごく当たり前の最後の手なのだということが、わからなかった。》(第二部、197ページ)
佐々木自身も、他人、特に女性の屈折した感情表現を見抜くことに対して苦手意識があるので。

2009年9月30日水曜日

レヴィナス『困難な自由』を読んだ

今年の古典読破計画の第九弾として、エマニュエル・レヴィナスの『困難な自由―ユダヤ教についての試論』(内田樹訳)を読んだ。

著書やブログでいつも鋭く深い洞察を示されている内田さんが「師」と仰ぐほどの人物の著書で、しかも内田さんご自身による翻訳ということで、楽しみに読み始めたのだが、これがもうびっくりするぐらい、わからない。

ヨーロッパ・ユダヤ人である著者が、同じヨーロッパ・ユダヤ人に向けて説いている内容の中に、佐々木の問題意識とかみ合ってくるものが、ほとんどと言っていいくらい、見当たらない。

この本の中で最も印象に残ったのは、内田さんによる「訳者あとがき」の、特に次の部分だった。
《それから後の十年間、わたしはほとんど「写経」に近い気分でレヴィナス先生の著作を訳し続けた。〔‥‥〕
いま「写経」と書いたけれど、それがわたしのレヴィナスの先生の著作を訳しているときの気分にいちばん近い表現ではないかと思う。「写経」というきは、言葉を意味もわからず写しているうちに、その言葉が「受肉」してきて、写経生自身の知的なフレームワークを書き換えてしまう‥‥というダイナミックなプロセスである。レヴィナス先生の著作の翻訳がわたしにもたらしたのも、それに類比できるような事件である。〔‥‥〕
〔‥‥〕哲学史上の熟知されたエピソードのように「レヴィナスの思想は要するに‥‥である」というふうにたいへんすっきりした「説明」をしてくれる学者も(たくさん)いる。そういう人にとっては、レヴィナス先生は「要するに‥‥にすぎない」という程度の人に見えているのであろうし、そのような人に向かって「それは誤解です」と異論を立ててもしかたがない。著作を「解釈」する人間と、「写経」する人間は求めているものが違うのである。すらすらとレヴィナスを「解釈」できる人々は、自分がかくも賢明な人間であり、それゆえ「今の自分以外のもの」になる必要がないことを言祝いでおり、「写経」する人々は自分の愚かさと狭さに苦しみ、「今の自分ではないもの」になることを切望し、その手がかりを師の教えのうちに探している。》
佐々木にも、学生時代には「写経」に近い気分で格闘した書物が何冊かあった。

その中の特に心に響いた箇所は実際に何度も書き写したし、その作業は佐々木の精神や文体の大事な一部を作り上げた。

そういう体験を持てた幸福を、内田さんのこの一節は思い出させてくれた。

この『困難な自由』が、佐々木の知的フレームワークを書き換えるほどの影響を及ぼしはじめるときが、いつかは来るのかどうか。

これから折に触れてこの本を読み返し、時間をかけて検証していきたい。

2009年9月29日火曜日

「剣聖の剣・宮本武蔵 第一編・第二編」感想

先日、高岡英夫先生が指導される「剣聖の剣・宮本武蔵 第一編・第二編」を受講した。

以下は高岡先生の指導内容ではなく、受講中に佐々木が勝手に感じたことである。


(1)宮本武蔵肖像画の手について

宮本武蔵の有名な肖像画島田美術館所蔵)。

あの肖像画に描かれている武蔵の手は、妙にツルンとして子供っぽい。

顔の表情のいかつさと、まったくバランスが取れていない。

そのアンバランスさは、描き手の描写力の足りなさによるものではないかと、佐々木はなんとなく思っていた。

しかし、あのようにツルンとした感じに描かれるほかない手のありようが、現実にあり得ること、そしてそのような手のあり方が、いかに恐ろしい威力を発揮するかということが、今回「剣聖の剣・宮本武蔵」を受講してわかった。


(2)「水を本として」について

『五輪書』の「地之巻」に、「水を本(もと)として、心を水になる也。」というくだりがある。

このくだりに限らず、『五輪書』には、わけのわからない表現が次から次へと登場する。

そういったわけのわからなさは、もちろんこちら側の理解力のなさによる面も多いのだろうが、武蔵の言語表現力の足りなさによる面も多いのではないかと、佐々木はなんとなく思っていた。

しかし今回「剣聖の剣・宮本武蔵」を受講して、「水を本として」というのが、いかにすさまじく的を得た言語表現であるかということが、わかった。

「もとはといえば」という言い方があるように、「もと」を問題にしなければならないということ自体が、「もと」から離れていかざるをえないことと、「もと」から離れてはならないことの、両方を示唆している。

自分がある方向に移動・変化しているとき、その方向を、ある「もと」との相対関係において把握できているかどうかの違いは、大きい。

敵との闘いの場面に限らず、なにかことを成す場面において、自分の身心に生じる変化を、「もと」となるべき「水の状態」からの乖離として認識することの重要性。

この重要性をズバリ一言で表現すれば、「水を本として」以外にありえないのではないか。

そのことを自分の体を通して発見・理解できたような気がして、感動を覚えた。


(3)自分の足首の固さについて

以前から感じていることではあったが、今回特に、自分の足首の固さが上達のネックになっていることを感じた。

その固さを解消するための、簡単で毎日続けられる体操法も、今回教えていただけた。

毎日実行して、柔らかい足首を自分のものとしたい。

2009年9月28日月曜日

1分=60秒

1分=60秒
3分=180秒
5分=300秒
10分=600秒
30分=1800秒
60分=3600秒
わずか数秒でできることの多さを思い、時間を大切に使うため、こんなことを書いた紙を壁に貼って、ときどき眺めている。
《砂漠で一滴の水を惜しむように、一刻を惜しめ。一刻値千金の連続が、ブランド人への道だと思え。》
(トム・ピーターズ『ブランド人になれ!』(仁平和夫訳))

2009年9月27日日曜日

私は筆

心を込めて字を書くとき、身心の状態がよいと、地球の中心からペンや筆の軸を貫くセンター(身体意識のライン)が感じられることがある。

こういうときは、ペンや筆を下ろすたびに、ペン先や筆先が紙をとらえるだけでなく、胸鎖関節から鎖骨、上腕、前腕、手首、手、ペン・筆までを含めた全体が、地球の中心をとらえる感覚がある。

自分の体でセンターや地球の中心を捉える感覚を得られる頻度よりも、自分が持ったペンや筆でセンターや地球の中心を捉える感覚を得られる頻度のほうが、高い。

いっそ自分の体が筆になったことをイメージして、筆を操作するように自分の体を操作してみたらどうなるだろう、と試してみたら、これが意外に具合がよい。

身心の状態がよければ、ペンや筆でセンターや地球の中心を捉えるように、自分の体でセンターや地球の中心を捉えられる。

腰から下は筆の穂のようなものだと思えば、下半身もより柔らかく使える。

2009年9月26日土曜日

日垣隆さんの『折れそうな心の鍛え方』を読んだ

ジャーナリストの日垣隆さんの新著、『折れそうな心の鍛え方』を、メルマガ購読者特権で発売日前に入手して読んだ。

日垣さん自身の体験をベースに、ウツにならない、なってもそこから立ち直るためのノウハウを、50項目にまとめた本。

健康な精神状態をいかに維持するか? という問題には、佐々木も切実な関心を抱いていたから、自分でもいろいろと研究し、実践してきた。

おかげでこれまではなんとか、深刻なウツ状態を体験せずにきている。

しかしこの本で日垣さんが書いているように、自分ではどうにもならない原因で、将来自分が深刻なウツに陥ることだって、あるかもしれない。

そのような状態になったとき、試せる手段や方法は、多ければ多いほどいい。

日垣さんのこの本は、そういう手段や方法を、豊富に提供してくれる。

佐々木の場合、食事とか体操法とか、一人で解決する方法に頼りがちなところがある。

この本では、他人に協力してもらう方法や考え方も数多く紹介されているので、参考になる。

日垣さんがウツに陥っている苦しさをメルマガに書いたとき、読者から「自分とまったく同じだ」という反響メールが、毎日大量に寄せられたのだとか。

それらのメールに対して日垣さんは、「つらいのは自分だけじゃなかったんだ‥‥」と安堵することなどは微塵もなく、密かに
「ウツがうつるから、メールなんて送ってくるな。勝手になつかないでほしい」
「一緒にしないでくれ。俺の苦しみはあんたらのとは違う」
と思っていたそうだ。

このエピソードは、人は極度に辛い状況に陥ると「自分のケースは特殊」と思いがちで、それが自分のストレスをさらに増殖させる、という文脈で紹介されているものだ。

そのようなメールを送ってきた読者を、非難する文脈で紹介されているわけではない。

ただ、佐々木も当時日垣さんへの励ましめいたメールを送ろうかと思いかけつつ、なんとなくそういうことはすべきではないような気がして思いとどまった、その判断の正当性が評価されたようで嬉しかったし、そう判断した理由を言語化してもらえたことも、嬉しく感じた。

2009年9月25日金曜日

身体

お金も体力も使わずに楽しめる人生の喜び、となると、やはり究極は、自分の身体だろう。

もちろん身体には脳も含まれていて、精神は脳の機能だから、「自分の身体を楽しむ」といったときには、「自分の精神を楽しむ」ということも含まれる。

スズムシやマツムシの声は、聴覚が失われたらもう楽しめない。

空に浮かぶ雲も、視覚が失われたらもう楽しめない。

しかし生きている限り、身体が失われることはない。

自分の身体を楽しむ習慣を身につけることは、人生への絶望を遠ざけるうえで、きわめて有効な手段と言ってよい。

2009年9月24日木曜日

よく晴れた日、空に浮かぶ雲を眺める。

これもまた、お金も体力も使わずに楽しめる人生の喜びの一つ。

雲のすごいところは、あの美しい造形・質感・運動に、なんらの〈意図〉も〈実体〉も存在しないことだ。

言ってしまえば、空気の湿度・温度・密度の分布が変化しているだけ。

空の中の「雲がある」ところと「雲がない」ところの違いは、要は、その場所に存在する水分子が、液体または固体の状態で存在するか、気体の状態で存在するか、の違いでしかない。

雲という「もの」が存在するわけではないのだ。

空中の水分子のそれぞれが、気温や気圧の変化に応じてただ法則的に、気体、液体、ときには固体へと状態を変化させているだけなのに、そのことが空全体としては、あのような美しい雲の姿や運動になる。

その不思議を思いつつ眺めているだけで、飽きない。

2009年9月23日水曜日

スズムシ

これを楽しめるだけでも、人生は生きる価値がある。

心からそう思える何かを、身の回りの、お金も体力も要らないことの中に、いくつも見つけておく。

何があっても、人生に絶望しないためには、不可欠なことだろう。

秋の夜に聞く虫の声は、そんな楽しみの一つ。

そういえばときどき、「自分の葬式で流して欲しい曲」をリクエストしている人がいる。

佐々木の葬式には、スズムシ、マツムシ、コオロギなどの虫の声を、メドレーで流してもらえるといいなと思う。

2009年9月22日火曜日

文章苦行

文章を書くのがものすごくうまい人から、文章マニュアル製作の相談を受けたことがある。

その人とその人の部下とでは、何が違うと思うかと、そのときその人に聞いてみた。

いくつかあった答えの中に、「(文章が拙い人は文章を良くするために)苦しんでない」という言葉があった。

マニュアル製作の話は結局流れてしまったが、この答えは、記憶に鮮明に残った。

読み手がなめらかに読める文章だからといって、書き手がなめらかに書いているわけではない。

あたりまえのことなのだが、自分が文章を書くためにしているような苦労を、もしかすると他人はしてないのではないか、とつい思ってしまう。

あれだけなめらかな文章を書く人も、やっぱり文章を良くするために苦しんでいる。

自分は、むしろ苦しみ方が足りないと思うべきなのではないか。

そんな反省をさせられる言葉だった。

2009年9月21日月曜日

師への不義理

武の世界でも学の世界でも、師匠から師匠へと渡り歩くようなことをしてきたわけではない。

だが一人の師匠にひたすらつきっぱなしだったわけでもない。

つく師匠を変えたとき、それまでの師匠の元から佐々木が去ったときのやりかたは、決して義理にかなうものではなかった。

なぜ去るのかの説明も、それまでの指導への感謝も、別れの挨拶もなく、ただ自然消滅的に、師匠の元に通うのをやめてしまっただけだった。

弁解をさせてもらえば、いずれの師匠の元でも、佐々木は数多いる弟子の一人に過ぎず、師匠と特別親しく言葉を交わす関係にもなかった。

師匠を変えるということは、それまでの師匠に満足できないものがあるからにほかならず、それほど親しい関係にない師匠に向かってわざわざそんなことを説明に行くのは、気が重すぎたのである。

ただそういう不義理をしたことは、佐々木の心の中の小さなしこりとして残り続けている。

2009年9月20日日曜日

主語としての国民

ニュース番組でよく見るパターン。

キャスターが

「○○○に対し、国民はどのような期待(意見、感想)を持っているのでしょうか」

と問いかける。

続けて、ごく短い街頭インタビューが数本流れる。

ここで主語として登場する「国民」とは、おそらく「顕著な名声を持たない人々」という意味である。

あるいは、「その問題に対して、責任ある地位に就いていない(就く気もない)人々」という意味かもしれない。

「国民」が主語として扱われたとき、佐々木がイメージする像は、これらとは異なる。

イワシの群れが方向を変えるとき、必ず一匹か二匹か、群れ全体と違う方向に向かう個体がいる、という話を聞いたことがある。

群れが向かった方向にたとえばクジラが口を開けて待っていても、群れが全滅しないため、というのがこの現象の解釈の一つなのだとか。

説得力のある解釈だと思う。

仮にイワシと会話ができるとして、群れとは別の向きに向かったイワシに「なぜそっちに行ったのか?」と聞けば、あれこれと理由を付けて答えるかもしれない。「ついうっかりしていた」とか、「大勢に従わないのがオレのポリシーなんだ」とか。

だが、そのような個々のイワシの回答には、おそらくたいした意味はない。

個々のイワシの意思(仮にあったとして)とは関係なく、群れとして生き残るための仕組みがあって、その仕組みに従わされる形で、群れ全体の中の一部の個体が、「群れ全体とは別の方向に行こう」というという意思を持たされてしまうのだから。

このように、群れ全体が生き残るために、全体の中の一定割合の個体に特定の行動をとらせる仕組みに注目して、そこに「群れの意思」を見るという見方も、おそらく可能だろう。

人間も同じではないか。

たとえば選挙で、ある割合の国民はA党に投票し、ある割合の国民はB党に投票し、またある割合の国民は棄権する。

それぞれの国民にその理由を聞けば、あれこれと答えるかもしれないが、その回答におそらくたいした意味はない。

国民が全体として生き残るためには、ある割合の国民はある方向を良しとし、またある割合の国民は別の方向を良しとする、という風に考えが別れることが、おそらく必要なのだ。

国民の考えがそのように別れることで、国民全体としての生存の可能性が増大する仕組みに注目し、そこに「国民全体としての意思」を見るという見方も、おそらく可能だろう。

「国民」が主語として扱われたとき、佐々木がイメージするのは、このような、個々の国民の意思とは関係なく、国民の意思や行動が一定の割合に分割され、結果として全体としての生き残りの可能性が増大するシステムである。

2009年9月19日土曜日

ダイエット

ときどきふと思う。

ダイエットが産業になるような社会において、

果たして労働は義務なのだろうかと。

2009年9月18日金曜日

論理的な人

自分の考えの正しさを証明するために、論理を用いる人。

自分の考えの誤りを発見するために、論理を用いる人。

どちらも論理的な人だが、佐々木の目には、後者の人のほうがより知的に見える。

おっ。

140字以内でつぶやけた。

2009年9月17日木曜日

己に向かう指

Twitter。

読むのはおもしろい。

でも書くのはちょっと躊躇。

思い付いたことを思い付くままに、たった140字以内で書くなんて、ちょっと怖くてできない。

他人を指させば、三本の指は己を向く。

ある対象について思い浮かんだことを表現すれば、それは対象についての表現であると同時に、表現した人間自身についての表現でもある。

認識の根拠となる事実の正否如何、事実に対する判断の当否如何、表現の適否如何、そもそも表現すること自体の適否如何。そしてまた、同じ判断基準を己に向けた場合の己のありかた如何。

何かについて思い付いたことをひとこと書けば、たちまちその言葉から、「三本」どころか五本、六本の「指」が自分に向かってくる。

たかだか140字以内では、それらの「指」に対する釈明を、とても済ませられない。

2009年9月16日水曜日

吊られるセンター

高岡英夫先生が概念化された身体意識(体性感覚的意識)の一つ、センター(重力線とその延長線に沿って形成された直線状の身体意識)。そのセンターが結ぶ、地芯(地球の中心)と天芯(天の中心)。

(『センター・体軸・正中線』等参照)

最近、センター自体が、自分の体とは独立に、地芯に乗ったり天芯から吊られたりする、という意識の持ち方を試している。

自分の体のことは意識せずに、身体意識が身体意識に乗ったり吊られたり、という意識を持つわけだが、この意識の持ち方で、自分の体のあり方が、相当いい状態になる感覚がある。

自分が地芯に乗ろう、自分が天芯に吊られようとしているわけではないのに、結果として、自分の体が地芯に乗ったり、天芯に吊られたりする感覚だ。

それがおもしろくてハマっている。

2009年9月15日火曜日

核武装による平和と繁栄

「現在の地球上では、すべての大国が核武装しているからこそ、大国同士の戦争が起こらずに済んでいるのであり、仮に地球上から核兵器を廃絶すれば、現在の我々が享受しているような平和と繁栄は、失われざるを得ない」という考え方がある。

佐々木もこの考えに同意する。

だがだからといって、核兵器の廃絶を願う人々を軽蔑することが、正しい態度と言えるのだろうか。

佐々木はそうは思わない。

核兵器によって守られている平和と繁栄は、核兵器によって破壊される。

その可能性は、常に存在している。

現実主義的な人々は、その可能性が現実になることは絶対にない、と自らに信じさせている。

核兵器で攻撃すれば核兵器で反撃される状況で、核兵器を使用する国が現れるわけはない、というわけだ。

なるほど理屈は合っている。

だが歴史は、理屈では起こり得ないはずのことが起こることの繰り返しだった。

核戦争の可能性が現実になることを防いでいるのは、おそらくこのような理屈だけではない。

核兵器の廃絶を願う人々が一定数以上存在すること自体も、核戦争の可能性が現実になることを防ぐ力になっているのではないか。

大国同士が核兵器で武装してさえいれば核戦争は起きないのだと信じ込んでいる人々が一定の数を上回ったとき、つまりは、核兵器の廃絶を願う人々が一定の数を下回ったとき。

そのときこそ、核戦争の可能性が現実になるときであるような気が、佐々木はしている。

2009年9月14日月曜日

微差

〈微差〉の積み重ねだけが〈大差〉を生む。

日々できるのは、〈微差〉をつくることだけ。

今日はいくつの〈微差〉をつくれるだろう。

2009年9月13日日曜日

水あか

3年前に買った洗濯機。

とつぜん大量の水あかが出るようになり、洗濯物に付着。

もう買い替えどきなのか?

と思い掛けつつも、目の細かい大きめの洗濯ネットを何枚か買ってきて、全部の洗濯物をネットに入れて洗濯することでとりあえず対処。

しばらくそうやっていたら、いつのまにか、水あかはほとんど出なくなった。

洗濯機、このまままだしばらくは使えそうだ。

たまりにたまったあかが浮き出てきて、もう寿命かと思わせつつも、あかが出るに任せておくと、やがてあかを出しきって、また元のように働き出す。

人や組織もそうなのかも。

2009年9月12日土曜日

土付きゴボウ

ゴボウはたいてい、土付きのものと、土を洗い落としたものの、2種類が売られている。

土を洗い落とすのがめんどうそうで、値段もたいして変わらないので、佐々木は土を洗い落としたゴボウばかり買っていた。

ところがある日、気まぐれで土付きのゴボウを買ってみたところ、土付きのほうが、食べたとき体に滋味が染み渡る感じがする。

気のせいかもしれないが。

土を洗い落とすのも、やってみればそれほどめんどうな作業ではない。

それで最近は、もっぱら土付きのほうを買っている。

2009年9月11日金曜日

詐欺師の肖像

プロフィール写真の撮り方を解説した本を、一冊買って読んでみた。

筆者が紹介する方法で撮られた写真と、ごく平凡に撮られた写真。

二つ並べて、「どうですか? 私の方法で撮った写真のほうが、ずっと魅力や信頼感が増したでしょう?」みたいな構成だったのだが、佐々木の印象は逆だった。

ごく平凡に撮られたプロフィール写真のほうが、ずっと信頼できる人物に見えた。

筆者が紹介する方法で撮られた写真からは、言葉は悪いが、「なんだか詐欺師みたい」という印象さえ受けた。

この本の版元は、かなり固い内容の本も出している、比較的有名な出版社だ。

筆者自身も、プロフィール写真の専門家として活躍しているようだ。

ということは、少なからぬ人々が、「プロフィール写真から感じる信頼性」について、この本の筆者とほぼ同じような感性を持っているらしい。

この点についての佐々木の感性は、どちらかと言えば少数派に属するようだ。

ただ、筆者の感性に対して佐々木が感じた違和感の原因が、佐々木の感性のみにあるかと言えば、そうでもないような気がする。

この本が出版されたのはまだ景気が比較的良かったころで、佐々木がこの本を読んだのは、景気がかなり落ち込んでからだ。

「世間から信頼される人物像」のあり方も、当然景気の影響を受けるに違いない。

それから筆者は、アメリカでプロフィール写真の勉強をしてきた人物だ。

たとえ日本国内の実態に合わなくても、アメリカ的であることに価値があると見なされる日本の精神風土は、いまだ健在である。

そのあたりも、佐々木が感じた違和感の原因になっているように思う。

2009年9月10日木曜日

書くこと・考えること

「書くことは考えること」と言われる。

人の考えは書くことで深まり、鮮明になっていく。

これは書くことの積極面だ。

当然、その裏には消極面もある。

書くことに習熟することは、ある面、自分の認識の内容を、文字言語の形式によって制約していくことでもある。

文字言語で表現される「自分の認識」と、自分の内面で流動している認識との、不一致。

この不一致に対する許容度をゼロにするならば、文字言語による表現などなしえない。

したがって書くことによる認識の発展は、起こりえない。

この不一致に対する許容度を無限大にするならば、文字言語による表現は、中身のない作文にしかならない。

したがってやはり、書くことによる認識の発展は、起こりえない。

「書くこと」を「考えること」につなげていくためには、この「書いたこと」と「考えていたこと」の不一致に対する許容度の、自覚的なコントロールが必要であるように思う。

2009年9月9日水曜日

天芯から吊られるスォード

高岡英夫先生が『センター・体軸・正中線』で紹介されている「ジンブレイド」のレーニング法を、左右1回ずつ行うのを、朝の日課にしている。

これは高岡先生から習ったわけではないのだが、最近、ジンブレイド自体が天芯から吊られている意識を持つことを試みて、これがなかなか具合がよい。

2009年9月8日火曜日

火事場のバカゆるみ

先日、武術の昇段審査を受けた。

審査前の短い時間には、いやがおうにも集中力が高まる。

その高まった集中力で取り組んだゆる体操やリアストレッチによって、自分で期待していた以上のゆるみや、センターや、天芯や、肩包面を体現することができた。

手にした武器が、自分でも意外なほど滑らかに、適切な軌道を描いて飛んでいく感覚があった。

自分の体も武器も、天から吊られた状態で。

いわゆる「火事場のバカぢから」は、「火事場のバカゆるみ」でもあることが、よくわかった。

2009年9月7日月曜日

フォーム

ゆる体操の指導員が足りないそうである。

日本ゆる協会には「指導員を派遣してほしい」という要望が全国から寄せられているのだが、ゆる体操指導員試験の難関を突破する人が、なかなか現れないのだとか。

ゆる体操に取り組んでいると、どきどき、「指導員を目指しませんか?」という案内が来る。

だが佐々木は、自分がゆる体操の指導員を目指す気には、とてもなれない。

肉体的な面でも精神的な面でも、自分のゆるみ方が他人の手本になるとは、とうてい思えないからだ。

「理想的にゆるんだ人間ならするであろう動きや発言」というものを、フォームとして身に付けて、それらを演じることで指導者の役割を果たすことも、あるいは可能なのかもしれない。

だがその本質的なバカバカしさに、自分の感情はきっと耐えられないと思う。

この種のバカバカしさは、ある意味あらゆる仕事に必然的に伴うものだが、それでも人が仕事に立ち向かうのは、そのようなバカバカしさを乗り越えさせるだけの事情や動機が、仕事に含まれているからだ。

ゆる体操を他人に指導するという仕事の中に、佐々木はまだ、そのような事情や動機を見いだすことができずにいる。

2009年9月6日日曜日

クジャクの羽産業

市場に溢れる商品やサービスの少なからぬ部分は、「自分を立派に見せたい」という欲求を満たす目的でのみ供給されている。

これらの商品やサービスがその利用者に果たす役割は、クジャクの雄にその羽(上尾筒)が果たす役割と同じである。

だからこれらの商品やサービスを供給する業界を、佐々木はひそかに「クジャクの羽産業」と呼んでいる。

2009年9月5日土曜日

録音

仕事でよく、インタビューをする。

インタビューは、ICレコーダーで録音する。

あとで聞き返してみると、相手が言ったことを、インタビュー時には正反対に理解していたことがときどきあって、驚く。

日常の会話では、録音して後で聞き返すなどということは、まずない。

気づかないうちに、他人の話を正反対に理解していることも、きっとあるのだと思う。

自分が話したことも、その一部は、正反対に理解されているに違いない。

2009年9月4日金曜日

手根骨

手首の中には、小さな8個の骨がある(舟状骨、月状骨、三角骨、豆状骨、大菱形骨、小菱形骨、有頭骨、有鈎骨)。

これらを総称して、手根骨という。

最近、これらの手根骨をバラバラにゆるめることが、全身に及ぼす影響の大きさに、ハマっている。

手首が固まっているのは、手首を固める形で、全身の運動が構造化されているからだ。

手首をゆるめようとすれば、全身をゆるめざるをえなくなるだけではない。

手首をゆるめて使う形で、全身の運動を再構成せざるをえなくなる。

この再構成プロセスは、なかなか劇的である(少なくとも主観的には)。

これまで背骨を分化して使う努力を熱心にしてきたわりには、いまひとつ具体的な運動能力の向上に結び付かなかった。

固まった手首が(=手首を固めて使う全身運動構造が)、背骨同士をゆるめて使う運動を阻害していたのが、その原因の一つであったことに気づかされる。

2009年9月3日木曜日

湯種る

「ゆだねる」に、頭の中で「湯種る」という漢字を当てるのは、佐々木が好きなリフレーミングの一つ。

「湯」は、温かさ。

温かさは、安心感。

自分を何かに「ゆだねる」怖さを、やわらげてくれる。

「種」は、創造の源泉。

希望の象徴。

恐怖を克服して「ゆだねる」ことで生まれてくる何かへの期待を、感じさせてくれる。

高岡英夫先生の教えに、「ゆるゆるにゆるみきって、地芯から立ち上がるセンターに身を任せる」というのがあるのか、これが佐々木にはできない。

「ゆだねる」→「湯種る」というリフレーミングは、地芯から立ち上がるセンターに身を任せられない自分の弱点の克服にも、力を発揮してくれるような気がしている。

2009年9月2日水曜日

ナイフの研磨と使用

花伝書(風姿花伝)』(川瀬一馬校注・現代語訳)を読むまでは、能の稽古では、いくつもある脚本や踊りを繰り返し演じることが、その中心を占めているものとばかり思っていた。

ところが「花伝書」では、「物学(ものまね)条々(じょうじょう)」という、様々な人物類型の模写について論じた章が、具体的な稽古論のほぼすべてを占めている。

個別の曲や舞に関する注意は、ほぼ皆無だったと思う。

しかも“ものまね”と言っても、現代のものまね芸人がやるようなものまねではなく、きちんと形が決まったものだったらしい。

「物学条々」の「唐事」という節の冒頭に、次のように書かれている。
《これは、およそ格別のことなれば、さだめて稽古すべき形木もなし。》〔「形木」=手本とか型〕
「唐人のものまねの稽古には決まった手本や型がない」とわざわざ述べられているということは、「他のものまねの稽古には決まった手本や型がある」ということだろう。

南郷継正先生の『武道の復権』に、次のような箇所がある。
《[‥‥]ナイフを研ぐときに砥石にナイフを当てるのを適当にしてナイフを研ぎますか。もしそうであるとすれば、そのナイフは恐らく絶対に切れるナイフにはならないでしょう。良く切れるナイフにするには、砥石にピタリとナイフを当てて、その角度が変化しないようにして研がなければならないのです。しかしながら、そのナイフを使うときは、自在に切ってよいのです。この違いが分かりますか。》
(「空手の本質と指導の論理」)
恵まれた“ナイフ”を持った人は、“ナイフを研ぐ”プロセスを持たなくても、“ナイフを使う”ことができてしまう。ところが“ナイフの鋭さ”は、“ナイフ”を使ってるうちにいつか必ず失われる。“ナイフを研ぐ”プロセスを持たずに“ナイフを使う”ことができてしまった人には、“ナイフを研ぐ”能力が身に付いていない。そのときになってあわてても、失われてしまった“ナイフの鋭さ”は、元には戻らない。

『武道の復権』と同様、「花伝書」の少なからぬ箇所が、そのような戒めを説いているように、佐々木には思えた。

南郷先生が武道の世界で創出した基本論、上達論、勝負論などが、「風姿花伝」のさまざまな教えに、いちいち当てはまって見えた。

2009年9月1日火曜日

『風姿花伝』を読んだ

今年の古典読破計画の第八弾として、世阿弥の『花伝書(風姿花伝)』(川瀬一馬校注・現代語訳)を読んだ。

次の文句が、心に残った。
《去年(こぞ)盛りあらば、今年の花なかるべきことを知るべし。》
(「第七 別紙口伝」)
この文句が心に残ったのは、今の自分が、順境とは言えない境遇にあるからだろう。

今の自分は、とても花の盛りとは言えない。

しかし今年盛りではないからこそ、来年以降の盛りに希望を持てるのではないか。

そんなふうに勇気づけられる文句だった。

2009年8月31日月曜日

進化

進化には、生存環境が安定することによって起こる進化と、生存環境が脅かされることによって起こる進化の、二つがあるように思う。

個人も組織も民族も、生存環境が安定したときには安定したときなりの、生存環境が脅かされたときには脅かされたときなりの、進化を目指せばよいのではないか。

2009年8月30日日曜日

みそ汁

民宿などに大勢で泊まると、夕食や朝食のとき、他のおかずは先に並べられて冷めてしまっていても、みそ汁だけは、熱い状態で直前に並べられることが多い。

「みそ汁が冷めない距離」なんていう言い方もある。

熱さというのは、みそ汁という料理の一部なのだ。

特に朝の熱いみそ汁には、寝ぼけた脳を目覚めさせる力もある。

だから佐々木は、みそ汁は熱いうちに飲みきってしまうのが、常識だと思っていた。

ところが他の人と同じ宿に泊まって、同じ食卓を囲んでみると、これが少しも常識ではないことがわかる。

少なからぬ人々が、せっかく熱いまま出されたみそ汁が冷めるに任せて、生ぬるくなったみそ汁を飲んでいる。

佐々木には信じられないことだが。

2009年8月29日土曜日

我流

武術の稽古を、優れた師範の直々の指導を受けながら、かつ仲間からの厳しいチェックを受けながら続けていると、自分の中に定着している体の動きや脳のプログラムが、いかに理想からかけ離れたものであるか、理想に近づくのがいかに難しいかを、日々痛感させられる。

我流で身に付けているもののぶざまさ。

我流を脱することの難しさ。

これはきっと武術に限らない話。

2009年8月28日金曜日

イケイケ感

この前なんとなくテレビをつけたら、政治をテーマにしたらしいトーク番組で、何かの専門家らしい女性が、しきりに「イケイケ感が、イケイケ感が……」と繰り返していた。

表情や口調の真剣さと、「イケイケ感」という言葉の軽さのギャップに違和感を覚え、よく耳を澄ますと「イケイケ感が」じゃなくて「医系技官が」と言っていたのだった。

佐々木はこの手の駄洒落ネタに遭遇すると、同じことを考えている人がいないか、Googleで検索してみることを習慣にしている。

佐々木ごときが思いつく駄洒落など、ほぼ100%、既に他の人が思いついてネットのどこかに書いているのだが、「イケイケ感 医系技官」で検索しても、クリーンヒットはなかった。

なのでここに書き付けておくことにする。

医系技官のイケイケ感。

2009年8月27日木曜日

あるとともにない

飛ぶ矢は止まっている。

ゼノンが提出したこの有名なパラドックスについて、ヘーゲルはたしか、次のようなことを述べている。

このパラドックスは、運動の本質を明かすものである。

あるものが運動するのは、それがある瞬間にはここにあり、次の瞬間にはそこにあるためだけではなく、ある瞬間にここにあると同時に、ここにないためである。

佐々木にとって、これは理屈はわかっても腑に落ちない説明の典型だった。

ところが最近は、この「あるものが運動するのは、それがある瞬間にここにあると同時に、ここにないためである」という説明が、「そうだよなぁ、ほんとにそうだよなぁ」と、深い実感を伴って理解できるようになってきた。

それどころか、「運動って、それ以外あり得ないよなぁ」とまで思うようになった。

たとえば佐々木は、日頃できるだけ心を明るく保つように心掛けてはいるものの、そういつもいつも、明るい気持ちでいられるわけでもない。

ときには、「俺みたいな人間に、果たして生きていく資格があるんだろうか」みたいな思いにとらわれることもある。

こういうときというのは、「生きていく資格がある」のか、それとも「ない」のか、「あれかこれか」という、いわば形而上学的思考に陥っているのである。

「生きていく資格があるとともにない」というのが、自分を含むあらゆる人間の現実なのだとわかると、とたんに視野が開けてくる。

「生きていく資格があるとともにない」という矛盾が、社会力による個人の変化の本質ではないだろうか。

この矛盾があるからこそ、個人の社会性ある変化が生じるように思う。

ちょうど、「空間の一点に存在するとともに存在しない」という矛盾があるからこそ、飛ぶ矢が宙を飛んでいくように。

「自分には生きていく資格があるとともにない」という矛盾を認識し、ゼノンの飛ぶ矢をイメージするとき、それこそ矢のごとき勢いで、止めようもなく進歩していく自分が思い浮かぶ。

「自分には生きていく資格があるのか?」と思い悩むのは、あたかも飛ぶ矢自身が、「飛ぶ矢は静止している(物体は空間の一点に存在するかしないかのどちらかだから)」と言われて、「自分は空間の一点に存在しているのか?いないのか?」と悩んだ挙げ句、本当に静止してしまうようなものなのだ。

2009年8月26日水曜日

地球外の水

地球以外の太陽系惑星にも水が存在すると考える人と、そうは考えない人がいる。

佐々木は、地球以外の太陽系惑星には、水は存在しないと思う。

地球以外の太陽系惑星にも水が存在すると考える人は、極端なことを言うと、H2O分子が1個でも存在していれば、水が存在することになる、と考えているのではないか。

分子だろうが原子だろうが、物の状態は絶えず変化していくから、地球以外の太陽系惑星でも、分子レベルでH2Oの状態が現出することだって、あるかもしれない。

でもそういうのは、「水が存在する」とは言わないと思う。

これまた、専門家には笑われる考え方かもしれないけど。

2009年8月25日火曜日

すぐ役に立つ本

なかなか役に立たない本は、役に立ちはじめると、いつまでも役に立つ。

すぐ役に立つ本は、一瞬役に立って、すぐ役に立たなくなる。

2009年8月24日月曜日

依存症

人間のさまざまな活動と、本人の生存に対するそれらの関係を考えてみると、人間の活動や状態の少なからぬ部分が、「○○依存症」の「○○」に当てはまってしまうような気がする。

それは「安定」とか「変化」とかでさえも。

2009年8月23日日曜日

『武道講義』

武道学者の南郷継正先生の『武道講義 第一巻 武道と認識の理論Ⅰ』をはじめて手にしたのは、佐々木がまだ20歳のとき。

一読しての感想は、「南郷先生は、いったいどうして、こんなものを書いてしまったのだろう」だった。

タイトルからは、武道理論そのものが、体系的に展開されているものとばかり想像していたのに、その内容は、南郷先生自身が弁証法を学ぶのにどれほど苦労されたかとか、世の中の学者と呼ばれる人々の実力や志がいかに低いかとか、大志や誇りや情熱が人生にいかに重要であるかとか、そんな話ばかり。

しかもあきれるほど、同じ話の繰り返し。

武道講義 第二巻 武道と認識の理論Ⅱ』が発売されて、ようやく武道理論が展開されるのかと思いきや、またも同じような話。

それでもこれら『武道講義』シリーズを投げ捨てることなく、繰り返し繰り返し読み込んだのは、『武道の理論』、『武道の復権』、『武道とは何か』、『武道への道』、『武道修行の道』で展開された南郷先生の理論の有効性を、合気道の稽古を通じて、自分の体と頭で、確信できていたから。

19歳ではじめて南郷先生の著書、『武道修行の道』を読んだときは、失礼ながらその大言壮語ぶり、唯我独尊ぶりに、あきれ返ったものだった。

それでもその理論には、信じて実行せずにはいられないだけの、明確さと思想性の高さがあった。

約1年、木刀の素振りで南郷理論を実践し、理論どおりの成果が得られたときは、南郷理論の有効性を確信できただけでなく、大きく科学というものの意義を、頭ではなく体で実感することができた。

「物事を理解するとはどういうことなのか」を、はじめて理解することができたような気がした。

そのような経緯があっただけに、一読時には執筆の意図さえ理解できなかった『武道講義』も、理解できるまで読み込んでやろうという気に、自然になったのだ。

『武道講義』の意義にはじめて納得がいったときには、『武道講義』を既に数十回は読み返していただろうか。

その瞬間のことは、今でも鮮明に覚えている。

自分が通っていた大学の、専門課程の80人ほどが入る教室の、真ん中の前から5列目あたりの席。

授業が始まる前に『武道講義 第二巻』を読み返していて、突然、わかった。

「ああそうか、『武道講義』は“講義”なのか。南郷先生は、『武道講義』の読者をご自身の弟子と見立てて、ご自身が獲得した学問的実力を、読者にも本気で獲得させようとしているのか。だからこういう内容、こういう展開、こういう語り口なのか」と。

これだけかかって、ようやくその意義を理解できた『武道講義』だけに、『武道講義』を他人に勧めるなどということは、佐々木にはとてもできない。

2009年8月22日土曜日

コミュニケーション能力

「優れたコミュニケーション技術を身につけている」ということと、「コミュニケーション能力に優れている」ということは、別のことだ。

佐々木のコミュニケーション能力は低い。

コミュニケーション技術を学んで身につけることで、コミュニケーション能力の低さを、かろうじて補っている。

以前書いたが、佐々木は他人の感情や思考を知るために、「自分の表情をその人の表情に合致させる」という手法を、ときどき使う。

この手法は、『盗まれた手紙』(エドガー・アラン・ポー)の次の一節から学んだ。
《「〔‥‥〕僕は八歳ばかりの子供を知っていたが、この子は『丁か半か』という勝負で言い当てるのがうまくて、みんなに褒められていた。この勝負は簡単なもので、はじき石でやるのだ。一人がこの石を手にいくつか持っていて、相手にその数が丁か半かときく。もし当てたら、当てたほうが一つ取るし、違ったら、一つ取られるのだ。いま言ったその子供は学校じゅうのはじき石をみんな取ってしまったものだよ。むろん、彼は当てる法則といったようなものを持っていたのだ。というのは、ただ相手のはしっこさを観察して、その程度をはかるということなんだ。〔‥‥〕僕はこの子供に、彼の成功の基であるその〔自分の知力と相手の知力の〕完全な合致をどんな手段でやるのかと尋ねたら、こう答えた。『僕は、誰かがどれくらい賢いか、どれくらい間抜けか、どれくらい善い人か、どれくらい悪い人か、またその時のその人の考えがどんなものか、というようなことを知りたいと思うときには、自分の顔の表情をできるだけ正確にその人の表情と同じようにします。それから、その表情と釣り合うように、または一致するようにして、自分の心や胸に起ってくる考えや気持を知ろうとして待っているんです』というのさ。この生徒のこの答えは、ロシュフコーや、ラ・ブリュイエールや、マキアヴェリや、カンパネラのものとされている、あの、あらゆる贋の深遠さよりも深いものだよ」》
この手法でわかるのは、基本的に、「過去のある瞬間におけるその人の認識」や、「その人の認識の一般的な傾向」だ。

自分と向かい合っている間の、その人の認識の、瞬間瞬間における変化ではない。

人と向かい合っている間、相手の表情をずっと真似し続けるなどということは、できないからだ。

つまり、「自分の表情をその人の表情に合致させる」という手法で知ることができる他人の感情や思考は、いわば静止画的、写真的なのだ。

これに対して、佐々木から見てコミュニケーション能力が高い人は、現に自分と向かい合っている相手の感情や思考の瞬間瞬間における変化を、佐々木がこの手法を用いてようやくわかる以上のレベルで、察知できているように見える。

こうした人たちは、いわば動画的、ライブ映像的に、他人の感情や思考の変化を認識できるのだろう。

そのうえ、そのようにして把握した感情や思考の瞬間瞬間における変化を、よりポジティブな方向に変化させられるようなアクション・リアクションを、ほとんど無意識のうちに、瞬間瞬間に行うことができる。

そのような能力を持った人が、佐々木から見てコミュニケーション能力に優れた人だ。

このようなコミニュケーション能力を発揮するうえで、論理とか礼儀とかは、むしろ障害になることが多い。

コミュニケーション技術と呼ばれる多くの技術は、こうした論理や礼儀に属している。

つまりコミュニケーション技術は、しばしばコミュニケーション能力の開発と発揮を妨げる、と言っていいように思う。

2009年8月21日金曜日

わざと迷う

武道学者の南郷継正先生の著書を読み込むのを、朝の日課にしている。

ここ最近読んでるのは、『武道講義 第四巻 武道と弁証法の理論』。

同書に、出隆(いで たかし)の『哲学以前』から、次のくだりが引用されている。
《 この話は『哲学とは何か』の考察に始まらなねばならぬ。それだけは承知している。
 しかし、ただそれだけでは最早一歩も身動きができない。そこには不審がある。疑惑がある。迷いがある。淋しさがある、自問の責苦がある、躊躇の足枷がある、それは悪夢の沼を渉らんと焦慮する者のごときである。如何にするも次の一歩が踏み出せない。-淋しく迷った挙句の果に、心は振出しの変更を求める。
 しかし何から始むべきか。何が初めであるか。初めは何であるか。『初め』とは何か。『何』とは何か。……
 初めに『道』があって、これをたどって知らず識らずここまで来たものらしい、がしかし今はその道も霧の彼方に包まれたのか。初めに『行い』があって、それでここまでやって来たらしいが、今はそれさえ覚えていない。よほどの道をたどって来たらしい。色々の行いをやって来たらしい。》
上記の出隆の言葉について、南郷先生は次のように述べている。
《〔‥‥〕哲学者出 隆は、なにから始むべきか、を問い、なにが「初め」であるかと問い、「初め」とはなにかを問うて、「何」とはなにかを問うているばかりか、自らの力でその「答え」すらだしきっているのである。曰く、「初めに『道』があって、これをたどって知らず識らずここまで来た」が、「今はその道も霧の彼方に包まれ」てしまっている、また「初めに『行い』があって、それでここまでやって来た」し、それも「よほどの道をたどって来た」ときちんとわかっているのである。つまり、答えはでているのであり、自らのだしたその答えのごとくをしっかりと彼、出 隆はなせばよかったのである。
 しかるに彼、哲学者出 隆は、自ら哲学とはなにかを問い、そして哲学のたどってきた道のいかほどかを問いながら、自らの答えが迷う方向の道を自らがわざと錯覚しているのである。》
「自らの答えが迷う方向の道を自らがわざと錯覚している」という表現に、ドキリとさせられた。

それは自分のことではないかと。

間違いや失敗は、繰り返していると癖になる。

客観的には、わざと間違えている、わざと失敗している、としかいいようのない状態になる。

自分ではそのつもりがないのに。

認識においては対象の本質に、行動においては意図した目標に、もっとズバッと、一直線に踏み込む癖をつけなければ、と反省。

2009年8月20日木曜日

本を廃棄

木曜日、資源ゴミの日。

もう捨ててもいいだろう、という本を廃棄。

要点はもう自分の中に吸収した、という本は、ときどきこうやって処分していかないと。

本を読むのは好き。

でも本に囲まれるのは嫌。

本を保管する空間だって、タダじゃないんだし。

2009年8月19日水曜日

紅白

ミュージシャンの平原綾香が、
紅白歌合戦で、いろいろな人たちが、いろいろなオーラを出しているのを目の当たりにしたら、“あぁ、私は私のままでいいんだ”という確信が持てた
というような意味のことを、どこかで述べていた。

紅白歌合戦に出演するほどの歌手であれば、それまでも自分だけの才能を存分に発揮し、発揮した才能を国民的レベルで賞賛されてきたはず。

それでもなお、突き抜けた才能、自分だけの才能を発揮することへの確信が得られなかった。

同じように突き抜けた才能を持つ人々が、それぞれの突き抜けた才能を発揮している場に居合わせて、はじめてそのような確信を持つに至れた。

そのことが、佐々木の心に残った。

2009年8月18日火曜日

環境

愚かでも生きていける環境を与えられると、人は実際に愚かになる。

というと、ちょっと乱暴すぎるかもしれない。

けど、それも一面の真理と思う。

自分の周りの人々の愚かさに接しても。

自分自身の愚かさを突きつけられても。

だから、自分や他人の愚かさにうんざりしかけたときは、それほどの愚かさをもってしても生きることが可能だった環境のすばらしさに、感動すればよいのではないかと思う。

2009年8月17日月曜日

問いたくない問い

認識したくない現実、というのは誰にでもあると思う。

人間の認識は、自分が発した問いに対して、自分が得た答えだ。

自分が認識したくない現実の裏には、自分が問いたくない問いがある。

だから、「自分が問いたくない問いは何か?」という問いは、自分の認識の壁を突き崩してくれる。

2009年8月16日日曜日

「相手」に焦点を当てる

ユニカルイー・ウーマンの社長である佐々木かをりさんが、最近のブログで、仕事で長期的に安定した成果を出すコツは、「自分」ではなく「相手」に焦点を当てることだと述べられている。
《 仕事ができる人というのは、安定しています。
 長期的に、常に、安定した成果を出す。すごく前向きになったり、突然落ち込んだりといった気分のムラもありません。だから私は、そんな心の安定を追求しています。
 もちろん、怒ったり、笑ったり、いろいろしますが、仕事のパフォーマンスは、まあ、一定している方ではないか、と思っています。怒っても短時間。仮に、気持ちの戻りがうまくいかないと自分でわかるときは、安定する方法を知っているので、自らを短時間で戻すために、できることをします。だから、気持ちが何日も落ち込むことは、ないのです。
 仕事をしているうちに身についた技術かもしれませんが、でも、高校生、大学生のアルバイトのときだって、安定していたように思います。
 秘密は何だかわかりますか。「相手」に焦点を当てること。相手のことを考えていると、心は安定するんです。「自分」のことを心配していると、気持ちが上がったり、さがったりする。たぶん私は10代のころから、あまり、自分のことを心配してこなかったんでしょう。何とかなる、と思っていることが、心の安定をつくっているのかもしれません。
 もし、気分が落ち込んでいる人がいたら、もう、自分のことを心配しないで、相手のこと、成果のことを考えたらどうでしょう。》
「相手」のことではなく「自分」のことを心配しているから、気持ちが上がったり下がったりする。

身につまされる指摘だ。

もっと「相手」のことに焦点を当てて、ものごとを考えようと思った。

2009年8月15日土曜日

幸せ

幸せそうにしている人には、いろいろな人が近づいてくる。

もちろん、相手の幸せを祝福したい、自分も幸せの輪に加わりたい、という人も近づいてくるけど、世の中そういう人ばかりではない。

なかには、自分より相手が幸せでいる不公平を呪いたい、相手を幸せから引きずり落としたい、という人だっている。

佐々木自身、他人の幸せを目にして起こる感情は、決してポジティブなものばかりではない。

だから、たとえ「幸せだ~~~~~っ」と絶叫したくなるほど幸せなことがあっても、佐々木はそのことを、公の場では控えめにしか表現しない。

2009年8月14日金曜日

全体と部分

業務マニュアルの冒頭には、業務の全体像が、示されなければならない。

全体像は、部分像をいくら集積しても、浮かび上がってはこない。

全体を見ているときは部分が見えず、部分を見ているときは全体が見えない。

ちょうど、コインの表を見ているときはコインの裏が見えず、コインの裏を見ているときはコインの表が見えないように。

コインを何度も裏返して見ているうちに、コインの表と裏の合成像が浮かび上がってくるように、全体を見たり、部分を見たりを繰り返していくうちに、全体と部分の合成像が浮かび上がってくる。

全体像を言語化して伝えるためには、全体と部分の合成像が浮かび上がっただけでは、まだ足りない。

全体と部分の、構造像を浮かび上がらせなければならない。

構造像は、自分の頭の中での仮説構築と検証の繰り返しによって、浮かび上がらせるほかない。

2009年8月13日木曜日

針の穴、針の先

クライアントへのインタビューで都内に出た帰り、急に高いところからの景色を眺めたくなり、都庁の展望室へ。

202メートルの高さから見下ろすと、地上を歩く人々が、針の穴ほどの大きさにしか見えない。

人々の頭となると、針の穴どころか、針の先ほどの大きさだ。

この高層ビルを設計した人の脳の大きさも、今地上に見える人々の脳の大きさとまったく同じであることを、思わずにはいられなくなる。

人間の脳は、自分自身を針の先の大きさに見下ろすほど巨大な建築物を、構想し、現実化してしまうものなのだ。

すごい。

すごすぎる。



2009年8月12日水曜日

ポジティブ

マーカス・バッキンガムとドナルド・O・クリフトンの共著『さあ、才能(じぶん)に目覚めよう』(田口俊樹訳)に、「34の強み」という章がある。

そこでは、「学習欲」や「共感性」など「強みになりうる34の資質」のそれぞれについて、その資質を持つ人の特徴と、その資質を強みとする人々の証言が、まとめられている。

その「34の資質」の中に「ポジティブ」という項があり、《あなたは人をよく誉め、すぐに微笑みかけ、どんな状況においても常にポジティブな面を探します》云々と説明が続いたあと、「〈ポジティブ〉を強みとする人たち」の一人として、次のような証言が紹介されていた。
《「世の中は、悲観的な人が多すぎます。もっとプラス志向の人、世の中のいい面に眼を向ける人が必要です。悲観的な人を見てると、気が滅入ります。以前の職場に、毎朝私のオフィスに入ってきては、愚痴を言っていく人がいました。そんなとき、わざとどこかに隠れたものです。その人の姿が見えると、トイレに駆け込んだり、ほかの場所に行ったり。その人と一緒にいると、世の中が救いようのない場所に思えてきてね。そういうのがたまらなくいやだったんです」》
(サニー・ G、コミュニケーション・マネージャー)
この証言を読んで、佐々木は吹き出してしまった。

この人、ぜんぜんポジティブじゃないじゃん。

「ポジティブでいることの効用を大切している」ことと、「資質としてポジティブである」ことは、まったく違う。

「どんな状況においても常にポジティブな面を探す」人なら、「職場に悲観的な人がいる」という状況においても、ポジティブな面を探すのではないか。

で、「ポジティブでいることの効用を大切している」が、「資質としてポジティブ」ではないというのは、佐々木自身のことでもある。

自分自身が悲観的なくせに、悲観的な人を見ては自分の気を滅入らせる。

だから佐々木は、自分自身の心に絶えず浮かんでいる悲観的なことを、できるだけ口にしない。

「ポジティブでいることの効用を大切している」が「資質としてポジティブ」ではない、他の多くの人のためにも。

2009年8月11日火曜日

不死のイメージ

村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に、時間をどこまでも分割していくことによって実現する不死、という考え方が登場する。
《「〔‥‥〕あなたの肉体が死滅して意識が消え朽ち果てても、あなたの思念はその一瞬前のポイントをとらえて、それを永遠に分解していくのです。飛ぶ矢に関する古いパラドックスを思い出して下さい。『飛ぶ矢はとどまっている』というあれですな。肉体の死は飛ぶ矢です。それはあなたの脳をめがけて一直線に飛んできます。それを避けることは誰にもできません。人はいつか必ず死ぬし、肉体は必ず滅びます。時間が矢を前に進めます。しかしですな、さっきも申しあげたように思念というものは時間をどこまでもどこまでも分解していきます。だからそのパラドックスが現実に成立してしまいます。矢は当たらないのです」
「つまり」と私は言った。「不死だ」
「そうです。思念の中に入った人間は不死なのです。正確には不死ではなくとも、限りなく不死に近いのです。永遠の生です」》
(「ハードボイルド・ワンダーランド(百科事典棒、不死、ペーパー・クリップ)」)
言うまでもなく、いかなる形であれ現実には不死はあり得ない。

しかし、村上春樹が『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で描いて見せた不死のイメージには、他の不死のイメージから隔絶した“リアリティ”があった。

佐々木自身、自分の死をイメージするとき、その瞬間を限りなく先延ばししたい、という欲望よりも、その瞬間に達するまでの「密度」を限りなく濃密にしたい、という欲望のほうが、はるかに現実性があるように感じる。
 
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